いい加減にしやがれてめーら!

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75てってーてき名無しさん:2005/09/30(金) 18:07:04 ID:???
第6話「八五郎子守唄」
馬渕晴子。
角兵衛獅子に売り飛ばされて帰ってきた息子(子役)のセリフが関西訛り
今回からエンディングテーマが2番の歌詞

第7話「濡れた千両箱」

第8話「刑場の花嫁」
小川知子、小林裕子。
宮園純子登場回。万七、清吉出ず。

第9話「兄弟ふたり」
露口茂。
浪花千恵子は鉄漿がよく似合う。68年のドラマ「大奥」でも真っ黒だった。

第10話「女ごころ」
笠置シヅ子。お静デー。万七&清吉出ず。
76てってーてき名無しさん:2005/10/07(金) 18:12:04 ID:???
第11話「雨の中の男」
下手人は声はすれども姿は見せず。
ただ、出演者名に渡辺文雄とあるので視聴者には声の主が誰だか分かる。
つまり内容は下手人探しではなく、人情ものであった。
宮園純子。今回よりエンディングの歌詞が3番。

第12話「狂った火」
10月4日(火)は放送がなかった。そのため今週は4話分のみ。
午前5時は試験電波。午後5時は菅原文太主演の短編物「へそ曲がり新左」。
他の時間帯はいつものレギュラー番組なので放送がなかったのは不可解。
よって第12話以降は10月5日(水)以降にずれこむ。
内容は宗教物。下っ引を使う。

第13話「星より綺麗な花」
時専サイトのタイトルは「星よりきれいな花」となってる。
お静妬く。園まり出演。挿入歌あり(「ふるさとの唄」)。
春丘典子もかわいいね。

第14話「七人の花嫁」
お静泣く。白無垢のお静。根岸明美。
77てってーてき名無しさん:2005/10/11(火) 21:12:51 ID:???
第15話「死人の殺人」
増田順司扮する幸吉と佐吉とは兄弟という設定だったが、
見た目から言っても親子の方がよかったのでは。

第16話「地獄の投げ銭」
小林哲子。万七、清吉出ず。
平次潜入物。面白いストーリー展開であった。
桑山正一にあんな役をさせるとはもったいない、と思ってたら
やはりどんでん返しがあった。そして、もうひとつのどんでん返し。
お静もよかった。個人的に星5つ。
78てってーてき名無しさん:2005/10/14(金) 01:56:43 ID:???
16話からエンディングの歌詞が再び1番

第17話「切られた綱」
見世物やの観客などエキストラ多数。準備が大変だったのでは?
死人はでなかったが、過去の殺しが明るみにでてしょっぴかれる。
ストーリーの中心となった咎人を情けにかけて見逃してやる。

第18話「玉の輿の呪い」
花沢徳衛。全員が罪をかばい合う話。
それなりの立場にある者が追い詰められて自害というよくある展開。
腹を刺してからの台詞が長い。
79てってーてき名無しさん:2005/10/19(水) 12:14:52 ID:???
第19話「帰らぬ鳩」
芳村真理。お静かどわかされる。犯罪に伝書鳩を使う。

第20話「七年目の仇討」
里美浩太郎にお弓もうっとり。八五郎妬く。
オープニングの藤尾純の役名が「三輪の万吉」となっていた。
80てってーてき名無しさん:2005/10/25(火) 23:33:51 ID:???
第21話「湯治場の休日」
和歌山ロケ。

第22話「渡り鳥」
大川栄子。

第23話「闇夜の目」
楠侑子。
八五郎がお守り代わりの?小さなダルマを持っていたが、張り込みをしくじり川へ捨てる。
投げ銭当たらず逃げられる場面あり。聞き込みにチップを渡す。

第24話「捕縄の掟」
長門裕之、小栗一也。長門の弟が津川雅彦で、津川の奥さんが朝岡雪路で、
雪路と橋蔵は結婚目前までいってて…。
サブタイトルがオープニングテーマから少し後に出る。これまでは直後だった。
義賊物。八五郎ボコられる。お静病いで臥せる。
証言する太鼓もちがウソばかり言うので番屋にしょっぴくとは万七みたいだ。

第25話「ふたり平次」
ニセ平次もの。ラストのあんま屋は…。

第26話「母恋い星」
継子もの。八五郎がどんどん面白くなってくね。
81てってーてき名無しさん:2005/11/26(土) 01:42:46 ID:???
ウイルス名
WORM_RBOT.BGU

