ここの左翼、もう駄目だね。

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818サハリン
とりあえず、プリントアウトせんとわけ分らんので、紙に印刷して全体を一読致しました。で、

@.弱者論

>もし、弱者がないなら、ルサンチマンなき地上の楽園。

確かに、「ルサンチマンに満ちている者」が「弱者」であるという定義ならば、そりゃどこの世界にも「弱者」は存在するでしょう。
「弱者」の存在しない世界など無いでしょう。
例えば、一流大学を優秀な成績で卒業してどっかの院のドクターコースにいる人なんかは、「学歴」という点では最強レベルの「強者」なわけですが、当の本人はこの少子化時代に大学ではとても生き残れそうに無く、誰よりもルサンチマンに満ちている可能性があるわけです。
でもそういう「弱者」でも、例えばインターネットで「南京は無かったなんて言っているドキュン」をアカデミックな知識を武器に叩きのめして劣等感を解消するなんて芸当はできるわけで、まあそんな無駄をしてもアカデミズムでの敗者復活戦には全然ならないわけですが、少なくともそういう一般の素人との対決という局面では「強者」でいられるわけです。
先進国における「弱者」も、要するにそういう存在じゃ無いかと思うわけですね。
真の「弱者」は別にいるのではないかと。
先進国の「弱者」は、餓死せず資本主義的な消費生活を送れるわけですから、「弱者」では絶対にありえないと思いますよ。
「弱者」とは、何かあったとき餓死する発展途上国の貧民とかのことでしょう。
このへん突っ込んだ展開でも付き合います。

◎ この点は、狂五郎氏と閼伽氏の弱者という語義の差異を感ぜずにいられない。
いってみれば、狂五郎氏的弱者=マルクス的弱者・・・「経済、社会構造上の疎外されたる存在」に対し、閼伽氏的弱者=二ーチェ的弱者・・・「超越的存在に虐げられし奴隷的精神の囚人」という発想のズレがある以上、議論は噛み合わないだろう。
弱者が集団化し、利益追及集団となる例は確かにみうけられる。たとえば、米国において、老人が多い自治体は教育予算の削減を主張するミニロビイストたり得るし、逆に若年層が多ければ、老人福祉予算の削減を求めるだろう。ここでは、個人をとってすれば、1弱者だが、集団としては強固な圧力集団となり得ることを示す。さらにいえば、地方自治の危険性も暗示している。
上記の様に、個人としての諸権利の保障された富裕な先進民主主義国においては「真の弱者」はいないという論理的帰結となるのだろう。
が、しかし、「弱者」というのは、個人的存在である、というのが私の見解である。
小林秀雄的といってしまえばそれまでだが、弱者とは社会の趨勢とは関係無く存在すると考える点で、閼伽氏の発想法を支持する。