3 :
1:2006/04/30(日) 07:14:04 ID:zk3tvyxl
今後、世界においてはますます情報、国民、思想の流動化が進み、国民国家の存在を脅かすことになるだろう。
しかしながら、国家・民族という概念が破壊されるほどには、この流動性は進みはしないのである。
その結果として何が起こるか? それは国家・民族の世界規模での淘汰である。
こういった未来に直面し、今我々が創設し、支持し、発展させねばならないものこそ、理性的民族主義なのである。
これは歴史、特に第三帝国・現代中国の社会体制、むしろよりその社会構造に学んだ、
新しい、理性的且つ実際的な民族主義である。
第三帝国を、マッカーシズムが席巻した頃の米国を、現代中国を見よ!
彼らは国民の情熱を煽り、自ら教育的体験を実体験するように仕向けた。
同時に社会道徳においては罪刑の本質である厳罰主義を採用し、バカどもに
犯罪者の末路を見せつけることによって、体に直接覚え込ませたのである。
その結果、国民意識の高い、一致団結した、経済的にも軍事的にも
強大な国家を作り上げ得たのだ。 歴史に学べ!
さて、国家社会を構成するところの人民とは、結局の所、何であろうか?
人民とは愚衆の意である。
それもどこまで言ってもバカな、どうしようもなくバカなある一群の意である。
彼らをより良く教育するためには、教科書の内容を云々しても始まらないのだ。
愚衆を教育するには体験しかないのである。これこそが国民教育の真理である。
この体験教育の徹底した実施のみが、日本を流動的国際社会のただ中にあっても
存続せしめ、発展させる唯一の方法なのである。
4 :
1:2006/04/30(日) 07:15:52 ID:zk3tvyxl
流動的国際社会において国家を維持するためには、国民一人一人の国家・民族といった
超「個」的なものへの厳粛性が不可欠である。そして厳粛性とは反復行為によってのみ養われる。
この反復行為に最も必要なものこそ情熱であり、情熱に最も近いのは体験である。
この体験を仮に教育的体験と呼ぶならば、この教育的体験を国家が徹底して実体験せしめるよう仕向けなければならない。
詰まるところ、人間の最も激しい情熱は個を越えたものに触れることで、覚醒するのである。
これこそが人間の本質であり、人間はその在り方からして、既に超「個」的なものへの従属性を持っているのだ。
この情熱とそれによる反復行為さえ維持できれば、そこから先は国家が体験教育を促すことによって、
容易に国民教育は成功するのである。このことは完全に歴史が証明しており、
最もシステマティックにこれを実践したのは第三帝国だろう。
第三帝国の短期間での復興と、経済・軍事的充実は凄まじい、素晴らしい。
またそういった国家が必ずしも領土拡張政策を取る必要がないのも、現代中国を見れば明らかである。
5 :
1:2006/04/30(日) 08:06:28 ID:0cmwnfsL
また民衆はバカであるが、同時に国家の土台である。
彼らを一致団結させ、その持てる力を引き出せば、それは強大な国家を作るに足る土台となる。
理性的民族主義では、まず第一に土台を拡張するために、厳罰主義を採用する。
法とは最も国家に近いものであり、体験教育の先鋒とならねばならないからである。
同時に法そのものの厳粛性もまた維持されなければならず、
その為にも体験教育のための厳罰主義の採用は重要である。
厳罰主義が整えば、それが支えるこのように教育的体験の全面的且つ徹底した実施も推進され、
拡張された土台は徐々により堅固なものとなっていくのである。
そしてその土台の上に建築される民族・国家もまた、
理性的民族主義によって建造されなければならない。
なぜならいくら土台がしっかりしていても、建築物の構造、素材を誤れば、
強風や地震によってあっという間に壊されてしまうからである。
その社会構造とは、創設期、過渡期においては一党独裁の姿を取ることになるだろう。
6 :
1:2006/04/30(日) 08:08:22 ID:0cmwnfsL
新時代に当たり、我々は常に流動し、変容する情報、国民、思想を統制しなければならない。
理性的民族主義者がその時代の奔流を凌ぐための国家社会を作り上げるとき、
一党独裁以外の政治体制は考えられないのである。
そして創設期、過渡期だけでなく永劫その他の個々人による、私的な表面的意思表示が
超個的なものを左右する事があってはならず、その為にも体験教育は徹底されなければならない。
これは一つの重要な闘争である。
特に現時点では我々は、思想を推進発展させるより、むしろ理性的民族主義による社会建設を妨げるもの、
相容れぬもの、中でも復古的国粋主義を排除しなければならない。