ファイル名
G:\WINDOWS\system32\wuamkop32.exe

ウイルス検出時の処理
隔離できません


38 :てってーてき名無しさん :2005/10/31(月) 18:18:54 ID:???
5745819
0570-019-677


39 :アニマックス :2005/11/02(水) 01:01:00 ID:???
   過去スレ
001 ttp://natto.2ch.net/skyp/kako/977/977257417.html
82てってーてき名無しさん:2005/11/26(土) 01:43:04 ID:???
83てってーてき名無しさん:2005/12/06(火) 04:09:59 ID:aBPIEF52
やっぱ見たい時に見たいからなぁ
いずれはネットのストリーミング放送に駆逐されるだろな
84てってーてき名無しさん:2005/12/06(火) 07:41:43 ID:P4CLgQIa
sigio
85てってーてき名無しさん:2005/12/09(金) 23:55:07 ID:x89iFJ4X
おまえがいい加減にしろ
86てってーてき名無しさん:2006/05/19(金) 14:15:10 ID:???
関西のテレビに期待するしかないって情けない

自分たちの不利益は一切報道しない北朝鮮
もう駄目だね、東京のテレビ屋は。
87てってーてき名無しさん:2006/05/19(金) 14:18:10 ID:???
本来なら関西のテレビ局に頼らず、辛坊とかいう個人に頼らず

TBS、テレ朝、フジ、テレ東、nhk が実名をあげ報ずべきものなのに
まったく情けない東京のテレビ屋。
88てってーてき名無しさん:2006/07/08(土) 22:20:39 ID:???
 岡山スレ登場コテ
【道◆GOD/khroO.】
去年までは勝ったり負けたりだったが南国に執着しすぎて
負けキャラ筆頭になる!

これまで何度も攻略方を買うが成果は、なし
西から東まで行動範囲は広く40代とは思えない位気は若い!
本業は建築関係の親方で収入は、多い。
夏場は稼働が少ないが、雨降りは本業が休みになる。
日本ハムファン
チームが45年ぶりの11連勝を達成!


 岡山スレ登場コテ
【ぱぱっぱ◆/SHOUT/7nE】
利が消えてからスレ筆頭の叩かれキャラ
客観的な店の評価には定評あるが叩かれまくる。
先のミサイル発言により、アンチが更に増えた!
スロプーの虎ファン
89てってーてき名無しさん:2006/07/10(月) 20:48:41 ID:???
19世紀のベルギー、フランダース地方。
アントワープにある大聖堂を、 一人の修道女が訪れる。
彼女は、聖堂に飾られている大画家ルーベンスの
「聖母被昇天」を仰き見るうち、その記憶は20年前へとさかのぼる…。
少年ネロとおじいさんは貧しいながらも午乳運びで生計をたてていた。
ある日、二人は金物屋に酷使され、弱りきって野原に捨てられていた労働 犬を拾う。
ネロの3日3晩の看病の末、元気を取り戻した老犬。
これがネロとパトラッシュとの出会いであり、友情の始まりだった。
月日が経ち、10歳のネロとパトラッシュ、ガールフレンドの8歳のアロアは、
イチゴを摘んだり、絵を描いたりして仲良く遊んでいた。
しかし、 アロアの父で村一番の富豪のコゼツは、娘が貧しい少年ネロと親しくする のを嫌った。
ネロの夢は、ルーベンスのような画家になることだった。
ネロは、毎日のように大聖堂を訪れ、「聖母被昇天」に見入るのだったが、
彼の願いは厚いカーテンに覆われたもう一つのルーベンスの絵
「キリスト降 架」と「キリスト昇架」を一目見ることだった。
それを見るには金貨一枚 が必要で、貧しいネロにはとてもそんな大金は払えないのだ。
そんなネロのささやかだが幸せな日々は長くは続かなかった。
ある日、町でパトラッシュの姿を見かけた元主人の金物屋アンソールは、
元気になったパトラッシュを取リ戻そうとし、執拗に追い続ける。
見かねたおじいさんが、アンソールからパトラッシュを大金を払って買い取るこ とにした。
そのためネロの家はますます貧窮をきわめる。
しかも、無理な 労働がたたって、おじいさんが病で倒れてしまったのだ。
90てってーてき名無しさん:2006/07/10(月) 20:50:02 ID:???
幼い体で家計を 支えなければならなくなったネロに次々と不幸が襲う。
ネロとのつきあい を快く思わないアロアの父コゼツが、ついにネロとアロアの交際を禁じる。
そして、満足に薬も買えないままおじいさんが他界してしまう。
哀しみに 暮れるネロに、追い打ちをかけるように村に大事件が起こる。

風車小屋が 火事になリ、村の小麦がすべて焼失してしまったのだ。
その放火の容疑がネロに向けられ、ネロは村中から敵意を浴び、牛乳運び の仕事をも失う。
 今や、ネロを支えているのは、町で行われる絵のコンクールで優勝する ことだけだった。
優勝者は、賞金がもらえ絵の学校に通うことができるのだ。
クリスマスの日、希望を胸に発表を見に行ったネロだったが、結果は 落選。
愕然として失意の内にパトラッシュと共に家路に向かう途中、ネロは小さな布袋を拾う。
中には大金が入っており、それがコゼツのものだと わかったネロは、届けに向かう。
その頃アロアの家では大騒動になってい た。
お金を届けたネロは感謝されクリスマスの晩餐に招かれるが、パトラ ッシュだけを残して屋敷を去る。
事情を知ったコゼツは、ネロの純粋さに 心を打たれ
初めて今までのネロへの態度に深い改悛の念を覚え、涙する のだった。
 家賃が払えずに家を追われ、全てを失ったネロは、いつしか あの絵の架かる大聖堂へとたどり着く。
そして、ミサの終わった人気のないホールで ネロが見たものは、
あの念願のルーベンスの2枚の絵「キリスト降 架」と「キリスト昇架」だった。
「神様、僕 はもう思い残すことはあリません…」

