毎日新聞社・日本研究賞関連の記事より
(毎日新聞1975年2月7日朝刊13面)
『日本の選択 毎日・日本研究賞 喜びの入賞者 危機の構造 小室直樹(政治学者)』
現代社会の不安を分析した「危機の構造」で入選した小室直樹さんは、ユニークな学者である。
数学出身で経済学、心理学、文化人類学、社会学も学んだ政治学博士。
社会行動論が専門だが、本領は社会科学の方法論(メソドロジー)にある。「天才」と評する人もいる。その“人生構造”も、また高度に理論的である。
小室さんの半生を紹介しよう。(以下、Aへ)
(@より)
東京で生まれた。父は同盟通信の記者。病弱で若死にした。五歳だった。母一人子一人。郷里の会津に引きこもった。会津高校から京大数学科へ。
教養部二回生のとき“回心”が訪れる。ヒックスの「価値と資本」の翻訳を読んだのだ。
理論物理の世界にひかれた。自然現象のエレガントなまでの分析。解析力学から量子力学へ。ヒックスを読むまで、社会科学にも、こんなエレガントな理論がありうるとは思えなかった。
「価値と資本」の解説を、当時和歌山大助手の市村真一氏(阪大教授)が書いていた。市村氏はMIT(マサチューセッツ工科大学)から帰ったばかりの新進経済学者。「こんな先生に教えられたらいいな」。まもなく阪大に戻った市村氏に個人的に“入門”する。
数学科では、位相幾何学(トポロジー)を専攻した。経済学を独学した。阪大大学院経済学研究科の試験をパスして、修士課程に入る。
小室さんは、市村氏の家に泊まり込んだ。みんな若かった。市村氏も七歳年長にすぎない。朝、起きる。便所から戻った市村氏と顔を合わせる。「おはようございます」「おはよう。ところで分離可能財の定義は何かね」
できれば当たり前、まちがえると「バカ」とどなられる。まるで、昔の忍者の修行のようなものだった。
一九五九年、市村氏の推薦で小室さんはミシガン大の経済学大学院に留学する。出発のとき、市村さんはこう言った。
「サムエルソン(MITのノーベル賞経済学者)を追い抜いてこい。追い抜けなければ、太平洋に飛び込んで死んでしまえ」
市村氏らの世代のテーマは「アメリカに(学問のレベルが)追いつくには、どうすればよいのか」であった。市村氏らは、すでに追いついた、という自負があった。追い抜くのは、後輩である小室さんらの世代である。その期待と激励があった。
「サムエルソンをどうすれば抜けるか」この言葉が、実は小室さんの運命を変えた。普通なら、大学教授までの平穏な道を歩んでいただろう。サムエルソンを抜こうと、思いつめたとき、いまの“学者ルンペン”までは、一筋道だった。
(以下、Bへ)
(Aより)
ミシガンで一年を送ったあと、MITとハーバードの奨学金を得て、サムエルソン教授のゼミに入った。そこで、教授を観察した。
頭の良さにおどろかされた。あるとき、サムエルソン教授に「あなたは一日何時間勉強しますか」と聞いた。それより多く勉強すれば追い抜くことも可能ではないか。
「二十四時間。寝ているときも、運転中も私は考えている」が答えであった。
その天才ぶりも、常人の理解を超えた。学会の発表で「ここからは程度が高いので、みなさんがわからなくてもよろしい」と言ってのける。
教授や博士たちを「ドクター○○、私の説明がわかりましたか」と名指しで呼びかける。
経済学でサムエルソンを抜くことは、不可能である、と悟った。だた、なぜ、サムエルソンが偉大であるか。その秘密だけは、わかった。
第一は、「学問的な落差」を利用することだ。理論の精緻(せいち)さにおいては、物理学の方が、経済学より優れている。
この「落差」を使って、低い方の学問で業績をあげる、というわけだ。サムエルソンは、バーコフの解析力学の考え方によって、ワルラスの一般均衡論を再構成し、理論経済学を極限まで高めたのである。
第二は、このようにして得た方法論で、過去の大家がやり損なった仕事をやったのだ。
小室さんは、いまから経済学をやってもダメだと観念した。もちろん、さまざまな分野がある。
しかし、小室さんのめざしたもの、数学、物理学、統計学を武器に、理論経済学を深化させる、その作業はヒックス、サムエルソン、アローの三人によって完成の域に達してしまった。
あとは、彼らの示した道をたどるだけである。とても追い抜くことはできはしない。
社会科学でいえば、理論化の領域が残るのは、社会学と政治学である。経済学を利用して、社会学、政治学をやろう。ちょうど、サムエルソンが物理学で経済学をやったように。そんな「戦略」を立てた。
経済学から社会学の間には、学問のマゼラン海峡がある。この海峡を越えようとして、何人もの経済学者が難破した。小室さんが思い立ったその道は、死屍(しし)るいるいたるものであった。
