>>684 「話し合い」の前提は「共同体の利益という状況」を否定できないんだろ?
ということは、「共同体の利益という状況」はいったい何から創出されるのかね。
(これに回答しろよ)
客観性を持って利益であるかどうかを判定できる場合に、創出されるんだろ?
つまりその状況とやらは、「客観性を持った利害の判定」に基いて創出されるん
じゃないのかよ。
共同体の利益とは多数の利益なんだろ?多数の利益を代表する人々が
少数の利益主張に対して譲歩妥協することはあるわけで、それを、
「譲歩妥協することが共同体の利益につながる」というなら、
結局なんでもその結論は「共同体の利益につながる」といえるわけで、共同体の利益で
あるかどうかの検討など無意味だといっているんだよ。
誰か止めてぇ・・・。
言葉遊びみたいだ。
>>687 無理です。
今まで何人もが止めようとしたが、誰にも止められなかった。
ここは言葉遊びだけでpart38まで続いた、
れによる、れの為の、れのスレです。
>>686 もう一度よく読んでみw
このレス自体が的外れ。
「話し合い」などという抽象的な命題だから、れたんのオレ様定義で幾らでも
反論ができるんだよね。議会制は「話し合い」が前提といわれているけど、
そうした一般的な認識すらも宗教概念に帰結させておかしな方向に持っていってる。
聖徳太子の政治や律令制などの朝廷の強化すら、れたんは「話し合い」で短絡化して
認めないんだから話しにならない。
>>690 俺はきちんと、『話し合いとは、原理原則殻はずれても、一致を求めて妥協譲歩をする
前提で行われるもの」だとしていて、『議論・討論』という「正しさなど」を追及するための
それと、明確に区別しているし、そのような使い方をすると書いているが…。
議会制は「理性に基く話し合いだ」とあなたは言っているのだろうけれども、理性に基く以上
「正しさを追及するそれ」であり、議論・討論の部類である」といっているのですよ。
この言葉の使い方が気に入らないならば、それはそれで結構だが、では「何事かを決定
するにあたって行われる、人々の言葉のやり取り」のなかの、「妥協や譲歩によって、お互い
に歩み寄って合意を得ようとするそれ」と、「正しさ(真理や背議などを追究する)目的での
言葉のやり取り」を区別して、なんと呼べばよいか提示すればよろしい。
明確にその区別は存在するわけで、それの俺流の呼称 W が気に入らないならば、
あなたが適切と思う表現を提示すれば済むことですよ。
真理の追究(たとえばキリスト教徒が行うどうかなどの宗教教義解釈に関する追求)には
妥協や譲歩の余地はないだろうし、土地の値段を交渉する私人同士の言葉のやり取りは
そもそも妥協譲歩を前提としている。俺は前者を「議論・討論」と呼び後者を「話し合い」と
呼んでいて、明瞭な分別点は「妥協譲歩を予定しているかどうか」であると明言しているのだが、
どこに一般性がないのか、さっぱり分からないんだけど。
で、西欧で言う理性というのは、そもそも『真理・正しさ・正義』を見出すためにあるのだから、
妥協譲歩を予定していない。(ここを理解できない日本人は多い。)妥協や譲歩を行うための
理性的な話し合いはあるだろうが、それは理性「的」に過ぎない。
>>691 『話し合いとは、言葉を交すこと』
『議論・討論とは自分の意見を主張するために言葉を交すこと』
「正しさなど」を追及するための『真理の追求』と、明確に区別される。
話し合いの定義をれが勝手に変えたということは
れが主張する『話し合いの文化』もれが勝手に作ったものだという事。
『みことのり』とは交すモノではなく『話し合い』ではない。
>>693 それじゃ、話し合いと議論討論は明確に区別されていないジャン。
(話し合い)=(言葉を交わすこと)
(議論・討論)=(自分の意見を主張するため)+(言葉を交すこと)
(議論・討論)=(自分の意見を主張するため)+(話し合い)
つまり(議論・討論)は話し合いの累計のひとつしているじゃない。
妥協譲歩を予定した言葉のやり取りをなんと呼ぶのよ。w
つうかこの程度の質問に即答できないなら、議論は無理なんじゃないの?
