391 :
右や左の名無し様:03/12/11 06:59 ID:1OyEyhnI
なあ俺の祖父は守備隊として北海道占領を阻止し
強制労働と引き換えにソ連の戦後統治を阻止し
なおかつ強制労働のときの思想教育にも染まらず帰ってきた立派な人なのになぜ国から手当が出ないの?
>>391 御祖父様はご立派なお方です。
今の日本の国に幸福を見るとき、
御祖父様の労苦に心から感謝します。
そして、御祖父様に報いるためにも、
祖国日本の建て直しに全力をあげたいと思います。
393 :
愛媛出身:03/12/14 09:39 ID:jP9//Kwb
394 :
右や左の名無し様:03/12/14 13:33 ID:8hSdE769
中公新書『クレムリン秘密文書は語る』(名越健郎)
によると、冷戦前、ソ連政府はアメリカ政府にカムチャッカ半島の租借をもちかけたことがあるそうだ。
アメリカがこの話をけっていなければ、千島、樺太の歴史も変わっていたかもしれない。
395 :
391:03/12/14 14:13 ID:0eGxL3k/
補償を求めて現在も活動している方もおられるそうですが、祖父の戦友会はもう諦めております。
「我々には学が無い者ばかりだったから…」
と嘆いております。
終戦から3日後、占守島の守備隊は武装解除をしており
ほとんど丸腰状態の深夜に
露助はまるでハイエナの如くに奇襲を仕掛けますが
烏合の衆なれど八紘一宇の理念と
日本の平和を死守すべく
孤軍奮闘する北の守備隊。
武器弾薬兵力戦闘機など物量で圧倒する露助に
大和魂で立ち向かい、なんと圧勝を収めました。
露助は日本を舐めていましたが
愛国心は日本が勝っていました。
北方領土は、北海道本島の北東の洋上に連なっており、
歯舞群島は、根室半島の 延長線上3.7 qの沖合から北東に点在する貝殻島、水晶島、
秋勇留島、勇留島、志発島、多楽島などの島からなっています。
色丹島は、歯舞群島の北東22qに位置しており、
国後島は、根室半島と知床半島のほぼ中間に位置し、
野付半島の沖合16qの地点から北東に延びる全長122qの島です。
また、択捉島は国後島の北東22.5qに位置する全長204qの島です。
また、四島を合わせた面積は、5,036平方キロメートルで、
この面積は千葉県の広さにほぼ匹敵します。
397 :
右や左の名無し様:03/12/15 19:58 ID:LMj9lVlw
391さんへ。国家の賠償は無理でも、その偉大な祖父や、戦友の歴史を自費出版でも
いいから書き残したらどうでしょう。ぜひ。
視聴率戦争に狂奔するテレビ局の上層部は早く目を覚まして、
北方領土問題を扱うドキュメンタリーをばんばんゴールデンで放送してほしい。
399 :
右や左の名無し様:03/12/19 19:10 ID:a4fW2Xkr
400だべ
北海道の北東洋上に連なる歯舞(はぼまい)群島、
色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島及び択捉(えとろふ)島の北方領土は、
日本人によって開拓され、日本人が住みつづけた島々です。
これら北方四島には、
1945年(昭和20年) 8月の第二次世界大戦終了直後、ソ連軍(現ロシア軍)により不法に占拠され、
日本人の住めない島々になってしまいました。非常に悲しいことです。
北方四島は、歴史的にみても、一度も外国の領土になったことがない我が国固有の領土であり、
また、国際的諸取決めからみても、我が国に帰属すべき領土であることは疑う余地もありません。
北方領土問題とは、先の大戦後、半世紀を経過した現在、
なお、ロシアの不法占拠の下に置かれている我が国固有の領土である北方四島の返還を一日も早く実現するという、
まさに国家の主権にかかわる重大な課題です。
内閣府は、歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島早期返還の実現を目指して、
外交交渉を支える国民世論の結集と高揚のための広報・啓発の充実、
又は政府と民間が一体となった返還要求運動の全国的な発展・強化を図るとともに、
北方四島との交流の推進など、北方領土問題解決のための諸施策を推進していかなければなりません。
402 :
右や左の名無し様:03/12/21 11:43 ID:xSi5SvTX
1861年 対馬 ポサドニック
【ヨーロッパはモンゴル固有の領土です】
ヨーロッパはモンゴル固有の領土。かつては無主の荒野であった
ヨーロッパ大陸は、西突厥のフン族によりはじめて開拓され。
チンギスハン・オゴダイ・バトゥ三ハン時代に再度領土回復
されました。このような歴史的事実からしても、議論の余地が
ないほどヨーロッパはモンゴル固有の領土なのです。
ゲルマン・ラテン・スラブ人による不法占拠は、国際法的に見ても
ゆるされない違反行為なのです。一刻も早いヨーロッパ大陸返還を!!
