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340( ´∀`)ノ7777さん
若手主導に(1988?1989)
1987年秋、疋田拓に代わってプロデューサーに起用された渡邊光男はかねてより
「今は女性の時代だが、あえて男性色を出したい」との意向を示しており、
塚田茂に代わり番組構成の実権を握ることとなった木崎徹も「それまでの『歌謡番組』という
ヒットスタジオのイメージを"破壊"する」というポリシーを持っていたことも重なり、
芳村真理勇退後の新司会者には基本的に男性タレント、かつ司会者としての経験が浅い
意表を突く人物を起用するという方針の下で選考をした(この方針は当時公表されておらず、
各メディアは竹下景子・楠田枝里子らを「有力候補」として挙げていた。
選考段階でも楠田らの名前がスタッフの間では少なからず出ていたようである)
結果、俳優の柴俊夫が選ばれ、第1002回目放送(1988年2月24日)より古舘と柴の男性ペアにより
番組の進行が行われることになった。
同時にエンディング時に使用されていた円形のテーブルも通常の平面的なものへと変わり、
オープニング時の司会者登場のシーンも、最初から両司会者がいわゆる「板付き」で
既にスタンバイしている状態で番組本編が始まる、などといった具合にマイナーチェンジが加えられた。
1988年11月、放送開始20周年を契機に、それまでテレビ出演に消極的であった松山千春をマンスリーゲストに起用。
同月第4週から12月第1週までの3回は特別企画を組み、様々な形で20年間の足跡を回顧した。
11月23日の『夜のヒットスタジオDX20周年前夜祭』では、初代司会者の前田武彦と芳村真理を迎え、
今昔の『夜ヒット』を対比するというコンセプトから新旧の歌手が登場し、かつての名曲に
今のアイドル歌手らが挑んだり、「歌謡ドラマ」を復活させるなどの企画を組んだ。
この際に行われた企画モノは視聴率向上に一役買い、この放送を契機に
「恋人選び」コーナーを正式に復活させたり、総集編企画の多用や公開レコーディングの実施、
マンスリーゲスト以外の歌手でもメドレー形式で歌を披露させる機会を増やすなど
様々な企画がテコ入れとして投入されたが、これら企画の恒常化は、皮肉にも番組の視聴率低迷を
加速させる結果をもたらした。