譲歩と妥協を前提とした言葉のやりとりに的する日本語が無いなら
そういう文化は日本には無いという事だね。
697 :
右や左の名無し様:2006/07/05(水) 12:18:24 ID:dIeCPLAH
厨房が多い板だからしょうがない
つうか「真理を追求するための議論(彼流に言うと主張を伴う言葉のやり取り)
というものは現実にある。
相手主張の矛盾点を追求する、猫タンの議論態度のようなことである。彼は
徹底的に矛盾を追及することで真理が見出せると、おそらくは確信しているのだろう。
そのようなことを経過して残ったものこそ、『論理的に帰結した普遍こと』とされている。
それこそが平等理念」とか「人権理念」として「人々の話し合いで変えてはならな
いこと」とされ、それが天皇制と矛盾しているという主張をしているんだろうと思うが
違うのかよ。www
政治的決定についての話し合いに状況が許す限り
譲歩と妥協が前提となるのは日本に限らず普遍的な事だという
以外の論点はないが…。
政治についての話し合いで真理は追求しないというのは
>>568で前出。
こういう馬鹿が(↑)が思想板にいることが不思議である。
政治思想とは価値の序列を語る場である。
価値の序列とは、何がしかの基準を元にして、価値が対立する場合の優劣を語るという
ことである。「政治に関して、利害に基く妥協譲歩の話し合いだけで動いている」と考えるなら、
価値の序列を語る意味がない。
政治思想とは、多数の理解を得られなくとも、価値の序列は孝であると語ることである。
利害に基く妥協譲歩なら、そもそも利害判断・妥協譲歩の限界を探るのが政治思想である。
そのような議論ができない人が、なぜ政治思想板で何かを語ろうとするのだろうか…。
別に語っても良いが、俺には完全に邪魔なだけである。
>>699がコテを名乗らないなら、俺は今後、ナナシをNGワードとする。
したがって、コテを名乗るという意思表示があるまで、当分、ななしさん議論は当分できない
ので、ご了承ください。
>>700 単に価値の序列によって物事の優劣を語ること=利害について語るという話し。
702 :
右や左の名無し様:2006/07/05(水) 17:44:11 ID:FHls7Exs
>>699に利害とは一言も書いてないに
>>700の様な話を
いきなりわめき出すキチガイ振り(w
しかも、その内容は「政治思想とは利害について語る場ではなく
利害について語る場だ」というデタラメ(w
結局、語義の間違いを指摘されるだけで話が終わってしまい議論にならない。
それが奴のクオリティーだ(w
>当分、ななしさん議論は当分できない
最初から、れとは全く議論にならないのだから状況は変わらないww
704 :
XYZ:2006/07/05(水) 23:09:46 ID:???
妄言ですが。
官僚(豪族、貴族)以上の「話し合い」なら、何処の国でも、やってきた。
ただ、私の受け取り方だと、全国民との「話し合い」で、過去から現在まで、日本(ワ国)の政治(マツリゴト)を行なってきた。
と、読んでしまう。
本当にそうか?
705 :
右や左の名無し様:2006/07/05(水) 23:59:54 ID:0p9iipHi
>>703 その前に、れの場合は自分のやっていることを議論だと勘違いしているようだ。
議論ってのは相手の言っていることを理解して、こちらも相手に理解されるように
言わなければ成立しないものだが、れの場合は最初から相手の言っていることを
理解する気が毛頭にない。
れの場合、まさにこの言葉があてはまる。
「便所の落書き」
>>700 >政治思想(を語リ合うこ?)とは価値の序列を語る場(?)である。
政治に限らず『思想』についての議論は全て価値の序列に対するものだな。
大体、物事の価値だの、価値の序列などと言い出すから、それが如何に正当
であるかの体系的な説明を思想(これも価値であり序列に組み込まれている)など
呼ぶ訳だ。
言うなれば、ここは価値序列における異なる政治思想の順位を主張し合う場だな。
『語る』というのは一方的に自分の意見を開陳すること、『議論』なら
当事者間の其々の意見の取捨選択が行われ、共通の意見が構成される
というフィールなのだが。
>「政治に関して、利害に基く妥協譲歩の話し合いだけで動いている」と考えるなら、
>価値の序列を語る意味がない。
話合う者達が保持している価値の序列が異り、且つ自身と相手の価値序列を
新たなものに組み替えること(妥協)を良しとするから話し合いが可能になる。
自身の価値序列を全く変える心算がないなら、それは話し合いではなく説得であろう。
自身の意見を開陳するだけなら、ローカル線内や病院の待合室などで見られる
年寄り同士の、一方的に開陳し合うお話、所謂無駄話、茶飲み話というものだな。
おっと、ここは初手から『無駄話、茶飲み話の場』ではあったな。
貴君の言いたいのは、将にこのことだったのかな。であれば上のことは
言わずもがなではあった。
>>704 俺は世界中の国に、話し合いが合ったとも思っているし、日本でも話し合いはあったし
国の決定について、歴史的には貴族や氏族のトップや武家などが決定し、民衆に
無関係だったことも、否定したことはないが・・・。
「妥協や譲歩を前提とした話し合い」と「妥協や譲歩ではなく正しさを求める議論」
というものは厳然と存在するわけだし、日本の政策決定についても、「朱子学に
かなうか」という検討で決定された自称はたくさんあることも知っているが何か?
