【尚武の】◇◇◇三島由紀夫◆◆◆【こころ】

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42右や左の名無し様
民族主義とは、本来、一民族一国家、一個の文化伝統・言語伝統による政治的統一の熱情に他ならない。
(中略)
では、日本にとつての民族主義とは何であらうか?
…言語と文化伝統を共有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげてをり、われわれの文化の連続性は、
民族と国との非分離にかかつてゐる。
そして皮肉なことには、敗戦によつて現有領土に押し込められた日本は、国内に於ける異民族問題を
ほとんど持たなくなり、アメリカのやうに一部民族と国家の相反関係や、民族主義に対して国家が受け身に
立たざるをえぬ状況といふものを持たないのである。
従つて異民族問題をことさら政治的に追及するやうな戦術は、作られた緊張の匂ひがするのみならず、
国を現実の政治権力の権力機構と同一し、ひたすら現政府を「国民を外国へ売り渡す」買辧政権と規定することに
熱意を傾け、民族主義をこの方向へ利用しようと力めるのである。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
43右や左の名無し様:2009/11/11(水) 14:49:48 ID:Q/HePoC9
しかし前にも言つたやうに、日本には、現在、シリアスな異民族問題はなく、又、一民族一文化伝統による
政治的統一への悲願もありえない。それは日本の歴史において、すでに成しとげられてゐるものだからである。
もしそれがあるとすれば、現在の日本を一民族一文化伝統の政治的統一を成就せぬところの、民族と国との
分離状況としてとらへてゐるのであり、民族主義の強調自体が、この分離状況の強調であり、終局的には、
国を否定して民族を肯定しようとする戦術的意図に他ならない。
すなはち、それは非分離を分離へ導かうとするための「手段としての民族主義」なのである。
…前述したやうに、第三次の民族主義は、ヴィエトナム戦争によつて、論理的な継目をぼかされながら育成され、
最後に分離の様相を明らかにしたが、ポスト・ヴィエトナムの時代は、この分離を、沖縄問題と朝鮮人問題に
よつて、さらに明確にするであらう。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
44右や左の名無し様:2009/11/11(水) 15:21:49 ID:Q/HePoC9
社会的な事件といふものは、古代の童話のやうに、次に来るべき時代を寓意的に象徴することがままあるが、
金嬉老事件は、ジョンソン声明に先立つて、或る時代を予言するやうなすこぶる寓意的な起り方をした。
それは三つの主題を持つてゐる。すなはち、「人質にされた日本人」といふ主題と、「抑圧されて激発する
異民族」といふ主題と「日本人を平和的にしか救出しえない国家権力」といふ主題と、この三つである。
第一の問題は、沖縄や新島の島民を、第二の問題は朝鮮人問題そのものを、第三の問題は、現下の国家権力の
平和憲法と世論による足カセ手カセを、露骨に表象してゐた。
そしてここでは、正に、政治的イデオロギーの望むがままに変容させられる日本民族の相反するイメージ――
外国の武力によつて人質にされ抑圧された平和的な日本民族といふイメージと、異民族の歴史の罪障感によつて
権力行使を制約される日本民族といふイメージ――が二つながら典型的に表現されたのである。
前者の被害者イメージは、朝鮮民族と同一化され、後者の加害者イメージは、ヴィエトナム戦争を遂行する
アメリカのイメージにだぶらされた。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
45右や左の名無し様:2009/11/12(木) 10:34:49 ID:yUKvc0Dd
しかし戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。
これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、明らかに政治的意図があつて、先進工業国における
革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
…手段としての民族主義はこれを自由に使ひ分けながら、沖縄問題や新島問題では、「人質にされた日本人」の
イメージを以て訴へかけ、一方、起りうべき朝鮮半島の危機に際しては、民族主義の国際的連帯感といふ
論理矛盾を、再び心情的に前面に押し出すであらう。
被害者日本と加害者日本のイメージを使ひ分けて、民族主義を領略しようと企てるであらう。
しかしながら、第三次の民族主義における分離の様相はますます顕在化し、同時に、ポスト・ヴィエトナムの情勢は、
保守的民族主義の勃興を促し、これによつて民族主義の左右からの奪ひ合ひは、ますます先鋭化するであらう。

三島由紀夫
「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より