494 :
右や左の名無し様:
ところで、現役の保守論客でまともなのってどんなのがいる?
495 :
右や左の名無し様:04/07/02 09:24 ID:+VMQoamH
>>494 これといって見当たりませんね。どこまでを保守派とするか、どこまでを左派とするかはかなり人によって違うと
思いますので、右派左派という区分けがどこまで有効な区分けなのか、疑問な点が無きにしも非ずですが、少なくとも
自ら保守派であると表明している「論客」では確かにあまり優秀な人はいないように思えます。強いて言えば政治思想では
ありませんが、京都大学の中西寛は自らの立場をどちらかと言えば保守であると言っていますし、高坂正尭の弟子である
ので一応「保守派」とみなしていいかとは思いますが、中西さんを仮に「保守派」と見なすなら、中西さんは著書を読む限り
バランスのとれた研究者なのではないかと思います。
あとこれも政治思想というわけでも広義の政治学の分野でもないのですが、刑事法の井上正仁は最近とくに保守的な
傾向があるのではないか、と思います。まあ解釈法学の分野では結構保守的な傾向の強い学者は多いですけどね。
特に行政法関係などは。ただし井上さんは私の見る限り、非常に聡明でクリアな頭脳の持ち主だと思います。
その辺に転がっている「保守派」とは全く違いますので、傾向が保守的かなということで井上さんを「保守派」と見なすのは
やや乱暴な整理かもしれません。
北岡伸一や、田中明彦も明らかに左派や「進歩派」でもありませんので、それを「保守」と仮に認定するなら北岡さんも
田中さんも優れた論客だと思います。
それにしても惨憺たる状況です。日本社会の右傾化がささやかれている今日、その傾向を下支えあるいは先導するはずの
「論客」が酷い有様で、今よりは保守的傾向が小さかった以前の方がむしろ錚々たる面子がそろっていたのですから。
もちろんこれは左派にもいえることかもしれませんけどね。
497 :
右や左の名無し様:04/07/02 17:34 ID:zizjRNhF
>>416 馬立誠の全部って言っても今のところ彼の書いた本は『日本はもう中国に謝罪しなくていい』
という本しか訳されてないけどね……この本、タイトルに反にして、かなり
手厳しい日本批判をしていて、『親日派のための弁明』の中国人バージョン
だと誤解して読むと期待はずれに終わるね。
特に第3章 徹底批判「石原慎太郎」から「小林よしのり」まで という論文
は朝日新聞やしんぶん赤旗など左派の新聞に載せられていても違和感がない日本
バッシングの論文でいやな気分になるね。
だけど笑ってしまうのは、小林よしのりの漫画が「つくる会」の意見をそっくり
代弁していると主張しているところ(w この馬立誠って人『戦争論』や『台湾論』
を読んでも、『戦争論2』や『戦争論3』は読んでいないみたいだ。9.11のテロ以降
よしりんは、オサマ・ビンラディンのテロを擁護したりイラク戦争に反対したりして
「つくる会」からは、むしろ反米はやめろと批判にさらされている状態になっている
こと知らないんだな…… 最近のよしりんの反米の暴走ぶりを知っている人が読む
とピントはずれな文章があって笑えてくるね。
498 :
494:04/07/02 18:53 ID:I73Flhye
<<496
サンクス。
しかし戦後のアカデミズムの権威の上に乗っかってたいわゆる進歩的な連中より、このスレで徹底的にバカにされている連中の方が
解り易い言説をつくる能力では圧倒的に上で、その中身はともかく宣伝戦略で勝利していると感じる。
進歩派(仮にこう呼ぶ)が本気で『右傾化』をとめたいと思うなら一般人に分からないような理屈で優劣を競うよりまず説得力をどうつくるか考えるべきだと思う。
クズ本をバカにするのも結構だが、なぜそれが売れるのか考えず、ウヨはアホだからだ、としかとらえないならば最終的にはプラスにはならないと思う。
以上専門外の独り言でした。
499 :
右や左の名無し様:04/07/02 18:55 ID:yn3I0fyt
日本共産党がテレビやラジオで政策を訴えます!日程知らせとく。
本日2日(金)は、ニュース10(NHKテレビで午後10時)、ワールドビジネスサテ
ライト(テレビ東京で午後11時)で志位和夫委員長が出演します。4日(日)は、N
HKテレビで午後9時から、特別番組「参議院選特集 党首は訴える」にでます。
比例代表政見放送は2日(金)は、NHKテレビで午後11時から2番目、5日(月)
は、NHKテレビで午前8時35分から2番目、6日(火)NHKラジオ午後3時10分か
ら1番目、NHKテレビ午後11時から1番目、7日(水)は、NHKテレビ午前8時35
分から3番目、午後11時から1番目、NHKラジオ午後3時10分から2番目です。
ちなみに彼氏の著作も推挙します。
@@@@ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(゜д゜@ < あらやだ!500ゲットだわ!
┳⊂ ) \____________
[[[[|凵ノ⊃
◎U□◎ =3 キコキコキコ
>>498 どうなんでしょうか。アカデミズムの住人がその世界の中で安住するというならまだしも、少なくとも多くの研究者は
誠実に学問研究に勤しんでいたわけで、これは本業を全うしているわけですから一概に彼らの行為を批判するわけ
にもいきません。それにアカデミズムの世界では、別に右派左派という力学で動いているわけでも必ずしもないですし。
あと進歩派とされた学者は、比較的社会との接点といいますか、それなりに行動的な側面があったと思いますよ。
丸山真男にしたって、アカデミズムだけの住人ではなく、ジャーナリスティックな側面を持ち合わせていて戦後日本社会
に多大な影響を及ぼしていたわけですし。もちろんこの進歩派の主張が徐々に影が薄くなっていったことも事実で、
右傾化に対する対抗軸を明確に示しえなかったことも否定できません。
とはいえ、ではクズ本の著者たちが世間への訴え方において優れているのかというと、そうではなく日本社会の構造的変化
という側面が大きいと思います。 日本社会の構造的変化に合わせて、その変化を擁護し、また促進していくための
イデオロギー的備えとしてクズ本が重宝がられるというわけであり、仮にこのクズ本が60年代、70年代に出版されていた
ら同様の売れ方をしたかと言えばそうは思えません。要するに日本社会の変質にあわせて登場した歪なイデオロギーとして
機能していることもあり、また基本的な学力の低下もあり、耳障りが良い文句を連呼する、わかりやすい悪質なクズ本が
読まれやすい環境になっているということが言えるのではないかと思います。
日本の右傾化を危惧するのなら、やはりいかに低レベルな相手であると言えども対抗軸を形成し、それを「わかりやすく」
大衆に啓蒙していかなければならないとは思います。といっても戦後啓蒙の有効性自体がなくなった状況では難しいでしょうが。
ちょっと問題発言かもしれませんし、問題の根本解決にいささかもつながらないとは思いますが、日本には大学とはいえない
ような大学があまりに多すぎるということも痛感します。反動的かもしれませんが、数百も大学が存在すること自体が以上
であり、本当なら10大学ぐらいでいいのではないかとさえ思っていますよ。
502 :
右や左の名無し様:04/07/02 20:51 ID:AeU00iNi
本しか読まない人と漫画しか読まない人とその両方の層がある。
年齢が低いほど漫画の層が多く、年齢が上になるにしたがって本を
読む層が増えていく。
自分の思想を伝えたいとき昔だったら漫画がそれほど発達していなかった
ので本をだせば読んでもらえたんだろうけど、今現在出したとしても少ない
本を読む層だけにしか読んでもらえない。より多くの人に読んでもらおうと
するなら、本だけじゃなく漫画も出した方がいいだろう。
漫画層は政治とかに興味が無いと言うわけじゃないし。
>>501 クソ大学の卒業生が高卒に変わったところで
多数派である彼らがクソ言論の消費者になるという構造が変わるわけではないんでは?
