341 :
右や左の名無し様:
南京大虐殺についての日本兵の証言が当てにならない理由
朝鮮戦争で捕虜になったアメリカ帰還兵の一部は、共産主義にかぶれて帰って来たそうだ。もちろん、
戦争犯罪も懺悔している。
アメリカでは、政治家もマスコミも全く相手にしなかったが。
日本にある兵隊の記録は二種類ある。一つは、本物だ。もう一つは偽者だ。偽ものには、中国共産党の
拷問と洗脳工作で書かれたでっち上げ本が入る。だから日本兵といっても拷問を受けたかどうかで、
価値が違う。共産主義者は気違いだから、我々の考えは通じない。スターリン、毛沢東、ポルポトを見
れば分かるように利益のためにはなんでもする犯罪集団だ。
また、東京大空襲での合計死者9万人、広島長崎への原爆投下での死者合計20万人。ABCD包囲網
で物資不足だった日本軍が行なったと言われる南京大虐殺が30万人・・・・・・・
342 :
右や左の名無し様:05/01/02 00:06:17 ID:1Lo6Bwg5
「南京大虐殺」は果たしてあったのか?
1) 120人の特派員が誰ひとり目撃していない
南京は近郊まで含めて40平方キロ、東京・世田谷区よりも狭い都市である。
12月13日の陥落と同時に入城した新聞・雑誌社の特派員やカメラマン
(外人記者5人を含む)は約120人もいた。
そのほか占領直後に入城した大宅壮一、西條八十、草野心平、小林秀雄、石川達三、
林芙美子といった著名は評論家、詩人、作家など10数名が取材に当たっているが
誰一人として死体の山も血の河も集団殺人場面も見ていない。
現在の教科書では「国民には知らされなかった」とあるが、当時の軍も政府も
箝口令(カンコウレイ)などひいてはいない。記事も写真も自由だった。
2) あまりにも平和的な南京占領後の朝日記事
南京に入った新聞社各紙は占領後の模様を本国に報道したが、特に、朝日新聞は
日本軍占領下の南京の情景を占領5日後の12月17日から1ヵ月間にかけて5回にわたり
半ページ大に4枚の組写真にして刻明に報道している。
そのテーマは「平和甦る南京」「きのうの敵に温情」「南京は微笑む」
「手を握りあって越年」「南京復興の足どり」と平和そのものの報道である。
この写真が虚構というなら、「朝日」はこの時代からウソをデッチ上げる常習犯だったのか。
3) 国民党も共産党も全く知らなかった大虐殺
言うまでもなく、当時日本軍と戦ったのは、蒋介石率いる国民党政府とその軍隊である。
この軍司令官兼軍事委員長の何応欽(カオウウキン)上将がまとめた軍事報告書がるが
これは実に詳細を極めており、南京戦での死傷者は将校・下士官兵に分けて10の単位
まで些細に戦闘状況を記録した第一級の公的史料である。
しかしここでは、「(12月)12日…ついに南京放棄を下命した。
敵は13日我が南京城を占領した」と報告があるだけで、虐殺やそれを匂わす記述は一切ない。
では、当時の中共軍や中国共産党の記録はどうか。
当時の中共の『軍事雑誌』1938年6月20日刊行第109に初めて南京の戦闘記録が
でてくるが、こでは、蒋介石や何応欽が部下を置き去りにして南京を放棄したことを非難しているだけ。
もし大虐殺が行われていたら、これこそ絶好の抗日宣伝の材料として戦闘を煽ったで
あろうが、南京虐殺にはなにも触れていない。
つまり中国側の国民党も共産党も南京大虐殺なるものを全く知らなかったのである。
4) 日本の「美挙」に感謝した国際委員会
馬報俊・南京市長は陥落直前の12月1日、全市民に市中央に設けられた「国際安全区」に
避難するよう命令した。ここを管轄したのは、米・英・独人など15名が組織する
「国際委員会」である。
南京占領後、日本軍はこの安全区に歩哨をたて手厚く保護した。
安全区内では砲爆撃も火災もなく、20万市民は全員安全であった。
このことに対して、国際委員会のラーベ委員長は次のような感謝の書簡を日本軍に送っている。
「拝啓 私共は貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して
また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡を
とり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります。」
5) 人権にうるさい欧米各国は虐殺を黙殺したのか
人権にやかましい欧米の政府やマスコミが、何10万の大虐殺を見逃すはずがない。
当時、国際連盟は「対支援助小委員会」までつくり日本の軍事行動を監視したが
当時、南京・広東等の戦闘で、日本軍が絨毯爆撃をしたと非難決議したが
南京虐殺事件などは話題にものぼっていない。
わずか2人の記者が日本軍の暴行を記事にしたが、各国の大新聞が
南京でおこったはずの「大虐殺」を報じ、非難した形跡が全く残されていないのは
どういうわけであろうか。
6) 占領1ヶ月をたたず続々帰還する民衆
占領10日後の12月23日には「南京自治委員会」が結成され、陶錫山(トウシャクザン)が
委員長に推された。
1月3日の結成大会には市民3千数百人が会場の鼓楼を取り巻いて、旗行列でこれを
祝福した。
また、公称20万人の市民は、1ヵ月後の1月14日には25万人に増加した旨を
国際委員会は発表している。これは、南京の治安が回復し郊外に避難していた民衆が
正月を控えて続々帰還したためだ。
大虐殺の地獄のような街に、自治委員会が結成されたり大量の市民が帰還したり
するだろうか。
7) 目撃者のない「累々たる死体の山」
東京裁判では、「南京城内は累々たる死体の山」「道路には2条の血の川が流れ」
「流血は膝を没し」といかにも凄惨な状況が次々証言された。
裁判で「1万2千人の男女・子供が殺された」と証言した金陵大学のベイツ教授は
占領当時インタビューを受けた東京日々新聞の特派員に「秩序ある日本軍の入城で南京に
平和が早く訪れたのは何よりです。」と答えて居る。(同紙12・26)
中国側証人でも直接の目撃者はいなく、当時の伝聞をもとにした証言しかない。
南京における中国側犠牲者には、南京攻防戦での戦死者や、掃討作戦による敗残兵や
市民を装った便衣兵の被処刑者、中国軍に協力して死亡した市民などがある。
これらは純然たる戦死者及び準戦死者にあたるもので、戦時国際法で禁じている
戦争犯罪でもなければ、虐殺にもあたらない。
8) 1人で5万人以上の殺害を目撃した?
