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330( ´∀`)ノ7777さん
当初は芳村と朝丘の二人が番組進行の全般を行い、その間にコメディリリーフ的な役割として
三波がちょこちょこと茶化しを入れに割り込むという当時のテレビ番組としては
一風変わったMCスタイルが採られたが、1974年7月に入り長期の舞台公演の仕事が入った
朝丘の出演が不定期となり、代わって三波が番組進行に本格的に参加することが多くなっていき、
1975年4月からは芳村と三波でのコンビ司会体制に完全移行した。
三波にとっては初めての本格的な歌謡番組での司会であった。
『夜ヒット』は前田時代から「歌謡番組」を軸としてバラエティ色を盛り込む構成がとられていたが、
三波登板の時期にはその回で歌われる曲を題材としたコント「歌謡ドラマ」が名物企画となり、
東北弁で桜田淳子・和田アキ子扮するホステスを口説く中年男性や、はげ頭のカツラをつけて
新婦役の小柳ルミ子の父親を演じるなど、芸人としての三波の魅力が最大限発揮された。
また、三波の芸人ならではの軽妙洒脱な司会進行ぶりも、番組カラーの明瞭化をアピールする上で
効果を発揮した。
その一方でお笑い色が強くなったことへの批判に対応すべく、1975年に入ってからは
実力派アーティストのスリー・ディグリーズ(en:The Three Degrees)や淡谷のり子を出演させたり、
バンバンやシグナルといった新人のフォークグループにもいち早く出演交渉を行い、
同年秋からはそれまでは省略していた作詞・作曲者のクレジットを曲名・歌手名テロップとの併記で
表示するようになった。
こうして総合音楽番組への方向転換への機運が高まり、翌1976年春にはスタート当初からの
人気コーナーだった「歌謡ドラマ」を排除。
それと同時に三波も番組を離れ、歌謡バラエティとしての『夜ヒット』にはこの時点で
一応の区切りが付けられた。
この時期最大のハプニングといえば、1975年8月の沖縄国際海洋博覧会からの生中継である。
中継当日に台風が沖縄全土を襲来し、特設ステージを設置したにもかかわらずほとんど使用できず、
スタッフ用の手狭なブースの中で放送を行う事態に陥った。