【もうすぐ】禁スロマラソン38km【春ですね】

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417( ´∀`)ノ7777さん
翌1936年にも、1月9日に川崎コロムビアの若林忠志、2月28日に立教大学の景浦將など
有力選手と契約し、同年4月の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。
同年2月5日には、東京ジャイアンツ、名古屋、阪急等と共に日本職業野球連盟を結成している。
これは、現在の日本野球機構にあたる組織であり、同日が日本プロ野球リーグのはじまりである。
本拠地・阪神甲子園球場で応援するファンの様子1936年の公式戦は、
春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・
秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分けて東京、大阪、名古屋の各都市圏で
いくつかの大会を開催する方式だった。
最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しなかった
(後に名古屋金鯱軍も内外遠征を行っている)ためシーズン優勝は決めなかった。
しかし、開催された3大会で松木や景浦率いる打線にエースの若林といった布陣で臨んだが、
タイガースはいずれも1位を逃した。
1936年夏と秋のシーズンは、各大会で1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。
夏、名古屋大会で1位になったタイガースは、東京大会、大阪大会で1位になった名古屋、阪急と
優勝決定戦を行うこととなっていたが、直前になって中止され、初優勝を逃した。
また親会社同士が競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、
石本秀一が監督に就任した。
同年秋、打倒沢村栄治に闘志を燃やす松木や景浦を中心として各大会を戦い抜き、
24勝6敗1分の成績を残したが、優勝を決める勝ち点は2.5で東京ジャイアンツと並んだ。
このため、同年12月に洲崎球場で優勝決定戦が行われたが、1勝2敗で惜敗した。
戦前・戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に「東京巨人」に改称)と優勝争いを繰り広げた
強豪チームであった。