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331( ´∀`)ノ7777さん
これ以降、西武球場からの中継では強風、大磯ロングビーチからの中継では大雨など、
「夜ヒットが野外会場から放送するときは気候に恵まれない」とのジンクスを生むきっかけとなった
出来事であった。

総合音楽番組への変容(1976?1985)
1976年4月、三波伸介に代わる男性司会者として井上順を起用。
バラエティ性の強いコーナーを全廃、1回あたりの出演者数を9?10組から7?8組に減らし、
原則としてフルコーラスを披露する形を採った。
この時期には「歌、そして歌手を中心に」という番組の趣旨から、それまでは軽視されていた
歌中の演出についても様々な試みがなされた。
例えば、スタジオ一面に敷きつめた畳の上で歌った沢田研二の「サムライ」、
当時まだ珍しかった生放送での合成映像により海の上で歌っているという演出効果を行った
ジュディ・オングの「魅せられて」、世良公則とツイストの「あんたのバラード」や山口百恵の「絶体絶命」
などでの歌舞伎との融合、郷ひろみの「ハリウッド・スキャンダル」におけるスタジオ全体の
電飾装置の配置などである。
オーケストラの配置についても、ステレオ放送開始に対応してか、1978年からはシンセサイザーや
補助のギター演奏者を配置するブースが設けられ、ストリングスの配置人数も1980年3月からは
6名から8名に増員される等、音のクオリティの向上も頻繁に図られた。
当時ADを務めたきくち伸によれば、『夜ヒット』は当時局内でも一番製作現場が厳しい番組として
恐れられていたという。
当時の看板プロデューサー・疋田拓の総合演出のもと、リハーサルは毎回10時間以上に及び、
若手スタッフは怒号の入り混じった製作首脳陣の指示に従い、本番中も数十秒の間に
セット・舞台装置のチェンジを完了させるなど、相当の労力が一つ一つの演出・構成に対して注がれていた。