【もうすぐ】禁スロマラソン38km【春ですね】

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502( ´∀`)ノ7777さん
それが普通サイズのカラー映画でいこうと変わり、東映内部でも後難を恐れ映画化に
消極的な声はあったが、広島出身の岡田茂社長がやる気満々で実現に至った。
『仁義なき戦い』の成功は、深作欣二のダイナミックな演出、絶頂期に向かう役者達の名演技、
実録ならではリアリティなど、多くの複合要因から成り立ち、それら幸福な出会いともいえるが、
やはり原作にはない膨大な資料を掻き集めてシナリオにまとめた笠原和夫の巧みな脚本、
広島弁の珠玉の名セリフの数々によるところが大きい。
笠原は獄中手記を書いた美能幸三親分にも人を介して会いに行った、
当時の美能は8年の刑期を終えシャバに出てきたばかりで、現役バリバリの殺気に笠原は縮み上がり
「映画なんか信用できん」と美能の一言にその場を一目散に逃げ出した。
ところが美能が追い駆けて来て色々話をしてるうち、戦中共に海軍の大竹海兵団にいた事が分かって
美能は喜び自宅にまで招かれた。
手記を書いただけに脚本家という仕事に興味を持ったようで「絶対に映画には使わない」
という条件でたっぷり広島抗争の真実を聞く事が出来た。
別れ際、美能に「絶対に映画にしないんだな」と念を押されたので「しません!」と答え帰京、
さっそく脚本に取りかかったという。
初めて聞かされる専門用語がふんだんに登場する等、暴力団の内情をうかがわせた脚本は、
笠原が綿密な取材を重ね膨大な資料を集めた成果である。
それは "血風ヤクザオペラ" とも "広島弁のシェークスピア" とも称された。
プロデューサーの日下部五郎は「笠原さんが『仁義なき戦い』シリーズで残した最も大きな功績は、
広島の方言、やくざ言葉を巧みに拾い上げて、映画の名台詞と言われるまでにしたことでしょう」と述べている。
笠原は東京の出身で、終戦間際に海軍幹部候補生として3ヶ月の広島滞在歴はあるが、
広島弁はあまり知らなかった。
綿密な取材を重ね膨大な資料を集め、広島弁も研究し広島弁の辞書まで作っていたと噂されたが、
広島弁独得の語感は文字の上からだけでは捉えられない。