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328( ´∀`)ノ7777さん
レコード会社や事務所側との出演交渉が難航したこともあり、番組スタートからしばらくは
低空飛行を続けたが、1969年1月27日と1969年2月24日の放送で
小川知子、中村晃子、いしだあゆみが「ご対面」「コンピューター恋人選び」のコーナーで
相次いで号泣するハプニングが発生(「泣きの夜ヒット事件」)。
スターが一人の人間として涙を流しながら必死で歌うシーンが話題となり、
これを機に視聴率が急上昇し、1969年3月17日の放送では最高視聴率42.2%を記録。
『夜ヒット』は当時高視聴率番組が少なかったフジテレビにあって貴重な「ドル箱」番組となった。
1969年4月7日、モノクロ放送からカラー放送に移行と同時に、番組専属の演奏バンドとして
結成間もない「ダン池田とニューブリード」を抜擢。
この頃から当初は出演を拒否していた歌手・タレントが続々と出演するようになり、
時には出演したいのに出演できない歌手も出るほど(前田武彦談)であったという。
『夜ヒット』の出演者人選の特色の一つに「男優・女優を歌手としてゲスト出演させた」点が挙げられるが、
この時期には吉永小百合、加山雄三、勝新太郎、石原裕次郎、浅丘ルリ子ら当時のスター俳優が多数出演した。
1969年末には海外ゲスト第1号として、当時日本でもアイドル的存在として人気急上昇中であった
オズモンド・ブラザーズ (en:The Osmonds) が出演するなど、「バラエティに富んだ出演者陣を網羅する」
という番組の特色の土壌がこの時期に築かれた。
当時の歌謡番組は『ロッテ 歌のアルバム』(TBS)等に象徴される純然たる歌謡ショー形式の番組が
大半であったが、1969年10月にスタートした『NTV紅白歌のベストテン』で「ウソ発見器」などのコーナーで
歌手の人間性を重視する構成がなされたり、歌手が自然体でMCを行う歌謡番組が多く登場するなど、
当初異色の扱いだった『夜ヒット』は、他局の歌謡番組の制作方針にも大きな影響をもたらした。