羽生結弦 Part44

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中日新聞インタ、もういいかな?
(誤字脱字あったらスマソ)


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中日新聞「家族のこと話そう」〜フィギュアスケーター羽生結弦さん

母の言葉で再びリンクへ

 東日本大震災から十日たったころ、母に「スケート靴を修理しよう」と言われたんです。
仙台市のリンクで練習中に被災しました。
スケート靴のまま逃げたから、靴が駄目になっていたんです。

 震災後もフィギュアを続けたい気持ちはあったけど、
家族には言えませんでした。
仙台市内の自宅は全壊し、避難所で四日間過ごしました。
フィギュアどころじゃなかったし、
何よりリンクの建物が壊れるのをこの目で見ていたので…。
やめなきゃいけないのかなって。

震災で意識変化

 母の言葉で、また練習を始めることになりました。
その時は初めて滑った時の喜びを思い出しました。
再開後は、練習できるリンクを求め、
母と二人で横浜市や青森県八戸市など各地を転々としていたので、
地元に残った父や姉と離れていることがとても不安でした。
震災を経験し、家族に支えられて、
みんなで滑っているんだっていう意識に変わりましたね。

フィギュアを始めたのは四歳年上の姉の影響です。
幼稚園の時、姉が通っていたフィギュアの体験教室について行って
「自分もやりたい」って。
いつも姉の後ろをついて回っていて、
姉のすることは何でもやりたかったんですよね。
姉を超えたいっていう気持ちが強かった。
小学校4年で2回転半ジャンプを跳べた時は
「やっと追い付いた」とうれしかったですね。
跳び方は姉が教えてくれました。

 父は、自分がずっと野球をやっていたこともあって、
男の子には野球をやらせたかったみたいです。
よくキャッチボールをしてくれました。
自分も野球が好きだったし、一年生くらいまでは、
どちらをやるか迷っていました。