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339( ´∀`)ノ7777さん
松坂慶子が銀粉まみれの男性ダンサーと入り乱れながらの「桃色吐息」の熱演(1986年5月28日放送)、
西城秀樹とバリー・マニロウのジョイントによる「腕の中へ」(1985年12月4日放送)、
THE ALFEEをバックコーラスに従えての吉田拓郎による「アジアの片隅で」(1987年12月30日放送)、
アン・ルイスと吉川晃司による「六本木心中」での過激なパフォーマンス(1985年10月2日放送)、
宇崎竜童・内田裕也・うじきつよしらロック仲間総出での「ロックンロール・ウィドウ」
(1987年3月4日放送) などのシーンが生まれ、玄人筋の音楽ファンからも一定の評価を受けるようになった。
古舘起用を機に、これまで制作の中心的役割を担ってきた塚田茂と疋田拓が制作の一線を外れ、
代わって日本テレビ出身で古舘とは学生時代より面識があったという木崎徹、
プロデューサー・ディレクターには渡邊光男・水口昌彦などの若手作家・スタッフ陣が起用され、
それまで番組出演回数や貢献度などを主たる選定基準としていた「マンスリーゲスト」に出演2回目の
若手・久保田利伸を抜擢(1987年10月)するなど、製作者や出演者に新旧交替の傾向が強くなった。
そして芳村真理も1987年秋、「家庭の時間を持ちたい」と芸能活動の事実上のセミリタイヤ宣言と
同時に、足かけ20年に渡って続けた『夜ヒット』司会の降板を発表。
1988年1月の勇退記念企画を経て、同年2月10日の第1000回放送「芳村真理サヨナラ特番」では、
総勢300名以上の歴代の出演歌手と歴代の男性司会者(故人の三波伸介を除く)が出演し、
芳村の最後の司会を見守った。
芳村は放送の最後に一列に並んだ彼らから薔薇の花を一輪ずつ受け取り、
「テレビの向こうにたくさんの懐かしい顔が見えます」と、既に業界の一線を離れている
過去の番組関係者や出演歌手らに向けたメッセージを残して番組を去っていった。
この時の最高視聴率は日本のレギュラー音楽番組歴代2位となる36.0%を記録した。
なお、月曜日時代から続いていた「ラッキーテレフォンプレゼント」は
1987年に「夜ヒットテレカ」プレゼント企画スタートのため終了。
また、現在通称として使われている『夜ヒット』の呼称は古舘が司会に起用されてから
頻繁に使用されるようになった。