泣ける話おしえて。

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1
この4年間、一度も泣いておらず
ちと泣いてみたいです。

なんか泣ける話、
おしえてください。
2名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/16(木) 18:13:58
>>1
伝わらなかったかもしれないけど
私は君が思う以上に君のことが好きでした^^
じゃあね
3asahi.com:2006/02/16(木) 18:34:37
ウサギをサッカーボール代わりに虐待 容疑の3少年逮捕
2006年02月15日12時10分

 東京都江東区の小学校で飼育されていたウサギをけり殺したとして、
警視庁は15日、同区内の無職少年3人(いずれも18歳)を動物愛
護法違反などの疑いで逮捕した、と発表した。少年らはウサギをボール
代わりにサッカーをしており、「面白半分でやっていてエスカレートした」
などと供述。発覚を免れるため、ウサギの死体を重しと一緒に袋に入れ
て運河に捨てていたという。

 調べでは、少年3人は昨年5月8日早朝、同区立の小学校に侵入。
小屋で飼われていたウサギ1匹を持ち出し、約1キロ離れた公園でける
などして殺した疑い。公園内のすり鉢状になったローラースケート場で
、はい上がってくるウサギを交代でけったという。

 3人のうち2人は同小学校の卒業生。ウサギは生命の大切さを学ぶため飼育されていた。
児童らは「ゆきのすけ」と名付けて可愛がっていた。
行方がわからなくなってからは児童らがポスターを作るなどして捜していた。
出所:ttp://www.asahi.com/national/update/0215/TKY200602150212.html
4名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/16(木) 18:40:30
父亡き後、母は女で1つで俺と妹を育て、俺は大学院まで卒業できた。
自分で生計を営むようになって、母は苦しい生計であっただろうに、俺たち兄弟に貧乏であることを感じさせない
配慮をしていたと今になって感じる。
これからのんびり自分の人生を楽しんでもらおうと思っていた矢先・・・
母はガンで病院との往復の生活になってしまった・・・。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/16(木) 18:44:19
それがどうした
6名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/16(木) 19:22:54
1の性別と年代をオシエロ
7名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/16(木) 19:33:19
うるせえ・・仕事の帰りに1万7千少し入れた財布を落としてきたさ・・・(;ω;)ウッウッウッウ
8名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/16(木) 20:46:04
>>7
乙。
まあ、その財布を拾った人が幸せになるということで…
カードは一応止めておけヨ
9名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/17(金) 13:46:16
フランダースの犬借りてみろ
10名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/19(日) 02:37:43
竜王「よく来たドクオよ。ワシが王の中の王、竜王だ。
ワシは待っておった。そなたのような若者が現れる事を…
もしワシの味方になれば世界の半分をお前にやろう。」

('A`)「王女に嫌われ、町人から蔑まれ、王からは捨て駒扱いな俺を待っていたのか。」

竜王「そうとも、お前が勇者であるがゆえにワシは待っておった。」

('A`)「期待外れだっただろう?期待してたあんたにも、ローラ姫にも、悪い事をしたよ…」

竜王「ならば、なぜ人のために戦う。王女を助け、我が同胞を倒し同胞に倒され、何故ここまで来た。」

('A`)「勇者だと言われたから。気休めの嘘だって知っていたけど、俺は、勇者だって。」

竜王「世界の半分を手に入れれば、そなたを馬鹿にした者どもは皆かしづくだろう。
あの王や王女さえも、そなたの手の中だ。さあ、ワシと共に世界を手にしようではないか。」

('A`)「いいえ、世界なんかいらないよ。嫌われるだけだし、俺なんかすぐイケメンに倒されるよ…。」

竜王「愚か者め…!」

そうぜつで れきしにのこる たたかいが あった。
しかし それは こどくな たたかいだった。
てんが ふるえ ちが さけ ついに…。

竜王「クッ…さあ、殺せ!ワシを殺して、賞賛され語り継がれる本物の勇者になるがいい!」

('A`)「…世界なんかいらないから、俺の友達になってくれないか。」

竜王「戯言を言うなッ!勝者の余裕か、人間め。」

('A`)「初めて…なんだ…。」

竜王「何?」

('A`)「俺を差別せず、俺を疑わず、俺を認めて、俺を勇者として扱ってくれた奴は、アンタが…初めて…。」

竜王「…馬鹿者。魔王に泣かされる勇者があるか。さあ殺せ。殺して故郷へ帰るがいい。」

('A`)「殺せないよ。それに俺の故郷はもう…。」

竜王「………。」

りゅうおう が なかまに なった。
りゅうおう は みがわり を のこして かれら は はるか とおい ちへ たびだったと いう…。
11名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/24(金) 15:09:07
フラッシュに泣ける話がたくっさんあるよ
12名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/24(金) 17:28:56
不思議なのは、泣ける話が好きなくせに、おまえら何でそうなんだろな?
13名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/25(土) 02:52:51
a
14名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/25(土) 14:11:57

泣ける話?
ねーよ
15名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/07(日) 14:55:56
思うんだ・・・。俺、死ぬ前に小学生の頃を
一日でいいから、またやってみたい
わいわい授業受けて、体育で外で遊んで、学校終わったら夕方までまた遊んだ

空き地に夕焼け、金木犀の香りの中家に帰ると、家族が「おかえり〜」と迎えてくれて
TV見ながら談笑して、お母さんが晩御飯作ってくれる(ホントありがたいよな)
お風呂に入って上がったらみんな映画に夢中になってて、子供なのにさもわかってるように見入ってみたり
でも、全部見終える前に眠くなって、お部屋に戻って布団に入る
みんなのいる部屋の光が名残惜しいけど、そのうち意識がなくなって…


そして死にたい
16名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/07(日) 16:24:57
>15乙
ちときた。
17名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 01:02:36
なんか俺の知らないところで同窓会やってたらしい
そりゃクラスじゃ浮いてたけどやっぱ応えるよなあ
独りは辛い
18地裁が泣いた:2006/05/12(金) 01:33:36
 もういきられへん。ここでおわりやで
 そうか。いっしょやで。わしの子や

 京都・認知症母殺人初公判
  ―― 地裁が泣いた ――
 介護疲れ54歳に「情状冒陳」

 認知症の母親(86)の介護で生活苦に陥り、相談の上で殺害したとして承諾殺人などの罪に問われた京都市伏見区の無職、
K被告(54)の初公判が20日、京都地裁=東尾龍一裁判官(54)=であった。

 K被告が起訴事実を認めた後、検察側がK被告が献身的に介護をしながら失職などを経て追いつめられていく過程を詳述。
殺害時の2人のやりとりや、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

 事件は今年2月1日朝、京都市伏見区の桂川河川敷で、車椅子の高齢女性とK被告が倒れているのを通行人が発見。
女性は当時86歳だった母で死亡。K被告は首から血を流していたが、一命を取りとめた。

 検察側の冒頭陳述によると、K被告は両親と3人暮しだったが、95年に父が死亡。そのころからく母に認知症の症状が出始め、1人で介護した。
母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。K被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、
9月に退職。生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。

 介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。力ードローンの借り出しも限度額に達し、
デイケア費やアパート代が払えなくなり、06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に」。K被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区の桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。ここで終わりやで」などと言うと、母は「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。K被告が「すまんな」と謝ると、
母は「こっちに来い」と呼び、K被告が額を母の額にくっつけると、母は「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。

 この言葉を聞いて、K被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺害し、自分も包丁で首を切って自殺を図った。

 冒頭陳述の間、K被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を振るわせ、眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。

 自宅近くの理容店経宮、松村和彦さん(44)は、「(K被告は)母親と手をつないでよく散歩し、疲れて座り込むとおぶっていた。
(事件を聞いて)行政で何とかできないものかと思った」と語る。【太田裕之、石川勝義】『毎日新聞』2006/04/20 より
19名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/12(金) 06:32:42
高卒→DQN。人生の敗北者。折り紙つきのクズ。犯罪者予備軍。自分は一番苦労して不幸だと思い込んでる。
     若い頃何も考えていなかったアホ。何を成し遂げても評価されることはない。人類の恥。 一生高卒という名の十字架を背負って生きる。
     人から愛されることはまずない。カスゴミ。朝鮮人に馬鹿にされる。生きてる価値なし。親も馬鹿。すぐ家庭の事情を持ち出す。
     世界中どこへ行っても、人として扱われない。死んでも誰も悲しまない。サルより知能が低い。嘘つき。
     すべて他人のせい。成人式で暴れる。大卒のワーストレアケースと高卒のベストレアケースを比べる。
     一生苦しみながら死ぬことになる可能性大。世界中の人たちから白い目で見られる。臭い。幸せはない。 専門卒→ウンコ
________________人間の境界線______________________________________________________________
中卒→「本当に頭の良い人間は人から教えを請う必要はないんだよ。」と言える。アウトローカコイイ。ダークホース。
Fランク大→学歴を聞かれると「大卒です。」としか言えない。 女に馬鹿にされる。生きてて恥ずかしい。怠けていた結果。高卒しか馬鹿にできない。
________________学歴を聞かれることに怯えなければならない境界線_________________________________
日東駒専、田舎地方の駅弁→やはり少し恥ずかしい。不完全な人間。まともな人間まであと一歩。
________________2chで煽られることに常に怯えていなければならない境界線______________________________
マーチ駅弁卒→普通。ここまでくればまぁ良い方。2chじゃ馬鹿にされることがある。
________________エリートの境界線_______________________________________________________________
駅弁上位(神戸、筑波、千葉、金沢)、東京都立、大阪市立、北大、中央法、早稲田社学人科、慶応SFC、同志社→かなり良い方。 合コンで少し自慢できる
早慶地帝→勝ち組。就職、女受け良し。派閥多し。高卒をカス扱いできる。高卒を理由なく殴っても許される。

________________神の境界線____________________________________________________________
東大京大卒→真の勝者。将来は全く明るい。女金すべてが自由。理由なく高卒、Fランク大、中卒を殴っても許される。超エリート。べジータ。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 04:19:54
あれは確か、終電逃して近くのネットカフェで一晩過ごした時だ。
早朝にカフェを出て駅へ向かう途中で、ゴミ収集車に乗ってる親子連れがいたんだよ。
多分、「お父さんの仕事見てみるか?」って感じの流れで運転席に子供と奥さんを
乗せてたんだと思うんだけど、凄く幸せそうに見えたんだよ。

「俺には一生ああいうのはこない。絶対に一生来ないんだ。」
って思ったら涙が止まらなくなってさ。
横断歩道の手前の電柱に寄りかかって大声で泣いたのを覚えてる。


あの時に見た、朝焼けに照らされたゴミ収集車の姿が今でも脳裏に焼きついて離れない。
21名無しさん@お腹いっぱい。:2006/07/16(日) 15:46:04
>>20
文才ないな
22名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/18(土) 23:21:12
読んでいて涙が止まりませんですた。

http://chodenshop.com/greeting.htm
23名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 10:01:01
18見て泣いた
ファミレスにいるから横のおばさんに怪しまれてるよ
24名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 16:24:13
幼い頃に父が亡くなり、母は再婚もせずに俺を育ててくれた。学もなく、技術もなかった
母は、個人商店の手伝いみたいな仕事で生計を立てていた。それでも当時住んでいた
土地は、まだ人情が残っていたので、何とか母子二人で質素に暮らしていけた。

娯楽をする余裕なんてなく、日曜日は母の手作りの弁当を持って、近所の河原とかに
遊びに行っていた。給料をもらった次の日曜日には、クリームパンとコーラを買ってくれた。

ある日、母が勤め先からプロ野球のチケットを2枚もらってきた。俺は生まれて初めての
プロ野球観戦に興奮し、母はいつもより少しだけ豪華な弁当を作ってくれた。

野球場に着き、チケットを見せて入ろうとすると、係員に止められた。母がもらったのは
招待券ではなく優待券だった。チケット売り場で一人1000円ずつ払ってチケットを買わ
なければいけないと言われ、帰りの電車賃くらいしか持っていなかった俺たちは、外の
ベンチで弁当を食べて帰った。電車の中で無言の母に「楽しかったよ」と言ったら、
母は「母ちゃん、バカでごめんね」と言って涙を少しこぼした。

俺は母につらい思いをさせた貧乏と無学がとことん嫌になって、一生懸命に勉強した。
新聞奨学生として大学まで進み、いっぱしの社会人になった。結婚もして、母に孫を見せて
やることもできた。

そんな母が去年の暮れに亡くなった。死ぬ前に一度だけ目を覚まし、思い出したように
「野球、ごめんね」と言った。俺は「楽しかったよ」と言おうとしたが、最後まで声にならなかった。
25名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 16:26:44
オレは小さい頃、家の事情でばあちゃんに預けられていた。
当初、見知らぬ土地に来て間もなく当然友達もいない。
いつしかオレはノートに、自分が考えたすごろくを書くのに夢中になっていた。
それをばあちゃんに見せては
「ここでモンスターが出るんだよ」
「ここに止まったら三回休み〜」
ばあちゃんはニコニコしながら、「ほうそうかい、そいつはすごいねぇ」と相づちを打ってくれる。
それが何故かすごく嬉しくて、何冊も何冊も書いていた。
やがてオレにも友達が出き、そんなこともせず友達と遊びまくってたころ
家の事情も解消され、自分の家に戻った。ばあちゃんは別れる時もニコニコしていて、
「おとうさん、おかあさんと一緒に暮らせるようになってよかったねぇ」と喜んでくれた。

先日、そのばあちゃんが死んだ。89歳の大往生だった。
遺品を整理していた母から、「あんたに」と一冊のノートをもらった。
開いてみると、そこにはばあちゃんが作ったすごろくが書かれてあった。
モンスターの絵らしき物が書かれていたり、何故かぬらりひょんとか
妖怪も混じっていたり。「ばあちゃん、よく作ったな」とちょっと苦笑していた。
最後のあがりのページを見た。「あがり」と達筆な字で書かれていた、その下に

「義弘(オレ)くんに友達がいっぱいできますように」

人前で、親の前で号泣したのはあれが初めてでした。
ばあちゃん、死に目に会えなくてごめんよ。そしてありがとう。
26名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 16:29:10
以前、母がデジカメを買って嬉しそうに色々撮ってたけど、そのうちメモリが
いっぱいになったらしくてメカ音痴な母は「ねえ、これ写らなくなっちゃっ
たんだけど…」と遠慮気味に相談してきたけど、漏れは面倒くさかったから
「なんだよ、そんなの説明書読めばわかるよ! 忙しいからくだらないこと
で話しかけるなよな!」と罵倒してしまった。
その母が先日亡くなった。
遺品を整理してたら件のデジカメを見つけたので、なんとはなしに撮ったもの
を見てみた。
漏れの寝顔が写っていた。
涙が出た。
27名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 16:30:52
今日、スロット行こうとしたけど金がなかったので、母親の財布から
金パクろうと思って開けたら、10年前の母の日に俺があげた肩たた
き券が大事そうに入っていた。
俺は泣きながら2千円を抜き取った。
28名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 16:34:58
ジェリーが大人になった頃トムはもうこの世にいませんでした。
トムは自分の命の終わりがすぐ傍まで来ているのを知ったとき、
こっそりジェリーの前から姿を消しました。
ジェリーの前で弱って涙もろくなった自分を見せたくなかったのです。
トムはジェリーの心の中ではずっと喧嘩相手として
生きつづけたかったのです。
トムがいなくなったのに気づいたときジェリーは悲しみは
しませんでしたが、退屈になるなと思いました。
トムとの喧嘩は最高にスリルのあるゲームでしたから。
胸の奥が不思議にチクチクはするのですが、それが何なのか、
ジェリーにはよくはわかりませんでした。トムの願い通り、
ジェリーの心の中でトムはいつまでも仲の悪い喧嘩相手でした。
そんなある日ジェリーの前に一匹の猫が現れました。トムよりのろまで
体も小さい猫です。喧嘩相手のトムがいなくなって寂しかったジェリーは、
今度はこの猫を喧嘩相手にしようと考えました。そこでジェリーは、
穴のあいた三角チーズが仕掛けられたねずみ取りを利用して、
その猫に罠をかけることにしました。いつもトムにしていたように。
ジェリーは物陰に隠れて、ねずみを求めて猫がねずみ取りの近くに来るのを
待っていました。そして思惑通り猫が罠に向かって近づいてきます。
ジェリーはしめしめと思いました。いつものように、
自分がねずみ取りにひっかかるふりをして、逆に猫をねずみ取りにかけてやるんだ。
うふふ。手か尻尾を挟んだ猫の飛び上がる姿が頭に浮かび愉快です。
でも、その猫はトムではありません。猫はチーズの近くまで来たとき、
ジェリーが出てくるより早く美味しそうなねずみの匂いに気づき、
目にもとまらぬ速さで隠れていたジェリーに襲いかかってきました。
ジェリーはいつもトムから逃げていたように逃げましたが、
トムよりのろまなはずの猫にすぐに追いつかれてしまい、
体をガブリと噛まれました。ジェリーも噛みつき返しましたが、
トムより体が小さいはずの猫は平気です。
血まみれのジェリーは薄れ行く意識の中で、本当は鼠が猫と喧嘩して
勝てるわけがないことと、いつもトムはジェリーに「してやられた」ふりをして、
わざとジェリーを捕まえないでいたことを、そのとき始めて知ったのです。
トムの大きな優しさと友情に気づいたのです。
そしてトムがいなくなった時の胸の奥のチクチクの正体にも気づきました。
かけがえのない友を無くした悲しみでした。
ジェリーの魂が体を抜けた時、
空の上には優しく微笑みジェリーを待っているトムがいました。
「また喧嘩ができるね」
「のぞむところさ、今度こそは捕まえてやるぞ」
29名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 17:17:23
自分が消防の頃、親やじいちゃんは農作業のため学校から帰ると家には
ばあちゃんしかいなかった。だから自然とばあちゃんっ子になった。

学校から帰ると丁度おやつの時間だったのでばあちゃんはよくご飯の余りで
塩だけのおにぎりを作ってくれた。それがすごく好きで毎日楽しみに待っていた。
自分でも喜んで食べてたし、ばあちゃんも嬉しそう顔をほころばせていた。
でも中学生になって人並みに反抗期になりいつしかばあちゃんとの会話もまともに
しなかった。当然おにぎりも食べなくなった。親に反抗はしなかったけど代わりに
ばあちゃんに反抗してたんだなぁと今になって思うよ。

それが中3のある日、突然旅立った。誰にもさよならを言うことなく風呂場で
静かに亡くなった。葬式中、もう会えない、謝ることも何かしてあげることも
出来ない・・・そう思った瞬間ボロボロと涙が出てきた。死んだ直後や通夜でも
泣かなかったに人目を考えず大泣きした。多分今までの人生の中であれ以上に
泣いたことは無かったと思う。

あの塩おにぎりが食べられないんだなぁと思うと今でも涙腺が潤んでくる。
あれ以上に美味いおにぎりは今でも食べたことが無いなぁ・・・
30名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 19:51:55
カーチャンネタは反則っつーくらい来るモノがあるな。
31名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/19(日) 20:27:22
32名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/21(火) 21:16:05
うんちでたぁ
33名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/22(水) 18:50:00
34名無しさん@お腹いっぱい。:2006/11/30(木) 16:59:04
ちょっと前に、おばあちゃんが死にました。
クモ膜下出血でした。

小学生の頃は両親が共働きで、家にはおばあちゃんしか居ませんでした。
私はおばあちゃんが大好きで大好きで、いつもおばあちゃんの部屋にいました。
学校の家庭科の授業で「小物作り」をしたときも、私は葡萄の剪定をする鋏を入れる袋を作っておばあちゃんにあげました。
肩たたきは毎日していました。
それくらいおばあちゃんが大好きでした。

高校に上がって暫くすると、おばあちゃんに認知症の症状が出てきました。
デイサービスに行くようになって、楽しそうにしているのは良かったのですが。
迎えのバスを、7時くらいからずっと外に出て待っていたりするのです、。来るのは9時なのに。
「まだバスは来ないよ」と声をかけても、「草取りをするから…」と言って聞きません。
他にもいろいろなこと。何度言っても聞かないので、段々おばあちゃんがムカついてきました。
あまりおばあちゃんと話す事もなくなりました。
トイレを失敗するような事はありませんが、それえでも介護する母のストレスは物凄かったようです。
大学2年のとき、おばあちゃんはグループホームに入りました。
それから暫くして、おばあちゃんはグループホームで亡くなりました。
私は大学の実習があったので、死に目には会えませんでした。

お葬式も終わって、グループホームの荷物を家族で引き取りに行きました。
服、下着、布団、テレビ。
引き出しを開けると、大きめの茶封筒が入っていました。
中には、私の写真が沢山入っていました。
病院でおばあちゃんにだっこされている写真。
七五三の写真。入園式の写真。入学式の写真、卒業式の写真。
おばあちゃんに送った、鋏入れも入っていました。
それから、私が小学生の頃に描いた、おばあちゃんの絵。
「おばあちゃんだいすき」と書かれた、私の拙い字。

家に帰ってから、母が言いました。
「おばあちゃんにだっこされた孫は、アンタだけだったんよ」
「他にも孫は4人おるけどな、みんなだっこなんかされてなかったよ」
「グループホームの職員さんにもな、アンタの話しかしてなかったみたい」
「『頭の良い自慢の孫』って言っとったらしいよ」

おばあちゃん、ごめんね。
あんなに大好きだったのに、私はそれを忘れていました。
大好きです、おばあちゃん。大好きです。
大好きです。大好きです。
35名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/03(日) 00:00:07
姉が3歳だった頃のお話です。

私を妊娠していた当時の母は、国立病院に予約を取りに行きました。
病院まで車で20分ほど、連日混んでいる病院は予約を取りに来る人で一杯で
母は朝5時に家を出て予約を取りに行く事にしました。
姉は当時10時くらいまでは全く起きなかったので、無理に起こして連れて行く
のもかわいそうだと思い、そのまま起こさないようにコッソリ出かけました。

ですが、姉は車の出発する音で起きたようで・・・

家に帰ってきた母が見たのは。
暗い部屋でガタガタ震えながら、泣き続けている姉の姿でした。
いつもはトイレも上手に出来ている姉がお漏らしをしており、寒かったから
脱いだのかパンツは階段に脱ぎ捨ててありました。
足は汚れており、両親を一生懸命探した様子が伺えました。
泣き疲れてもなお、泣いている姉がそこにいました。
母は姉を抱きしめ、「連れて行かなくてごめんね。ごめんね。」と何度も
抱きしめたそうです。
36名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 12:06:01
コピペスレからのコピペ

これも。かなりの長編

■早く結婚してくれ
ttp://keeping.seesaa.net/article/17463707.html

ほんと、職場じゃ見ない方がいいよ
37名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/04(月) 19:13:09
age
38若崎:2006/12/11(月) 18:42:31
自分は父の顔を知らない。
自分が2歳の頃、交通事故で死んだそうだ。
母に「お父さんの名前、なんて―の?」とか
「お父さんの写真、見して!」とか
「お父さん、メガネかけてたの?」とか聞いても、黙って首を振るだけだった。
父がいない分、母は毎日朝早くから遅くまで仕事をしていた。
酷いときには、1週間母を見ない日だってあったのだ。
そんな時、面倒を見てくれたのが祖父母。
誕生日もクリスマスも、祖父母と一緒。
母とは土日に外出するくらいで、正直何を話したら良いのか全然わからなかった。
小学校のときは「お母さんはカッコよくて、頭が良くて、仕事もすごい出来るんだ」
と、よく自慢していた。
でも、本当はそんな自慢なんていらなかった。
母とちゃんと話がしてみたかった。
そんな時、いつも思うのが死んだ父。
父がいたら、母とも毎日話せた。
父がいたら、母がこんなに仕事をすることもなかった。
父がいたら、父がいたら、父がいたら…
そんな思いがひたすら溢れた。
祖父母は大好きだ。文字の書き方からきゅうりの切り方まで全部教えてくれた。
それでも、やっぱり…
母は父のことを教えてくれないだろう。絶対に。

そんな小学生時代に終止符を打つように、母の再婚が持ち上がった。
小学校の卒業と同時に、県外に引っ越し、新しい父と母との3人で暮らすということだった。
実際、自分は本気で祖父母の所に残ることを考えた。
小学校の友達と離れるのは辛い。でも、それ以上に祖父母と離れるのが嫌だった。
それでも、母の涙に折れて引っ越すことになった。
その時はまだ知らなかった。
母のお腹には新しい父との子供がいた。
39若崎:2006/12/11(月) 19:03:15
新しい父は妹が産まれるまでは優しかった。
しかし、妹が産まれた途端、がらりと変わってしまった。
理不尽な怒り方ばかりしかしない。
母の前では優しいのだ。なのに、母がいないと口調も変わる。
それは2年経った今でもちっとも変わらない。
どうしようもなく、辛くなっても話せる人がいなかった。

先週、祖父母を訪ねたときに今まで教えてくれなかった父の墓を聞いた。
全てを話すと、祖父母はこっちに引っ越して来いと言ってくれた。
でも、それは出来ない。
母にもその事実を話さなくてはいけない。母はきっと悲しむ。
今まで、母親らしいことをしてくれなかった母でも、母が悲しむのは見たくない。

そして今日。
祖父母から父の命日だと聞いていた日。
学校を休んで亡き父に会いに行きました。
父の墓は綺麗に掃除されていて、花も供えてありました。
「お父さん、自分はもうすぐ高校受験です。
 今まで会いに来れなくてごめんなさい。
 お父さんの顔は分からないけど、辛い時にはここに来ます。」
本当に父に会いたいと思った。
40名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 03:43:01
・・・・昔々 ある所に一人の駄目人間がいました

そいつは大学を中退して社会に出るため職を転々と廻ったんだ
1社
2社
3社・・
ちょうど冬の寒さが身に沁みる時期でしょうか
12社目を受けた時です
「お前を雇う所なんてどこにも無い」
と面接官に言われました・・・・
それから 彼の引きこもり人生が始まったのです
当初はちょっとだけ休みを取って疲れた体を癒せればそれで良かった・・
両親は笑顔で「疲れたんだろ?少し休んでから頑張りなさい」
って言ってくれたんだ
俺はいつか絶対に両親を幸せにしてやろうと決心した・・・
でも そんな思いは長くは読かなかった
一度 ひきこもりにはまってしまうと怖くて動けなくなってしまう
自分が天才哲学者にでもなったかのように世界を決め付ける
・・・・
ーそんなこんなで3年もの月日は流れたある日
彼はもうドア越しに話かけられても
会話できない程 アホ丸出しの引きこもりと化していた
母親「あなたに会いたいってお友達が来てくれたわよ・・」
震える声で言った
ドンドン!っとドアを叩いて 誰かが叫んでる
「おーい!俺ぇ〜森本だよ、ちょっと話しないか〜?!」
聞き覚えのある声・・・・それと同時に寒気が彼を襲った
高校時代彼をイジメていた不良グループの一人だ・・・
1〜2時間くらいたってドアを叩く音が止んだ・・・
スーッとドアの下から手紙が入れられてきた
ソレを見ながら彼は体育座りのまま眠りについた
ーあの事件が起きて4日目
手紙を確認することにした・・
「同窓会のお知らせ」
引きこもりの彼にコレはきつかったのでしょう
物凄い勢いで破り捨てました
ソレと同時に涙と何とも言えない孤独感・・
そして怒りがこみ上げてきました・・・・
壁を殴りつけ 布団を蹴り上げ 
彼は叫び読けました
そこへ 彼の母親がやってきました
母親「どうしたの?!ねぇ、どうしたの??!!」
耳に聞こえてくる母親の声
彼はそれをかき消すように叫び読けた・・・・
41名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 03:44:36
同窓会 前夜 母親がドアを3回叩いた
3回叩く時はご飯を運んできた合図だ
いつも通りにドアを少し開けごはんを取ろうとした時だった  
食器の横に黒い物が置いてあった
クリーニングに出したのだろうか 札が付いたままのスーツだった
このスーツは 大学を辞めた時に母親からプレゼントされたもので
チョット丈が短い 残念なスーツだ・・・
お坊ちゃま君みたいで着るのを嫌がったのを憶えている
それでも母さんはそんな彼を見て
「いいわよ!さすがお父さん、お母さんの子ねっ!!」
って自信満々に彼の就活を応援してくれた・・・・
そんなスーツだ・・・・
母親はこのスーツを着て同窓会に行ってほしかったのだろう・・・
だが彼にはそんなこと関係ない
人に会う? 馬鹿じゃないのか?!
ましてや昔の友達なんかには特にだ・・・・・
ーそれから 5ヶ月たった頃・・・・・
滅多にならない携帯に 電話がきた・・・
この携帯電話は彼が引きこもりになりかけの時に母親が渡したものだった
まあ・・・面倒なので電話にでないのは当たり前だろ・・・・・
気になって留守録を聞いてしまった
しかしそこに残っていたのは父親の声だった・・・
父「・・・・・・母さんが倒れた・・・今すぐ○×病院に来い・・
今夜が峠だ・・・そうだ・・」
全身に鳥肌が立った 怖いなんてものじゃない
だけどその時には何も考えずに走り出していた
彼が病院に着いた時にはもう母親の息はなかった・・・
実は父親が電話した時にはもう息はなかったらしい・・・
寝巻きにサンダル・・・伸びっぱなしのヒゲに壊れた眼鏡姿のままで・・
父親
「母さんはお前が自分の力で外に出てほしかったと言っていたんだ・・
お前が自分の意思でここまで来てくれることが 望みだったんだろうな・・」
彼は泣きながら母親の手を握り締めた
ー母親の葬式の日
彼はあのスーツを着た・・・
胸ポケットから1通の手紙とお守りが入っていた・・・
「国○ 先日お友達が来た時に同窓会があるって母さん聞いたの
   だからスーツ着て、皆に会ってきなさい
    せっかく久しぶりに皆に会えるチャンスなんだから、ね
    丈はね 直しておいてあげたから
    もう恥ずかしくないわね これで外出れるね

    ごめんね。                  」
そしてお守り 母さんも同じ物を持っていた・・・・
あの時 ごめんって言えたら・・・・
母さんは喜んでくれたのかな
彼は今でもそのスーツを着て一生懸命働いているそうです


42名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 15:44:44
>>18
泣けたよ
行政はなんとかできなかったものかね
43ココ:2006/12/12(火) 23:14:22
母親が脳疾患で植物状態になり、東京で結婚して暮らしていた私は家族とともに故郷へ帰った。
父親と同居して1年半。
もともと、若い頃から父とはケンカばっかだったから、お互い相当我慢したよ。
あの日。父とケンカしたとき。私の口から出た言葉。

「おまえなんか死んじゃえばいいのに!!!!」

その次の日、何のお別れの言葉もないまま父は車の中で心不全で亡くなった。
たった一人で。十三時間も一人で。誰にもみとられることもなく。
発見したのは私だった。すでに死後硬直していた父を必死で助けようとした。
でももう間に合わなかった。

車の後部座席には私の好きな蟹が袋にはいっていた。

私が殺したのだと。
わたしのせいだと。
この3年間そう思いながら私は生きてきた。

知り合いに言われた言葉が私を救ったような気がする。

「あなたの言葉でお父さんは死んじゃったかもだけど・・・
 あなたが殺しちゃったのかもだけど・・・
 でも・・・でもっ!
 お 父 さ ん は あ な た を 愛 し て い た は ず だ よ 」

狂ったように泣いた。子供のようにしゃくりあげ、震えながら泣いた。
そう、私は父に最後にそう言ってもらいたかったのだ。
父が亡くなってから大キライだった父を、ダイスキで尊敬していることも
よくわかった。
だから私、母親の面倒見ながらがんばって生きようと思う。

父さん・・・次ももし生まれ変われることができたなら
また父さんの子に生まれてきていいかな。
明日は父さんの月命日だね。
お花買ってこよう。
44名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/12(火) 23:20:15
45名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/13(水) 00:26:42
「はぁ・・年越しもひとりか・・」
そうつぶやきながら
当時ぼろアパートで一人暮らしの私は
一人寂しくカップ焼きそばのお湯を流しに捨てていた
「あっ」
角度が悪かったのだろう
無残に麺が床にぶちまけられていた。
もう金は無い。
私は無言でそれを拾い集めた
それなのに
外はしんしんと雪が降っていて
向かいの家の明かりは暖かそうで
そうしているうちに年が明けたさ

46名無しさん@お腹いっぱい。:2006/12/13(水) 06:37:56
沁みるなぁ・・・・
47名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 03:45:58
また、毎日新聞のコラムにこんなパラオの話が載ったことがある。



 遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
 「あそこでみんな死んでいったんだ……」
 沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。

 太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
 老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
 日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。

 やがて戦況は日本に不利となり、
 いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。

 仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
 日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
 それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
 

 「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
 

 日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
 裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。

 船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
 村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。

 しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。

 そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
 先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。

 その瞬間、彼は悟ったという。
 あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。
 
48名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/15(月) 12:27:02
↑サムライだな。
49名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/16(火) 13:12:13

「ザ・ラストサムライ」
50gomenn:2007/01/18(木) 22:58:15
私の話を書いていいのでしょうか・・・
泣いて」ほしのでは、ないんです。私のわがままで。理解者がほしいだけだと・・
目を通していただけたら・・・ただただ嬉しい限りです。

私が中学3年のころ。高校1年の幼なじみがいたんです。
地元の高校ではなく。部活の推薦で決まった、少し遠くの学校でした。療にいたんです。
久しぶりに帰ってきて・・・色々、昔話したよね。
盛り上がって。夜までたくさん話したよね・・・
そして、療に帰っていきました・・・

その時から・・私の恋は始まりました。
メールをしていて・・・「明日が試合なんだ!」と嬉そうでした。
その時は・・・わかんなくて・・・うち、どんかんだね。。
次の日、突然の電話・・何かと思ったよ・・心配するじゃん。
「俺の高校初レギュラー試合に・・勝った。好きだよ。」
突然すぎるよ・・・最後何いってんの?わかんないよ・・はっきり言ってよ・・
嬉くて嬉しくて・・・初めて涙みせちゃったじゃん・・・

そして・・・彼氏彼女になったね・・
「クリスマス療から帰ってこれない」って言ったよね?
ちょっと寂しかったけど少し我慢したんだよ。。必要なかったけど・・

家に帰ると・・彼が座ってた・・「おかえり」それしか言えないよ。
いつもいつも。突然すぎるよ・・あなたは、びっくりさせるのが好きなんだね・・・
「療生活やめるよ・毎日帰ってくるよ」それも突然すぎるよ・・・

でも・・・うち馬鹿だったね・・あなたの優しさにあまえすぎたよね・・・
本当に・・・・・・
通学時間に時間をとられて・・・全然会えなくなったんだよね・・・
しだいに・・距離ができたんだよね・・・そして・・・
別れ・・・私も突然が好きみたい・・・突然・・別れ話は悪いよね。
反則だよね・・・

彼は「療生活をやめた俺が悪いんだよ・・お前は、悪くない」
それを言って・・また、しばらくして療に帰ってしまった。
そして、家に突然の電話。「お葬式・・あるから来てね・・・」
おばちゃん泣いてたよね・・・。
あなたは、いつも突然です・・・
冗談だよね?
帰って来た時みたいに・・笑ってよ・・・
お葬式・・・最後までいけなかった・・
行ったら全てがなくなる気がして・・・
突然逝くなよ・・馬鹿。。。
51gomenn:2007/01/18(木) 23:02:26
なんで、病気言わないの・・・部活休みなよ。馬鹿・・・
そんなこと思ってたんだ・・・

何ヶ月たってから・・あなたの友達に聞いたよ・・・
部活頑張って「休部前の最後の試合に勝って、告白するって」
あなたは、いつまで突然なんですか?
なかせたいの?
自分が馬鹿で馬鹿で憎いよ・・・・・・
あなたには、ありがとうも・・・ごめんねも・・・
言えてないよ・・・
お墓まで走ったの・・・見てた?
最後の気持ち言いにいったんだよ・・・。
ありがとう・・・ごめんね・・・そして好き・・・
ありがとう・・・ごめんね・・・そして好き・・・
やっぱり、うちら・・・お似合いだったみたい・・・
同じ事考えてたんだよ・・・うちも、部活の試合でタイムが出たら・・・
ってね・・・・でも、なぜ・・・あなたは・・・わたしに突然をさせてくれなかったの?
でもね・・・私は・・・最後に突然をしたんだよ・・・
療に帰る時・・・髪に・・・ありがとう・・・ありがとう・・・って書いたんだよ。
気ずいてくれたかな?

私のくだらない話読んでいただけて嬉しく思います。
読んでいただいた方に言いたいです。
正直になるのは、難しいでも・・・正直になると。笑顔になれますよ・・・
52名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 10:14:16
>>43
鴨だけど鴨だけどってうるせぇよ
53名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/19(金) 10:50:46
大学中退
自分にできる微かな抵抗
ただ実家を継いで医者になるのに抵抗があった
フリーターをして食いつないでいた四年間
別にいつ死んでもいいとさえ思ってた
四年ぶりの親父との電話
「病院は経営難で畳むことにした。俺の考えを押し付けて悪かったな。母さんが心配してるいつでも帰ってこい」
声が震えていた
5年ぶりの帰郷
久しぶりに会った親父
なんでこんなに痩せてんだよ
あんなにデカかった背中は見る影も無くなってた
患者のいなくなった病院を寂しそうに見ていた
26歳医学部二回生
ただあんたが見てきた風景を見てみたくなっただけ
54名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/21(日) 04:32:21
17の時、自暴自棄になってた俺を見かねて友達が女を紹介してくれた。その娘と仲良くなった。誰もが俺とその娘が付き合うだろうと思っていた。高校辞めて働いて同棲してもいいとすら思った。そんな時その娘が親と喧嘩して家出。もう音信不通。もっと早く好きって言えば…
55名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 15:22:00
今から7年前、俺の母方の叔母さんがガンで亡くなった。まだ50代前半だった。
40代の始めからガンになり手術しては治りそれを3回繰り返した。俺の母さん
とは姉妹で一番仲が良く、やりとりはまるで漫才だった。俺はその子供である
従兄弟とも、従兄弟連中の中では一番仲が良かった。

大きくなって、遠いこともあって従兄弟とはあまり会わなくなったが、俺の家に母方のばあちゃん
がいたせいかよく遊びに来た。俺の顔を見るたびに、従兄弟の話をうれしそうに
話してくる。従兄弟はひとりっこだったせいもあるが、とても愛情いっぱいに
従兄弟は育てられていた。料理がとてもうまい人で、俺や妹のためにいろいろ
手を込んだ料理を作ってくれた。自分の母さんの次に母さんのような存在
だった。

もう半年もたないかもしれないと言われてから、忙しい叔父さんのかわりに
母さんが付き添った。最後の方は意識もなかったが、あまりの痛みに悶え
苦しんでいたらしい。母さんはそんな叔母さんを見ては毎日のように泣いて
いた。ある日の朝早くに家の電話が鳴り、叔母さんが死んだことを聞かされた。

俺と父さんと妹が葬式に出るため身支度していると、ばあちゃんが起きてきた。
ばあちゃんはかなりの高齢だったので、長距離の移動に耐えられないということで
留守番することになっていた。叔母さんのことを話すと、へたり込み叔母さんの
名前を言いながら泣いていた。娘の最後を看取れず、どれだけ悔しかったこと
だろう。
56名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 15:44:47
叔母さんの家に着き、布団で寝ている叔母さんの顔を見てると、涙がこぼれた。
叔母さんの思い出が頭にたくさんよぎってたまらなくなった。俺と従兄弟は
もう結婚してもおかしくない歳になっていた。俺達が小さい頃、叔母さんは
よく従兄弟が結婚してお嫁さんを連れてきたら・・・っていう話をしていた。
俺のお嫁さんには料理を教えてくれるって。妹が結婚したら同じく料理を
教えてくれるって・・・。

従兄弟は俺達の前では涙を流さなかった。特に俺の前では笑顔を絶やすことは
なかった。強い奴だなぁ〜と思っていた。葬式の最後に叔母さんの写真が
スライドで流れた。まだ小さいころの俺や従兄弟や妹と一緒に笑顔で
写っている写真。ばあちゃんと一緒にピースしている写真・・・。その
スライドが流れている時、俺の隣に座っていた従兄弟が、ヒザの上で拳を
握り、全身をふるわせていた。歯を食いしばって涙を流さないように我慢
していた。でも、目からは涙がたくさんこぼれていた。今まで泣くのを
我慢していたのかと思うと、余計に悲しくなり俺も一緒に泣いた。

きっと、そんな自分を想像していたに違いない。従兄弟が結婚する姿。孫を
抱いている自分。孫が成長していく姿。従兄弟と従兄弟の嫁さんと孫に
囲まれて幸せにしている自分・・・。いろんなことを想像しただろうなぁ〜。
それらを見られないまま死んでいくのは、きっとものすごい悔しかった
だろうなぁ〜。

57名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/22(月) 18:13:33
>>26
心当たりがあるだけに泣けた
58名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 06:48:47
泣ける半紙ならこれを読んでほしい。俺は死後に少しでもいいことをしたくてこの自伝を広めてあげたい。彼女の家族を思う気持ちに賛同した。失ってから気づくのではなくて「これを広めてあげたい。
http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=non58482000&BookId=1

59名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/23(火) 07:12:21
「海夢」という本。友達が書きました。結婚して2週間で旦那さんを事故で亡くした実話。
60神戸:2007/01/25(木) 16:02:25
NO1
その娘は中学2年生だったが学力が全くなく割り算がまだ出来ない位だった。
義父は彼女が6年生の時にやって来た。
彼が来てからは家の様子が変わった。
今まで母親は母子であることを理由に娘を過保護にしていた。
そのお蔭で娘は我侭のやりたい放題だったが義父は厳しく挨拶から御箸の持ち方や
勉強に至るまで口煩かった。
勉強に至ってはつきっきりで教え休日には一緒に本屋で参考書や問題集を選んだ。

しかし、厳しさに見かね祖父が義父と喧嘩になり娘を引き取った。
祖父母家庭に落ち着いた娘は何も言われない環境に満足した。
娘は成績が更に急降下し模擬試験では偏差値が28まで落ち就職を考えねばならなかった。
祖父母宅に行ってから3ヶ月が過ぎ娘はキセル乗車をして学校から指導を受け母に連絡が来た。
義父は娘を呼び話を聞き翌日、鉄道会社に謝罪しに向かった。
頭を下げまくり何とか問題にしないでくれと懇願し相手も了承した。
学校にその事を報告し担任にも謝罪した義父は担任から更にいじめをしている事実を告げられ
愕然とする。

娘を更に呼び話をして帰ってこいと言った。帰らないなら一生、帰るなとも言い放った。
母はオロオロするばかりで娘にこれ以上、問題を起こさないでと抽象的に言うしかなかった。
娘はただ聞こえているだけだった。
61神戸:2007/01/25(木) 16:12:56
NO2

母と話し合った娘は年末に帰宅し元の生活に戻ることが怖かった。
案の定、義父から帰宅した途端にこれからの生活も何も変わらないと告げられた。
母はオロオロするばかりだった。
成績が余りにも下がっていたので義父は娘の将来の夢を聞いた。
子供に関する仕事がしたい、保母さんか小児科の看護士になりたいと言った。
義父はその職に就くためのコースを冷静に言った、
そして高校にも行けない成績では何も始まらない。
夢は実現する気がないなら口に出すなとも言い放った。
始めて自分の思いを伝えた娘は涙ぐんだ。
義父は容赦なかった、選択肢が少ない人生を送ろうとしているお前は負け犬にしかならないと言い
安易な娘を怒鳴りつけた、娘は泣いた。
母はオロオロするしかなかった。

翌日、進学塾に向かった父は入塾を頼んだがこの成績では入塾は出来ないと言われた。
しかし、頭を下げまくり何とか頼み込んだ。
娘も高校進学を決意し塾に行く事を喜んだがレベルの差は歴然としていて最初の試験でブッチギリの最下位を取った。
62神戸:2007/01/25(木) 16:22:15
NO3

結果を見て娘と母、そして祖母達は言葉を失い現実を知った。
義父はただ黙っていた。
冬期講習が終わを告げようとしていた時に義父が娘のテキストと問題集を解き始めた。
それも物凄いペースで・・・

3学期が始まると義父は塾から帰宅しては講義内容の復習問題を解かせ解説を深夜まで行なった。
塾のない日は夕食後、数学を徹底的に教え込んだ。
学校のテストは予想問題を作成し娘は平均点を取るに至った。
それでも義父は終わらなかった。
毎晩、必ず予習し翌日、娘に指導を行なった。
塾の小テストで100点を連発し始めた頃から塾講師も不思議に思った。

ある日、義父は夕食の際に言った。
子供が好きなら小児科医になれ、お前にはその能力がある。
キョトンとする娘に義父は更に言った。
周りがなんと行ってもお前は学区内でトップクラスに行けるそして医師になれると・・・
母は状況が掴めずお茶を入れすぎ義父に怒鳴られた。
63神戸:2007/01/25(木) 16:43:44
NO4

しかし、娘の成績はまだクラスで平均より少し上くらいだった。
娘は義父の言ってる事が理解できたが信じていなかった。
しかし、義父の勉強は強烈だった。毎晩、単元が終わるまで寝かしてくれなかった。
明け方になる事はしょっちゅうだった。
眠い目を擦りながら学校に行く娘を見て母は心配になった。
義父は仕事から帰っても娘の為に予習を繰り返した。
やがて、3年生の夏休みを迎えた。
毎日のスケジュールを決められて義父が帰宅するまで娘は必死になってそれらをこなした。
気づけばお盆も過ぎる頃、義父が中だるみを起こしている娘に言った。
「止めるのは簡単、いつでも出来る。しかし、続けることで自身を付ける事ができる。
それは自分の力でしか自身はつけれないからだ」
今まで自分で何一つした事がない娘は理解できなかった。それでも続けたのは怖かったからである。
2学期が始まり進路相談の時期になった。
義父は言った。
「就職かトップ校のどちらかだ」
母と娘は凍りついた・・・
既に義父は進路を決めていて担任にも告げていた。
その頃の娘は漸く偏差値が60にのった所だった。
それから義父の指導は続いた。娘は塾が唯一の息抜きとなった。
しかし、義父は娘が寝てから短期カリキュラムを作成し塾とも連携を図った。
進路を聞いた塾講師は呆然とし「無理だ」と言ったが義父は聞かなかった。
その為に塾に「協力しろ」とも言った。
最初の恩も忘れて強行に出た義父に塾側も呆れていた。
自分でHは満足する位勉強した娘は自信満々で中間考査を受けた。
結果はクラスで5番くらいにしかなれなかった。娘はショックで部屋に閉じ篭った。
母はオロオロするしかなかった。
義父はドアを蹴破りに怯える娘に今日の単元分の数学を教えた。
泣きながら深夜まで続いた勉強が終わった時、娘は義父に聞いた。
「パパはなんでこんなに厳しく教えるの?私、アホやから・・・
友達もママもおばあちゃんもみんな私には無理やからって言うし」
義父は言った。
「だからなんだ?」
娘は言った。
「もう中間ランクの公立に行く」
その瞬間に義父の手のひらは凶器と化した。
「母は失神しそうになった。
64神戸:2007/01/25(木) 16:51:33
NO5

最後の冬休み義父は有給を取り24時間娘に指導した。
クリスマスも単語のテストだった。
お正月は古文のテストだった。
娘は夕食時に聞いた。
「受からんかったらどうしよ?」
義父は言った。
「周りがなんて言おうが俺はお前を信じている、後はお前が自分を信じれば必ず合格する」
母は又、お茶をこぼしテキストを水浸しにして義父に怒鳴られた。

やがて試験に時期になり娘は不安に襲われたまま最後の模試を受けた。
合格率は68%だった。
義父はそれを見て予想問題を作った。それも5教科全て5種類も
作成は義父の友人もあたった。友人のフル動員だった。
娘は最後の1週間でそれを仕上げ本番に挑んだ。
娘と母はこの1年間を思い出したくも無い位、辛かった。
65神戸:2007/01/25(木) 16:58:21
LAST

早咲きの桜が開花しだした頃、母は支度に追われていた。
娘の就職祝いの写真を撮る為だった。
祖父母、母、そして研修医を終え県立こども病院に決まった娘。
全員が満面の笑みだった。
高校合格後、ガンで死んだ義父の遺影をしっかりと抱いて撮影したのは娘だった。

遺影の義父は笑っていた。
66名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 17:06:59
 話の種提供
 1981から1983の間にK谷市H陽中にてM畑44Xの
7某上野家系泰市の子泰和とその仲間たちは
6弱者にいじめがバレたら親族に危害を与えると脅迫し、
4えたひにんと呼び、遺書や奴隷契約書を書かせ、
0殴る蹴る汚すを繰り返し、金銭も恐喝していた。
2こういう類は親族ともども不幸とは無縁の
6社会的信用を得たお金持ちの生活をしている
永久に評判良し
弱者は給食費さえ取られていた
給食のほとんどを取られ、汚されて
まともに食べたこともない
67名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 20:14:18
宋文洲:捨て子の少女の死と、脱・格差社会のもと
http://www.nikkeibp.co.jp/news/biz07q1/523557/

 1996年11月の四川省の寒村。若い未婚の男性農夫が草むらに捨てられた女の子の赤ちゃんに気づきました。
赤ちゃんを育てるのは、貧乏な彼にとって重い負担。そう考える彼は何回も赤ちゃんを抱き上げては下ろし、立ち去ってはまた戻りました。
最後、彼は命が尽きそうな赤ちゃんに呟きました。

 「私と同じ、貧しい食事を食べてもいいかい」と。

 独身のまま1児の父親になった農夫は、粉ミルクを買うお金もないため、赤ちゃんはお粥で大きく育てられました。
病気がちな体は心配の種でしたが、聡明で近所からとてもかわいがられたのは、お父さんの救いでした。

 女の子は5歳になると、自ら進んで家事を手伝うようになりました。
洗濯、炊飯、草刈りと、小さな体を一生懸命に動かして、お父さんを手伝いました。
ほかの子と違ってお母さんがいない少女は、お父さんと2人で家をきり盛りしました。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 20:15:19

●突然押し寄せた不幸
 小学校に入ってからも、少女はお父さんをがっかりさせたことはありませんでした。
習った歌をお披露目したり、学校での出来事を話したりと、お父さんを楽しませました。
そんな平和な家庭に突然の暗雲がたれ込みました。

 2005年5月。ある日、少女は鼻血がなかなか止まらない状態になりました。
足にも赤い斑点が出たため、お父さんと病院に行くと、医者に告げられた病名は「急性白血病」でした。