>>709 妥協や譲歩を前提とした話し合い=政治
妥協や譲歩ではなく正しさを求める議論=科学
と言う事。
日本の政策決定について「朱子学にかなうか」という検討で決定されたと言う事は
政治と科学が分化されていない為に妥協や譲歩ではなく正しさを求めたと言う事の証拠。
又、英語に『コンセンサス』と言う言葉がある。
広辞苑には意味は政治的合意と書いてあるが厳密な意味は
議論などを通じて皆の根底にある多様な価値感について意思表示し
相互の意見の一致を図る過程の事をいう。
つまり『妥協や譲歩を前提とした話し合い=コンセンサス』ということ。
>>710 根拠を示さない断言は、無意味である。
妥協・譲歩に限界がないというなら、妄言である。
妥協城野の限界がどこにあるかを語るのが政治思想である。
この限界が「正しさ・理性・神の意志」に無関係かどうか、それを話しているのである。
下がってよろしい。
もう一回書いておく。
何事かを決定するにあたって、妥協・譲歩を「前提」とした、言葉のやり取りで、決定する場合と
妥協・譲歩を前提とせず、正しさを追求する言葉のやり取りをして決定する場合とが有る。
国の政策を決定するにあたって、妥協・譲歩に限界があるとするならば(というかないわけもないが)
妥協・譲歩を前提としているはずもない。
限界内の結論しか出ない場合に「妥協・譲歩」が予定される(=前提とされる)し、限界を超えるならば
当然にその、妥協・譲歩は限界内に限定されて予定される。
ここまでに異論がある馬鹿かはいないだろう。
仮に妥協譲歩に常に限界がないなら、世界中の革命や国際紛争など、武力による決定などありえない
のだから、「妥協譲歩に限界がある」ことは誰もが認めるところである。
この限界に「正しさ・正義・真理」などを持ち出すかどうか・・・こういう話をしている。
仮に、持ち出さないなら、いったいどこに限界を設定するの?設定されたの?という話である。
白紙撤回という選択肢がある以上は限界点を設けるとする考え方が
間違っているのだが。つまり「何かを決定する」場合に考慮されるものは
「決定する」ことが自己目的化する必然性などないということ。
>>711 近代国家においてどういう形で宗教と政治が分化されたかは
>>608に書いてある。
けっして根拠なしで断言したのではなくスレのながれを前提として言っている。
譲歩、妥協の限界が宗教と分離され予算に変わっていく過程も
『プロ倫』に書いてあったような…
ちなみに予算と人権の関係について
市民社会はその基本的人権の一部を投資信託し
国民の自由と平等の維持を業務とする国家を開業したと考えるのが近代国家である。
国家機構は所有権を中央銀行に信託し受益証券である通貨を市民社会に交付する。
つまり国家予算は国民が信託した基本的人権の一部だということ。
何の回答にもなっていない。再度言う・・・下がってよい。
何事かを必ず決めなければならないという状況下において、何をよりどころに
決定してきたのか・・・の話である。経済を語りたいなら、適切ね板に行けばよろしい。
だから予算=人権=資本の増大だと言っている。
>>717 つーか経済の話をしたくないなら政治思想板に来るなよ。
どうやられは民主主義が宗教ではなく経済を基盤とした
政治思想だということを認めたくない処か経済を基盤とした
政治思想の存在を認めたくないみたいだ。
>>720 根拠のない断言は意味がない。
つうか、「経済」とは政治思想上いったいどういう価値観なのかね。
認めるも認めないも、「経済を基盤とした政治思想」とやらの説明がない。
まぁ、なんというか、馬鹿の妄言に近いとは思うが、説明してみてください。www
ちょうどポスト今週号の逆説の日本史のに、思想と経済の関係が言及されているから
読んでみな。w 「経済という基盤」などというが、経済という基盤が成立するためには、
それ以前に、商行為・商人などについての位置付けや、規範というものが設定される