戦後啓蒙を易化してリニューアルってやっぱ宮台くらいかね。
>>503 問題の解決にはつながらないとは思いますが、大学の大衆化はこれまで以上にますます進行していくわけでしょう。
この大衆化は仕方がないとはいえ、大学全体の水準の維持を図ろうとすれば、大学の線引きは必要かなと思ってしまう
こともあります。「なぜこいつが通ったのか?」と疑問に思わざるをえないような無教養の人間も結構紛れ込むのです。
もちろんそれは避けられない事態ですが、そんな人が国Tですからねえ、将来の日本を憂えることの少ない私でさえも
その行く末に不安を覚えてしまうのですね。「まじでやばいよ」というわけです。
日本とヨーロッパを単純に比較するわけにもいきませんが、例えばイギリスではオックズブリッジがあり、それ相応の
質の維持ができていると思いますし、フランスともなればエコール・ポリテクニークやエコールノルマル・シュペリュール
やENAのようなグランゼコールがあり、弊害もありましょうが高水準の研究教育体制が整っています。
またグランゼコールの学生もその授業を受けるパリ大学も超一流の学者が陣取っているわけです。
またこれら機関には海外からの留学生もあつまり、それらの間でのハイレベルな競争が存在します。
アメリカのアイビーリーグも形態は異なるとはいえ、やはり留学生だらけですし(プリンストンの大学院生の約6割は
外国籍の学生です)、日本の大衆化してしまった大学よりもはるかに質は高いと思います。
やはり社会において支配的な地位を占めるのはこれらエリートであるのは幸か不幸か知りませんが事実です。
となると、否が応でもエリート予備軍足らざるを得ない者は、それ相応の水準の学力と見識を身につけないと、
それなくして地位だけ保証されるとなると極めて有害ともなりましょう。日本はともすればそうなる可能性が濃厚と思われます。
かつての帝大時代の東大、そして大学進学率が一割そこそこのころの東大は、それなりの水準を維持していたのだと
思うのです。また政治的にも、左派が一定程度生まれる土壌も醸成されましょう。よく言われるように左翼をつくりたければ
エリート教育をしろ、といわれるのもあながち間違いではなく、それなりの理由があります。体制側のエリートとして人材も
そして同時に体制側と一線を隠したスタンスに立つエリートとしての人材も同様に必要となるのではないでしょうか。
それも宮台が言ってることだね。
対抗エリートの養成。
確かに対抗エリートの養成ということで言っていますよね。
ただ別に意図して養成する必要はないと思います。大学をさらに高水準の研究教育機関とし、その出身者に対しては
社会的な評価と認知が広まれば自ずと形成されるでしょうから。
ただ旧帝大を特別の大学として、例えばグランゼコールのような組織することはおそらく支持されにくいと思いますので、
とりあえずの対策としては、世界中の学生にさらなる門戸を広げることではないかと思われますが、果たして優秀な
学生がきてくれるかどうか若干不安な面も否定できません。日本の大学は魅力がないと言われますからね。
さしあたり東大や京大をはじめとする数大学で思い切った授業料免除に踏み切ることはできないか、もちろん現在も
入学金・授業料免除制度があり、とりわけ院生がその恩恵を受けているわけですが、その枠を縮小するのではなく、
留学生をも含め、ほぼ全員に適用することはできないか、を考えているわけです。90年代の規制緩和を受け、
大学設置基準が大幅に緩和された結果、それまでの数の倍の大学・短大ができたわけで、その分の予算が流れて
いっているわけでしょう。勝手かもしれませんが、その分を学費・生活費補助にまわすという選択もありうるのではない
かすら思っているところです。かなりスレタイと離れてしまいましたが。
中央政治・文化をリードする人材は、国が金を出しても要請しろってことだろ。
マスプロ化してしまった教育体制では、エリート教育はできんから(藁
少人数を対象に、各教科月一、月ニくらいで課題をだしてそれを評価するシステムに
しなければまともな教育などできん。一定層の学生を集めれば、勉強会などで
自主的に学習することはあるが、それはあくまで非公式なものだし。
個々人の権利とは別に、国策として特定個人を選抜して高度の知識を教授する
教育機関が中央集権体制には必須であり、その面でみれば現在の日本は変に
平等意識とかのお題目に捕らわれ、現実からはずれる高等教育制度を作ってしまって
いるとは言える罠。高等教育に変わって、各企業とかの研修がある程度その役目を
果たしているのだろうが、ジェネラリストとして求められる広範な教養はそのような場
では問題にならんだろうし。そもそも、勤め人になると仕事と直接関係のない本は
読まなくなるしなあ(藁
職務とは直接関係のない一般教養というものに価値を置く、すなわちジェネラリスト
に社会の指導層としての役割を期待するなら、当然そう言った声はでる罠(藁
スレタイとまたまたズレますが、入試制度自体も改善の余地があるかと思います。
大学入試センター試験がそもそも選抜機能を果たしていないわけで、もちろん各大学は二次試験で方法に工夫が
施されていますが、それも学校や予備校等で要領を覚えれば簡単にこなせてしまう代物でしょう。
昔ならどうあがいても入学してこなかった者が、金に物言わせてせっせと塾や予備校に通い、要領を身につけることで
合格してきていると思われます。(だったらお前はどうなんだと攻められそうですが)
例えばフランスのグランゼコールの入試は、一科目に数時間かかせて長々とした論文を書かせるわけでしょう。
哲学と数学は必須科目で、これは抽象的思考を試すのにも打ってつけの題材ですし、基礎的教養を試すのにも
最適だと判断されているわけでしょう。例えば数年前のエコールノルマルの入試では、入試の前にテーマとして
「スタンダールの何とかについて」というような問いを出して、各人大量の文献を読んでスタンダールについての
見解を自ら論理構築して論文として当日書いていくわけです。これがいいのかわかりませんが、少なくともセンター試験
よりかははるかに学力が反映すると思いますね。
>>509 人材選抜の問題は結局のところ大学の都合で、年一回のペーパー試験
それもできればオールマークシート方式の方が手間がかからんからだろ(藁
例えば論文式の試験にするとして、入学希望者が5千人いたら、5千人分の
論文を読んで、一定の基準で評価しなければならんわけだろ。1人分評価する
のに5分としても、2万5千分、つまり416時間かかる罠(藁
>>510 そうですね。大量の答案の効率的処理のためにあのような形態がとられているのでしょう。
ただセンター試験では学力は判断できないと思いますので(外国語に関してはセンター試験の成績と二次試験の成績が
ほぼ比例していると言われていますが、それも最低限での話でしょう)、例えば東大後期試験や京大理学部のような
センターを脚きりにのみ使用するなど簡単に調整できることだと思いますし、独立行政法人化した今なら、
逆にそれを利用してさらなる独自入試に踏み切ってもいいでしょう。なにせ人数が多すぎる状態なので、例えば私の
在籍する大学法学部では、マスプロ型の授業が多く、ゼミにしても全員は入れない状況が続いてきました。