404 :
右や左の名無し様:03/12/21 15:29 ID:a/euFw0J
>>7 >千島列島(もちろん、南の4島も含むよ)
亀レスだが、北方4島に千島は2島しかない。歯舞色丹は千島列島ではないことをご存知なのだろうか?人に勉強しろと言う前にまず自らが地理の知識を備えた方がよろしいのでは?
満州、モンゴル、新疆、チベット、台湾、日本は独立国です。
朝鮮は中国の属国です。
北朝鮮は中国の省です。
407 :
右や左の名無し様:03/12/22 13:10 ID:RH6gKPKV
日本はアメリカの州です。もとい植民地です。
米軍立琉球大学
>>405-406 ある意味、漢民族が伝えてきた長い歴史に基づいた伝統は、
現在の中国在住の漢民族の生活の中よりも、
異民族である朝鮮民族が引き継いでいたりする部分があったりする。
漢民族は清が成立して、辮髪にさせられたり、
服装を北方騎馬民族風に変えさせられた。
ところが、李氏朝鮮は徹底的に儒教文化で国づくりをし、
廃仏もやったりして、漢民族の思想や文化の純化を試みたりした。
有史以来の漢民族の服装というのは、
韓国の民族衣装として紹介される服装のほうがよぽっど近い。
漢民族はシナ・チベット語族で、
朝鮮民族はアルタイ語族だから、
「語族」ということでなら、韓国のほうが満州族に近いのだが、
歴史的な事情というのは、意外な結果を現代に見させたりする。
410 :
右や左の名無し様:03/12/24 02:12 ID:57BGFpCo
あぼーん
南樺太(=北緯50度以南)及び千島列島(=ウルップ島以北の島々)については、
その領域主権を有していた日本は、
1951年のサンフランシスコ平和条約(注)(第2条(c))により、
すべての権利、権原及び請求権を放棄しました。
サンフランシスコ平和条約上、
南樺太及び千島列島の最終的な帰属は将来の国際的解決手段に委ねられることとなっており、
それまでは、
南樺太及び千島列島の最終的な帰属は未定であるというのが従来からの日本の一貫した立場です。
(注)ソ連・ロシアは締約国ではありません。
414 :
右や左の名無し様:03/12/28 16:23 ID:7X7zQT1+
冷戦時にソ連対アメリカの戦争が勃発してれば
日本も米英の連合国軍側に参戦しどさくさに紛れて千島、樺太奪回ができた。
でももしこんな絶好のパターンになっていても憲法の都合で自衛隊を出せない
とか何とかやっていたらもう国ではないから米国の51州目にでも入れてもらった方がいいな。
415 :
右や左の名無し様:03/12/28 22:54 ID:EEbSHQKo
兎に角、皆のを精読した。正論、正義、みんな正しい。しかし無駄だよ。
ロス毛の狡猾さ知らんだろう。返す訳ない。絶対にない!ホショウする!
ワシは樺太出身だ。引揚者ヨ。ロス毛と一緒に居た訳.勝手に土足で入ってきやがって
家捜ししてみんな盗んで行く。銃を発報しないだけのとりえはあったが。
ロス毛と接した経験者から言うと何を言っても全く通じない!というのが結論。議論の余地のない相手だ!それなりの
フリはする。それだけだ。
416 :
右や左の名無し様:03/12/29 01:03 ID:8VfTqSI2
日本にとってロシアの唯一の脅威的な存在と言えば核ミサイルだが
これがいずれ脅威ではなくなる。
日本の技術を集結した100%防衛迎撃ミサイルの登場である。
これは必ず完成する。時間の問題である。
露助が我が神の国に飛ばした核ミサイルが
100%防衛迎撃ミサイルによって全て海の藻屑になるのである。
まさに神風である。そして神は露助たちにお怒りになり正当防衛として核ミサイルを打ち返すだろう。
実は神の国では核を保有してない事になっているが、神の技術力で30分以内に
ロシアを火の海にするだけの核ミサイルを配備できるのである。
そして迎撃ミサイルなどとても開発できない露助どもは火の海の中で悶え苦しみ
この地上から永遠に消えるのである。そして露助どもによって不法占領されていた神の領土
千島樺太に平和が訪れ同時に世界にも明るい未来が訪れるのである。
417 :
右や左の名無し様:03/12/29 03:46 ID:8Z2mEthX
私の祖父はラーゲリ者だけど貴奴らも人間
スターリソもおらずコミンテルンも空中分解の今
南樺太と千島は資金援助をちらつかせて
タトゥーを政府レベルで問題化すれば返してもらえる。
その後援助は延ばせるだけ延ばして
独立運動を推進する反政府軍に接近し
国連で問題化する。→ソ連びびる→いっぱいいっぱい
→仲介に乗り出す→万事解決
418 :
右や左の名無し様:03/12/30 01:03 ID:BAhD0Bgh
417サンヨ!残念ながらそうは成らないッて。国連で問題化なんて出来ないッて。10兆円位出せば何とかなるかな?と言ったレベル
の話だって、これは。
419 :
右や左の名無し様:03/12/30 12:58 ID:XCGnOwfd
知っている人も多いと思うが、戦前旧ソ連政府は日本に北樺太の売却を持ちかけたことがあった。
日本は金額を理由に断ったそうだが、もし購入していたら歴史はどうなっていただろうか?