必要がある。
というか、借りた金は返す、商品の代金は払う、商取引上の約定は守る・・・などが
利害によって自然に発生すると思っているらしいのだが、マァ、とんでもない誤解だよね。
単に日本のそれと西欧のそれに親和性があったから、日本人はそれが自然に感じる
問運所はよく分かるんだが、それは普遍でも自然でもない。
>「経済を基盤とした政治思想」とやらの説明がない。
常識レベルだと思うけどね。
ルターの宗教改革もフランス革命も、市民台頭の背景には宗教では縛りきれない
経済的な発展という基盤があったからでしょ。今の新自由主義だってベースは経済。
>>721 自分の価値観に従い肉体の行使と生産した資源の処分、消費、譲渡の自由である
『所有権=基本的人権』が認められている経済的市民社会はその所有権の一部を投資信託し
国民の自由と平等の維持を業務とする国家を開業したと考えるのが社会契約説。
国家機構は所有権を中央銀行に信託し受益証券である通貨を市民社会に交付する。
つまり通貨は『所有権=基本的人権』と引き換えに発行される国家の株券みたいな物で
通貨の持ち主である市民社会が国家の持ち主である。
国家機関の成員は公務員であり国家の持ち主である市民社会の利益の為に
奉仕するのが公務である。
信託された『所有権=基本的人権』の運用の指図を行うことによって得た利子・配当・売買差益を
市民社会に再配分したり、厄災から保護しようとするのが立法機関である政府。
国防等を行うあらゆる行政機関は国民の『所有権=基本的人権=通貨』の価値が
失落しない様に維持する為にある。
司法機関は国民個人の所有権の正当性を計り示す機関。
通貨の機能の基本プログラムは法律に書き込まれている。
これによって所有権の信用代用物として通貨が存在すると言う強制通用力が発生する。
国民社会全体の所有権と国家の価値がどれくらいあるかが市場で判断され通貨の価値が定まる。
724 :
RICK.DQN ◆6ORDQNVoZw :2006/07/07(金) 21:51:40 ID:TfVQPWwL
>>721 それこそが『プロ倫』の内容な訳だが・・・・
以下、『プロ倫』(p352)より。
「私は懸念しているのだが、富の増加した所では、それに比例して宗教の実質が減少してくるようだ。
それゆえ、どうすればまことの宗教の信仰復興を、事物の本性に従って、
永続させる事が出来るか、それが私には解らないのだ。
何故かと言えば、宗教はどうしても勤労と節約を生み出すことになるし、
また、この二つは富をもたらすほかはない。
しかし富が増すとともに、高ぶりや怒り、また、あらゆる形で現世への愛着も増してくる。
(p355)
こうした宗教運動が経済的発展に対して持った意味は
何よりもまず、その禁欲的な教育作用にあったのだが、ウェズリーがここで言っているとおり
それが経済への影響力を全面的に表すに至ったのは、通例は純粋に宗教的な熱狂が
既に頂上を通り過ぎ、神の国を求める激情が次第に醒めた職業道徳へと解体しはじめ
宗教的根幹が徐々に生命を失って功利的現世主義がこれに代わるようになったとき
ドイツの諺が示すように、安楽な市民生活のための一つの手段とされてしまうほかはなかった。
れが「基本的人権=宗教的規範」と喚きだしそうなんで付け足し。
>>724で示した様に宗教的根幹が動機付けとなって基本的人権が規範となるのは
社会が貧しい時のみ。
社会が豊かになると安楽な市民生活が動機付けとなって基本的人権が規範となる。
つまり「基本的人権=安楽な市民生活の為の規範」という構図が民主主義国家。
基本的人権という規範を破れば国家機関によって安楽な市民生活は脅かされ
国家機関が基本的人権という規範を確保してくれなければ
暴徒によって安楽な市民生活は脅かされる。
ピュウリタニズムの生活理想が、ピュウリタン自身も熟知しているように