なぜなら人間は本質からが超個的なものに対する厳粛性を持っているのであり、
その人間本来の性質を否定するものを、まず排除する必要があるからである。
全てはそこから始まるのである。
最終的には、理性的民族主義者たる我々はただ超個的なものへと個々人を還元し、
また個々人の裡に超個的なものを体現させるのである。これは人類の全ての方面の進歩の結果として、
ファシズム以上に論理的な体験教育の実践を、将来的に可能にするだろう。
それは我々の国民と民族の輝かしい永続的発展と維持を示すと同時に、理性的民族主義以外には、
現在直面しつつある流動的国際社会に対応できないという事実もまた、示しているのである。
7 :
1:2006/04/30(日) 08:21:40 ID:0cmwnfsL
↑以上前スレからのコピペ。
補足として、概略ではあるが目指すべき政治体制と、それに至る段階を述べる。
理性的民族主義による政治は常に徹底した体験教育を経た民族的エリート分子によって行われなければならない。
そのとき重要なのは、個人的、私的な表層的意思が政治決定のプロセスに介在しないように注意することである。
全ての権限は分子(この場合党内の政治的小グループを指す)単位で与えられ、個人というものは政治の上においては全く存在しない。
これは経済の分野においても同様であり、経済界、主に基幹産業界の総意によって選出された顧問を迎え、
その地位を議員と同等かそれに準じるものとする。
また基幹産業についてはあらかじめ政府がそれを接収し運営できる体制を整えなければならない。
さて、実際の運動であるが、この運動は草創期にあっては少数の有志により進められるだろう。
その際必要なのは少数のカリスマであり、合議ではない。
この時点での目標は一党独裁体制の確立である。理性的民族主義を実践するためには、
一時的に全面的に国権を把握することが必要不可欠であるからである。
過渡期には一党独裁体制を徹底して維持し、体験教育を全国民に与えなければならない。
安定期に至っては民主的合議制を採用し、多様性の持つ可能性を運動に取り入れるべきである。
現在想定される事態である、この全地球的流動性の危機が収まった後には、
理性的民主主義はあるいは無用の長物となるかもしれない。
しかし理性的民主主義が打ち立てた社会構造は永劫維持されるべきであり、また実際上そのようになるだろう。
8 :
1:2006/04/30(日) 08:27:03 ID:0cmwnfsL
>>7 ×理性的民主主義
○理性的民族主義
失礼。
補足その2 理性的民族主義が幾つかの問題に対し取るべき態度について
国歌、国旗について:
超個的なものへの厳粛性を再確認するためのツールとして、大いに活用されなければならない。
よって国歌・国旗の義務教育期間での重用は必要なことである。
また日常的な確認行為の際、これらはある程度強要させる必要がある。
天皇制について:
同様の理由で重要である。そもそも超個的なものとはそのものを対象化することができず、
象徴によって反復的に厳粛性を確認することで認知されるものである。
よって理性的民族主義の立場から見れば、天皇制は正統な象徴を持たない他民族に比べて、
日本国が既に持っているアドバンテージの一つだと言うことが出来るだろう。
天皇とは歴史的に直接支配を行った時期が短く、支配者を経ていない象徴物である。
これは理性的民族主義にとって、我が国が持つ最大の財産だと言えるだろう。
当然、一党独裁下であっても変わらず尊重されるべき制度である。
憲法改正:
創設期にあっては必要ないが、時代の流れとともに理性的民族主義がその必要性を明らかにしていくだろう。
また超個的なものは流動的な国際社会から国家・民族・人民を守りながら、
それ自体が流動的なものである故に、最初の改正以後、憲法は頻繁に改正される必要があるだろう。
9 :
1:2006/04/30(日) 08:32:25 ID:0cmwnfsL
打倒、復古的国粋主義者
打倒、唯物論者
打倒、自由主義者
打倒、分裂主義者
打倒、死刑廃止論者
打倒、国内の他国民族主義者
理性的民主主義を支持する全ての者は、これら日本国を滅亡させる者達を排除しなければならない。
理性的民主主義を創立し、支持し、発展させることのみが、日本に残された唯一の道である。
それでは以後、自由な議論・批判をお願いしたい。
10 :
右や左の名無し様:2006/04/30(日) 09:42:15 ID:pmRpHdCM
米軍再編から注意をそらすためアメリカ政府は阪神つぶしを行う
11 :
1:2006/04/30(日) 23:37:12 ID:zk3tvyxl
ここの住人は実際的、建設的議論には興味はないのかな?