むしろ教養課程のほうが細かな教育が施せたほどです。これは異常というべきで人数の大幅削減(これはLS設立の影響
でかなり改善されようとしていますが)は必要でしょう。また授業もマンネリ化しているためにシケタイである程度カバー
できるという有様です。(私も利用しているので偉そうにはいえませんが)
あとこれは無理なことですが、フランスではグランゼコール進学希望者はリセ卒業と同時に準備学級に進みます。
この時点で一定の振るいにかけれますし、また入試が難しいため、ここでもふるいにかけれます。
日本もこういうわけにはいかないと思いますが、エリート教育というなら長い時間をかけて入学者選抜を試み、
入学以後の卒業用件を厳しくする必要があるのではないでしょうか。
512 :
右や左の名無し様:04/07/02 23:23 ID:G9U4lDAm
>>511 キルケゴール、フッサールのおすすめ入門書おしえてちょ。
今長谷川宏の「ヘーゲル『精神現象学入門』」読んでる。
フッサールで定評があるのは 谷 徹 これが現象学だ 講談社現代新書
定評がないのは竹田青嗣の一連の著作
514 :
右や左の名無し様:04/07/02 23:32 ID:G9U4lDAm
>>513 d!竹田わし好きだな・・・(´・ω・`)
>>511 私は法学部に在籍していますので、哲学は専攻していませんのでどうにも判断しかねますが、
キルケゴールはほとんど読みませんし(「死にいたる病」ぐらいです)、入門書となると読んだことありませんので
申し訳ありません。
フッサールに関しても似たようなもので、強いて言うなら新田義弘「現象学とは何か」や「現象学」がよく整理されている
のではないでしょうか。あと斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」を読んだぐらいです。現象学を知っている友人から
言わせると巷で有名な竹田青嗣はおすすめできないとのこと、私も立ち読みしたぐらいです。
とにかく哲学には疎いですし、カミソリのような頭脳の持ち主というわけでもなく、哲学的センスはないだろうと自覚して
いますので、推薦とまではいきません。ただフッサール自身の「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」は、
フッサール末期の思考だそうですが、現象学のエッセンスが詰まっていると聞きましたので一読しました。
難しかったです。
516 :
右や左の名無し様:04/07/02 23:34 ID:G9U4lDAm
517 :
右や左の名無し様:04/07/02 23:35 ID:G9U4lDAm
>>511 >日本もこういうわけにはいかないと思いますが、エリート教育というなら長い時間を
>かけて入学者選抜を試み、入学以後の卒業用件を厳しくする必要があるのでは
そうだろうねえ。エリート教育をするなら、それに見合った形をとらないと
ダメだろうねえ。しかし、物事をなすにはオアシがいるワケで。まともなエリート
教育を行うためには、公教育の位置付けをはっきりさせた上で、それを確保する
ための国からの指導とか、特定大学への補助に対する国民の理解を取り付けないと
難しいだろう。
公教育に対する国民の見方は、建前では教育を受ける権利に対応するもの、
本音は立身出世の道具だから。教育を受ける権利から言えば、平等性を害する
エリート教育は否定されがちだろうし。国が個人の立身出世のために私的に
カネを出すことも批難を浴びるだろうし。
公教育と言うものは社会資源を生産し、社会全体の富を増大させるための
一種の投資、社会政策との認識を国民に納得させないとダメだろう。そのためには、
高等教育と無縁の大衆にとっても、高等教育が生活の役に立つことをもっと
アピールすべきだろうねえ。社会人教育を強化するとか、資格制度を大学と
結びつけるようにして、大学の社会資産を大衆に還元するようにするとか。
ともかく、大衆が気持ちよく金を出して学者とかエリートの谷町になるような
社会風土をつくらんと、大衆から不満がでる罠(藁
上で挙げた本の中で、自分がこの本を書いた理由として
内容的に優れた本もあるけど、でもふるいしー、みたいな、または
「わかりやすくそれなりに面白いが(正直に言ってかなりひどい)誤解や曲解に基づいた本」
があると書いていて、なんとなく竹田の事を想定しているのではないか、と思って読んだのだがねえ。
そんなことよりカントを読みなさい、カントを、といってみる。最近気づいたが、やはりカントは偉いよ。
ウゴウゴルーガの「教えて偉い人」にでれるくらい。
520 :
右や左の名無し様:04/07/02 23:48 ID:G9U4lDAm
>>519 カントはちょうど今、以文社の宇都宮訳を読んでる最中です。。(買えんから借りた)
通学中に読むのがヘーゲル、家でカント。プロレゴーメナまだ読んでない。
じゃあ柄谷を読みます。(えー)
>>521 云ね、といいたいところだが、和の精神で許しておく。
柄谷を読めば、天皇について理論武装できるらしいよ。
524 :
右や左の名無し様:04/07/02 23:57 ID:G9U4lDAm
>>522 カント以外にこいつは読んどけっていう哲学者いますかね。
上であがってる人の他にはプラトン、スピノザ、ニーチェ、ハイデガーあたり読もうかと
妄想してる訳ですが
>>518 もっともですね。私としては公教育の無料化がベストですが、あくまでベストであって実現は予算の関係上難しいでしょう。
国民の教育を受ける権利を保障し、また高等教育を受ける公平な機会を提供する必要があります。官僚になった先輩が
言ってたのですが、今の日本の教育は狂っているそうで、家庭における教育費負担ををできるだけ緩和する必要が
あります。でないと単なる階級の再生産で終わってしまいかねませんから。
あとエリート教育機関への予算偏重は、今でも行われているわけで、実際東大京大への配分が群を抜いています。
それぞれの大学は社会的に期待されている役割が異なりますからやむをえないことだと思います。
昔なら貧乏な家庭に育った人でも、努力しだいで大蔵事務次官にもなれたわけで実際官僚は庶民の出が多かったわけ
ですが、現在はそういう家庭出身の人はなかなかいません。
公教育の拡充と十分な予算を充当することはソフト面で大きな社会的利益となるはずでしょうし、また初等・中等教育
での奨学金拡充とそれによるエリート教育を享受できる可能性ある人間の母集団を広くすることで、選抜される集団の
質の向上を望むこともできるのではないでしょうか。
西欧思想って要するに一神教だよねーとか言っている人間は、
スピノザを読めばいいと思う。
>>524 >プラトン、スピノザ、ニーチェ、ハイデガー
いーねー、いーねー。無理に勉強しよう、というスタンスで読むより、関心が持てたものから
読んでおくと良いと思うけど、あとはヴィトゲンシュタインはとりあえず押さえておくと、他の(現代の)哲学書を読むときに何かと便利。
岩波で論理哲学論考の訳が野矢茂樹訳で出たことだし。
入門書としては、永井均の『ヴィトゲンシュタイン入門』やグレーリング『ウィトゲンシュタイン』(講談社メチエ)
はどうだろうか。後期ヴィトに関しては、個人的には後者の方が良かったかも。
528 :
右や左の名無し様:04/07/03 00:06 ID:U5CejXBP
