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43( ´∀`)ノ7777さん
また、ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、
主力部隊を南方戦線へ派遣した結果、弱体化していたため総崩れとなり、
組織的な抵抗もできないままに敗退した。
逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、
後に中国残留孤児問題として残ることとなった。
また、このソビエト参戦による満州と南樺太などで行われた戦いで日本軍の約60万人が
捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された(シベリア抑留)。
その後この約60万人はソビエト連邦によって過酷な環境で重労働をさせられ、
6万人を超える死者を出した上に、満州・南樺太・朝鮮半島に住む日本人女性は
流刑囚から多く結成されたソ連軍によって集団的に強姦され(ソ連軍による組織的強姦)るなどして
日本側も多大な被害を受けた。
6月22日の御前会議に置いて昭和天皇が「戦争指導については、先の(6月8日)で決定しているが、
多面、戦争の集結についても、この際従来の観念にとらわれる事無く、速やかに具体的研究をとげ、
これを実現するよう努力せよ」と初めて戦争終結の事を口にされた。
しかし、日本軍部指導層、とりわけ戦闘能力を喪失した海軍とちがって陸軍は、
降伏を回避しようとしたので御前会議での議論は迷走した。
しかし鈴木貫太郎首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、
議論は収束した。
8月14日にポツダム宣言の受諾の意思を提示し、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもって
ポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された。
なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。