右翼だの左翼だのと連呼する以外能がない連中ばかりでもないだろうに。
12 :
1:2006/04/30(日) 23:55:35 ID:zk3tvyxl
この板はレッテルを貼りあって馴れ合う板なのか?
日本の国体について思うところのある人はいないのかな。
13 :
神戸:2006/05/01(月) 17:33:05 ID:5PfwdP6F
なつかしいな wu
14 :
1=wu:2006/05/01(月) 17:42:45 ID:aZeC5iis
>>13 お久しぶり。
2年も経つのに覚えていてくれて嬉しいよ。
15 :
神戸人:2006/05/01(月) 17:51:43 ID:5PfwdP6F
GWだから久々に訪れました。
>>11>>12のような発言はだめだよ〜。紳士的
な対応は大切にね。
16 :
1=wu:2006/05/01(月) 18:12:48 ID:aZeC5iis
久々に訪れたのは私も同じ。
だが以前と同様このスレにはあまり人気がないようだ。
今は民族主義よりプラグマティズムがもてはやされる時代なのかもしれない。
17 :
神戸人 ◆S3//NYH/w6 :2006/05/01(月) 18:19:46 ID:5PfwdP6F
テンプレの文章がとっつきにくくて、みんな「うわ〜…。変なのでた〜。」
って感じじゃないかな?意見を聞きだすときはもっと柔らかな言葉で語
ったほうがいいよん。簡単な言葉遣いで立て直したら多少改善すると思
うけど、スレの性質上荒らしが横行するだろうね。
18 :
右や左の名無し様:2006/05/01(月) 18:28:37 ID:UXXk6zZw
>>17 うん。スレタイは右翼に偽装した左翼かと思って引いた。
でも面白いな。この思想。国粋主義との明確な相違点を教えて欲しい。
テンプレ長杉て痛い日記スレかと思たお⊂ニニニニ( ^ω^)ニニニ⊃
20 :
神戸人 ◆S3//NYH/w6 :2006/05/01(月) 19:00:57 ID:5PfwdP6F
>>19 このスレは結構長文が応酬するから、覚悟はしといたほうがいいよ。
少人数でマッタリいきましょう。GWは長いしね。
>>18 僕が答えると齟齬があってはいけないから、wuに任せるヨン。
↓
興味があるので自分も議論に参加していいですか?