>>527 d!たしかにヴィトは読んでおいたほうがいいかもしれん。。
思想の深み、という点では俺は語る資格はないけど、単純に後世に与えた影響という点では、
二十世紀最大の哲学者はハイデガーではなく、ヴィトなんではないか、と思うんだけどね、前期ヴィトにせよ後期ヴィトにせよ。
>>525 >昔なら貧乏な家庭に育った人でも、努力しだいで大蔵事務次官にもなれた
大学レベルで見れば、効率的な受験産業の発達とかに原因もあろうが、
省庁の採用とかにも問題があるんだろ。仕事上の意志疎通を考えて政治家の子とかの
ハイクラスに属する者を採用したがるとか(藁
ともかく、高度の教育を受ける層が厚ければそれだけ人的資源は充実するが、
それを養うのにはカネがかかる。高等教育の恩恵を直接受けない者にも、
納得してもらって、予算配分増やす必要はあると言えるだろうね。そのためには、
大学の知的資源が現在の高等教育とは別の形で一般大衆に還元される必要が
あるだろう。エリート層を養うために、カネを出せと言っても大衆がそれに
なっとくしなければ合意が取り付けずらい。ヨーロッパとか戦前の日本のように
社会階級が厳密に別れ、それを大衆が受け入れるならともかく、現在の日本で
エリート教育を公然と行えば批判が噴出するだろ。エリート教育重点校から
もれる大学関係者がなにより音頭をとって煽るだろうし(藁
531 :
右や左の名無し様:04/07/03 00:14 ID:U5CejXBP
論理学に強くなれそうなイメージがある、けど哲学史でざっと見ただけだから
よく記憶にないですな〜>ヴィト
たわむれに借りた「90分でわかるヴィトゲンシュタイン」でも読んでおくかw
>>530 エリート教育を許容する社会的素地があるか否かの問題ですね。どんなんでしょうね。条件が異なりますからね。
ただ今でも大学間序列が厳然としていて、文部科学省からの扱いに関しては、東大と京大の二校はそれ以外の大学
と画然と別の扱いを受けていますし(両校で国立学校予算の約7割を占めているわけですし、総長等の給与その他の
待遇面でも別扱いされています)、この二校に限定してならさほどの抵抗もないようにも思われますが。
あと官庁の採用の問題ですが、官庁の採用に関しては縁故採用は一般企業と比較して相当少ないと思います。
基本は公務員試験の成績で、序列は退官までつきまといますから。ある意味公平でしょうが、融通性のない制度とも
思えます。もっとも採用時の各省庁の裁量はもちろんありますが、基準点に達していなければそもそも採用予定者名簿
にも載らないわけですから縁故採用もしにくいと思いますよ。外務T種があったときは、よく縁故採用は耳にしましたが。
ともあれトンクスでした、>クズ本研究者&猫両氏
ヴィトの原著も射程に入れとこ
>>532 国民にあまり知られんように非公然とやってるからできるんだろ。おっぴらに
旧帝大でエリート教育をやると宣言して、じゃんじゃんカネを注げば批判されるだろ。
エリートを選抜し養成することが、社会にとって有用でありそれが公教育の目的の
一つであるとの国民的合意が必要だろう。公教育でエリート教育を正式に認知して
貰うには(藁
採用の第一段階は試験方式だからそこでの縁故はないが、省庁レベルの採用段階で
一定の考慮が働いていないとは言えんだろ。採用予定者名簿に載ったすべての者が
採用されるワケではないのだし。そこからもれる者もかなりの数でいるわけだし。
男女の採用比率で見てもそれは顕著だろ。試験段階での男女の比率が、実際に省庁に
採用される男女の比率に比例はしとらんだろ(藁
採用者の立場から見れば、同じような能力を持つなら付加価値がついた者を
採用するわけで。外部との連絡を考えれば政治家とか財界の関係者を取るだろうし、
省庁間とか内部の連絡を考えれば、特定校の出身者を重点的に取るだろう(藁
ここで話されているのは、学部教育(或いは入学以前の段階の教育)なのだろうが、
研究の面では、まー、大学もかなりエリート主義的になってきてはいるんじゃないの、COEとか。
あれから漏れた大学だと、研究するのは結構きついだろうな。
>>534 国民的合意を取り付けることは必要でしょう。反発もありうることでしょうし。ただ大規模な反対運動とまではいかない
可能性もありますけど、いずれにせよ国民の一定の理解がなければことは進まないことは確かでしょう。
国民がどう判断するかは、こればかりはわかりませんね。
あと官庁の採用に関しては一次試験のみではなく(というか、一次試験は一定の点数以上でなければ自動的に不合格ですので
問題になりません)。問題は官庁採用の際にも、成績上位者順のリストが各省庁に回りますので、
そのリストの中から基本的に採用されるわけですが、一部の例外もあるとはいえ、基本的には成績上位者から採用となる
ケースが多いようです。できるだけ東大法学部での成績をあげることに地道あげるわけですし、成績が芳しくないと、
たとえ合格水準をはるかに越えていても留年して再度上位の成績をとることに努めるわけで、やはり成績の重要度は
昔に比べて低下しているとはいえ、非常に大きいことは確かです。たとえ採用されたとしても同期の中で成績下位で
あるならば出世は難しく早々に退官というレールが待っています。このあり方もどうかとは思いますけどね。
男女差別に関しては、確かにいえることですね。ただ大企業に比べてどうかということになると、著しく酷いということでも
ないと思います。もちろん差別はありますので改善すべきでしょうが。
>>536 中央集権的な社会構造をとる以上、それを具体的に運用するエリート層は
必要で、それをある程度国費で養成することを民衆に納得させるしかない罠。
しかし、そのためには民衆の理解が不可欠で、エリート養成施設が一般民衆の
役にも立つことを示す必要があるわけで。それを欠いてしまえば民衆からの支持は
取り付けられんだろ。逆に言えば、大衆からの支持さえあれば、いくらでも
カネを注ぎ込むことは可能なのであって(藁
省庁の採用に関しては、採用担当者が責任を問われる問題だから、あまり
恣意的なことはできないと言うことだろ。採用に失敗があれば採用担当者が
責任を問われるわけで。
とりあえず点数を採用基準にすることは、採用に失敗しても責任のがれが
できるからなんだろうな。点数は客観化されているから、採用担当者の
鑑定眼を必要としないし。しかし採用がすべて人事担当者の意向できまるわけでも
ないだろうから、点数以外の付加価値が考慮されることはあるだろ(藁
538 :
右や左の名無し様:04/07/03 02:47 ID:3hrFnT0V
>>エリート議論の諸兄方
エリート養成が国民に認められるかどうかだが、この場合障壁になるのは平等志向である戦後民主主義的価値観ではないか。
まあ名実ともにエリート養成を行っていた戦前の教育を否定から始まっていたからある意味必然かもしれないが。
それにしても左右どちらの陣営もエリート教育を必要だと主張していて(日教組とかはしらんが)、
エリートと一般大衆からなる(二極化?)社会を目指しているのが興味深い。
539 :
右や左の名無し様:04/07/03 02:50 ID:3hrFnT0V
>クズ本研究者様
内容から見て、ひょっとするとフランス政治やっている○○君?
