【もうすぐ】禁スロマラソン38km【春ですね】

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419( ´∀`)ノ7777さん
1949年オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。
しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分立に際して読売ジャイアンツ等と共にセ・リーグを創設した。
阪神に裏切られた形となった新球団毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を
集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、
別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した。
また別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている。
さらに遊撃手・長谷川善三が西鉄クリッパースへ、門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍し、
ダイナマイト打線は崩壊した。
セ・リーグ元年の1950年、阪神は移籍した若林に代わり松木が監督に就任し、
毎日に引き抜かれずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心に
チームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。
しかし新規に加盟した球団を除けば最下位であり、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻だった。
一方、チームの再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、
世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎などの
若手選手達が次々と主力になり、好成績を収めた。
しかし投打が今一歩噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にある中で
タイガースは優勝から遠ざかることになった。
1959年6月25日の巨人11回戦は、プロ野球史上初の天覧試合となった。
試合は藤本勝巳の本塁打と、小山-村山実の継投で優位に進めるも、
9回裏に長嶋茂雄の放った左翼ポール際の打球を本塁打と判定され、4-5で惜敗した。
フランチャイズ制度の正式導入に伴って保護地域が兵庫県となったことから、
1961年に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更した。
しかし、チームの成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した金田正泰が
シーズン中に監督を解任されるなど、チームは混乱した。