 目の前が真っ暗になりながら、お父さんは親戚と友人の元に出向き、借りられるだけのお金を借りました。
しかし、必要な治療費は30万元。日本円にして400万円です。
中国よりずっと裕福な日本でも、庶民にとっては大金になるような治療費を、中国の農民がどうにかできるはずもありません。
集めたお金は焼け石に水でした。

 かわいい我が子の治療費を集められない心労からか、日々痩せていくお父さんを目にして、少女は懇願しました。
「お父さん、私、死にたい。もともと捨てられた時に、そのまま死んでいたのかもしれない。
もういいから、退院させてください」と。
69名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 20:16:14
●自ら治療を放棄すると退院
 お父さんは少女に背を向けて、溢れ出た涙を隠しました。
長い沈黙の後、「父さんは家を売るから、大丈夫だよ」と言いました。それを聞いて、女の子も泣き出しました。
「もう人に聞いたの。お家を売っても1万元しかならないのでしょ。治療費は30万元ですよね」と。

 6月18日、少女が読み書きできないお父さんに代わって病院に「私は娘への治療を放棄する」との書類を提出しました。
彼女はまだ8歳でした。幼い子につらい思いをさせてしまったことを知ったお父さんは、病院の隅で泣き崩れました。
そして娘を救うことのできない自分を恨み、運命の理不尽に怒りを覚えました。

 娘は生まれてまもなく実の父母に捨てられたうえに、貧乏な自分と1日も豊かな生活を経験したことがありません。
8歳になっても靴下さえ履いたことがありません。
それでなくてもつらい人生を歩まなくてはいけなかったのに、さらに追い打ちをかけて病に苦しめられるとは。

 退院して家に戻った少女は、入院する前と同じように家事をし、自分で体を洗います。
お父さんに、自分は勤勉で、かわいく、そして綺麗好きな娘として記憶に残してほしい。
そう願いながら、1つだけお父さんに甘えました。

 新しい服を買ってもらい、お父さんと一緒に写真を撮ってもらったのです。それもお父さんを思ってのこと。
「これで、いつでも私のことを思い出してもらえる」と。
70名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 20:17:48

●70万元の寄付が集まり、治療を再開
 ささいな幸せの日々も、終わりが見え始めてきました。病気は心臓に及び始め、ついに彼女は学校に行くのもままならなくなりました。
苦痛から、学校に向かう小道を、1人カバンを背負って立ち尽くすこともありました。そんな時には、目は涙で溢れていました。

 少女の死が近づいたころ、ある新聞記者が病院側からこの話を聞き、記事にしました。
少女の話はたちまち中国全土に伝わり、人々は彼女のことで悲しみ、わずか10日間に70万元の寄付が集まりました。
女の子の命はもう一度希望の火が灯され、彼女は成都の児童病院に入院し、治療を受け始めました。

 化学治療の苦痛に、少女は一言も弱気を吐いたことがありません。骨髄に針を刺した時さえ、体一つ動かしません。
ほかの子供と違って、少女は自分から甘えることをしないのです。
71名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 20:18:51
●訪れた運命の日
 2カ月の化学治療の間に、何度も生死をさまよいましたが、腕のよい医師の力もあって、一時は完全回復の期待も生まれました。
しかし、…。やはり化学治療は、病が進行し衰弱していた少女の体には、無理を強いていたのです。

 化学治療の合併症が起き、8月20日、女の子は昏睡状態に陥りました。朦朧とした意識の中で彼女は自分の余命を感じます。
翌日、看病に来た新聞記者に女の子が遺書を渡しました。
3枚もの遺書は彼女の死後の願いと人々への感謝の言葉で埋め尽くされています。
8月22日、病魔に苦しめられた女の子は静かに逝きました。

 少女のお父さんは冷たい娘をいつまでも抱きしめ涙を流しました。
インターネット上も涙に溢れかえり、彼女の死のニュースには無数の人々がコメントを寄せました。
8月26日、葬式は小雨の中で執り行われました。少女を見送りに来た人にあふれ、斎場の外まで人で埋まりました。

 女の子の墓標の正面には彼女の微笑んでいる写真があります。写真の下部に「私は生きていました。
お父さんのいい子でした」とあります。
墓標の後ろには女の子の生涯が綴られてありますが、その文面の最後は
「お嬢さん、安らかに眠りなさい。あなたがいれば天国はさらに美しくなる」と結ばれています。
72名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 20:19:25
●殺人は微増にとどまるが…
 紹介した話は、僕が中国で旅している間に偶然に耳にしたものです。
詳細に興味を持つ方はどうぞ僕のブログ(http://bsou.seesaa.net/article/31943569.html)をご覧ください。

 セレブの奥さんが夫を、医師を目指す兄が妹を、バラバラ殺人する事件が相次いで報道されたり、息子が父親のしつけに耐えられなくなり、母親と幼い兄弟を放火殺人してしまったり、とここ最近、家族同士の殺人事件のニュースを聞かない日がないくらい増えています。

 家族同士の殺人事件は、今に始まったことではありませんが、どうも最近はこれまで以上に凄惨になり、数も増えている気がします。

 2006年版の警察白書によれば、刑法犯で警察が被害届を受理した件数(認知件数)は2001年度に273万5000件だったのが、2005年度には226万9000件と減り、殺人事件は同じく1340件が1392件と微増、放火は2006件が1904件と減っています。
検挙件数で見ると、殺人は1261件が1345件と、これも増えてはいますが、目立って増えているわけではありません。

 白書の統計の中で、家族間の殺人がどのようになっているのか分からないので、凄惨な家族殺人が増えているというのは単なる印象論なのですが、どうも現代の日本は、家族の絆や生命の重みを大事にする気持ちが、薄まりつつあるのではないかと感じます。
73名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/25(木) 20:20:10
●カネや国に頼る前に、必要なこと
 もちろん勘違いだとは思いますが、そう感じるのは「カネ」さえかければ的な議論が先行し、何をするにしても基本である人の気持ちが置き去りにされているようだからです。
例えば、現在、安倍内閣が掲げている教育再生や少子化対策などの是正の議論の中では、必ずといっていいほど、国が対策を講じず、必要な予算をつけなかったから「学校が荒廃した」「子供を産めない夫婦が増えている」というものがあります。

 カネがないからダメになった、という意見に、僕は素直に賛成できません。紹介した中国の少女の家庭は貧乏だったけれども、少女を優しい思いやりのある子供に育てました。
お金はなかったですが、少女には夢があり、家族愛が育まれました。

 この少女が生きた四川省の農村部では、1人当たりの年間現金収入は1000元(約1万4000円)も届かないと聞いています。
ですから治療費の30万元というのは、年間収入が500万円の人が15億円の治療費を負担するようなものです。
74名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 19:31:26
俺が中学1年のときに、いつも通り学校に行った日。

朝8時ごろ家をでて登校。
学校について急いで教室に向かった。
そして席に座ろうとした瞬間強烈の臭い臭いがした・・・
不思議に思い、隣の人に(オイ、なんか匂わないか?)隣の人(お前が学校来る前から、匂ってたぞ)といい休み時間にトイレに行った。
トイレに行くと教室にいるより、トイレの方が匂いはやばかった。

大便の方を、覗いてみると・・・便座の上に大きいウ○コが乗ってて、友達と爆笑しました。

トイレにあったウ○コは面白かったもの、教室に臭いに匂いがあるのは、耐えられなかった。
クラスの女子や男子が気分を失い、先生も不思議に思った。

そうすると、時間もきて一時間目が始まった。
15分後、隣の先生がトイレに集合をかけて集まりました。

事情など話を聞かれ、一時間目の授業に戻った。

それでもまだ教室は臭くて、目をきょろきょろしました。
そうすると・・・前の席の男子の足元を見た・・・白い靴下が茶色に染まり、じ〜とみると・・・(あいつか・・・あいつがウ○コを漏らしたのか・・・)
笑いながら、友達に報告して一時間目を終わりました。
休み時間に、そのウンコ漏らしにある友達が、(お前臭いよ?)いいそのウ○コ漏らしが、戸惑いながら、足元を隠しました。
その様子を伺った俺は、爆笑しちゃいました。

その次の日そのウンコ漏らしは学校へこなくなった・・・・・・・・
75名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 20:07:34
「ありがとう、さようなら」

 仕事先の活動に参加。年間に10回の活動を行なう定例活動は、2月で最後の活動をむかえる。また来年度も更新するか、これを機会に退会するか、リーダーにとっても、子どもにとっても、大きな節目になる月である。
 月日が経つのは早いもので、僕がボランティアリーダーとして活動に誘われ、なんだかんだと活動をはじめて4年目が終わろうとしている。毎年、毎年、雑記帳でもつぶやいているけど、年を重ねるごとに、より感慨深くなっていく。
 特に今年度の別れは、格別に深いものがあったのだ。


 ふりかえってみると、ここでリーダーとして活動をはじめた当初は歳も若く血気盛んな頃で、とにかく誰にも負けないと自負していた「おもしろさ」を武器に、常にハイテンションなキャラを前面に押し出し孤軍奮闘していた。
 今、この歳になって「原点回帰」と称し、その当時のハイテンションを心がけて活動してみるとよく分かる・・・。はっきり言って、気色悪い。

 いきなり彗星のごとく出現し、まわりの雰囲気や波長を全く無視した破天荒な立ち振る舞いをすれば、そりゃあ誰だって気色悪がり、近寄りたくもなくなるだろう。まして、これまで何年かその場所で活動を続けていた高学年の子どもならなおさらである。
 かくして、僕のここでのリーダーのスタートは、ごく一部のおバカな(良い意味でいつもテンションが高く、たまたま波長が合った)低学年のみと仲良くなったものの、ベテランの高学年層からは激しいバッシングを浴びながらの活動がしばらく続く。
 私が担当のグループのリーダーになった時には、まるでおみくじで大凶を引き当てたかのような、悲痛な表情を浮かべ、最悪まったく相手にされない日もあった・・・。

 見たままズバリ(?)繊細なハートを持つ僕は、その都度ひどく傷付き、毎月同じ子ども達と活動ができる楽しみやおもしろさは実感できていたものの、同時にまた傷付くことも同じくらい恐れていた。
 好きで始めたはずの活動なのに、いつしか参加するかどうか葛藤するようにさえなっていたのだ。
 しかしそれでも続けようと思いとどまらせてくれた大きな存在は、そんな僕にもついてきてくれる低学年の子ども達であり、中でもこんな僕を一番の「お気に入りリーダー」として認めてくれたある女の子3人組であった・・・。

76名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 20:09:59
当時3年生だったその子達は、他のどのリーダーよりも僕によくなついてくれ、僕と接している時が一番素の自分を出してくれているのが手をとるように分かった。
 それを決定付けた活動がある。
 当然のように同じグループになった高学年の子ども達は、僕の近くに寄ることすらも拒み、低学年の子どもたちも自分達で面倒見るから、お前は入ってくるなと、言われるほどのおそるべしあつかい。
 それでも同じグループになっていた、その3人組の内の1人は、高学年の輪に入ろうとせず、ぴったりと僕のそばに寄り添って離れなかった。
 再三の誘いもかたくなに首を横にふりつづけ、結局最後まで僕のそばから離れなかった。
 今ともなれば、逆にその子がグループに入れるよう配慮し、策をめぐらすのが必要なことなのだろうが、心に傷を負った経験の浅い若造リーダーには、それがとてつもない癒しを与えてくれた。
 たぶん、なにか、すごく、救われた……。

 いつしか、僕をお気に入りリーダーとしてしたってくれていたこの子達を、僕もお気に入りになり、この子達と活動ができることが喜びになり、活動に参加することも苦痛にならなくなっていった。
 だって、そこに救いの手があるのだから……。

 ちなみに、僕が一番はじめに覚えた子どもの名前は、この子達からだった。

 しだいにこんなことを考えるようになっていった。
 いつまでリーダーを続けていけるか分からない。分からないけど、もしできることなら、この子達が小学校を卒業して、ここを卒業していくその日まで、共に活動していけたらな……と。
 まだ専門学校にも通い、親の引いたレールを歩いていた当時の僕には、この子達の卒業の頃には社会に出て働いているはずの年齢だったので、叶わぬ願いだろうと淡く考えていた………………。
77名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 20:11:41
今日は、その子達の最後の活動日。

 3年生だったこの子達は、立派な6年生になった。奇遇なことに最後の活動場所は、あのいつまでも僕のそばに寄り添っていてくれた時と同じ場所……。スタッフの配慮で再び同じグループになれた。心から感謝。

 それとなくあの日のことを話題に出してみたけれど、とうの本人はあまり覚えていない様子だった。でも、それでいい。

 つい最近までまとわりつくように甘えては、おんぶだのだっこだの言っていたのに、今ではご立派に憎まれ口をたたき、そっと距離をとるようになっている。でも、それでいい。

 けど、話をしているうちに自然と盛り上がり、ふと気付くと揃って寄り添って歩いていく。やはり本人達は分かっていないのだろうけれど、僕の心はいっぱいになる。


 あっという間に活動も終わり、解散場所までおくっていくことに。これもまた奇遇なことに、他の参加者はおらず、この子達だけの解散。本当に、最後の、僕達だけの解散。
 けど、僕達に「しめっぽいお別れ」なんて似合わない。道中の電車も普段と変わらないおバカなトーク。そして僕達だけの秘密なこと。それは、あたかもまた4月から共に活動していくような、そんな雰囲気。

 そういう別れが良かったからこそ、あっという間に着いてしまった解散場所での最後のお別れの際に、これまでの言葉にできない感謝の気持ちを手紙にして手渡した。3人と一緒に撮った写真をそえて。最後の僕達だけの秘密なこと。

 保護者の方にも深々とお礼を言い、それぞれ握手を交わして解散した。いつもと変わらず、あっけなかった。でも、それでいい。少し潤んだ目を見てしまい、僕もつられそうになったから……。
78名無しさん@お腹いっぱい。:2007/01/26(金) 21:32:02
これは、私が中1の時の話です。

中学生に入学して、勉強についていけず、テストの成績を見せるたびに
厳しい親父に2時間くらい怒られていた。
怒るとなにより頑固で怖い親父がその時死ぬほど嫌いだった。

だからパソコンでしょっちゅう親の愚痴かいてた。
それがなによりのストレス発散だった。
チャットで知らない人とメールしたりしてた。本当にいい人達だった。

そしたらある日、夜に起されて、勉強の説教を受けた。
夜に親父の怒鳴り声・・・・。

そしたら親父「お前がチャットしてる奴らはな、えっちな事ばかりしてる奴らなんだよ!」
って怒鳴られた。
チャットの内容を全てチェックされていたのだ。

確かに、チャット仲間には40代の人などいた。
でもチャットのマイク使って、私のためにピアノ弾いてくれたりした。

それが悔しくてな・・・。
勉強のことでストレスが溜まっていて、もう限界だった。

最後には、プラスックバットで殴られ、部屋に貼っていたポスターを破られ

限界がきた私は裸足で外へ出て、チャリで警察に行った。
雨だった。
本当に親父が憎かった。

警察行って、泣き喚いて、オカンが来て・・・・・。すごかったよ。

家に帰ったら

親父が泣いてたんだ

まるで子供のように。
初めて聞いた親父の泣き声。
すごかった。

オカンも泣いていた
私も泣いた

親父のあの泣き声は今でも耳に残っている

79名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 17:09:42
Σ(*゚Д`;)ア…アッハァァ
80名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 23:19:03
僕の家の隣に女の子が越してきたのは小四の夏休みだった。
彼女の家庭にはお父さんがいなかった。
お母さんは僕の目から見てもとても若かったのを覚えている。
違うクラスになったけど僕と彼女は仲良くなった。
彼女はあまり明るいほうではなく、女子の友達も少なかった。
本ばかり読んで親しい友人のいなかった僕と彼女はお互いの家に遊びに行くほど仲良くなった。
そのうち彼女は愚痴を言うようになった。
母親がすぐ殴ること。
同じクラスの女子が意地悪をすること。
すきな男の子ができたけどその子はほかの女子にも人気があること。
最初は僕のほうがよくしゃべっていたけれど、この頃からは一方的に彼女が話し僕が聴くようになっていた。
 
ある日を境に彼女は学校に来なくなった。
好きだった男子の取り巻きたちにいじめられていたのが理由だ。
彼女は僕に会うたびに自分をいじめた女子が憎いといった。
そのいじめを見てみぬ振りしていたクラスの皆も憎いといった。
そして現実味のない復讐やクラスメイトの悪口を延々と話し続けた。
僕はただ黙って相槌を打っていた。

中学に入ってから彼女の素行が荒れ始めた。
夜遅くまで帰ってこないようになり、これ見よがしにタバコをすい始めた。
家庭環境も悪化し、深夜にいきなり親子喧嘩が始まったりもした。
一度は警察が彼女を迎えにやってきた。この頃から近所と折り合いが悪くなり、
中傷ビラや落書きなどの悪質な嫌がらせが彼女の家に行われた。
一度は郵便受けに刻んだ猫が入っていた。
僕も母に彼女と付き合うのをやめるよう言われた。

僕が高校を出たとき、彼女は部屋に引きこもるようになった。
僕も彼女の姿を見ることがめっきり減った。
めっきりふけこんだ彼女のお母さんに話を聞くと
昼は絶対に出てこない。
ご飯は部屋の前においていく。
深夜になるとトイレに行くときだけ出てくる。
そんな生活を送っているようだ。
僕は久しぶりに彼女に会いにいった。

彼女は僕に会うのを拒絶した。
扉越しに帰れと怒鳴った。
何を話しても黙っていた。
一度なんかはドアがあいたと思ったら味噌汁をかけられた。
ちらりと見えた彼女はげっそりと青白くやつれていた。
絞った雑巾のようだった。
僕は毎日彼女に会いに行った。
親とけんかした。
やっとできた友達と疎遠になった。
それでも毎日彼女の部屋まで会いに行った。

そのうち彼女は扉越しに話をするようになった。
悪い仲間と付き合っていたこと
万引きが癖になって警察に捕まったこと
恋人ができたと思ったら避妊に失敗して子供ができたとたんに逃げられたこと
助けてほしくて相談した母親に半狂乱になって殴られたこと
子供をおろしたこと
死のうと思ったこと
手首を切ったこと
昔と同じ様に彼女が一方的にしゃべり続け、僕は相槌を打つ。
意見を求められたときはなるべく無難な意見を言う。
81名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/17(土) 23:20:51
そのうち彼女は部屋を出た。アルバイトも始めた。
だんだん性格も明るくなり始めた。彼女のお母さんから泣きながらお礼を言われた。
ある日、彼女は近所の団地から飛び降りた。
下が植え込みだったこととたいした高さじゃなかったために一命は取り留めたが
脊髄が傷ついたために今後の人生は車椅子のお世話になるそうだ。
ベッドに横になった彼女はなきながら謝った。
親や僕に迷惑をかけていたのがすごく申し訳なかったから飛び降りたんだそうだ。
泣いている彼女を慰めた。寝転んだまま泣いている人を慰めるのは難しいと思った。
慰めながら彼女にプロポーズした。結婚を前提に付き合ってくれるように頼んだ。
彼女は全身の水分を絞りつくすようにして泣きながら「本気?私でいいの?本当にいいの?」
と何度も聞き返した。訊かれる度にうなづき返した。
君のことがずっと好きだった。
顔をゆがめてクラスメイトの悪口を言っていたときも
悪い友達と付き合って荒れていたときも
一方的に愚痴をしゃべり続けていたときも
君が泣きながらお母さんが自分を殴ることを告白したときも
引きこもって別人のようにやせたときも
小学生の頃に君が好きな男子の名前をその取り巻きたちに教えたときも
君の家のポストに入れる猫を刻んでいたときも
足の感覚を失い白いベッドに飲み込まれそうに小さく横たわっている今も
ずっと君が好きだ。
これで完璧に君は僕だけの「彼女」だ。

僕たち今度結婚します。
82名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 13:57:38
>君の家のポストに入れる猫を刻んでいたときも

ちょっと待て
83名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 15:55:28
小学生の頃に君が好きな男子の名前をその取り巻きたちに教えたときも

この話に核心部分
久しぶりに寒気がした
84名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 20:35:25
泣ける話か・・

三十路超えてるニートがいるらしい・・

これは親が泣く話だったw
85名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/18(日) 22:33:14
三十路越えてゆうメイトが颯爽と参上
手取り11万円でした
86名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 00:10:52
昔の話だがまぁ暇だったら見てくれ。

俺には幼稚園からの幼馴染の女の子がいた。
いつも彼女とはおしゃべりとか家も近かったかもしれないが
学校が終わると一緒に帰っていた。
ある日こんな話をした。
「ねぇ○○(俺の名前)ってさ、なんか夢とかあるの?」
「ん、なんだいきなりいつものお前らしくないな」
「なんとなくね、聞きたいなと思って」
もうすぐ道が違う所に入る前だった。
俺は、照れくさくって無言のまま家に帰った。
家に帰った俺は、彼女が聞いてた夢の問いかけに答えようとメールを送った。
打ち終わったあと疲れていたので風呂にはいって寝ようと思った。
体を洗い、お湯に入った。
やっぱり疲れていたためか、風呂にはいったまま寝てしまった。
今でもその夢は忘れられない。
彼女が突然煙の中から出てきて、俺にこう言う。
「○○の夢叶わないかもね。ごめんね。」
「でも、ありがとう。」
俺は何か言おうとしたが、そこで夢が覚めた。
なにかモヤモヤしたものが胸につっかかり、風呂を出て
彼女にメールをもう一回送った。

1999年2月4日
19:26

なんか悩み事でもあったら俺に言えよな。
さっきの夢のメールだけどさ、あれ気にしなくていいから
なんかごめんな。


そこで俺は寝た。
87名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 00:13:42
朝起きて学校に行こうと彼女の家に行くと
なにやらいつもの様子とは違っていた。
ここでいつも彼女の部屋の窓から
「ごめん。髪型が決まらなくて、あと5分待って」
と言う。

でも違っていた。

彼女の窓を見るとカーテンで閉まりきっていた。

チャイムを鳴らすと彼女の親が出た。
「○○君・・・。」
「あの、○○(彼女の名前)いますか?」
「あの・・・あのね」
おばさんの言葉がつまっていた。
「○○死んじゃったの・・・。夜・・・に・・・」
おばさんは泣き崩れた。
「え・・・あの・・・ ○○とは昨日一緒に帰って、無事にうちに・・」
「うちには帰ってきたんだけど、そのあとに・・・なにか慌ててうちをでて・・・」
「・・・すいません。どこで亡くなったんですか?教えてください」
俺は彼女が泣くなった場所に行った。
そこは、いつも彼女と俺が話していたコンビニ近くの公園だった。
道路には花束。まだ残っている血の痕跡。
俺は泣いた。
泣いてしまった。
皆が見てる中で泣いた。
恥ずかしいを通り越して彼女の痕跡を見て泣いた。
その時夢の事を思い出した。
夢叶わないね。俺は理解した。
88名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 00:29:53
彼女に送った夢の答え
俺はこう送った。

1999年2月4日
17:54

○○(彼女の名前)が聞いてた俺の夢だけどさ。
笑うなよ。というか笑えないかもな。

俺の夢は

いつもおてんばで、俺が落ち込んでる時励ましてくれるやつで、
なぜかしらないけど、俺がチョコレートもらえなかったって言うと
照れくさそうにくれるやつで、迎えに行くと待たせるやつで、
待ってもなぜかそいつにはイライラしないやつで、
そんなやつと

俺は

一生を共にしたいなと思う。

だから

付き合ってくれ。

○○(彼女の名前)

ごめん。好きなんだわ。

突然メールしてごめん。
答えはいつでもいいから。
迎えに行くときにまた笑いかけてくれ。

あ、でも苦笑はやめてくれよな。


こんな内容だった。
89名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 00:30:58
今では恥ずかしくなる。
なぜ、メールで告ったのかとか泣けてくる。

彼女の葬式に行った。

彼女の遺体はとても見るに耐え難いものだった。

でも、顔はキレイで、泣けてくる。

その日彼女は遺骨となって俺に触れた。
彼女のご両親には感謝してる。
遺骨を触らせることはなかなかしてもらえないから。

いつもの学校いつもの帰り道すべてが変わった。

身近にいる人ほど亡くなった時、大切さを知る。

それが好きな人であればあるこそ。

俺は後悔している。

俺がメールで夢を語ったから。あんなメールを送ったから彼女は・・・

と思う。

彼女は許してくれるだろうか、あの時の夢

あやまるなよ・・・ 俺があやまんなくっちゃな。

ごめんな。でも、もう泣かないぜ?

だっていつもお前は笑ってたから。
90名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 00:33:49
今まで見てくれた人ありがとう。
なんか文ヘタだけどさ。
彼女をネタにして悪いと思う。
でも、身近にいる人の大切さを知ってもらいたいから書いた。
荒らしとかさ、まぁその人の勝手だけど。
その人の気持ちすこしは考えような。
これで終わる。
91名無しさん@お腹いっぱい。:2007/03/25(日) 16:19:46
ぬこたちカワイソス(´;ω;`)

横浜市内で里親を探す仔猫を詐取しては、数十匹も虐待虐殺を繰り返していた
悪質な猫殺しへの実刑判決を勝ち取るため、
【厳罰嘆願書送付の協力をお願い】しています。↓

猫殺し高柳政男への実刑判決を見届けるスレ(#^ω^)ピキピキ!2
http://wwwww.2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1174570709/
ぜひ来てください、そして【葉書でおk、10分で書ける厳罰嘆願書】を
次回は4月9日(月)、その日に判決が出ます。ですのでお早い投函を!
今月末にはどうかお願いします。

あなたの一通が必要なんです!
92名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/01(日) 21:37:01
どうして私がいつもダイエットしてる時に(・∀・)ニヤニヤと見つめやがりますか(゚Д゚)ゴルァ!
どうして私が悪いのにケンカになると先に謝りますか(゚Д゚)ゴルァ!
どうしてお小遣減らしたのに文句一つ言いませんか(゚Д゚)ゴルァ!
どうして交代でやる約束した洗濯をし忘れたのに怒りませんか(゚Д゚)ゴルァ!
どうして子供が出来ないのは私のせいなのに謝りますか(゚Д゚)ゴルァ!
どうして自分が体調悪い時は大丈夫だと私を突き放して私が倒れると会社休んでまで看病しますか(゚Д゚)ゴルァ!
どうして妻の私に心配掛けたくなかったからと病気の事を隠しますか(゚Д゚)ゴルァ!
おまけにもって半年とはどう言う事ですか(゚Д゚)ゴルァ!
長期出張だと嘘言って知らない間に手術受けて助からないとはどう言う事ですか(゚Д゚)ゴルァ!
病院で俺の事は忘れていい男見つけろとはどう言う事ですか(゚Д゚)ゴルァ!
こっちの気持ちは無視ですか(゚Д゚)ゴルァ!
正直、あんた以上のお人よしで優しい男なんか居ませんよ(゚Д゚)ゴルァ!
それと私みたいな女嫁にすんのはあんた位ですよ(゚Д゚)ゴルァ!


もう一つ言い忘れてましたが私、お腹に赤ちゃん出来たんですよ(゚Д゚)ゴルァ!
あんたの子供なのに何で生きられないのですか(゚Д゚)ゴルァ!
そんな状態じゃ言い出せ無いじゃないですか(゚Д゚)ゴルァ!
それでも言わない訳にはいかないから思い切って言ったら大喜びで私を抱きしめますか(゚Д゚)ゴルァ!
生まれる頃にはあんたはこの世にいないんですよ(゚Д゚)ゴルァ!
元気な子だといいなぁってあんた自分の事は蔑ろですか(゚Д゚)ゴルァ!
病院で周りの患者さんや看護婦さんに何自慢してやがりますか(゚Д゚)ゴルァ!
病気で苦しいはずなのに何で姓名判断の本で名前を考えてやがりますか(゚Д゚)ゴルァ!
どうして側に居てあげたいのに一人の身体じゃ無いんだからと家に帰そうとしますか(゚Д゚)ゴルァ!
どうしていつも自分の事は二の次何ですか(゚Д゚)ゴルァ!


医者からいよいよダメだと言われ泣いてる私に大丈夫だよとバレバレの慰めを言いますか(゚Д゚)ゴルァ!
こっちはあんたとこれからも生きて行きたいんですよ(゚Д゚)ゴルァ!
それがもうすぐ終わってしまうんですよ(゚Д゚)ゴルァ!
バカやって泣きそうな私を包んでくれるあんたが居なくなるんですよ(゚Д゚)ゴルァ!
忘れろと言われても忘れられる訳ないでしょ(゚Д゚)ゴルァ!
死ぬ一週間前に俺みたいな奴と一緒になってくれてありがとなですか、そうですか(゚Д゚)ゴルァ!
こっちがお礼を言わないといけないのに何も言えず泣いちまったじゃないですか(゚Д゚)ゴルァ!
あんなに苦しそうだったのに最後は私の手を握りしめて逝きやがりましたね(゚Д゚)ゴルァ!
何で死に顔まで微笑みやがりますか(゚Д゚)ゴルァ!(゚Д゚)ゴルァ!(゚Д゚)ゴルァ!
そんなのは良いから起きて下さい(゚Д゚)ゴルァ!
生まれてくる子供を抱いて下さい(゚Д゚)ゴルァ!
子供に微笑みかけて下さい(゚Д゚)ゴルァ!
たのむから神様何とかして下さい(゚Д゚)ゴルァ!


ダメ女な私にこの先一人で子供を育てろと言いやがりますか(゚Д゚)ゴルァ!
そんなあんたが死んで5ヶ月...
子供が生まれましたよ(゚Д゚)ゴルァ!
元気な女の子ですよ(゚Д゚)ゴルァ!
目元はあんたにそっくりですよ(゚Д゚)ゴルァ!
どこかで見てますか(゚Д゚)ゴルァ!
私はこの子と何とか生きてますよ(゚Д゚)ゴルァ!
あんたも遠くから見守って居てください。
93名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/04(水) 21:54:04
ある日旦那がノーパンで帰宅した。
オナラと同時に敗戦したと言っていた。
スーツは無事だったので問題ない。
旦那がいつノーパン帰宅してもいいようにパンツはたくさん買って予備を鞄に入れておこう。
お腹に優しいご飯作って部屋を暖かくしておこう。
通勤時間長いのにいつも頑張ってくれてありがとう。
94名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/19(木) 23:26:30
俺ずっと高齢童貞喪だったんだけどさ
半年くらい前にお見合いで結婚したんだよ
うっひょ〜やっと童貞卒業できるうぇwwって思ってたんだけど
やっぱお見合いでいきなり結婚しちゃうとどうしても抵抗があるらしくて
それで俺も奥手だから煮えきらずにずっとお預け食らってたんだけど
こないだ嫁さんが妊娠したって報告があってさスゲー喜んでて俺もスゲー嬉しくて
二人で居られる今のうちに旅行にいこうってことになって
だからか俺もちょっと気が大きくなって迫ったらセクロスOKってやっと許しが出たんだよ
なんか自慢みたいになったけどようやく俺も童貞捨てられそうです
今までありがとうお前らもがんばれよ!
95名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 15:48:28
>>94
じゃ、奥さんのお腹の子は誰の子(?_?)
96名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/21(土) 17:23:17
>>95
それは聞いちゃダメ
97名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 21:49:02
父が食道癌になりました。
ウチは癌血統ではなかったので、この告知は本当に驚きました。

私は父と、この10年ほど腹を割って話したことがなく…
何かあれば衝突ばかりで。。。
大事な話は、母を通して話してました。
喧嘩ばかりというよりは、ロクに話したことがないのです。

だから、
「お父さん、体の調子が悪いんだ」
そんな言葉を耳にしても、気にもとめずに、いつもの様に遊び歩いていたんです。


そんな父が緊急入院した時は、本当に目の前が真っ暗になりました。
食道癌のせいで、食べ物が飲み込めずに痩せ…
無理に飲み込もうとしたせいで、腫瘍から出血を起こし、血液が殆どない状態で、緊急入院となったのです。

私と母は、何とか暗い気持ちにならないように父の検査が終わるのを待ちました。
「癌な訳ないから、きっと大丈夫!」
そう言い合ってました。


が、
下された診断は、癌でした。
父は肝硬変も患っているらしく、肝臓が弱りすぎて手術は不可能らしく、放射線治療となりました。


その告知を家族と一緒に聞いていた父は、主治医に急に怒り出しました。

「何故、こんなことを家族に聞かせるんだ!
俺だけに言えばよかっただろう!?」


お父さん、普通逆だよね?(笑)
“本人に聞かせないように!”って家族が気を使うよね?
何もこんな時にまで、家族を守ろうとしなくていいんだよ。
怖い時には、震えて泣いていいんだよ。
皆の前でわざと強がって、布団に顔を隠して泣かなくていいんだよ。

お父さん、私はあなたのことをわかろうとしなかった。
事業に失敗したり、借金抱えたり…頼りにならない父親だとばかり思ってた。
こんな大人にだけはなりたくないと、思ってた。



でも、今は…
こんな家族思いな父の娘に生まれてきて本当によかった。
こんなに優しくて、思いやりのある父を心から尊敬します。




お父さん、一緒に頑張ろうね。

うまく書けなくてゴメンなさい。。。
98名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/25(水) 21:55:28
婚約破棄!!
99名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/26(木) 00:50:03
やっぱりおばあちゃんと母さんは大切にしないといけないね。今度の休みに実家帰ります。竹の子の煮物作っておいてって頼んでおこう。そしてこんな気持にしてくれた>>1に感謝します。
100名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/26(木) 06:39:18
>97
親父カッコイイな。
癌、治ればいいな。

何も出来んが治るように祈るわ…
101名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/26(木) 08:21:50
>>100
それと、お父さんの仕事歩合制なんだけど…
自分の入院中も家族が困らないように、給料三ヶ月分くらい稼いでから入院したことがわかったんだ




私、世界一あったかい家庭にいたんだと思った
世界一カッコいい父親だと思った


祈ってくれて、ありがとう
102名無しさん@お腹いっぱい。:2007/04/28(土) 08:16:02
あげ
103名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 00:55:20
泣きたい
104名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 01:38:36
泣かせて
105名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 01:42:21
734 :素敵な旦那様 :2006/02/11(土) 17:45:59

母は、僕を女手一人で育てた。
僕の幼かったころに、亡くなった父は、マンションの10階を母に残した。
そのマンションからは、夏に花火をみることができる。

父と母が過ごした街の花火。
毎年花火の時には、窓際にテーブルを移動して、母と一緒に父を偲んだ。
花火はいつもきれいで、母はうれしそうだった。
父は、母に素敵なものを残したなっと思った。

でも、それは長くは続かなかった。
僕が高校の時に、うちのマンションの前に、もっと高層マンションが建設されたのだ。
僕は、景観が悪くなるなぁって、思ってた。

その年の花火の日、いつものように、テーブルを移動して準備してた。
花火みれるかな?って、心配だった。

花火みれなかった。見事にマンションで見えなくなってる。
音だけの花火。
あんなに悲しそうな母の横顔を見たことがない。

僕は、母を連れて、川辺に歩いていった。
母と見上げた初めての花火。

父さん、心配するな。これからは僕が母さんを笑顔にする。
106名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 01:47:10
830 :可愛い奥様 :2005/09/20(火) 09:24:49 ID:Io8/IeQg

ある漫画を見ていたら、
40の男と26の女の子が結婚したんだがその旦那さんが
「俺の持ってるもの、全部たかちゃんにやるよ」って言うのさ。

なんで?って聞くと、
自分は奥さんより年上で、絶対先に死んじゃうからって。
私が先に死ぬかもよ、って言うとそんな事想像したくないとか
私が先に死んだら意外とまた新しい奥さんもらっちゃうかもよ、
それでもいいけど幸せになってねとか、
たまには私のことも思い出してねって言うシーンがあって
それは私達が結婚した時と全く同じやりとりだった。

すごく切なかった。
やっぱり歳の差のある夫婦ってのはみんな同じことを考えてるんだろうか。
旦那は本当に高額な生命保険に入り、家のローンももうすぐ完済できるよう
返済を繰り上げて頑張ってる。

「俺が死んでも、困らないだけのものは遺してあげるから」
そんなのいいから長生きして。お願いだから無理しないで。
107名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 12:44:09
チョットきた
108名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/09(水) 22:17:40
泣ける話かわからんが…

俺のオカンは左目が見えない。
なんか若い時に病気か怪我か何かで見えなくなったらしい。
聞きゃあ教えてくれると思うけど聞いたことはない。

幼稚園の頃に周りの園児に「お前のオカンは目が見えん」とかで俺はのけ者にされていた。
今、思うとこの頃から自分はオカンのせいでこんな目にあっているとオカンを恨んでいた。
小学校低学年の頃、オカンと買い物に行くのが周りでは当たり前だったが俺は1度も行ったことがない。
オカンに行こうと言われても絶対に行かなかった。
中学の頃の授業参観や体育祭にも1度もオカンを呼ばなかった。
人と違う母親が何か恥ずかしくて…周りに馬鹿にされるんじゃないかと思って。
高校の進路相談の時も別々に学校に行き、別々に教室に入った。
オカンは教室がわからなくて廊下をウロウロしてたらしい。
まぁ俺みたいなDQNはもちろん大学には行けず、ニート決定。

こんなクソみたいな俺に文句1つ言わないオカンの理由がこの頃にわかった。

アホな俺は親の部屋で、親の通帳を探していた時、タンスの中から日記らしきノートと俺名義の通帳を見つけた。
日記の内容はオカンの日記だった。

自分がこんなんだから俺がイジメられてないか。
自分がこんなんだから絶対に俺のいる学校に行ってはダメ。
自分がこんなんだから俺が自分のことを嫌いなんじゃないか
自分がこんなんだから俺の為に人1倍がんばらないと。

こんな感じのことがノート3冊くらい書いてあった。
オカンは俺じゃなくて自分を責めていた。
俺名義の通帳にはコツコツと貯められている結構な額があった。
俺は1円も貰う価値のない人間なのに。

どうしてあの時、一緒に買い物に行かなかったんだろう。
どうしてあの時、授業参観にオカンを連れていかなかったんだろう。
どうしてあの時、体育祭にオカンを連れていかなかったんだろう
どうしてあの時、あんな酷いことをゆったんだろう。
どうしてあの時、慰めてあげなかったんだろう。
どうしてこんなにオカンを不安な気持ちにさしてしまったんだろう。
どうして今までこんなに離れていたんだろう。

いろんな思いが溢れて来て俺は何年ぶりかわからないくらい久しぶりに泣いた。

俺はこの日、なぜか頭を丸めたのを覚えている…


5年経った今は安月給だけど就職もしてなんとか働いている。
ヒマな日とかにはオカンと買い物にも行ったりしてる。
失った時間は大きすぎるけど、少しずつでも取り戻していきたい。
今まで支えてくれたように、今度は支えて行こうと思う。
遅いかもしれないけどこれからは俺がオカンの左目になろうと思う。
109名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/10(木) 00:51:22
ちょっときた(pд;)
ネタじゃない事を祈るばかり
110名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/10(木) 01:55:31
五木寛之の「うらやましい死にかた」(文春文庫)を読みました。
それは「うらやましい死に方を遂げた方々の事」を編纂したものでした。

四人姉妹の末っ子(46才)の方を亡くした姉(52才)は、七夕の夜ホスピスで
妹を見送った。
死の間際
「私達姉妹で良かったね」と声をかけた姉に
「有難う。さよなら」と右手をちょっと上げて答えたそうです。

その妹さんは、大学院を出て博士号を取得、留学から帰国後は年老いた父親との
二人暮し、大学の講師や翻訳をし、生き生きと暮らしていたそうです。

そんな妹からある日突然「私は癌」と告げられうろたえる姉たちを後目に手術、
抗癌剤、放射線治療、そして復帰。

ところがその二年後のある日、
「実は術後すぐ再発していた。自分なりに調べた結果、治療せずに自然に生きられる
 だけ生きようとその時決めた。
 いよいよ最後の時が来たようだから、私は今からホスピスに入る」
と淡々と話したそうです。

「お葬式はせず散骨して欲しい。知人には連絡があった時、死にました
 と言ってくれればいい。

 死ぬ時の姿は誰にも見られたくない。
 ベッドのまわりで顔を覗きこまれギャーギャー言われちゃたまらない。
 死ぬだけでも本人は大変だろうに、人にまで気を遣ってられない」
と、言い残したそうです。

お姉さんは最後の三週間を妹と一緒にホスピスで暮らし見送りました。
すごい妹さんですが、理解し、見守り、見送ったお姉さんも素敵ですね。

引用 http://ogob.net/full/full.php?aid=453&uid=&fav=&art=&page=14
111大好きです:2007/05/10(木) 02:18:52
昔サッカーのコーチをしていた。
中学校の部活でやっていて顧問が素人だったので
ほとんど自分でやることが出来た
が子供達は真剣にプレーしてるが上手くならない
自由にやってなく楽しんでなかった

そんな時コーチ経験のある先輩と仲良くなった
一緒にサッカーをした観た語った濃い時間を過ごした
ある時先輩の家に行くと知らない奴がいた
『教え子だ仲良くしてやってな』
そいつは私より年下だった
『教え子と言うよりこいつとは友達だな』
その言葉を聞いて感動したそして自分に足りない物が見えた

それからはコーチより友達として接した
そしたら子供達は楽しむようになり考えるようになっていった

『先輩、子供って不思議ですね』
『当たり前だろ、ベンチで座ってるお前もチームだ
お前が楽しまなかったら皆楽しくない
大好きになれない上手くなれないそこは間違えちゃいかん』
『立場上、距離とってましたわ保護者や顧問に期待され
肩に力が入ってました』
『だろ』

子供達の最後の大会
市内でベスト4だったチームが県でベスト4を争う所まできた
が同点でPK戦を向え負けた
泣きじゃくる子供達を見て泣きそうになるのをこらえる
最後のミーティング
『…悔しいな最高のゲームだった』
泣きながら『負けてしまって…すいませんでした』
『謝るなよ全力でプレーしたんだろ精一杯やったんだろ…でも悔しいよな』
『…はい…』
『だったらまたサッカーやればいいそして今日負けた奴より上手くなれ』
『はい』
『じゃあ、挨拶しようか』 『はい』
キョウツケ レイ 『あいがとうございました』
『ほんとありがとう、これでコーチじゃなくなった、お前らは俺の友達だ
たまには連絡くれよそして上手くなったプレーみしてな気をつけて帰れよ』

『先輩最後ってつらいですね』
『最後じゃないだろこれからだろ』
『やばいですね〜ほれてもいいですか』
『さっむいな〜』
『すいません』
112大好きです:2007/05/10(木) 02:19:36

『先輩最後ってつらいですね』
『最後じゃないだろこれからだろ』
『やばいですね〜ほれてもいいですか』
『さっむいな〜』
『すいません』

それからしばらくたって先輩の友達から連絡がきた
先輩がその日の昼に事故でなくなったことを聞いた

通夜に行くと沢山の人が来ていてその中に俺の知ってる先輩の友達もいた
先輩を見た顔の外傷はない
『先輩さむいっすわ』『……』何も言わない
なんか言葉をかけたいが考えれば考えるほど言葉につまる
『……』
『………』
『……』
葬儀から帰り家で泣いた


あれからずいぶん経つ先輩の友達は友達になった
ちょっと前にそいつに紹介した
『仲良くしてくれよな俺の教え子だ』
『友達さんですよね』
『お〜当たり前だろ』

先輩、楽しかったです今度は僕が上の立場になり
あの時先輩はこんなこと思ってたのかなって考えたりします
今度あいつをキャバクラに連れってってみます
きっとテンパってだまることに期待しながら
113名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/10(木) 23:11:37
泣けるかどうかわからんが・・・・・
私の話。
中学三年の夏。私に不登校でオタクな女の子の友達ができた。
かっかけは些細なことだった。担任の先生から「運動会の練習するから呼びにいって!」
と、何故か私に頼んだのだ。
まともに話したこともないのに・・・と思ったが、文句を言わずに行った。
おおげさかもしれないけど、本当にアレは運命だったのかもしれない。
その子はびっくりするほど元気で、私に話しかけてきた。
そして、私がアニメが結構好きだと知るや、自分の趣味も話してきた。
そして私とその子は友達になった。
 

一週間経って、先生が私とその子の席を前後ろ同士にした。
二週間経って、その子が朝と帰りのHRにでるようになった。
三週間経って、その子が授業にちらほらでるようになった。


時間掛かるけど続きます。
114名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/11(金) 17:32:44
138 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/05/10(木) 16:24:49
田舎の祖母が入院してるので実家に数日戻ってきた
祖母はあんまり長くないらしい

祖父母は九州に住んでて祖父は完全に頑固一徹の昔ながらの親父って感じ
男子厨房に入らずを徹底して、晩酌は日本酒(必ず熱燗)・ビール・ワインをその日の料理と気分で飲み分ける。
当然、すべて祖母が準備。
熱燗がちょっとでもぬるいと、口を一度つけたあと「ぬるい」と一言だけ言い、無言で祖母に温めなおすよう指示。
祖母は「すみません」と言いその熱燗をもって台所にいき、温めなおす。
祖父は祖母を怒鳴りつけるということはなかったが、とにかく一貫してそんな態度だった。
小さい頃からこまごまとよく働く祖母と祖母を呼びつけて「茶」だの「新聞とってこい」だの召使のように扱う祖父をみて
なんだか理不尽なものを感じていた。
その反動か俺は小さい頃から母親の手伝いをよくやったし、今も家事を積極的に手伝うようにしている。

その祖母が先月いきなり倒れたらしい。
検査の結果癌発見。
しかももう手遅れで、手術して無駄に体力奪うよりこのまま…という方針に決まった。

で、GW中は仕事が忙しかったので、連休明けて仕事一段落して長めの休暇もらっていってきたんだが
実家帰ってびっくりしたのが、祖父が連日祖母の病院に朝からいっているらしい。
ほとんど一日病室で二人で過ごしているそうだ。
病院にいったら祖父はいなかったが、しばらくしたら祖父が帰ってきて、その手には売店で買ってきたらしきプリン。
祖母が食欲が落ちてきたので食べやすいものを、と思って買ってきたらしい。
見ていると祖父が良く動く。
鞄から祖母の着替えを出したり、ちょっとした買い物やなんやと。
俺がそろそろ帰ろうかとしていると、祖父がいきなり「そうだ。せっかくだから写真を撮ろう」といいだした。
祖母が「こんな痩せてガリガリの写真なんて撮らないでください。
葬式には若い綺麗なころの写真を使ってくださいね」と冗談めかしていうと
祖父は「病人だし飯も食わんのだからガリガリなのは当然だ。
今のお前が綺麗じゃないという奴がいたら俺がぶん殴ってやるよ」と。
祖母は「まぁまぁ・・」なんて笑ってたけど、ちょっと泣いてたんだよな。

なんだかんだ言いながらこの二人は夫婦なんだなぁと思ったよ。
115名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/11(金) 18:44:43
>>1
人生を振り返れば自然に泣けるはずだよ
116名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/11(金) 20:52:18
>>113からの続き

4週間くらい経って、いきなりその子から電話が掛かってきた。
「あ〜、○○ちゃん(私の名前)?」
「え・・。そうだけど、どうかしたの?」
「あのさ〜、さっきテレビで・・・・」
それからその子と小一時間話をした。家族のことだったり、アニメや漫画のことだったり
ようするに、他愛もない話をした。
最後にその子はこんな事を言った。
「あ〜明日さ〜、暇だったらカラオケいかない?」
涙がでそうになるのを、私は必死で堪えました。
だって、カラオケとかに一緒に行く遊び友達なんていなかったから。
そもそも、友達と他愛もない話で長電話をしたことだって初めてだったから。
私は昔から一人ぼっちでした。軽く話せる友達はいるものの、
彼女らと遊びにいくほど親しくはありませんでした。
中三になってから、私はクラスの皆から少しずつ離れていきました。
そんな私の様子を先生は気が付いていたのかもしれません。
いっつも教室の隅っこでひとり本を読んでいる私のことを心配してくれてたのかもしれません。
今となっては分かりませんが、先生のおかげで私には初めて親友と呼べる存在ができました。
月曜日が待ち遠しく感じることができました。
この場を借りて、お礼を言いたいと思います。


ありがとう。


117名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/13(日) 22:23:30
118ムー:2007/05/14(月) 22:15:39
泣けないかも・・・
今年の母の日の前日に母が亡くなった。朝、仕事に行く前に叔父から電話があり母が危ないと電話があり病院に向かうと母は亡くなってた・・・
先生から話を聞くと病名が肝細胞癌とC型肝硬変。それも手の施しようのない状態だったらしい。抗がん剤も無理、手術も無理。不思議と涙はでなかった。
叔父に聞くと私が心配すると母が口止めしてたらしい。経済的な事で火葬のみの荼毘葬で行った。親族五名だけだった。一人で遺骨を持って帰り遺品を整理してると
私の通知表から幼稚園の出席表や母子手帳が出てきた。確かに母は多額の借金があり、それが原因で父とも別れ、居留守や取立てから逃げる毎日だった。それで友人から馬鹿にされ
母を憎んだこともあった。しかし、私はわがままを結構言ったし、母が周りの子の母親より高齢(四十歳で私を出産)で毛嫌いもした。学校行事も秘密にした。だが、友人が来ると頼んでも
無いのにおにぎりなど出したりしてきて皆に私と母のやりとりを馬鹿にされたりもした。私が社会人になって私は定職にもつかずパチンコなどしたり、母の生活を支えなかった。でも、母は自分の
食事は二の次で私に豪華な食事を与えくれた。ここ数年はお金を入れていたが実際その額以上の食事だった。今は後悔しかない。母をもっと孝行すればよかった・・・
後の祭りだ。遺骨に毎日、問いかけている「また、かあさんの子供で産んでくれと・・・」
今は涙が止まらない、かあさん二十八年間ありがとう。そして、ごめんなさい
119名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/14(月) 22:23:34
ベタだけど
ドラえもんの
「さようなら、ドラえもん」は泣けるよ。

http://www.raorao.jp/view_movie.php?mi=m00000000f82
120名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/16(水) 12:30:02
泣けなかったらすまんorz
私には、小さい頃から祖父の後を追い掛け回していた。
が去年77歳で他界した。
そして、その夏に可愛がっていた猫も後を追うかのように死んでしまった。
今でもかなり悔やんでしょうがない。
もうちょっと生きられたかもしれないのにと・・・
小さい頃から、よくカブの後ろに乗って連れて行ってもらった。
どこにいくにも一緒で、大好きだった祖父。
私が二十歳になり、新しい彼氏ができた。
その時から祖父は、少し体調を崩しはじめてしまい、入院することとなった。
そして、親の反対を押し切って彼氏と同棲をしはじめてから・・・
最初のうちは、元気だっただらしいが、途中で体調をまた崩しはじめてから、入院して、去年の一月に亡くなってしまった。
ごめんなさい。【ちゃんと側に入れなくて】
私は、大切な物を手に入れたが同時に大切な何かを失ってしまった。
だけど、昨日、夢で昔小さい頃の自分が出てきて祖父の後ろに乗って走ってる光景をみた。
私は、嬉しかった・・・
どこがで私の事を見守ってくれているんだと・・・
ごめんね「おじいちゃん、花嫁衣裳を見せられなくて」
私、頑張れるよ!今のかけがえのない人と一生・・・
121名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/18(金) 19:43:28
小1のときに母が死んだ。そのとき父は絶対に涙を見せなかった。
私もこれから涙など見せず、強くなろうと決めたはずだったのに…

