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42( ´∀`)ノ7777さん
一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、
「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えた。
日本政府は中立条約を結んでいたソビエト連邦による和平仲介に最後の期待を賭して
ポツダム宣言を黙殺する態度に出た。
このような降伏の遅れは、その後の制空権喪失による本土空襲の激化や沖縄戦の激化、
原子爆弾投下などを通じて、日本軍や連合軍の兵士だけでなく、日本やその支配下の国々の
この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの
上陸作戦にあわせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による九州地方への上陸作戦
「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画されたものの、
日本軍の軍民を結集した強固な反撃により双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、
計画の実行はされることがなかった。
アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は最終的に、本土決戦による自国軍の犠牲者を減らす
という名目と、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、さらに非白人種への
人種差別意識も影響し史上初の原子爆弾の使用を決定。
8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、
投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。
なお、日本でも原子爆弾の開発を行っていたものの、制海権を失ったことなどから
開発に必要な原料の調達が捗らなかったことなどから、ドイツやイタリアからの亡命科学者を中心に
開発を行っていたアメリカに先を越されることになった。
その直後に、1941年4月より日ソ中立条約を結んでいた共産主義国であるソビエト連邦も、
上記のヤルタ会談での密約ヤルタ協約を元に、締結後5年後の1946年4月まで有効である
日ソ中立条約を破棄し、8月8日に対日宣戦布告をし、日本の同盟国の満州国へ侵攻を開始した
(8月の嵐作戦)。