22 :
右や左の名無し様:2006/05/01(月) 20:54:27 ID:UXXk6zZw
なかなか面白い思想ですよね。
民族主義を根底思想ではなく、手段として論じた人を私は初めて見ました。
>>1さん、お願いします。
23 :
1=wu:2006/05/02(火) 00:06:51 ID:QTlXnRgi
>>17 他の文体で表現するのは私には少し難しい。
また、荒らしを招くというか、人を誤解させるような発想であるのは確かだと思う。
しかし少なくとも簡単に一読してもらえれば理解してもらえる程度の思想でもあると考えている。
>>18 現行最も国粋主義のイメージを強く持っているのは、特に復古的な傾向のものではないだろうか。
この点において、理性的民族主義はあらゆる種類の復古主義とは一線を画している。
理性的民族主義には、復古主義が持つ感傷的な浪漫は欠片も存在しない。
あくまでも実際上の必要から生まれたものであり、そういった意味で非常に便宜的なものでもある。
またこの場合実際には社会構造こそが問題なのであって、
この点理性的民族主義はナショナリズムと呼ばれる他の運動と同じである。
つまり基本的には対外的というよりはむしろ内向きに作用する力を重視する。
具体的には象徴を用いた体験教育の徹底こそを求心力として国民国家を再構築するのである。
>>21 ご自由に。
参加してくれるとうれしいです。
>>22 現実には私たちは形而上学的な対象より、実際の危機のほうを問題とするべきである。
そうすると必要になってくるのは幻想の主張ではなく、実際の臨機応変な対応であり、
公平且つ素直な立場から人類の歴史を見直すという作業である。
その結果として、理性的民族主義はまさに日本民族のための理性的な措置として、
社会構造を指定する必要を理解したに過ぎない。
test
25 :
1=wu:2006/05/02(火) 00:42:44 ID:QTlXnRgi
超個的なものに対する厳粛性は、それが対象化できない純粋な抽象であるがゆえに、
多くの擬似的な対象としての客体を与えられてきた。言い換えるなら、それは象徴物である。
誤解を恐れずに書くならば、天皇もその一つであるといえる。
この点、明治維新において討幕派らが天皇の失われた絶対的神性を
回復させたことは至極実際上の意味を持っている。
日本国民に日本という国を面的にイメージさせ、国家神道というツールを通して
理念上であれ全国民を一つの組織に組み込んだのである。
これにより彼らは日本国全体を覆う内向きの厳粛性を人々に意識させたのである。
また、これは近代国家を作り上げるのに必要なことでもあった。
近代国家は国民一人一人に、全体から演繹される個という個人の近代的自我を求めたからである。
理性的民族主義が行う日本国の社会構造の再構築は、
理念的には明治維新における王政復古の大号令に近い性質を持っている。
どちらも便宜上必要な社会構造の構築のための運動なのである。
つまり理性的民族主義者は討幕派がそうであったように、
革命派というよりはむしろ時代の寵児というべきなのである。
先ず、文化の共有がなんで国家・民族の淘汰に飛躍するのか?話はそれからだ。
27 :
1=wu:2006/05/02(火) 01:20:57 ID:QTlXnRgi
>>26 流動化の結果を文化の共有と呼ぶことが正しいのかどうか、その答えは未だ出ていないように思える。
しかし過去スレにも書いたことだが、端的に答えるなら流動性の結果としての「境界性の否定」が問題なのである。
以下過去スレの私のレスを一部引用する。
自然化学的な進歩、つまりより早く・より便利に・より正確にといった進歩は、
いつの間にか方向を微妙に違えてしまった。
今それが実現しようとしているのは境界性の否定である。それは同時に局限無き変容可能性をも意味する。
個人や、彼が持つ思想、そしてその為の情報といったものがますますあやふやになり、
その価値すらも同様に曖昧模糊とした境地へと追いやられる。
国民は最早考えなくなり、共感するのみになるだろう。この傾向は現在既にアジアで顕著である。
そしてこの流動性は最も恐ろしいことには原理的個人主義を強力に推進する。
境界性の否定とは、一面的には国家的民族的アイデンティティーを意識させる機会を排除することにもなるからだ。
引用終わり。
ボーダーを接する他者の存在しないとき、私たちは自己の独立を維持できない。
文化的、思想的、物質的な諸々の要素が全てある他者にも存在するとき、
私たちに残されるのはただ経済的な独立だけになるだろう。
そして世界観を失った民族は最早民族としての体をなさず、
硬直した社会構造とともに年老いた国として日本は寿命を迎えるのである。
もちろんこれは日本だけに起こる現象ではない。
また現在最もこの傾向が強いのは台湾であり、かの国では
経済的自立のみに関心が払われているのが現状である。
28 :
右や左の名無し様:2006/05/02(火) 02:04:58 ID:i2JgRugd
>>27氏
相互理解の前に、自他の境界が不分明になっている。
そして境界性の喪失の果てにできた文化や思想は、既成のものの折衷などではなく、現在存在するある特定の文化・思想である。
この淘汰や同化に似た現象を警戒している。
と言うことでいいのかな?