一昨年の冬に祖父、去年の春に祖母がなくなった。
ずっと暮らしてきた家族2人の死はとても辛かったが人前で泣くことはなかった。
しかし、その1ヵ月後父が死んだという連絡が入った。
父は仕事で東北に行っていたため、私たちも最後の別れをするために東北へとんだ。

父は船の機械にはさまれ、顔は膨れ上がり、別人のようだった。
家族や親戚は泣きくずれていた。それでも泣かない、そう決めたんだ。
しかし、おじさんに「お前も泣いていいんやぞ、我慢せんでいいんやぞ」と言われ、
私の目から涙がこぼれた。
涙を流したのは一瞬のはずなのに、そのときは時間が長く感じられた。

私は結局親孝行をすることはできなかった。これが一番の後悔である。
今は家族は姉と私だけ。だけど親戚たちが私たちを支えてくれる。
だから私は強く生きられる、いや強く生きなければならない。
父がそうであったように…

私は母、祖父、祖母に言えなかった言葉を最後に父を含めた4人に告げるために
父の携帯に
 「ありがとう」
という一言のメールを送った。
122名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 11:24:22
小4の冬。俺は親にとんでもない事を言って酷く傷付けてしまった事がある。
他の小4の頃の記憶なんてすっかり消えてしまっているけど、その事だけは今も俺の胸をチクチクと責め続けている。
ある日、パートから帰って来たかぁちゃんは玄関でゴソゴソしてから居間に入って来た。といっても玄関口とたった二間のアパート住まいだったんだけど。
「ヒロ君ただいま。」「かあちゃんおかえり^^。」貧乏ながらも普通に仲のいい親子だったと思う。でもこの時期、俺は学校で激しくいじめられていて、かぁちゃんはその事にはまだ気が付いていないと思っていたんだ。
折しも時はクリスマス直前。ご飯を食べ終えるとかぁちゃんは俺にこう言った。
「ヒロ君、もうすぐクリスマスだね。今年のサンタさんはヒロ君の欲しい物を何でも用意してくれるっていってたよ^^。」
「ほ、本当に!?かぁちゃん!」俺はものすごく感動してたと思う。そして瞬間的に欲しい物が頭の中で輪を描いてクルクル回り出した。それを察してか、かぁちゃんは言った。
「じゃあ、サンタさんによくわかる様に紙に書いておこうね。」そしてみずやから赤いペンと片面刷りのチラシを裏向けてちゃぶ台に置いた。
俺はテンションが上がりすぎていたのか、はたまた七夕の短冊と勘違いしたのか、欲しい物ではなく願い事を書いてしまった。
『とぉちゃんが欲しい。早くかぁちゃんが幸せになります様に・・・。』今思えばかぁちゃんへの気遣いもあったかも知れん。
俺はかぁちゃんの待つ台所へ行き、得意満面にその紙を披露した。するとかぁちゃんは、なけなしのヘソクリで買ったのであろう、手にもっていた当時大流行だったファミリーコンピューターを足元に落とし、声を震わせながら言った。
「ば、ばか!何をいってるんだいこの子は!こ、このゲーム機さえあれば友達ともっと仲良くできるんだよ!?は、早く書き直しなさい!!!」
かぁちゃんはすべて知っていたのだ。でも、子供ながらに、いじめを見透かされていた事と、かぁちゃんへの気遣いを無視された事で俺も必要以上に突っ張ってしまった。
「そんな物いらない!とぉちゃんが欲しい!!何だこんな物!!!」とファミコンを拾いあげ、居間に向かって投げつけた。すると、事の一部始終をずっと居間で見守っていた父の額に
カツーンと良い音を響かせながらファミコンが砕け散ってしまった。その後、大声で泣きながら家を飛び出したまま20年、父は未だ帰らぬままである。
123名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/22(火) 12:38:08
2点
124名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/23(水) 20:19:53
号泣寸前・・・インターネット全体で大流行の感動フラッシュ!
http://www.geocities.jp/tomoro0206/ka-chan.html
125名無しさん@お腹いっぱい。:2007/05/24(木) 16:44:42

おじいちゃんが、けんだまを買ってきてくれた。普通の玉の2倍あるけん玉。
京都に旅行に行った時のおみやげらしい。おじいちゃんが一生懸命選んで買ってくれた、けん玉。
私はそんなけん玉に文句をつけた。「こんなんいらんわ、返してきて。」
おじいちゃんは悲しそうな顔をした。私はおばあちゃんに言った。「おじいちゃんがあんな
危ないもんおみやげに買ってきた。」って。おばあちゃんは私の話を聞いておじいちゃんに言った。
「こんな危ないの買ってきて怪我でもしたらそうするんや」と。
おじいちゃんは、その1言で買ってきたけん玉を、重い足取りでどこかへ持っていった。
悲しそうな背中だった。

おじいちゃんが倒れた。ある日おばあちゃんから電話があった。私はその時はどうせ何ともないやろって
そんな気持ちでたいして心配もしてなかった。週末お母さんとおばあちゃんと一緒におじいちゃんが
入院する病院へいった。おじいちゃんに喋りかけたけどおじいちゃんは何にも
言わなかった。眠ったまま。脳梗塞っていう病気らしい。おばあちゃんが言った
「おじいいちゃん、あんたらが来るんいつか!?って毎日おばあちゃんに聞いとったわ
まぁ酒ばっかり飲んどったしいつかこうなるんちゃうかって思っとたけど、、、まあ酒ばっかり飲むで
自業自得や」私はおばあちゃんが言ったこの言葉に何か深い意味があるような気がした。
それから毎週、お母さんと一緒におじいちゃんの入院する病院に言った。
その間おじいちゃんの病状はよくなる所か次第に悪くなった。
一度も目を覚まさなかったし。喋る事もなかった。
そして、おじいちゃんは死んだ。私は始めて今まで心配もしていなかった自分に
腹をたてた。思い返せば一番私を可愛がってくれたのはおじいちゃんだった。
わたしの書いた下手な絵をほめてくれたのも、お母さんに怒られた私をかばってくれたのも、
ままごとをして遊んでくれたのも、ちょっとしかないお金遣いでおやつを買ってくれたのも
全部おじいちゃんだった。私はそんなおじいちゃんに酷いことばかりしてきた。
おじいちゃんの葬式の時、もうおじいちゃんは帰ってこないし、会えないんだ。
と思うと涙がでそうになった。おばあちゃんと一緒におじいちゃんのタンスの整理を
していたら、見覚えのあるけん玉がでてきた。普通のけん玉の2倍ある大きさの玉のけん玉。
私がひどい事いったおじいちゃんが買ってくれたけん玉。
あの時おじいちゃんはどんな、気持ちでけん玉をこのタンスの中にしまったんだろうか。
あの時素直にありがとうって言っとけば、、、。
「ごめん」私はけん玉に向かって謝った。
おじいちゃんが買ってきてくれたけん玉に。

126 救えば 自分が救われる:2007/06/15(金) 14:16:48
神の贈り物『奇跡の母子犬』 を見て広めよう
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1181875518/

保健所の絶望的な檻の中 わが子を守る親犬
 
係員をにらみ 
助かり 係員に寄り添う

悲劇を 悲劇をなくせ クソバカ 

泣けるから コピレ

スレ立て希望ス
127名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 14:56:46
泣けるかわからんが
俺の人生の中で一度だけ大泣きしたことがある

今まで誰にもすべてを話したことがないが
ここで話してみてもいいか?
128名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 16:02:36
自己判断でどーぞ
でも期待通りの反応が返ってくると思わない方がヨロシ
129名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 16:29:12
俺の友達が彼女を飲み会に連れてきたとこから始まる

親友というほどではなかったが、月一回は必ず飲む仲間だった
彼女は俺のタイプだった
130名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 16:34:12
彼女は人見知りが激しくほとんど話さなかったが
たまたま俺の目の前に座ったせいか
俺とは後半かなり話した

それからなぜかわからないが、友達から遊びの誘いが増えて
彼女を含め3人いろんなところに行った
131名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 16:53:35
飲みの後は運転代行を頼んで帰った。
友達が助手席で、俺と彼女が後部座席に座った。
彼女が俺の手とつなごうとしてきた。
それはまずいだろ…と振りほどくと、彼女は悲しそうな顔を
するのだ。つい俺もその顔にやられて手をつないでいた。

飲むたびにそんなことをしていた。友達に対してこんな子でいいのかよ、
と思っていた。俺も十分友達に対してひどいことしてるのに。
132名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 17:09:24
そんなことを繰り返しているうちに
本当に自分の気持ちが彼女にいってることに
気づいてしまった。
会いたくて仕方なかった。

とうとうキスをしてしまった。彼女はものすごく驚いた顔していた。
俺も一瞬で何てことしたんだ!!と思ったけど、何も言えないままだった。

それから真面目に彼女と付き合うなら…ってかなりシュミレーションした。
一生懸命いろんなパターンを考えたが、行き着いた結末は
友達をこれ以上裏切れないし、やっぱりどっちとるかっていったら
友達だろうってことだった。
133名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 17:13:21
じいちゃんとばあちゃんは2人で暮らしてた。ばあちゃんはボケが進んでた。
じいちゃんが介護してた。いろいろ大変だったみたいだけど、会話はできているようで、
人が思うほど大変じゃないよって言ってた。

ばあちゃんの家に行くと、いろんな事が紙に書かれている。
「冷蔵庫は閉めましょう」「電気は消しましょう」「トイレは←」「ふく、くつした↓」とか、
いろんな字がじいちゃんの手で半紙に筆で書かれていた。書いてあれば守ってくれるんだって。

じいちゃんはいつも一緒にいてあげたけど、どうしても区役所とか病院に薬をもらいにとか
出かける事がある。心配だけど「外には出ないこと」と玄関に書いておけば、大人しく
待っていてくれたんだって。

ある日、じいちゃんが出かけた。もちろん玄関には「外には出ないこと」
それなのに、じいちゃんが戻ってきたら、ばあちゃんは家のすぐ前で車に轢かれてしまっていた。
救急車で運ばれた。じいちゃんが駆けつけると、待っていたかのように、じいちゃんの手を強く握って
天国へ行った。じいちゃんはとても悔やんだ。家族全員も悔しかった。今まで書いてあることは必ず
守ってたのになぜ家を出たんだろう。

家族同然の付き合いをしていた隣のおばちゃんが話をしてくれた。事故の直前、急に雨が降ってきた。
おばちゃんは布団を取り込みに庭に出た。すると、ばあちゃんが傘を持って慌てて道路に出てきた。
ばあちゃんの病気をおばちゃんは知ってたから、心配になって、ばあちゃんの方へ向かったその時に事故が。

じいちゃんが勤めていた頃、ばあちゃんは雨が降ると必ず駅までじいちゃんを迎えに行ってた。
ちょっとでも雨が降ると必ず迎えに行ってた。雨を見て、じいちゃんが家に居なくて、傘を持っていこうとしたのだろう。
それだけ、じいちゃんが好きだった。じいちゃんもばあちゃんが好きだった。
じいちゃんもしばらくして病気で天国へ行った。ばあちゃんが持っていた傘と一緒にお墓に眠っている。
じいちゃん、ばあちゃん達は幸せだったんだろうな。
134名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 17:24:25
時期を同じくして、友達から彼女と結婚すると聞かされた。
ショックを受けたが、きっと彼女も同じようなことを考えたんだろう
と思った。これでいいんだ。俺も彼女をちゃんと作ろうと思った。

数日後彼女から俺に電話が来た。
彼女は謝った。俺には謝られることが一番きつかった。
彼女は好きになりかけたと言った。勝手だな…って思った。
だから俺は意地でも好きだったとは言わなかった。
かっこ悪いかもしれないけど、俺の必死の抵抗だったのかも。

幸せになってほしい。心からそう思えるようになって
やっと俺にも彼女ができた。
すべてが普通にこのまま時間が流れて、友達は結婚式をして
俺と彼女の秘密は懐かしい思い出になると思っていた。
当たり前にそう思ってた。
135名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 17:39:19
友達が事故であっけなく死んだ。
ほんとになんか今でもなんだかよくわからない感覚になる。
でも本当に友達は死んでしまった。葬式もよく覚えていない。
彼女が狂ったように泣いていたのと、電池が切れたみたいに
無表情で動かないのだけは覚えている。

初七日のときやっと彼女に話しかけることができた。
「一瞬でもあたしがもしも彼がいなかったら…って思ったから
こんなことになったんだ。」
と泣き崩れた。俺は逃げ出したかった。俺にも責任があるんじゃないかと
後頭部を殴られたような衝撃があった。
もちろん彼女に思ったことを現実にする力なんてあるわけないし、
そんなことで人が死ぬわけない。わかってるんだけど、俺と彼女は
ものすごい罪悪感でつぶされそうだった。

彼女は毎日のように泣き叫び、疲れて眠る日々を繰り返していた。
田舎ではそんな話はすぐ聞こえてくる。
俺は、苦しくて彼女を何度も慰めに行こうとした。
でも俺の顔を見れば、嫌なことばかり思い出すに決まってる。

4年経ち、彼女は一人で暮らしている。
俺はやっとできた彼女とは別れた。
ほかの女の心配をしてる俺なんか振られて当たり前だけど。
136名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/15(金) 17:55:12
この間初七日以来に彼女に会った。
彼女は元気だった。友達のことを忘れたわけではなく、
ちゃんと生きていこうとがんばっていた。
「どこにもいない。って思うと死んでしまいたいくらい
辛かった。でも見守ってくれてると思うと、がんばらなきゃって
思う。」と話した。「それでも寂しくて泣いてしまうけど。」
と少し泣いて笑った。

「あの時はひどい言い方をしてしまってごめんなさい。でも、今は
あのキスも後悔はしていないよ。間違いや迷いは生きているからこそ
できるから。あの言葉であなたを縛ってしまったならごめんなさい。
どうか幸せになってね。」

俺はその日の夜大泣きした。ここはあまり言葉にはできないな。

俺は彼女といつか一緒にいたい。
今はまだまだだめだろうけど、いつかお互い大丈夫になったら
彼女に気持ちを伝えたい。
まずは毎年墓参りに行くあいつに一生懸命この気持ちを
伝えて、了解をもらってからだけど。

俺の選択が間違ってるかも知れないけど、一緒になれないかも
知れないけど、俺はきっとこれからも彼女を見守ると思う。
どうゆう形だろうと。
あいつは許してくれるだろうか。

だらだらと書いてすみませんでした。
この話は俺以外は泣けないかも…
137名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 02:18:34
ジンときた(T_T)君みたいな愛と器の深い人間だったら亡くなった友達も天国で許してくれてるよ☆彡
138名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 07:37:59
なんつーか、キスどころじゃなくてセックルはやってたにちがいないと思う
DQNの自分思い出美化話にしか聞こえないなー。
お前さんが彼女の前から消えるのが一番の解決方法。
東京、できれば外国、さらに言えばあの世まで行けたら、その分彼女は楽になる。
139名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/16(土) 10:46:09
何このブサの僻み
全世界の幸せの為にお前があの世逝けよハゲ
140名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/17(日) 23:17:02
俺は高校時代に野球やってたんだが、監督から徹底的にゴミ扱いされてたんだよ。
練習開始した途端、お前は使えないから玉でも拾ってろ、と言われたりね。
相手が暴投したのに、俺が殴られ、歯を折った事もある。
何故か日頃の練習時から俺ばかりいびられてた。
高3でレギュラー入りし、真面目に野球に打ち込んでいたのにも関わらずそれは続いた。
入部から3年の間に、何度も部活を辞めようと思った。散々悔しい思いをした。
辛い練習にも耐え、精神的に限界。
でも、どうしても野球が好きで、辞められなくて、なんとか苦しみ抜いて続けて来た。
少しながら俺を気遣ってくれる仲間もいた。
そんな中、遂に高校最後の大会の日がやって来た。終盤で俺の打順が回ってきた。
その際、監督が俺を手招いて、全員の目の前で俺に一言。

「どうせ当たらないんだからスクイズしろ。」・・・・

全員黙っていた。
拳に力が篭ったまま無言でバッターボックスへ歩き出した俺。
表情には出さなかったけど、思いっきりキレた。
一打に賭けて、監督へ俺からの最後の回答を出す事にした。
俺を3年間虐げ続けたこの監督の言い成りになったままスクイズで終わるのか、
それとも、監督の指示を破ってヒットに賭けるのか。
これでゲームが終わったら皆には申し訳が立たないけど、
今しか無いと考えた。どうせ恥を掻くならヒットに賭けた方がいいと。
思い切ってボックスに立ち、ヒットだけを狙った。
二度と無い、一度切りのチャンス。
死ぬ気でバットを振り抜いた・・・・・結果はセンターフライ。アウトだった。
ゲームセット。涙が止まらなかった。
その後、皆の前で監督に謝られた。俺に厳しくしたのは
自分の亡くなった息子に似ていたからだと打ち明けられた。
全く許す気にはなれなかったが、初めてお互いを認めた気がした。
監督が俺の前から去った直後、試合に参加した皆で号泣した。俺も含めて。
傍から見れば小さな事かもしれないが、俺はあの3年間で人生の多くを消費した。
そんな俺は現在32歳。サラリーマンとして第二の人生を歩んでいる。
小さなアパートで一人暮らし。両親も亡くなり、兄弟もいない。
妻も子供もいないが、男友達なら少しいる。
これでも人生充実しているつもりだ。
財産の多くを金ではない心から貰った。
あの時のナイン達を・・・俺は今でも忘れない。
141名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 00:35:43
野球やる奴はDQN。
142名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 16:29:47
全て監督が悪いな。
143名無しさん@お腹いっぱい。:2007/06/18(月) 17:02:50
>>137
ありがとう
誰にも言えずここまできたからそう言葉が
本当に救いになるよ
あいつも許してくれたらいいと願うよ

>>139
優しいな ありがとう

>>138
期待に副えなくて悪いがキス以上は出来なかった
何も考えずにいれたらやってたかもな
本当はいなくなるのが一番なのかもしれないけど
彼女の前から人が死んでいくのは
決してしたくないんだ せめて俺だけでも
マジレスすまん
144名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/06(金) 14:21:55
馬鹿なりにやっと入れた大学。だけど3回生になっても友達はいないに等しい。
 中学・高校時代の親友たちは、新しい環境や職場で
  新しい友人や恋人が出来たらしい。以前のようにはしょっちゅう遊べなくなった。
ある日の朝、母が俺に千円を渡してきた。「大学の食堂はどう?美味しい?」
 俺は「うん」とだけ答えて、その日は昼飯を食わなかった。食堂には一度も行ったことがない。
  きっと母は今頃、俺が友達と仲良く昼飯を食ってるものだと思ってるんだろうな・・・
   そう思うと、少しだけ、胸が痛くなった。
ある金曜日の夜。高校時代の親友に電話をかけて遊びに誘ったが、
 土日は友達と約束があるから行けないという。俺は「いいよいいよ」と笑って答え、
  いつものように週末はひとりで過ごした。

     _____________
   /|:: ┌──────┐ ::|
  /.  |:: |          | ::|           きっと今ごろ あいつらは
  |.... |:: |         | ::|
  |.... |:: |         | ::|
  |.... |:: └──────┘ ::|            新しい友人や恋人と
  \_|    ┌────┐   .|     ∧∧
      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄     (  _)
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄旦 ̄(_,   )    楽しい休日を満喫してるんだろうな
            /             \  `
           | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|、_)
             ̄| ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| ̄


     |           .( ( | |\
     | )           ) ) | | .|
     |________(__| .\|      でも、もう、俺はいい大人だから
    /―   ∧ ∧  ――-\≒
  /      (    )       \
  | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |
  |______________|      泣かないで済む術を、

   ∧∧
  (  ・ω・)
  _| ⊃/(___       いじけずに済む方法を、もう
/ └-(____/
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

  <⌒/ヽ-、___  
/<_/____/      身につけてしまったんだ。
145ラーメン紳士:2007/07/09(月) 17:13:16
上京してもう4年にもなる。定職につくわけでもなく、かといって親のすねをかじる訳でもなく、毎日が過ぎて行ってた。
一年に一回ぐらいしか実家には帰らなくて、父子家庭の俺は帰るたびに、なんだか
気まずいというか、胸を晴れないというか、、、
実家に帰った夜、親父と二人で飲んだ、
親父は東京の話を無理に聞こうとは、っしなっかた。それがなんだか
息苦しかった。
そんな中で親父が言った
「お前は、俺の息子なんだから、自身もって思いっきりやれ!もし駄目になっても
お前の帰る家はこの町にずっとある!だからお前ぐらいのときは
何にも考えずにがむしゃらでいいんだよ。」
親父はやっぱりすげーって思った。
心ではやっぱり親父に支えられてることを実感しました。
146名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/10(火) 01:47:13
147名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/13(金) 02:59:46
>>146
泣けるのに元気が出た。
誰かこのお話を出版社に頼んでください。
148名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/20(金) 18:36:36
俺にはひどい体臭があった。
だが自覚がなかったため周囲の反応をことごとく他の理由によるものだと解釈していた。
事実を知らされ対策を講じるも、空気が読めなくて改善していないというシグナルを見落としていた。
そして水面下で同僚やクライアントの不満が蓄積してゆき、退職勧告が突きつけられた。
自覚できなかったことを激しく責められた。

あれから手術した。デオドラントも石鹸も洗剤も、脆弱な皮膚にダメージ蓄積させない程度には強力なものに切り替え、どうにか再就職できた。
でも、外出先でまた臭いと言われた。だからどうしても不安になる。
職場では文句言われていない。だがそれは気を遣って言わないだけじゃないか? 空気読めないから、改善していないシグナルを見落としてるんじゃないか?
周りの人のあらゆる行動が、俺の体臭への反応に思えてしまう。
他の理由だと考えようとすればするほど、俺が臭いためだと判断する根拠を見つけ出してしまう。
自覚できないまま周りに迷惑かけていた頃と、今とどう違うのか区別がつかない。
臨界点を迎え、トイレに駆け込み、狂ったようにデオドラントを吹き付ける。そんな日々が続いた。

正月の帰省は決定打だった。
車で迎えにきた父は咳き込み、鼻すすりをしていた。風邪引いたという。嫌な汗が出てくる。
前の職場で俺の体臭を必死で堪えていた同僚も、頻繁に咳き込み鼻すすりをしていた。でも俺は、寒暖の差が激しい職場なのですぐに風邪を引くのだろうと考えていたのだ。
あの状況と区別がつかない。
不安を必死で堪え、風邪という言葉を信じて車に乗り込む。
そして到着した実家では咳と鼻すすり、そして火がついたような泣き声で出迎えられた。
両親も、婆ちゃんも、兄夫婦も、1歳の姪も、みんな風邪ひいたという。
信じられない。相変わらず俺は臭い、それこそ、赤ちゃんが泣き出すくらい臭いと考えてしまう。
正月だからと並べられたご馳走の山、俺の好物だったもの、そして酒。
どれも体臭の元である可能性が指摘されており、長い間断っていた。もう食べたいという気持ちも失せた。
でも、頑なに拒んだらそれまた場の空気を悪くする。
親は俺が臭いという事実を決して受け入れようとせず、気のせいだと言い張る。俺が納得できる根拠など何一つとして出そうとせず。
そのあと何度も体臭でトラブルになったのに。
無理して食べた、飲んだ。これらに含まれる普通の人なら奇麗に分解できる何かが、俺には分解できずニオイとして排出してしまう。そう考えてしまい、全然おいしくない。下手したら悪化した体臭でまた仕事クビになるかも。もはや、生ゴミを口にするような気分になっていた。
母さんや婆ちゃんや義姉さんが作ってくれたのに、父や兄が俺と酌み交わすために買った取って置きの酒だったのに。
婆ちゃんの料理は、もしかしたらもう食べられないかもしれないのに。

義姉が、薬を飲ませたり鼻水のケアのためと言い頻繁に姪を連れ茶の間から出る。
臭いから退避してると考えてしまう。
実際、風邪引いたと言っていながら誰も俺の前で風邪薬を飲んでいなかった。

脳裏に口臭予防ガムのCMが浮かび上がる。
彼女から邪険に扱われ、入っていた電話ボックスは警官に封鎖され、周りの人から疎ましげに見られ、なぜそんな仕打ちを受けるのか理解できずうろたえる青年。
俺ににこやかに接する人が皆、内心ではあのCMのようにしたい衝動を必死に堪えてるんじゃないかという疑念が抑えられない。
149名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/20(金) 18:37:36
夜、客間に来客用の綺麗な刺繍が入った布団と新品のシーツが敷かれた、眠れやしない。でも古い布団やシーツを敷いてくれという要望は聞き入れられないだろう。
俺が帰った後、親は予想以上に染み付いて落ちることのない体臭に顔をしかめ、泣く泣く高級布団を捨てる光景が脳裏に浮かぶ。
布団から出て、畳の上で自分のコートに包まった。ようやく安心して眠れた。
もう、限界だった。

翌朝、適当に用事をでっち上げ、予定を切り上げ帰ることにした。
引き止める両親。だが頑として譲らず帰ると言い張る俺に折れ、父は駅まで車を出してやると言い出した。
確かにここは交通の便が悪い。しかし車という狭い空間に他の人と一緒になんていられない。
来客の隙を突き、俺は逃げるように実家を飛び出した。客が帰るのを待ったとしても、送ってもらったほうが早く駅に着くだろう。でもそういう問題じゃなかった。少しでも早く、周りに誰もいないところに行きたかった。
肌寒いがコートを脱ぎ、汗をかかないようにゆっくりと歩く。
すると母が自転車でついてきた。駅まで付き合うという。逃げ出したい。
でも逃げようと走れば汗をかき益々臭くなる。説得もムダだ。
相変わらず母は咳こむ、鼻すすりをする。そのたびに神経がかき乱される。
どうにか平静をよそおい当り障りのない会話を続けて駅に着いた。発車ぎりぎりまで母と話す。名残を惜しむためではなく、車内の人に極力迷惑をかけないよう時間を潰すためだ。
そして発車したら、隅っこでおとなしくしていた。
自分はたまらなく臭い迷惑な奴だという前提で、周りに最大限の配慮をすることに安らぎを感じるようになっていた。

田園風景が広がる中、ただ一人、駅までとぼとぼと歩いていた。母が追ってくるまでの短いあのときが一番安心できる時間だった。

仕方なく外に出る仕事以外では家に引きこもる日々が続いた。こんな人生に何の意味があるのかと思いながら、それでも自分が楽しむために悪臭撒き散らし他の人の楽しい時間をぶち壊しにするのが耐えられなかった。
こうして迎えたGW、どうやって時間潰すかと考えていたら、両親から誘いの電話が来た。
頑なに断っても話がこじれるだけなので誘いを受けることにした。
こんな体の俺に結婚やら孫の顔見せろって話を振ってきたら速攻でブチ切れ、もう縁を切ってやる覚悟で実家に乗り込んだ。

1歳半の姪がパタパタと駆けより、俺の脚に抱きついてきた。彼女は数秒間、そうしていた。
呆然としながらしゃがみこんだ。
姪は泣き出すこともなく、顔をしかめもせず、満面の笑顔で改めて抱きついてきた。
彼女の行動は、俺が臭いという前提では説明がつかなかった。
どんなに考えても、俺がまだ臭いという根拠は見つからなかった。

婆ちゃんや母さんや義姉さんが作ってくれた料理食べた。美味しかった。
親父や兄貴と酒飲んだ。美味しかった。
皆と色々話した。楽しかった。
勇気を出して姪を抱き上げ、あぐらをかいた膝に乗せた。彼女はぐずることもなく俺に身を任せ人形で遊んでいた。
人のぬくもりを心地よいと思えた。
脳裏に、これまで差し伸べられた暖かい手を跳ね除けてきた悔やみと、生まれてきてくれた姪への感謝の気持ちが入り混じる。

俺が、体臭とは異なる、風邪とも花粉症とも異なる理由で鼻をすすった。
150名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/20(金) 19:52:55
529 名前:卵の名無しさん[sage] 投稿日:2007/07/20(金) 19:51:52 ID:BQH/R7tG0
ごめん、流れ読まずに投下してもいいか?
拒否されても投下するが。

俺さ、以前病院勤務してたんだ。といっても看護婦や医者とか有資格者じゃないんだけどな。
でさ、掃除しようと思ってある病室に入ったんだよ。よく知らずに入ったらさ、どうやら患者さんそろそろ・・・って場面だったんだよ。
「まずい部屋に入っちゃったよな。」って思いながらも掃除をしていたんだ。

そしたらさ、旦那さん(40後半位)が寂しそうな笑顔でありがとうって言ってくれるんだよ。
家族としての最後の場面を邪魔したような気がして、なんか居た堪れなくなって目に見えるところだけ掃除して出てしまったんだ、もう逃げるようにな。
で、部屋から出て廊下を掃除してたら中から声が聞こえてくるのよ。
掃除途中で出てきちゃったから「なんか文句言われて無いかな」って思ってたらさ旦那が子供(10歳前後)に
「ママにチューしてあげなよ。もう何年もしてないだろ?最後にもう一回な。
 …ちゃんと、『ありがとう』『心配しないでね』『またどこかで会おうね』って声掛けろよ?泣いてばかりだとママも心配しちゃうからな。」って言って部屋から出てきたんだよ。
でもさ、その旦那は部屋から出たとたんに、しゃがみ込んで泣き始めたんだよ。多分子供の前では強がってたんだろうな。自分が泣いたら子供が余計につらくなるって思ったんだろうな。
旦那が子供に言わせた言葉は、旦那自身が何度も心の中で呟いた言葉なんだろうな。そう思っていたら全然知らない患者さんの死がとても身近に感じられて涙ぐんでしまったよ。

俺も、最愛の人が亡くなる場面に立ち会うことがあったら『またどこか出会おうね』って言葉を言いたいな。


151名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/28(土) 22:40:52

泣けないだろうな。

同級生の男の子Nが事故に遭った。
95%助からないと友達に聞かされ泣いていた。
その男の子と仲良しのSに聞いた。
「Nは大丈夫だよね?」
Sはいつもののほほんとした顔で言った。
「そんな大した事じゃないよ」
どれだけその言葉に安心しただろう。
「なんだー良かった」
元気になった私たちを見て
あなたは何を思っていたのかな?


次の日の朝、その子がもって二日だと聞いた。
Sは有り得ない位、寂しい背中をしていた。
「おはよう」そう言うSの目は死んでいた。

事故から27日後、Nは亡くなった。

ねえS?あなたはどんな気持ちで
「そんな大した事じゃない」
なんて言ったのかな?
あなたの優しさに涙した。
ごめんね。ありがとう。
152名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/29(日) 10:41:08
小学校1年生くらいの時だったかな。
仁海(仮名)って言う子が居たんだよ。
席は結構離れてたけど体育の班とか一緒でさ、気が合ったって言うか話易かったんだ。
電車のホームで仲良く喋ったり(私立の学校だったから家が遠かった)そいつの家に行ったり、俺の家に呼んだりしたんだ。
5年生位になって男子と女子の溝みたいな物が出来て来て、喋る回数が減ってったんだ。
6年生くらいになったら、全然喋らなくなったんだ。でも、あいつは俺と前みたいに喋りたかったのかもしれない。けど、俺は喋ろうと来てくれる仁海に他の奴らの目を気にして追い払うようにして逃てたんだ。
それから、同じ中学に上がってってやっと俺の仁海に対する想いが幼なじみとか、親友って意味じゃないのに気が付いたんだ。
告白をしようって決意した時にはもう遅くて、仁海は他の奴と付き合ってた。
自分がなぜ、あの時にあいつを追い払ってしまったのか。自分がなぜあいつから目を背けてしまったのか。
仁海はずっと俺のことを見ていてくれたのに。
遅すぎた自分に腹が立ったし、何よりも悲しかった。でも、恋だけに生活を乱せる訳が無く、学校にちゃんと行ったんだ。
授業中にあいつの事ばっかり考えてた俺は横目であいつを見ながらぼーっとしていた。
その時に隣の奴がかなり優しくて、仁海の事を考えて半ば鬱になっていた俺は話して行くうちに仁海の事を忘れて行った。
それからかなり時間が経って、中学3年生になった俺はそいつに告白された。元々、そいつは小学生のころから同性からも、異性からも人気だった。元気があって、可愛くて、頼りになって。
そして、鬱だったころの俺を救ってくれた。だから、俺は付き合うことにした。
他の仲の良いカップルどうしと遊びに行ったり、プリクラ撮ったり。
色々なことを教えてもらった。3年の冬、(受験勉強は私立だったからそのまま高校に行くため勉強は余りしなくてよかった。)修学旅行の時に王様ゲームを班でやった。班は6人で自由に組んだ為、俺とそいつは一緒になった。しかも、仁海も入っていた。
仁海が王様になって言った。「1番と4番の人がキス!!」と。俺は一瞬固まった。
俺は1番だったからだ。俺と男子ならともかく女子とするとなると、夏美(その時の彼女)と望月のどちらかになる。
夏美の前で望月とキスするのは控えたかったから、俺は男子であることを望んだ。(普通なら望まない)
「1番の人はだ〜れ〜?」俺は手をあげた。
4番は〜?
153名無しさん@お腹いっぱい。:2007/07/29(日) 10:44:03
なんと、4番は夏美だったんだ。
みんなからキスコールが挙って、俺はみんなの前で初キスするのが嫌で夏美と一緒に京都の店から通りに出たんだ。
ちょっとした所にお寺があって、その賽銭箱の前の石段でキスをした。下から見つめてくる夏美が可愛くて俺は夏美と抱き合った。
夕方になって、担任に怒られたがちっとも嫌じゃ無かった。
それから、高校に上がって夏美は他の学校に行ってしまった。確か、父の転勤があったらしい。
俺は、またも胸の中に大きな穴が空いた。
気が付けば、3年の時も王様ゲームとかをやって一緒に遊んでいた仁海はいつの間にか彼氏が居なくなっていた。

仁海は俺のこと、待っていてくれたのかな。

頭に仁海は彼氏も付き合わずに俺のことを待っていてくれてた。
きっと、夏美の引越のことを事前に聞いていたんだろう。
俺は、決意を固めて高2の時に仁海に告白をした。仁海は待ってくれたから、満面の笑みをして来た。
小学生の時から一緒だったのに、こんなに遅くなるとは思っていなかった。
それから4年が過ぎて、大学は違う学校に行ってたのだが家が近い為、いつも一緒だった。
1月にあのころ、王様ゲームに参加していた奴が言った。

おい、聞いたかよ!仁海が交通事故で重体だって。

俺はその病院の名前を聞いて、走りだした。
病院に着いた時は、もう遅くて仁海の家族と友人などが泣き崩れていた。俺は声をあげて泣いた。
皆がひとまず帰ったころ、まだ俺は病室にいた。目の前にある冷たくなった仁海は今でも動き出しそうで、それでもう仁海という存在は世界から消えてしまった。

あれから、8年。夏美と結婚したのに、まだ仁海のことを心の隅に置いている。
初恋の相手仁海。
俺は心の中に残っている、大事なあいつとの時間を忘れない。


                            fin
154名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/05(日) 22:20:03
最近やっと気持ちが落ち着いてきた。だけど、友達や仲間に
この顔見せたくないからここで、この思いをぶちまけさせてくれ。

一昨日、友達が死んだ。事故死だってよ。電話でそのことを聞いたときは、死ぬってどういう意味だっけ?
って、一瞬思った。友達の葬儀のとき、遺体を焼くとき、みんな泣いてたけど、俺は泣かなかった。
あのさ、実感ってすぐにわかないんだよな。そのくせ、気付くと一気に悲しくなっちゃったりしてさ。
色々、家族の方でも手続きが終わって、またいつもどおりの生活が始まった。
俺さ。なんでこんなにバカなんだろうな。俺そいつと、いっつも大学から一緒に帰っててさ。
今日いつもどおりにそいつの科の教室いったらさ、そいつの机の上にそいつの笑った写真と小さな植木蜂があったんだ。
それを見た瞬間、そいつの写真が歪んできてさ。あれ?変だな。お前のこと良く見えないよ・・・・・・。
んで、よく見ると植木鉢に花の名前が書いた看板がぶら下がってんだよ。花の名前は【シクラメン】。
図書室にいってその花を調べたら、花言葉『過ぎ去った喜び』だってよ・・・・・・。
笑っちゃうだろ?俺、図書室なのに、また泣いたよ。性懲りもなく。
だからさ、俺この話を聞いた人全てに、一輪の花を贈りたい。
花の名前は無いけど、紺色の百日草。
花言葉は『旧友の思い出』
155名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/10(金) 21:05:30
ACのCMがきっかけで、自由業の俺は日課のジョギングの時間を小学生の登下校の時間に合わせた。
しばらく続けていたら、俺に呼応したのか犬の散歩や買い物などですれ違う人が増えた。
よく挨拶されるようになった。
地域の交流っていいものだ。


今気づいた。
俺が不審者と誤解され警戒されてた。
156名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/11(土) 02:44:52
俺が、中2のときだった。
けっこう前から幼馴染で恋心も抱いてたKって言う女子がいた。
でもKは俺の数倍かっこいい男子と付き合っていた。
俺がかなう相手でもなかった。
彼女自身がそれを伝えてきたので、むちゃくちゃ複雑な気持ちだった。
それからか、時々恋愛経験のない俺にいろいろ悩みを相談してきたりした。
俺は、正直話聞くだけで嫌だったんだが…

だけど、ある日
そこらにある人気のない公園で
なんとなくペンダントをしてKの相談に乗っていた。
Kは彼氏と関係がちょっと危ういやらなんやら、と言ってた。
そこで、話が一段落したらKが聞いてきた。
K「…そういえば、そのペンダント何〜?」
俺「ただの安物。」
実際は、けっこう値のはるものだった。
当時の宝物のひとつだったし
K「へぇ〜。」
Kはそういったら、さりげなく後ろに回りこんでささっと俺のペンダントをとった。
で、一言。
K「仲直りってことで、これ彼氏にあげてくるね♪」
なに言ってんだこいつ。
他人(男)のお古を普通彼氏に渡すか?
俺「おい、ちょっとま…」
マジで行った。
K「大丈夫!大切にしてくれるよw」
公園の出口で少し手を振って、消えていった。

その後のことは、後日相談を受けたときに聞いてみたが話をそらされた。
そしてその2ヶ月ほどが過ぎたとき
Kは車にひかれて死んでしまった。
かなり急なことだったから、その事を聞いた時は、全く動けなかった。

葬式のときも、まだ素直に現実を受け止められなかった。
家に帰った後
どうしても抑えきれず、Kのお母さんにKの部屋を見せてほしいと頼んだ。
幼馴染でよく遊んでいたからかKのお母さんは、多少迷いながらも頷いてくれた。

Kの部屋に入ってみたら、どこか懐かしい香りがした。
思い出にふけりなら、部屋を見ていると
タンスの上に箱があった。
「宝物ボックス」と汚い字で書かれていた。
恐らく、小さいころからずっと使っていたんだろう。
そっと開けてみると
中には、ちっちゃな消しゴムやら鉛筆やら友達とピースしている写真やらが、沢山入っていた。
その中に、俺のあの時のペンダントがあった。
思わずドキッときた。
えっ…?
よく見てみると、さっきの消しゴムの一部や鉛筆の端っこには、俺の名前がうっすらと残されていた。
もしかして…

そう思った瞬間、急に涙があふれてきた。
止められやしなかった。

長文ごめん
157名無しさん@お腹いっぱい。:2007/08/18(土) 01:34:38
佐賀北が宇治山田商との引き分け再試合を制して、初のベスト16入りを果たした。
「いい経験をさせてもらっている。選手もいつも通りのプレーをしてくれた」(百崎監督)。
そんな底力を見せたナインには忘れられない人がいる。「佐賀のかばいばあちゃん」
ならぬ「佐賀のかばいじいちゃん」だ。
ナインによると、年は70代、名前も知らない白髪の老人で佐賀北の試合はもちろん、
練習の見学にまでやってくる「追っかけ」のような存在だったという。佐賀北の練習試合の
全スコア、ナイン全員の成績まで熟知し、1升ビンを持って「野球選手は目が大事。
目を鍛えろ」とか「バントなんて、と思うな。野球の積極的戦法じゃ」なんて調子で
声もかけてきたそうだ。
そんな“かばいすごか(とてもすごい)”じいちゃんは、チームが勝つたびに喜んでくれた。
最初は小うるさくて敬遠しがちだったナインにも、いつしか親近感が芽生えた。それこそ、
心の支えにもなっていた。ところが、佐賀北が甲子園出場を決めてから、全く姿を
見せなくなった。地元から佐賀牛、イチゴ、海産物など温かい差し入れが殺到する中、
ナインはこのことが気になって仕方ない。
じいちゃんと最後に交わした言葉は、予選決勝前の「甲子園に行ったら100万円、
用意しちゃる!」だったという。100万円という大ボラ?を吹いたせいで顔を出せなく
なったのか、あるいは体調でも崩したのか・・・。ナインはこう口を揃える。
「100万円なんていらないですから、応援に来てほしい。(甲子園でも)じいちゃんの
ために勝利を挙げたいんです」

(東京スポーツ 8月18日(土)販売号より)
158名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 20:53:52
159名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/02(日) 21:07:49
関係をせまると、あなたは紳士じゃないといわれる
関係をせまらないと、あなたは男じゃないといわれる

たびたび部屋を訪れると、もっと1人の時間がほしいといわれる
あまり部屋を訪れないと、二股かけているのかといわれる

はやりのカッコいい服を着ると、あなたって流行にふりまわされて軽薄といわれる
はやりのカッコいい服を着ないと、あなたってダサダサで恥ずかしいといわれる

話を聞きながら発言すると、黙って聞いてよといわれる
話を黙って聞いていると、なにか言ってよといわれる

待ち合わせに30分遅れていくと、30分も待たせるなんてひどいといわれる
自分が30分遅れると、30分ぐらいなによといわれる

やきもちをやくと、しばられるのはいやという
やきもちをやかないと、もう愛はないのかという

そうだねと賛成すると、自分の考えがない人ねといわれる
そうじゃないと反対すると、理解がない人ねといわれる

愛してるよと言うと 口の軽い人ねと言われる
大好きだよと言うと それだけしか言えないのと言われる

墓に供え物をすると 君は無視する
僕は泣いているのに 君は安らかに笑っている
160名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/04(火) 23:40:52
>>159
(つД`)オチが泣ける
161名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 22:47:18
ん〜・・・それじゃつい最近のことでも書きますか…(長文可能性大)
母屋のおばちゃん、特に強い血のつながりは無かったし、
特に目立っていい思いでもなかった気がする。
お年玉を貰ったり、時折野菜を貰う程度の付き合いだった。

そんな日々が続く中、いつの間にかおばちゃんを見なくなってきた。
勿論、そんなことを気にすることも無かった私にとってはどうでもいいこと…

ふとその娘さん(とはいっても結構年食ってるけど…)とであったとき
「病気でずっと入院しているんだよ」という情報を聞いた。
勿論そのときも「ふぅ〜ん」程度にしか思わなかった。
でも、なんとなく心配だからお見舞いに行くことにした。
見た感じずいぶんと元気でまだまだすぐに退院できそうなぐらい元気だった
話す言葉への返答もそれなりに元気だったから安心していた。



かれこれ何ヶ月たっただろうか…また病院にいくこととなった。
勿論、おばちゃんのお見舞いに行く為にである。
そこで見たおばちゃんは依然見たときとは全く違っていた。

なんというか…骨の上に皮が被っている。そんな感じにしか見えなかった。
全体的に黄色みがかっていて、衰弱も酷かった。
父や母は色々と会話をしてちょっと世話を焼いていたのだが
どうしてだろうか…いつもの私ならば笑顔で「大丈夫?」とか言えたのに
何も出来ずただただ棒立ちをして目の前で衰弱しているおばちゃんを
ただただ見ているしかなかった。
何故だろうか、言葉が出ない。 何を話していいのかも分からない…

その後母にせかされる様に私もおばに話しかけていたのだが…
どうも返答が小さすぎて聞けなくて…しかも私から目を離して
ボソボソと「ありがとね・・・ありがとね・・・」って
何度も・・・何度も・・・
「ありがとね・・・ありがとね・・・」
その日、その目は少しだけ潤んで見えた。

帰りの車の中で母が
「もうあの調子だと長くは持たないわね…」って。
正直何故こんなにも冷たい言い方を出来るのだろうかって…
それ以上に腹立たしいのは自分の親なのに殆ど見舞いに来なかった
娘の方である。
私はその車の中で過去に出会った取り返しのつかない過ちと今見てきた
現実との間で複雑な気持ちになった…
長すぎたので続く
162名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/08(土) 22:48:04
続き

それから長くない日々が経過して次に出会ったときは棺おけの前だった。

特に目立った付き合いが無くても、あんな姿であんな言葉を言われたときを
思い出すと・・・おばちゃんの顔を見ることも出来なかった。

お経が終わって棺を焼くときになったとき、どうしても我慢できずに
どっと涙が出てきた。そりゃ・・もう自分自身みっともないぐらい。
ボロボロと涙が止まらなくて…(鼻水すら出てしまう始末…)
普段無表情だからかなり崩れてたんだろうと思う。

「また私はあの時のように一番不安なときに心の支えになってあげれなかった」
「また私はあの時のように私は見捨ててしまった」
そんな思いが涙を流させてしまったのだろう。
父は、「こんなことぐらいで涙を流していたら駄目だぞ。
    世の中にはこれよりも悲しいことがいくらでもある」

…いや、人が死ぬというそれはどんなことよりも悲しいことではないだろうか。
たとえどんな人が死のうともそれは悲しい出来事ではないだろうか。
出来れば私は、ありとあらゆる死に逝く人の為に涙を流してゆきたい。
そして、次こそは過去の過ちを増やさぬよう傍らに居て励ましていたい…
--------------------------------------------------------------------
以上どす。ボキャブラリーが小学生並な私が打てる精一杯の文章です。
普段から文章を書いて伝える方法を学んでおけばよかったといまさら後悔しています。
こんな駄文でも読んでくれて、自分のおばあちゃんを、そして知っている人を
ちょっとでもいとおしみ慈しんでくだされば幸いかと思います。
163名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/09(日) 05:10:43
光市母子殺害事件被害者遺族の本村洋さんを応援したいなら
ややこしい懲戒請求などよりも、簡単で実際的な方法があります。
ぜひ『天国からのラブレター』を買って読んで下さい。
本村さんは、奥さんの素晴らしさを一人でも多くの人に知って欲しいと本を出しました。
生前の弥生さんが書き綴った文章に心を留めて下さい。
洋さんが弥生さんに返す言葉に、洋さんの人柄を感じて下さい。
何よりも、印税が入ることで、洋さんの活動を助けることが出来ます。
164名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/11(火) 21:17:05
>>162
生死よりも大事な事はこの世にはないよ。
貴女は間違ってないよ!
俺はそう思う!

命は大切だ!
165名無しさん@お腹いっぱい。:2007/09/30(日) 17:44:48
だがお前らは、その人が死ぬまでその価値が分からない。
生きているうちはないがしろにするだけだ。
166名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/09(火) 16:39:09
去年、高校の頃好きだった女性と再会した
彼女の方から声をかけてきて飲みに行った
「貴方って相変らず独身主義なの?」
「あぁ。俺は絶対結婚なんてことはしないね」
「・・・・そっか」

半年後、彼女が婚約したことを知った。
後日友達とのみに行った時
「彼女、高校の時からお前のこと好きで
半年ほど前彼女から声かけてきた時最後のチャンスで告白しようとしたらしいけど
お前が独身主義だって言ったので無理だと思って諦めたらしいよ」と言われた
俺は「告白されても俺は断ったね。あんなビッチ興味ないよ(笑)」と高らかに笑った

そして、家に帰って声をあげて泣いた
167名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/11(木) 03:39:28
>>166
その判断は100%間違いなかった。
いいか、その女は今までお前を何とも思っていなかったが、
そろそろ結婚しないと生活がやばくなったきたから
おまえのことを思い出して過去の記憶も修正してのこのこ出てきただけ。
思いも伝えることもしないで自己完結でき、
しかも半年後に他の男とアンアンセックルしている以上、
お前のことなど好きでもなんでもなく金ヅル候補と考えてきたのは明白w
168名無しさん@お腹いっぱい。:2007/10/16(火) 03:31:20
>>167
>>166貼ったの俺だけど
前後カットしてわかりにくくしてスマソ

もともと彼女は>>166(仮にAとするか)のことが好きだったが
高校の頃から人を寄せ付けないAに告白することができず
大学時代にも男性と付き合おうとしたが、Aのことが忘れられずにいた
社会人になり、このままじゃいけないと友人に頼みAと再会を果たすが…

その後、以前からいろいろ相談に乗ってくれていた男性(B)にその話をしたところ
「俺はずっと君のことが好きだったし、これからもずっと好きだから。
Aのことを忘れるまでずっと待つ」といわれ、半年後婚約
(これを全部友達から聞いたけどそこをカットした)

という流れだった
元ネタ流れたのでうろおぼえだけど
ちなみに当時Aも彼女も23か24歳くらい
169名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/07(水) 00:49:42
太平洋戦争中に坂井三郎という名戦闘機乗りがいた。
坂井はジャワ島付近で発見した敵偵察機を攻撃するために味方編隊から離れた。
するとオランダ軍の大型輸送機に遭遇。
当該エリアで飛行する飛行機は軍民武装を問わずに撃墜命令が出ていた。容易く撃墜する事は可能だった。
坂井はこの機に敵の重要人物が乗っているのではないかと考え、生け捕りにしようと味方基地へ誘導するために輸送機の横に並んだ。
この時、坂井は輸送機の窓に震え慄く母娘と思われる乗客たちが見えることに気づいた。
これを見て「逃がそう」と思った坂井は手を振ってその場を離れ、帰投後上官には「雲中に見失う」と報告した。
終戦50年程経った頃当時機内から坂井機を見ていたオランダ人の元従軍看護婦が、「あのパイロットに会いたい」と赤十字等の団体を通じて照会したところ、
当該パイロットが有名な坂井三郎であることを知り、非常に驚いたようである。2人は再会し、互いの無事を喜び合った。

170名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/14(水) 22:35:11
>>169
ええ話や、ジーンときたでぇ。
171名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/20(火) 21:56:03
44歳の独身です。
会社経営、父からの資産も十分あり。
周りから何で結婚しないの?と随分前から言われていた。
そう言わなかったのは母親だけ(父は鬼籍)でした。
これと言って理由はなかった。好きな人もいたし、もてない男でもない。
でも今は結婚はしない。
余命2年くらいと診断されたから
いつ母に打ち明けようか・・・・本当に悩む。
172名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/20(火) 23:01:26
>>171
泣き所がわからん。
173名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 12:52:54
>>172
>>>171は余命2年…。
174名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 21:00:19
いやだからね、金持ちで女にもてるけど気楽な独身生活を楽しんでいた
中年男があと2年で死ぬらしい、という
話のどこに泣く要素があるの?

