【もうすぐ】禁スロマラソン38km【春ですね】

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421( ´∀`)ノ7777さん
1975年、吉田が監督に就任。田淵が王を抑えて本塁打王を獲得するも、エース江夏の不調などから3位に終わった。
そしてオフに江夏を江本孟紀、島野育夫らとのトレードで南海へ放出。
翌1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣は好調。
ハル・ブリーデン、マイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍により、
巨人と激しく優勝争いを演じるが結局2ゲーム差の2位に終わる。
1977年も序盤は好調だったが、中日戦で8勝18敗と負け越したことが大きく響いて4位に終わった。
後藤次男監督時代の1978年には球団初の最下位に沈み、後藤は責任を取る形で辞任した。
1978年オフ、小津球団社長が就任。
小津は低迷するチームの改革を図るためには大規模な改革が必要と考え、
正捕手・4番打者の田淵とエース級の古沢憲司を西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、
若菜嘉晴との交換トレードで放出。
さらに空白の1日事件で巨人が江川卓と契約しようとすると、これに対抗してドラフトで江川を強行指名した。
しかし、巨人入団を強く望む江川との交渉は難航し、結局当時の日本野球機構コミッショナー金子鋭の指示、
所謂“強い要望”により江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。
1979年、ドン・ブレイザーが監督に就任。
掛布が48本塁打を放ち、小林が巨人戦8勝を含む22勝を挙げたが、
江夏を擁する広島東洋カープに夏場で離されて4位に終わる。
1980年、新人の岡田彰布の起用法を巡る対立などにより、ブレイザーがシーズン途中で監督を辞任。
以降、中西太、安藤統男が監督に就任したが、チーム成績は3〜5位が続いた。
1985年、吉田が監督に復帰。
1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)が活躍し、
特に4月17日の甲子園球場の巨人戦ではこのクリーンナップトリオが
所謂バックスクリーン3連発を放って開幕ダッシュに弾みをつけた。
このシーズンは最終的に219本塁打を記録し、これは2004年に巨人に破られるまでセ・リーグ記録だった。