29 :
1=wu:2006/05/02(火) 02:21:23 ID:QTlXnRgi
>>28 概ね理解してくれていると思う。
ただ、二行目については実は断言できる段階ではないと感じている。
そのため言葉を濁したようになってはいるが、原則的には流動性の結果としての状況には
既に超個的なものへの厳粛性は存在しえないと考えている。
なぜならそこには体験教育も、そのための象徴も存在しないからである。
そこにあるのはただ平均化された消費財だけであり、
それを文化と呼ぶことが果たして正当であるかどうかも私には疑問である。
30 :
右や左の名無し様:2006/05/02(火) 02:22:25 ID:KDalGhZD
31 :
右や左の名無し様:2006/05/02(火) 02:33:50 ID:i2JgRugd
>>29 なるほど。つまり「文化」は象徴や概念を演繹的に実体化したものということだね?
人々が、流動する実体から帰納的に象徴(恐らくはカオス)を導く状況なら、流動化した社会でも「文化」の淘汰や駆逐は在り得るのではないだろうか?
32 :
右や左の名無し様:2006/05/02(火) 02:40:35 ID:i2JgRugd
つまり、流動化した社会の「文化」はカオスと呼ぶことで、文化たり得るのではないだろうか?
そして、流動化の果てに出来上がったカオスは、カオスと呼ぶことができながら、ある一定の法則や性格―既存の文化に近いもの―を帯びていることを私は恐れる。
33 :
1=wu:2006/05/02(火) 02:54:35 ID:QTlXnRgi
>>31 民族主義的な思考をする場合、それは正当な理解だと信じる。
一民族が固有の文化を持つとき、それは超個的なものとは無関係には存在しえない。
具体的にはその民族の持つ伝統的な民族的世界観から演繹されるものが先に存在し、
それが時とともに選別され成熟したものが文化であると言える。
だが、
「流動する実体から帰納的に象徴(恐らくはカオス)を導く」
ことは逆説的に過ぎる。
そもそも超個的なものへの接近は反復によってしか成し遂げられない。
よって象徴とはあくまでも二次的なものであり、
卑近な対象から帰納的に象徴が推測され過度に神格化されることにはメリットはない。
なぜなら像を象って像を作る必要はないからである。
この点については理性的民族主義にとり、象徴はあくまでも言語に過ぎず、
ツールだということを忘れてはならない。
それは文化の根源でも、帰着点でもないのだから。
34 :
1=wu:2006/05/02(火) 03:01:09 ID:QTlXnRgi
補足。
象徴を神格化することはメリットではないばかりか、危険でさえある。
これは国粋主義の陥る落とし穴でもある。象徴は本質とは実際上関わりのないものであり、
単に民族的情熱をかきためるための記号に過ぎないのである。
>>32 それについては今の段階で語れることではないように思える。
もちろん他国に対する文化的な戦略を考える上では重要な思考ではあるが、
理性的民族主義においては重視するところのない部分である。
>>27 そもそも淘汰って日本がアメリカの51番目の州になるとかか?
36 :
1=wu:2006/05/02(火) 07:49:19 ID:QTlXnRgi
>>35 もっと深刻な事態だ。そのとき起こるのは民族としての主体性の喪失であり、
なんら外的な強制力が無いにも関わらず実質的に民族の自決が成り立たない状況が招来されるのである。
もちろんそういった社会においても、表面的には何らかの政治的意思表示が行われているように見えるだろう。
しかしそれは既に民族的世界観の欠如した意思表示であり、非常に私的なものであるに留まる。
実際極論ではあるが、超個的なものへの厳粛性が維持されている場合、一人の独裁者の決断でさえ民族的総意である。
しかし個人主義にしか確かな価値が見出せない社会での合議の結果は、常に私的なものでしかない。
そういったレベルでは政府機構は最早抑圧のための機関でしかなくなるだろう。
外面的には何ら変わっていないように見えながら、本質的な劣化が始まるのである。
最終的には民族としての境界線を無くし、言語、文化、そして遺伝的な意味でさえ、
敗残の、落伍民族の集合の中に埋没していくことになる。
それはまるで人類の肥溜めであり、そこからは新たな民族が生まれることはあっても
肥やしそのものは二度と生き返ることはない。これこそ民族的な死であり、淘汰の結果である。
37 :
右や左の名無し様:2006/05/02(火) 10:03:14 ID:i2JgRugd
ある民族の価値観に裏付けされた決断ではなく、民族の価値観からは脚が浮いた、ある個人が決断を下すことになる。
そしてその決断はある個人が生んだものであり、民族の特徴と決断の内容の間に必然性は存在しない。
これはもはや民族自決ではない。
と言うことかな?