あと2年で死ぬ人を見たらみんな泣くか?
175名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/21(水) 21:29:18
なんて冷たい人。氷のようだわ。
176shu:2007/11/23(金) 01:52:18
今年、母親が肝不全で亡くなった。
二年前、突然具合が悪くなった。それから、直ぐに、制限食(低減・低蛋白)・水分制限(1日500ml)
と、入退院を繰り返した。
同時期、息子の言葉の発達の遅れを小児科で診断された。自閉症の疑いと言われた・・・
更に、母がどんどん悪化しているにもかかわらず、アル中の父が、母の世話をせず、逆に父も入退院を繰り返す。
旦那は、未連絡・無帰宅をよくしていたので、遅刻が多く毎月減給で、生活できない。八方塞ぎだった。
生活苦と生活費も無く、第一に何をすべきか考え、母の看病をする為実家にもどった。
余命宣告されたが、必死だった。自分の肝臓を移植しても構わなかった。生体移植の外科医と面会し相談した。採血したら、
母子感染で、私自身肝炎ウイルス所持者だから、生体移植を断られた。無力さに虚しかった。
今年1月、脳死移植登録をする為、入院中東大病院に何度か行き検査をした。4月、全てのデータが揃ったが1週間後昏睡になり、2日目に息を引き取った。
父が、退院した10日目だった。
4ヵ月後、旦那が朝帰りの帰宅途中で、交通事故で即死になった。
自業自得の亡くなり方だったと、知人達は言う。
何一つ、家庭や結婚生活なんて味わう事無く終わってしまった。
虚しい
残された私と子供はこれからどうすれば良いのか分からない・・・
しかし、子供が言葉を話すようになった。たどたどしいが、会話もできる。
一人じゃないんだ。と思う毎日を糧にするつもりです。
177ゆい:2007/11/24(土) 20:47:20 BE:227405243-2BP(0)
彼氏からの手紙です。

ゆいへ
なあ?俺もうダメみてぇだ。
なんでだ?お前に出会うまでは
死にたいぐらい毎日が退屈だった。
でも今は俺すげえ生きたい。
なんで病気に勝てねえんだろ?
俺いつからこんな弱なった?
毎日死に近づいてるって感じる。
もっと生きてえよ。
寂しがり屋なお前の事おいて死ねねえしな?
ずっと傍にいてやらねえとお前はだめだろ?
泣き虫なくせに俺が病気で苦しんでるからって
俺の前では笑ってたよな?
お前辛かっただろ?
なのに俺はお前に弱いとこばっか見せてたな
俺が死んだら誰がお前の涙拭く?
俺な…何度も何度も神様にお願いした。
「もっと生きたい」って…。
でも無理みてえだ。
ごめんな…
約束守れなくて…結婚しよって言ったのにな
俺はもうすぐいなくなるから結婚できねえ
俺はお前の事幸せにできねえし
この先一緒に居る事もできねえから
お前には世界一幸せになってほしいから…
結婚っていう形でお前の人生縛りたくない
お前の事をほんまに大事にしてくれる人と
幸せになってほしい。
俺な、20年間生きてきて愛してるって
心からそう思った女を幸せにできないって
マジで辛いし悔しい
だけどお前が幸せになれない事の方が辛いから…
だからお前は前に進むんだぞ?
俺の死をちゃんと受け止めるんだぞ?
ゆいの事マジで大好きだ
最後に一つお願いがある…
心の奥のどっかでいいから…
俺の事覚えといてください。
田中雅人っていう男の事をどうか覚えててください。
じゃあまたな!
さよならはいわねえから。

彼は私の事を本当に愛してくれました。
私も彼を本当に愛してました
今も彼を愛してます
今は会えないけど彼は私の心の中で…
永遠と生きつづけます。

178名無しさん@お腹いっぱい。:2007/11/24(土) 20:58:42
ビーチの妖精浅尾○和、中島美○

パートナーからの売り込み投稿

http://www.ncdonald.com/home.html
179名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/08(土) 16:31:27
>>177
故人を晒すな

180名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/15(土) 15:37:45
>>176
こういう池沼ボッシーが生活保護うけて生きて行くっていうのが許せない。
こんな奴にエサをやるために税金を無駄に使わないでほしい。
生活保護とか、社会保障とかは、
「キチガイが楽に生きていける分を絶対に確保しなきゃならない」ものではないはず。
まず真面目に働いている人間が十分余裕を持つだけの給料をもらえてから、
そのあまり物やおこぼれを施す程度で十分。
足りなければ、働け。それでも足りなきゃ市ね。
それくらいでいいと思う。
自閉症のガキが育って死ぬまでに、どれだけの負担を社会に求める気なのだろうか。
181名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/18(火) 02:45:16
昨日スーパーに弁当買いに行ったら
3歳ぐらいの女の子が、
「イチゴ食べたいよぅ」
って連呼してた。母親らしき人が、
「ごめんね。お金ないからごめんね。
 クリスマス来たら買ってあげるからごめんね。」
って泣き顔でごめんね連呼してた。
母親の泣き顔と幼児の物欲しそうな顔、何年も着込んだっぽい服と
黒ずんだ母親の白い靴見たら欝になった。
182名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/18(火) 03:02:31
深夜だというのにウンコがしたくなってきた。
183名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/18(火) 03:14:10
>>182


泣ける(涙

184名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/24(月) 22:54:26
クリスマスイブだと言うのに2ch。。。。
185名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/26(水) 14:56:12
12月26日(水)午後5時5分〜5時55分
『江原啓之スペシャル 天国からの手紙 直前!
 笑顔を取り戻した家族 再会スペシャル!』
(フジテレビ、関西テレビ、テレビ新広島、テレビ静岡、新潟総合テレビ、岡山放送ほか)

12月26日(水)午後6:30〜午後8:54
フジテレビ系列27局ネット
『江原啓之スペシャル 天国からの手紙 〜亡き家族からのメッセージ〜2007冬』

泣けるお(´;ω;`)ウッ
186河北新報読者:2007/12/30(日) 11:32:51
12月30日 朝刊12面「ティータイム」より抜粋、「M−1グランプリ」

クリスマス前日、すごいプレゼントが来た。まさかと思ったが、甥(おい)が
若手漫才日本一を競う「M−1グランプリ」で優勝したのだ。
「また準決勝で駄目だった」と毎年、がっかりしていた。小さい事務所だから力がないのか。
でも、東京に出て9年目。そろそろ“芽”が出てもいいころだった。

仙台で漫才をするときは、友達や相方のお母さんなどオバサンたちで追っ掛けをやっていた。
こんなにおもしろいのに、何でお笑い界では認めてくれないのだろうか。この正月も、
仕事がないみたいだから帰ってくるのかな?来たらお墓参りして、定義さんで油揚げを
食べよう。そんなことを考えていた。夏に一緒に定義に行ったときは、若い人から
「写真撮らせてください」と言われ、わたしと彼の母である妹はうれしくて涙ぐんでしまった。
知っている人は知っているんだ、良かった、良かった、と。
 優勝の翌日、スポーツ各紙に「敗者復活から優勝へ!」の文字が躍っていた。
芸能ニュースでは、早速、仕事が15本も入ったと言っていた。やっと芸能人だね。
バイクをやめてタクシー移動になるとか。

前進、前進、 頑張れ!わたしの甥はお笑いの「サンドウィッチマン」。
これからも声援お願いします。 
(仙台市青葉区・主婦 ※本名と年齢は新聞には掲載してありましたが省きます)
187名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/30(日) 12:39:07
>>162
>>164
あなた達のような心暖かい方を見てると心が和みます。生死ってホントにいろいろ考えさせられますよね。
188名無しさん@お腹いっぱい。:2007/12/30(日) 13:08:33
>>24
>>25
たまらず泣けたぢゃねーか。
バカヤロゥ…グスン
189名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/01(火) 20:30:02
うちの母、超最悪。
たったひとりの息子なんだけど、ぼくの人生なんかまったく考えてくれない。
母の願望ばかり押し付けて、ぼくは就職したいのに、…。
ここまでしか言えないので、やめときます。はあああーーー。
190名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/03(木) 05:56:58

とりあえず顔を思い出さないと
191本当の気持ち:2008/01/03(木) 17:26:03
私は14歳です。「ホストと話すのに抵抗アリ?」という内容のメールが私の携帯に来ていました。
最初は訳が分かりませんでした。でも「出会い系サイト」だということは分かりました。
けど私はそんなサイトに入会した覚えが全くありません。
でもそのメールを送って来た彼に興味を抱いてきて返信してしまいました。未成年が出会い系サイトをやってはダメなことは分かっていたけれど・・・・
その後は彼とメール交換をしていました。
ダメなこととは分かっていながらも、メールをし続けました。彼は私のことを20代前半と思っていたから彼もメールを返してくれていました。
「早くこのサイトを辞めなくちゃ」と思っていたけど出来ませんでした。
彼とのメールが本当に楽しかったから元気を貰えたから・・・・そして彼のことを大好きになっていたから・・・

でも今はメールをしていません・・・っというよりも出来ません
ポイント制になってしまって彼にメールを送れません・・・私は未成年、働いていないからお金をポイントに変えることが出来ません
でも彼は私にメールを送ってくれています。ポイント制になってからも彼にメールを送っていないのに彼はメールを送り続けてくれます・・・今も

そんな彼に一言
私は14歳で未成年なんです。騙しててゴメン!だけどアナタに送っていたメールに嘘は書いていません
私はアナタが大好きです!ずっと、ずっと大好きです!アリガト!!

これは私の本当の気持ちです!


192切ない恋:2008/01/04(金) 14:55:22
アタシはよくジャニーズの人に恋心を抱いていました。今まで何人のジャニーズの人を好きになっただろうか・・・先週はこの人が好きだったけど今週はこの人を好きになったりとアタシが好きになった人は今まで沢山います。でもその恋が長持ちしたことが全くありませんでした。
そんなある日、友達に
「このジャニーズのR君、カッコいいよねー!今度の〇〇〇〇〇のドラマにも出演するんだって!絶対見てね♪」
そう言って来ました。全然興味が湧きません
「ふーん」
こんな一言だけしか言いませんでした。
と言われました。その時のアタシも今のアタシも自分がジャニーズのファンだということは友達にも親にも言ったことがありません。その理由は恥ずかしかったからです。そんな淡い恋心だった。

そして、そのドラマを見てみました
R君を見て・・・一回見ただけで好きになりました。だけど今回も数週間の恋だろうと思っていました。
だけどドラマが最終回の日に近づくにつれR君のことしか考えられませんでした。
大好きで大好きだった・・・・
ドラマの最終回の日は悲しかったけどR君は歌手としても活躍し初めました
「またR君に会える」ひそかな、でも大きい恋でした
R君達のグループのCDも買って聞きました
泣いてしまいました
感動しました
大好きだけど会えない
大好きなのにR君はアタシの存在を知らない
大好きだから声をかけても返事は帰ってこない
大好きだから返事の無い携帯電話にアナタの名前を呼んでしまう
そんな気持ちがアタシの心をよぎりました。叶わない恋だけど今でも大好きです。自分でもビックリするくらい大好きです
193Yuua:2008/01/04(金) 21:26:27
バーチャルな世界のチャットで出会った
私を大切と思ってくれた人がいた。



携帯電話を小学六年の時買ってもらって
チャットという世界にはまった
ある1つ年上の女の子と直接メールするようになって
簡単に自己紹介したり
くだらない話で盛り上がったりした。

私は友達になったからには、一緒に会って遊んだり
そんなことをいつかするんだ!
って思ってたんだ。

だけど、本当のネットの世界を知らなかったんだよね。
所詮はチャットで知り合ったヒト。

私はあなたを姉のようにおもってた
いつもいつもメールしてた
楽しかった

いつの日か、チャットも、メールも飽きてた
お互い
お互い 存在すら忘れていったね・・・

私がメールを送ったら
メールがそのままかえってきた

彼女のアドレスはすでに変わっていた。


どうして
音信不通になったんだろう。
今、すごく後悔してる
あなたはチャットにもいないね
どこを探してもいなくて



・・・もう会えないんだね・・・。
そんな風になっても
私は少なくとも友達だと思ってます。

チャットで出会えてよかったよ

たった一人の姉のような存在でした。

短い間
有難う・・・

194名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/06(日) 06:53:57
>>177
出直しておいで
195学生:2008/01/07(月) 00:41:54
中学生のころ俺はいわゆるヤンキーだった。部活をやめて仲間と 
一緒に先輩から進められてボクシングを始めて喧嘩ばっかりしていた。
親父もしょっちゅうぶんなぐり家裁にもいったなぁ。あるとき姉貴が町
で知らない親父と歩いているのを見つけた。翌日姉貴に体売ってんだ
ろって問いかけたらいきなり泣き出した。何も知らない俺はいいよな
みたいな事を言われたのを覚ええいる。姉貴は泣きながら親父の手術
代を稼いでいることを俺に教えた。親父は癌で余命一年らしい。手術
代は2500万かかるらしくて当然うちにはそんな金はない。すぐに
家に帰って親父に問い詰めたらびびりながらお前には心配かけたくな
かったっていった。はぁ?息子なら信用しろよ。俺がいけないと当時
はわからなかった。22歳の今になって当時の俺の横暴ぶりから親父
が俺をびびってたからだ。俺はどうしていいかわからずボクシングも
やめて知り合いのところで中学生ながらアルバイトさせてもらった。
でも手術代なんて自給750円じゃたまるはずもなかった。その2ヵ
月後親父は息を引き取った。そのとき俺は初めて自分の馬鹿さにあき
れて人前で大声で泣いた。嗚咽が出るまで泣いた。22歳になった今
なら当時の間違いがあったからこそ親父の大切さがわかる。親父、ごめんね。そしてほんとにありがとう
196名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/07(月) 01:22:01
拙者が吉原のソープランドで体験したこと。
入店して待合室に通されると、オバサンが数人の客と話をしていた。
拙者は東スポを読みつつ聞き耳をたてていると、
全盲の息子が筆下ろしをしたいというので付き添いで来たらしい。
オバサン(以下母)は色々心配事を口にしていたが、
話し相手の客数人は「大丈夫」「心配しなくていいよ」となだめていた。

しばらくたって奥から白杖持った青年と姫が待合室にやってきた。
皮靴はピカピカで結構いい服を着ている。
この日のために揃えてあげたのだろう。
母はソファから飛び出して姫と軽く会釈をしたあと、
「どうだった?いいこと出来た?」
と訊ね、青年は
「うん。よかったよ。このお姉さんのおかげで」
と姫を指差した。
……が、指が別の方向を向いていたので、姫が素早く指した方向に移動。
母は顔をくしゃくしゃにして泣きながら
「あんたよかったね〜!!」
と背中を何度もさすっていた。

客も拍手したり「よかったなぁ」と激励していて、
今まで無口だった893風の客まで立ち上がって青年の肩をポンポン叩きながら
「あんたも一人前の男になったぞ」
と祝福していた。
姫も感動して泣いていた。
実に素晴らしい光景。
涙腺の弱い拙者は東スポで顔を隠しながら泣いた
197名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 19:20:12
私は、5才の頃から両親がいなく、身内と言えば2才下の弟だけでした
弟は、重度の脳性麻で歩けるのですが一切話しができませんでした
私が12才になるまで、弟と同じ施設で暮し私も弟の面倒を見ていました
施設や学校で弟の障害の事や親がいない事で、毎日虐めにあい
私は、心を閉ざし中学生になって不良グループに入り何時の間にかに
喧嘩や窃盗や強盗と悪事を働く事がヘにも思わなくなってました
中学2年で少年院に入り17才まで、少年院にいました。
少年院を出て、街であても無くチンピラ生活をしている時です
あるヤクザの親分と知り合いになりそれからは、親分の所に行くようになりました。
親分は、私を大切にしてくれたのです。
私のそでまでの人生にわありませんでした
私は、今思うとささいな事でも服を一緒に買いに行ったり食事をしたり
が、嬉しくて 嬉しくてしかたがありませんでした
兄貴」組員達も私を文句言いながら可愛がってくれました
私が22才の頃に 親分が酒の席で揉めて殺されたのです
私はね悲しくて悲しくて 親分の仇打ちに行き
懲役10年でした 懲役7年目の夏に
身内以外か特別いがいわできない初めての面会がありました
その面会は、弟の死報でした
弟が亡くなる数日前にお兄ちゃんと涙を流し
生まれて初めて話したそうです

今 私は、弟が最後まで暮していた施設の仕事をしています
198名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 19:41:34
俺は福岡で働いてるけど地元は大分。

今日、福岡で仕事の集まりがあるらしく昨日から母親が来てた。

久々に俺に会えて嬉しいらしくいろいろ話してくれるんだけどさ、俺は適当に「ふ〜ん」とか「へぇ〜」とか相づちうつだけでほとんどまともな会話とかしなかった。

で今日の朝、俺は仕事があるから母さんより早く家を出た…心の中では悪いことしたなぁっていつも後悔するんだけど、毎回こんな感じになってしまうんだよね。

で、今家に帰ってきたら米とかみかんとかが玄関に置かれててビックリ。
冷蔵庫を開けてみたらほとんど空っぽだったのに、卵とかサラダとかいろいろいっぱい入ってた。
他にもおかしとかなんか冷蔵庫に入りきれないくらいいろいろ買ってくれてた。

車もないし1番近くのスーパーまで歩いてそこそこの距離があるのにこんなに重いの持って買ってきてくれたのかと思うと涙がでたよ。

親孝行しないとなぁ…と思った。
今度会ったときはいっぱい話をしよう。
199名無しさん@お腹いっぱい。:2008/01/21(月) 20:51:39
>>196 赤い髪に十字傷!
200名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 18:05:55
スケート板より転載。プロポーズのシーンはニュースでも出てたよね。

>31 :氷上の名無しさん:2008/04/09(水) 20:30:38 ID:ZN3ctRpO0
>4月10日(木)
>19:30〜20:00 NHK総合・東京 クローズアップ現代 がんに負けない・あきらめない 井上怜奈
>
>おまいらこれでも見てみれ。。。
>http://www.nicovideo.jp/watch/sm2461545
201名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/10(木) 18:12:08
クレしん
青空侍で泣いて大人帝国でさらに泣いた('A`)
202名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/11(金) 01:35:57
いやいや貴族か〜い。カシャン
203名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/14(月) 10:45:14
11:(-_-)さん :2008/04/14(月) 06:02:56 ID:???
中学時代の恩師と夢の中で再開した。
人の心を大切にする人だ。変わり者の俺の心に寄り添ってくれたただ一人の人だ。
なんど問題を起こしても一度もバカにしたり侮辱したことは無かったし、普通の教師は問題を隠そうとするもんだけど、この先生は自分から公にして俺の心の問題に理解を求めてくれた。
だからこの先生が担任をしてくれた2年間はいじめられなかった。
でもあの頃俺はほとんど先生の気持ちに応えられなかった。

早く明るい世界に出たい。そしてあの先生のように誰かを愛したい。
204名無しさん@お腹いっぱい。:2008/04/15(火) 21:46:40
もうひとつの聖火リレー Another sacred-fire relay
http://www.youtube.com/watch?v=i7oH7ql9zvM

これ泣ける(;_;)
205名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 18:17:28
すみませんが、どなたか『電車で財布を拾ったんだ』って泣ける話知りませんか?
206名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 20:44:40
見つけたのでいいです
207名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/04(日) 23:26:10
5人に1人が泣ける曲

ニコニコ動画に行く
http://www.nicovideo.jp/

再生する前にコメント非表示に設定する(必須)

この曲を何も考えずに最後まで聴く
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2916956
次にこれを聴く
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3133304

。゜(゜´Д`゜)゜。うわああああああああああああ

最初の曲に戻る→リピート地獄
208名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/05(月) 01:28:13
早く嫁へ行かず、ごめんね。
孫も作れず、ごめんね。
全然楽させず、ごめんね。
きっと、私これからもきっとそんなに稼げないから、
海外旅行やら、連れていけなくて、ごめん。
大学も行かせてくれたのに、転職ばっかりしてごめん。
温かい家庭だったのに、継げなくてごめん。
209名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/06(火) 18:05:44
彼女が痴呆になりました、前から物忘れが激しくて、ある日夜中に突然昼ご飯と言って料理を始めたり
ある日突然、私は貴方の妹なのと言ったり、俺がこれは変だと思い、病院に行ったら、痴呆症だと言われた
俺と彼女は結婚する約束をしていた、もう給料三か月分とは言えないけど指輪も用意していた
あとはこれを渡してプロポーズするだけだった、でも彼女はもう殆ど俺のことを覚えていない
一人じゃ何にも出来なくなって、俺が介護するしか無かった
仕事も辞めて、彼女と二人ぼっちで家に引きこもって、毎日、毎日、俺は彼女の右手を握り続けた
貯金も底を付き、いよいよ生きていくためのお金が無くなった
その頃から彼女の両親が「娘を引き取りたい」と言ってきた
彼女の父親に「君もまだ若いんだから、これからの人生に生きなよ、娘のことは忘れてくれ」と言われた
でも、俺は忘れられなかったよ、新しい仕事でも、考えるのはいつも彼女のことばかり
わかるか? 四六時中一つのことしか考えられない人間の気持ちって
一年して、彼女の実家を訪ねてみた、でも家には誰も居なかった
彼女も彼女の両親も町から消えていた
彼女の家族が北陸の町で暮らしていると言うのを知ってすぐにそこに行ったよ
海沿いの家に住んでてさ、家に行くと彼女の母親は驚いていたよ
俺は「彼女に渡したい物がある、直接渡したい」と言った
「海で待っててください」と彼女の母親は言って奥に消えたよ
黒い浜辺で待ってると、寝巻き姿の彼女を母親が連れてきてさ
彼女の姿はもう、酷かったよ、言葉に出来ないくらいに
俺と彼女は浜辺に二人で座った、彼女の母親は気を利かしてくれたのか、消えたよ
彼女はなにやらわけのわからないことばかり言ってたよ、なんだったかな「世界一遠くて近い場所」とか「音の響きが聞こえない」とか
俺は彼女の左手を持って、ポケットからある物を取り出した
彼女の誕生石のエメラルドの指輪だ、俺がそっとそれをはめてやると、彼女は嬉しそうにしてしばらく黙り泣いた
自分でもなんで泣いたのか判らないみたいだった
それを見ていたら俺も泣けてきちゃった、俺は彼女を抱きしめておいおい泣いたよ
たぶん二時間くらいじゃないかな
彼女に少し強く抱きしめられてるような気がしたよ
210名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/09(金) 01:27:43
ええ話や
時間が解決するだろう
211名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 12:45:19
[PV] FUNKY MONKEY BABYS - 旅立ち
http://jp.youtube.com/watch?v=U_U_QOrQjbA

今 旅立ちの日 君が強く
Oh oh 残してきた足跡が 闇の中の光となり
Oh oh 果てしなき道を照らす
さぁ行こう 僕らの未来へ
さぁ行こう もう迷わないで

どこに当たって転んでも 間違いだらけじゃないだろう
歩くその先に 新しい道が開けるんだ

今 旅立つ時 君が何かを 見失いかけた時は
耳をすませ あの日のように 大きな声で僕が歌うから
http://lirama.net/song/238595
212名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/11(日) 23:19:06
大学合格を果たした俺は入学前の春休みに大阪から東北へ一人旅に出かけた。
秋田の男鹿半島のある岬で一人の女性が寂しそうに海を眺めて何かを祈っているようだった。
「こんにちは」と声をかけるとびっくりしたように俺のほうを見て睨んでくる。気まずい雰囲
気になりながらもさらに話しかけた。
「今日は寒いですね。」
女性は何も答えない。そして耐え切れなくなったのか急に走り出した。その時であった。女性が
雪道に足を滑らせて歩けないでいる。あわてて駆け寄ってみると女性は泣いていた。足が痛くて
ないているのだろうか。とりあえず人のいるところに女性を負ぶっていくことにした。
213名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/13(火) 21:37:42
>>212
エロゲのシチュエーションに出てきそうだな
214名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 02:09:59
仕事でいつも一緒に市場調査に出かけるパートナーの女の子がいた。
カップルのように振る舞って、自然体で調査してまわるんだ。

ある時、夫婦役で潜り込まなければならない調査があった。
そこに行く前に指輪を買いに行ったんだよ。
夫婦を演じるための結婚指輪をね。
俺らは恋人ではなかったけど、アクセサリーを買ってもらえるのがうれしかったらしく、パートナーはすごく喜んでた。
調査のないときは、右手の薬指にはめて、大事にしてくれていたよ。

彼女は俺のことが好きだった。
後で知ったことだが、彼女はブログに俺への想いを書きつづっていた。

そのパートナーが事故で亡くなった。

霊安室で二人きりにさせてもらった。
彼女の右薬指には、俺がプレゼントした、「結婚指輪」。
俺はそれを外し、彼女の左薬指にはめてあげた。

そして今、俺の左薬指にも彼女のと同じデザインの指輪がある。
彼女はいつまでも、俺のパートナーなんだ。
215名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/21(水) 18:06:26
みんなに質問したいのだが、初心者のオレに教えて欲しい。
ラッシュつかったオナとかセクスとか具体的にどんな快感なんだ?
詳しく教えて欲しいのだ。たのむ。

もうひとつ教えて欲しいんだけど、みんなが言ってるファミマって
ファミリーマートUSAのことなのか? ここだと日本まで送ってくれるのか?
216名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/22(木) 14:53:23
別スレで見つけたのでコピペ

なんかスィーツwノベルにありがちな事なんだが
小さい頃から夏休み冬休み春休みになると田舎の婆ちゃんちに預けられた俺
近所に体が弱い女の子がいてさ、その家と婆ちゃんは付き合いがあったから、その子ともよく遊んだ
中学生の頃からその子の事を意識しだして、告ろうと決意したんだ
で、ちょっとカッコつけて電話で
夏休みになってそっちいったら大事な話があるって言っておいたんだよ

告ったの彼女のお墓の前だけどな
なんであの時、その場で言わなかったんだ、
なんであの時寂しそうな返事に気づいてあげなかったんだって半泣き
トドメに彼女が残した俺宛ての手紙に
大好きと書いてあって俺号泣

今でもまだ独身です
217名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/12(木) 00:34:11
以前、病院・医者板にあったスレなんだけど、
4歳位の女の子を遺して奥さんが亡くなり、お父さん(医者)はその娘を義父母に預け仕事を続けるも、
娘と生活する時間をつくるために美容外科に転科して…
って話、誰か知らないかな?
娘が義父母で生活してるくだりなんか号泣したんだけど、あれ以来どうしても見つかんないんだよねぇ。
誰かご存知ないですか?
218名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/12(木) 00:50:19
淀で黙々とオケラ街道を歩む話はどうだ?我ながら泣けてくる

219FREE ◆TIBETlaTO. :2008/06/12(木) 06:22:44
怖い話しなら↓

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080608-00000011-yom-pol
これ以上犯罪者予備軍の中国人を増やして、どうすんだ?
しかも人権何とか法案だかを制定しようとしてるし!!
2201/3:2008/06/15(日) 15:38:41
>>217


216 名前:名無しゲノムのクローンさん[sage] 投稿日:2006/07/13(木) 01:28:33
もう十数年前になるけど、嫁が急逝してドロップアウトした。
赴任先の基幹病院のある地方都市。俺の嫁は誰も知り合いもいない土地で、
最後まで子供の心配しながら最後まで俺に謝り続けて一人で逝った。
3歳の娘一人残して。
葬式の時、娘は
「ママいつ来るの?ママいつ起きるの?いつ起きるの?」ってずっと泣いていた。
娘は嫁の実家で面倒みてもらいながら仕事に戻ったよ。忙しい病院だった事に加え、
いつも学会準備に追われていたので帰宅は毎日遅かった。それでも休みの日には
嫁の実家に泊まりにいって、少しでも娘と一緒にすごすようにした。
母親がいなくなった事も受け入れているようで、俺がいくといつも笑って走って
来て「パパー!!」って抱きついてきた。

嫁の実家に行ってからは泣くこともなく娘は楽しく暮らしているように見えたよ。



217 名前:名無しゲノムのクローンさん[sage] 投稿日:2006/07/13(木) 01:29:24
嫁の実家で娘と一緒に寝ていた時、深夜にすすり泣くような声で目が覚めた。
俺が起きた事に気が付くと、一生懸命に寝た振りをしようとしていたけど、すすり泣く声が漏れる。
娘を抱き上げて、どうして泣くのを我慢するんだ?って聞いても黙っていた。
何度も何度も聞いたら、
「じいちゃんとばあちゃんに、パパは忙しくて疲れているのだから絶対に
泣いたりして困らせちゃダメ!」って言われてそれを一生懸命まもっていたらしい。



2212/3:2008/06/15(日) 15:40:07
218 名前:名無しゲノムのクローンさん[sage] 投稿日:2006/07/13(木) 01:30:22
嫁の実家の生活でも気をつかって、いい子でいなきゃいけないって頑張って、
3歳の子が泣きもせず、わがままも言わずに祖父母の言う事もよく聞いて、
毎晩ふとんの中で祖父母を起こさないように一人で声を殺して泣いていたらしい。
娘は嫁の実家に来て以来はじめて大声をあげて泣いた。

「ママんとこ行きたいー おうちに帰りたいー おうち帰るー」ってずっと叫んでいた。
娘にとっては大好きな母親と暮らしたあの家だけが「自分のおうち」だった。
今まで言えなかった思いが噴き出して狂ったように朝まで泣き叫んでいた。
驚いて起きてきた祖父母も悟ったらしく一緒に泣いていた。
娘に「もう頑張らなくていいんだよ。おうちに帰ろうね」と約束して抱きしめて一緒に泣いた。



219 名前:名無しゲノムのクローンさん[sage] 投稿日:2006/07/13(木) 01:31:55
医局を辞める決意をしたよ。
娘を連れ帰ると決めたので、少しでも娘と一緒にいる為に。
週休3日の自由診療のクリニックへの入職も決めた。
休みが多く早く帰宅できて、当直やオンコールのない職場ならなんでもよかった。
教授室のドアをたたき事情を説明した。
教授はドロップアウトする俺を、汚物でもみるような目でみて
「いいから早くここから出て行きなさい」と言ったのを最後に目もあわせてくれなかった。
上の先生達にも、数時間なじられた。赴任先の病院を急に辞める事で迷惑かけるので、
血の気の多い先輩には殴られた。

退局後、祖父母に心からのお礼を言って娘を連れ帰ってきた。小さな仏壇も用意して、
その前が娘のお気に入りの場所になった。
昼間は保育園にあずけたり、嫁の実家にあずけたりして新しい仕事を始めた。
早いと4時、遅くとも6時には帰る事ができるクリニックだったので、娘とすごす時間は
格段に増えた。

包茎手術から植毛、美容外科までなんでもやった。



2223/3:2008/06/15(日) 15:41:09
220 名前:名無しゲノムのクローンさん[sage] 投稿日:2006/07/13(木) 01:33:42
大学の同期の連中からは白い目で見られ続けた。
その手のクリニックが今よりはるかにあやしいイメージの時代だったので。

こんな医者として最下層までドロップアウトした俺を見て育ったのに、娘は医学部に
行きたいって言い出した。
正直、今の情勢で医者になるのは疑問だったけど、こんな俺を見ながらにして
同じ仕事を目指してくれたのが本当にうれしかった。

医学部に合格して、娘と二人で母親の墓前に報告にいった。
こんなにいい子に育ってくれたと胸をはって報告できた。
娘が社会にでて、幸せにしてくれる旦那をみつけたら俺はいつ死んでもいいな。

ちょっと疲れたよ^^;。
医局員が見たら誰の事か一目瞭然だな。その節は本当に御迷惑おかけしました。
娘と二人でなんとかやっています。




223名無しさん@お腹いっぱい。:2008/06/20(金) 10:20:23
親子で包茎手術かぁ
イイハナシダナー(T_T)
224名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/03(木) 19:18:40
http://m.nicovideo.jp/watch/sm2637950/3774000/1078839194?uid=NULLGWDOCOMO
彼を応援する時
『頑張れ〜!!』って言えないから
『自分のペースで!!負けてもいいから〜!!』
って応援したらよいのだろうか…
225ありがとう:2008/07/19(土) 09:41:42
泣けないと思うけど初めて飼った猫事故にあって前足を失って死んだ
けどその猫は僕に色々なことを教えてくれたもういちどあって「いろいろ迷惑かけたけど色々教えてくれて
ありがとう」って言いたいよ
226名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/19(土) 20:14:58
月収50万の彼。
結婚したら月の小遣い2万5千円。
227名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/19(土) 23:31:16
だから絶対結婚したくないんだよ。社会性の無い女はダメだ。
少なくとも私には無職専業主婦を養い続ける気はありません。
228名無しさん@お腹いっぱい。:2008/07/20(日) 23:06:24
「一郎、おまえは“天は人の上に人を乗せて人を作る”ってゆー福沢諭吉先生の有名な名言を知ってるかい? 一万円札にもなった福沢諭吉先生は故郷・大分県が排出した立派な教育者なんだよ」   
──┐「僕も福沢諭吉先生みたいな立派な教育者になって、いっぱい給料と年金をもらって母ちゃんを楽にするよ」
 軽 │             
 王 │   J( ;'A`)し    
   │     (  )\( 'A`) 
   │     ||  (_ _)ヾ  
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

そして10年後、母子家庭の苦しい家計の中で俺を大学に行かせてくれた母は亡くなった。
しかし、俺は教師になれなかった。貧乏な俺の家では「就職浪人」も「ニート」も許されなかったからだ。

死の床で、母ちゃんは「貧乏でごめんね」と、繰り返し謝ってくれた。
                 ('A` )
         J('A`)し    (  )
      /⌒⌒⌒⌒⌒ヽ  ||
     // ̄ ̄ ̄フ /
   / (___/ /
   (______ノ



__  先日、派遣先の会社のテレビニュースで、偶然、大分県庁の偉い公務員が逮捕されたことを知った。      
 母 |  逮捕された人は、教員採用試験の時に俺と面接した知っている顔だった。
 の |  容疑者の男は面接試験の時、不思議と俺に視線を合わそうとしない、おかしな奴だった。
 墓 |  ∴  ('A`)カーチャン..........
──┐ ∀  << )

大分県の教育 大切なことは福澤諭吉さんに教わった
http://school7.2ch.net/test/read.cgi/edu/1215695386/
229名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/13(水) 00:10:41
俺はガムラツイストを全部持ってる。状態も万全でコンプしてる。
そんな俺のガムラコレクションだが、中に1枚だけ裏の台紙に
「●●君(←俺の名前)へ あのとき本当にありがとう 元気でね」
と書かれたシールがある。それはラーメンばあ7弾の「勇者の碑」。

あれは小学校高学年の頃だった。暑い日だったので夏だったのだろう。
俺を含む少年5人は全員、町の駄菓子屋でラーメンばあを買った。
するとグループの中では気の弱いTが買ったラーメンばあから、
「勇者の碑」が出た。キラキラシールだ。
少年たちは全員でそのシールに見入った。少年時代の幸せなひとときである。
ところが、しばらくすると突然、グループ内のいじめっ子的存在であるKが
こう言った。「おいT!お前のその勇者の碑と俺のベン闘ベン交換しろ!」
ビクつき、涙目になるT。さらに詰め寄るK。俺は迷ったが、勇気を出して
Kを止めることにした。「Kちゃん、Kちゃんには俺のラーメンばあさん
やるよ。前に欲しがってただろ。だからTのそれは勘弁してやって。」
しぶしぶ納得するK。
Tはビクつきながら勇者の碑を持って逃げ帰るようにして家に帰っていった。
その後、しばらくして俺は転校することになった。
お別れ会が終わって一人で帰宅する俺。
そんな俺を後ろから凄い勢いで走って追いかけてくる奴がいた。
Tだ。Tは俺に追いつくや、こう言った。
「あのときありがとう。これ。」 手には「勇者の碑」。
「これ●●君にあげるから!」 そう言ってTは、
とまどう俺の手に無理矢理シールを握らせ走り去っていった。

あれから20年、風のたよりによるとTは交通事故でハタチ前に死んだらしい。
でも、Tからもらった「勇者の碑」は俺のファイルの中で生き続けている。
230名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/20(水) 00:10:57
「過去ばかり思いだしてないで、今を楽しめ。」
とよく人は言うけど、今の自分にそんな事はできない。
 
中学は楽しかったよ。
いろんなやつがいてさ、毎日心から笑ってた。
だから卒業するときは悲しかった。
でも高校に行ってもこんな日が続くって信じてたよ。

でも実際高校なんて
まわりの目を気にして、
別にそれほど入りたくない部活に入って
ボッチだと思われたくないから
それほど仲良くしたくないやつと上辺だけ仲良くして
まわりに合わせて愛想笑いしてるだけだった。

誰かが失敗するとそれを助けるわけでもなく、
みんなでヒソヒソ笑って仲間外れにする。

それを見て、自分は仲間外れにされたくないから
嫌でもそいつらとつるむ。

そんなのの繰り返し。

体育祭とかでちょっと頑張ってるやつがいると、
「なんであいつあんな頑張ってんの?
バカじゃんwww」
とかいって頑張るやつを馬鹿にして、
さぼってる自分を正当化しようとする。

高校に行って待ってたのは
こんな日々。
 
 
このままじゃ俺、おかしくなりそうだ。
 
夢だけでいいから輝いてた、
あの頃に戻りたい。
 
231名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/20(水) 01:09:27
ネットカフェ難民になった俺は
今日、偶然、以前勤めていた会社の社長に会った。
近況を話すと

「いつでも帰って来いと言っただろうが!!バカモン!!罰として明日から3日間便所掃除だ!」

としかられた。
232名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/20(水) 07:24:19
非処女は肉便器
非処女は中古
処女じゃないくせにまとも結婚を望むクズ
233名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/20(水) 20:35:23
>>231
で、今日から便所掃除か?ww
がんがれ!!
234名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/21(木) 02:26:00
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=907521856&owner_id=17048403

mixiでのある人の日記

長文で最初はなんだよと思ったけど悲しい
235名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/18(木) 02:12:09
最近、動画共有サイトのコンテンツを削除するのは反公共的で反倫理的な
悪いことのように思えてきた。論拠が「違法だから」じゃ弱すぎる。悪法に加担する国賊だ。
行政だって本気で取り締まってないだろう。警察だって各省庁だって
現状認識くらい出来ているはずだ。だけど無意識的に彼らは現状を見逃している。

著作権の話をするときに拝金主義に偏りすぎているから、ビジネスの話ばかりになる。
「みんなが作品を享受できる」という共産主義の夢を、ネットは蘇らせてくれた。
だからもっと声高に「万人が情報にアクセスできる事はいいことだ!!」
「削除するのは平等を妨害する悪い行為だ!!」と社会に訴えるべきだと思う。
そして削除要請するような金の亡者となった企業には、「コンテンツをコピーレフトにしろ!」
と圧力をかけ続けるのが、社会正義なのである。

すでに経済も社会もそうなっている。あとは一人一人の考え方を変えるだけなんだ。
情報社会のニュータイプになれるかなれないかは、君の考え方次第なのである。
236名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/18(木) 23:32:54
なんか日テレで泣ける話しやってて
ふと思い出したので書きます
 
オレが17才の頃の話しです
高校を辞め当時無職でヤンキーだったオレは
母におこずかいをせびり
それを断った母と大喧嘩に
母子家庭で貧しい家庭だったから
今思うと簡単にお金は用意できなかったと思う
そんなこと考えもせず怒鳴りあって
カッとなったオレは
痩せ細った母の足に膝蹴りを食らわせ
唾を吐いて自分の部屋へ

なのに母はその日の夜何事もなかったように
「ご飯だよー」って呼んでくれた
悪怯れたそぶりもなく食卓へ行くと
足を引きずりながら茶碗にご飯をよそってくれる母がいた
そんな母を見てもオレはざまあみろって思ってた
それから事ある毎に母に暴力をふるってたんだ
ある日ボコボコにした母が
泣きながら初めて「出て行きなさい」とオレに言った
頭にきたオレは着替えも持たず家を飛び出して
友達の家を泊まり歩く生活をしてた
最初はその生活が楽しくて
毎日フラフラしてたんだけど
一週間もするとそれも飽きて
ノコノコ家に帰ったんだ
すると母は「何しに帰ってきたの」って怒ってた
オレはそんなことお構い無しでいつも通りに居候
母の口数は少なくなってた
家出から3ヶ月仕事もせず夜中フラフラしてると
未成年だったオレは警察に職務質問されてた
住所と名前を書くと警察が「お前が〇〇か」って
オレが「何なんだよ」って聞くと
警察官は「お前3ヶ月前捜索願い出てたぞあまりお母さんに心配かけるな」と言った
友達の手前どうでもいいよあんなクソババアって言ったけど
家に帰ると涙が出ました
その時初めて母に感謝した瞬間でした
 
今はまだ半人前なオレには無理だけど
いつか必ず親孝行します
237名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/21(日) 15:14:49
私は都内でナースをしています。
これは二年ほど前の話です。

ある病院で一人の患者さんを受け持つことになりました。
22歳の女性の患者さんです。
彼女は手遅れの状態で癌が見つかり半年もつか分からない状態でした。
彼女は笑顔がかわいらしい目のくりくりしたタレントさんみたいにかわいい人でした。
末期のがんであと半年もつかわからないことは彼女もしっていました。けれど
絶対に笑顔をたやさない。人前で涙や弱音を吐かない人でした。そして明るく、とっても優しい人でした。私と彼女は同い年で
した。私は彼女を尊敬しました。
彼女は上智大学の4年生でした。彼女はよく「卒業して子供たちに英語を教えたい」
と言っていました。彼女は大学でアメリカに1年、留学していたからでしょう。
同じ病院の小児科の子供たちにも好かれてよく英語を教えていました。
彼女にはお母さんがいませんでした。彼女が小学生のときに家を出て行ってしまったそうです。
それから、お父さんと二人でくらしていました。
彼女はお父さんのことが大好きでした。

彼女はあえて抗がん剤治療はしないで進行をとめる薬を投与していました。
髪は抜けなかったものの、体は日に日に弱っていき、容態は悪くなる一方で
彼女は日に日に衰弱していきました。

12月に入りました。
彼女は意識がなくなりもうもたない状態になりました。
彼女のお父さんは「逝かないでくれ、お父さんを一人にしないでくれ」と言っていました。
本当に心が痛みました。
私は最後を立ち合いました。
心肺停止になるとお父さんは彼女の酸素マスクをとり「ありがとう、ありがとう」と何回も繰り返しました。
応急処置はできない状態だったのです。そのままといういい方はおかしいのですが処置はしませんでした。
お父さんは彼女の頭をなでながら「お父さんの子供でありがとう。」と言いました。

私は泣きました。ボロボロでてくる涙はとめられませんでした。
お父さんは彼女の病室からみつかった一冊のノートをみせてくれました。
英語の勉強のノートだったのですが、一番最後のページにこう書いてあったのです。

ありがとう
ありがとう
わたしはとっても幸せでした。
お父さん、ごめんなさい。孫の顔みせてあげられなかったね。
わたしは病気になってつらいことはあったけど、決して後悔はしていない。
神様がわたしにくれたミッションだったかもしれないね。
ちょっと、早めのミッション。
男でひとつで育ててくれてありがとう。
だいすきだよ。



彼女の葬儀にはたくさんのお友達がきていました。



それから2年ほどたっていま、彼女のお父さんは私の病院で入院しています。
おとうさんはがんになってしまいました。けれどお父さんは私に言ったのです。
「もしかしたら、一人にさせたらいけないと思ってあの子がそうさせてくれたのかもしれない。
だから死ぬのはこわくないんだ。あの子がまっていてくれてるから。」

ときどき、彼女のことを思い出します。


238名無しさん@お腹いっぱい。:2008/09/24(水) 20:22:09
ぼくのいえは、ぼしかていです。
ままは、まいにちゆうがたからあさまでちかくのこうじょうで
ぼくたちをそだてるためにはたらいています。
ままがかえるといつもせっけんのいいにおいがします。
ままはわかくてきれいです。
ぴーてーえーのときはじまんです。
たまにしらないおじさんとゆうえんちにつれていってくれます。
ぼくはままがだいすきです。
まいにちこわいおじさんたちがくるようになってどなってままをいじめます。
ぼくはおおきくなったらつよくなってあいつらをやっつけたいです。



ままがかえってきません。
あいすくりいむをかいにいったまま。
ままぼくはいつまでまってればいいの?
239名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 16:35:25
>>24
おくればせながら号泣です。キーボードの上に水が落ちた。
自分の母とかぶる。
自分の中では母親の本質はこのような不器用な愛情だと思う。
240名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 17:48:41
私事です。
うちには小学生の娘がいます。
娘はいつの間に私に似たのかか調子乗りで、声が大きくて…でも、元気に育ってくれてます。
ある日、娘は友達を連れて帰って来ました。
はじめて見る子だったのですが、とても綺麗な顔立ちをした子でした。

後日、授業参観でその子のお母さんが声をかけてくださいました。
お母さんはやはりとても綺麗な方でした。
行事があるたびに声をかけてくださり、仲良くしていただいたのですが。
彼女の身の上話を聞き、とても驚きました。

彼女はシングルマザーで、娘の父親は東京にいると。
241名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 18:00:27
>>240
続きです。
彼は、自分と一緒になれないといわれたこと。
また彼女はその答に納得していると。
そして彼は子供は認知し、養育費ももらっていること。
そして最後に彼には新しい家庭があること…娘は父親に会ったことがないと。
私は彼女はとても強いと思いました。

そして、風の噂でその子の父親がなんとあるバンドのヴォーカリストだと聞きました。
びっくりしました。
確かにあの鼻が高い、綺麗な顔立ちは納得できます。
そしてそのヴォーカリストは数年前にかなり年下の女優さんと結婚しています。
彼女に直接確かめたわけではないですが、これで合点が合いました。
242名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 18:08:06
>>241
続きです。

彼女には確かめるつもりはないですが、ここからは憶測です。
子供が生まれた歳は、バンドが注目され始めた年です。
彼は夢を諦めない為に彼女を捨てたと…
でも、彼は結婚しました。
人を選んだのでしょうか?
その時、彼女はどんな気持ちだったのかと思うと惨めすぎます。
彼女は子供にもどう説明すればいいのかわからないのだと思います。

そんな強い彼女とはこれからも友達でいたいです。

最後まで読んでくれた方、ありがとうございます。
長文失礼しました。
243名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 18:26:36
↑SOPHIA松岡??
もしそうなら本妻は黒沢監督の孫だもんね。はあ〜。
244名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/17(水) 21:53:50
松岡かなぁ?
何だろうね、夢を追う姿勢は素敵だと思うけど。
でも、酷いな、よく考えると。
もういいって思ったんなら帰ってきて欲しいよな。
それか、その人にはそれだけの気持ちだったのかな?
支えてあげてくださいね。
子供がかわいそうだよね。
松岡のことどう思うんだろ?
245名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 00:00:39
>>92
いつ見ても泣ける
246名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/18(木) 09:52:53
>>92
私の友達は不妊治療中に旦那が交通事故で亡くなった。
彼女からしたら好きな相手の子供が産めた貴方が羨ましいだろう。
247名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/20(土) 06:08:50
両親は俺が中2の時、交通事故で死んだ。俺には4つ上の兄と5つ下の妹がいる。
両親の死後、俺は母方の親戚に、妹は父方にひきとられて、兄は母方の祖父母と住んでいた。
それから一年くらいたって、久しぶりに兄から電話があった。
そん時、高校を卒業して就職が見つかったから、兄弟3人で暮らさないかという旨を言われた。
俺はびっくりした。兄は俺とは違い昔から頭が良くて、当然1流の大学に行くんだろうと思ってたからだ。
俺は兄に大学はいいのか?と聞いたが、兄は「全滅やったから(笑)そこは触れんといて」なんて事を言ってた。
俺は中3だし、妹はまだ小3だったため当然、親戚中は反対してたが、俺も妹も、ホントはまた兄弟一緒に暮らしたいと思ってたから
頼み込んで許してもらい、晴れて兄弟3人一緒に住むことができるようになった。
それからというもの、兄は俺らの為に働きまくった。俺らが貧乏なんて感じることないようにと、
ずっと皆一緒に暮らすんだと、昼と夜も別々の仕事して稼ぎまくって俺らに小遣いまでくれてた。
そんな兄が先月、交通事故で逝ってしまった・・・

葬式で俺も妹も泣きじゃくった。。
葬式も一通り片付き皆が帰った後、別室にいた俺と妹のところに、
叔母が夕飯をもってきてくれて、その際、俺らは兄について衝撃の事実をしることになった。

両親の死後、兄が親戚中に土下座し、俺と妹の事よろしく頼むと言ってまわってたこと。
兄がバイト代を毎月送り、俺と妹の小遣いにしてやってくれと頼んでたこと。
京大を蹴って、俺らと一緒に住むために就職したこと。

・・・それきいた途端、もう分からんくらい泣いた。立てんかった・・・
色んな兄ちゃんとの思い出が駆け巡った。
小さい頃、俺の手をつないで、いっつも遊んでくれた・・・
強くておもろくてやさしかった・・・
自分の小遣いからお菓子買ってくれてた・・・
俺が高校行かんって言ったらぶち切れて殴ってでも行かせるって言った・・・
いつもボロボロで疲れてても、俺らに八つ当たりなんてしなかった・・・
自分の夢を捨てて、俺らのために必死やった・・・
おとん、おかんが死んだ時、泣きじゃくる俺と妹を抱いて、
がんばれって言って俺らの前では涙ひとつ見せんかった・・・俺ホントは兄ちゃんが夜中、泣き声をおしころして泣いてたの知ってたよ・・・

