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名無しさん@お腹いっぱい。:
佐高信の憎めぬ幼児性 『エコノミスト』一九九四年十月二十五日号
私にはとうてい真似できない論法がある。自分を誉めた文章の引用、外見への罵倒、出演を拒んだ自慢話などだ。前号の本誌「筆刀直評」で佐高信氏から、「日垣ももう少しプロの文章を書いてほしい」とご親切な指摘を受けたが、長谷川慶太郎の顔を「ジンマシンでも出るようなおぞましさ」と書いたり、大宅映子は「図体がでかいだけ」で「大女身体のどこにもチエがない」と罵倒するのが、プロの文章というものなのだろうか。確かに佐高氏の文章には、善玉と悪玉を単純にぶった切る痛快さがある。観客を楽しませる技量が彼をプロたらしめたのだろうと私は思う。辛口スナックとしての存在価値は充分にある。しかし彼の発する矢の毒が批判対象に届いているのかは大いに疑問だ。スナックはスナックであって毒ではない。サラリーマンを「社畜」と罵っても、口元に笑みを浮かべてサラリーマンが聞き流してくれるから、総会屋出身の評論家も調子に乗っていられる。ある種の人気投票で司馬遼太郎らより佐高信が上位にランクされたことを「能天気に喜んでなどいない」と彼は弁明に努めているのだが、かつて別のアンケートで司馬らに次いで長谷川などより上位だったことを『世界』九三年八月号で「嬉しかった」と無邪気にはしゃいでおられたので、今回もさぞご満悦だろうと思い、「われらが佐高信もちゃっかり四九位に入っている」と微量の毒を込めた。ほほえましい幼児性を備えた彼はきっとこの毒を食らうだろうとの予感が私にはあった。ごめんね。