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20( ´∀`)ノ7777さん
一方、日本は1940年(昭和15年)9月27日にドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結し
国際的な発言力を強めようとしたが、この外交政策はかえって独伊と英米との国際対立に
巻き込まれる形となり、一層日米関係を悪くする結果となった。
第2次欧州戦線の勃発と欧米の情勢
1939年、ドイツがポーランドに侵攻したことによって欧州では第2次世界大戦が勃発した。
1940年頃には、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んで
大英帝国がナチズムの台頭を阻む砦として苦しい抵抗を続けていた。
一方、大西洋を挟んだアメリカ合衆国では、1940年10月に行われた米大統領選挙で三選を果たした
フランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」と発表し、
イギリスへの援助を公然と表明した。
翌年にはイギリスへの武器貸与法を成立させ、さらに米英最高軍事参謀会議(通称ABC会議)
を開いてABC協定を成立させた。
しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも
第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。
ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にも関わらず、
11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで
直ちに欧州戦線に介入出来ない状況にあった。
もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは
1943年7月以降になるとみていた。
そんな中、ドイツと同盟関係にあり、中国と問題を起こして経済制裁を受けていた日本が
交渉を求めてきた。
日米交渉は米国にとって格好の引き延ばし戦術の材料となると共に、
第一撃を日本に加えさせることで、国内の孤立主義派を一挙に封じ込め、
対独戦に介入する口実になると考えられた。