民主主義の現在・過去・未来を考えるpart2

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368リック・ドキュソ ◆6ORDQNVoZw
「個人の自由には自由にならない社会的前提が存在する」という認識は非常に幼稚です。
だいたい最初に規則が無ければ人間は秩序を造りだせないというなら人類創世以前に規則があったことになる。

本能に従うことがそのまま自己保存の方法でもあるような動物と違って、
人間は「現実原則に従う自我と快感原則に従うエスとの対立」あるいは分裂状態にあるところに その根本的原因があります。
人間は、自己の快感原則にそのまま従っていては、まわりとの絶え間ない衝突を生み出して、
自己や種族の破滅に陥るため、自然的には無秩序なのです。
この自我が人間の「確かに持っている普遍的な壊れた本能(快感原則に従うエス)」に対して
環境との折り合いをつけ自己や種族を保存をするため共同体内のコミュニケーションを通じて
形成される「内輪だけが持っている確かな物では無い共同幻想」とされる。

諸個人が人間として生存するための条件は、それ自体が社会的なものであり
個人の目的の達成は、それが長期的なものであればあるほど、他から干渉を受けない自由と、
さらには他者の協力を多くの場合に必要とする。
他者から肯定され、承認されて尊厳を獲得してきたひとは、自分が自分であることにとって
他者や社会は必要不可欠だからそれらから疎外される事を恐れ責任感や罪悪感が産まれる。
個人が責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がない自由(リベラル)な状況でこそが
環境や所属する共同体が変わったり失敗した場合でも万人の万人に対する戦い(抑圧)を通じて
お互いが妥協点を見つけたり反省したりして社会的秩序を形成する事ができる。

又、不自由は(従って自由は)三類型に分けられる。
第一は、選択肢が端的 に不在だという不自由。
第二は、選択肢は存在するが特定の選択が抑圧されるという不自由。
第三は、選択肢があり、選択抑圧もないが、選択能力が不在で選べないという不自由。
この三種類の不自由の内どれかが極限に達し折り合いが付けられなくなった時アノミー(無規範)が生じ秩序が崩壊する。
要は社会的秩序が信頼可能である程、人々は自由に振る舞え
人々が自由である程結果的に得られた社会的秩序は信頼可能になると言う事です。