フィリップ・キャンデロロ好きな人集まれ!

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336在仏です。
ざっと訳してみました。こんな感じでどうでしょうか。
訳に関しては全然負担じゃないので、気軽に言ってください。
ただ、自分の訳が本当にあってるかどうか、には責任持てませんけど・・・・
−いつどのようにフィギュアスケートをはじめましたか?
特に最初から興味があったわけではなく、7歳の時に92県コロンブ市でたまたま
機会を得て習い始めました。コーチが自分に目をつけてクラブに登録する事に
なりました。週1回、2回、5回、と回数が増えていき、毎日通う事になりました。
−他のスポーツ、例えば水泳もやっていたとか?
そうです、水泳もやってましたがスケートをはじめてからは止めました。スケートのために
トランポリンも少々やりました。イル=ド=フランス(パリ市&その郊外の地方)
の大会にも出た事があります。
ーはじめの頃、ホッケーへの誘いもあったということですが?
スピードがあるので、フィギュアスケートよりホッケー向きでは?ということで、
ホッケーチームからの誘いも確かにありました。だけど、自分はジャンプやスケート技術
が好きだったので、あまりホッケーには惹かれませんでした。
ー色々スポーツをやってみた中で、フィギュアスケートを選ぶのは難しい選択でしたか?
それはなかったけど、友達に話すのはいやでしたね。サッカーなんかに比べると
やはり男性的なスポーツではなかったので。
ー10歳の時に、INSEP(国立のスポーツ学校みたいな所のようです)からの勧誘があったそうですが
断ったとか?
スケートリンクから10分の所に両親と住んでいたので、通うのに時間がかかるINSEPには
行きたくありませんでした。信頼するコーチと離れるのもイヤでしたし、フィギュアスケートで
どこまでやれるかというのもまだわからなかったし。
ー16歳のときに、カルガリー五輪の閉会式に参加したそうですね。
4年後のアルベールビルの紹介をする演技のメンバーに選ばれたんです。3ヶ月厳しい練習を
こなしましたが、これはとても良い経験でした。しかしアルベールビルには出場できませんでした。
バイクの事故で連盟から選んでもらえなかったのです。当時既に自分は国内でトップのスケーター
と評価されていたのですが、この事故が良い印象ではなかったようです。
とても残念でした。多分アルベールビルでは8位には入賞できたはずです。1ヶ月後のWorldでは
同じメンバーでこの順位だったわけですから。当時アルベールビルに出場した仏人選手の成績は
15位と16位でした。いずれにせよ、カルガリーでの経験は、五輪に対する思いを強くしてくれました。
ーその後、ナターシャ・ダバディが振り付けに加わりました。92年の五輪には参加しませんでしたが
その2年後にはリレハンメルで22歳の誕生日に三位に入賞しました。良い誕生日プレゼントだったのでは?
そうですね、最初のメダルで、そして誰もそれを期待してませんでしたし。自分も含めて周りのみんなも
取れると思ってませんでしたよ。当時プロの参加も許されて、一体どんな結果がでるのか
誰も予想できなかったし。自分の出来る以上の演技ができて、このメダルでフランスでも世界でも
有名になったんです。4年後には長野五輪にも参加しました。
ー94ー95シーズンは、足首の故障に悩まされました。
98年に向けてと言う意味ではそう悪いことではなかったと思います。故障にもかかわらず
演技を続けたいと思っていました。しかし手術のあとはちょっと精神的に参ってました。
−97年の長野ではダルタニアンのプログラムで三位に入賞しました。
五輪前にはいろいろ問題がありました。怪我や、仏選手権の棄権とか。長野の前に欧州
選手権に出場しましたが、欧州選手権に参加できないなら、五輪に参加できない、と
訴え、それで出場したんです。
五輪の1ヶ月前にミラノの欧州選手権で5位に入り、長野で2個目のメダルをとり、
アマチュアスケーターとしてまさに最高のフィナーレでした。
ーこれはフランススケート連盟に対する復讐になりましたか?
連盟というのは良い部分も悪い部分もあります。連盟はメダルや勝利が欲しい。それが
スポンサーに繋がるから。この勝利は別に復讐ではありません。これは自分のためのものです。
自分の演技でファンを喜ばせる事ができて、それが1番の目的だったから。
337在仏です。:2006/02/20(月) 03:56:13 ID:UPVA6HPm0
ープログラムで色々な役を演じていますが、どうしてこんなに色々なものができるのでしょう?

まず、4分半で見る人がすぐに理解できるテーマを探しています。言葉は使えないので、なかなか
難しいです。また、自分は芸術的なタイプのスケーターとはみなされていなかったので、
世界的にわかりやすいものを選ばなくてはなりませんでした。
また、これらのテーマをユーモアを持って演じました。そうすると、高いレベルのスポーツであり、
なおかつ笑う事ができるのです。

ーあなたはスケートのPoulidorと言えるでしょうか?(Poulidorとは自転車の種類でしょうか?
チャンピオンではない、そうです)

はい、それは自分も良く考えます。プロ選手権以外で自分は金メダルを取った事はありません。
しかし誰もそれを残念だとは言いません。ただずっと2位か3位でした。
自分にとって大事だったのはメディアに知られる事と、ファンが演技に喜んでくれる事でした。
五輪チャンピオンじゃないけど、今は自分は94年と98年の五輪チャンピオンより沢山仕事をしています。

ーあなたはプロになるのが比較的遅かったようですが。

アマチュアの方がプロより儲かるからです。あとは、年齢。後ろからくる世代との
体力&精神面を考えてこの年齢でした。

ーブライアン・ジュベールについてどう思いますか?

技術的にはとても才能があります。あとは、精神面を鍛えて、怪我に気をつけること。
スケートを仕事として考えなくてはいけない。しかし彼はメダルをいくつも取る事が出来ると
思いますよ。

ーミラノのヨーロッパ選手権で、ショートプログラムを用意し、それが6.0を出しました。
(これホントですか?ロングプログラムの間違い?)

ダルタニアンのプログラムは自分より技術的に上だったスケーターにプレッシャーを与えることが
出来ました。この点で皆自分のことを話題にしましたが、ファンはダルタニアンに注目したのです。
ー現在の活動を教えてください。
現在は主にアメリカで活動しています。フランスでもやりたいけど、
なかなか収益につながらない。でも自分にとって大事なのは
フィリップ・キャンデロロの良いイメージを残す事です。
ー振りつけには時間がかかりますか?
そうでもありません。場合によります。テーマを選ぶ為に、ストーリーボードをつくり、
音楽、衣装、振り付けをします(2、3ヶ月)大変お金がかかります。例えば、ダルタニアンは
10000ユーロかかりましたが、その価値はあったと思います。
ーGrevinの美術館にあなたの人形が置いてありますが
(多分人形美術館のはなしだとおもうけど、違いますかね?)
とても良い経験でした。時間はかかったけど、誇りに思ってます。