至福の表情を浮かべるネロのそばに 後を追ってきた
パトラッシュが寄り添い、二人は幸せに包まれながら静かに目を閉じるのだった。
そして…
91てってーてき名無しさん:2006/09/09(土) 11:00:30 ID:CZqTnGE+
あんぎゃー−−−−−−−−−−−−−−
92てってーてき名無しさん:2006/09/09(土) 11:42:28 ID:oJR8YjGl
久しぶりに面白い>>1だ。
93てってーてき名無しさん:2006/09/09(土) 12:21:40 ID:G+xXMklq
ほんまや、愛すべし>>1
94てってーてき名無しさん:2006/09/10(日) 05:58:34 ID:gwSOKDVs
しばくぞ!!!
95てってーてき名無しさん:2006/09/11(月) 02:36:10 ID:???
でもスタスキー&ハッチは第1回からやってほしいよなあ
96てってーてき名無しさん:2006/09/11(月) 22:32:29 ID:gaiWUAsJ
>>1
しばき倒すぞ!! コラ!!!!!!!!!!
97てってーてき名無しさん:2006/09/13(水) 06:46:23 ID:ICsEU9f0
しばかれるのは、貴様の方だ、コラ!!!!!!!!!!!!!!!!!
98てってーてき名無しさん:2006/09/14(木) 07:12:37 ID:ylWhCIKR
5年かかって、やっと100到着かw
99てってーてき名無しさん:2006/09/15(金) 11:51:36 ID:Rz4bWvXl
がははは
100てってーてき名無しさん:2006/09/16(土) 13:10:21 ID:YOaIv+bm
てーへんだ、てーへんだ!
101てってーてき名無しさん:2006/09/18(月) 12:32:06 ID:OodYCKXu
>>1、犯すぞ!!!
102てってーてき名無しさん:2006/09/20(水) 08:24:13 ID:Jbi4kPtu
ふにゅ〜( ´∀`)
103てってーてき名無しさん:2006/09/22(金) 12:33:18 ID:9GY4+EUR
>>1、殴るぞ!!!
104てってーてき名無しさん:2006/09/23(土) 14:28:20 ID:9cRi0QEI
ふにゅ〜( ´∀`)
105てってーてき名無しさん:2006/10/04(水) 10:43:14 ID:DoIsT4Sn
解答者 : >>1
                               ,.へ
  ___                             ム  i
 「 ヒ_i〉                            ゝ 〈
 ト ノ                           iニ(()
 i  {              ____           |  ヽ
 i  i           /__,  , ‐-\           i   }
 |   i         /(●)   ( ● )\       {、  λ
 ト−┤.      /    (__人__)    \    ,ノ  ̄ ,!
 i   ゝ、_     |     ´ ̄`       | ,. '´ハ   ,!
. ヽ、    `` 、,__\              /" \  ヽ/
   \ノ ノ   ハ ̄r/:::r―--―/::7   ノ    /
       ヽ.      ヽ::〈; . '::. :' |::/   /   ,. "
        `ー 、    \ヽ::. ;:::|/     r'"
     / ̄二二二二二二二二二二二二二二二二ヽ
     | 答 |       俺 は 紙         │|
     \_二二二二二二二二二二二二二二二二ノ
106てってーてき名無しさん:2008/02/07(木) 03:03:03 ID:???
 
107てってーてき名無しさん:2008/10/30(木) 20:50:54 ID:???
>>1
108てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:08:40 ID:???
 八、敵の蹴り込む足は手を以て掬ふを要せず、足を以て之を拂ひ同時に拳を突込むべし、又敵倒るゝとも輕々しく之を襲うべからず。
   時に不覺を取ることあり。
 九、敵に足掬はるときは踏み切る心地にて之を用ふべし。
   然るときは危なき事なし。
   然れども地面悪しきときは倒るゝ恐あり注意を要す。
 十、敵と相對するときは敵の詭術に陷らざる様注意すべし、拍子を打ち又は手を掛ける様に見せて足を使ふ者あり、
   足を使ふ眞似して拳を用ふる者あり、聲を聞きて聲に應じ音を聞きて音に應じ少しも油斷あるべからず。
 十一、多數の敵に對する時は組み打ちは禁物なり、成るべく離れて闘ふを有利とす。
   右を衝けば左に轉じ、前に當りては後を撃つが如くすること是唯一の好手段なり。
   
