○○日に迫った、バンクーバー五輪代表選考会を兼ねたフィギュアスケート全日本選
手権。その出場選手リストの中に、懐かしい名前を見つけた。いや、「懐かしい」と言
っても前回大会(2006年トリノ)のときには誰もが知っている名前だったのだが。
安藤美姫(22)=●●工業=。かつてアイドルスケーターとしての人気をほしいまま
にした、あの「ミキティ」である。8歳からスケートを始め、世界ジュニア優勝、全日
本連覇。テレビのバラエティ番組に出演したことから一躍国民的アイドルに登り詰めた。
だが、しだいに一人歩きする人気に17歳の心は惑い、揺れる。喧騒から逃げるように渡
ったアメリカでは開放感から自己管理に失敗、成績は下降線をたどった。直前の選考会
では6位ながら「実績」を買われて出場したトリノ大会ではミスを繰り返して、15位。
世間からは「勘違い」「言い訳ばかり」との厳しい声も飛んだ。
安藤自身が「一生忘れない」と振り返るのが、トリノ大会直後に出席した大手自動車
メーカーの入社式だ。特別な舞台が用意されているとばかり思っていた安藤は、何事も
なかったかのように新入社員の列に並ばされた。式が終わってすぐに手渡されたのは花
束でも記念品でもなく、新品の作業服。「この世界は結果がすべてだと思い知りました。
でも結果を出す人は例外なく努力をしているんですよね。自分がどれだけ甘かったのか、
そのときはじめてわかりました」
しばらくはライン工として働くも、まもなく扱いに困った会社は小さな部品工場への
出向を言い渡す。成人式すら迎えていない少女が経験する「左遷」。だがそこで人生の
転機が待っていた。「あなたミキティよね?」「そうよそうよ。やっぱり本物は可愛い
わねえ」事情を知らないパート社員たちの屈託のなさに、逆に救われた。冬、熱心に誘
う彼女たちに根負けして出かけた市営スケート場。約1年ぶりに立ったリンクで、思い
がけず体が震えた。「やっぱり私はスケートが好きなんだと、ハッキリと気付いたんで
す」はしゃぐ同僚たちから見えないように、フェンスに伏して、泣いた。
そこから文字通りゼロからの再出発が始まる。戸締まりからトイレ掃除まですべて引
き受けるという条件で深夜のリンクを借り、勤務後の猛練習。休日には小さな大会への
エントリーを続けた。嬉しい出会いもあった。偶然大会を見たかつてのコーチが、もう
一度指導したいと手をさしのべてきたのだ。かつては天才といわれたその才能が輝きを
取り戻すのに、そう時間はかからなかった。「状況を変えるために、まず自分を変えよ
うと思いました」気が付けば、彼女はこの3年間一度も言い訳を口にしていない。
国内外問わず「浅田時代」が続く女子フィギュア。前回の金メダル効果で選手層も厚
くなり、代表争いは大混戦の様相を呈してきた。安藤の行く道はけして平坦ではない。
ただ、トリノで呪文のように唱えていた「楽しみたい」、その願いだけは必ず叶える。
その先に、2度目のオリンピックもきっと見えてくるはずだ。「浅田選手には『よろし
くお願いします』と言いました。もう一度同じリンクに立てる幸運に感謝しています」
フリーは同僚たちの手作り衣装で女王に挑む。22歳の再挑戦を、静かに見守りたい。
(Number 2010年1月●●日号より)