富の誘惑の余りにも強力な試練に対して全く無力だったのは確実である。
(プロ倫より)
長文ご苦労様だが、「価値の序列を語るのが政治思想だ…」と申し上げている。
いったいその「経済原理に基く政治思想」とやらは、一言で言うと、
どのような価値を優位としているものか、具体的に答えてくれ。
回答例
儒教思想:統治者の有徳
西欧的民主主義:個人の自由
経済原理:個人の経済的利益
などなど。
経済原理なんて書いてないが…
まあ、価値の序列を語るのが政治なら
価値の序列を表すのが経済であり市場。
つまり「経済によって表された価値の序列について
政治で語るというのか民主・資本主義」
>>727 いったいその「経済に基く政治思想」とやらは、一言で言うと、
どのような価値を優位としているものか、具体的に答えてくれ。
回答例
儒教思想:統治者の有徳
西欧的民主主義:個人の自由
経済原理:個人の経済的利益
などなど。
>まあ、価値の序列を語るのが政治なら
価値の『序列』を語るのが政治思想だ…」
だから、『具体的には市場に表れる』と言っている。
もっと具体的に言うと
『何がどの位、優位なのか常に変動して表れるのが市場』。
>ちょうどポスト今週号の逆説の日本史のに、思想と経済の
>関係が言及されているから読んでみな。w
井沢ってwwwこれが「れ」クオリティwwwww
>>730 具体的にといっている。
具体的とは「誰のどういった価値観」が優位なのかということ。
たとえば「個人」の「経済利益」とか、共同体の経済利益とか・・・。
>『何がどの位、優位なのか常に変動して表れるのが市場』。
誰の、何が変動しているのかさっぱりわからん。状況は何がしかの因果に基いて
形成されるということすら否定てしまったら、プロリンwに成らんと思うぞ。
>「基本的人権=宗教的規範」と喚きだしそうなんで付け足し。
とりあえず、あちらこちらの プロ倫、ウェーバーに関する記述のコピペ
近代資本主義の発展に関する、いわずと知れた有力な仮説が、この「プロテスタンティズム
(特にピューリタンに顕著)の精神」です。
資本主義社会の成立は生産の発展の結果だけではなくキリスト教プロテスタントの思想がおおいに
その役割を果たしたと実証した人。
あらゆる他のことがらへの欲望をすべて抑えて(世俗内禁欲主義)、そのエネルギーのすべてを
天職である職業に注ぎ込む(つまり何のために働くかではなく、働くこと自体が目的化している)エートス
であり、プロテスタントの倫理観であると指摘した。
というか、ま、とりあえず、資本主義…というよりも商業規範や秩序に関する「ある民族や社会集団に
ゆきわたっている道徳的な慣習・雰囲気」がわが日本民族においてどのように構築されてきたのか・・・
の一端が今週のポストで紹介されているのだから、そこをまず参照しろ。
そのような違いの存在に気づいたら、それは人類普遍でないことを知れ…つうか、ウェーバーはry
>>733 >具体的とは「誰のどういった価値観」が優位なのかということ。
だから流動的で定まらないと言っている。
>>734 既に否定済み。
>>724 >こうした宗教運動が経済的発展に対して持った意味は
>何よりもまず、その禁欲的な教育作用にあったのだが、ウェズリーがここで言っているとおり
>それが経済への影響力を全面的に表すに至ったのは、通例は純粋に宗教的な熱狂が
>既に頂上を通り過ぎ、神の国を求める激情が次第に醒めた職業道徳へと解体しはじめ
>宗教的根幹が徐々に生命を失って功利的現世主義がこれに代わるようになったとき
>ドイツの諺が示すように、安楽な市民生活のための一つの手段とされてしまうほかはなかった。
と、プロ倫(p355) から引用。
ウェーバーは資本主義社会の成立は生産の発展の結果だけではなく
キリスト教プロテスタントの思想がおおいに その役割を果たした後に
消えてくことを実証した人。
その役割を果たしたと実証した人。