  右の數條は試合上肝要なる事項なり。
  然れども是れ唯だ其の一端示にすぎず。
  要するに武術の變化は神妙にして窮りなし、故に筆舌の盡し得べきものにあらず。
  唯だ熱誠以って練習をなし、研究久しきに亘らば自ら悟る所あらん。
109てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:09:10 ID:???
・虎の法
強大にして生意気な暴漢が暴れ込んできて手のつけようがなく、どうにもならない場合、
この暴漢を一撃のもとに打ち込んで乱暴状態を封じ、その抵抗力を減殺してしまう、極意中の極意が虎の法である。
(中略)
 この虎の法は、正拳の中高指を突き出させた中高一本拳を以て、甲を上にしてかまえた右拳と、
反対に構えた左拳の両方で、下より上へ二重楕円を描きつつ丹田より激発する総力と、
深呼法による左拳反動の総撃力を裏拳に結集させ暴漢の急所めがけて打ち込むのである。
 打ち込まれた暴漢は有無をいわず即座にどっと座り込み腰を抜かし、今までの暴威はどこえやら、吹っ飛んで平伏してしまうのである、
この理屈を著者はたびたびの奥技公開の歳、次のように解説している、
自転車はチェーンによって前に進む、このチェーンを外してしまえばどうしても前に進むことは出来ないのである、
同じ理屈で暴漢が襲ってきた乱暴態勢のチェーンを外してしまえば、その暴力や抵抗力が止まってしまうのである、
すなわち人間の暴力チェーンを封じてしまえば乱暴する腕力がなくなるのである。
この無抵抗状態は人によって異なるがだいたい2分から3分間は座り込んでしまうのである、
良心にかえって謝れば後に述べる熊の手を用いてもとの元気な態勢に返すのであるが、
しかしこの虎の法は前編で述べたごとく凡技が奥技になるまで超人の鍛練を積んでこそ
初めて生きた虎の奥技が生まれてくることを忘れてはならない。

遠山寛賢・著「空手道大宝鑑」
110てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:09:56 ID:???
「私と師匠の出会いは昭和七年のことでしたね。ふとしたことから、
友人の紹介で朝基先生に会いました。日暮里の『泡盛屋』という
小さな店だったんですが、六畳間の真中にドテラを着て、ドカッと
座っている男がいるんですね。

これが目付きが異様に鋭くて、腕も足も丸太ん棒のように太いんですな。
随分と大きい男だなと感じましたね。その男がね、こちらをジロッと睨んで

 ,.――――-、
 ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
  | |  (・)。(・)|  
  | |@_,.--、_,>   小さいヤツは唐手をやっても無駄だ。
  ヽヽ___ノ 


って言うんですね。さすがにムカッときましたよ。
 で、その日はそのまま引き上げまして、日を改めて今度は当時じゃ
最高級だったタラバガニの缶詰を持っていったんですね。そうしましたら
”唐手は別にして君は何に興味がある”って聞くんですね。私はシャモと
闘犬に興味があると答えましたら、”その闘犬というのを見せてくれ”と
言うんですね。自分の家の庭で闘犬をやりましたよ」

このことがことが縁となって丸川氏は唐手を学び始める。一方、朝基も
丸川氏の家に時々宿泊をした。そんなときは、朝基の凄まじさをまざまざ
と見せつけられた。例えば、庭の大きな石をみては「お前のところのは
良い石があるな」といってヒョイヒョイ持ち上げる。また、モチの木をみて
「いい木だな」といっては、その葉を手刀で折ってしまう。「ひでえ力のある
オッサンだな」というのが丸川氏の感想だったようだ。
111てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:10:47 ID:???
昭和8年、周囲の人たちの協力により朝基は小石川の江差町に「大道館」
(昭和16年まで存在。但し、14年からは牛込に移転)という道場を
建てる。稽古時間は朝の九時から夜十時まで。丸川氏は毎日稽古に通った。

当時、朝基の名はかなり有名であり、道場生もかなり集まったようである。
だが朝基はただ見ているだけであり、自分の稽古も人前では絶対やらなかった。

 ,.――――-、
 ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
  | |  (・)。(・)|  
  | |@_,.--、_,>   武術は人に教えるものじゃない。教えたりしたら弱くなる
  ヽヽ___ノ 

というのが口癖であった。
丸川氏はこう語っている。「師匠は決して教えない人じゃなかったんですよ。
ただ、かなりできる人を教える人だったんですね。素人を教えるのは嫌だったようです」

「師匠の合戦はすごかったですね。あるとき本牧の屋台で寿司を食っていたんですが、
柔道着をぶら下げた奴等が5〜6人こっちにチョッカイをだしてきたんですよ。最初は
知らんしていましたが、そのうちの1人が、よしゃいいのに師匠につっかかっていった
んですね。そうしましたら”丸川よく見ておけよ。こういうもんだよ”と言って、あっという間
でしたね。3人ばかりを倒してしまいました」
112てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:11:55 ID:???
他にもイレズミをした男がすれ違いざまにぶつかってきたとき、飛び上がって
正拳突きを叩きこんだとか、日本刀をもって暴れている男と対し、下駄で刀を
受けて倒したとかの話もある。倒し方はすべてストレート一本。一本拳をつか
って捻りこむようにして入っていった。一発でほとんどの相手は倒れた。

