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209( ´∀`)ノ7777さん
但し、かつてはリーグ優勝の決定がシリーズ直前までもつれるケースが何度もあったため、
これは1988年に限ったケースではない(翌1989年も前述のケースと同様で、パは優勝の可能性があった
近鉄・西武・オリックスの3球団が入場券の印刷を手配し、先に優勝が決まったセの巨人は
東京ドーム開催分の入場券の券面を「巨人 対 パシフィック・リーグ優勝チーム」とした)。
現在ではドーム球場を本拠地とする球団が多くなったため、
かつてよりも公式戦の日程消化に比較的余裕ができ、また入場券も大手プレイガイドの
オンラインシステムによる発券が主流となり、作成に掛かる時間が大幅に短縮されている
(対戦カード決定後に作成しても十分間に合う)ため、このようなケースは稀になりつつある。
ベースボール・マガジン社は、日本シリーズの公式プログラムを長年作成しているが、
パ・リーグの優勝決定がもつれたため、「西武優勝版」と「近鉄優勝版」の2種類を予め作成。
結局この日西武の優勝が決定した事により、近鉄版はお蔵入りとなった。
また同社出版の雑誌「週刊ベースボール」などでも同様の措置を執った。
ダブルヘッダー第1試合で球審を務めた橘修は「7回辺りから球場全体の雰囲気が異様になり、
マスクをしていても胸が絞めつけられそうだった」と述懐している。
橘はこの時の冷静かつ正確なジャッジが評価され、パ・リーグ優秀審判員賞を受賞した。

ファン・球場
ロッテは1978年に川崎を本拠地として以来、慢性的に観客動員数が伸び悩んでおり、
この1988年も観客動員数は12球団最下位と言う体たらくぶりだった。
球団は苦肉の策として当時、1シーズン全試合有効の無料招待券(1枚につき、シーズン中の1試合に
入場可)を近隣住民をはじめ多くの人々に大量に配布していた。
とは言え、1980年代のロッテは低迷続きでこの年も最下位を独走。
優勝争いに加わるなど到底考えられず、さらには川崎の施設老朽化等もあって、
この招待券配布も観客動員の増加にはほとんどと言っていいほど効果がなかった。