>>376 北千島が日本領というのは禿同ですが、北樺太もですか?
北緯50度までだったような…。無学なのでよく解りません。
経緯を教えて頂けませんか?
決して挑発ではありませんので。
日本も今問題になってる北方四島ぐらい買えるんだけど
固有の領土を買うなんてけしからんと言う頭の固い連中がいて買えない。
バブルの頃に買って解決するのが一番良かったんだが。
423 :
右や左の名無し様:03/12/30 18:13 ID:W7rcgGNf
歴史的に見れば北千島よりも南樺太の方が日本固有の領土なのだ。
全樺太を露西亜にくれてやるなど有り得ない。
でもこれが解決して日本がロシアと平和条約結ぶメリットなんて無いんだよな。
当然日本が今中国にやってるように金のばら撒きが始まるんだろ。
島がいくつも買えるだけの大金が流れるべ。
425 :
右や左の名無し様:03/12/31 01:15 ID:p6DrLj54
当時のカラフトの住宅地図を持っているワシから言わせると・・・。詰まり彼らの狡さは一筋縄でない事を知っている者から言わせると、ということですが。
北海道の半分を領土にしょううと画策し失敗に終わったのはご存知の通りですが・・・。援助は平気で言ってくる。焼けどをしたと言って札幌医大で世話になり云々しかり。
本人家族等以外これと言って感謝の礼も無く。調子がいいんだヨ。日本勝った!日本勝った!ロシャ負けた!という言葉知ってるかい?
腹クソ悪いから日本兵が彼らの前で堂々と言っていた言葉サ。あいつらロシャとういう言葉が理解出来ないッか日本兵がうまかったのか?
1941年、日本はアメリカ、中国、イギリスなどを相手に戦争を始めました。
そして日本は1945年8月15日「ポツダム宣言」を受け入れて、
無条件降伏しました。その8月15日から3日後の8月18日になって、
当時ソ連と結んでいた有効な条約「日ソ中立条約」をソ連が一方的に破り、
クリル諸島北端の占守島に上陸を始め、自衛のため応戦した日本軍と激戦が
交わされました。しかし日本軍は北部方面司令官の命令で23日に
局地停戦協定を結び降伏しました。
その後ソ連軍は千島列島沿いに南下を始め日本軍の武装解除をして、
得撫島まできましたが、択捉島には上陸せず、いったん北に引き返しました。
しかしアメリカ軍が択捉島や国後島等に進駐していないことを知ったソ連軍は
再び南下を始めました。この一件は当初ソ連軍も北方4島は
日本の領土であるとの認識だったことを物語っています。
択捉島や国後島に上陸したソ連軍は「アメリカ軍は来ているか?」と
住んでいた日本人に対して念を押しながらの上陸だったということでした。
ソ連軍は8月28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島に上陸し、
9月3日には歯舞群島にまで及び、ことごとく占領しました。
このため島で生活していた人々の中には、危険を冒して着の身着のままで
脱出した人もいます。住み慣れた土地を離れられず島にとどまった人々も、
1947年にはソ連軍によって強制的に日本へ送還されました。
このように日本固有の領土である北方4島は日本が無条件降伏した
3日後から、ソ連によって不法に占拠されたままになっています。
427 :
右や左の名無し様:03/12/31 21:00 ID:Dywux/Sk
平成15年度北方領土に関する標語入選作品(平成15年10月28日決定)
独立行政法人 北方領土問題対策協会
理事長賞(最優秀賞)
粘り抜く 熱意と対話で 四島(しま)返還 吉岡 敬一郎
優秀賞
継続の 熱意が力 四島(しま)返還 常谷 薫
心の輪 繋げて広げて 四島(しま)返還 三好 理恵
固い意志 毅然と貫き 四島(しま)返還 加藤 孝幸
四島(しま)返還 めざす主役は わたしたち 野嵜 則彦
佳 作
変わる世も 変わらぬ熱意で 四島(しま)返還 鬼丸 邦宏
おかえりなさい 早く言いたい 四島(しま)返還 久野 美幸
国民の 意思と力で 四島(しま)返還 福田 洋助
一億の 心は一つ 四島(しま)還れ 大瀧 洸
ねばり強い 努力で実のる 四島(しま)返還 西園 孝夫
429 :
阪京 ◆5KBaJz.b66 :04/01/02 14:20 ID:fn2ZDBRW
>>1 ここでほざいていても何の解決にもならないような。やっぱ、核武装
するしかないね。だからおれがなんど復学して核開発にあたってやろうと
言ったことやら。
430 :
右や左の名無し様:04/01/02 16:12 ID:i7LJdpt7
もはや露助と友好関係を保つ意義は無い。
露助もチャンもチョンも金が目当て
金しか頭にない強欲ババア!