 ,.――――-、
 ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
  | |  (・)。(・)|  
  | |@_,.--、_,>   ”武術は試みだよ、殺すんじゃないよ”
  ヽヽ___ノ 

ってのが、師匠の口癖でしたね。武術は実戦を通じて学ぶってことですね。
それから合戦するときの心構えといいますか、必ず逃げ道を確保しておけと
言っていましたね。”武道家が何故やられないと思う。パッとやってスッと退く
からだよ。だから一発で倒せ。グダグダ長引かせているから、刺されたりする
わけだ”とか”三つ突かれて避けられなければこっちの負けだよ”なんてことも
言ってましたね」

他武道が絡んだ話も当然多い。朝基はどんな武道に対しても
「やってみなきゃわからん」と言いながら、必ず手合わせをした。

「京都の武徳殿に行ったときですね。柔道着の有段者が五十人ばかりーっと
並んでいるわけですよ。ごっつい連中がね。まあ、是非とも手合わせを願いたいと
言われまして、その中から三十人ばかり選びまして、対戦したんですよ。実戦じゃない
から当てることはありませんでしたが、誰一人として師匠を投げることは出来ませんで
したね。銃剣術とやったこともあります。師匠はもちろん銃剣術なんてやったことはなか
ったんですが、すべて制しましたね。
113てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:13:32 ID:???
それからこんなこともありました。今の合気道、当時は植芝柔術と言っていた
んですが、そこへ師匠と私で行ったんですよ。こちらとしては何やるわけでもなか
ったんですが、師匠が見えたら稽古をパッとやめちゃいましたね」
プロボクサーのピストン堀口とスパーリングをした話も有名である。

「師匠が堀口に言うんですね。”あなたの命は保証しますから、どこからでも
打ってきなさい”って。ピストン堀口といえば、ボクサーとしては有名な方でし
たからね。我々としても少々肝を冷やしましたよ。でも、なんのことはない。
パンチは全部受け止めちゃいましたね」

実戦でも他武道に対してもことごとく勝った、朝基のその強さの秘訣は
どこにあったのだろうか。

「関係あるかどうかは分かりませんが、師匠は目が異常に良かったですね。
我々に見えないような小さな星でも全部見えてしまいましたからね。それから
武術に対する考え方がちょっと変わってましたね。

 ,.――――-、
 ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
  | |  (・)。(・)|  
  | |@_,.--、_,>   ”武術は強い弱いじゃない。いかに公式を知っているかだ”
  ヽヽ___ノ 

って言うんですね。公式とは対処の仕方とでも言ったらいいんでしょうかね、
それだけじゃ言い切れない面もありますが・・・。
114てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:14:57 ID:???
 例えば柔道家につかまれたときは唐手で一体どう捌くのか。剣道、銃剣道
が相手になったときは唐手としてどうするのか。そういうことをしっかりと分か
っていることが大切だということでしょうね。あとは経験次第だと言ってましたよ」

相手の背が高ければ巻き込むようにして中に入り、拳のスピードが速ければ、
腕を鍛えてガツンと受けるなど、相手による対処の仕方なども教えてくれた。
また、稽古上の心得にも特異なものがあったという。
「師匠は良く、

 ,.――――-、
 ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
  | |  (・)。(・)|  ”十回やったら八回は負けておけよ。二回勝ったら満足しておけ。
  | |@_,.--、_,>   ただ、勝つときにはしっかりと急所を狙って、その狙い通りにいくようにしろ”
  ヽヽ___ノ 

ということを言っていました。そんなことを言う理由はいくつかあったと思います。
手の内を知られないようにとのこともそうでしょうが、実戦ということを考えていた
んだと思います。良く道場では威勢がいいけど、いざ実戦になるとからっきしだめ
という人がいますが、それを戒めたんじゃないかと思います。

朝基は非常にさっぱりした気性の人で、お金に執着がまるっきりなかった。
持っているお金は全て使い果たした。大阪時代から一緒に暮らしていたお妾
さんが、これは車代、これは食事代と必要な分だけお金を渡したそうである。
115てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:17:05 ID:???
 当然お金は貯まらないし、商売っ気のあるようは人ではない。大阪へ一家
揃って出ることになったのも、上之屋で始めた客馬車商売に失敗したからと
いうことである。

「師匠はね、武術を必要とはしない人だったんですよ。と、言いますか、
唐手を教えていたのも金がないから仕方なくやっていたような感じでし
たね。裕福ならば盆栽でもいじっていたような人ですよ。ああいう師匠は
食えませんね。運のない人だったんですな」