38 :
阪京 ◆/Z7uecnQUY :2006/05/02(火) 12:24:37 ID:/EPTfIz5
「ふ」は馬鹿だから早く死ね
あ、はげちょーんちょーんばかはげちょーんハゲがハゲしてなんとやら。ハゲがらがって
ハゲ。ハゲがらがってハゲ。ハゲがばかハゲばかちょけハゲ。はげちょーんハゲ。
はげちょーんハゲ。はげちょーんはげちょーんはげちょーんハゲ。ハゲなのだー、ばか
なのだー、あほなのだー。ハゲ
あ、はげちょーんちょーんばかはげちょーんハゲがハゲしてなんとやら。ハゲがらがって
ハゲ。ハゲがらがってハゲ。ハゲがばかハゲばかちょけハゲ。はげちょーんハゲ。
はげちょーんハゲ。はげちょーんはげちょーんはげちょーんハゲ。ハゲなのだー、ばか
なのだー、あほなのだー。ハゲ
あ、はげちょーんちょーんばかはげちょーんハゲがハゲしてなんとやら。ハゲがらがって
ハゲ。ハゲがらがってハゲ。ハゲがばかハゲばかちょけハゲ。はげちょーんハゲ。
はげちょーんハゲ。はげちょーんはげちょーんはげちょーんハゲ。ハゲなのだー、ばか
なのだー、あほなのだー。ハゲ
あ、はげちょーんちょーんばかはげちょーんハゲがハゲしてなんとやら。ハゲがらがって
ハゲ。ハゲがらがってハゲ。ハゲがばかハゲばかちょけハゲ。はげちょーんハゲ。
はげちょーんハゲ。はげちょーんはげちょーんはげちょーんハゲ。ハゲなのだー、ばか
なのだー、あほなのだー。ハゲ
39 :
1=wu:2006/05/03(水) 00:21:33 ID:qJKM9fxk
>>37 価値観というよりは世界観である。一般的唯物論と上っ面の文化の残滓が広まる中、
人々は確固たる位置を持たぬまま経済的利益と感傷的な共感だけを動機として生きている。
こういった状態では一般的に言って民族的パフォーマンスを最も良く発揮させるところの
その民族独特の社会道徳は死に絶えるだろうし、民族的世界観は危機に瀕することになるだろう。
40 :
右や左の名無し様:2006/05/03(水) 12:59:27 ID:SVzue6Gk
この思想を実際の政治に取り入れるとして、どんな政策を出せばいいの?
41 :
神戸人 ◆S3//NYH/w6 :2006/05/03(水) 23:08:29 ID:/5bcFiEF
政治、経済の状況が異なるにも関わらず、文化的に相似傾向が生じるなら、結局
もとの鞘にもどるんジャマイカ?
42 :
27<35:2006/05/04(木) 00:11:52 ID:XvBcUt/M
43 :
右や左の名無し様:2006/05/04(木) 07:22:03 ID:4xFWNxNl
44 :
阪京 ◆/Z7uecnQUY :2006/05/04(木) 07:29:00 ID:SQgGClo+
∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
/ ^ω^ \っどぉぉぉぉハゲマラだす/ ^ω^ \っどぉぉぉぉハゲマラだす/ ^ω^ \っどぉぉぉぉハゲマラだす/ ^ω^ \っどぉぉぉぉハゲマラだす
( ) ( ) . ( ) ( )
\ / \ / \ / \ /
(__)_) (__)_) (__)_) (__)_)
∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
/ ^ω^ \っどぉぉぉぉハゲマラだす/ ^ω^ \っどぉぉぉぉハゲマラだす/ ^ω^ \っどぉぉぉぉハゲマラだす/ ^ω^ \っどぉぉぉぉハゲマラだす
( ) ( ) ( ) ( )
\ / \ / \ / \ /
(__)_) (__)_) (__)_) (__)_)
45 :
1=wu:2006/05/08(月) 18:46:57 ID:Tv0WvOMo
遅レスですまない。
まだ見てくれているか不安だが、以下レス。
>>40 すまないが、その質問では幅がありすぎて答えにくい。
具体例を示してくれれば答えられると思う。
(ただ、経済など私の苦手な分野については答えられないかもしれない)
まだまだ青写真の段階なので、具体的な政策立案の殆どは人材が充実してからになるだろう。
ただ、基本方針は既に明らかなので、幾つかの重要な問題には解決法を示せると考えている。
>>41 実際には文化だけでなく、思想や血脈の上での混交も進むはずである。
これから始まる時代はあらゆる意味で現存する民族が試される日々であり、
文化的な相似傾向はこの決定的な時代のほんの始まりにすぎないのだから。
46 :
40:2006/05/08(月) 23:58:53 ID:lxVTXhrG
>>45 毎日見に来てますとも。
抽象的な質問で失礼した。
例えば、政策と言うのは教育に愛国教育的な要素を入れるとか。
フランスのように政府の介入を以てして文化保護に努めるとか、対外的に文化をアピールするとか。
理性的民族主義に則った政策とはこんな感じでよろしいのだろうか?