ろくでなしのマルメラードフである!
チェチェンやチベットでの横暴は許されない!
暴力、詐欺国家の露助と人殺しだらけのチャンコロとは一切の関係を絶つべき。
>>429 そうそう、ここでほざいていないで、村上一郎先生に弟子入りしなさい。
もちろん、自害した右翼思想家ではなく、建国義勇軍の方だ。
文化四年(1807)
徳川幕府の鎖国政策の中で、
ロシア通商使節のレザノフは実力での通商を図ろうとロシア皇帝の許しなく海軍による樺太・千島への襲撃を開始した。
幕府は奥羽諸藩に蝦夷地(北海道)への出兵と防備を命じた。
それでも十分ではなかったため、
当時会津藩家老の田中玄宰は幕府に会津藩の樺太出兵を内願。
文化5年(1808)正月、軍将内藤信周指揮の下会津藩兵が若松城下を出発、宗谷(稚内市)に本陣を置き、
番頭梶原景保が利尻島に派遣された。さらに北原光裕指揮の下樺太に上陸し本格的な警備陣営を設け、
ロシア軍襲撃に備え訓練を重ねた。(本営:北原光裕、西側:丹羽能教、東側:日向次明)。
実際のロシア兵との交戦はなかったが、樺太からの帰路会津軍は台風に遭い船が難破、
一部は天売、離島焼尻島へ避難した。現在宗谷岬の北端には会津藩士の墓と句碑が建てられている。
また利尻島、焼尻島にも会津藩士の墓がある。
会津藩の樺太出兵はその後の間宮林蔵らの北方探検に大きく貢献する事にもなった。
北海道(旧称:蝦夷ヶ島)とロシア沿海州との間に位置するサハリン(樺太)は,
長い間東アジア諸国の「辺境」として,
中国大陸・朝鮮半島・日本列島のいずれの政権の実効支配も受けてこなかった地域でした。
(ただし,中国では東北地方から沿海州にかけての地域を支配した女真(満洲族)などの諸勢力の影響下
ないしは支配下にあったと理解しているようです)。
この地域が“近代国家”の概念の下での領土として周辺諸国の支配に組み込まれるようになるのは
18世紀末から19世紀に入る頃からのことです。北からはシベリアを東進しオホーツク海に到達したロシア人が,
南からは本州から北へ支配を広げてきた日本人が,それぞれこの島に到達し直に接するようになりました。
19世紀半ばに至り,いわゆる鎖国政策を放棄した江戸幕府はロシアとの国境画定交渉を開始しました。
根室の北東に伸びるクリル諸島(後に日本で千島列島と呼ばれることになる)については,
エトロフ(択捉・イトゥルップ)島とウルップ(得撫)島との間に国境を引くことで合意が成立しましたが,
サガレンなどと呼ばれていたこの島については合意が成立せず,とりあえず日本とロシアの両国に帰属し,
両国人の混住地域とするという形で,1867(慶応3)年に両国間の国境を画定する仮条約が締結されました。
江戸幕府(徳川政権)に替わって権力を掌握した明治政府は,「樺太」をこの島の呼称として採用し,
開拓使の下(1870〜71年は樺太開拓使として独立)で北海道とともに開拓事業に着手しました。
しかし,当時の国力では樺太にまで本格的な殖民・開拓事業を行うのには無理があったこと,
また現地で日露両国民間の紛争が頻発したことなどから,
正式な国境画定条約を締結するにあたって日本は樺太の領有権を放棄することに合意し,
かわりに千島列島全島をロシアから割譲されるという形で,
1875(明治8)年いわゆる樺太・千島交換条約が締結されました。
その後,サハリンへはロシアによる殖民事業が行われることとなります。
ところが,1905(明治38)年,
日露戦争の末期に日本軍はサハリンへ侵攻して占領,戦争終結にあたって締結されたポーツマス条約によって,
南半部の北緯50度以南が日本領とされました。
こうして,今度は日本領となった南樺太で日本による本格的な殖民・開拓事業が進められることになりました。
第2次世界大戦末期の1945(昭和20)年8月,
ソ連軍は同年4月の破棄通告後もまだ有効期間内であった日ソ中立条約に反して南半部に侵攻,占領下に置きました。
