【もうすぐ】禁スロマラソン38km【春ですね】

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418( ´∀`)ノ7777さん
特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男に加えて1937年春から豪腕西村幸生が加入した
磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁して
プロ野球初の2連覇を達成した。
さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、
春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、
年度優勝に輝き球団初の日本一、さらには2年連続日本一となった。
1940年9月、戦局悪化によって敵性語である英語の使用禁止を受け、
球団名を大阪タイガースから阪神に改称した。
軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が
35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。
戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に
「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。
戦後期(1946年 - 1959年)
戦後、1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰し、
1946年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。
したがって、翌1947年に大リーグに倣って職業野球全球団がニックネームを導入した際、
タイガースだけは球団名の変更を行う必要がなかった。1946年の愛称は「猛虎」(参照)。
1947年、若林が1944年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、
戦後初優勝となる通算4度目の優勝を飾った。
1番打者・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は
「ダイナマイト打線」と呼ばれた。
特に4番打者であった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、
「ミスタータイガース」と称された。
1949年には、チーム順位が6位にもかかわらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。