>>540 あなたは一体どなたですか?
あなたも3類の人?それとも駒場でご一緒したことのある方?
542 :
540:04/07/03 20:12 ID:???
>クズ本研究者様
私も本郷ですよ。前に馬場康雄先生の「ヨーロッパ政治史」に出てました。
わかる?
>>542 だいたい予想がつきます。Fゼミの方でしょう?
あんまり見ないで下さいね。恥ずかしいですし。
545 :
右や左の名無し様:04/07/04 01:02 ID:4vIqeTVh
大学に入ったら法学部で政治思想を専攻しようと考えているものです。
きっかけは丸山真男の「『である』ことと『する』こと」を読んだことなのですが、
現在は丸山のような政治思想研究は廃れてしまっていると噂で聞いたのですが、実際はどうなんでしょうか?
>>543 もしかして、君3類から法転?
それめちゃめちゃコンプレックスあるんだけど…。(俺に)
>>545 「丸山のような」の意味がよくわからない。
そもそも、丸山は所謂政治思想家ではないだろうし。
>>546 私は文一からそのままあがりましたよ。
でもここまで言うと正体がばれてしまいます。
まさかむっちょさんも同じ大学の方?
>>547 政治思想史家ですね。
>548
というか「日本」政治思想史家というか。
単純に政治思想家といっちゃうと、主に欧米の議論をやっている人だと思っちゃう。
東洋政治思想史の講座を担当していましたし、厳密に言うなら日本政治思想史の
研究者であるわけですが、緑会論文をはじめとして初期論文には欧米の思想史に
ついても若干ではありますが書いていますし、ご本人が政治思想史家だと
言っていたもので。
アジア政治思想史と名を変えて細々ながら生きながらえていますよ。
>>545 私は政治思想史を特に勉強しているわけではないのですが、丸山さんの学風が
今も受け継がれているかと言われれば疑問もあるのですが、色々な大学に
丸山門下の先生がいるので、そういう先生のもとで学ばれるのも一つの選択だし、
「是非この先生に」というわけでもないなら、将来の選択肢が多く確保される
蓋然性のある大学の法学部(大学によっては法学部ではないところもありますが)
に進まれるのがいいのではないかと思います。
丸山は歴史家だよと言ってみるテスト。
>>748 隣の建物の一階にいたり。
>>552 文学部の方ですか?院生の方かも知れませんが。
レスを見ると社会学か歴史学かにお詳しいようですが。
ひょっとしてどこかですれちがっているかもしれませんね?
かつてメトロで向かい合わせになったかもしれませんし。
ここ数年で読んだものだと、
小説だと舞城王太郎のノベルス作品
漫画だと二ノ宮知子「のだめカンタビーレ」
が良いと思うのだが、どうだろう。
カンタービレだったorz
556 :
540:04/07/04 03:41 ID:???
>クズ本研究者様
図星ですね。内容からして誰だかわかりますよ。
夏学期ゼミ「新しい戦争」をとらなかったのですか?藤原先生もクールながら
熱いですよ。来週、大学でお会いしましょう!!
舞城は面白いけど、4冊読めば飽きる。
それよりも佐藤友哉ですよ。
>>556 「新しい戦争」は希望者殺到だったでしょう。院生もいることだしかなりの大所帯
ですよね。興味大有りなのですが。
それにしても少し前までテレビなどに出ずっぱりだった藤原さんも少し控えているのか、
それとも需要が減ったのか、あまりマスコミでの登場回数が減りましたね。
間違っても朝まで生テレビには出演して欲しくないです。声のでかい人の目立つだけですから。
姜さんが孤軍奮闘していますが、系統だった議論が成り立ちにくいあの場に果たして出る意味が
あるのか、少々疑問です。
スレタイに話を戻すと、政治思想ではありませんが、アメリカ「帝国」論を一瞥するのに
藤原帰一「デモクラシーの帝国」は参考になろうかと思います。趣味の映画好きが
反映されて、小気味の良い読みやすい本です。同じく
藤原帰一「「正しい戦争」は本当にあるのか」
は対談形式で、平易な言葉でわかりやすく国際政治の基本的な考え方を語っている良書
だと思います。
いわゆる「帝国主義国家」というのは「共和国」の帰結なんだな
というかこういう場合「帝国」ではなく
「完熟共和国」などのような語を使ったほうがいい
君主国のほうが大人しい穏やかな安定した国のほうが多いんだし
「帝国」の語を“帝国主義”のような言葉に使うのは無理がある
「“帝政”時代のローマのような」ということなら
古代ローマのインペラトルは「命令者」というのが語源だから
「命令者主義」とか「命令国主義」とかいえばいい
「帝国」は適当ではない
560 :
右や左の名無し様:04/07/05 18:06 ID:5yTGCKzo
不朽の名作「政治判断と認識」
561 :
右や左の名無し様:04/07/06 00:17 ID:tzL2pfFH
大作先生の本を黄泉たまえ、キミタチ。
562 :
中宮祟@ぷろ2ちゃんねら ◆aT7oJ3v1Xw :04/07/06 00:21 ID:3l6SAuMH
藤原先生の「帝国」概念は、これまでの「帝国主義」とは異なる概念です。
それは何度も著書でも講義においても強調しています。論座7月号所収の書評論文にも改めて確認
されています。その後に、アイケンベリーの論文がありますから、あわせて
読まれると参考になります。
ローマ帝国と並べて論じるというほど単純な論理展開でもありません。
藤原さんのみならず、先ほどのアイケンベリーや、ネグリ=ハートの「帝国」も
参照されるでしょう。ネグリに関しては留保がつきましょうが。
といっても、私は必ずしも藤原先生と同意見でもないのですが。
帝国とは:
複数の文化圏または民族が単一の最高権威によって統合された国家のこと。
最高権威とは議会・王権または国家権力そのものを指す。
(ローマの共和制時代と帝政時代を区別する必要はない)
Oxford英英辞典:
an extensive group of States or countries
under a single supreme authority, esp. an emperor.
一民族一国家的な国民国家との違いは、
自然的概念である「民族」を超えた超国家であること 。
ある普遍的理念で結ばれた世界国家。
これが「帝国」の定義だよ。
「米帝」「アメリカ帝国主義」
「第三帝国」「大日本帝国」などの言葉と
「帝国」の意味のズレについて語ると一冊本が書ける。
(実際、書いた人もいる)
レーニンは「帝国主義」を資本主義が腐ってゆく最後の段階と定義した。
(なんのこっちゃ)
広辞苑では「帝国=皇帝の統治する国家」とだけ書かれている。
じゃあ、と皇帝を調べると「皇帝=帝国の君主の尊称」。
おいおい...
