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33( ´∀`)ノ7777さん
それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、
ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差は
ソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。
その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。
アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による輸送艦攻撃を行い、
徹底して通商破壊作戦を実行。日本軍の物資や資源輸送を封じ込めた。
ガダルカナル島では補給が覚束なくなり、餓死する日本軍兵士が続出した。
太平洋上の拠点を失う日本(1943年から1945年)
1943年1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖で行われたレンネル島沖海戦で
アメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は最早絶望的となっていた。
2月に日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。
半年にも及ぶ消耗戦により、日米両軍に大きな損害が生じたが、国力に限界がある日本にとっては
取り返しのつかない損害であった。
これ以降、ソロモン諸島での戦闘はまだ続いたものの、日本軍は物量に勝る連合軍によって
次第に圧迫されていく。
山本五十六連合艦隊司令長官
1943年4月18日には、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将が、
前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けた
ロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した
(詳細は「海軍甲事件」を参照)。
しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、
山本長官の死の事実を1か月以上たった5月21日まで伏せていた。