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329( ´∀`)ノ7777さん
番組の挫折とバラエティ色の強化(1973?1976)
1973年6月、前田武彦が参議院大阪選挙区補欠選挙に立候補した日本共産党候補の応援演説の際に
「生放送中に候補者が当選した際にはバンザイを必ずやりますから見ていてください」という
旨の約束をし、その候補者が当選したことから『夜ヒット』のエンディング時にバンザイのポーズをしたところ、
このことが「反共」を掲げていた鹿内信隆フジサンケイグループ議長の逆鱗に触れ、これが引き金となり、
最終的に前田は同年9月をもって当番組の司会を勇退、他局の大半のレギュラーも
これと時同じくして降板の憂き目に遭った(「共産党バンザイ事件」)。
この騒動は『夜ヒット』に大きなダメージを与えた。
低視聴率に苦悩していた当時のフジテレビにとり数少ない「数字を見込める番組」であったこともあり
番組自体は続けられることとなったが、番組についてしまった負のイメージの早期払拭を図るべく、
前田の解任と同時に芳村真理も一旦降板させ、1973年10月からはあえて正規の司会者を置かずに、
ゲスト歌手の中から男女1名ずつ司会を起用。
水前寺清子・坂本九・佐良直美・井上順など司会者としての実力もある歌手から
五木ひろし・森進一・ピーター・南沙織など司会経験がほとんどない歌手に至るまで、
意外性のある人選で注目度を維持し続けることを狙いとしたが、このスタイルはあくまでも
暫定的なもので、実際には早い段階で芳村を番組の軸としての仕切り直しが検討されていた。
芳村には一旦降板と同時に夜ヒットスタッフによる新番組『木曜リクエストスタジオ』が用意され、
その半年後には『夜ヒット』に復帰したため、復帰当初は「出来レース」との批判もなされた。
1974年4月から『夜ヒット』はスタジオ観覧者を募っての公開放送に転換。
司会は芳村と、当時『笑点』(日本テレビ)の豪快な進行振りで司会者としても定評が確立しつつあった
三波伸介、そして華やかさをより前面に押し出す意味合いからもう一人の女性司会者として
朝丘雪路のトリオ体制となった。