やべえ思い出して・・・もうこれ以上書けねえわ
何もできんかったわ・・・
ホントなんも・・・
最後に言わせて。
最強最高の兄ちゃん!!!あんたに負けんこと俺がんばるけん!
妹のことも心配せんでいいけんね。ありがとう。ありがとう!!!
248名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/21(日) 16:39:46
ある日、泣き声がしゃくに障ったので妹を殺した、死体は井戸に捨てた
次の日見に行くと死体は消えていた

5年後、些細なけんかで友達を殺した、死体は井戸に捨てた
次の日見に行くと死体は消えていた

10年後、酔った勢いで孕ませてしまった女を殺した、死体は井戸に捨てた
次の日見に行くと死体は消えていた

15年後、嫌な上司を殺した、死体は井戸に捨てた
次の日見に行くと死体は消えていた

20年後、介護が必要になった母が邪魔なので殺した、死体は井戸に捨てた
次の日見に行くと死体は消えていなかった
次の日も、次の日も死体はそのままだった
249名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/21(日) 18:31:51
>>248
カーチャン・・・
250名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/21(日) 20:03:28
>>247
本気で泣いてしまった
月並みで申し訳ないが
ご両親やお兄さんの分まで幸せになってください。
あなたと妹さんが幸せになることが恩返しだと思う
251名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/22(月) 11:06:05
私は、高校を中退しています
その頃から、親から見放されたような気がしています
親の愛は無償の愛なんて言うけど、全ての親がそうって訳じゃないと思う
10代の多感な頃から親の愛情を感じられずに育った私は、誰かに思い切り
甘えることもわがままを言うことも出来ません

親との縁が薄い女って、幸せになれない気がするんだ
252名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/23(火) 02:31:07
ちょうど僕が大学受験の頃両親が離婚した
貧乏だったのに母は一人で妹と僕の学費を払って、毎日遅くまで働いてくれた
父は借金して酒ばっか飲んで僕を怒鳴って、たまに殴ったりするような人だ
もともと人はよかったのですが、とても短気でした。そんな父も離婚して寂しさからか僕に毎日連絡してきました。
ある日テスト前で連絡するなと言ったのに、「今まで苦労掛けたな」と初めて自分から誤ってきたので、酒の飲みすぎかと思いました
その一週間後父は逝った
父は心配かけまいと肝硬変のことをずっと黙っていました
顔色も悪かったので何度か病院に行けと言ったのに「大丈夫やわ」とか言っていつも笑っていました。
葬式では泣きすぎて喪主も務まったか分かららなかった
父のこと嫌いだった母が何度も「ごめんな」と言っているときはもう声をあげて泣いてしまった
家に帰ったらカレーが置いてあった
父は元カレー屋を経営していました
父は死んでしまう前日カレーを作ってじいさん、ばあさんに「これあの子らにもとっといてな」と言ったそうです
僕はテストと実習で大忙しで妹も学校ふつうにあったのに…
もう大号泣しながらたべました


今日が丁度父がいなくなって半年。
だめな父だったけど最高の父です。
253名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/23(火) 14:53:49
http://ameblo.jp/toyboy17/entry-10177312859.html

12月の満月

これ泣けたな。
254名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/24(水) 09:39:16
じいちゃんの腕時計

俺さ小さい頃、一人っ子で両親共働きだったから、鍵っ子って奴だった。
だからさちょっと内気で友達もできなくてさ、よく、じいちゃんの家に行ってた。
じいちゃんはさ、会社の社長でさ忙しかったけど俺が行くと絶対遊んでくれたよ。
しかも小遣いまでくれるもんだからさ調子乗って毎日行ってた。
俺さ中学に上がって段々グレてってから、じいちゃんの家にあんま行かないようになってた。
でも、小遣い欲しいときだけは行ってた。
じいちゃんはマックのポテトが好きだったからポテト買って行けば嬉しがって、
小遣い多めにくれたりてたから、またまた俺調子乗ったよ。
そんなんが続いててさ、俺が中3の10月くらいだったかな、じいちゃんが突然倒れたって聞かされた。
俺ソッコーで病院行ったよ。そしたら、じいちゃんケロってしてたな。
なんだよ心配して損したってな感じだった。でも俺、毎日病院行ってた・・・
じいちゃん小遣いはかかさずくれるもんだから。
ある時さ、じいちゃんが俺に高校の話してきた。丁度受験だったからさ。
俺めんどいから高校行かねえって言ったらさ初めてキレられたよ。
いつも温厚なじいちゃんが初めてな。
めんどいってなんじゃ・・・逃げとるだけやろうが?男なら逃げんな・・・とか言ってた。
んでさ、いきなり戦中の話されたわけ。
じいちゃんはさシベリアで捕虜になってたんだって。そりゃもう悲惨だったと・・
その中にはさ家族を持ってた人、もうすぐ生まれてくる子供がいた人、そんな戦友も皆死んだらしい。
もう、涙も出ないくらい悲惨でさ、何度も死のうと思ったらしい。けど、そんな時、いつも
お守りとして持ってた腕時計を見てさ、唇をかみ締めて生きるぞ!って決意してたんだって。
その時計はさ、じいちゃんの親友の形見だって。じいちゃんと親友はさ、幼い頃から一緒に悪さしたり
して近所でも有名な悪ガキ2人組みだったんだって。
戦争が悪化してきてさ、じいちゃんも友人も戦争に行くことになったんだけど、
じいちゃんの親友は海軍に志願して特攻になったらしい。最後の別れ際、
「俺は空からお前は陸から・・・心配すんな、俺がぶっ壊してやる。靖国で待ってるなんて言わない。
お前は不死身だからな」って笑いながら腕時計を渡したんだって。
それからシベリアに抑留されても、じいちゃんは腕時計だけは取られないように隠し持って
捕虜になるなら切腹しろって言われてたけど、こんな所で日本男児がくたばるかって
思いながら生きたらしい。
俺さバカだからよく分かんなかったけど、軽く泣いたね。じいちゃんも泣いてた。
それ聞いて、毎日勉強したわ。毎日じいちゃんの病室のベッドの横で毎日勉強した。
んでさ、じいちゃん日に日に体が弱くなってさ、喋ることもままならなくなっていったよ。
受験前日かな、じいちゃんさ、体震わせながら、声もかすれながらさ、手を上にあげて
名前呼んだから何?って言ったらさ、腕時計だしてきて「ありがとう」って・・・
「ようやくお前に顔向けできるな」って言ってた。多分俺と友人間違えてたんやろうな。
その夜じいちゃん死んだよ91歳やった。

思い返せばスッゲー男やったな。シベリアから帰ってきて、何も無い所から
始めて、会社起こして、俺のおかんやらを育ててきたんやもんな。
強いよな・・・じいちゃん死んだ時、俺はじめて「闘う」って意味分かった気がしたもんな。
腕時計は俺が引き継いだ。俺にとっちゃかなり重い腕時計だけど、じいちゃん、じいちゃんの親友
に顔向けできる男になれるように闘ってみる。
255ピンクの名無しさん:2008/12/24(水) 10:41:57
>>954かっこいいよ。良いイブを。
256名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/26(金) 01:27:50
⊃泣けるムービーhttp://todoomo.com/top.php
257名無しさん@お腹いっぱい。:2008/12/30(火) 00:07:53
ある平凡な夫婦の話

その夫婦は普通に出会い普通に結婚をし普通に二人の子供を作りました
二人の子供は特に問題もなく成人し社会人となり普通に生活していました
ただ残念なのは孫は産まれず下の子供にいたっては結婚すらしませんでした
それでも夫婦は行かず後家の娘と三人で普通に暮らしていました

まだ夫婦は知りませんが娘はそう遠くない将来夫婦より早く夫婦も必ず行く場所へ行くことになりました

娘は手遅れの治療をするよりたくさんの貯金を夫婦に残そうとしています

今年は最初で最後のおせちを作ろうとしています 
それで孫を抱かせてあげられなかったことを許してもらおうと思っています 

最期まで黙っていこうと思っています
258名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/02(金) 23:41:04
56:名無しさん@お腹いっぱい。 :2009/01/02(金) 21:12:00
家の嫁子宮筋腫で全摘手術した後シェーグレン症候群って奴を起こし現在味覚障害。
子供達のためを思い「悪いけれど、不味いんだ」と言った。
嫁は逆上したけれど最後には「自分から言い出せなかったから言われてほっとした」だと。
でも俺が「どんな不味い飯でも俺はお前の作ったものなら全部残さず食べる」
って言うと、感情が決壊し俺と一緒に小一時間、泣かせてしまった。
でもね、病気で涙もよく出ないんだよ。
あんな料理上手だった嫁が、、、運命を呪う。
今は小学生の娘に味見させて作っている。

259名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/03(土) 14:59:53
これ!最後は泣けるかな?

http://ameblo.jp/yamikaijin/
260名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/04(日) 16:18:54
フランスの哲学者の話。
彼はナチスドイツの占領に反抗してレジスタンス活動に
身を投じていたんだが逮捕され銃殺刑に処せられる事になった。
処刑寸前に隣で震える少年に向かって「君ね、こんなのはちっとも
痛くないんだよ」と慰めてあげたのが彼の最期の言葉・・・。

261名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/06(火) 16:03:09
どこに書いていいかわからんので

母が逝った
ホントあっと言う間だった。
風邪は万病の元? 皆そう言うよね。思い知ったよ。
確かに風邪はひいてたよ。
だが1月1日朝洗濯物干してたのに3日の朝には冷たくなってた。
救急車呼んだよ。乗せるまでもねぇとよ。死後7時間くらいたってるかもだと
バカ言ってんじゃねぇ! その時間は覗いて呼吸音確認してんだよ!

そのまま警察呼んで、検死してもらったよ。
死因不明?ホントそう書いてあんだぜ、会社への連絡表に死因記入する際なんて書くか途方にくれたよ。
連絡する人する人皆絶句、親戚連中も飛んできた。皆同じ事を言う。「信じられない」と
一番信じられないのは俺達家族だ。あと本人もかも、多分絶対分かってねえと思う。


指にケガして絆創膏貼ってる。これ貼った時はまだ元気だった・・・
正月連休今日で終わり。連休入った時には考えもしなかった・・・
紅白見てた、除夜の鐘聞いた。まだ元気だった・・・

でも今いない

告別式も終わって、家ん中ちょっと片付けてこれ書いてる
親父はボーゼンとしてる。姉はまだ泣けないでいる。

2009年 なんて年の始まりだ。
262名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/10(土) 01:06:07
あけましておめでとう
母さんが死ぬと人間一番悲しくなるんだよ
一番やさしくしてくれた存在だから・・・・
お母さんがいなくてもあきらめず前を向いて歩こうね道をふみはずさないでね
家族を大事にするんだよ・・・・
263名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/10(土) 07:25:55
1/3

語りかける目

1月23日、私は2回目の出動をした。

任務は長田署管内の救助活動・遺体捜索。
そして、村野工業高校体育館における遺体管理と検視業務の補助であった。
仮の遺体安置所になった体育館は、たくさんの遺体と、それに付きそう遺族であふれていた。

そんな中で、一人の少女に、私の目はくぎづけになった。
その少女は、ひざの前に置いた、焼け焦げた「ナベ」にじっと見入っていた。
泣くでもなく、哀しむでもなく、身動きもせず、ただじっと見入っていた。

私は、その少女に引かれるように近寄っていった。
「ナベ」の中は、小さな遺骨が置かれていた。

「どうしたの。」

思わず問いかけた私の一言が、その少女を泣かせてしまった。
どっとあふれだした涙をぬぐおうともせず、懸命に私の目を見つめ、とぎれとぎれに語り続けた。
「ナベ」の中は、少女が拾い集めた母の遺骨であるという。


その夜(1月16日)も少女は母に抱かれるように、1階の居間で眠っていた。
何が起こったかも分からないまま、気がついたときには母とともに壊れた家の下敷きになって、 身動きもできない状態になっていた。
それでも、少女は少しずつ体をずらし、何時間もかけて脱出できた。
家の前に立って、何がなんだかわからないまま、どの家も倒れているのを見た。
多くの人が、何かを叫びながら走り回っているのを見た。

しばらくして、母が家の中に取り残されていることに気がついた。

「お母さんを助けて。」

「助けてお願い。」

と、走り回っている大人たちに片っ端からしがみつき、声を限りに叫び続けた。
だれにもその叫び声は聞こえなかった。声は届かなかった。
迫ってくる火事に、母を助けられるのは自分しかないと、哀しい決断を強いられた。
264名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/10(土) 07:26:49
2/3


母を呼び続け、懸命に家具を押しのけ、がれきを放り投げ、一歩一歩母に近づいていった。
やっとの思いで、母の手を捜し当てた。姿は見えなかった。
母の手を見つけたとたん、その手を握り締めた。
そのとき、少女の手は血まみれになっていることに気がついた。

「おかあさん、おかあさん。」

「おかあさん。」

手を握り締め、泣きながら叫び続けるだけであった。

火事は間近に迫っていた。火事の音が聞こえ、熱くなってきた。
母は懸命に語りかけたが、かぼそい声で少女には聞こえなかった。

「おかあさん、おかあさん。」

と、叫び続ける少女に、名前を呼ぶ母の声がようやく聞こえた。


「ありがとう。もう逃げなさい。」


と、母は握っていた手を放した。

熱かった。怖かった。
夢中で逃げた。
すぐに、母を抱え込んだまま、わが家が燃え出した。
立ち尽くし、燃え盛るわが家をいつまでも見続けた。
声も出なかった。涙も出なかった。
265名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/10(土) 07:27:35
3/3


翌日、何をしたか、どこにいたか、覚えていない。

翌々日、少女は一人で母を探し求めた。そして見つけだした。

少女は、いま一人で、見つけだした母を「ナベ」に入れ、守り続けている。


語り続ける少女の目から、いつのまにか涙が消えていた。
ただ聞くだけの私は、声も出ず涙があふれ続けた。
母と二人、この少女がどんな生活をしていたのか、私は知らない。
ひとりになったこの少女に、どんな生活が待っているのか、私にはわからない。

「この少女に神の加護がありますように。」
生まれて初めて「神」に祈った。
この少女に、なぐさめの言葉も、激励の言葉も何も言えなかった。
何度も何度もうなずくだけで、少女の前を逃げた。

少女は、最後まで私の目を見続け、語り、そして語り終えた。
その目は、もっと多くのことを私に語りかけ、今も語り続けている。

目は生きていた。

哀しいと思った。

美しいと思った。

強いと思った。

少女の名前を聞くのさえ忘れていた。


『明日に生きる 阪神・淡路大震災から学ぶ』
防災教育副読本(中学生用) 兵庫県教育委員会
266名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/19(月) 08:06:52
267名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/19(月) 12:51:20
無職の山本博俊がキャッシュコーナーで順番待ちをしているとき、
イライラして目の前の老人に因縁をつけた。
老人がかわいそうで泣ける・・・。
268名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/22(木) 21:28:21
 
269名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/22(木) 21:44:55
俺の爺さんの作る玉葱はマジで美味い。


定年退職後に近くの農地かりて
早くに婆さん亡くしてたから一人で色んな野菜栽培して
近所の人たちにも配ったりして人気だった。

中でも玉葱は絶品でスーパーなんかで買うのとは
比べ物にならない。
本当に美味くて昔子供ながらにびっくりした。

俺は両親共働きだったのもあって
かなりの爺ちゃんっ子だった。
一緒に畑にいっていろんな果物食べさせてもらったり

親には内緒だぞって言われて
軽トラの後ろに乗せて町内一周とかもした。


そんな爺さんだけどつい先月息を引き取った。
一眠りするみたいに

悲しかった。

けど不思議と涙は出なかった。


俺は葬儀が一通り終ったので
仕事で田舎から東京へと戻った。

んで、マジで久しぶりに爺さんが作ったやつじゃない
玉葱買った。

それが目に染みるのよw

涙がボロボロでるんだww

やっぱ爺さんはすげぇよ。


俺も将来は畑持とうと思ってるよ。
んで爺さんのみたいな美味い玉葱つくろう(´∀`
270名無しさん@お腹いっぱい。:2009/01/27(火) 20:22:50
>>237
おー怖。
271名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/07(土) 20:38:45


妹へ。

こんな姉でごめんね。
オタで、腐女子で、情けない姉だけど
私のことをお姉ちゃんって、呼んでくれてありがとう。
死にたいって、思うくらいいじめられて
リスカまではしったけど、結局死ねなかった。
妹には、そんな思いして貰いたくないから
妹には、イジメを経験してもらいたくないから
こんな姉だけど、しっかりしていきたいと思う。

不良でもないし、真面目でもない中途半端な私だけど

妹の前では、中途半端な姉でいたくない。

運動したら、すぐに過呼吸になってしまい
部活をやめてしまった私。

でも、妹はそんな身体じゃないから
いつまでも自分が好きなスポーツを続けてほしい。

親友もいなくて、引きこもってた私。
今では親友もできたけど、前まではつらかった。

妹には、親友がいるね。
妹は、その親友を大切にしてね。

私は、腐女子でオタクだけど
妹はイマドキで、可愛い女の子だね。

きっと、中学校に行けば素敵な彼氏ができるよ。
だけど、変な人についていったらダメだよ?

妹、いじめられたら私に言って。
私がなんとかしてあげる。
いじめられて、弱かったころの私は
妹の前では見せたくない。

妹の前だったら、がんばれるような気がするの。

だから、たった一人の私の妹。

悔いの無いように、生きてください。


                    姉より。

272うさちゃん:2009/02/13(金) 00:22:19
 どっから話すればいいか・・・

 去年の2月20日(水)、従兄弟のMから携帯にメールが来たんだ。
『従兄弟同士の飲み会かな?』俺はそう思ったんだけど、内容を見てみると背筋が凍った。
[(従兄弟の)Y君が昨日から危篤したらしい。まだ詳細は分からないけど、とりあえずY君のためにお祈りしといてください。]
 まさか冗談だと思ったんだけど、気になって頭から離れない。
 そしてまたメールが来た。(メールの内容・やり取りははっきりとは覚えていないけど、大体)
 昨日の夕方、おじさん(Yの父)が帰ってきたらY君が倒れていたらしい。おじさんは吃驚して人工呼吸、
すぐに救急車で北摂の〇〇病院に運ばれた。そこから集中治療室で意識不明が続いているという。
 その日は運転免許の試験場での試験の日。それが終わって夜にもかかわらず自宅近くの神社で百度参りをした。
 懸命に、その日から毎日毎日、必死に祈り、『いや!絶対にYは目を開ける!生きてくれる!』
そう思って寝ても、不安で寝れない日が続いた。
 2月24日(土)、Y君の弟(K)からメールが着た。
[兄(Y)はもうそんなに長くはないので最後のあいさつをしてあげてほしい。]
 衝撃で固まった。5分ぐらいだろうか。長かったように感じる。
Kに[ぜひ行く。」と返信した。
 そしてその後、姉から[明日、行かないか?]メールが来た。
俺は[ぜひ行く。]とメールした。
 次の日、集合場所である最寄の駅まで電車内で必死に祈っていた。心の底から目を開けるYを願った。
 駅に着いて、2人の姉と合流。花屋で花を買い、病院に向かった。
 病院に着いて集中治療室に入る時、気密室に入るんだという気持ち、そしてそこで死と戦っていいる従兄弟がいるという
そんな思いが駆け巡った。
 意識不明のYを見て、衝撃が走った。夏に会ったときは、元気で笑顔だったのに・・・ 
 Yを看病するおじさん、おばさん(Yの母)などが気丈にも明るく接していたのが印象がある。
 多少ではあるが、良くなりつつあるらしく、あと1週間後が当分の目標だ。と皆で話していた。
 帰宅後、不安で夜が怖かった。Yが現れ、俺に向かってさよならの挨拶をしたのを覚えている。
俺はYを必死で留めた。Yの決意は固く、説得してもなかなか応じなかった。それが毎晩続いた。
 翌日、2月26日(月)に用があって実家に帰宅。不安の真っ只中だったのは覚えている。
 2月の28日(木)の夜8時ごろに、突然電話が鳴った。近くに住む祖母からで、Yの容態が悪化した。祈ってやってくれとの事を言われた。
この時ぐらい電話が怖かった事はなかった。不安なのにこの時の自分はなぜかどうもしてなかった。
そして9時半ごろにまた電話が鳴って、Yは死んだとの一報を聞いたとき、涙が止まらなかった。
 最期はなにもしてやれなかったのか。という悔いでずっと思い続けている。

※Yは28歳の若さで亡くなった。死因は鬱病である。

Yのご冥福を心からお祈りします。

※もうすぐYが亡くなってから1年経つ。家族は気丈に振舞っているけど、心に穴が開いてるのだろう。
家族が背負う悲しみは大きい。

※ネット上なので伏字などにした。
273とら:2009/02/13(金) 03:55:17
泣ける話かどうかわかりませんが…。
私が高校時代の話をひとつ。

私が高校のころ、私には家族はいませんでした。
食事を投げつけてきて、氏ね、くたばれ、出て行け、顔も見たくない、
毎日叫ぶ人が、母と呼ばれていました。

私が高校のころ、家族はいませんでした。
母が狂乱すると、だまって二階に上がっていってしまう空気のような男が
父と呼ばれていました。

私が高校のころ、家族は…いなかった。
弟という人は、私のことをあいつ、あんたと呼んでいました。

言葉の暴力というものは、本当にすごい威力を持っていて
人の心を、精神を、身体を、ぐちゃぐちゃにしてしまう力を持っています。

私はまるで、ぼろ雑巾のようでした。

かろうじて、かろうじて生きていられたのは
私を待っている存在がいたことも大きいと思います。

92歳になるひいおばあちゃんだけが、世界でたったひとり、大切な人でした。
一人暮らしのおばあちゃんのそばにいるときだけ、私は安心して眠れました。
秒針のうるさい赤い時計の音が、いつも響いていました。
おばあちゃんはよく、私の手を無言でなでていました。
眠ろうとすると、枕を出してくれました。
ショートステイに行って出されたおやつを、「ひ孫にもっていくから」と
もって帰ってきて私に食べさせてくれました。
泊まりに行くと(家出でしたが)うれしそうにしていました。
冬の電気毛布の温度はいつも3でした。
帰ろうとすると、さびしい顔をしました。
92歳なので、立ち上がるときすごく時間がかかります。
それでも必ず、私の手をつないで、玄関まで歩いてくれました。
自転車で、あの忌まわしい家へ帰ろうとするとき
曲がり角まで見送って、手を振ってくれました。
いつまでもいつまでも振ってくれました。
あの姿は、忘れません。

おばあちゃんは、2週間ほど入院して、亡くなりました。
いとこのおばちゃんが家財道具一式捨ててしまったので
私の手元には、赤い時計と、おばあちゃんがいつもしていた指輪が残りました。

短大では、夜、おばあちゃんを思い出して泣いていました。私は、精神病になっていることがわかりました。

指輪はネックレスにしてぶらさげていましたが、
ある日、消えるようになくなってしまいました。
するとふしぎなことに、悲しさが和らぎました。
もしかしたら、天国のおばあちゃんが持っていったんじゃないかな。
私が悲しまないように。

赤い時計は今も部屋にあります。
仕事に行く途中、おばあちゃんの家の跡地(空き地になってしまいました)
を通ります。

今日もがんばってくるねって、心の中で言います。
あの、後姿が、今も見えるようです。

あったかい思い出は、いつまでも私を包んでくれます。
読んでくださって、ありがとうございました。
274名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/24(火) 20:07:10
275名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/25(水) 10:43:35
俺が 40過ぎの独身  ってのが、一番泣けるわ

なんでこんな事になってしまったのか…
276名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/25(水) 22:14:08
なぜかタイタニックみたいな変な映画みるよりは泣ける
277名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/26(木) 14:06:03
年明け直ぐに親父が死んだ。
くも膜下出血だった。
早番の親父が会社に出てこない、電話にも出ないと連絡を受けた妹が
丁度仕事が休みだったからと、朝から家に行ったら
リビングで、妹が飼っていたペットのウサギと猫を抱きしめたまま倒れていたそうだ。
慌てて救急車で運び、何とか手術も無事済んだものの、発見されたときに既に時間が経ちすぎていたのか
手術後、一度も目を醒ます事もなく、6日後に息を引き取った。

俺達の母親は、俺と妹が小学生の時、癌で死んだ。
以降、親父と俺と妹と3人で暮らした。
親父も仕事が忙しく、授業参観の日だの家庭訪問だの、休み前の懇談会だのには
なかなか来れないのを二人して怨んだりもした。
それでも、親父は懸命に俺達二人を育て上げてくれた。
バイクが大好きだった親父は、母が亡くなった直後から
バイクに乗るのを止めた。
「お前等二人が、一人前に社会に出たら又、お金貯めて今度はすんげぇバイク買うさ」と
中学・高校の頃は話してくれていたっけ。
278名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/26(木) 14:07:27
地元では、無かったものの俺は無事大学を出て公務員
妹は、医療大出て看護師に
一昨年のお盆休み、3人が久しぶりに顔を合わせて
庭で焼き肉&ビールで盛り上がっていたとき
「俺達が、働き始めたらバイク乗るんじゃなかったの?」と聞いたら
「会社も景気悪いしなぁ、給料も下がる一方だし、まだまだ我慢だ。」と
行っていたっけ。
「15年以上バイク乗ってないから、先ずはお前等のお母さんと知り合った高校生頃に
乗っていたホンダのモンキーかゴリラからだな」と笑ってたっけ。
その夜、親父が酔っぱらって寝ちまったので妹と
「クリスマス辺りに、親父にバイクでも買ってやろうか?」と
妹も喜んで、とりあえず半分ずつ1ヶ月¥15000合計¥30000ずつ貯める事にした。

翌日、こっちへ帰る直前
親父の大親友で飲み友達で、「働きはじめの貧乏な若造だった頃、洗濯するのももったいないから
1枚のパンツをお前の親父が3日履いて裏返して3日俺が履いていた。」
と言うくらい仲良しの(どうたら飲み会ネタらしい)バイク屋をやっている人の所へ
「クリスマスにバイクを親父に送りたい、うんぬん」と伝えると
半分泣きながら「俺にまかせろ!」と言ってくれた。
279名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/26(木) 14:08:54
余り順調とは言えないまでも、何とかクリスマスまでにお金も無事貯まり
お盆休み以来、久しぶりに休みとって3人で家でパーティした。
夏以来だから親父も嬉しかったのだろう、早々酔っぱらって寝ちまった。
翌日、早朝親父にはバイクの事は内緒で結局帰ってしまって
その日の夕方、親父から【ありがとう】とメールが来たけれど。

春には、親父はモンキーで、四国を1周したと聞いた。
秋には、親父はモンキーで、九州を廻ったと聞いた。
今は、親父は何処を走ってるのだろう。
バイク屋のおっちゃんが葬式の後話していたように
俺達の母親と、モンキー二人乗りして走ってるのだろうか
それとも、一度コケてから乗ってくれなくなった母親の
自転車と併走しているのだろうか。
280名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/26(木) 23:45:29
村西とおるの話だけど文句なしに泣ける
この人、意外と名文家だわ
http://www.policejapan.com/contents/muranishi/20090209/
281名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/27(金) 20:25:16
>>277
けっこう良かった。
282名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/04(水) 11:20:09
今朝ウンコを死体と思い便所に言った

尻から声が聞こえた
お願いします、助けて下さい。
そこにはウンコ姫と召使いの妖怪ウンコ男がいた。
ウンコ姫が言った。お願いします。流さないで下さい。まだ死にたくないです。
私たちはお尻の穴から生まれて流されたらすぐに死んでいきます。

私たちは…

なんでもいいけど何してるの?

私は今ウンコ男とセクロスをしています。私のオマソコにはウンコ男のぶっといチソポが入っているのです。

オレは間髪入れずにトイレを流した。
283名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/04(水) 17:12:04
血は繋がっていないけど
実の子供のように懸命に育ててくれた両親への思いを
やたらwをつけて語っている動画どなたか知りませんか?
1度見て号泣したんですが
しばらくしたら見当たらなくなりました…
284名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/04(水) 17:44:24
動画は知らないな…話なら知ってるが
285名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/06(金) 01:24:22
うん
286名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/07(土) 17:41:13
>>283さん
今日義父におとんって言ってやったよWWWWW ですか?
http://www.youtube.com/watch?v=ugNeX8KIZjc&feature=related

よろしければこちらもどうぞ。何回見ても涙が出ます。
独身の私には特に・・・。
http://www.youtube.com/watch?v=QLjXRMoM7Ec
287名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/07(土) 21:43:41
>>286
俺に謝れ!
久しぶりに目から水が出てきたじゃないか!

両方に流れてたKOKIAのありがとうのBGMも凄く良かった。
俺の葬式の時はこれを流してもらう事にします。
288名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/10(火) 06:14:46
>>286
そうそれです!
ありがとうございます。
やっぱり号泣しました…感謝!
289名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/31(火) 23:53:58
フィクションの小説だけどヌコ好きにはたまらん。


http://ip.tosp.co.jp/BK/TosBK100.asp?I=lifelivelike&BookId=2&SPA=200


作者の子2ch好きってw
290名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/07(火) 07:47:30
中一ん時の話です。勝手に書くので適当に流して下さい。


丁度、反抗期的なものを迎えていた私は父とあまり口を聞かなくなっていた。
昔はよく休日に出かけていたのに全く出かけなくなった。めんどくさいしって私が言ったら、父と母は二人で出かけるようになった。

それからちょっと経って、6月1日、結婚記念日の朝。休日だった。

父は首を吊ってしんでいた。
見つけたのは昼頃起きた母だった。私は起きてこなかった父を気にも止めず(寧ろ朝、顔をみないでラッキーと思っていた)呑気にテレビを見ていた。
今でもずっと、起きたとき父の部屋に行ってれば良かった、もしかしたら助かったかも知れないと後悔してる。

母からパパがしんでる…と言われたときすぐ部屋に行った。でも部屋の前で立ったまま入れなかった。遺体を見たくなかった。怖くて見れなかった。罪悪感から目を背けて、火葬されて骨になるまで一度も目を向けることができなかった。


それから毎晩、布団の中でこっそり泣いた。
ごめんなさいごめんなさいって何回も心のなかで唱えた。遺体を見なかったこと、無視したこと、一緒に出かけなかったこと、何度も謝った。

何で結婚記念日の朝に自殺なんてしたのさ、ママがどんな思いしてると思ってんの。何でなにも言わずにいなくなったの、パパ

私のせいだよ
ちゃんとパパとしゃべってれば自殺なんてしなかったよね。一緒に出かければ良かったのにね。
思い返せば、しぬちょっと前、落ち込んでるように見えたね。あの時はただ疲れてるだけだと思って話しかけなかった。話しかければ良かった、どうしたのって聞けば良かった。

しぬ前までは嫌いだったのに、今は大好きだよ。昔みたいに大好きだよ。
また遊んで欲しいよ。一緒に出かけて欲しいよ

何で今はいないのさ
授業参観、ママしかいないじゃん。今まで当たり前に来てたのにさ。
親子三人の家族が羨ましいと思うなんて、思っても見なかったよ。

パパ、ごめんね。
大好きです。ひねくれた娘でごめんなさい。


書き逃げします。ごめんなさい。失礼致しました。
291名無し:2009/04/07(火) 08:02:37
ちょwww
おまいらちゅt聞いてくれwwwww

昔とある公園で学校行きたくないが為に
さぼっていたんだwww

そしたらおばあちゃんが話しかけてきたんだよwww
とてもにこやかなばあさんだったよwwww

そのばあさんの話がすげーおもしろくてさwwwww
おれはばあさんの話が聞きたいから
毎日その公園にいったwwwwwww
おれが毎日いくと毎日ばあさんもいてwwww

んでよwwwいつものように
その公園にいったわけwwwww
だけどその日はめずらしくばあさんはこなかったわけw


次の日も次の日もまってもまってもこなくてさwwww
10日ぐらいしたときかなwww
おれはあきらめ半分でまた公園にいったわけw
したら中年のじじいが俺を発見しては
はしってきたわけwww

そしておれに報告だよwww
 

ばあさん自殺したんだってwww
聞いた瞬間俺いろいろ後悔したなwwww
ばあさんの名前とか全然きいてなかったwwww

ただばあさんは中年のおっさんに
毎日おれの話しをしていたらしいwwwww

笑顔でなwwwwwww
目から汗がだらだらdrwwwww

292名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/11(土) 06:03:03
今日は息子の二十歳の誕生日でした。
息子と私たち夫婦に血の繋がりはありません。
生まれてすぐ施設に預けられた息子を私たちで引き取り育てました。

しかし、そのことを言うことができずにに今日まで過ごしてきました。
私たちが産みの親ではないと知った時、息子はどんな思いをするだろうか。
どんな目で私たちを見るようになるだろうか。
それが怖くて今日まで言うことができませんでした。
散々話し合った末、今日この日に全てを伝えようと二人で決めました。

夕方、仕事から帰ってきた息子に二人して全てを話しました。

息子は話を聞き終えるとゆっくり顔を上げ、こんなことを言いました。

「離婚の話じゃないの?」

予想外の質問にあっけに取られながらも、離婚話じゃないと言うと笑いながら

「よかった〜w。ここ何ヶ月か二人とも暗い顔してたし、今朝なんか二人して真剣な顔で
今日は早く帰れなんて言うからてっきり離婚するのかと思って心配で一日仕事にならなかったよw」

まじめに話を聞くように言うと息子は、
「俺は父さんと母さんの子供で本当によかったと思ってる。今日まで立派に育ててくれてありがとう」


そう言うとニッコリ笑いながら缶ビールを開け、こちらに傾けました。

初めて息子と飲んだ塩気がきいていて
でもとても美味いこの酒に
私はこの先、出会うことはもう無さそうです。
293名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/11(土) 15:37:51
俺が中2のときに、おじいちゃんが天国に旅立つ瞬間を見送った。
病室のベッドサイドモニタがピーッって鳴った。
ドラマのワンシーンを見てるみたいだった。
一緒にいた母さんとかおばさんが泣いてた。
でも、俺は泣かなかった、泣けなかった。
俺にはまだ、「おじいちゃんが死んだ」っていう実感がわかなかった。


おじいちゃんと俺はあまり話したことがなかった。
俺から話しかけることもなかったし、向こうから話しかけてくることもなかった。
たまに買い物に行ってお菓子を買ってもらうぐらいだった。

あまり接することがなかった。


翌日、おじいちゃんの葬式が行われた。
俺は親族だったから参列席の一番前に座った。
会場にはモニターがあった。
そのモニターにおじいちゃんの写真が映った。
1枚、2枚、3枚…と、おじいちゃんの写真が映る。
そして、数枚目にモニターに―


小さい頃の俺と、笑ってるおじいちゃんのツーショットが映った。


見た瞬間、俺は泣いた。
感情が湧く前に泣いた。


あまり接することがなかったおじいちゃん。
でも、そこには確かに俺とおじいちゃんがいた。


数日後、父さんから一つの腕時計をもらった。
それは、おじいちゃんが使っていた腕時計だった。
さっそく俺の腕にはめてみた。
大き過ぎるじゃねえかよ、ピッタリはまらねえよ…


俺の腕が大きくなるまで、見守っててください。
大きくなっても、ずっと―

294名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/11(土) 17:47:02
俺のオキニ曲

Wild ARMs - Intro

http://jp.youtube.com/watch?v=ISSAZrUU9aU
295名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/12(日) 03:14:36
22年間生きてきて初めてあんなに好きになれた彼女と最近別れた。
2個下なんだけど凄い素直で笑顔が可愛い子だった。付き合った
時は夢みたいでめっちゃ幸せだった。けど1年経ったら俺の中で
それが当たり前になって常にくっついてくる彼女に嫌気がさしたり
ヒドい事言っても常に向こうが「ごめんね、イライラさせて…」って
謝ってくるのが普通になってきて俺バカやから別れる?って簡単に
言うようになっちゃてめっちゃ困らした。だけど彼女は泣きながら
嫌だって言ってきたけど俺が「無理」って言った瞬間深呼吸して
「分かった」って言って別れた。その後すぐにゴメンって言っても
ダメだった。俺めっちゃ子供だった。もうこんな思いしたくないし
みんなにもしてほしくない。だから付き合ってる人は彼氏、彼女が
常に傍に居て当たり前だと思わないで。大事にしてあげて幸せに
してください。
最後に2人でクリスマスに行った神戸の思い出は一生忘れません。
296名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/16(木) 18:09:46
297名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/17(金) 19:28:52
最近泣いたのは「恵里子へ」って本だな
298名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/25(土) 15:34:18
299名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/29(水) 00:03:32
300名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/09(土) 10:52:22
初めから読んだ。
4時間かかった。
…泣けた。

ティッシュが空になった。
…悲しかった。

次 タノム
301名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/09(土) 17:17:00
泣けるかわかんないけど・・・
あたし今ハタチ。
今は、看護学生をしている。
国家試験をひかえた今年、学生としての最後の年を充実させようと思っていた時。。。
持病の腰痛が悪化し、まともに歩けなくなった。
いくつもの病院を回り、手術することにした。
けど、「手術なんてしたら歩けなくなる!」という医者もいれば「もううつ手はない」という医者もいる。
でも、1つだけどの医者も共通して言われたこと、「そのうち歩けなくなる」

あたしには母親がいない。といっても2年前に病死している。
そして一人っ子。父親はいるけど、異性ということもありうまく話せない。
そんなとき、助けてくれたのがK。彼はクラスメイトであり彼氏であり同士。

でも、いろいろあって別れた。
だけど、今でも支えてくれてる。お互い大切な人であることに変わりはないから。

けれど、もうKにも頼れないよ。
人間にとって歩けないって結構大変なことだもん。
そんな重たいことKに背負わせられない。
バイバイ言わなきゃ。

でも言えない。

これから、どんどん弱っていくあたしをみせられない。
Kの負担になりたくない。

歩けなくなる自分、みてほしくない。

看護師にもなれないかもしれない。

これから先、笑える自信ない。

今、こうして文章打ちながらKにバイバイ言った。
あたし怒られてる。

もう一度Kと走り回って笑いあいたかった。。。
302名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/13(月) 18:03:46
うちは共働きで母親は海外出張で長期家をあけるなんてよくあった。
通ってる中学校はお弁当で父親がお弁当をよく作ってくれた。
色合いも全体的に茶色いしおかずが少なくてスカスカの弁当。
友達と皆で食べるのにそんな弁当が嫌で嫌でしょうがなかった。
恥ずかしくていつも隠して食べた。

でも長い事そうしてると友達に怪しまれる。
だからわざと弁当を忘れた。
何回も。
たぶんそんな気持ちに父親も気づいたんだと思う。
段々お弁当じゃなくてお金を渡されて自分で買いなさい。って言われた。

皆の前でヘタクソな弁当広げなくていいと思うと毎日気が楽だった。

だけどある日起きたらお弁当が置いてあった。
父親は寝てる。
お金もらわないと昼は買えない。
でも昨日夜遅くまでなんかやってたし悪いなと思って弁当を鞄に入れた。

昼になって憂鬱になりながら弁当をあけた。

そこにはちらし寿司が入ってた。
ピンクとか黄色でめっちゃかわいい弁当。
食べながら黒板ボーッ見ててわかった。
そーだ。今日は3月3日だ。
いつもおひな様を母親が出してくれるのに今年はいないから出せない。
それで私が文句言ったから夜中に作ってくれたんだ。
一生懸命使ったんだと思う。
卵切ったりピンクの桜田麩かざったり。

もうね。バカかと。アホかと。

今日も忘れたフリしてったらどうしてたんだよ。

マジで泣きそうになった。
でも2年前に父親が死ぬまでこんな話忘れてた。

ありがとうっていっときゃよかった。
あとごめんねも。
303名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/03(月) 13:34:57
>>302
『もうね、バカかと。アホかと。』

あれ、この言い方、You-Tubeの動画で似たようなのがあったけど。
304名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/04(火) 11:47:38
今からちょうど13年前の夏休みの話。

母が腫瘍があって県立病院(やったと思う)に入院してた。
当時中3の俺は部活の後、毎日毎日見舞いに行っていた。
母と同じ部屋には俺より1つ上の女子の紗希ちゃん(仮名)が居た。俺の母といつも話していて、母と仲が良い。
俺もよく話した。将来の夢とかも語り合った。紗希ちゃんは第一志望校の高校に行けたのに、ずっと入院してると言っていた。

ある日、母の腫瘍を取り除く手術があった。母は俺の心配を気遣ってか、
「お金あげるけん、何か楽しんできよ」
と、一万円札をくれた。貧乏なので、俺は嬉しくて何に使おうか迷った。
さすがに一人で楽しむのもつまらないので、紗希ちゃんと一緒に行こうと誘った。
でも、入院中の紗希ちゃんを連れて行くのも・・・・と思ったが、紗希ちゃんは医者に頼んで許可を貰った。
305名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/04(火) 11:57:05
紗希ちゃんは久々に外に出たみたいで喜んでいた。俺も何か嬉しかった。
でも、長い間運動をしていないので、少し歩くとすぐ疲れるので、休みながら一緒に町を歩いた。
まず先に行ったのは映画館。でも観たいものが無く、そのまま昼食。

昼食が終わり、遊園地(そんなに大きくない)に行くことにした。
電車に乗って数時間、既に午後4時前だったが、思いっきり遊んだ。
午後7時、さすがに帰らないと警察に補導されるんじゃないかと思ったバカ真面目な俺は、
急いで電車に乗り、帰った。紗希ちゃんは疲れたようで、電車で寝ていた。

午後9時半過ぎ(だったと思う)、遅い夕食をローソンで買って、県立病院近くの公園で食べた。
灯りもあったのでそんなに暗くはなかったが、紗希ちゃんがこけたら危ないので手をつないで歩いた。
306名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/04(火) 12:02:44
紗希「OO君、今日はありがとね」
俺 「う、うん。楽しかった?」
紗希「うん、楽しかったよ」
おにぎりを食べながら、こういうような会話が続いた。20分程で食べ終わり、ベンチでボーッと
していた。母の手術は午後2時から始まってるから、既に終わってるだろう。
俺と紗希ちゃんはそろそろ帰ろうと、立ち上がった。生まれて初めてキスもした(好きな人と)。

病室に帰ると、父と母が笑いながら話していた。紗希ちゃんはベッドに入るなり寝てしまった。
俺は今日あったことを父と母に話した。11時ぐらいまで。あまりに遅い帰りに、ちょっと怒られた俺。

そしてお盆。無事に母は退院することになった。
307名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/04(火) 12:10:08
ちょっとトイレに行こうと、母が退院準備をしてる最中に抜け出した。
俺はナースステーションで看護師に呼び止められた。
看護師「OO君、紗希ちゃんと遊んでくれたっち?ありがとうね〜・・」
俺 「あ、はい。楽しんでくれて何よりですよ」
看護師「キスもしたんやろ??紗希ちゃん、嬉しそうやったわぁ・・・」
俺 「(苦笑)」
紗希ちゃんはそんな事まで言ったのか、と恥ずかしい気持ちになった。
その看護師から聞いたのだが、紗希ちゃんは中学校時代、イジメにあっていて、彼氏も居なかったそうだ。
でも、俺はそういう紗希ちゃんを好きだった。
看護師「OO君、ホント、紗希ちゃん、嬉しがってたんよ・・・・」
突然、看護師が泣き始めた。いい歳して何泣いてるんだ、と思いつつオドオドする俺。
看護師「紗希ちゃんね、持病の発作で今朝、亡くなったんよ。・・・え、知らんかったん?」
突然だった。紗希ちゃんからは"ちょっと長い検査入院だから病気で入院やないんよ"と言われてたからだ。

紗希ちゃんがどういうつもりで俺に嘘をついてまで、病気を隠したのかは俺には分からんかった。終わり。
308名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/06(木) 20:01:46
俺が13、14頃の話。
その日の夜いつも通り俺は塾から帰って2階の自分の部屋に入り、ボーっとテレビを見ていた。
しばらくすると一階のリビングで電話が鳴った。なにやら騒がしい、母親の焦ったような声が聞こえた。
そして母親は家を出て行った、どうやら祖父の家に行ったらしい。でも気にせず部屋でテレビを見続けていたら、妹が大急ぎで俺の部屋に入ってきて「じいちゃんが倒れたって!」
と大声で叫んだ。俺も妹と共に祖父の家に向った。そして祖父の家では祖母が「あんた!あんた!」と祖父の体を揺すっていた。目が開いたまま祖父は倒れており、母親も「脈が動いていない!」と言っていた。
俺の隣に居た妹は顔を真っ赤にし、泣き崩れた。
祖父は元々肝臓が弱く、今まで何回も薬を飲んでいた、だから俺も正直いってもう近い内に逝くかもしれないと思っていた。
母親が妹に父親に電話するように頼み妹はその場で父親に電話した。そして救急車を呼んで祖父を病院に運んだ。俺たちもその救急車別の車に乗り着いていった。
そして病院に着き、医師から心臓が止まって3分以上経過していたのでもう助からない、そして植物人間状態であると言われた。
そして祖父はそのままの状態で病院に寝かせられた。その日から毎日俺は父親と一緒に祖父の様子を見に行き病院に通った。
病院に通った初日、祖父の姿を見た瞬間目から涙が溢れた。泣かないと決めていたのに結局泣いてしまった。
そうした状況が過ぎてそれから一週間すぎたある日、学校終わりに学年主任に急に呼び出された。
そして「ついて来い」と言われついて行ったら校門のそばで両親と妹が車に乗って待っていた。
話を聞くと病院で祖父の様子が急変したらしい。その日は部活を休み、大急ぎで病院に向った。
そして祖父はベッドに倒れたまま、呼吸をしていなかった。俺たちが病院に着いた5分前に逝ったらしい。
母親と祖母が一気に泣き崩れた。そしてそこでいきなり母親は俺と妹にこう話した。
「じいちゃんは本当は私の父親じゃないんよ。」
初めて知ったので驚いたがその時は俺は黙り込んでいた。ただずーっと祖父を見詰めていた。
そして家に帰った後、葬式はいつにするかという話をしていたときに、生前祖父は
「皆に迷惑かけたくないから葬式はなくてもいい。」「やるなら小さい規模でこっそりとやってくれ。」
と口にしていたらしい。でも家族全員で話し合い葬式は行わることとなった。
そして葬式時の身内や知り合い全員で祖父の遺体に花を添えるときに俺の目から涙のしずくが一つ零れ落ちた。
だけど泣く所を見られるのは恥ずかしかったのですぐに拭き取った。でもどんどん出てくる、異常なほど零れ落ちてくる。
そして遺体を焼く時に初めて人の骨を見た。その瞬間「もういないんだな。」と思った。

309名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/07(金) 09:31:23
肝臓が弱くて心臓が止まった・・・?
医学的におかしいんじゃ?
310名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/08(土) 18:34:59
俺は高校にはいってすぐ父親を亡くした。
俺は一人っ子で母と二人の生活になった。
母は俺を養うために毎日働いていた。
俺もそんな母の姿をみていて、勉強を本気になってがんばっていた。
あまり人と話すことが得意ではなかった俺は休み時間も一人で勉強するような
人間であった。
おかげで成績の面ではトップになることもしばしばあった。
そんな中で俺はイジメにあうようになってしまったのだ。
学校でつかっていたルーズリーフが消え、靴に水をいれられていたときもあった。
毎日学校にいくのが怖かった。怖いからこそだれにも先生にもいえなかった。
母にもこれ以上苦労させるなんてできずいえなかった。
そのような中で自分は何度も学校を休みたくなった。だが母に不安をもたせるのは
嫌だったからずっと耐えて母のまえではつらそうな顔はしないようにしていた。
そんなある日、母と夕食を食べている時だった。
母は俺に、「無理しないでね。頼ってくれていいんだよ。」と言った。
俺は、自然と涙が流れていた。それもいままでにないくらい。
母の苦労を知っていたから、申し訳なくて涙がとまらなかった。
泣いていてはっきりとしゃべれなかったが「ありがとう」と何回も言った。
たしかにイジメはつらかった。自分を変えるなんてできなかった。
でも一人でも自分のことを思ってくれる人がいたから今こうして生きていられる
のだと思う。
「本当にありがとう」
311名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/15(土) 23:10:42
自分はそんなに自慢できないしそんな泣ける話ではないがとりあえず最近
泣いた事を一つ。
学生の頃から頭もよくないし、運動もできない、容姿もよくないって人間
だった。
そのくせなぜか正義のヒーローのような人間に憧れてた。
そのため面倒ごと自分から引き受けたり早くきて掃除してたりなんかした。
けど誰も認めてくれたりするわけでもないし感謝されるでもない現実に嫌気
がさしてきた。
それでを社会人になっても頑張って続けてた。
ある日会社のサークルので怪我をしてしまい手術する事になった。
その時両親と高校の先輩が来てくれた。
手術が終わって朦朧とする意識の中両親と先輩の話を聞いて俺の今までまじめ
に生きてきた事や誰にも言われずに自分からいい事をしてたりした事を両親に
話していたことが聞こえた。最後に普通の人がなかなか出来ない事ができるのは
精神的に強い事だと先輩が両親に言ってくれて初めて自分の生き方は間違ってな
かったと思えた。
312煩悩大魔神:2009/08/16(日) 14:42:07
俺の兄は15年前にその当時はそこそこ可愛かった
彼女と結婚した。しかし結婚してすぐにこずかいは
2万円になり、一年後娘が生まれてからは一万円に
なった。兄は朝の9時から働き、帰宅するのは夜の
11時ぐらい。そんだけ働いていたら独身なら月幾ら
のこずかいが使えるだろう?唯一の救いだった娘も
最近は露骨に兄を汚物扱いするようになり、あまり
の酷さに一度ソープを奢ったら涙目でお前は独身の
ままでいろよと呟いた。俺の独身は過去の半年の同棲
生活の経験と地獄を目の当たりに見せてくれる兄の
犠牲の上に成り立っている。そろそろまた兄にソープ
を奢ろうかな。
313名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/16(日) 16:53:41
なにが悲しいってこんなスレで不幸自慢
思い出で生きてるんだな
314名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/30(水) 12:37:34
姉ちゃんへ

姉ちゃんの結婚が決まった夜
おふくろが死んでも涙こぼさなかった親父が
仏壇の前で号泣してたんだぜ?