丸川氏の拳にはいまだにすごい拳ダコがある。時々は巻藁を突くこともある。
氏は現在七十八歳である。大学へはあまり通わず、本部大学道場へ通ったような
ものであるという。「卒業できたかどうかは分かりませんがね」と最後につけ加えた。

(取材・文/ 高原守)
116てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:18:00 ID:???
【本部朝正先生のエピソード 】
ttp://www13.plala.or.jp/gisei/k-column3.html
>本部朝正先生いわく、父・朝基は、バッサイとセイサンの型も教えていたそうだ。
>セイサンの方は時々しか教えていなかったそうだが、本部朝基によると、セイサンの型は沖縄の王族の間では高く評価されていたそうだ。
>また、本部朝基は白熊という型も創始したそうだが、本部朝正先生はこの型は学ばなかったそうである

(本部流空手〜日本拳法空手道) について
ttp://sports.2ch.net/budou/kako/1011/10115/1011570005.html
> 58 名前: 松 投稿日: 02/02/01 04:54 ID:wxxMjUzE
>白熊は平安に似ていた様に思います。
>BABかQurstのビデオで「本部流空手」の終わりのほうの、
>道場紹介のときに、演武していたものではないかとおもってます。

> 59 名前: 敢闘 投稿日: 02/02/01 10:41 ID:045jDE13
>上記の松氏の言う通り「本部流唐手」の最後で春風館紹介が紹介される時の高野清師範他3名が行っているものが「白熊」です。
117てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:18:36 ID:???
糸洲先生が中学校下に住んでおられる頃、私は一日先生をお訊ねして、
いろいろ武芸談や世間話をしていた。ちょうどそこへ学生が2,3人訊
ねてきて、席に加わって話しているうちに、糸洲先生は学生に向かって
型を所望された。

学生の演武した型は、以前に私がならった「チャンナン」という型によ
く似ているが多少違っているところがある。「何という型です?」と学
生に尋ねてみると「ピンアンの型です」とのことであった。

間もなく学生諸君は帰ったので、先生に向かって私は質問した。

「私はチャンナンという名で習い、型も今のとは違うようですが、
どういうわけですか?」

すると、糸洲先生は「その頃とは型は多少違っているが、今では
学生のやったあの通りの型に決定している。名称もみながピンアン
がよいというから、若い者達の意見通りにしたのだ」とのお話であ
った。この型は糸洲先生の創られたものだが、先生一代の間に右の
ような変化があった。
本部朝基「空手一夕譚」
↑の話は、仲宗根源和が本部にインタビューして「空手研究」に載せた
もので、チャンナンについての唯一の文献だ。もっと端折った話を仲宗
根はのちに摩文仁との共著「攻防拳法空手道入門」に載せているが、出
典はどうみても本部なので、チャンナンを知っているのは、本部だけに
なる。
118てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:21:21 ID:???
> ナイファンチの型で、松村先生と糸洲先生と異なっているところがある。
> ナイファンチの中で、足を膝のところまで内側に上げて
> 元の位置へ踏み下ろすところがある。
> あそこのところで両先生の流儀が異なっているのだ。
>
> 松村先生の流儀は、踏み下ろすときに、足を軽く、平らに足裏を地上に下ろすのだが、
> 糸洲先生の流儀は、足の下ろし方を、力を入れて重く、
> 足裏を平らに下ろさず斜めに下ろす気持ちで、強く踏み下ろす。
> これは右足の時も左足の時も同じことである。
>
> 手を胸の前面に突き出すところも両先生のやり方が異なっていた。
> 一つの拳を??に寄せてとり、他の拳を胸部前面に横に突き出す型が
> 右にも左にもある。あそこのところの拳の突き出し方が異なっていた。
>
> 松村先生の流儀は拳を斜め前に突き出すので、肘がほとんど伸びている。
> しかし糸洲先生の流儀は拳を平行するように突き出すので肘のところで角に
> 曲げている。これは左手のときも、右手のときも、共に同じである。
>
> 『空手研究』本部朝基談


しかし本部先生も突きについては糸洲式だよな、とここまでループw
119てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:24:37 ID:???
大正十二年の春だつたと思ふ。私は四貰島で柔道のヘ師土井といふ人に紹介
されたことがある。氏は當時大阪を中心に關西方面の學校、警察、各工場等に
關係されて可なりに其名も知られてゐたが、談偶々沖繩の唐手に及ぶと「そんな
重寳な武術がありますか、恁んな文化的武術を沖繩だけで占領するのは國家の損だ。
吾々が極力援助するから是非之れを全國に弘めて呉れ」と或る日の如きは氏に伴はれ
て遙々兵庫の御影師範と御影警察署迄出掛けて唐手の効果を實地に試演したことがある。

 土井氏は其後屡々余の蹶起を促して呉れた一人だが何しろ私としては
上阪まだ間もないことではあり、且つ沖繩の唐手が縣外に何の程度まで
理解されてゐるやら其邊の消息も判らないので遂にそれ限り沙汰止みになつた。