「エンペラー」の語源でもあるラテン語のインペラトルは、
「命令する者」とか「司令官」といったような意味だった。
“帝国主義”等の「帝国」は訳語としては考えるべき語だ。
訳語を新たにするなら「令国主義」とかいうのがいいかも。
旧訳語の“ていこくしゅぎ”に音が似てて広まりやすそう。
“imperialism”には、確かに冷酷なところもあるわけだし。
辞書的定義としての帝国概念を意味変容させて論じていますね。
そこは断りを入れていると思います。なお、これは藤原先生のみならず、
アメリカ「帝国」論を主張する論者は往々にして帝国概念に多少意味を
変容させて論じます。一見古色蒼然とした名称なのですが、言辞の持つ
コノテーションやメタファーとしても利用できると見ているのかもしれません。
といっても、レーニンなどが使用した帝国主義概念とも、先述したとおり
異なることを口をすっぱくして述べています。それどころか、これまでの
帝国主義としての分析に対しても批判が述べられます。
マルクス主義の帝国主義概念の欠陥は、帝国主義が資本主義の特定の形態を指す
概念としてつくられているために、市場経済のあり方等資本主義の形態と、
「帝国主義」として表象される軍事力や政治権力の行使との関係が曖昧であることだ、
として藤原さんは従来の帝国主義概念で以って現状分析することを批判します。
そして帝国主義ではない「帝国」概念を用いるかについて、現代世界の国際関係が
古典的な勢力均衡論に立脚した多元主義ではなく、他国と比較にならない権力を
保持するアメリカによる支配が貫徹しているからだ、としています。
参考になるかどうかわかりませんが、一応藤原先生のアメリカ「帝国」論の
前提を述べてみました。
>>568 言葉の定義を一般的な物からすり替えて使うのは、新興宗教のよくやる手だぞ。
ここで新しい言葉を考えるのなら話は分かるが。
要するに恣意的に読む人を勘違いさせようとしているわけで、これをやっているだけで
「こいつ、信用できねえな」と、俺なんかは判断している。
>>569 別にすり替えしているわけではないでしょう。
例えば、ある主題をめぐり議論がなされているとき、それまで明示的である
にせよ、暗黙にか前提されていた意味内容を何の断りもなくずらして論じる
ことは詭弁になりかねません。しかしこれまで流通していたある言葉の概念を
少しずらしたり、あるいはそこに更なる意味を加味することを論じることにより、
断りを入れて論じることは別段詭弁でも何でもありません。
そもそも言葉の意味は、様々な社会的使用を通じて形成されてくるものであり、
最初から辞書的定義があるのではありません。辞書は、社会的に使用されてきた
言葉の意味を対象化した上で「定義」として記述しているにすぎません。
ましてや学術用語ともなると、多くの学者などが学的考察を積み重ね、
意味が整序され、あるいは意味が堆積していくものです。もしこれまでとは
異なった使用の仕方をするのであるならば、これまでの意味と自分が使用する
概念内容を完全にとまではいかなくともある程度断りを入れた上で論じていきます。
例えば、「自由」という言葉一つとってもその意味内容は論者によって違いましょう。
「観念」といった哲学上の認識論で使用されるタームにしても然りです。
OEDや広辞苑で記述されている意味とは異なるではないか、といって詰め寄ろうものなら
それこそ笑い者にされてしまいましょう。文献学的に遡及され見出された意味と
現在使用されている意味が大きく異なっていることなどざらでしょう。
問題は、それ以前に流通していたであろう意味内容とこれから使用する概念の意味内容に
多少のずれがあるなら、どこが違うのか、またそのように使用する意図はどこにあるのか
をある程度明示しているか否かということではないでしょうか。
571 :
右や左の名無し様:04/07/07 00:28 ID:2zr7X070
再臨のキリスト、唯一神又吉イエスは日本・世界をどうするかどのようにするか (那覇出版社刊)
>>570 >問題は、それ以前に流通していたであろう意味内容とこれから使用する概念の意味内容に
>多少のずれがあるなら、どこが違うのか、またそのように使用する意図はどこにあるのか
>をある程度明示しているか否かということではないでしょうか。
明示が必要なぐらいなら、「誰もが勘違いしないように名前を変える」が学者のやるべき事でしょう。
アメリカ帝国とローマ帝国の「帝国」は明らかに別の定義で使われているものなので、
同じ言葉を使う意図は、恣意的に勘違いさせようとしているようにしか見えない。
おぬしが専門にしているクズ本でよく使われている手だぞ。
>>570 多少の意味のズレがある場合、全て用語を変えねばならないということになると、
歴史的・社会的に意味が集積してきた概念を指す言葉を使用しにくくなりますよ。
先ほども例に挙げましたが「自由」という言葉一つとっても、あるいは「観念」
という言葉一つとっても、少しずつ論者にとって意味内容が異なることもあります。
だからといって、辞書的定義で記述されているそのままを使用しようといっても、
あまり生産的でもないでしょう。ただある言葉を使用するからには、ある程度
再定義しなおすとか、断りを入れるなりして読者と一定の概念の共有がなされなければ
なりません。
さて、「帝国」概念ですが、なぜこの後を使用したかは、マイケル・ドイルの
『帝国』の影響が強かったと思います。アメリカが他国とは比較にならない軍事力・政治力
を有し、もはや一極支配の様相を呈してき、またこれまでの多元的秩序を要求するこれまでのあり方を
変更し、極端な普遍主義・単独行動主義により一元化してしまった内容を指すタームとして、
ローマ帝国とは同じとはいかずともその形態を抽象化すればある程度の共通性を見出せる
という考えがあって、使用に適している(メタファーとしての有効性も含めて)として「帝国」概念を使ったのかもしれません。
もちろん私としては若干の異論があるのですが。
もっとも、「帝国」概念があまりに古色蒼然としているがために、別の用語を
使用する選択もありえただろうと思います。
といってもアメリカ「帝国」論を主張する論者、中でも藤原さんに恣意的に勘違いさせよう
という意図までは感じませんね。
別にこの論者に賛同するわけではないですが(というか私自身アメリカ政治を
特に専攻しているわけでもありませんし、偉そうなことまでは言えませんが)、
アメリカ「帝国」論の中心的論者の一人と目されているジョージタウン大学教授の
アイケンベリーの論文を参照することにしましょう。
アメリカが他国の制約を受けずに行動することになったのは、近代始まって以来で、
現在の国際政治の環境は、アメリカの一極支配の構造が見られる世界である、との
認識があります。この一極支配構造を「帝国」概念を基軸にして分析しようとする
試みが、いわゆるアメリカ「帝国」論でありますが、論者がこの動きに全て否定的
であるわけではなく、肯定的に捉える論者もいます。いずれにせよ、「帝国」論という
点においては同じです。チャールズ・メイヤー、ゲイル・ルンデスタッド、
チャーマーズ・ジョンソン、ニオール・ファーガソン、ベンジャミン・バーバー、
マイケル・マン、エマニュエル・トッド、チャールズ・カプチャンなどその評価も、
見方も多少異なります。
アメリカでは先制攻撃論に見られるように、特に軍事的に防御優位の体系から
攻撃優位の体系へと変質を遂げましたが、その攻撃優位を保持しうる国家は
アメリカに限定され、かつてのローマ帝国に比すべき圧倒的な軍事的な優位
を誇るようになったということも、この議論になお一層の拍車をかけています。
また、アイケンベリーも、「帝国」概念として表象されている事態が、かつての
帝国のそれと同じではないことを指摘し、どこが同じでどこが異なるのかをも
論じています。
もっともアイケンベリーは、この動向をアメリカの持つ構造からいわば必然的に
導出できる過程であるとは見なさず、あくまで政策の誤りとして指摘するに
とどまります。
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>>574 それに書いてある「帝国」の内容は、通常は「覇権」もしくは「覇権国」と呼ばれるもの。
百科事典 マイペディアより
覇者としての権力を指し,英語ではヘゲモニーhegemony。一つの国が軍事力,経済力,
政治力,あるいは天然資源の豊かさなどにおいて他の国々を圧倒するものを持ち,一定
の原理・原則をもって国際的なシステムを創造し,またそれを維持しようとすることをいう。
そうした意思と能力を有する国家を覇権国と呼び,こうした超大国への批判として〈覇権主
義〉ということばが,米ソを念頭において1970年代から中国の用語法にもとづいて使われ
るようになった。
確かに覇権国が他国を併合して多民族国家になったのが「帝国」といえるから、似ている
のは当然だが、領土併合を伴わないのに「帝国」は無理だろう。
わざわざ「覇権」でなく「帝国」を使うところに恣意を感じるね。
クズ本がなぜクズ本なのか知ってるか?