弁護士になるのが夢で、猛勉強して進学校に入ったのに
卒業して就職しちまったよな
俺と弟達の学費出してくれていたんだろ?
いつもとぼけるけどさー

美人なのに彼氏も作らず、お洒落もせず
足の不自由な親父と俺達弟3人の面倒見てくれたよな
いつも、どんな時も笑顔で、おふくろの代わりを真剣に
してくれていたよな

俺が司法試験に受かった時
大泣きして顔くしゃくしゃにして喜んでくれたよな
あんなに泣いた姉ちゃんを見たの俺、初めてだったよ

これから親父と弟達の事は俺にまかせてくれ
姉ちゃんの代わりは出来ねーけどさ


姉ちゃん、絶対に絶対に幸せになれよ


今まで本当にありがとうございました



315名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/30(水) 14:49:46
こんなんで泣けるかどうかわからんけど・・・

ウチの兄貴が去年がんで死んだんだ。
家に帰って荷物の整理をしていたら病室で兄貴が使ってた
ノートパソコンがあったから何気なしに立ち上げてみた。
そしたら兄貴のアカウントにはパスがついて無かった。
家のパソコンの兄貴のアカウントにはついてあるのにおかしいなって思ったら
デスクトップの画面にある動画があった。
再生してみると、俺たち家族や友人に向けた今までの感謝と別れのメッセージが
つづられていた、遺書のような動画だった。
5分くらいの動画だったけど俺は最後の方は涙でうるんで見られなかった。
そして動画をコピーして何台かのハードディスクに入れた。
兄貴の想いが消えることの無いように。
316名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/30(水) 21:56:35
最近こんなことで泣いたw

俺には結婚して6年経つ妻がいるのよ。子供も5歳の双子が居る
子供産まれてからは2人で話す事も少なくなったし、とりあえず俺は仕事で精一杯で構ってる余裕無かったんだ。
で、平日で偶然仕事休みで家に居たのよ。
子供は保育園でいないし2人きり。
最近めっきり話す事無くなったし俺は話しかけずらくてずっと沈黙の空間だったんだ。
そしたら妻の方から(仕事忙しい?)って聞いてきたんだ
いきなり何だ?と思いながらも(まぁ今不景気だし大変だよ)と答えた。
そしたら妻の方が何かの箱を渡してきた。俺は渡された箱を開けた。その中身は俺がずっと欲しかった腕時計だ
(あなたこの前誕生日なんて忘れてたでしょ?いつ渡そうかと思ったけど仕事忙しそうだったから言い出せなくて・・・)
(腕時計欲しいって言ってたよね?安物だけどゴメンね)
俺は嬉しくて涙が溢れたwwその日は家でゴロゴロしてようと思ったが2人で久しぶりにデートしたwまぁ保育園にお迎えに行かなきゃいけないから時間は少なかったけどなw
これからも守っていきたいと思った。出来すぎな話だし俺しか泣けない話かなw
長文スマソ
317名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/26(木) 16:28:05
318名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/09(水) 22:33:32
なけるはなし
319名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/09(水) 22:43:48
いらん
320名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/10(木) 08:56:23
321名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/28(月) 23:16:39
322名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/31(木) 19:09:16
自分が、天台宗の行院(僧侶育成道場みたいの)で修行したときの話なんだが。
個人的に泣けただけなので、流してくれて良い。

実家が寺。両親は在家で祖父がやってた。自分は僧侶なんてやりたくないから大正大学には行かず、職業も公務員を選んだ。
でも、自分が継がなかったら代々の寺が無くなってしまうし、帰る田舎もなくなってしまうから得度だけは済ませた。
30越えて、ようやくさ。そしたら、祖父が死んだのさ。
あっけなくさ。
ふざけるなって感じだった。何一つ知らないのに何が出来る?と思った。仕方なく、仕事を辞めて行院に行った。
着物の着方から、一から順番に教えてくれる時期だからってことで秋に。
でも。行院の門をくぐった瞬間から(誇張でなく)怒号の嵐。着物の違いもよく分からないのに。
行院って二ヶ月あるんだけど、初日から怒鳴られ、殴られ、蹴り落とされ、引きずり出され、胸ぐら捕まれて一時間近く怒鳴られ、机の引き出しを投げ付けられ、食器が投げられ、兎に角ずっと目の敵にされ続けた。
同じようにやられ続けた奴は、潰れて下山した。もう、どうしたらいいのか分からなかった。同期の人間はみんな、住職だったり子弟だったりで、声明だろうと作法や読経だろうと何でも出来た。
最初の頃は教えてくれたよ、でも、どんなに自分が出来るようになっても、ずっと攻撃され続けていたから、愛想が尽きたんだろうね。
その内、誰とも会話しなくなった。当然、何も上達しない。起床して最初に思うのが『死にたい・逃げたい』だった。
『殺したい・燃やしたい』とも思ったよ、第二次仁和寺事件起こしてやろうかと思って護摩木が捨ててある場所に、燈籠用の油をまき散らしたこともあった。
線香に火を付けてそこに投げ込んだこともあった(火は着かなかったけど)。
今思えばバカな真似なんだけど、その時はもう、何か事件が起きれば修行もうやむやになって終了するんじゃないかって思ってた。
でも、何も起きなかった。起こそうとしても、何も起きない。あるのは、毎日の暴力と暴言の嵐。
学校なら、家に帰ればいいけど、ここは逃げられない。四六時中、攻撃の的。
下山してしまったら、期待してくれた人に迷惑がかかると思ってた。だから、ずっと『死にたい』が強かった。
でも、死んでしまったら迷惑どころか完全な敗北だと思った。だから、死なず、逃げず、出来ない我慢を続けていた。
それでも、それでも、ついに耐えきれなくなって下山を申し出ようとした。
『もう耐えられない、やめる!』て叫んだ。
そしたらさ、あんまり会話したことない同期が『夜まで待ってみたら?』て言ったのさ。
『夜まで待って、それでも我慢できなかったら止めないから』そう言ってくれた。
夜まで待てば、だってさ。凄く単純な言葉、でも重かった。でも、変な言い方だけど気が楽になった。
そして、我慢した。何を言われようと、殴られようと、どれだけ迷惑をかけようと。
死ぬ気で我慢した。夜まで我慢、それだけ考えて一日を過ごしていた。
そうして、二ヶ月耐えきった。下山して体重計に乗ったら、12キロ減ってた。アスファルトの上をまともに歩けないくらいに衰弱してた。でも、死ななくて良かったと考えたよホントに。
その同期とは、ケーキを食べに行く約束をしたきり、連絡が途絶えている。
いつになるか分からないが、約束は果たしたい。

泣けないでしょう?でも、自分は泣けたのさ。
そして、夜まで我慢、は今でも心に留めてる。
323名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/03(日) 20:07:34

どっかのオリオン座流星群実況スレに親子(?)の
ほのぼのするようなのがあったな。
甘いコーヒーがどうとか言うの。

独身の俺には泣けた。
324名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/27(水) 03:42:23
昨日珍しく俺は母ちゃんを外食に誘った。
行き先は昔からよく行く馴染みのラーメン屋だった。
俺は味噌大盛り、母ちゃんは味噌並み盛りを頼んだ。
「昔からここ美味しいのよね」って、柄にもなく顔にシワよせて笑ってたんだ。

ラーメンが出来上がると、俺も母ちゃんも夢中で麺をすすってた。
あんまりにも母ちゃんがニコニコしながら食べてるもんだから、
俺もつられて笑っちまったよ。

しばらく経って、ラーメンを食い終わった俺はふと母ちゃんの方を見たんだ。
ラーメンの器に浮かぶチャーシューが一枚、二枚、三枚・・。そのチャーシューを捲ると麺がまだ沢山余ってた。
母ちゃんは俺の方を申し訳なさそうに見て、「ごめんね、母ちゃんもう年だから。ごめんね」と繰り返してた。
「んなもんしゃーねーべ」と言うと、俺は母ちゃんの残したラーメンをすすった。
そういやガキの頃、よく無理して大盛り頼んで、結局食べきれなくて母ちゃんに食ってもらってたっけ。
いつの間にか立場も逆転。あんなに若かった母ちゃんの顔も今じゃシワだらけで、背丈も頭一個分違う。
そのシワの数程今まで散々迷惑掛けたんだろうなって思うと、悔しさと不甲斐なさで涙が出てくる。
母ちゃん、こんな俺を今まで育ててくれてありがとう。
325ひろ:2010/01/29(金) 10:04:59
泣けるかわからんけど昔のはなし。


中学入るころにはぐれてた俺。

学校行かんと先輩と悪さばっかりしてた。

学校にはツレってよべれる奴がいなかった。

次第に他中とツルむようになった。
ある日他中とで、たまり場おったら他中の奴の知り合いで健太っていう俺とおない年の結構悪さで名前の通ったやつがおった。

若さからか目があっただけで俺らは喧嘩になった。

お互いぼこぼこになった。


俺は喧嘩に負けた。

何日かして仕返しにいった。


次は俺が勝った。


何回かやりあってるうちに
いつのまにか一緒につるんでた。

健太も学校がつまらないらしく
俺たちは暇をもてあそんだ。

女ナンパにいったり
都会に行って喧嘩したり
原付乗り回したり

ばかばっかした。

ある日先輩に族に入らないかと
誘われた。


俺と健太は族に入った。
族と言っても地元の小さいチーム。

原付じゃ格好つかないとなり
先輩が旧車のスパーダを
卸してくれた。


これで集会に参加できると意気込んだ。


だが俺と健太は
シンナーに手を出すように
なっていた。

薬物厳禁のチームだったが
家でしていたから
先輩にはばれなかった。
326ひろ:2010/01/29(金) 10:15:33
調子に乗っていた


ラリったあと単車に乗ると
気持ちがよくてやめれなかった


そんな毎日で気がつけば
中2の秋になっていた。


俺と健太は相変わらず
らりっていた。
葉っぱをすっていた。


タバコを吸おうと思ったが
どうやら切らしていて
外は寒いし面倒くさいから
健太に

スパーダ貸したるから
タバコと酒買ってきて
とお願いした。

健太は単車もないし
運転したかったのか
ラリってたのか
こころよく了解した。


健太にキーを渡し俺は
パワプロ2000年のサクセスを
した。

健太は
下手くそなコールで
走っていった。


気がついたら30分たっていた

なかなか帰ってこなかった


健太のやつ
単車で流してるな
とか思い俺は
チャンプロードを読んでいた

なかなか帰ってこず
ポリに捕まったのかと心配になりだしたころ


「ひろちゃん。健太が…健太が…」

どしたん?おばちゃん


健太のおかんがなんか焦っていた
327ひろ:2010/01/29(金) 10:22:17
ポリにつかまったん?


って聞いたらおばちゃん黙った

あいつ無免許で捕まりやがった

めんどくせーとか

思ったら

おばちゃんは


事故った…
今病院運ばれてるから
ついてきて。



って言われておばちゃんの車に乗った



ばかたれ

俺が単車貸したからか
ラリってたからか


とにかく罪悪感でいっぱいだった
車内は沈黙だった

おばちゃんになんて言えばいいかわからんかった。


ただ泣くのはこらえた


するとおばちゃんが口を開いた


健太なひろちゃんと遊んでから明るくなったんよ。最近じゃ高校行くねんとか言い出してな。



俺は泣きながら吠えた


まだ死んでないねんから
そんなん言わんでえーやん



おばちゃんは黙った。



病院について健太をみた
328ひろ:2010/01/29(金) 10:43:47
健太は目つぶってたわ
こっからあんま覚えてない
でも健太な亡くなったんや

おばちゃんに責められる思ったら俺なんかありがとうって言われたわ

健太のつけてた指輪わしの指にはめた。ちょっと大きかった
でも今でもついとる。

ポリにも捕まったわ 薬物で。
でもすぐ出てこれた。

先輩にヤキいれられる思ったら なんもなかったわ
追悼式した。皆で走った。
族は解散になった。 単車も降りた。 薬もやめた。 学校も通うことにした。


頭悪いけど健太が高校行きたい言うとったから俺必死に勉強した。
私立の一番頭悪いとこしかうけれんかったけど高校うかった。

高校からまじめにするんや。

そういや 健太と約束したんや

いつか女できて18なったら ちゃんと免許とって 一緒に車で将軍塚の夜景いこって

俺、いまの女といってきたで。
健太の分まで生きるから
死んだらまた酒飲もうな。
毎年命日墓参りしてるからな。
初めて俺の女連れていったら女も泣いてくれた

俺まだまだワルガキらしいけど もう薬も喧嘩もやめたから。

俺ももう22歳や。
ほな死んだらまた会おうや。

329名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/29(金) 23:29:41
>>322
やっぱり坊主、教師、弁護士、ホテルマンほど醜い職業はないと分かりました
330名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/30(土) 12:15:25
693 名前:名無しの心子知らず [2008/12/26(金) 13:36:27 ID:ZLuBX3wZ]
6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて窓際に置いてお
いたから、早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてあった。

「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」

夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって少しメソメソしてしちゃったよw

昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と「ガンがなおるおくすり」と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。
朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げてた。
早速朝食を食べる夫の元にどたばたと行って「ねえ! サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」っていって、夫に薬を飲ませた。
夫が「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」と言うと娘が、
「ああ! 良かった〜。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、
動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね〜」……っていうと夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。
私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えた。
夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。
その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が
「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」と言ったので、つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。
331名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/15(月) 09:10:53
自殺でわないが今から7年数年前の話し
暴走族でふらつきの俺が、付きあったていた彼女に、子供が出来ました。
子供が出来た事をきっかけに俺も真面目に鳶職の仕事に就き
これから3人で子供の将来の話しや希望で幸せがいっぱいでした
子供が3才の頃に、女房が原付バイクで買い物に行った帰りに
ひき逃げ事件にあい、死んでしまいました
数ヶ月経ち犯人が逮捕されました
犯人は、暴力団組員で車は、盗難車のナンバー偽造との事
そして判決は、懲役5年です
俺は、 法律の甘さ 役所仕事の人事裁判 そして自分の無力さを 悔しくて、悲しくて
何時も何時も仇討ちを考え、来る日も来る日も女房の名前を何十回も何百回も口ずさみ
そして犯人を殺し自分も自殺も考えてました
ある日 実家に預けている我子にあいに行くと、パパ ママ死んだんでしょ!て私に聞いてきました
涙を堪え我子を見つめていると、我が子の可愛さ無邪気さで俺も立ち直らなきゃ
それから、無我夢中で働き 子育てに熱中し
子供に釣りや旅行とキャチボールなど、自分には、無かった思い出をいっぱい
いっぱいあげるからね
もう二度とこのような事件がおきない事を願います
生きたくても生きられない無念の死
人生80年です、頑張れば良い事もあります
幸せは、何もしない人には来ない物だと私は思います
みなさん!色々悩み事や絶望感があると思いますが
前向きに、何事も膂力し希望をもって負けずに頑張って下さいね。

332名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/15(月) 23:00:46
日本語でおk
333名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 00:54:16
361 名前:水先案名無い人  投稿日:03/07/08(火) 15:15 ID:waJ31Wmx
4歳になる娘が、字を教えてほしいといってきたので、
どうせすぐ飽きるだろうと思いつつも、毎晩教えていた。
ある日、娘の通っている保育園の先生から電話があった。
「○○ちゃんから、神様に手紙を届けてほしいって言われたんです」
こっそりと中を読んでみたら、
「いいこにするので、ぱぱをかえしてください。おねがいします」
と書いてあったそうだ。
旦那は去年、交通事故で他界した。
字を覚えたかったのは、神様に手紙を書くためだったんだ・・・
受話器を持ったまま、私も先生も泣いてしまった。
「もう少ししたら、パパ戻って来るんだよ〜」
最近、娘が明るい声を出す意味がこれでやっとつながった。
娘の心と、写真にしか残っていない旦那を思って涙が止まらない。
334名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 01:03:48
97 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 00:41:23 ID:+CFygSOL
どこにかいたらいいかわからんからちょっと書かせてくれ
昨日4時22分に母が亡くなった
風邪一つ引かない元気な母だった。

僕が幼稚園に入るころもう父はいなかった。
借金作って逃げたらしい。
朝は4時に起きて俺らの弁当作って6時から17時まで弁当屋でパート。
帰ってきたら晩飯作ってすぐに出て行って11時までパチンコ屋で掃除のバイト。
休むのは月に3回あればいいほう。
そうやって僕と妹は育てられた。

反抗期なんてほぼ無かった。
あんなに頑張る母親を見て反抗なんてできるはず無かった。


いや・・・一度だけあった。

クリスマスの2,3日前ゲームボーイが欲しいとねだった。
友達がみんなゲームを持っていたのに自分だけ持ってないと苛められると。
何故あんな嘘をついたのだろう・・・。

母は「ごめんね・・・」と顔をくしゃくしゃにして泣いた。
僕も何故か悲しくなって家族3人でボロボロ泣いた。
その日は3人とも同じ布団で抱き合って寝た。

クリスマスの日の夕食はおでんとケーキだった。
母親は子供のようにはしゃぎ、歌い、最後に「はい」とプレゼントを渡した。
古いゲームソフトだけを買ってきた。
「これだけじゃできないんだよ」と言おうとしたけどうれしそうな母の顔を見ていえなかった。
335名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 01:11:31
98 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 00:42:49 ID:+CFygSOL
あれから20年、兄妹そろって大学まで出してくれた。

俺も妹ももう就職したしこれからは楽させてあげるから仕事やめなよ。っていったのに。
働いてなきゃボケるって・・・そんな年じゃないだろう。
どっか3人で旅行にいこうよっていってたのに。
妹の結婚式みるまでは死ねないっていってたのに。

なんで末期癌になるまで働くんだよ・・・。
何度も病院いこうって言ったじゃないか。
先生もいってた「あんなに我慢強い人見たこと無い」って。
看護婦さんに「迷惑かけてごめんね」ばっかり言ってたんだってな。
いっつも人のことばっかり気にして・・・。

震える手で書いた枕もとの手紙・・・読んだよ

「耕ちゃんへ
 小さいころはいつもお手伝いありがとう
 あなたはわがままをひとつも言わないやさしい子でした
 妹の面倒も沢山見てくれてありがとう
 あなたが生まれてきてくれてほんとうにうれしかったよ
 あなたのお嫁さんを見たかった

 梓へ
 女の子なのにおしゃれをさせてあげられなくてごめんね
 いつも帰ったら「ぎゅっとして」といってくるあなたに何度私は救われたかわかりません
 あなたはあなたを愛する人を見つけなさい
 そしてその人のために生きなさい
336名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/16(火) 01:17:39
99 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2010/01/29(金) 00:44:05 ID:+CFygSOL
死は誰にでも訪れるものです。
 悲しまないで
 あなたがもし辛いことがあったらいつでもあなたの枕元に立ちますよ なんてね

 あなた達の母親で良かった
 また生まれ変わってもあなた達の母親でありたい。
 それが私の唯一つの願いです
 体に気をつけて。
 寒いからあたたかかくして。
 それから・・・それから・・・きりが無いからやめとくね
 たくさんたくさんありがとう」

お母さん・・・手紙涙でにじんでボロボロだったよ。
だから紙を買ってきてくれっていってたんだね。

お母さん・・・ありがとう・・・ありがとう・・・ありがとう・・・

まだ遊んでるよ。
プレゼントしてくれたスーパーマリオランド
337ウッドストック:2010/02/16(火) 15:51:57
僕の親父の話をさせて下さい。

僕は親父は本当に無口な人間でした。
近所付き合いも下手でマジで人間としておかしいんじゃないかと思うくらい静かな人間でした。
僕が物心ついた時から親父は仕事人間で
親父と母ちゃん、僕と弟の四人で出掛けた事は一回しかありません。
客観的に見たらものすごいダメな父親なんでしょうけど
今思えばこれほどまでに男としてカッコイイ親父は日本中どこ探してもいないんじゃないだろうかと思っています。

僕は小さい頃から野球好きで小学生の時も地元のクラブに入ってました。
弟とはよくキャッチボールをやったんですが親父とはやった覚えがありません。
母親は保母さんをやってて昼は家にはいません。

親父は夜勤だったので昼は家で寝てます。なので友達を家に呼ぶ事は許されませんでした。
僕はそんな親父が本当に本当に大嫌いで正直な話、殺してやりたいと思った事が何度もありました。
弟も親父の事は嫌いでした。なのでよく2人で小さい頃親父の部屋をメチャメチャにしたりと
くだらない反抗をしていました。でも親父に怒られた事は一度もありません。
練習試合の時は母は仕事とかで来れない事が多かったのですが来れる時は必ず来てくれました。
しかし親父は一度も来てくれた事はありませんでした。

僕が覚えてる中で一回だけ親父に叱られた事があります。
それは小5の時の林間学校の出発当日。

僕は冗談半分で夜勤から帰って来た親父に『俺このまま帰って来ないかもしれねーよ』と言いました。
すると親父の目つきが一気に変わり『そういう事は言っちゃだめなんだ』と静かに、しかしものすごい重い言い方で言われました。
笑えるかもしれませんが親父に叱られたのは後にも先にもこの一回だけだったと思います。






338ウッドストック:2010/02/16(火) 16:05:53
2年前、2008年の11月4日の朝

僕は高校3年になってました。
弟は三つ下なので中3。まだ起きてません。
普段通り朝6時に起きて、朝飯食って歯磨いてさぁ学校へ行こうと玄関へ向かいました。
母ちゃんに行ってきますと言うと母ちゃんも気をつけなさいよ!!と返してくれます。
普段通りの朝でした。

扉を閉め鍵をかけ、エレベーターへ向かいます。
エレベーターが六階まで上がって来るのを待っていました。
すると大きな声で『幸正!!!!!!』と僕の名前を呼ぶ声がしました。
僕は慌てて家の方を見ました。すると母ちゃんの顔が凍りついたようにかたまっていました。

『お父さん事故・・・・・』と呟くと母ちゃんは扉を開けたまま玄関に倒れこんでしまいました。
僕は慌てて玄関へ向かい母ちゃんを抱き抱えました。
『病院・・・行かないと・・・お父さん・・・』と言いながら母ちゃんはものすごい勢いで泣き崩れました。

弟も部屋から飛び起きてきて事の重大さに気付き玄関へ走ってきました。
僕ら3人は病院へ向かおうとしたのですが
母ちゃんがとても運転出来る状態では無かったのでタクシーを呼んで行きました。

病院についたらもう何もかも終わってました。
ドラマで見た事のある光景でした。本当に信じられませんでした。
親父の顔には白い布。白い布団を被され頭のとこには線香。

母ちゃんは何が何なのかわからず泣き喚いていました。
ただ僕は涙が出ませんでした。その時は正直悲しくなかったんです。
弟もそうみたいでした。僕は2人は顔を見合わせたんですが
どうしたらいいのかわからない状況でした。

一ヶ月半がたちました
お通夜もお葬式も終わってもう普段の生活に戻っていました。
人間の死ってあっけないなぁと思っていました。
死んだ人はどこに行くんだろうとかそんな変な事を考えていました。

世間はもう年越しシーズンで賑わっています。
うちも3人で大掃除をする事になりました。
母は親父の部屋は見たくないという事だったので僕と弟が親父の部屋と自分たちの部屋を
担当する事になりました。
親父の部屋はまだ誰か暮らしてる感がプンプンしてて
お化けが出そうだなとか弟と2人で言い合ってました。


















339ウッドストック:2010/02/16(火) 16:24:33
弟が親父の部屋のロフトの掃除を始めました。
僕は親父の布団を片付け、いらない物をゴミ袋に捨てていました。

10分か15分くらい経ったでしょうか。
スースー何かを吸う様な変な音が部屋に響いていました。
何だろうと思い耳を澄ましてみるとそれはロフトから聴こえてきました。

ロフトへ行ってみると弟がいました。
弟は背中を丸めながら泣いてました。
泣くというかもう死にそうなくらい涙を零してうずくまっていました。
『どしたよ?』と言いながら僕は弟の目の前にあった何かを見てみました。

『会社の物なので絶対に触るな』と書かれた紙が一枚貼ってある金庫でした。

開けようにも数字を合わせてあける鍵なので開かないだろと思っていたらもうすでに開いてました。

『お前開けたの?』と弟に言うと 『あぁ』と泣きながらうなずきました。

数字を見てみると『1004』。なんの数字だろうと思って弟に『お前なんで分かったの?』と聞きました
すると『兄ちゃんと俺の誕生日の日にち』と弟は小さな声で呟きました。

僕の誕生日は6月の10日。弟の誕生日は6月の4日。
親父はどうやらちゃんと俺らの誕生日を覚えてたんだなぁと思い感心しました。

箱の中を見てみました。
まず出てきた物
『幸正 2年 5月22日』 『幸正 2年 6月16日』 
このように僕の名前と○年 そして月日が書かれたテープが出てきました。
3分くらい考えて僕はあっ!!と思いました。
これ僕のクラブチームの練習試合の日にちでした。
だって一番最後に『幸正 6年 8月1日 頑張ったな幸正』と書かれたテープがあったんです。
僕が少年野球辞めた日です。しかもこの日は練習試合でもなんでもなくただの練習です。
僕は自分でも分かりました。ものすごい勢いで泣いてました。

弟の表彰状やら、誕生日にあげたフリスクケース、色々出て来ました。

2人でロフトで泣きました。恥ずかしがり屋な親父らしいなと。









340ウッドストック:2010/02/16(火) 16:25:42
母親にそれを言うと母親も泣き崩れました。
そして急に少しまじめま顔になり僕らに話す事があると言って来ました。


『お父さんはねぇ・・・・・・本当のお父さんじゃなかったのよ』と一言呟きました。


本当の父親は弟が母ちゃんのお腹にいた時に蒸発したらしいです。

親父はその時の母ちゃんのバイト先の先輩。

僕が2歳の時に父親は本当の父親でなくなってたんです。


だから何だと思います。
無口だったんでなくて本当は親父は僕たちと話したかったんじゃないでしょうか。
あぁもうこれ書いててもちょっと涙出てきてます。

なんでもっと会話しなかったんだろうとか
そんな事いまさら言い出してもキリがないです。
だから一言だけ親父に言いたいです。本当にごめんなさいとかありがとうとか
そんなんじゃなくて 一言だけ


  
   『あなたは何が何だろうと僕らの父親です』



世界一カッコイイ男に育てられた僕ら兄弟は幸せ者です。
341名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 21:43:59
俺が小学3年のとき、祖母をなくした。
オヤジとは前から離婚していて、母ちゃんに育てられていた。
自分たちはもうずっと貧乏で、中卒してアルバイトでなんとか食べていられた。

ある日、母ちゃんがPCを買ってきた。
家計へ相当の打撃だったはずだ。
母ちゃんいわく、通販やら何やらでこれがあれば何でもできるらしい。
それは、家具とは呼べないぐらいボロかった。

その翌日、詐欺に遭った。
初心者ならまず引っかかる、巧妙な手口だった。
母ちゃんは、
「ごめんねぇ、ごめんねぇ…」と、繰り返していた。
俺らにとっては莫大な請求額に家族は呆然としていた。
生活に必要最低限の物以外ほぼ全部差し押さえられた。

母ちゃんは、
「まだ、これがあるよ。」手にとっていたのは、1つのオンボロPCであった。

オークションで、母ちゃんが大切にしていたイスを売った。
元は10万円で買ったものだ。
「いいの!?後悔するよ!?」
俺は必死だった。
「これは高級だから、売れば今度からもっと楽しく過ごせるよ。」
売って1時間後、早くも落札希望者が現れた。
もちろん1円だ。
「これからね、ふえるよ…」
その言葉とは裏腹に、1日たっても1円のままだった。
そのまま落札。
俺らは立ちすくんだ。
自分は呆然とし、母ちゃんは小刻みに震えていた。
「ひろきぃ…ごめんね、ほんとにごめんねぇ…」

母が死んでから約10年。
母ちゃん、見てるかい、俺は元気だよ。

駄文スマン
342名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/22(月) 23:21:55
生きてるんだからよかったじゃないの
343名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 00:12:02
小さい頃に家の前で遊んでいると、道の真ん中に一匹のセミがいた。
でもその頃の俺は虫が苦手で、つかんで道の端に移動させてやることもできなくて
ただ見ているだけだった。

その時、野良猫が来てそのセミをくわえて走り去って行った。俺の目の前で。


あの時、俺にほんの少しの度胸があればセミを救えたのに・・
ほんの少し頑張れば死なせずに済んだのに・・・



20歳になった今でも忘れられない。

夏、家のベランダにセミがとまっていたりすると
「生まれ変わったよ。君に会いに来たよ」って伝えに来てくれたのかなって思ったりして
少し切ない気持になる。
344名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 01:26:33
助けてもその日のうちに勝手に死んでるから気にするまでもないよ。
345名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/23(火) 02:24:37
ひどい!
346名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/27(土) 19:54:45
・゚・(つД`)・゚・
泣かせんなお、おまいら…
感動age
347名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/28(日) 20:04:27
他人がどう思うかは別としてry

自分には4年前に心臓の病気で30歳の若さで亡くなった叔父がいる。
叔父には嫁と、当時まだ3歳まであと1ヶ月という幼い息子(いとこ)がいた。

葬儀の後、家に戻るとビーズでできた腕輪を見つけた。
その腕輪は器用だった叔父が自分がちょうど当時のいとこと同い年ぐらいの時にプレゼントしてくれたもので、手作りだったと思う。
それを握りしめ、まだ8歳くらいだった自分は「たーぼー(叔父のあだ名)の事は絶対に忘れない・・・」と云っていたのが記憶の片隅にある。

そして半年ほど前に色々ごちゃごちゃと整理してた。そしたらあの頃の腕輪が出てきた。
御守りみたいな感じでちょっと前まで学校に持っていったりしていたが、ちぎられるのが怖いためしばらく家に置いていた。

そして昨日、出かける際になんとなく腕にはめていった。
時間に遅れたわけでもなかったけれど、なんとなく待ち合わせ場所まで走って行った。
バスに乗った時に気付いた。あの腕輪が見当たらない・・・。

家を出る時までちゃんと左手につけてたはずの腕輪・・・。その腕輪が付いていない。
自分はどうやらアホらしいので思い違いでとか無意識で右腕につけたのかとか、鞄に入れたとか・・・調べたけどやっぱり無い。

腕輪のためだけに引き返すのもいやだし、ちょっと寂しい気がしたけど腕輪はあきらめた。

腕輪はかなりの大きなサイズで、母親でもブカブカ。
きっと叔父が自分のサイズで作ったものに違いない。結構大柄だったしね。
さっきバタバタしてて走ってたから途中で腕から落ちたのだろう。

そして帰り道、坂を走っていたが息が苦しくなったので途中で歩いた。
散歩ほど進んだところに、見慣れた腕輪が落ちていた。
叔父がくれたあの大切な腕輪。

私は急いで拾って握りしめた。
その時気付いた。きっと叔父は自分を忘れてほしくなかった。

幼いころ、結構自分は御洒落みたいなのが好きで指輪とか、親の口紅とかいじってた頭のどうかしてる子だったらしい。
だからビーズでつくった腕輪をあげれば自分が喜ぶと思った。そうに違いない。

サイズが大きいのは日が経つにつれ自分の存在を忘れてほしくなかったから。
そう思うと涙があふれてきた。

これからもこの腕輪を大切にしようと思った。
今でも覚えてるよ。ちゃんと。

今日はいとこの7歳の誕生日、久しぶりに叔父の事を聞かせてやった。記憶も薄いだろうしね。

「そんな深い事考えてねーよ」と今頃叔父はゲラゲラ笑ってるかもしれない。そんな人だったし。




残念なお知らせですが、その腕輪、今日切れました。
そしてかなりの長文ごめんなさいwwwww(
348名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/04(木) 19:35:54
15で禿げた
349名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/05(金) 03:39:45
もう数年前のことだが祖父が死んだ。死因はそのとき子供だったから
わからず、今も聞きにくいから聞いてない。

そのときは12時を過ぎていた。俺の家は二階建てなんだが下の階に
祖父と祖母が住んでいて、俺ら4人は二階で暮らしてた
すると下の階から祖母が「おじいちゃんが冷たくなってる!」
という叫びが。父さんと母さんが急いで救急車を呼んだ。そのときは
まだ祖父は生きていたらしい。 当時中1の俺はなんだが怖くって
寝てるフリをしていた。 そして緊急手術をしたがダメだった。

なんで俺はあそこで寝たフリをしたんだろうか。と今でもかなり後悔している。
350名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/05(金) 16:44:12
>>349
なんで、って、中1ならまだ身内に迫る死という恐怖に対しそういうリアクションとってもおかしくないと思うが。
351名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/05(金) 17:26:58
つーか、中途半端で泣けない
352名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 02:44:22
うん
353名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/07(日) 03:33:32
354名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/14(日) 02:14:04
14歳なんですが・・
とても精神的に不安定なんです・・
355名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/14(日) 10:59:52
で?
356名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/15(月) 20:44:16
どっかで見たやつ。

僕は高校2年生でうつ病になった。
詳しい原因は自分でもわからない。
親が心配して扉の前に来て、慰めようとしてるのか。
毎日同じこと言って来る。自分の学校は単位制、週7回休んだらその場で終了となる教科もあった。
病弱である自分は、すぐ風邪をひいたり腹を痛くして、欠席はもちろん、遅刻も早退も多かった。
自分はもう3週間も引きこもってて、この世界に飽き飽きして、自殺系サイトにも手を出してしまうほどだった。
そんなある日、先生から電話が来た。
俺は出たくなくて、変わりに母親が話していた。
電話は15分くらい続いた。
電話を終えた母親はすぐ俺の部屋の前で。
「あと1週間で単位切れるよ。 ホラ 明日学校行きなさい」
とか
「いじめでもうけてるの?」
とかばっかり言ってくる。別にいじめられてる訳ではない、自分でも引きこもってる
原因がわからないんだ。
そして、単位が切れる3日前
久しぶりに夢を見た。
自分の部屋でテレビを見ていた。するとベランダの方から声が聞こえた。
勇気を持ってベランダに出てみると、左側に自分と同じ年くらいの女の子が座っていた。
俺は一瞬 「あれ?」と思った。
彼女は体が透けていた。
それから10分くらい話した。
彼女は2年前交通事故で亡くなっていたようだ。
それを知ったとき、自分の中に罪悪感が流れた。
彼女はまだ生きていたかっただろうに・・・それに比べて俺は自ら命を絶とうとした、最悪だ。
それから彼女は話した。
「デートしたり結婚したり、子供育てたり、まだまだいろんな事やりたかったな・・・」
もう自分には耐えられなかった。
彼女の言葉ひとつひとつが自分に重くのしかかって来た。
彼女はずっと空遠くを眺めていた。
自分も彼女が見つめる先を見てみた。
さっきまで暗闇に包まれた夜だったのに、気がつけば明るくなり始めて、朝日がのぼっていた。
そのとき、自分の中の考えがはっきりと変わった・・・
どんな薄汚い世界でも、見方を変えれば輝かしい世界が広がっている。
この子だってそうだ。これから会う人や楽しいことがいっぱいあっただろうに。
事故 で他人に人生をすべて取られた・・・。
可哀想に・・・。
そして気づけば彼女は消えていた・・・。
それとほぼ同時に目が覚めた。
朝日が暗い自分の部屋を明るく照らしていた。
朝の6時・・・ 3週間ぶりに制服を着た。


それからも学校で「つらい」 とか 「逃げたい」 とか思うことはたくさんあった。
でも彼女のことを思うだけで、あの日の夢が頭をよぎるだけで。
心の奥底から勇気が湧いて来た。「絶対に乗り切ってやる!」、「あの子の分まで生きてやる」
そう想い毎日がんばった。
そして
今では結婚して1歳半の子供がいる。
今の自分があるのは、あの子が夢に出てきてくれたから・・・と自分に言い聞かせている。
あの日から彼女は夢に出てこないけど。
今、本当に伝えたいことは
「ありがとう」 この一言だけだ。

357名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/16(火) 02:12:04
358名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/18(木) 23:48:54
今日の涙   このHP見てたら泣けた。

http://dog.pelogoo.com/hamamatsurescue/archive/cat1244400422218998.html

人間って 勝手。
359名無しさん@お腹いっぱい。:2010/03/29(月) 00:56:46
>>356 そういうのってあるよな、何かを思ってやると乗り越えられるっていう。
360名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/10(土) 01:02:01
・・・定年退職・・・

大体の職場は毎年3月は定年退職をする人を見送る。
私も、もう10何年間も退職者を見送ったなぁ。
どうでもいいかな、去るもの追わず。面倒だ。

一緒に働いてきた人、いい人なら思いでも沢山。
まだ、いてくれたらいいのになんて思うことも。

部長たちを見送る送別会がありました。
どちらかというと嫌いな部長だった。
話も合わないし、名に考えているのかわからない。やな奴。

恒例の退職者の挨拶が始まった。部長話下手なんだよな。

部長は父親を早く亡くしていた。
職場で社会を勉強した。
父親が教えてくれるだろうことを職場で覚えたという。
楽しい思いでもあったという。

きっと嫌なこともあったんだろうな。

でも、じっくり話を聞いていたら、泣きそうになった。

特別な挨拶じゃなかった。でも。

こうして健康で退職を迎えられること。大切だって気づいた。

仕事、職場は嫌なことが多い。実績が上がらない、大変な事もある。
面倒なこともある。理不尽に押しつぶされそうになったり、否定、嫌味、
疑い、険悪・・・
でも、もしかすると苦しいことや辛いこと、逃げたくなることよりも
楽しくて幸せで充実した時のほうが多いのではないかと感じた。
色んなマイナスもプラスもほとんどを納得して前に進めばいいんだよね。

そうすると、部長みたいに定年退職を迎えることがどれだけ幸せなことか、
なんとなくわかった気持ちになりました。

平凡。年をとって定年退職をしたときのことを目標にするのは変だけれど、
「ありがとう」「たのしかった」いや、「楽しいことが多くありました」って
言える定年退職の挨拶ができたらいいな。

明日から、又がんばる。仕事、大切に。仲間を大切に・・・
361名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/18(日) 23:56:48
保守
362名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/19(月) 16:04:58
痔、近眼、腰痛、円形ハゲ、頻尿、高血圧、不整脈、親友ゼロ、女友達ゼロ
目覚まし6個。



泣けるだろ。
363名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/19(月) 20:33:41
別に
364名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/20(火) 17:44:19
近眼 虫歯 薄毛 多汗 血中コレステロール高 尿蛋白 過敏性大腸炎
泣けるだろ
365名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/20(火) 23:52:33
泣きすぎて目痛いw
泣きすぎて喉渇いたww
泣きすぎて目腫れまくりwww
泣きすぎておろしたてティッシュ4分の1に減ったwwww

やべぇ目腫れすぎて明日表歩けねぇwwwww

366名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/21(水) 12:16:01
枕が臭い・・・・泣けてくる。
367名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/22(木) 18:11:25
愛妻倶楽部って言うサイトのおっぱいって投稿!
泣けた、久方ぶりに泣けた。
愛情とはこう在るべきって思ったね。
是非読んでみて、泣けるよ・・・必ず。
368名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/22(木) 19:26:48
ホントだ・・・・
泣けました。
悲しすぎて、切ないお話でした・・・・
369名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/24(土) 17:08:24
別に泣けねーよ
age
370名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/24(土) 17:11:44
輝け甲子園の星(2010早春号)より
選抜高校野球選手権大会出場選手「好きなタレント」アンケート

1位 北川景子 49票
2位 上戸 彩 24票
3位 香里奈  23票
4位 佐々木希 22票
5位 松本人志 18票
6位 新垣結衣 17票
7位 南 明奈 黒木メイサ 15票
9位 木下優樹奈 12票
10位 市川由衣 11票
11位 EXILE 10票
12位 ダウンタウン 相武紗季 9票
14位 宮崎あおい 8票
15位 柴咲コウ 戸田恵梨香 井上真央 コトリッチ 7票
371名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/24(土) 19:47:38
高校球児に人気の松本人志w
372名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/24(土) 21:17:14
肉野菜炒めを作り、いざ食おうとしたら正方形の肉片発見。


…肉汁吸収用のスポンジだったorz
373名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/25(日) 19:20:03
魚の汁吸収シートごと調理してたことはあるw
374名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/28(水) 22:08:33
泣けるか?


もう相当前の話。
俺は毎年夏には祖父ちゃんの住む田舎まで家族で帰省していたんだ。
毎年俺たちが帰るのが通例だったんだが、その前の年に十年近く植物状態だった
祖母ちゃんが逝って、見舞いに行く必要がなくなったからって
今度は祖父ちゃんが東京に来ることになったんだ。

俺はその時ネット中毒みたいなどうしようもないガキで、
学校から帰ってきても祖父ちゃんには挨拶だけして
さっさと自室に引っ込むみたいな事を繰り返してた。
うちは親が共働きだったから、祖父ちゃんは昼間一人でずっとテレビを見てた。

二週間くらい立ったある日、突然田舎の従兄弟んちから電話があった。
田舎の家を整理する話の最中に、祖父ちゃんの持ってた温室を
どうするのか決めるから、帰ってきてくれとかよくわからん内容だった。
祖父ちゃんはその翌々日に帰る事になった。

昔俺は、年老いた夫婦で夫を亡くした妻は長生きするが、妻を亡くした夫は
三年経たずにぽっくり逝ってしまうみたいな話を聞いた事があった。
玄関で小さく丸まった祖父ちゃんの背中を見て、
もう祖父ちゃんに会うことはないんだろうな、とぼんやり思った。

「祖父ちゃん、また来年こっちに来てね」
祖父ちゃんはちょっと振り返って、しばらく黙り込んだ。
それから小さく、うん、と頷いた。
祖父ちゃんは無表情だった。
祖父ちゃんも、俺と同じ事を思っていたのかもしれない。
見透かされたようで、俺は後ろめたい気持ちになった。


それから半年で祖父ちゃんは死んだ。
風呂場で心臓麻痺を起こし、足を滑らせて頭を打ったのが原因だった。
葬式で、俺は祖父ちゃんの死に顔を見た。
祖父ちゃんの顔の脇には、生前愛用していた帽子が置いてあった。
俺は絶対被らないと分かりつつも、その帽子がどうしても欲しかった。
でも号泣する周りの人間を見て、なんとなく言えなかった。

散骨には行かなかった。
怖かったのもあるが、俺は骨になった祖父ちゃんを見たくなかった。
親父は、
「お前は結局、親父のもお袋のも散骨付き合ってないよな。罰当たりが」
と俺を罵った。
そう、俺はその前の婆ちゃんの散骨からも逃げていた。

それだけじゃない。
そのずっと前、俺は生きてる祖父ちゃんからも婆ちゃんからも逃げていた。
祖父ちゃんの震える指を見てたくなくて祖父ちゃんとはまともに会話をしなかったし、
婆ちゃんの黄色がかった目を直視出来なくて、とうとう顔をまっすぐ見れない内に婆ちゃんは死んだ。

「祖父ちゃんは俺と会話、したかったのかな。こんな馬鹿なガキなのに」
俺がつぶやくと、親父は
「お前は一番に出来た孫だからな。親父もお袋もお前を猫っ可愛がりしてたんだ」
とだけ言って、黙り込んだ。
俺は玄関先に行って、祖父ちゃんが最後につかってた杖を撫でてみた。
つやつやしてて、祖父ちゃんの細くてしわしわの指には全然似てない。
その内嗚咽が出てきた。
俺は真冬の玄関で、がちがち震えながら杖を握り締めて泣いた。
375名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/28(水) 22:52:48
気づくの遅せーよ
376名無しさん@お腹いっぱい。:2010/05/30(日) 13:53:13
377名無しさん@お腹いっぱい。:2010/06/11(金) 00:27:58
よすう
378名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/10(火) 23:11:13
■2002/06/15 (土)
疲れたぁ(>_<)農園に人連れていったりさくらんぼ売ったり。
「いらっしゃいませ!」「ありがとうございました!」って言うのがスキ!スマイルだよ。なるべく自然の笑顔で。
元購買委員会での経験が役にたちました。商売が上手い!って言われちゃったぞ!
おじいちゃんも商売人だったのでそれが遺伝した!?私、隔世遺伝が多いのです!殆どが祖父母似…。
本当は祖父母の子供なんじゃないかって思ったくらい!

