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298( ´∀`)ノ7777さん
芳村・三波コンビでの司会の第1回目は前田降板の次の回に当たる1973年9月24日との記録があるが、
当時の新聞の番組表には「さよなら前田武彦・芳村真理」とある。
朝丘は、○周年、○百回記念といった歴代司会者が集結する機会には「ゲスト司会者扱い」として
出演しなかった。
3代:芳村真理・井上順 1976年4月5日?1985年9月25日
4代:芳村真理・古舘伊知郎 1985年10月2日?1988年2月10日
5代:古舘伊知郎・柴俊夫 1988年2月24日?1989年9月27日
6代:古舘伊知郎・加賀まりこ 1989年10月18日?1990年10月3日

プロデューサー・ディレクター・構成作家
塚田茂(作・構成) - 1968年から番組終了まで構成を担当。
但し、1980年代以降は現場で直接指揮を執る形ではなく、総合監修的な役割で番組に参加しており、
実際の現場指揮はスタッフ東京(後述)のメンバーが当たっていた。
木崎徹(構成) - 1987年から番組終了まで担当。
伊藤昭(初代プロデューサー) - 1968年から1973年まで担当。
藤森吉之(ディレクター→2代目プロデューサー)- 1973年から1978年までプロデューサーを担当
疋田拓(ディレクター→3代目プロデューサー)- 1976年から1987年夏までプロデューサーを担当。
実験的とも言える演出方法を多用した。
井上信悟(ディレクター) - 1979年より番組制作に参加。番組エンディングのクレジットでは
「ディレクター」として扱われていたが、実際には疋田とともに番組演出の中心的な役割を務めた。
森正行(4代目プロデューサー) - 1987年から番組終了まで担当。
渡邊光男(4代目プロデューサー) - 1987年から番組終了まで担当。
水口昌彦(番組終期のディレクター・現お台場明石城三奉行、編成制作局バラエティ制作センター部長)
このほか、1977年より塚田が立ち上げた構成作家グループ「スタッフ東京」も構成に参加。