あの手の本はたいがい、先に結論を決めておいて、その結果になるように恣意的な分析を
してしているから、しかもかなり強引に、否定する現実は無視をして。
これをやると論理展開がむちゃくちゃな見事なクズ本になる。すくなくとも俺の知ってるのは
すべてこれだ。
その論文の「帝国」の使い方も、最初にアメリカ批判の結果があって、その結果に持って行
くために「帝国」を選んでいるという、かなり恣意的なものを感じるわな。
(一応言っておくが読んでないけど。)
小室の「こうすれば太平洋戦争に勝てた」 と基本的には同じ。
>>577 その通りです。領土支配を伴わないという意味で従来の帝国概念と異なります。
そしてそのことは、アメリカ「帝国」論者のほとんどが、議論の前提事項として
触れています。アイケンベリーの論文もそうですし、また別の文脈で論じる
ネグリ/ハートも同じく、何ゆえ「帝国」という語を用いるか、それこそべらぼうな
量を使って論じています。また藤原先生もその著「デモクラシーの帝国」でも
何ゆえ「帝国」か、ということで真っ先に論じていますよ。このぐらいのレベルの
論者になりますと従来の「帝国」概念など当たり前の前提ですし、私のような
学生レベルですら当たり前の概念として、その先を論じようとしているのです。
また、藤原さんの「帝国」論に異を唱え、むしろ藤原さんが批判する「帝国主義」論を
擁護し、古典的帝国主義とは異なる「新帝国主義」として現代政治を分析する、
同じくかつて東大社研に奉職していた一橋大学教授渡辺治らの研究でも、
当然の断りとして領土支配を伴わない帝国主義としての新帝国主義として
認識していますよ。これら論者はそれぞれ見解も異なりましょうが、クズ本の
著者のような粗雑な議論はしていません。何も身びいきから言っているのでは
ありません。(事実、私は藤原先生の考えに異論がありますから)。
批判したければ著書や論文でも読まれればどうでしょうか。
>>577 ついでにあなたのような「帝国」という用語を使うことにより、アメリカへの
イメージ悪化を意図しようとしているのではないか、などという非難にも
真っ先に触れていますよ。ネットに掲示されている「百科事典」か何か
や辞書を持ってきて、「お前さんの主張は、辞書の意味と違うじゃないか」
と批判しても、批判にはならないだろうと思います。さすがに学生のレベル
でもそんなこという人は、私の周囲には少なくともいません。
>>579 分からない単語があれば辞書引きするのは当たり前じゃん。
お前さんはそうしないのか?
これが最初から「新帝国主義」とか別の名前なら、新しい概念だとこちらも考えるから
勘違いはしないが、その使い方では勘違いさせるのに十分。
「覇権主義」という言葉も、米ソ対立あたりから使われ始めたようだが、この状況はそれ
までの帝国主義とはちがう、当時としては全く新しい状況だったので、わざわざ中国の
古典から「覇」という言葉を探してきたものだ。
これなら新しい概念であることがすぐ分かるので文句は言わない。
どちらにしてもこういう単語の定義を勝手に変えて使うやり方は、それだけで「うさんくさい」
と見る人間もいることを覚えておいてくれ。俺の経験則だ。
実際、新興宗教ではよくやっているし、左翼なんかもしょっちゅうやっているんでな。
だから何も勝手に用語を恣意的に変えて使用しているのではありませんよ。
これまでの「帝国」論でも使われ、意味が堆積して論者によってズレが生じる
わけですが、その際何がどう異なるのかを詳細に説明しています。
主権概念でさえもこれまで散々論じられているわけです。当然論者により
微妙に違い、その中で議論が行われ概念の整理がなされ、また意味がより豊かな
内容を帯びていくということがしばしばです。人工言語のように完全にその内包と
外延を一意的に定義可能な言語でもない自然言語を用いてする学問研究などにとって
当たり前の話だと思います。
それと、わからなければ辞書で調べるといいますが、それも当たり前でしょうけど、
逆に言えばその程度の知識すらない、ましてやご当人の著作やそれまで論じられてきた
「帝国」論をも一瞥せずによく安易に批判できますね。何度も言うように、
読んでから批判された方がいいでしょう。少なくとも藤原先生は周到に議論を
進める方です。著作においても授業においても緻密に議論を積み上げていかれます。
私は藤原さんに全面的同意する者でもなく、むしろ若干の批判的意見を持っていますが、
それでも藤原先生の授業の時の頭の切れは秀逸ですし、論文や著作を見ても
あなたのいうような安易な「批判」は当てはまりません。
つーか社会科学で通常用いられるのとは違う概念を与えられてる用語を
普通の辞書(「大辞林」「広辞苑」等でも)で引いてワーワーやることが不毛
それこそうさんくさい
つーことでスティーブン・ハウ『帝国』(岩波書店、一冊でわかるシリーズ)も推奨してみたり
微妙にピントはずれた本かも知れないけどね
>>582 だから社会科学は遅れた学問分野と言われてるんだろ。
単語の定義をしっかりしておかないなんて、他の分野じゃ考えられないレベルだわ。
>>584 そうでもないけどな。俺はクズタンや藤原帰一(実は、俺はこの人の下の名前が格好良くて
仕方ないと思っている)とはこの論点に対してかなり立場を異とする−あえて混同されるような
概念を用いることは、不合理だと考える−が、言葉の定義をしっかりするべき云々という論点は
日本でも既に何十年か前に通り過ぎた議論だと思うけどな−例えば碧海純一『法哲学概論』−。
俺自身は、クズタンの見解をかなり強く拒絶するし、正直何故わざわざ帝国概念にそこまでこだわるのか
理解できない−旧来の帝国概念との共通性を強調したいにしても、わざわざ帝国という名前を採用する
必然性はない−が、言葉の定義をしっかりしろ云々レベルの批判では批判にならない
−と彼らは考えているのだろう。俺は必ずしもこの再批判が成功しているとは考えないが−。
従って、単純に学問的遅れと総括するのは不適切だと思うけどな。
今更、自然科学こそが唯一の学問モデルと考えている方がよほど19〜20世紀初頭の学問観だろうし。
>>585 私は何も藤原さんと同意見ではありません。それは何度か断っています。
「辞書的定義と違っているじゃないか」というような批判は批判の体を
為していないでしょうと申し上げたまでです。それはアメリカ「帝国」論者も
織り込み済みで、だからこそ著作や論文においてことあるごとに言及している
わけですから。ただ私として、他の用語を選択する方法もあったのではないか、
ということに関しては、大いにありえたかもしれないとも考えます。それも書きました。
その上で、なぜ藤原先生や他の「帝国」論者がこの用語を使用するか、ということに
ついて、とりあえず藤原さんはその他の著者の主張を掲げてみたということです。
したがって私の主張というものではありません(正確な要約になっているのか、という問題は