47 :
1=wu:2006/05/09(火) 03:51:35 ID:hFgs55yv
>>46 教育問題については、当然国民の初期の体験教育の場である義務教育が最も重視される。
そこでは国旗国歌を始めとする象徴を用いた体験教育を徹底させなければならない。
無論教科書の内容や教育要領については再考されるべきであるが、
それ以上に反復教育の重要性を教育の現場に認識させなければならない。
これは思想教育だけでなく、教育全般について言えることでもある。
そういう意味で、特に小学校については拘束時間を増やし、
ある程度詰め込み型の教育を行う必要があると考えている。
現実的に言って理性的民族主義における国体を考えた場合、
必要なのは多様性と少数の天才ではなく、平均化された質実剛健さを備えた国民であるからだ。
また、文化保護については一言で表すなら、体験教育に必要な象徴物のみを保護すべきである。
そもそも文化とは対象化できないものである。仮に何らかの技術や概念が滅びようとしている場合、
理性的民族主義が取る対応は二つしかない。一つは看過すること、もう一つは象徴物として昇華させることである。
この選択の基準となるのは、その技術乃至は概念に既に伝統が備わっているか、という一点に尽きる。
伝統とは民族主義において至高の権威を示すものであるが、決して創り出すことのできないものでもある。
よって体験教育のツールとして役立つと認められ、且つある程度の伝統を備えていると考えられる場合、
その文化(便宜上こう呼ぶ)は最優先で保護されなければならない。
それは感傷的な行動ではなく、至極実際上の必要をもってマニュアル通りに処理されるべきである。
48 :
1=wu:2006/05/09(火) 04:10:25 ID:hFgs55yv
書き落とした。
>対外的に文化をアピール
こういったことは基本的に積極的に行うことではないと考えている。
文化的な対外戦略の必要が認められた場合は別だが、そもそもこの思想は
流動化する国際社会から国家と民族を屹立として存続せしめることが目的である。
よって最大に重視されるべきは国内の統制であり、そのための原動力も
超個的なものへの厳粛性という極めて内向きなものに終始する。
しかしこれは利点でもあり、この厳粛性は他民族が日本国に帰化したところで
絶対に理解することのできない属性なのである。
また、当然ながらこのような厳粛性自体はどの民族にも普遍的に存在するものであり、
事実上民族という単位に限らず超個的なものさえ認識できる状況であればどこでも喚起しうるものでさえある。
よって理性的民族主義とは根本の部分で選民思想とは相容れないのである。
我が国も我が民族も決して特別な存在ではない。
しかしながら、私たちは超個的なものへの生来の従属性を肯定し、
民族体としてのアイデンティティーを血で贖ってでも維持する。
実際上の意味で、そうした決意の下、真正の民族主義たる
理性的民族主義はスタートせざるをえないのである。
当然ながら、これは真実の誇りでもある。
49 :
引き篭もり学生 ◆uP4E0rvmG6 :2006/07/29(土) 04:05:32 ID:Dh9lFAdy
良スレage
支那・チョソ・台湾との「相互理解」なんてムリだ。
手間・暇・金のムダムダムダムダムダ!!!!!!!!!
中華からは学び続けている。
かしこきあたりのお名前も元号も中華の古典から字が撰ばれる。