 富名腰君が東京で初めて唐手の指南宣傅を行り出したのも恰度その頃だつたと
思ふが、まだ世人の記憶に新たなる如く我が唐手術なるものは大正十年三月畏くも
東宮殿下の臺覧を辱うし、近くは又昨年の五月に、秩父宮殿下御渡英の途次にも臺覧
の光榮に浴したことのあるので、爾來唐手が一躍全國民の視線を惹くやうになつた。

 斯くの如く私は將に斷絶しやうとした琉球特有の唐手が再び光明の世界に
擡頭し來たのを衷心から祝bキると共に、從來前後幾度となく指導を懇望し
來られた諸君の熱誠に最早や凡ゆる辭退の理由がたゝなくなつて茲に愈々
組手編なる一書を上梓すべく余儀なくされた。乍去何をいふても淺學菲才の
而も微力なる私が之れに關する先輩武人の遺書なきのみならず、參考として
何一つ頼るべき記録がなく、各方面から各種の質問が殺到し、なほ其の詳細
なる説明を求める向も頗る多く、殆ど應接に遑ない有樣で、是等の懇請默し
難く、不取敢唐手術の中軸とも云ふべき組手を自分が過去に於て學び得た經驗、
古老の記憶、傅説を經緯として茲に編纂する事に致しました。

叙上、書き漏した事も少くないと思ひますから、近々發刊の基本編に
於て更に摯竰正を加へて、不備缺陷を補ひ貴意を得たいと思ひます。

「沖縄拳法唐手術 組手編」大正十五年五月 本部朝基 
120てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:27:45 ID:???
「青い海」1978 2月号 /誤花 清人 

 大粒の雨が一つ二つと落ち始めた頃、やっと板屏に囲まれた
名嘉真朝増さん(80歳)の家を見つけることが出来た。

名嘉真さんは範士九段。月・水・金曜日の夜七時から首里崎山の公民館で、
後進たちの指導をしている。直接、本部朝基の指導を受けた人だ。朝基が
大阪から帰り、那覇市西新町(現在の久米町)に道場を開いた、昭和十五年
頃である。その名嘉真さんに、名嘉真さんの接した本部朝基のことを伺った。

本部朝基は、第二次世界大戦の年、泊の妾宅で没した。
享年七十三歳。空手、空手の生涯だった。

朝基は明治四年、首里赤平の本部御殿の三男として生まれた。
古武術の先生でもあった通称うふちく(大筑・現在の警察署長)のおじいに

 ,.――――-、
 ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
  | |  (・)。(・)|  
  | |@_,.--、_,>   ”おじいさん、やりましょう”
  ヽヽ___ノ 

と、よく向かっていった。

朝基は、夜な夜な辻町などで強そうな者につっかかっていって試合をし、当時の
空手家たちからは大いにひんしゅくを買うことになったが、彼の変手(今の組手)
の術は、素晴らしいものだった。それ故か朝基は、手を盗まれる、と弟子をあまり
とらなかった。

朝基は三人の先生に師事している。初めに師事したのは糸州安恒先生。

だが、朝基の掛け試しへの苦情が集まりここは??になる。
121てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:28:17 ID:???
次に師事したのは、徳嶺(名は失念)先生。この徳嶺先生なる人、非常に酒が好きで
朝基はとっくりに酒を詰めて行って稽古をつけてもらった。が、徳嶺先生は酒乱の気
があって、後に辻町でちくさじ(筑佐事・現在の警官)を取っては投げ、ちぎっては
投げて2、30人足腰立たない程に痛めつけ、公務執行妨害で捕らえられ、八重山
に流刑にされてしまった。そして流刑の地で没する。

徳嶺先生は空手と棒の使い手で、喜屋武ミーグワーこと喜屋武朝徳先生が棒術の型を
習いに八重山を訪れた時にはすでに亡くなられた後だったが、徳嶺先生が宿泊した宿
のおじいさんが、その型を先生から教わっていて、喜屋武先生に教えた。

八重山には、徳嶺の棍、としてその型が今でも残っているという。

徳嶺先生が流刑になって後は、松茂良興作先生の道場に行った。

しかし、糸州安恒先生の時の経験があるので、朝基は名前を『瀬底』と偽り
入門をした。しかし朝基の”悪名”は高い。あれは瀬底といってるが、本当は
本部のサールーだ、と直ぐにばれてしまった。朝基は松茂良先生に呼ばれる。

「なぜお前は瀬底だといった。嘘をついたのか」

 ,.――――-、
 ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
  | |  (・)。(・)|  ”いや、あれは嘘ではありません。私は本部ともいい、瀬底とも いいます。
  | |@_,.--、_,>    私の母方は瀬底姓で、小さい頃は向こうでも育てられたからであります。”
  ヽヽ___ノ 