小室さんは考えた。経済学だけではダメである。心理学が必要なのだ。
母は看護婦であった。だが、精神分析医のようなこともやっていた。だから、小室さんにとって、心理学は身近なものだった。
MITでの一年が終わると、再びミシガンに戻った。社会学、政治学、心理学、文化人類学をやった。フルブライト留学生にとって、三年間が限度。やむなく、六二年に帰国する。
(以下、Cへ)
(Bより)
市村氏は激怒した。そんなベラボウなことがあるか。お前を立派な経済学者にするために教育したんだ。心理学、社会学とは何だ。
たちまち破門された。行くところがなくなった。
自分がやろうとしていることはパースンズの社会行動論に近い。だが、アメリカでの観察によると、社会行動論は、社会学では逆に虐待されている。むしろ、政治学に歓迎されているようだ。
六三年、東大大学院政治学研究科の博士課程に移った。丸山真男教授が指導教官となった。だが、肝心の政治学はそっちのけ。心理学のゼミばかり。書いた論文は「権力の一般理論」。
丸山教授もあきれた。「お前のような奇妙なヤツの面倒は見切れぬ」とばかり、丸山教授の弟子の京極純一教授に預けられた。
六五年からは、文化人類学を中根千枝教授、中根さんはていねいだった。社会学を富永健一助教授、法社会学を川島武宜教授、計量政治学を篠原一教授、強引に押しかけてゼミを取った。「学問の浮気」ときらわれたが、小室さんには小室さんの「論理」がある。「目標」がある。
タコツボのように細分化された社会科学。それを統合したい。一つの学問をきわめてから、他の分野に手を染めたのでは、それは不可能だ。どうしても、いまから、各領域の専門家に学ばねばならない。
生活に困った。母は郷里。自分だけ食えばいい。東大田無寮暮らし。十年を超え“主”となった。近くの田無小学校の用務員に就職。夜警である。
そのうち家庭教師。大学教授のそれだ。タレント教授になると、ジャーナリズムに忙しくて、論文を読んだり、講義案をまとめるヒマがない。原稿を見直したり、論文の要約を作ったり、先生たちの“学者の部分”の下請けである。
七四年、「選挙区の特性分析」という論文を京極教授に提出、政治学博士。
(以下、Dへ)
(Cより)
学問の浮気者は、どこも雇ってくれない。京大や阪大の同期生は助教授からそろそろ教授である。それが、こちらは博士になってもルンペン暮らし。
東大で自主ゼミを始めた。優秀な研究者の養成が目的である。助手クラスが何人も集まった。助教授もいる。その人たちに、論文の書き方の指導である。一銭の報酬にもならないが、学問の喜びはある。
マゼラン海峡をどこまで進んだか。水をすくってみると、塩からいから海であることはわかる。自主ゼミの手応えが(村上注:の?)塩からさだ。川に迷い込んだのではないことは確かだが、果たして、太平洋(理論社会学)に抜けられたかどうか。
だが、ここまで来て、ウエーバーが必要なことに気づいた。ウエーバーを独学でやれば、三十年かかる。それでは一生が終わってしまう。
日本の最高のウエーバー学者は大塚久雄東大名誉教授だ。またも押しかけた。四十男が泊り込むわけにいかない。練馬の三宝寺池のほとりに、大塚先生は住んでいる。その近所に下宿した。朝な夕なに訪れる。
先生の都合がよければ、そのまま上がり込んで勉強。具合が悪ければ、自分の仕事に戻る。そんな毎日が続いている。それで、ウエーバーも、二、三年のうちに仕上げられるという。
小室さんの第一の恩人が市村氏とすれば、第二の恩人は富永健一氏だ。富永氏の紹介で「思想」に「社会動学の一般理論」を書いたのが、川島武宜教授の目に止まった。川島氏の編集する岩波書店の「法社会学講座」の執筆者に迎えられ、政治学者の一人に認められた。
いまは、五冊の本の執筆に迫られている。作家と違い、収入にはあまりつながらない。生活費を稼ぐのに追われ書くヒマがない。予定の書名だけあげる。
「社会行動論」(岩波)、「構造機能分析」(東大出版会)、「数理社会学の方法論的基礎」(東洋経済新報)、「社会指標論」(日経)、「社会システム論」(ダイヤモンド)。
「日本の選択に入賞して本当にうれしい。自分の専門と違うこのような論文を少しでも評価してくれたということ。そしてなにより百万円あれば、生活費の工面にしばらくは追われなくてすむ。五冊の本を書くヒマが作れます」
経済学のサムエルソンを抜く学者に、社会学、政治学でなりたい。その目鼻がつかなくては、恩人の市村氏に会えない、と繰り返した。それまでは、小室さんのルンペン一人暮らしも続きそうだ。
(以上で終わり)