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332( ´∀`)ノ7777さん
その緊迫感は、宇崎竜童、郷ひろみら当時の出演歌手や関係者の多くから後年
「夜ヒットの現場は"戦場"そのものだった」と形容されるほどであった。
和田アキ子は後年「バンドの人もカメラマンの人もみんな厳しかった」と
当時の現場スタッフたちの様子を回顧している。
他方、この時期の司会進行は、それまでのパターンを踏襲しながらも、ボケ(井上)とツッコミ(芳村)の
役割が明確化されたスタイルでなされた。
井上は当時「芳村家・井上家でホームパーティーをやる」、芳村も「歌手・出演者・スタッフ全てと
お祭りをする」というコンセプトでスタッフや歌手たちに接していたと後年回顧している。
上述のスタジオ全体を覆う厳格さ・緊迫感の中で萎縮している歌手たちの気持ちを解きほぐし、
最大限の力を発揮してもらいたいとの思いがあってのことであったという。
この司会コンビによって『夜ヒット』は大人向けからファミリー向けの番組へと変質していった。
なお、両者の細かな役割分担は時期によって微妙に異なり、1980年ごろまでは細部進行を芳村が行い、
井上は茶化しや盛り上げ役を担当するパターンが一般的だったが、その後は井上も細部進行を行いつつ
茶化しを入れ、所々で芳村が軌道修正やフォローのための要所を締めるコメントや掛け合いをして
歌手を送りだすことが多くなった。
また、海外アーティストの来日時等に用意されたいわゆる「4スタライブ」の進行については、
芳村と井上が各回で交互に担当する形となっていた。
芳村真理の派手な服装と奇抜なヘアスタイルもこの時期に顕著となった。
芳村は花井幸子、イッセイ・ミヤケなど自身と交友の深い国内のデザイナーのもの以外にも、
クリッツアやジャン=ポール・ゴルチエなど当時日本ではまだ浸透していなかった
海外のデザイナーの服も多く着用していた。
女性歌手にあっては、芳村に負けじと特注の衣装を何着も用意し、
また服飾関係の知識に精通した人物の助力を借りて
その衣装に似合うスタイリングを行うケースも多く見られた。