【もうすぐ】禁スロマラソン38km【春ですね】

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423( ´∀`)ノ7777さん
1988年、村山実が監督に復帰。「少年隊」トリオと呼ばれた和田豊、大野久、中野佐資を登用するなど
若手への世代交代を進めたが、バースの帰国、掛布の引退などが重なって2年連続最下位。
1989年は新外国人のセシル・フィルダーが活躍するも、三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。
順位は5位で、辛うじて3年連続最下位は免れたが、シーズン中から浮上した監督問題で
村山は監督を辞任した。
1990年、中村勝広が監督に就任。前ヤクルトのラリー・パリッシュや岡田が5月中盤まで好調だったが、
投手陣はエースのマット・キーオが怪我で退団し、規定投球回数に達したのは5勝11敗の猪俣隆と
4勝13敗の仲田幸司のみという惨状で2年ぶりの最下位。
1991年も、開幕5連敗、6月に10連敗を喫するなど、開幕から55試合で15勝40敗と成績は振るわず、
結局2年連続の最下位となった。
後半戦は、猪俣、葛西稔といった若手投手が台頭し、5連続先発投手完投勝利を収めた。
また、オフにビートたけし率いるたけし軍団と対戦して敗れるという失態もあった。
1992年、衰えが見えていた主力の岡田や真弓らに代わり、
それまでほとんど実績が無かった亀山努、新庄剛志の両外野手に加え、
和田豊、トーマス・オマリー、ジム・パチョレック、八木裕らが活躍。
特に亀山と新庄の台頭は「亀新フィーバー」と呼ばれた。
甲子園球場のラッキーゾーンが撤去されて外野が広くなったこともあり、
仲田、中込伸、湯舟敏郎、野田浩司、弓長起浩、田村勤ら投手陣も奮起し、
ヤクルトと優勝争いを繰り広げ、巨人と同率ながら2位となった。
第二次低迷期(1993年 - 2002年)
1993年、主力選手の故障に加え、外国人枠を巡ってパチョレックが退団、
昨年絶好調だった投手陣が崩壊し、4位に終わった。
なお、この年に野田と交換トレードで獲得した松永浩美がFAを宣言して
福岡ダイエーホークスへ移籍した。