「そうか、嘘をついてはいけないよ」

「はい」

ということで、朝基は正式に入門を許された。
122てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:28:49 ID:???
朝基は非常にさっぱりした気性の人で、お金に執着心が丸っきりなかった。
持っているお金は全て使い果たした。晩年の頃であるが、名嘉真さんが朝基宅を
訪ねると、散歩に出ようか、と誘う。すると、大阪時代から一緒に暮らしていた
ユーベー(妾)が、これは車代、これは食事代、と必要なだけお金を渡した。
持たせたら持たせただけ使い切ってしまうからである。

当然お金は貯まらない。商売っ気のある人でもない。大阪へ一家揃って出る(大正
10??)ことになったのも、上之屋で始めた客馬商売に失敗したからである。

朝基は乞われて大学でも唐手を教えたが、本土の言葉を話せない朝基の傍らには、
いつも通訳役の学生が居て、訳しながら型の説明などをしていた。そういうところが、
学問の素養がなく字の読めなかったことと相まって、乱暴者、礼節をわきまえないと
いう朝基のイメージ作りに一役買ったのかも知れない。

が、実際の朝基は礼節には非常に厳しい人だった、という。
弟子に対しても正しい礼儀を要求した。

朝基が大阪に妻子を残して、沖縄に帰っていた昭和12〜3??のことである。
本土から須藤という柔道の教師(当時七〜八段。後に十段)が那覇高校の柔道
教師、山城興順氏を頼って来沖した。沖縄の空手を研究するためである。

あちこちの道場を回って、朝基のところへ来た。朝基に試合を申し込む。
空手は技が入ると致命傷を与えてしまうので、色々取り決めをして試合に臨んだ。

両者構えて、一分、二分。

「私には勝てない、教えてください」

須藤教師は構えを解いた。武をやる人は眼光を見ただけで、構えて対峙するだけで
分かるのであろう。その日から、須藤教師は連日朝基の所へ習いに来た。
短刀を持った者に切りつけられたらどうするか、大勢の暴漢に襲われたら―――。
実戦空手の祖ともいえる朝基に、実践的な空手を習ったのである。
123てってーてき名無しさん:2009/02/23(月) 01:29:20 ID:???
本部朝基の本は少ない。惜しむらくは、あの朝基の実戦空手ともいわれる、変手(組手)の
集大成を記した本がないことだ。是非出版して欲しかった。朝基もその計画はあったようで、
口述で書いてもらった原稿があった。再度大阪へ行く時、名嘉真さんにこの原稿を預けている。

 ,.――――-、
 ヽ / ̄ ̄ ̄`ヽ、
  | |  (・)。(・)|  
  | |@_,.--、_,>    ”僕が送れという時に、直ぐ送ってくれ”
  ヽヽ___ノ 

かなりの厚さであったという。名嘉真さんはそれを大学ノート四冊分くらいに写し
取っておいた。しばらくして、大阪の朝基から、「直ぐに送れ」との連絡が届き、早速
送ったのだが、一向に本は出ない。実は、朝基はあの原稿を売ってしまったのだ。
病気で入院してお金に窮してのことであった。

唯一残された朝基の原稿、名嘉真さんが写した大学ノートも、先の大戦の空襲で
焼けてしまった。朝基は誰に、あるいはどこの出版社に売ったのだろう。あの原稿
は現存するのであろうか。

内容は、空手の歴史から説き起こし、型、型の分解、変手など、まさしく
本部朝基の空手の集大成だった、という。

喧嘩空手だ、と顰蹙を買った朝基の空手であるが、朝基自身は空手に対して
常に真摯な態度で臨んだ。そして、それを今考えるに、朝基の生涯をかけて
生み出した空手、その集大成である本が、とうとう世に出ることがなかった
事は、非常に悔やまれる。

しかし、それは終生金に無頓着で、手を盗まれるからと弟子も余りとらなかった
朝基にはふさわしいかも知れない。人の手を盗むことはしないで、喧嘩空手だと
いわれても自分で生み出してみろ、と生きていたら言ったかも知れない。
124てってーてき名無しさん
残念ながら、本部朝基について書かれたものは少ない。あったにしても、殆んどが
空手に関した事柄である。朝基自身の手で書かれたものはない。彼は幼い頃から空手
修行に熱中したため、学問の素養がなかった。彼は文盲に近かった。「沖縄拳法唐手術
(組手編)」という小冊子があるが、これとて朝基が口述で書き取らせたものである。

朝基という人物を浮き彫りにするには、彼の身近に居た人から直接聞く必要があった。
が、彼を知る人は、彼が強かったことは話すが、彼の私生活、あるいは性格に関する
ことには口が重い。中にははっきりと「彼のことを話すとなると、悪口のようになって
しまうから」と、口をつぐむ人もいた。

その点、名嘉真氏の語る朝基は、本部の猿といわれた朝基像をかなり浮かびあがら
せてくれたように思う。(以上は、名嘉真さんから伺った朝基の話を基にしました)。

おわり。