■2002/06/16 (日)
今日もさくらんぼでした…。いちお家に帰って二時間くらい昼寝したんだけど疲れました。
なにげに持久力あるようで無いんです…。体力も無いんです…。だからたくさん休養をとらないとやってけないんです(;_;)

■2002/06/18 (火)
さくらんぼの手伝いはしないことにした。
379名無しさん@お腹いっぱい。:2010/08/12(木) 17:37:31
>>36をすべて読んだ。
もうなにがなんだかわからなくなった
これほど自分の目から涙が溢れたことはなかった
380名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/10(金) 23:57:30
どうしても前にどこかで見た話をもう一度見たくて彷徨っています。
内容は赤ちゃんを産んだお母さんが入院して亡くなってしまう話でビデオレターに
よってわが子に話しかけるものです。最後に新しい人が新しいお母さんになれるように
私のことを忘れる魔法をかけてあげます。という内容で終わった気がします。
このすれかと思ったのですがどなたかご存知でしたら教えてください。よろしくお願いします
381名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/11(土) 07:07:04
382名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 00:49:30
>>380
(´・ω・`)ご希望のお話は見つかりませんが、代わりにこちらをどうぞ。ヾ(゚∇゚*)

http://www.youtube.com/watch?v=JEryXjpvZqI
383名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/12(日) 22:16:53
380です。ありがとうございました
384名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/13(月) 23:57:24
>>380
もう、このスレを見られてないかも知れませんが・・・(´・ω・`)

http://finalfantasy35.blog45.fc2.com/blog-entry-361.html

↑お話はココにありました。ヾ(゚∇゚*)
385名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/14(火) 21:50:10
>>384様 ありがとうございました。
読んでいま涙ぐんでいます。
386名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/14(火) 21:54:21
>>385

よかったねー ヾ(゚∇゚*)
387名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/14(火) 22:06:43
この本は素直に泣けます。無料公開ストーリーあり。
http://www.kosaidoakatsuki.jp/shuppan/campaign/koshiendakega.html
388名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 01:06:02
スレ汚しスマソ

あたしは昔いじめられてから他人と上手く関われなくなってしまった
変に緊張して喋れなくてクラスではピエロを演じていた
もちろんろくな友達はいなかったし、先輩にも好かれなかった

そんな中で一人だけ慕ってくれる後輩がいた
恋愛感情抜きでそいつが可愛くて、唯一の心の支えだった
けれどなんでそいつが慕ってくれるか分からなくて
こいつにも捨てられるんじゃないか、って怖くて不安で
嫌われる前に、ってこっちから突き放した
結局 一年ぐらい関係を断ってた

でも そいつが同じ学校に進学してきていつのまにか関係は元に戻っていった
部活の着替えの時だったか、ふと目に入った後輩の手首から腕はぼこぼこで
背筋が凍りついた 目の前が真っ暗になった

後で聞くと離れてた一年間に色々あったのと、突き放されたショックで、らしい
あんなにアタシの相談に乗ってもらったのに
あいつがいたおかげで学校に来れたのに
あいつがいたおかげで自殺未遂で済んだのに
あいつがいたおかげで部活にも来れたのに

あいつは家にも学校にも居場所がなかった
男の子だから、って誰にも頼れず
唯一満たされる場所がアタシと一緒にいる時だった

もう一人にしないから 一人で頑張らなくていいよ
これから一緒に頑張っていこうね
389名無しさん@お腹いっぱい。:2010/09/23(木) 18:10:43
友情から愛情へ

愛情サイズ 〜 パナソニック
390名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 20:56:39
去年
彼女が死んだよ
よくあるはなしだけどさ
391名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 20:59:25
一周忌で墓参り行った次の日の
話なんだけど
会社で帽子被ってて
そろそろ汚れてきたからって
入社式の時にもらった
帽子をひっぱり出してきて
名前をかこうとしたわけ。。。
392名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/03(日) 21:01:35
そしたら
彼女が名前書いておいてくれててさ
おれダメ男で
字が汚いから
いろいろ彼女に書いてもらってたんだけど
その名前の横に小さく
いつも見守ってるよ
って書いてあった
泣けたよ
393名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/05(火) 23:36:56
394名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 00:32:07
>>393
あっさりと女に不意打ちされて殺される弱さ

確かに泣けるな
395名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 09:21:20
自分が小学生の頃、叔父が結婚した。
叔父は32歳で相手は年下だった。
そのあと、私の家族は離婚し、母方についた私と兄弟は田舎に引っ越した。
正月にはおばあちゃんの家に帰った。
叔父の奥さんとは、そこでしか会わなかった。
だから、あまり話さなかった。
でも、その人はいつでも優しく接してくれた。
その翌年、またおばあちゃんの家に行くといつもどおり
親戚が集まっていた。
でも、叔父の奥さんだけ、白いニット帽を被っていた。
まだ幼い私は「なんで部屋にいるのに帽子かぶってるの?」
と、しつこく聞いていた。
みんな下をうつむいていた。
そんな中、奥さんが話した
「おばさんはね、帽子が好きなんだよ」
と、明るく答えてくれた。
その年の夏、母からすべてを聞いた。
おばさんは、ガンだった。
一度は治った。しかし、何度も転移し続け
もう手術をしても意味がない。
その時、初めて叔母が帽子をかぶっていた理由を知った。
あとは、死を待つだけの叔母。
叔父は、最後まで楽しませようと、自慢の車でよくドライブに連れてったそうだ。
結婚して、まだ4年だった。
9月半ばに、叔母は亡くなった。35歳だった。
最後までガンは転移を続け、治療法も見つからなかった。
お葬式に行った。
叔母の死に顔はなんともきれいだった。
最前列に座っていたおじいちゃんとおばあちゃんは、涙を流していた。
でも、最後まで叔父は泣かなかった。
夜に、仏壇の前に叔父と母がいた。
私も夜中まで起きていたので、それを見ていた。
叔父は泣いていた。
それを慰める母がいた。
いまさらだけど、後悔してる。
どうしてもっと話さなかったんだろう。
なんで、最後まで気を使ってあげれなかったんだろう。
もっと、楽しませたかった。
今は、もう取り戻せないけど
あの人が悲しむような人生は送らない。絶対に
396名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/06(水) 21:00:04
397名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/07(木) 18:46:02
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」
「康晴はわしの子や。わしがやったる」
398名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 16:31:01
疲れたぁ(>_<)農園に人連れていったりさくらんぼ売ったり。
「いらっしゃいませ!」「ありがとうございました!」って言うのがスキ!スマイルだよ。なるべく自然の笑顔で。
元購買委員会での経験が役にたちました。商売が上手い!って言われちゃったぞ!
おじいちゃんも商売人だったのでそれが遺伝した!?私、隔世遺伝が多いのです!殆どが祖父母似…。
本当は祖父母の子供なんじゃないかって思ったくらい
399名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/12(火) 19:25:01
400age:2010/10/13(水) 23:20:40
<心の琴線> 妻が亡くなった後 6歳の息子を叩いた私 

【大紀元日本10月12日】妻が4年前に事故による不慮の死を遂げ、私と息子の二人だけの生活になった。
息子の世話や毎日の食事の支度に疲れ果て、仕事もうまくいかないことがよくあった。
家事もうまくこなせない私と息子を見て、あの世で妻は悲しんでいるだろうか。
私は父親役と母親役をうまく演じられず、何度も挫折感を味わった。

 ある日のこと。夜遅く家に帰った私は、疲れ果てて食事を作る気力もなく、
スーツを脱いですぐにベッドに身を投げだした。
その時、「パン!」という音がして、赤い汁とラーメンが飛び散り、シーツと布団が汚れてしまった。

布団の中に、インスタントラーメンが置いてあったのだ。

 なんて子だ!と怒った私は、部屋を出て、おもちゃで遊んでいる息子のお尻を叩いた。
あまりにも腹が立ったのでひどく叩きすぎた。そのとき、泣き出した息子が私にこう言った。

 「炊飯器の中のご飯は朝、全部食べちゃったんだ。
夜ご飯は幼稚園で食べたんだけど、パパがいつまで経っても帰って来ないから、
インスタントラーメンを見つけて、シャワー室の熱いお湯で作ったの。
パパがガスは使っちゃいけないと言ったから。
ひとつは自分が食べて、もうひとつはパパに残しておいたんだ。
インスタントラーメンは冷めたら美味しくないから、パパが帰るまでお布団の中に入れておいたの。
おもちゃに夢中になって、パパに言い忘れてた。ごめんなさい」
401age:2010/10/13(水) 23:22:42

息子の話に涙がこぼれた。それを隠すためにトイレに入り、蛇口を開いて思いっきり水を流しながら号泣した。
しばらく心を落ちつかせてから、まだ泣いている息子を慰め、傷ついた彼のお尻に薬を塗って寝かしつけた。
汚れたシーツと布団を掃除し終わった後、息子の部屋のドアをこっそり開けて様子を見ると、
彼は母親の写真を手に握りしめたまま泣いていた。

私は、立ったまましばらくそれを眺めていた。

それ以来、私は母親の役割をもっとうまく演じようと心に決め、多くの時間をかけて息子の世話をするようにした。
1年後やっと、幼稚園を卒業して小学校に入学する時期を迎えた。
幸い、この間あった出来事は息子の心に影を落とさず、彼はのびのびと成長してくれた。

 しかしある日、私はまたも息子に手を出してしまった。

 幼稚園から突然、息子が幼稚園に来ていないという電話があった。
不安でたまらない私は、すぐに仕事先を早退して家に戻り、
息子の名前を何度も呼びながら住宅街の付近を必死で探した。

 やっと、文房具屋さんのゲーム機の前で遊んでいる息子を見つけた。
私はまたも頭に来て、息子を叩き始めた。彼は何の言い訳もせず、ひたすら「ごめんなさい」と謝った。

 しばらくして私は、その日幼稚園で母親たちが子どものパフォーマンスを鑑賞する行事があったことを知った。

 数日後、息子から幼稚園で字の書き方を教わったと聞いた。
それ以来、彼はしょっちゅう自分の部屋に閉じこもり、まじめに字を書く練習をしていた。
天国にいる妻はきっと、息子の様子を見て安心しているだろうと思うと、なんども涙がこぼれた。


402age:2010/10/13(水) 23:23:40
つづき

息子は成長し、冬がやって来た。
街中にクリスマス・ソングが流れるシーズンに、私の息子は再び問題を起こしてしまった。

 ある日、住宅街にある郵便局からクレームの電話があった。
息子が宛先のない手紙をたくさんポストに投函したのだという。
郵便局にとってこの時期は多忙きわまるシーズンであり、息子のいたずらは彼らにとって大迷惑だったのだ。

 もう息子を叩かないと心に決めた私は、急いで帰宅して、息子にそのわけをたずねた。
何も説明せず、ただ謝るばかりの息子に業を煮やし、またもや手を出してしまった。
私は郵便局に行って息子の手紙をもらってくると、彼の前に投げ出して、「どうしてこんないたずらをするんだ!」と怒鳴った。

 息子は泣き出して、「それ、ママに送る手紙なんだ」と答えた。

 この話に、私は目頭が熱くなった。懸命に感情を抑えながら、「どうして一度にこんなにたくさんの手紙をママに出すの?」と聞いた。

 「前は郵便ポストに手が届かなかったけど、最近やっと届くようになったから、前に書いた手紙も一緒に出したんだ」と息子は答えた。

 一瞬、茫然とした私は、すぐに言葉が出なかった。しばらくして息子にこう話した。
「ママは天国にいるから、書いた手紙を燃やせば天国に送れるんだよ」

 夜、息子が寝た後、私は外に出て息子が書いた手紙を燃やし始めた。
何を書いたのかと思い、何通か読んでみた。その中の一通に、ひどく心が痛んだ。

 「ママへ:

 ママに会いたい!今日、幼稚園でパフォーマンス発表会があったの。
ママがいないから僕は学校に行かなかった。パパにも言わなかった。
パパがママのことを思い出して悲しくなるから。
パパは僕を探していたんだけど、でも僕はパパに悲しんでる自分を見せたくなかったから、
ゲーム機の前で遊んでる振りをしたんだ。パパに理由を聞かれたけど、僕は何も言わなかった。

毎日パパは泣いている。きっと僕と同じでママに会いたいんだ。
ママ、僕の夢に出て来てください。
会いたい人の写真を胸の上に置いて寝れば、
その人が夢の中に出てくると聞いたんだけど、
どうしてママは僕の夢に出てこないの?」

 もう何があっても、二度と息子に手を出さないと、
手紙を燃やしながら私は妻に誓った。

(翻訳編集・XXL)

http://www.epochtimes.jp/jp/2010/10/html/d79796.html
403名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/14(木) 20:01:01
泣けるかわからんけれども…。
父さんがこの間亡くなった。急に逝くからこっちも父さんの抜け殻見てぼーっとなってた。
病院から遺体を引取うちに連れて帰り父の部屋に寝かせ自分は自分の部屋で寝た。
夢で父さんが生き返って起き上がって
『うるさいぞ』と言って来た。
部屋寝かせてから母と喧嘩してしまったからなのか。
朝起きたら
もう起き上がらない父を見て涙が出た。
404名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/15(金) 21:48:49
U2というバンドがある。
ボーカルのボノ、ギターのジ・エッジ、ベースのアダム、ドラムのラリー。
1980年にアイルランドから登場したこの4人組は、卓越した演奏力はさることながら、
ボノの書く、貧困、宗教、国家といった社会問題に切り込む歌詞が反響を呼び、瞬く間に世界的バンドとなった。
そんな中、1984年に「Pride (In the Name of Love)」という曲が発表される。
この曲はマーティン・ルーサー・キング牧師に捧げられた曲であり、彼の功績を讃えた曲だった。
それまでも様々な団体から圧力や脅迫を受けていたU2だったが、
特に全米ツアーが決まった後は、KKKを始めとする人種差別主義団体から、大量の脅迫状が届いた。
その内容は、アメリカに入国したら射殺する、Prideを演奏した場合ボノを射殺する、といったものばかりだった。
ツアーの中止も検討されたが、メンバーたちは
「路地裏の倉庫で練習してたときから、俺たちには失うものなんてなかった」
そういってツアー実施を決めた。

アメリカに入ると、空港で待っていた地元の警察から、銃撃されるならL.A.だ、との警告を受ける。
そしてツアーが始まり、U2は大小様々な嫌がらせを受けながらも、全米を回り続けた。
問題のL.A.に入ると、警備のチーフが駆けつけ、タレ込みによれば明日のライブがヤマだ、と告げた。
そしてL.A.でのライブ当日、スタジアムの警備から不審者を確保したとの連絡が入る。
銃を持ち込もうとした人間が複数、取り押さえられたとのこと。スタジアム内にライフルが持ち込まれる可能性も指摘された。
これにはメンバー、スタッフとも青ざめ、ライブ中止、せめてPrideをセットリストから外すことが提案された。
しかし、ボノはなんとしてもPrideを歌うと決めていた。

いよいよステージに上がり、熱狂的なパフォーマンスを繰り広げたU2。
問題のPrideを演奏し始める。メンバー4人にかつてない緊張が走る。
ボノは力の限り歌った。

 一人の男が現れた、愛の名の元に
 一人の男が現れ、そして去った
 一人の男が現れた、正すため
 一人の男が現れた、覆すため
 愛の名の元に

スタジアムには数万人の観客。見晴らしは良く、自分はステージの中央に立っている。
撃つならこの曲の間だろう。殺そうと思えば簡単だ。
ボノは死を意識し、かつてないほどの恐怖を感じた。
その時、客の中で何人かの男が不審な動きをしたように見え、ボノは思わずしゃがみ込んだ。
いよいよ殺される、ボノは目をつぶったが、歌声だけは精一杯張り上げた。
そして曲も後半に差しかかり、ボノが恐る恐る顔を上げると、目の前に1人の男が背を向けて立っていた。
アダムだった。
彼はベースを弾きながらボノの盾となって仁王立ちしていたのだ。

「あの夜、あそこで見たヤツの背中を、俺は一生忘れない」
2006年、3度目のノーベル平和賞候補に選ばれたボノは、そう語った。
405名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 09:02:11
で、泣くとこどこ?
406名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 15:31:51
俺の兄が金玉袋ひっくり返して東京ドームって言いながら走ってる

兄43歳 泣ける
407名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 21:21:00
私は父親も母親も共働きで兄も歳が離れていたからよくじいちゃんの家に預けられてた。
おじちゃんっ子だったから苦痛でも何でもなかった。
じいちゃんは絵で賞を取ったときは凄く褒めてくれたし、
泊りに行った時に美味しくもない私の料理を「美味しいよ」と笑顔でいっぱい食べてくれた。
高校に入った時も一度じいちゃんの家に寄ってから学校に行くようになって、
学校に行く時も家に帰る時も外に出て送り出してくれた。
私はそんなじいちゃんが大好きだった。

でも自分が高校に入って半年後、癌で入院することになった。末期だった。
いつも私の心配をしてくれたじいちゃんは癌でずっと寝たきりなのに、
私たちにあげるお年玉のことを考えてくれていた。
そして正月。お見舞いに行くとじいちゃんからお年玉を貰った。1万円だった。
そしてじいちゃんが死んだのは次の日、1月2日だった。
今での大切にその1万円はとってあるよ。一生使えないな。
408名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/16(土) 22:03:23
数年前に母方の祖母が亡くなった。

私たちが住んでいたのは岩手で、母の実家は新潟だった。
遠いので頻繁に向こうの親戚には会えなかったが、
毎年夏に車を走らせ家族4人、父、母、兄、私で会いにいっていたし、年に数回は互いに梨やお菓子、手紙などを送りあっていた。
私が高校生になった頃、いつもは夏休みを使って新潟へ行っていたけれど
夏休みも忙しく、「高校生だから、もう少したったらまた皆でいこう」と母は言った。
そんな時、向こうの祖母が倒れた。
一度家族で病院へ見舞いに行った時、祖母は私の制服を見て「セーラー服なんだねぇ、可愛い、可愛い」と言ってくれた。
祖母は去年会った時より見違えるほど痩せていて、髪の毛もなかった。
年に何度も会いには行けず、母は頻繁に電話をするようになっていた。

その次の年に祖母の体調が急変し、急遽母は休みを取って次の週に一人で会いに行くことになった。
母は私たちに携帯を向けて「おばあちゃんに聞かせるから、何か喋って」と、嬉しそうにムービーを撮った。
慣れないことに少し恥ずかしくてろくなことも言えなかった気がする。「おばあちゃん、頑張って」ぐらい。
祖母が亡くなったのはその週末だった。

葬式は祖母が褒めてくれたセーラーの制服を着て出た。
葬式が始まる前、部屋で母と二人でいると、
「声…聞かせてあげれなかったね、間に合わなかったね…」と今まで聞いたことのないようなか細く、涙ぐんだ声で話した。
つい先日、嬉しそうに、声を聞かせて上げれるとムービーを撮っていた母の姿を思い出し、涙が出た。

そのムービーがまだ母の携帯に残ってるかは分からない。
でもそれから母がふと祖母の話をする度にあの時の姿が浮かび、私は涙をこらえるようになった。
409名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/17(日) 18:29:41
すごく泣ける話なんだけど>>406が頭から離れなくて泣けねーよwくだらなすぎてよw
410名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/28(木) 23:43:46
>>81 テメェが切りきざまれろや
411名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/29(金) 00:17:40
今更ジロー
412名無しさん@お腹いっぱい。:2010/10/29(金) 00:39:54
サブロー シロー
413笹の葉っぱ:2010/11/06(土) 14:36:00
youtubeより

ある時、大学時代からの友人に呼びだされた
彼女同伴で現れた彼は、学生時代の話を始めた

おれのかよってた小学校さ、田舎なもんで
クラスで男女合わせて14人しかいねーの
だからさ、幼稚園から中学校まで、ずっと同じクラスなわけ
もうみんな兄弟みたいなの
でもさ、1人知恵遅れな子がいたんだよ
中学校入っても小学校1年の勉強してんの
おまけに貧乏だったから、
みんなから仲間外れにされて…いじめられてんの
でも俺、そんなんいやだし
休み時間もずっとそいつと遊んでたんだ
遠足の弁当のおかずも、ハム2枚だけで
もちろんお菓子なんか持ってきてなくて
だから俺、母ちゃんに頼んでそいつのおかずとお菓子も持って行ったりして
母ちゃんは喜んで用意してくれたし、
何よりそいつの喜んだ顔が嬉しくてさぁ
そんなことしてたら、いつの間にか俺も仲間外れになっちゃって
俺も少しずつそいつから距離おくようになったんだよ
でも、何度も何度も突き放してもそいつ俺んとこにくるわけよ
そんで中学入ってバスケ部はいったら
そいつも俺の部活に入ってきたんだよ
知恵遅れだから顧問も躊躇してたんだけど
そいつの親が土下座してるとこみて
なんか無償に悔しくなってさ
気がついたら土下座してんの、俺も

414笹の葉っぱ:2010/11/06(土) 15:08:15
やっぱこいつ俺の友達だわ、
仲間外れ上等だよ!ってふっきれた
そいつの親 涙流して喜んでくれてた
久々にみた、そいつの笑顔だったよ

そっから俺は高校あがって
でもそいつの学力じゃ高校は入れなくて
俺も高校生活の忙しさからそいつに会うことなくなって
高校卒業して大阪の大学行って
正月に里帰りした時そいつの親が尋ねてきたんだ
○○君、久しぶりね、元気だった??
はい、元気です!彼は元気ですか?
・・・ 
○○君には本当に感謝してるのよ、
ありがとうを、伝えたくてね

は?なんですかおばさん、いきなり
昨年の冬12月9日
彼は骨肉腫を患い闘病の末、天国へ旅立った

高校時代に俺の家に訪ねてくることがなく
不思議に思ってはいたけど俺からもそいつの家に訪ねることは無かった
俺が高校生活に浮かれている時に
そいつは1人苦痛に耐えて病気と闘っていたなんて俺は知らず

葬儀は身内だけの密葬だったらしい
彼の母親は俺に知らせようとしたが人生で1度しかない
高校生活はを邪魔してはいけないと思ったらしい
なにも知らなかった自分が情けなくて
なにもできなかった自分が悲しかった
彼はまたおれと遊ぶんだと、俺とバスケをするんだと
病床でいつも話していたらしい
そんなことも知らず俺は高校生活に浮かれて…
おばさんは泣きながら俺を抱きしめ
○○君、仲良くしてくれてありがとう
そう言った
気が狂ったように泣いた
なりふりかまわずおばさんの胸で思いっきり泣いた
家に戻り、中学の卒業文章をみた
そいつのページには、たったの2行だけど
一生懸命書いたであろう言葉があった
○○くんとあそんだのが
いちばんたのしかたです

そこには俺の名前があった
彼の思い出の中には最後まで俺がいた
なんでもっと遊んであげなかったんだろう
1度とはいえ、なんで仲間外れを恐れて突き放したりしたんだろう
なんで、なんでっっっ!!

415笹の葉っぱ:2010/11/06(土) 15:23:53
そのまましばらく友人は泣き続けた
おれも友人の肩を抱いて泣いた
彼女は彼を慰めていた
そして友人は俺を呼び出した理由を言った
わりぃ、辛気臭くなって
どうしても、伝えておきたかったんだ
じつわさ、俺結婚すんの、この子と
絶対幸せになろうって、誓った
この子とさ、あいつの分まで幸せになるんだ
この子さ、妹なんだ、あいつの
俺、おばさんの息子になるんだ もう1人の
そういって友人は彼女と幸せそうに笑った
こんなに暖かい涙を流したのは何年ぶりだろう
友人の結婚式に行ったとき、新婦の母親の胸で
彼の遺影が笑っていました

とびっきりの笑顔で、彼らを祝福していました




     面倒だったので、少し簡単にしています
     ソースはここですhttp://www.youtube.com/watch?v=_YKG3bbklCc&feature=related

     この局がまたいいwww
     誤字、すんまそ
416名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 23:03:12
もう無理なんじゃないか?って不安になっちゃうとき、ただただドキドキしたり涙が止まらなくなっちゃう日があるかもしれない。
けど、それは貴方がそれだけ純粋で綺麗な気持ちだからだよ。綺麗な気持ちは光になって、きっと不安な闇を消してくれるよ。
どうしても駄目なとき、そんなときは、ゆーっくりと深呼吸を10回繰り返してごらん。ほらね?心が納得出来なくても、体が落ち着くだけで、何故か心も少し楽になるでしょ?
それでも、心が晴れなければ、貴方がそれだけ想っているということ。
そんなに苦しいくらい想っているのだから、もう願望達成は目の前だよ。
だから、大丈夫、絶好調、大吉っていいながら、叶う日を楽しみに待とう(*´∀`*)

自分で言えないときは、僕が、大丈夫、絶好調、大吉って言ってあげる。何度も何度も言ってあげる。
あのね、僕の周りは今、どんどんどんどん幸せになっているんだ。だから、これを見た貴方に、幸せが届くのも時間の問題だよ。
もうすぐだから、一緒に頑張ろう^ー^)人(^ー^

byたかぼっち
417名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/06(土) 23:55:29
全日本が泣いた
418笹の葉っぱ:2010/11/07(日) 02:05:29
たかぼっちって誰??
419名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/07(日) 13:54:52
みつを みたいなもんじゃね?
420笹の葉っぱ:2010/11/07(日) 20:57:02
そうなん??
ありがとう
421名無し:2010/11/23(火) 01:31:31

数年前父が亡くなった
両親は6年前に離婚していて、私は母親に引き取られたけど、
父親とも仲が良くたまに会ったりしていた
だけど、大学に入ったりと生活環境が変わって、あまり会わなくなった
毎月のように連絡をくれる父に対して、私は返事を返さないことも度々あった

ある日、「入院することになった」とメール
心配になり、連絡をしたが、すぐ退院出来ると言ったので
あまり深く詮索せずにお見舞いにも行かなかった

数ヵ月後…
親戚の方から電話があった
「もう長くないみたいだから、顔出してあげて?」
私は理解できなかった
すぐ退院すると言っていたのに…
それでもすぐに駆けつけなかった
父と会うのが怖くて病院に行くことができなかった
母親に話すと、お見舞いに行きなさいと言われ、私は病院に向かった
病室に入り、父の姿を見た瞬間に涙が止まらなくなった
私の知っている父の姿はどこにもなく、痩せ細り、髪も抜け、
起き上がることも出来ないほどだった
「お父さん」と声をかけると、もう目もあまり見えないと言われていたのに
私を方を見て、優しく微笑んだ父の顔
その顔は今まで見てきた顔と同じものだった
私が来た日、父は久々に笑顔を見せたらしい
父がまだ喋れたときに、私がくるのをずっと待ってたと言っていたと聞いて
さらに涙が止まらなくなった
冷たく接した私のことを朦朧とする意識の中で父はずっと私のことを思ってくれてたのか
こんなにも父に愛されていたのかと、私は実感した

それから数週間…
お見舞いに行き、夕方くらいになって、今日は大丈夫そうだと聞いたので私は帰ることにした
家に着いた瞬間、電話が鳴った
「今、亡くなったよ」
親戚からの電話だった
私は会話もすることが出来なかったのに、死に目にも会えなかった
どんだけ親不孝なんだと自分を妬んだ

父親にはすごく大事にされたと思う
好きなものを買ってもらって、色んなとこに連れてってもらって…
なのに、私は何も返せなかった…
何ひとつ返せなかったことが悔しい
あのときああしてればとかあのときああしてたらとか後悔することばかりだ

今もう一度父親に会えるのならば、きちんと伝えたい
「お見舞い行かなくてごめんね
 今まで大切にしてくれてありがとう」
422名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/23(火) 02:17:48
それだけかよw
423名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/24(水) 03:16:22
ありがとう、たかぼっち
424名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/24(水) 06:22:22
この話は、、、泣けるっていうより、、悲しくなる話です。
友達の話。実話です。
高校はいって親友になった友達のS君という子がいたんだ。
その子はとても優しくて、部活のラグビーでも活躍してたんだ。
ある日、席替えがあって、そいつは俺の隣になったんだ。
元々仲が良かったから休み時間も授業中も楽しく話しながら過ごしてた。
でも、、ある理科の時間。
血液の話になったんだ。
(O型とAB型が事もを作ると何型ができるとかそんな話)
で、いろいろ勉強していくなかで、組み合わせで絶対に出来ない血液型って話になったんだ。

その話になってから、S君がしゃべらなくなって、教科書を見返しながら青ざめた顔になっていた。

心配になり、「大丈夫か?」と声をかけたんだ。
そしたら、、、、
S「俺の親からは俺の血液型はできない・・・」
と小さくつぶやきました。
正直、その時は、どうこたえて良いのか分からず、固まったままでした。
そして次の日S君は学校に来ませんでした。

1週間後、彼はいつもの同じように接してきました。
聞きにくかったものの、一応説明してもらいました。
とても、嫌なことを話すような表情をせず、ただ淡々と説明してくれました。


理科の授業があったその日、
S君は教科書を片手に、母親に聞いたそうです。
S「俺、母さんや父さんから、生まれないんだけど、どうして?」
すると、母親は崩れ落ち、顔をおおい隠して泣き始めたそうです。
実は、S君の父親は今の父親とは違うんだそうです。
S君がお腹にいるとき、母親は離婚し、そして再婚したんだそうだ。
そして、親が違うという事を隠して、17年間過ごしてきていた。
俺なら絶望するかも・・・・
でも、S君はこう解釈していた。
自分の傷を増やさないようにと、しゃべらずにいたんだな、と。
実際、母親も、話す機会をなくし、傷を増やすくらいなら、と思っていたらしい。
でも、そんな母親がS君は大好きで、今いる、父親もとてもよくしてくれているそうだ。
実際の父親に会いたくないか?と聞いてみたが。
「会いたいと思わない」と言った。
理由を聞くと、
今の生活に満足しているし、今の父親は本当の父親ではないけど、
尊敬している父親だと言っていた。
俺は、ここまで親を愛している人を見たのは初めてだった。
話を聞いているうちに、感動して涙ぐんでしまっていた。

まぁこんな感じの話です。




貴方は親を愛していますか?





そして・・・・アナタの親は本当の親??
425名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/24(水) 20:15:14
う〜ん、いまいち
426名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 00:43:07
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2010/1003/352334.htm?o=2

これ。
ある意味泣けてくる。
427名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 20:31:26
>>426
泣けるわ・・・・・・痛すぎてw
世間知らずの勘違い男だな。
こういう奴が突然犯罪者に変わるのかね?
428名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 22:25:24
泣けないだろうけど・・・ 軽い気持ちでよんでくれ
俺の高校野球のはなし 

3年、最後の夏。地区大会直前のころ・・・。練習中、キャプテンが急に、グラウンドで血を吐いて倒れた。
そいつはすぐに病院に運ばれた。 たしか、肺の病気で、中学生のころに
なったのが再発したらしい。大会出場は絶望的。エースで
3番打者だったから余計、部員皆動揺した。ミーティングで、俺たちは
「キャプテンを甲子園に連れて行く」 という目標をたてた。
ただそれは、絶対的に無理な話で・・ なぜなら5年間一度も、
公式戦で勝ったことがないから。とにかく下手糞チームだった。でも、
俺ら3年は、ずっと甲子園を夢見てきた。キャプテンはいつも甲子園に行きたい
って口々に言ってた。ただ、こいつはチームの中では浮いてる存在で、
部員に対して厳しく叱ったりもする、嫌われ者だった。目標は同じだったんだが、何か扱いづらい奴で。
でも、キャプテンがいない練習は、やっぱり違和感があって、その時初めて気づいた。
あいつはこんなにも大きな存在だったんだと。 だから、皆、大会の日まで必死になって練習した。
そして 大会当日・・・
結果は4−7のサヨナラ負け。 9回、4失点。 初戦敗退
泣きながら病院で結果報告したのを覚えてる。

そのキャプテンは、卒業式前日に、肺の病気の合併症を起こして、死んだ。

3年間なんて、あっという間だった。
それでも あいつらと、 キャプテンと甲子園を夢見て3年間は人生の財産になるものだった。
今まで忘れかけてきたものを、取り戻せたと思う。
何かに打ち込める素晴らしさ、努力することで得られるもの・・・。
今振り返ると、高校生活って重要な時期だったんだなあ としみじみ思う



429名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 00:15:49
この間、検査で病院行ったんです。病院。
そしたらなんか先生がMRI撮った写真見て深刻な顔しやがるんです。
で、よく見るとなんか影が見えるとか言ってご家族の方にもお話をとか言い始めるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前な、たかだか影如きで普段来ない家族まで病院呼ぶんじゃねーよ、ボケが。
影だよ、影。
ただの現像ミスじゃないかっての。
なんか親まで呼ばれちゃって一家4人で病院か。おめでてーな。
よーし俺手術頼んじゃうぞー、とか明るく言ったら怒ってるの。もう見てらんない。
お前らな、10万円やるからさっさと入院させろと。
病院ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
治るか治らないか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
取り合えず病状が病状ですから一応身辺整理を、とか医者が言って笑えない。
帰宅して入院準備とかしてたら家族全員集まってきて大丈夫だからとか言ってるんです。
で、やっと落ち着いたかと思ったら、嫁の奴が笑顔で、大丈夫心配ないよとか言ってそこでまたぶち切れですよ。
あのな、心配なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
不安げな笑顔して何が、大丈夫、だ。
お前は本当に心配してるのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、大丈夫だよって言いたいだけちゃうんかと。
入院直前だってのに一緒に寝てお前が俺を腕枕して頭抱きかかえて、大丈夫だからねって何者ですか。
俺の頭が良くなりますようにって俺が眠るまで唱え続けるのは美容のためにも良くないから止めろっての。
死んだら許さないとか言って死んだ人間をどう許さないんだっての。
もし死んだらお前は若いんだからさっさと俺を忘れて他の男と幸せになれなんて、俺も言ったりして格好をつけてみたりしちゃうだろうが。
大丈夫大丈夫って何千回も言わずさっさと次のことを心配しろって。
心配性な俺から言わせてもらえば今、小心者での最新流行はやっぱり、不安を押し殺して問題ない、これだね。
碇ゲンドウ風に問題ない。これが通の頼み方。
頭をちょっと開いて中の影取り出す、だけ。問題ない。これ。
で、それにやってみたかったスキンヘッド。これ最強。
しかしスキンヘッドにすると俺の頭の形の悪さがバレるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前ら健康人は、健康診断の体脂肪率結果に慄いてビリーズブートキャンプでも入隊してなさいってこった。

その後帰らぬ人となりました。
430名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/01(水) 23:09:03
天国からのレス
431名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 22:57:39
子供と雪だるま

ある子供が、雪だるまに抱きついた。
その子は大好きな雪だるまに抱きつけて嬉しかったし、雪だるまも一人で寂しかったので嬉しかった。
だけど、子供の体温の暖かさで雪だるまはとけてなくなり、雪だるまの冷たさで子供は風邪をひいた。
その日の夜、子供の夢に雪だるまが出てきた。それは、熱と興奮のせいかもしれないけど。
夢の中でたくさん遊んで、たくさん話した。
雪だるま「来年降る雪は僕とは違う。君のおかげで、ただ溶けて終わる雪たちより、価値のある溶け方が出来た。心から思うありがとう。」
子供にはまだ分からなかったし、小さかったから、今年の冬が終わる頃には忘れてしまっているだろう。
だけど、その時は楽しかったし、その日から子供は今以上に雪が好きになった。

byたかぼっち
432名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/17(金) 23:41:48
で、泣くとこどこ?
433名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/20(月) 16:53:59

今年、じいちゃんが脳梗塞の兆しがあったから入院した
早期発見だから少し麻痺は残ったけど命には別状がなかったんだが、ばあちゃんが呆けてておばさんと父さんがばあちゃんの家に行った。
動けるんだけど、呆けてるからご飯とか作れなくて、一人にはしておけないくらいだったんだ。
だから施設に入れることになったんだけど、ばあちゃんは「しっかりしてるから行かない」って言ってて。

夏に施設にはいることが決まったから夏休みで帰ってきた兄貴と父さんが施設に連れて行った。
兄貴はばあちゃんっ子でつらかったらしい。
ばあちゃんが呆け始めたのに気づいたのは兄貴だし、悪く言われて切れたこともあったけど、やっぱり小さいときから大好きだったばあちゃんだったから、父さんにもいえなかったみたい。
父さんも暫くふさぎ込んでた。

施設に入った当初は攻撃的なことを言ったりしてたみたいだし、後から施設に入ったじいちゃんには会ってない。
でももうすぐあえるんだって。
434名無しさん@お腹いっぱい。:2010/12/21(火) 00:25:40
で?
435名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 00:08:00
686 :774RR:2011/01/08(土) 17:20:01 ID:uA7yZJyx
いつも行く山道、いつもの民宿前にある自販機でコーヒーを買って少し離れた所で休憩する。
ここに来ると心がほっこりする。小さな楽しみでもあった。

ある時コーヒーを買っていると、小学2〜3年生位の男の子が自転車に乗って近付いて来た。
何をする事もなく俺を見ている。
コーヒーをポケットに入れ出発しようとした時、男の子が小さい手で大きく手を振っている。
すかさず俺もバイクに乗りながら大きく手を振り休憩場所に移動した。
ミラーで見えなくなるまでお互い手を振っていた。万遍の笑みで。
これが初ヤエーで、この少年との出会いだった。
心がほっこりする、小さな楽しみはこの為w
月に4〜5回は必ず行く。少年に会うのは2〜3回かな。
遠くから俺の排気音に気付いてか、ただ外で遊んでいたのか、結構な確率で会う。

この少年と出会ってから初めての冬だった去年。
寒いけど少年は相変わらず外で自転車に乗って遊んでいた。
ホットコーヒーをポケットに入れて走り出す。
いつもの笑顔で手を振る少年。この瞬間が一番ほっこりするw
436名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 00:08:59
687 :686:2011/01/08(土) 17:21:46 ID:uA7yZJyx
12月になり寒いけど、あの笑顔に会いに行く俺。
いつもの自販機前・・・少年が居ない。
まぁ、いつも居る訳じゃないからな。そう言い聞かせて休憩する。
そんな日が暫く続いた12月25日。
プレゼントをあげようと考えていたが、良い物がない・・・。
部屋に飾ってある俺のバイクと一緒のフィギアにした。小さいけど喜ぶかな?w
で、いつもの自販機前に到着したが、少年の姿がない・・・。
12月は一度も会ってない。どうしたのかな?たまたまなのかな?
そして30日もプレゼントを持って行ってみたが居ない。
(´・ω・`) ショボーン・・・ちょっと自販機の前で休む事にした。
すると民宿からおばちゃんが出てきた。
俺は少し不安だったから聞いてみる事にした。
俺「あのぉ・・・小学2〜3年生の男の子はこちらに居ますか?」
おばちゃん「え?あぁ・・・もしかして、あなたがいつも手を振ってくれてた方ですか?」
俺「あ、はい!そうです!最近会ってないので気になってました」
おばちゃんの顔色が変わったのが分かった。
おばちゃん「・・・あの子ね・・・」
そう言ったおばちゃんの目から涙がこぼれた・・・。
俺「?・・・あのぉ・・・」
おばちゃん「あ、ごめんなさいね・・・あの子はね・・・」
437名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/10(月) 00:09:40
688 :686:2011/01/08(土) 17:23:00 ID:uA7yZJyx
少年の部屋に案内された。
そこには、あの笑顔の少年が居た。写真の中に・・・。
部屋に入る前は、もしかして!?なんて考えていたけど、現実だった。
俺は膝から崩れ落ちた。そしていっぱい泣いた・・・。
お線香をあげ、持ってきたプレゼントを写真の前に置いた。
その時、少しだけ写真の中の笑顔が悲しそうに見えた。


また今日もいつもの自販機でコーヒーを買った。
後ろに乗ったかい?
しっかり掴まってろよ!
今日は少しだけ遠回りしてから休憩場所に行こうか。
君に見せたい所があるんだ。

そんな夢を見た・・・終。
438名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 11:46:11
昨日の晩、妻と些細な事でケンカをしてしまった。
結婚して初めての大ゲンカだった。
謝る言葉が見つからないまま、
次の日になり、そのまま会社に行った。


営業周りを終え、汗だくになりながら会社に戻ると、
受付の女の子が「先ほど奥様がいらっしゃってこれを」


お弁当だった。
高校生の頃、学校に行く前にお袋とケンカした事があった。
弁当を持たずそのまま家を飛び出し学校へ行った。
昼頃には腹が空き、「購買でパンでも買うか」
と教室を出ると、先生が


「これさっきお母さんが持って来てくれたぞ。
 弁当忘れるな。あと親孝行ちゃんとしろよ」
と言い、弁当を渡してくれたことがあったっけ。


うちは母子家庭だった。
パートに行く前わざわざ届けてくれたのだ。
その2年後、お袋は病気で他界した。
孫はおろか、妻の姿も見ることもなく・・・。



メールで妻に「昨日はゴメン」とメールを送る。
弁当を持って屋上に上がった。


「天国のお袋、俺は世界一の幸せもんだ。
 この子と結婚して本当によかった。
 子供ができたら・・・いつか子供ができたら、
 一緒に墓参りに行くからな」


そう心の中で思いながら弁当の蓋を開けると、
ぶっといウンコが1本入っていて、
同時に妻から「クソ喰らえ」とかかれた文章と、
今まさにウンコをひりだしている
妻の画像が添付されたメールが返信されてきましたとさっ(^_^)v
439名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/11(火) 21:20:30
いい奥さんじゃないか
440中2の名無し:2011/01/15(土) 19:53:39
泣ける話自体を書く訳でわないけど、
中学3年生がcroozblogで書いてる実話があります。
過去から現在までを赤裸々に語っています。
題名は「人生わ天気」です。それを見て思わず泣いてしまいました。
最近出来たばかりのblogなので今でも更新されています。
悪用はしないであげてください。
私も同年代なので、共感とゆー訳ではないけど、泣けます。
みなさんも検索して購読してみてください。
文章力なくてすいません。
441名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/15(土) 22:11:27
お風呂の灯油が切れてばぁちゃんちの風呂へ。
狭いしシャワーの出は弱いし寒い。
だけど久しぶりに小さい頃を思い出した。
お風呂のおもちゃでずっと遊んでいたり、父親と楽しく入っていたあの頃を。
すごく寒かったけど心は温まった。

泣けるかどうかわからんけどついさっき思った。
442名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/16(日) 03:34:31
文章構成苦手 悲しいかどうか分からないけど。祖父の話。
大学生の頃、祖父が亡くなったんだよね。癌で入院する半年くらい前までは
畑でバリバリ仕事してたのに・・・あっという間だった。
自分でいうのもアレだが祖父と俺は結構中が良くて農業が忙しくなる夏はよく
手伝った。(俺の家と祖父の家は畑を挟んで向かい合わせになっている)小さい頃も
よく肩揉みしてあげたのも覚えている。ニックネームで呼ばれてた。
祖父が入院してからは時々お見舞いに行ったりして車椅子おして散歩してたよ。
だんだん手とか足が浮腫んできて顔も腫れてきてた。目もなんかトロンとしてた。
いっつも「もうだめかもしれへんなー」とか言ってた。その度に励ましてたよ。
もう駄目って分かってるのに励ますのって結構辛かった。
そして来る日が来てしまって、その日普通にお見舞いいってその時に何故か
いつもの元気よさそうな声で「体に気ぃつけて頑張りぃやあ」ってはっきりと俺に
言ったんだよな。俺はなぜか「うん分かった」と言わずに「もーそんなこと言って!
おじいちゃんが頑張らんとw」って誤魔化してしまった。その次の日の
朝四時ぐらいに付き添いで一緒に寝てた祖母から電話があって「息してない!」って。
急いで家族たたき起こして病院むかったわけで、病院ついて待合室?みたいなところで
祖母が両手で顔覆って座ってたんだ。病室には入れなくて医者やら看護婦やらが
走り回ってた。ずっとアラームなりっぱなし。そこで3時間くらい待ったかなぁ
お医者さんが一人祖母とその娘(俺の母)をつれて仮眠室?に入っていった。
なにやら重要な話があったみたいで「祖父の心臓は一応持ち直した。でも、後
もって5時間くらいだってさ、意識も無し。最後はみんなで見守ろうって事になって
それから1時間くらいしたら家が近かった事もあって親族全員20数名一気に
集まってきたんだ。お医者さんが大きな病室に祖父を移してくれたんだけど
入りきらなかった。祖母は祖父の手とか足をさすって泣いてた。血族関係が深い
順に手とかさすってた。7時くらいだっけ、祖父の弟さんと一緒に朝ごはんを病院に
あるコンビニで買ってこようってことになって、コンビニに行ったんだよ。
ちょうど買い終わって病室に向かってる時に病室にいる俺の母親から携帯に電話
してきてね「早く来て」とさ、弟さんともうダッシュで病室に向かったけど間に合わなかった
母の話によると俺がコンビニに向かって5分くらいしてから急に血圧が減ってそのまま
止まったらしい。もう、泣いたね。おい!タイミング悪すぎるだろとか思ってた。祖母は「あと3年は
頑張るって言ってたのにー!」って言って泣いてた。

俺の勝手な思い込みかもしれないが、おじいちゃんは俺に死ぬところ見せたくなかったんじゃ
ないかと思ってる。俺は頑張るよ絶対
443中2の名無し:2011/01/17(月) 17:50:24
人生わ天気見た人いますか?
444名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/17(月) 23:23:01
イネーヨ
445中2の名無し:2011/01/18(火) 03:03:02
おつかれーーー
だりーな藁
ふぁっきゅーん
まじ清楚系疲れた
泣ける話紹介しただけだろ笑
446名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/21(金) 08:12:57
エフゼロ

スーファミを発売日にファミコンが大反対だった父が何故か買ってあげると言い出して父と一緒にデパートに買いにいった。
デパートにはもう人がたくさん並んでいて、ピリピリとしたムードだった。
開店と同時に雪崩れるように、「走らないで下さい!!!」と言う係員の声も聞かずダッシュ。
みんななりふり構わずエスカレーターを猪突猛進。
ハイヒールが片一方落ちていたり、わーわーキャーキャー酷かった。

命からがら?おもちゃ売り場につく。
多分5階だったかな?
ちょっと息がきれてたし心臓もバクバク。

マリオが欲しかったんだけど売り切れてて仕方なく買ったのがエフゼロだった。
でも嬉しかったな。
父が帰りの車の中でドヤ顏だったのと、抱きしめたデパートの袋がなんとなく懐かしい。

グラフィックとか中学生のオレには良くわかってなかったがとにかく「はえぇ〜おもしれ〜」だった。
遊ぶ時間は1時間だけって約束を何度も破ったっけ。

父と話すのは苦手だし、話も聞きたくないけど、思い出すと良い思い出もあるもんだな。

思い出のスーファミソフトでこんな時間にこんな事思い出すなんて思わなかったよ。
ありがとう。
447名無しの猫科:2011/01/23(日) 04:16:18
こんばんは
私の家で飼っていた猫の話をします


高校1年の時、私は駅の線路で野良猫が産んだ子猫を2匹拾いました。
3匹いたのですが、1匹は友達が連れて行きました。
1匹は真っ白な雄で、もう一匹は茶トラの雌。
雌のほうは最初雄だと思っていましたww
当時は黒ブチの雌猫も飼っていたんですが、案の定
最初の頃は2匹の事を少々嫌がっていました。

次の日、友達を呼び2匹に名前をつけることにしました。
雄は白夜(びゃくや)、茶トラは空覇(くうは)になったんですが
名前をつけた数日後に空覇が雌だと気づき、友達と驚いて叫んだのを
今でも鮮明に覚えていますw

めくるめく内に時は過ぎ、白夜と空覇が来てから2年が経ち
私も高校3年になりました。
白夜も空覇も人懐こく、個性的な性格の猫になりました。
白夜はいつも私の後を付いて来ては、朝私に怒られてました。
でも怒られても喉をぐるぐるならし、可愛らしく「にゃー」と鳴くんです。
そして私が帰って来ると必ず玄関に走ってきて、すりついてきました。

いつも元気で友達からもとても可愛がられていて
もちろん私も可愛がっていまいた。
白夜がいて空覇がいて当たり前の日々でした。


…だけどそんなある日、白夜に小さな異変が起きたんです。
448名無しの猫科:2011/01/23(日) 04:18:28

続き

いつも朝にはなくなっている餌が全然減っていなかったんです。
だけどいつものようにすり寄ってきて「にゃー」と鳴きました。
帰ってきて皿を見ると、朝よりは餌が減っていてホッとしました。


…一なんだ、あの時はお腹空いてないだけだったんだ


その小さな異変でなぜ白夜を病院に連れて行かなかったのだろう、と
思い出すたび後悔しています。

そして2日後、白夜は寝床からあまり
動かなくなりました。
時折立ち上がってトイレに行き
戻ってくるとまた丸まってじっとしています。
母親に事情を話し、病院に行くためのお金をお願いしました。
ですが「お前が勝手に拾ってきたのに、なんでお母さんが払わなきゃいけないんだ」
そう言われてあっさり断られてしまいました。
その時の私は収入がなかったので、何度もお願いしましたが
何度言っても母の答えは同じでした。

そして白夜の具合が悪くなってから2週間近くが経ちました。
少しぽっちゃりしていた百夜は痩せて少しやつれていました。
なにもできない自分が不甲斐なくて毎晩泣いたのを覚えています。

次の日、前日に祖父が病院代をくれたので
学校が終わったら絶対に連れて行こうと思いました。
私はその朝百夜の頭を撫でながら
「あたしが帰ってきたら、病院に連れてってあげるからっ。待たせてごめんね。」
その時の白夜の返事は「にゃー…」と弱弱しくも
どこか嬉しそうな鳴き声だったのを今でも鮮明に覚えてます。
「死なないで」と、何度も心の中で呟きました。

「白夜、ずっとあたしの愛猫でいてね。あたしが成人して
この家を出る時も、びゃくとくうを捨てたり誰かにあげたりなんて
絶対にしない。あんたらは、あたしの大切な家族。だからずっと一緒にいてね。」

猫に言葉が通じるはずなんてない。
きっと白夜には何を言ってるのかさっぱりだろう。
だけど言いたかった。百夜に伝えたかった。
その時百夜はただ「にゃー」と鳴いただけでした。
行きたくない、という重い脚をあげて玄関に向かいました。
すると、最近寝床から動かなかった白夜がその日は玄関まで
御見送りをしてくれたのです。
涙を堪えて私は学校に行きました。

私は白夜の事が気が気じゃなくて、授業なんか手につきませんでした。

そして放課後になり私はすぐに帰宅しました。
「白夜!!」
勢いよく玄関を開けて白夜の名前を呼びました。
ですが、次の瞬間私は頭が真っ白になりました。
449名無しの猫科:2011/01/23(日) 05:05:48
続き

…―白夜が私の足元で倒れていたんです。

私は玄関のドアを静かに閉めると泣き崩れました。
今までにないくらい泣き叫びました。
私は白夜をそっと抱きしめましたが、冷たく
ピクリとも動きませんでした。

「白夜…嫌だ、嫌だよ。白夜っ…返事してよ…」
名前を呼んでももちろん返事はありません。
頭ではわかっていました。もう白夜が動かないこと、
鳴き声が聞けないこと、一緒に日々を過ごせないこと…。

私は泣きじゃくりながら白夜に謝り続けました。
そして後悔と同時に自分を責めました。
なんでもっとお願いしなかったんだろう
私にもっと収入があればよかったのに…。
後悔と悲しみのなか、私は自分の家の庭に
穴を深く掘り白夜を埋めました。
そして手を合わせ願い、祈りました。

白夜が天国で幸せになれるように…
生まれ変わったらまた出会えるように…
強く強くそう思いました。

…数日後、携帯のデータフォルダを漁っていると
白夜の写真がたくさん出てきたのです。
そのなかで私は1枚の写真に目が留まりました。
その写真は白夜がミニハットをかぶり
(`ω´)←こんな感じの顔で写っている写真でした。
その顔はどう見ても間抜け面だけど、そんな白夜の姿が
愛しくてたまらなくなり私はまた、涙が止まらなくなりました。
次々に出てくる写真は、白夜との日々を鮮明に思い出させるものばかりでした。

そんな泣いてばかりの私に友達は言いました。
「お前がそんなに泣いてたら、びゃくも心配して天国にあがれないよ?
ちゃんとあがってほしいなら、びゃくのためのにも笑えよ。
お前が笑顔でいることが、びゃくはなによりじゃねん?」
私は何も言えませんでした。その言葉を反芻して
私は白夜の写真を見つめました。そして決めました。

白夜の分も今生きているくうやキノとたくさんの日々を過ごすことを。

…私の携帯には今も白夜の写真がたくさんあります。
悲しいとき、ツライ時、それを見て元気をもらってます。
そして今もくうとキノは元気に日々を過ごしています。

みなさんも自分のペット…いや、家族を大切にしてください。
一緒に過ごせるその時間を大切にしてください。
時間は永遠ではないので…

駄文・乱文・長文失礼しました


450名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 10:59:13
親父の話。

高校1年の夏休み、両親から「大事な話がある。」と居間に呼び出されたんだ。
親父が癌で、もう手術では治りきらない状態であると。
暑さとショックで、頭がボーっとしてて、変な汗が出たのを憶えている。

当時、うちは商売をしていて、借金も沢山あった。
親父が死んだら、高校に通えるわけがないことは明白だった。
そして俺はお世辞にも優秀とはいえなかった。クラスでも下位5番には入ってしまう成績だった。

その夏から、親父は、抗がん剤治療を開始し、入退院を繰り返していった。
メタボ体型だった親父が、みるみる痩せこけていった。
母親の話では、主治医の見立てでは、もって1-2年だろう、ということだった。
ただ、親父は弱音を吐くことはなかった。
親父は「高校、大学はなんとかしてやるから、しっかり勉強しろよ」って言ってたよ。
仕事もやりながら、闘病生活を続けていた。

451名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 11:01:09
俺といえば、目標も特になく、高校中退が頭にチラついて勉強は進まなかった。
ただ、ボーっと机に向かって、勉強するフリだけはしていた。
せめて親父を安心させるためだったと思う。

だから、その後の成績も、とても期待に添えるものではなかった。
ただ、親父の「高校、大学はなんとかしてやる」の言葉が、重かった。

「おまえ、将来、何かやりたいことはないのか?」
高校2年の冬、痩せこけた親父に問いかけられた。
俺は、期末テストで学年ビリから2番をとり、担任からも進路について厳しい話をされていた。
言葉もない俺に、怒ったような泣いたような顔で親父は言った。
「・・・ないなら、、医者になれ! ・・・勉強して、医者になって、おれの病気を治してくれ!」

452名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 11:02:52
上手く説明できない熱い感情に、頭をガツンと打たれた。
自分への情けなさとか、怒りとか、色々混じったものが込み上げた。
その時、親父には返事を返すことはできなかったが、俺は決意した。
それから、猛烈に我武者羅に勉強した。

高校3年の夏、親父は逝った。
親父は、闘病生活の2年間で借金を整理し、俺の高校の学費をなんとか工面したそうだ。
親父のおかげで、高校卒業できた。
そしてありがたいことに、1年間の浪人生活を経て、俺は地方の国立大学の医学部に合格した。

俺は今、癌専門治療医として働いている。
親父は、「あいつは、将来おれの病気を治してくれるんだ」と母に言ってたそうだ。
まだ、親父の癌を治す力はないが、日夜頑張っているよ。
いつか、親父の癌を治せるように。



453名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/23(日) 15:03:42
生まれて38年、女性経験なし。
454名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/24(月) 12:13:15
>>453
このスレで1番泣いた。
455名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/25(火) 09:12:39
文章下手だからチラ裏だとおもってくれ

5年前に母親が亡くなった

母は俺が10歳の時離婚して兄と俺を引き取り朝〜夕方までパート夕方から深夜まで
飲み屋で働いていた。
兄は私立の高校行ってて授業料もいっぱいいっぱいで、もちろん家にはほとんど
食べるものも無かった。俺は給食で余った牛乳やパンなどを持って帰ってきて
それを夕ご飯にしていた。
貧乏だったけどそれが普通と思っていたから別に苦にもならなかった。

その後母親は俺が14歳のときに再婚した。
再婚相手の義理父はすごくいい人で俺や兄もすごく可愛がってくれた。

そして俺が専門学校を卒業して親父さんの仕事を手伝うようになって
半年後・・。手足が痺れると母親が・・。

医者「悪性の脳腫瘍です」

一瞬何が起こったのかわからなかった。そのまま入院になり手術の日もきまり
家に親父さんと帰ってきたら・・。

親父さんが初めて号泣。つられて俺も号泣したよ。

手術は時間はわからないけど結構かかった・・。

手術は無事に終わったように見えたが医者から

「耳かきほどの腫瘍しかとれなかった、場所が悪すぎた」・・と。

456名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/25(火) 09:26:48
その後放射線治療や抗がん治療などをして
退院した