その後,ソ連はサハリン南半部を,同じく占領下に置いた歯舞・色丹・国後・択捉を含むクリル諸島(千島列島)とともに,
以前からの領土であった北サハリンと統合してサハリン州として統治を続けています。
日本政府は,戦後,
1951(昭和26)年に連合国との間に締結したサンフランシスコ平和条約において南樺太(南サハリン)および千島列島の領有権を放棄しました。
しかし,この講和会議にはソ連は参加しておらず条約に調印もしていないことから,
この地域がソ連(およびそれを継承したロシア連邦)に帰属するわけではなく,
その帰属は未定であるという立場をとっています。
ポーツマス条約に基づき日本領となった樺太には樺太民政署が設置され,
1907(明治40)年に樺太庁に改められて,
以後1943(昭和18)年まで樺太の植民地統治の機関とされました。
当初,樺太庁はコルサコフ(1908年大泊と改称)に,
ついで豊原(旧称:ウラジミロフカ,現:ユジノサハリンスク)に置かれ,
豊原は樺太の中心都市として札幌をモデルとする都市作りがなされました。
さらに域内各地に樺太庁の支庁および出張所が設置され,
それぞれの地域の開拓の拠点とされました。
当初,3支庁6出張所が設置されましたが,
複雑な変遷を経て1942(昭和17)年には1市4支庁体制となります。
437 :
右や左の名無し様:04/01/10 01:22 ID:M2XB85hF
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平行なのにズレて見えるのはどうしてですか?
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1908(明治41)年3月31日付の内務省告示で,
これまでのロシア語あるいはアイヌ語による地名の主なものが日本語式の漢字表記の地名に改められ,
その他の地名も順次日本語式のものに改められていきました。
190115(大正4)年6月26日に発せられた勅令第101号「樺太ノ郡町村編制ニ関スル件」に基づき,
この年の8月,内地(北海道以南)と同様に樺太は17郡4町58村が設置されました。
ただし,この段階の郡町村は行政区画としてのそれであり,自治体としての性格は与えられませんでした。
1929(昭和4)年,樺太町村制(昭和4年法律第2号)が公布されて,樺太の町村にも自治制がしかれることとなりました。
ただし,これは本州以南3島の制度よりも自治権の範囲が若干制限された北海道の制度に準じるものでした。
同年7月1日付の拓務省告示により豊原町以下10町1村が一級町村(ほぼ完全な自治権を持つ)に,
24村が二級町村(町村長は樺太庁長官が任命するなど,自治権に制限あり)に指定されましたが,
豊原支庁(豊原郡)川上村のようにいずれにも指定されず自治権の与えられない村(「樺太町村制」附則第2・3項による)も存在しました。
(この際に指定されなかった町村のうちのいくつかはその後二級町村に,
また二級町村のうちいくつかの町村が一級町村に昇格しています)。
なお,樺太自体は1943(昭和18)年4月の内地編入後も地方自治体としての性格は与えられず,
議会も設置されませんでした。ただし,樺太庁長官の諮問機関として任命制の評議会が1937(昭和12)年に設置されました。
1937(昭和12)年には内地の市制にならって樺太市制(昭和12年法律第1号)が公布され,
これに基づき1937年7月1日に豊原郡豊原町が市制を施行して豊原市となり,
樺太で最初(で最後)の市が誕生しました。
同時に,豊原市は豊原支庁の所管を離れ,同支庁は豊栄支庁と改称されました。
1942(昭和17)年11月には大幅な行政区画の再編が行われ,
それまでの1市8支庁1出張所が1市4支庁に統合されました。
この際に,豊栄支庁は大泊支庁および同支庁の留多加出張所と統合されて,
豊原支庁という呼称が復活しています。