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344( ´∀`)ノ7777さん
加賀の「独りよがり」とも取られかねない言動は視聴者の反発を招き、
抗議の電話が殺到したとも言われている(後述「CSでの再放送・映像の保存頻度」も参照)。
一方、1989年11月8日放送では、放送前々日に死去した松田優作の追悼コーナーが急遽組まれたが、
松田が出演していた時のVTR(1980年4月28日放送)を流した際、加賀は泣きながらコメントを語った。
この時代になると、歌番組に対するニーズの変化もあり(純粋に音楽を楽しむというよりも、
ヒットチャートを調べるために見るという「目的から手段への変化」である)、
放送時間の短縮を機に予算が大幅に削減されたことも影響し、大物アーティストの出演頻度が下がり、
これに起因して出演者も若手バンド、あるいはロック・アイドル歌手が大半を占めるようになり
(1990年4月18日放送に出演した石川さゆりを最後に純然たる演歌歌手の出演は途絶えた)、
「幅広いジャンルを網羅する」という部分は事実上形骸化してしまった。
番組の権威失墜を最も象徴しているのは、アーティスト側の要請に屈する姿勢が顕著になったこと、
同時に出演者の幅が狭まったことである。
例えば、菅原文太が出演した際に、歌を1コーラスのみにしてほしいと要望し
トーク部分を引き伸ばそうとする行動に出たり(1989年11月15日放送)、
長渕剛に配慮して3曲ノーカットで歌を披露させたり、別スタジオで曲が披露される機会が増えたことなどが挙げられる。
2?3曲を披露するアーティスト(長渕剛・松山千春・甲斐よしひろ・久保田利伸ら)が毎回のように
最低1組は登場していた。
このような編成が影響し、オーケストラの演奏する機会も減り、殆どオープニングの歌手の
メドレー・外国人ゲスト登場の音楽や歌手の誕生日のときのBGM音楽のときにのみ演奏を行うという
「置物」状態となってしまった。
かつての『夜ヒット』の長所であった「アットホームさ」「生歌・生演奏・フルコーラス」「緊張感・臨場感」
「幅広いジャンル」、そして「アーティストへの強い影響力」が失われたことで
視聴者離れは更に深刻化し、新体制となって8ヶ月後の1990年5月9日の放送では5.6%という
史上最低視聴率を記録。