●あの子供を撃て
■船生退助さん(関東軍第9独立守備歩兵17大隊)
私の部隊は、河北省の山岳地帯に毎日のように入って、谷間に残る家を焼き払い、山野に隠された、ナベカマ類まで破壊し尽し、無住地帯からの立ちのきに遅れた人々をてあたりしだいに射殺していました。
1941年、秋も深まったうすら寒い日でした。中隊がいた白馬関から10キロのところにある西白蓮峪でのことでした。付近は村落のあとかたもなく破壊しつくされているのに意外にも谷間に一軒家がありました。
私は部下をつれてその家に近づきました。中にはやせ細って重病らしい老人がボロを着てオンドルの上に寝ていました。
小さな男の子2人も日本鬼子(リーベンクイズ)が来たのを身ぶるいして見ていました。
私が「出て行け」といっても子供は出ていきません。私はすぐ部下に放火させました。部下はコーリャンの先に火をつけて屋根を燃やしました。
家の中にはみるみる煙が充満し、子供たちは出口から入ったり、出たりして、大声で泣きました。このままにしておいては八路軍にバレると思い、すぐ「あれを撃て」と命じました。
5才ぐらいの子が出口のしきいにまたがるようにして倒れ、次にその下の子を射殺しました。老人は子供たちの最後を見届けるかのように半身をのり出しましたが、焼け落ちる梁の火玉の中で焼け死にました。
■どうみてもこの戦争の犯罪性は消せない
1985年、私は意を決し謝罪のため一人で白馬関を訪れました。荒山は緑におおわれ、村人は温かく迎えてくれました。
しかし40年たっても日本軍によるキズあと…崩れた家のレンガ等…は手もつかず、残っているところもありました。
日本では戦争は終わったとかいってますが、どういう立場からみてもこの戦争の犯罪性は消せないと思いました。
http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/nankin2.htm