【もうすぐ】禁スロマラソン38km【春ですね】

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420( ´∀`)ノ7777さん
金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇り、当時ヘッドコーチを務めていた
藤本定義が監督に就任した。
1962年、藤本の下、小山、村山の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、
二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分立後では初となる通算5度目のリーグ優勝を果たした。
日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦したが、2勝4敗1分で敗退した。
1964年、エース小山と大毎オリオンズの4番打者山内一弘とのトレードを成立させて
打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を果たした。
大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という絶体絶命のピンチに追い詰められながらも、
最後に9連勝で逆転優勝を決めた奇跡的なシーズンだった。
しかし、東京オリンピックの影響で早く始まった日本シリーズでは、
南海ホークス相手に先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で惜敗した。
迷走から日本一へ(1970年 - 1985年)
1970年、村山が選手兼任監督に就任。
江夏豊と田淵幸一の「黄金のバッテリー」や吉田からレギュラーを奪った藤田平といった
個性的で人気と実力を兼ね備えた選手が揃ったが、当時は王貞治や長嶋茂雄ら
群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えており、太刀打ちできなかった
(1970年2位、1971年5位、1972年2位)。
1971年のオールスターゲームでは、江夏が9者連続奪三振を記録した。
1972年に村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。
村山はこの年限りで引退。
1973年、金田監督が復帰して9連覇を目指す巨人と激しい優勝争いを行い、
残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、
中日球場での中日ドラゴンズ戦では星野仙一を攻略できずに2-4で敗れ、
地元甲子園での最終戦では巨人に0-9と完敗して優勝を逃した。