【給付金は】禁スロマラソン39km【貯金します。】

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285( ´∀`)ノ7777さん
演出の澤田隆治が個人的に、当時は非常に珍しかった家庭用ビデオで録画しておいたものを、
商品化した。番組は途中でカラー化しているが、ビデオがカラーに対応していないため、
すべてモノクロ映像である。
なお、こちらのファンサイト(てなもんや三度笠研究所)にあるように、
ヴァージョンごとに収録されているエピソードが微妙に異なり、市販されている全エピソードを見るのは、
かなりの困難を要する。

エピソード
セットに考えられないほどの多額の費用を掛けて臨んだ為に、放送作家や俳優の苦労は並ではなかった
と伝えられる。
「視聴率は取れて当たり前という時代だったので、当時のギャラは初任給よりも少ないんじゃないか」
と、藤田まことが後にコメントを残している。
また、ゲストに鶴田浩二に来てもらった際、藤田が「鶴田さんのギャラはなんぼですか?」と聞いたら、
スタッフに指1本出され「これだけや!」と言われた。つまり、藤田の1年分という事で、愕然としたという。
あまりの人気に「映画版」が何本も作られたが、映画製作中にTVシリーズが休みになるわけではなく、
藤田まこと等の役者陣は映画とテレビとの掛持ちで、おそるべき忙しさであったという。
1967年3月19日放送、第255話「上野の戦争」の官軍と彰義隊の砲撃戦シーンでは
2トンの火薬が使用されており、カメラが衝撃で何度もブレている。
東京からの出演者も多く、東西タレント交流のきっかけにもなったが、現在の様に航空機も発展しておらず、
さらに新幹線ができるまで(当時は工事中)は、特急列車での移動しかなかった。
東京・大阪を早くても6時間30分はかかった。
上方のお笑いを全国に広めるのも、この番組がはしりだった。
旧ABCホール(のちのSABホール、現在のリサイタルホール)での公開放送だった。