「南京大虐殺」は東京裁判から始まった事件である。
その裏付け資料を作るため中国は戦後「南京敵人罪行調査委員会」を作り
14の団体を集まり、全市をあげての大々的な調査に乗り出した。
ところが大虐殺の情報が少しも集まらず、手をかえ品をかえて募集した結果
1人の男が、私は日本軍が5万7418人を殺すのを見たと証言した。
この男は魯甦(ロセイ)という警察官だが、果たして、人間ひとりの力で一桁の端数まで
正確に数え上げることができるのかどうかー。
9) 「大虐殺」を決めつけた埋葬数そのものも架空
東京裁判の判決に決定的な証拠力をもっていたのが、南京における被害者の
埋葬数である。この埋葬にあたった団体の証言では、崇善堂が約11万2千体、
紅卍字会が約4万3千体、合わせて15万5337体処理したとなっている。
ところが紅卍字会の報告も作文の部分が多く、崇善堂は、当時埋葬活動を
やっていなかったことが、中国側の資料(中華民国27年度〈昭和13年〉
南京市政概況ほか)でバレてしまっている。
崇善堂は、事件後4ヵ間埋葬活動を行ったと証言したが、実際は事件8ヵ月後に
活動を再開した団体であり、埋葬11万2千体は全く架空の話であることが判明した。
10) どの証言にも出て来ない大虐殺の謎
日本軍占領下の南京城内外を、自動車で自由に視察できたマギー牧師は、
東京裁判で2日間にわたり日本軍の残虐行為をあげつらった。
だが、弁護士の反対尋問に彼自身が目撃した殺人行為はただの一件のみ。
それも誰何(スイカ)されて逃亡したため撃たれたという事件だった。
なお、当時の国際委員会が、YMCAや紅卍字会の青年を動員して占領下の南京での
日本軍の非行を調査した62日間の記録がある。
これによると殺人49件、障碍4件である。これをすべてクロと認めたとしても
どこから10万、20万という大虐殺の数字が出て来るのだろうか。
南京大虐殺と従軍慰安婦の話はなぜかバブルの頃に急に浮上した
今なら金を盗れるとでも思ったんだろうね
本当に非道だと思っていたなら戦後一貫して抗議し続けていたはず
1 30万の死体をどのように弔ったのか?
2 なぜバブルの頃に急に抗議を始めたのか?
1に関しては明らかにした方が中国側も有利になるはず
早急に解明して欲しいのだが、なぜか中国側は国外研究者
の調査を頑なに拒否しているね。
当時の記者が、「戦後に」証言した内容
当時は軍の検閲が厳しく真実を伝えられなかった、となどいう言い訳は通用しない、
南京取材記者のキャップであった橋本登美三郎氏
(元佐藤内閣官房長官)は、
「何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いていたよ」
「とにかく軍のこれからの動きが分かるような記事はだめでした」
と本書の中で証言している。
そもそも橋本氏はじめ記者自身が虐殺などという話はお互いの間でも聞いたこともなかったと
戦後になっていっている。
(二人例外があるが、これは他の同僚から根拠無し、と否定されている。)
米陸軍ウェデマイヤー将軍著『第二次大戦に勝者なし』より
「中国共産党の主たる関心は、日本軍の攻撃によって国民政府軍が撤退したあとの地域を占領することにあっ
たので、毛沢東や周恩来などの中国共産党指導者たちが、日本軍との戦争に関心を持っていないことを、私は
知った。」
昭和十三年十月毛沢東が部下に与えた指令
「中日戦争は、わが中国共産党にとって、党勢拡大のための絶好の機会を提供している。
わが党の一貫した政策は、その精力の七〇パーセントを党勢拡張に、二〇パーセントを国民党との取り引きに、
残る一〇パーセントを日本軍に対する抵抗にふり向けることである。」
中国共産党 ケ小平
『中国との友好交流二十年の感想』三岡健次郎著 平成七年中国政経懇談会より
「日本は中国を助けたことになっている。
・・日本が蒋介石を重慶まで押し下げてくれたので、我々は日本軍の占領地域の後方に広がった。
・・皆さん(日本)だけ責めるのは不公平だと思う。」