あるかもしれませんが)。アメリカ「帝国」論者の多くは、これまでアメリカの政策は
政治的には多元的秩序を要求してきたが、そのあり方に明らかな変質が見られるという
視点を基軸にしていると思います。ものすごく乱暴に言うならば、政治的な多元的秩序という大前提が疑われ出した
事態があるからこそ「帝国」概念が再び呼び戻されたのだ、という主張でしょう。
これまでの帝国概念の整理と、なぜ「帝国」なのかという論点については、
「デモクラシーの帝国」の一章かけて論じられています。
読まれたかもしれませんが。
といっても私としては、若干異論があることも事実で、むしろ藤原先生が
批判した「帝国主義論」ならぬ「新帝国主義論」として分析する方がいいだろう
と思っているのですが。
>>585 というかね、クズ本研究者本人が嘆いているとおり、この分野に比較的
クズ本が多い原因も、この学問的後進性が招いていると見ているぜ、
個人的には。
とにかくひどいのがここまで多い分野はほかに知らない。
ま、それが面白くて俺はやってんだがな。
つづき
もし「帝国」という用語を使用することについて批判を為そうとするなら、
従来の帝国概念と共通性以上に相違点の方が目立ち、異なるとして捨象された要素が
分析の段階で密輸入されるなどされ、結果かえって分析を見誤られる可能性が
大いにありうるということを示すなどしないと、有効な批判ではないのではない
かと思えます。
あるいは、そもそも「帝国」という用語が使用されることにより、いくら従来の意味と
異なると丁寧に書こうと、必ず誤解を持つ人間が生じやすいのだから、よほどの
必要性がない限り、言説の普及の効率性という観点からも得策ではないというような
合理性の点から見た批判もありうるかもしれません。まあこれは直に中身に対する
批判にはなっていない気もしないではありませんが。
では明日も学校ですので。
>>586 件の岩波新書は、国際政治に疎い俺としては結構楽しめた本ではある。
ただ、国際秩序としては、多元的秩序の方が「帝国」よりも好ましいという、ある種伝統的なリアリズム論
が価値的前提として混入している点が疑問ではある。混入していることが問題と言うより、
何故デモクラシーや人権の名の下に介入してはいけないのか、という点が全くと言っていいほど
論証されていない点に違和感があった。
それはともかく、仰りたいことはさしあたり理解した(ということとする)。
>>587 別に学問的後進性−なるものがあったとして−は関係ないだろう。単に著者の知的後進性が問題なのであって。
帰一たんにしても、クズタンが触れているように『アメリカの帝国』第一章で、帝国概念の定義がきちんと行っている。
言葉はいわば記号であって、自分がその言葉をどういう意味で用いるのが適切なのかを説明すること、
言葉の定義をしっかりすることが重要である、という規約主義的立場を取っても、帰一たんは
その条件を満たしているだろう。問題なのは用語の選択であって、定義がしっかりしているかどうかではない
−後者の問題に対してはしっかり対応されている−。
>とにかくひどいのがここまで多い分野はほかに知らない。
そんなことはないだろう。自然科学の領域には「とんでも本」を研究する「と学会」という先駆者がいる。
社会科学が自然科学に比べてクズ本が多い、というのは実証的裏付けを欠くように思うが。
ついでに書いておくと、日本語の帝国概念は種種の学国の概念を取り込んでいる故に複雑である。
例えばドイツ語のReichは一般に帝国と訳されるが、ワイマール共和国も正式な国名はドイツ・ライヒである。
従ってワイマール共和国は共和国でありながら帝国であるという風に日本語の語感から言えば
ひどく矛盾して聞こえるようになってしまう。それ故、帝国という言葉は悪玉風に聞こえるとか、
命令とか統治とかの意味を持つインペリウムと同語源の言葉であるとか、といった書き方は
それ自体は間違ってはいないが、日本語の帝国という言葉の意味はそれに尽きるものでもない。
そういうわけで、俺は基本的にドイツに関しては、Reichという言葉を帝国ではなくライヒという訳語を採用するという
逃避行動を取るわけだ。そしてReichの対義語であるLandも領邦(国家)ではなく、ラントと訳す、とかね。
そういう俺の立場からすれば、「帝国」概念の濫用が好ましく見えない、
ということは理解されるだろうが、だからといって、帝国概念を採用すること自体が間違っている、
というわけではない。彼らには彼らなりの意図でそういう概念をあえて採用しているのだろう。
定義さえきっちりしておけば、帝国概念を使ってもかまわない。こちらとしては、いわばアメリカの特色を
表すための「記号」として読むだけ話である。
寧ろ問題は、この手の言葉は一人歩きし出すことである。学者内ジャーゴンとして帝国が使われているならともかく、
帝国概念は人口に膾炙してしまっている、その際のその学者が下した本来の定義からの変容が問題となる。
まあ、自分ではちゃんと定義を書いているわけで、そこまで責任は取れない、というのはその通りだろうが、
一般受けしているうちに、どんどん訳のわからない概念になってしまう言葉ってあるよね、市民社会とか。
591 :
右や左の名無し様:04/07/08 06:58 ID:tBFPpsvl
「政治家の条件」佐々木
今これを読んでるんですけど内容がさっぱりわからないです。
うーん、舞城が芥川賞候補になったか。どうせ取れないだろうが。
佐藤友哉はとりあえず一作目は読んでみたが、どの辺が良いのかちっと分かり難い。
しかし、西尾維新といい佐藤といい、最近の若手はもったいぶりが芸風なのか。
政治家の条件―What makes a true politician?
佐々木 毅 (著)
未熟な政治家しか持てない国はつねに世界から取り残される。
改革を政争の具にすりかえ、予算バラマキに奔走する政治家。
目先の既得権益にしがみつき、日本の政治を破壊した。
しかしそれを許したのはわれわれ国民ではないか。
政治の本質を見きわめ、日本の政治に指針を示す、注目の著作。
この数年、
日本では政治のリーダーと他の政治家たちとの古い関係が解体され、
なお新しい関係は確立していない。
これはリーダーは政治家たちによって、
せめてある程度尊敬されなければならないという関係がなくなり、
やれ手法だとか政策だとか、
あることないことを武器に政治家たちが政治のリーダーシップを互いに破壊し合ったこと――「憎悪」と「軽蔑」を武器にして――にほかならない。
そのことは国民とリーダーとの関係に波及し、
政治そのものが軽蔑の対象になりかねないところにまでいたっている。
政治家たちがまじめに「愛していない」「尊敬していない」リーダーを国民に「愛してほしい」と求めても、
それは無理な相談というものである。
――第1章「マキアヴェッリ流日本政治論」より
594 :
右や左の名無し様:04/07/09 22:12 ID:rzTJ+2YD