その後は後遺症に若干悩まされていたようだけど元気を取り戻したかのように思えた
その間兄貴の結婚、初孫と色々あったけど
時間はゆっくりと母の病気を進行させていた


7年後の夏の暑い日

家に帰ってくると暖房がついていた・・。外の気温は30度を超える猛暑なのになんでと
感じたら母親が脱水症状で倒れていた。
病院に着くと手がもう利かない状態で握力もなくなっていた・・。

病気に再発にてっきり治っていたと思った俺は愕然とした。

もう手の施しようもない状態で病院のたらいまわしだったけどどうにか入院できる近くの
病院があった。

日に日にやせていき・・。だんだん俺の顔も誰かわからなくなり・・。空中を指で
さしたりとなってきた。

そして入院して三ヵ月後危篤の電話を受けて急いで病院に向かった。

兄は遠方のため夕方に帰ってきた。その晩はどうにか持ちこたえて

次の朝兄貴達家族と一緒に病院に行ったとき母の容態が急に変わった。

そしてそのまま他界しました。
457名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/25(火) 09:38:13
ほんの5分遅れていたら最後に立ち会えなかったのだけど
母は多分待っていてくれたのだと思う。

それを思ってさらに号泣した。

折角兄弟二人とも社会人になり今から自分の為に過ごせる時間ができたときの
矢先の出来事でした。


その後俺も無事結婚して家庭をもてたのだが
去年の春ぐらいから頭痛と吐き気が止まらなくり

もしやと思い病院にいってMRIとってもらったけど異常なし・・。
その後もずっと続きなんかやる気が出ないと言うことで病院に行ったら

鬱と診断された・・。で体のほかも調べると言うことで検査したら
肺がん・・・・www

結構きているらしいがまだいろんな意味で自宅療養中。
結婚して4年目だが子供がいないことが幸いした。

嫁さんよまだ若いから早く今のうちにイイ人探しといてくれよ。

俺は残せるものが少ないけど・・。しかしごめんよ。こんなやつと結婚しちまって

俺はしっかりした家庭と家族と幸せを築けなかったけど
次は幸せで笑顔ある人生にしてほしい。ありがとう


以上グダグダなチラ裏でした。すみませんでした。
458名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/30(日) 04:19:24
俺が幼い頃母親が自殺未遂をした。
間一髪従兄弟から電話がかかってきて状況伝えて母親は助かった
今でも当時助けられなかった自分自身が最悪なやつだと思う
でも、首吊ったせいで脳に損傷が酷く入院をずっとしてた
俺は従兄弟の家で一時期一緒に住んでいたんだが、数字とかろくに数えられない俺を従兄弟の母親は一生懸命教えてくれた
母親とは離ればなれで雨の病院での帰りタクシーの中で病院の部屋を眺めながら降ろして降ろしてって一生懸命泣いてたのを覚えてる
でもそれは従兄弟の母親も同じ気持ち抱えていたんだな
俺がいじけて死んでやるって言ったらものすごい怒られた
たぶん当時俺よりも従兄弟の母親のほうがショックがでかかったと思う
そして数ヶ月経って俺は父親と数ヶ月ぶりに会った
まだ幼い俺でも当時父親がこんなにも悲しそうな顔をしているのは今でも覚えてる
そして俺は父親に連れられておばあちゃんの家に向かった
でもその頃お金の事で困っていたらしく俺は親戚の家にたらいまわしされた
正直いい記憶なんてない・・・
何年かしておばあちゃんの家に一緒に住めるようになり数年間住んだ
その頃母親は意識を取り戻して一緒に住めるようになってた
でも喉に穴空けて管を通してた
そして脳の損傷が激しかったのか俺よりも人形を可愛がるようになってた
というよりも母親が子供に戻ったような印象だった
俺は嬉しくて嬉しくて子供心に悪戯したり保育園の友達を連れて家で母親に紹介したりした
そんなある日家に帰ると騒がしかった
母親が死んだ
突然の出来事で何が何だか分からなかったし当時の俺は何から何まですっぽ抜けてて 死 というものがどういうのかまだ理解できてなかった
だから、悲しみとか湧かなかった
葬式の日保育園の先生がものすごい悲しい顔して俺を見ていたのを今でもはっきり覚えてる
ある日から母親がぽつんといなくなった部屋はなんだか寂しかった
それからか父親が一ヶ月に1回顔を見せに俺のところまで来てくれるようになった
父親が母親と重なったのか父親が来てくれると嬉しくてたまらなかった
そして父親が帰る時はいつも大泣きしてた
数年後小学4年の時に父親と一緒に住むことになって今いる家に一緒向かった
そこには第2の母親がいた
最初は違和感あったけどでもだんだんと馴染んだ
いろいろなところに母親と出かけたりしたけど俺はどこか心の中で一部寂しかった
いつも母親は叱ってばかりの日が続いた
行儀作法とか礼儀とか何から何まで叩き込まれた
当時の俺はなんでこんなに怒られなくちゃいけないんだとか思った
でも今となってはとってもありがたいことだってすごく思った
そして中学生になってからいじめられた
怖くて家から出られなかった
そんな時母親は時には厳しく時には優しく接してくれた
情けない自分にショックが大きかった
そのまま定時制高校に行くけどもやっぱり馴染めずちょっと遅い反抗期で親と反発した
やめてしまった
それからどんどん怖くなってきて引きこもりになった
母親とも口も聞かなくなった

今は引きこもり3年で18歳になり母親とは数年間口も聞かず父親だけに会う日々です
統合失調になってついには言動とかおかしくなった
文がおかしくてすみません

泣ける話ではないですよね
突如書きたくなってしまいました
459名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 22:44:16
正しい意味で山梨落ちなし意味なしだし長いんだが聞いてくれ

私のひいばあちゃんは、昨年の5月に亡くなった
大正生まれの94歳だった

ひいばあちゃんは、戦争でひいじいちゃんを亡くした
南の島で戦死したため遺骨も帰ってこなかった
ひいばあちゃんは女手一つでばあちゃんとばあちゃんの弟を育てた
けれども、ばあちゃんの弟は20歳過ぎくらいで病気で亡くなってしまった
今なら治る病気だったらしいけど、当時は薬が無かったそうだ

そんなひいばあちゃんは、ばあちゃんとその旦那さん(私のじいちゃん)と暮らし
私の母さんや叔父さんの面倒を見つつ、畑を耕してだんだん年老いていった

私はひいばあちゃんのひ孫だったんだけれども、めちゃめちゃかわいがってくれた
猫っ可愛がりというか、本当に大事なものを見る様な目だった
時々、私と弟を母さんと叔父さんの名前で呼んだりしてたけど

ひいばあちゃんが90歳になった頃、ばあちゃんから突然電話があった
「ひいばあちゃんが倒れたんよ」
曲がった腰でもまだ農作業を続けていたひいばあちゃんは、大根を洗っていて倒れたらしい
そして、目が覚めた時にはボケてしまっていた
460名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/31(月) 22:46:00
遠方に住んでた私達家族は、年の瀬にようやくひいばあちゃんに会いに行けた
ばあちゃんっ子だった母さんは、ひいばあちゃんの手を取り泣いていた
記憶の中のひいばあちゃんの手は、農作業をしていたからかゴツゴツしていてどこか黒くなっていた
けれども、母さんの手の中にあるのは真っ白で綺麗なひいばあちゃんの手
孫である母さんや叔父さん、娘であるばあちゃんのことも分からなくなっていた
変わらないのは、ひいばあちゃんのニコニコした顔だけだった

私達が帰ろうとした時、不意にひいばあちゃんが「Sちゃん」と私の名前を呼んだ
最後に会った時は母さんの名前で呼ばれたのに、はっきりと私の名前を呼んだ
周りが「ばあちゃん今何て言ったんね」と聞いても二度目はなかった

ばあちゃんから電話があったのは、私が家に一人でいる時だった
「ばあちゃんね、今さっき亡くなったんよ」
風邪から肺炎になって、そのまま眠るようになくなったそうだ

新幹線に飛び乗ったけれどもお通夜には間に合わなかった
棺の中のひいばあちゃんは、お人形さんみたいに可愛らしかった
老人ホーム生活の間にすっかり色白になっていて、お化粧も綺麗にほどこされていた
その時は涙も出なかったけれども、何故だか息苦しくなって目を逸らしてしまった

お葬式の日は、よく晴れていた
知らない親戚が集まって「Sちゃん(母さん)によう似とんねぇ〜」と言われたりしながら焼香をしたりした
いよいよ出棺となって、祭壇の花を棺に入れるように言われた
初めて涙が出て来たのだ

戦前、戦中、戦後
三つの時代を生き抜いてきたひいばあちゃん
「Sちゃん(私)やNくん(弟)を見ると、胸がすうっとするんよ」
と言っていたひいばあちゃん

もっと沢山のことを教えて欲しかった

なぜかそのことだけが、頭をぐるぐる回って涙が止まらなかった
ひいばあちゃん、あの時私の名前だけを呼んだのはなんでなの?
私に何を言いたかったの?

沢山のお花に囲まれたひいばあちゃんは、まるで物語のお姫様のようだった

初盆で帰省をした時に、親戚の誰かが大きな蓮の蕾を祭壇に飾った
その蓮は、淡いピンク色の花を綺麗に咲かせた
ある親戚が言ったのだ

「ばあちゃんは、そういう人やね」

私はなんだか、やっとすうっと心が軽くなった

461名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/05(土) 13:33:30
462名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/20(日) 19:41:19.54
小学生のとき、少し知恵遅れのA君がいた。
足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅い。でも、絵が上手な子だった。
彼は、よく空の絵を描いた。抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。

担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。
冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を
周りの子供は笑う。N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。
私はN先生が大嫌いだった。

クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することに
なったので、全校集会で先生のお別れ会をやることになった。生徒代表で
お別れの言葉を言う人が必要になった。先生に一番世話をやかせたのだから、
A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。お別れ会で一人立たされて、どもる姿を
期待したのだ。
私は、A君の言葉を忘れない。
「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」
A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。水彩絵の具の色の使い方を教えて
くれたこと。放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。
その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。N先生がぶるぶる震えながら、
嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。

この世も捨てたモンじゃないですね・・・
463ひかぴ:2011/02/22(火) 12:30:26.79
高校の頃とにかくバイトと遊びではしゃぎまくってた。
無免で中型乗って馬鹿だからマッポに捕まったりしてお母さんに迷惑かけまくった。

バイトもキャバクラと他に掛け持ちして学校も公立の普通科で超多忙で通学費だけは自分で払ってた

そんな中、高2〜3までダイエットと忙しさで拒食症になった
すごいガリガリになって普通の生活が辛くて眠くてイライラがずっとあった。
でもバイトも学校もしっかり行っていたが毎朝おかんが作るお弁当を全く食べずに家においていったままにした。

ほとんど食事をとらず友達にも家族にも相当心配かけてた時期。
家族との仲に溝ができて会話がほとんどなかった。

しかしやっぱり人間の本能。
いずれ食欲は出て来て普通の生活が出来るようになり今ではその反動がきてる w
拒食症の症状も軽くなった頃の高校卒業間際、学校最後のお弁当がある登校日。

久々の朝の会話 お弁当忘れてるよ。

その日学校で丁寧に包まれたお弁当ばこを開けた

母からの手紙が。

あなたのダイエットなることから母はお弁当を作らなくなり
悲しいような…楽チンだったような…
一時期は本当にどうなるのか不安で仕方ありませんでした
たくさん心配かけることをしてくれたあなたですが体だけは健康にね。
いずれあなたにも子供ができて文句を言いながらお弁当を作る様子を思い浮かべると笑っちゃう。
でもあなたはママの娘。何があっても大丈夫。
これからも頑張ろうね

学校で泣いた。友達に自慢しまくったw

泣きながら手紙入ってるよーって。
そのお弁当には私の大好きな母の手作りだし巻き卵焼きが入ってました。
うちのおかんは本当に料理がうますぎて
ピザも生地から作りで味噌とかも家で作ってます。絶品。

今私は19歳。就職して1人暮らししています。
おかんのお弁当、なんでなんでもっと欲張って
べなかったんだろう。
人生最大の悔い。
今更だけどおかんのお弁当ってどれだけあったかくておいしかったのか思い知らされました。あの愛情に勝てるものはこの世にないでしょう…
おかんみたいなおかんになることが私の夢です。
464名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/22(火) 23:48:19.91
人生最大の悔いは「もう少し勉強しとけばよかった」ってことじゃねーの?
誤字脱字気をつけてな
465名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 11:13:59.48
ちょっと聞いてくれ。泣けないとは思うが。

私は幼稚園の頃から母子家庭で育ってきた。
貧乏で、いつも姉と母と三人で肩寄せ合って暮らしてきた。

母は生活費を稼ぐ為に朝から夜中まで働いた。
お金がなかったので、母は、
「友達の家で食べてきた。あんたらだけ食べなさい。」と言いながら
食事をとらない日もあった。

けど母子家庭だからといって不自由はさせたくないと、
同年代の子が欲しがるものはちゃんと買い与えてくれた。
ゲームのひとつでも持っていないと恥ずかしいだろうと、
自分の食費や衣服代を抑えて、ゲーム代を貯める母はどんな気持ちだったのだろうか。



そんな私も高校生3年生になった。
来月1日に卒業をひかえている。

ここまで育ててくれた母に感謝し、
これからは社会人として恥じることのないよう、働いていきたいと思う。

そして働いて得たお金で、めいいっぱい母に恩返しをしたい。
おいしいものたくさん食べて。
たくさん旅行もして。
夢だったという新築にも住まわせてあげたい。



母さん

ここまで育ててくれて、本当にありがとう。
あなたはわたしの世界一の母親です。
どうかこれからもよろしく。

親孝行するんだから、とっとと長生きしろよ!



ここまで打つのに1時間かかった。
拙い文章だったが、読んでくれてありがとう。

466名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 13:41:23.65
>>465

いい心構えだな


だが『とっとと長生き』っていう言葉は泣けたよ


467名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/23(水) 15:03:52.18
泣ける話

俺が小学生の頃、クラスに馴染めずイジメに合ってた奴がいた、
イジメによる極度の緊張に授業に集中できず、学力低下、休み時間は他の人との接触を拒むためかいつも寝たフリをしている、顔は色白で女の子のような顔をしていたため「オカマ」と言うあだ名で呼ばれていた。
俺はイジメが大嫌いでいつもそいつと一緒にいた、そいつは俺といる時はいつも笑顔を見せてくれ、俺も嬉しかった。

そいつは次第に笑顔が増えイジメられなくなり
成績も学年のトップにランクイン、女の子のような顔でついたあだ名もいつしか「美形」に、
そして今・・・




俺、そいつにイジメられてます
468名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/24(木) 01:00:47.93
ツマンネ
469名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 23:06:21.45
…昔、俺は遊び人だった。彼女が居るにもかかわらず浮気ばかりしていた。彼女にバレ無いようにこっそりと浮気を遂行していた。
そんなある日、彼女とのデートをキャンセルし他の女と会う約束をした。テンション上がり車で待ち合わせ場所に急いで向かっていた。一瞬だった…横から猛スピードで飛び出してきたハイエースとガシャン。救急病院に運ばれた。三週間意識が戻らなかった。
470名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 23:09:36.12
三週間意識が戻らなかった。その間、親の話では彼女は仕事を休んで、俺の横で俺の好きな曲「変わらぬ想い」を流し、ずっと俺の手を握りながら目を開けるのを待っていてくれたとの事。
不思議な事に夢の中の俺は車の中でその曲を延々と聴いていたのだ。しかし、その車の助手席には何度みても誰も乗っていないのだ…しだいに大粒の涙が流れた。
《何の涙だろうか?後悔の涙だろうか?別れの涙なのだろうか?》
471名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 23:11:21.67
空を見ると太陽が光っていた…何故か太陽から雨が降っていた。大粒の雨が車の中の俺を何故か濡らした。
そんな太陽を見つめていると吸い込まれていった。現実の俺の目が開いたら。まぶしかった。夢の中と同じ曲…
病院の部屋内で「ジョージベンソンの変わらぬ想い」が流れていた…眩しい光の目の前には無表情で目を見開いて涙を流す彼女の顔があった。
472名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 23:11:58.42
涙がポツリポツリと俺の頬に落ちた。
それを目の辺りにした俺の目からも自然と大粒の涙が流れた。
彼女は抱き付いてきて一時間位だろうか?無言のまま抱き合った。俺は我慢できず口を開いた。「ごめんな。今まで大事にしなかった報いだわ。俺はお前と付き合う資格ないわ。ごめんな」
それを聞いた彼女は言った。「知ってるから」「でも死なないで。死んで欲しくないから」
俺は涙が止まらなかった。
473名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 23:15:12.14
子供の様に泣きじゃくった…

…あれから五年になるのだが…俺には今…「彼女」が2人いるんだわ…
いや、 正確には、彼女のお腹の中の彼女を入れて3人だ。
大事なモノを気付かせてくれた大事な人との証だ。
《生かしてくれて有り難う》

連発長文ゴメンナサイ。

474名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/01(火) 23:21:23.97
で、どこが泣ける話?
475名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 07:58:31.84
泣けるかどうかわからないけど
この春、43歳獣医の俺に始めて部下(同僚?)ができることになった

俺は母親の腹の中にいるときに鳶の父親が転落死して
それをきっかけに母が発狂して施設送りにされ俺は遠い親戚に預けられて育ったんだけど
高校は定時制で動物園の飼育員になろうと思ってたんだ
その過程で獣医になれる道が開けて開業していた院長に拾われて現在に至るわけだけど

今年の春に入社してくる子(女性獣医なのだ)
もやっぱり小さい頃、両親をいっぺんに交通事故で失って田舎の祖父母に育てられたらしい
面接に来たときに俺もいたんだけど、履歴書見ただけど、なんだか他人に思えなくてさ
院長に強くプッシュして採用にしてあげた

大事にいい獣医に育ててあげたいと思ってる。
476名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/04(金) 19:00:08.20
×始めて
○初めて
          な
477名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/21(月) 03:53:56.69
うんこ
478名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/21(月) 14:32:22.00
医者としての勉強は十分でも、漢字の勉強は不十分だったと。
479名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 03:22:37.32
5年くらい前にヤフオにカツラを出品した事があった

出品して二時間、早期終了願いがあった。しかし、断ると、余りにもしつこいので理由を聞いてみたら…

白血病の姉が一時帰宅する事になったからプレゼントしたいとの事
私は感動してしまい、速攻終了して他にも出品予定だったカツラをオマケして速達で送った
かなり赤字だったけど何だか満足だった
それから二週間くらい過ぎた頃、手紙と写真が送られてきた
とびきりのお洒落に、例のカツラ姿 満面の笑み とても綺麗な女性でした
手紙には感謝の言葉
嬉しかった
それから彼女との文通が続いた
半年を過ぎた頃、手紙が途絶えた…
それから一年位過ぎた頃
妹さんから封筒が届いた
中には写真と、書き掛けの手紙
そしてもう一枚別の写真
それは葬儀の集合写真だった…
涙が止まらなかった…
以前手紙に私は、いつか退院したら、素敵なプレゼントあげるね☆って約束した
そして私は先月プレゼントを持って初めて彼女に逢いにいった
もちろん彼女が眠るあの場所に…
480名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/25(金) 11:32:10.64
被災地で亡くなった人の身元確認など検死業務をするため宮城県に派遣されていた大阪の医師が会見を開き、
津波に飲み込まれた犠牲者の惨状を語りました。

 堺市医師会の河野朗久医師は今月15日に被災地・宮城県に向かい、
2日間、遺体の身元を確認する検死の業務に当たりました。

 河野医師によりますと、

「遺体はほとんどが溺死で津波によって屋外に流されていたため身元を判別する材料が少なく、
検死したおよそ100人の遺体のうち身元が判明したのはわずか7、8人でした。
 …お母さんが赤ちゃんを本当に守るように抱いたまま亡くなられているご遺体とか、
兄弟だろう思える方が手をつないだまま亡くなっておられるご遺体だとか、
本当に一瞬にして町を津波が破壊して人々の日常の生活を奪ってしまったんだなと…(沈黙)」

 河野医師は「必要があればいつでも被災地に向かいたい」と話しています。
481中3女子:2011/03/30(水) 11:23:30.34
http://nakeru.blog23.fc2.com/blog-entry-285.html

松本人志さんと同じタイプのあたしも
泣けました
見てみて下さい…
482名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 12:52:33.10
地震で津波と火災の被害に見舞われた宮城県気仙沼市市立気仙沼小学校で
2011年3月22日卒業式が行われ、6年生の児童62人が参加しました。
体育館は避難所となっていて、卒業式は教室で行われました。
斎藤益男校長は
「5年後、10年後の郷土の復興を担う皆さんに期待しています。」と涙をこらえた様子で
挨拶しました。
卒業証書を受け取る児童は大半はジャージやジーンズ姿でした。
「旅立ちの日に」の合唱で、児童たちは涙目で上方を仰いだり、服の裾で顔をぬぐったりしながら歌いました。

     旅立ちの日に
           作詞:小嶋 登 
           作曲:坂本 浩美 
           編曲:松井 孝夫

  白い光の中に 山並みは萌えて
  遙かな空の 果てまでも 君は飛び立つ
  限りなく青い 空に心ふるわせ
  自由をかける鳥よ 振り返ることもせず
  勇気を翼にこめて 希望の風に乗り
  この広い大空に 夢を託して

  懐かしい友の声 ふとよみがえる
  意味もない いさかいに 泣いたあの時
  心通ったうれしさに 抱き合った日よ
  みんな過ぎたけれど 思い出強く抱いて
  勇気を翼にこめて 希望の風に乗り
  この広い大空に 夢を託して

  (※)今 別れの時 飛び立とう 未来信じて
     はずむ 若い 力信じて
     この広い 大空に

  (※)繰り返し


483名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 18:42:50.14
>>482
泣いた。


484名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/01(金) 12:35:34.17
>>482
(T_T)

ニュースで被災者が
「もう4月だからいつまでも泣いている場合じゃない、これから前向きに復興に全力で取り組む」と言っていた。

我々も、いつまでもただ泣いているだけではなく、前向きに生きて
被災地の復興にできる限りの協力をしよう。

485名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/01(金) 21:09:26.55
今日は4月1日
486名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/03(日) 10:52:47.28
東北(全身骨折)「うぅ…」
関東(かすり傷)「痛ぇー、マジ痛ぇー、マジ死ぬわー。おいそこちんたらしてんじゃねえよ、さっさと救急車呼べよ」
西日本(無傷)「おい、東北大丈夫か!?酷い怪我じゃないか」
関東「そんな奴なんかどうでもいいだろうが。俺を病院まで運べ!」
(新潟長野震度6、宮崎新燃岳再噴火、静岡県東部震度6)
西日本「こちらのことも心配だが…今はそれどころではない。東北が安静に療養できるようにまずは物資を送ろう」
関東「おぉい、俺らに優先的に送りやがれ。東北に物資送ってる場合じゃねぇだろうが!
さて、買いだめ買いだめっと♪」
西日本「関東、お前は大したことないだろう。被災者ぶるな。大騒ぎするな」
関東「いちいちうるせーんだよ朝鮮人。電力不足?停電?ふざけんじゃねえよ!
地方の分回してさっさと電気よこせ!!キー局の報道が東京中心?トーホグの行方不明者より首都圏の停電を全国ネットで優先するのは当然だろ。さぁて、買い占めたキムチカップ麺食いながらフジテレビで大好きな韓流ドラマでも見るか。」
東北「うう……寒い…」
関東「何やってんだよ福島のカッペども。せっかく原発建ててやったのに壊しやがって放射能漏れてきてんじゃねーか!あ、風で流されるから大丈夫かw情弱ビビリすぎw北海道ざまあwwアメリカざまあwww」
(都内で放射能観測)
関東「やべえよやべえよ…被爆で死にたくねぇよ…。そうだ、西へ逃げよう。。。同じ日本人同士、困った時はお互い様。皆さん受け入れお願いしまつね(泣」
西日本「トンキン土民こっちくんな!!」
西日本「東北の被災者の方、どうぞ避難所をお使い下さい。」
487名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/03(日) 13:45:38.01
その台詞だと西日本に関西は入らないよな
488名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/04(月) 01:35:16.79
>>487
お前さん頭いいな
いい性格してる
489名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/04(月) 05:43:03.74
今回の震災で津波孤児となった子供は数百人に上る。
そんな中、両親と姉を亡くした4歳になる子が書いた一言

「ままへ。いきてるといいね おげんきですか」
http://rivens.info/IMG_LOG/20110401143507.jpg

ブワッ(´;ω;`)
490名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/04(月) 12:07:48.98
>>486-488
関西を中日本扱いすると、東海と北陸が可哀想だろ。
491名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/04(月) 14:11:45.24
                 どっか〜ん!!
                  (⌒⌒⌒)
                   ||

                // ̄ ̄ ̄ ̄\               /Vー-へノ\ノ\ノ\ノ\ノ\ノ\ノ\ 
─────----、    彳丿 納豆命 ::. lヽ    .-----──ノV                       \
 |    |    | `ゝ.__ |/::.  \,,,,,,,,/ u::ミ  /   |   く 
 |    |    |  |,( 6.(::ー─◎─◎─ー::)∂)|    |    ノ トンキンを叩くなんて絶対に許さぬぞ!!!
 |    |    |  |└、 (∵∴ ( o o ) ∴∵) l  |    |    ) 
 |    |    |  | | `ヽ ∴ ) 3 ( ∴ ノ/| |    |  <  じわじわと在日認定してくれる!!
、 |    |    |  | |  ヽ、  .,___,.  .,,ノ| / /    .|   )
  ヽ、  |   /^‐━, \_ヽ.u::___::__.ノ_/ /\   .| /└、
                妄想トンキン土人 >>490

492名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/04(月) 20:46:14.63
>>490
そういう意味じゃねーだろ
493名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 17:23:33.93
東京電力は4日、福島第1原子力発電所で高レベル放射性汚染水の貯蔵先を確保するため、低レベルの汚染水1万1500トンを海へ放出すると発表した。
Japan Ministry of Defense via Bloomberg
福島第1原発(3月31日)
 経済産業省原子力安全・保安院は、「大きな危険を回避するためにはやむを得ない」として、この計画を承認した。
 海へ放出されるのは、第1原発の集中廃棄物処理施設にある1万トンの汚染水と、5、6号機の地下にたまった1500トン。
 東電は、この汚染水の放射線量について、成人が近隣の魚類や海藻などを毎日食べ続けた場合の線量は年間約0.6ミリシーベルトで,一般公衆が自然界から受ける年間線量(2.4ミリシーベルト)の4分の1程度としている。
http://jp.wsj.com/Japan/node_215912

494名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/05(火) 22:37:18.28
>>493
さまざまな国が手を差し伸べてくれて涙が止まらないが、核汚染しまくってることを知ってもなお今のように接してくれる国がどれだけあるだろう。
しかも東電の姿勢を知った上で。
495名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 14:10:40.51
>>493
漁業関係者にとって怒りの涙。

(平成23年4月5日 全国漁業協同組合連合「福島第一原発放射能汚染水放水に対する抗議文」 全文転載)
4月4日、政府は福島第一原発施設内の放射能汚染水を、漁業関係者に何の相談もなく大量に放水することを決定し実行するという暴挙に出た。
本会は、東京電力の関係者に対し高濃度放射能汚染水の海への流出を一刻も早く止め、これ以上の海への流出を行わないことを強く申入れてきたにも
かかわらず、国と東京電力はこれを無視し、我が国漁業を崩壊に導く放射能汚染水の放水を強引に実行した。
地震による施設の損壊状況の把握や放水による水の処理等、当然として行わなければならない手立てを何ら行わず、このような重大な事態を引き起こ
した、国と東京電力の責任は到底許されるものではない。
海で生計を立てている全国の漁業関係者は、無責任な対応に計り知れない強い怒りを抱いている。
我が国漁業を死に至らしめないため、汚染水の放水を一刻も早く中止するとともに、高濃度汚染水の流出防止にあらゆる手を講じなければならない。
今回の国と東京電力の一方的な決定によりなされた暴挙と高濃度汚染水の流出が引き起こすあらゆる問題への対応や、直接、間接を問わず関係者の被
る全ての被害に対する補償は、国と東京電力の責任において実施することを直ちに明らかにすることを求める。
496名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 16:54:49.73
497名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/06(水) 17:14:43.07
これって放射能?
498名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/07(木) 21:48:31.08
募金したってブログとか、募金を呼びかけるサイトだけじゃなくて。
議論だったり、情報交換だったり、気持ちの共感だったり。
いろんなページを見ていると、自分も何かしようって思いになってくる。
それらの小さな積み重ねが拡散して、加速して、大きなうねりとなって、たくさんの人を救うと思う。

16年前にはなかった、インターネットという大きな力。
499名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/13(水) 04:37:10.69
846 名前: sage Mail: 投稿日: 2011/04/12(火) 17:44:34.07 ID: iy/fE1Fo0
今日校長に、牛乳を飲ませたくないと話をしてきたけど、
結果は散々だった。

一人の我侭ととられて、預かりになったけど、多分無理そう。
本当に残念。

一人の我侭を認めたらきりがないし、私立に行けって言われたよ。
子供の健康にかかわることだし、こちらも低姿勢で
ソースが確実なことをしっかり話すも、途中で遮る遮る。

保護者として、学校にお願いするなんて初めてのことだったけど、
校長の放射能への考え方次第でこんなにも対応が違うんだね。


とか

920 名前: 可愛い奥様 Mail: 投稿日: 2011/04/12(火) 21:16:33.71 ID: PS7pYXAZO
子供が学校で牛乳を飲んだというので、思いきり殴ってやった。
怖さをわからせる為には、親として仕方のない事だと思う。
明日は飲まないと誓ってくれた。でも、既に飲んでしまっているからうちの子は死ぬのだろうか。周りには大丈夫だと笑われるが、すぐに死ぬ事が確定している子供達に何からどう説明すればいいのか。
500名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/14(木) 10:23:02.06
飼い主のいない猫を引き取った。
鼻に斑のある三毛猫で、大人になっても体重は2kgくらいにしかならなかった。

就職して実家から離れても
たまに帰ると喉をならして膝の上に乗ってくれた。

ある日夢を見た。
なにもない真っ白な世界の中、
そいつが俺の数メートル先を歩いてた。
後を追おうとするんだが、なぜか距離が離れていく。
何度も振り返りながらら、にゃ―にゃ―鳴きながら
小さくなって見えなくなったところで目が覚めた。

嫌な予感がして実家に駆けつけた。
最期の時を教えてくれたのか・・・
眠ったように死んでいるそいつの体を
泣きながら撫でた。

ありがとう・・・

フギャ―!!

鳴きながら噛まれた。生きてた。
501名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/15(金) 01:14:01.78
で、泣くとこどこ?
502名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/01(日) 20:28:17.46
すげー考えて、俺なんかいいことしたことあったけ?
って悩んでたらあったわ、一つ。昭和祭って知ってる?
ショボい祭なんだけど、
屋根がある広場に屋台があんのよ
屋台っつっても小さいし三つくらいしかない
俺は毎年そこには行かなかったんだけど、中1の頃かな?
なぜだか射的が無性にやりたくなって、
250円持ってその広場へ向かった。
射的の屋台がもちろんそこにあったわけよ
屋台のおじさんに
「一回よろしく」
って言って銃を取ったその時に気付いたんだけど、
右隣に五歳くらいの女の子と白髪のおばあさんがいたのよ
503名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/01(日) 20:34:14.07
泣けないが続き
これ俺の実話な

女の子が
「あのクマ欲しい〜」
っておばあさんにだだこねていてね
クマっつっても空き缶くらい小さいんだけどw
おばあさんも仕方ないわね〜って感じで、
250円出した女の子、おばあさんに抱っこされながら撃っていて、
そりゃハズレる訳よ一発、二発、三発、四発…残り、一発
女の子、泣いてた
「ちょっといいですか?」
ってw
もうびっくりよ俺が女の子から銃奪うなんてw
周りポカーンしててさぁ俺も、
自分何してんだろう?ってww
クマ狙って引き金ひいた
めちゃ腕伸ばしてさwあれは反則だよなw
クマに当たって落ちてさ
屋台のおっさん
「はい」
って俺にクマ渡してさぁ俺もクマ、女の子に
「はい」
って渡した女の子、
「ありがとう!!」
って。なんか恥ずかしくてw
おばあさんも
「こんなことしてもらって…」
ってw
「いやいやいや」
って俺も顔真っ赤にしてさぁww
女の子クマ抱えて、おばあさんと一緒に手繋いで帰っていったよ
俺は自分の銃で撃って、菓子一個しか落ちなかったw
そしたら屋台のおっさんが菓子二個俺に渡すのよ
「え……?」
「いやいやいや、あれ反則だかんね」
んじゃあ、なんで二個渡すんだよ、って笑ってごまかしたんけど、
俺ちょっと涙目なってたw
ダッシュで家に帰ったよ
まぁそんな感じの話
そういえば今年祭行ってねえなぁ
来年は射的しに行くかな今度は反則なしでww
504泣ける名無し:2011/05/04(水) 17:54:22.35
ちょっと泣けたw
505名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 18:02:23.14
書こうか迷い中(o,,゚Д゚ )
506名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/04(水) 20:30:06.33
(ノ∀;)うーんなける話がねえwwmg(^Д^)プゲラ
507名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 00:57:43.83
まだ話したことないけど気になる女の子にいいとこ見せようとスケボーで通学。
颯爽とその子の横を通り過ぎさりげなくオーリー!

その子は一言「うぜぇ」

そのまま泣きながら滑り去りました('A`)
508名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/06(金) 20:57:07.13
別の意味で泣けたよドマ
バス通学の俺は運転手のおっちゃんがハゲてた事を知り

その日の夜、母に言った

怒られ次の日の事だった・・・

いつもどうり友達と話してたσ(゚∀゚ )オレ

「まだ童貞?(沙*・ω・)」

その一言

教室中がシ・・・ン

家で泣いた(´・ω・)
509名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 02:50:03.37
昨日はこどもの日だったけど去年と違って俺の隣に息子は居なかった・・・


一人息子のユウトは1歳の時に嫁が交通事故で亡くなって男手一つで育てていたので、母親の愛を知らないでいた。
俺はそれを申し訳なく感じていたが、いつも元気で明るい息子に救われていた。
そしてこの春小学校に行けるのをものすごく楽しみしていて、俺もホント楽しみにしていた。
・・・あの大震災が来るまでは・・・・・

葬式は何一つ覚えていない。
只、笑ってくれない、話しかけてくれない、泣いてくれない、ジッと目を閉じている可愛い顔だけを覚えている・・・。
あとで親戚から聞いた話だが、俺は周りから話しかけられてもずっと下を向いて目を閉じていたそうだ。

それから数日、思い出す度に涙が止まらず、何も食えず寝たきりになった。本当に何も食えなかった。
このまま死んでもいいと思った。

ある日意識が遠くなっていくのが分かり、気づいた時病院のベッドの上にいた。
親戚が連絡取れないのを心配して家まで来たところ、鍵もかかってないのを不思議に思い、
家の中を覗いたらドアが開いていた部屋に痩せ細った俺を見つけ、救急車を呼んだそうだ。

それから少しずつ食べれるようになり、段々平穏な気持ちを取り戻していった。

一週間ほど経った頃、病院の先生から、同じように息子を亡くした悲しみを乗り越えて
その気持ちを曲にしたミュージシャンがいることを教えてもらい、それを聴かせてもらった。
エリック・クラプトンの『Tears In Heaven』という曲だった。

最初聴いた時は涙がぼろぼろ出たが、何回も聴くうちに少しずつ穏やかに前向きになっていった。

そして退院する時ひとつの決心をした。
嫁と息子、二人の思い出を絶対忘れず、二人に情けない姿を見せないよう生き抜いて行こうと・・・。


ユウト、ママと会えたかな?ママの顔分かったかな?
ママ、ユウト大きくなっていただろう?俺が来るまでユウトを頼むよ。
俺も二人に恥じないように頑張っていくから見ていてくれ。
そして年老いてそっちに来れたら、また3人で過ごそうね。
510509:2011/05/07(土) 02:50:48.36
『Tears In Heaven』           エリック・クラプトン

http://www.youtube.com/watch?v=GOHKoeJ_HmY

もし天国でお前に会っても 私の名前がわかるだろうか?
もし天国で会っても 昔のままだろうか?

強くならねば  しっかりしなければ
いつまでもここに居てはいけないのは分かっているさ

天国でお前は手を握ってくれるだろうか?
立っていられるように 手伝ってくれるだろうか?

昼も夜もがんばって生きていこう
いつまでもここに居てはいけないのは分かっているさ

時には落胆するときもある
時にはひざまずきたいときもある
時には失望するときもある
時にはお願いだからと乞う事もある お願いだからと−

この扉の向こうに安らぎがある きっと・・・

そして私は知っている 天国にはもう涙はいらないことを

天国でお父さんがお前に会っても お父さんの名前がわかるだろうか?
もし天国で会っても 昔のままかな?

強くならねば  しっかりしなければ
いつまでもここに居てはいけないのは分かっているさ

いつまでも天国に居てはいけないのは分かっているさ                     
511名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 16:01:44.42
かんがれ
512名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/07(土) 17:52:44.76
8年10ヶ月間で50.6ミリシーベルトを浴びて
白血病になり労災認定され
二十九歳で亡くなった。
お母さんが語ります。

http://www.ustream.tv/recorded/13718448

25分頃から
513 忍法帖【Lv=9,xxxP】 :2011/05/22(日) 00:48:41.20
514名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 18:23:43.75
うちのばぁちゃんがNHKでtgcの特集やってたから
行きたいとおれに言って来た。そんな年でいくの
かよって思ったけど一緒に行った。俺は長野県にすんでるから
新幹線で2時間ぐらいで東京までいって、それから
会場に行った。中は女ばかりで、男もいたけど
ほとんどカップルだった。俺は恥ずかしぃから
ばぁちゃんから離れた位置でみていた。その後
ばぁちゃんのところへいったらいなくてずっと
探しても見つからず、会場を出るとばぁちゃん
がいた。どうやら会場の外まで行ってトイレに
いったらしい。おれはばぁちゃんを怒鳴りつけた。
「どんだけさがしたとおもってんだ?」みたい
なかんじでな。それから飯食って帰った。
それから1週間ぐらいしてばぁちゃんが倒れた。
脳卒中だってよ。俺は冗談だとおもった。最近
まで元気だった人がいきなり病気とか言われたら
やっぱ最初は信じられねぇんだな。んで病院いったら
ばぁちゃんは酸素マスクつけててな、もうやばいんだ
って医者に言われた。そしたらばぁちゃんがいきなり
酸素マスクとっておれに「東京行ったの楽しかったよ。」
って言った。「楽しかったわけねぇだろ!ごめんな怒鳴りつけた
りしてな。頼むからもう一回東京行こうよ。そんで・・・・」
言いたかったけど言えなかった。こんな大事なときなのに・・・
それから1分くらいしてばぁちゃんは死んじまった。
ごめんな。ばぁちゃん。
515名無しさん@お腹いっぱい。:2011/05/22(日) 23:05:17.07
親の跡を継ぎ、不動産業者を営んでいた
2005〜2007年度、本当に景気が良く毎月200〜300万円ぐらいキャバクラで遊んでも平気だった
朝から晩まで働いて、夜に受付嬢、CA,派遣、キャバ嬢(3人)と交互に遊んでいた
女なんていくらでも寄ってくると調子に乗っていた

どんどん不動産投資を増やしていった
ところがリーマンショックにより膨大な負債を抱えた
金回りがサラリーマン以下になり、最初にキャバ嬢が去り、CA、受付嬢と去っていき
一緒に仕事をしたビジネス仲間からも敬遠されていった

本当に見放された。もう価値がないから要らないと
言葉で言われなかったけど、分かった

必死に資産を売却して負債を返した
もう資産(自分の個人資産含む)から負債を引けば何も残らないようになった

そんな悲惨な中でも派遣で働いていた女の子(エリ)だけは俺のそばにいてくれた
何にもない俺なのに・・・・・・・良い大人が大泣きしたよ

それから必死に働いて何とか飯が食える程度まで回復している
そして東日本大震災・・・・・不動産投資していなかったので損害は出なかったけど
厳しい時代になりそうだ

でも俺はエリがいてくれたら良いやと思っている
パートナーに必要なのは信用だと本気で思った
516名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/06(月) 21:21:58.16

俺か6歳から飼ってる犬がいたんだ。
親が離婚してすぐに一人欠けた俺の家族に加わった奴で
そりゃあもう家族のアイドル的存在。
みんな溺愛してる。
そいつのおかげで父親がいなくなったことを克服できたんだとおもう。

そいつとの出会いも、
フラっと立ち寄ったオカンがペットショップで見つけたらしいんだが、
そいつだけは他の犬と違ってオカンから目を離さなかったらしい。
まだ手のひらサイズの子犬で、柵から鼻だけだして
オカンに目で必死に訴えてたって言ってた。

俺はよく小さい頃からチョッカイ出しては噛まれて
俺の鼻に今でも傷が残ってるくらい、よく噛まれた。
犬にチューってあまりしちゃいけないっていうけど、
それでも我慢できないくらい愛くるしいやつで困った。
何度チューしてもしたりないくらい愛してるんだ。

もうあれから15年たった。長生きだし元気だったけど
足の裏に腫瘍みたいなのが出来て、上手く歩けなくなった。
色んなところに腫瘍は出来てたけど、手術するとなると
足一本を取らなきゃいけなかったから、歳を考えると薬を飲ませるのが
一番の治療法だった。
毎日包帯取り替えては薬を塗って看病した。
散歩に連れてく度、思いっきり走れないあいつを見てると心が痛かった。
だけどそれでも楽しそうに尻尾を振って散歩に出かけてた。

つづく
517名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/06(月) 21:43:11.24

いつまでも元気でいてほしかったけど、だんだん衰弱していって
ずっとめまいがしているようだった。
去年12月、朝になっていつもどおりオカンの布団の上で寝てる
あいつを見てみると、俺に尻尾を振ってた。
そろそろオカンも俺も仕事に出かけるっていう時だった。
そんなの珍しかったから嬉しくなって近寄ると大量の血を吐いた。
ああもう、その時が今日なのか、って悟ったよ。
でもその時の俺は尋常じゃなく動揺してた。

オカンと仕事休んで病院に連れてったけど、
獣医は薬を投与してから様子みてくださいという感じでひとまず家に連れて帰った。
大丈夫そう、なのか?って思った。

連れて帰ってから何故か元気でさ、自分で歩こうって必死だった。
少し横にさせてオカンと見つめてると、また尻尾を振り出したんだ。
つい俺らは笑顔になった。病院での薬が効いたんだって、
調子よくなって嬉しいのかと思った。

だけど、急に痙攣しだしてあわててまた病院に連れてこうとしたけど、
連れてく途中の車で俺の腕の中天国に行った。
ずっと名前呼び続けたけど、俺はもう流れる景色を呆然と見てた。
涙って勝手にこんなに流れるんだとか思いながら。

病院につれてって、獣医が死んだのを確認すると
オカンはずっとあいつの亡骸を抱きしめながら泣いて、
○○ちゃん、○○ちゃんって言いながらその場から動かなかった。
自分の子供が死んだみたいだったよ。

家に亡骸と一緒に帰ってきてから、遠くに住んでる兄貴に電話した。
兄貴と俺とオカンで三人で泣きじゃくった。

火葬まで2日間、俺も家にいたけど保冷剤をあててやるのが辛かったよ。
本当に眠っているようだったし、幻聴か何か、
時々寝息が聞こえた気がしたから、こいつ死んでねんじゃねえかと。

でも俺が最後まであいつにしてやれることはすべてやりたかった。
一人であいつの亡骸を抱えて、これまでないくらい大声だして号泣した。

火葬が終わってから、オカンはただ地べたに座ってあいつの骨壷を
見つめることが多かったから、心配になったけど
ふと、あいつの最後を思い出してオカンと話した。

「あいつ、きっと俺たちに笑っててほしかったんだろ。」

もし、あいつの幸せは俺たちの幸せにあるんだったら、
俺は世界一幸せになってみせるって、その時誓った。

今は家族みんな元気。

玄関に飾られたあいつの写真には

気持ち悪いぐらい、チューの跡がついてるよ。
518名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/08(水) 06:08:47.08
自分の家族が亡くなった時と重なって泣けた(;_;)

雑種だったけど、最高の家族だった

もう一度会いたいよ
519名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/10(金) 10:18:14.75
>>36
泣いた。こんなのあんまりだ....
520名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/22(水) 09:13:27.25
age
521名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/23(木) 09:50:59.64
一生貧乏で独身…これ以上泣ける話があるだろうか…
522名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 13:36:35.92
小学生の頃から小型犬を飼っていた

父と姉弟でペットショップへ行ったら
三万円で犬が売ってるうぅぅぅぅ♪
ってテンション上がってた

生後3ヶ月で大きかったからこのままだと処分されちゃう
って姉弟で頼み込んで家にいる母親を電話で説得したっけな

愛犬とはそんな出会いだった

続きます
523名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 13:39:53.87
愛犬が6歳の時に近所を母が愛犬の散歩中していた時のこと

とある家にシェパードの馬鹿犬がいた
その犬は全くしつけが出来てなくていつも無駄吠えばかりしていた
ちょうどそこの家の前を通りかかったところ門が少し開いていたらしく
ウチの愛犬を見るなり鎖を引きちぎって襲いかかってきた

母は叫んでシェパードの飼い主に叫んで助けを求めた
しかし全く飼いならされていないため飼い主ですらビビって
どうすることも出来ない状態
後から聞いたがあの言葉には驚いた

飼い主「触われない」

首筋に食いつかれぶん回されて
母がキレてシェパードをぶん殴った

その隙に愛犬は走って一人で家まで逃げ帰ってたらしい

その後なんともないかのように見えたが
翌日から異変が起きた

まともに歩くことが出来なかった
まっすぐ歩くことが出来ず歩けても
片一方の方向へ斜めに歩いてしまう

急いで病院に行った時には既に遅かった
首筋の傷口から菌が入ったか脊髄だか神経をやられたか
忘れたが水頭症という病気になった

どういう病気かわからなかった
脳の髄圧が上がってしまい脳が圧迫されてしまい
死に至る病気

続きます
524名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 13:41:36.04
オレは馬鹿だからよくわからなかったが
見た目でヤバいことはすぐにわかった

首が異常に傾いていた

しばらく入院してなんとか一命を取り留めた
しかし後遺症が残り首は傾いたまま・・・

いつもならしっぽを元気よく振り回していた姿はもう無かった
しっぽで感情表現をすることは一切出来なくなっていた

以来病院通いを余儀なくされた
脳の髄圧が上がるとかって言われて
室温を常に25度以下にしなければ
しなければならなかった
24時間ね・・・
夏はエアコンは付けっぱなし

動物には保険が効かず病院は一回行っただけで
2〜3万は軽くする

酷い時には10万なんかざらにあった

それで体調が少し悪い状態だとお金が無いから・・・
という感じだった

動物ってツライって言うときに伝えることが出来ないんだよな

だからオレもその頃は働いてたから給料20万全額渡して
治療費に使ってほしいと頼んで病院に行ってもらっていた

そんな状態が7年も続いたんだ

続きます
525名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 13:43:57.50
オレも健康とは言えずちょくちょく入院する体で
先月入院したんだ

その翌日に愛犬も入院
今年に入ってから急激に体調が悪化してさ・・・

その姿は全く見てないんだけど早く退院して
看病してやりたいって思ったよ

でもそんな思いも虚しくたった2日
・・・たった2日の差で間に合わなかったよ

続きます
526名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 13:52:01.75
火葬にも行けなかったしオレが退院したころには
骨になってた

うそ・・・だろ?って感じ
立ち尽くしたよ

亡くなる前日に愛犬が退院した

絶対なんとかなる!って思ってたから覚悟なんかしてなかった
オレは体調がよくなったから退院したんだって思ってた

でも違った
後から聞かされた話だけど、水も自分で飲めない、ご飯も食べれないから
ずっと点滴のまま病院で最期を迎えるなら住み慣れた我が家で余生を過ごそう
って決めたんだって

悔しかった・・・何も出来なかった
なんで退院させたんだって怒りが湧いたけど
これでよかったんだよね?

金持ちの家だったらもっと長く生きられたのかな
我が家に来てくれてありがとう
家族にたくさんの癒しと笑顔を与えてくれたね
我が家に来て幸せでしたか?

何事もなく時は流れていき
普段と変わらず今日も空が青いです

あの世でちゃんと飯食ってますか?

なんでかなぁ
未だに死んだってことを受け入れられないんだ・・・

平然としている家族

家族に愛犬が亡くなる直前に動画を撮るように頼んでおいたんだ
動画をみたら愛犬の亡骸を撫でながら母が今にも泣きそうな声で
ご苦労様・・・ってそう言ってたのを見て泣いたんだ

でもそれを改めて見ると、あぁもうこの世にはいないんだなって思う
527名無しさん@お腹いっぱい。:2011/06/26(日) 13:54:46.61
後で気づいたんだけどいつも写真撮る側でさ
愛犬と一緒に撮った写真一枚もなかったよ

後から気づいたことってたくさんあったなぁ

これで終わります
長文失礼しました
528名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/01(金) 05:12:36.50
私がまだ小一の頃。
母さんと父さんはあんまり仲が良くなくって、
どちらかというと母に良くして貰ってた私は、
父のことがあまり好きではなかった。

そんなある日、学校に行ったとき
上靴を忘れてしまった。
仕方ない、靴下で一日過ごそうと思っていたその時、
父が上靴を持ってきてくれた。
父は背がとても高いが、ルックスはアンガールズの田中に似てて、
はっきりいってかっこいいとはとても言えない父。
クラスメイトが私の机に集まっていたこともあり、
恥ずかしさとか色々な感情で思わず、
「出て行ってよ!!お父さんが何で上靴もって来たの!!」
と強く言ってしまった。
父は、何も言わずに上靴を置いて、教室を出て行った。

家に帰ると、仕事から帰った母親がいた。
「○○(名前)、今日父さんに何か言ったの?」
すぐに、あの上靴のことだと分かった。
母に聞いた話によると、父は教室を出てから家に帰るまで、
ずっとわんわん泣いていたらしい。
その日は出張の日で、東京に行ってしまったが、
母には、
「○○を責めないでほしい。あの子は何も悪くない。」
と、泣きながら飛行場に行ったそうだ。

私も泣いた。
初めて、本気で父さんに申し訳ないと子供心に思った。

いつも、早く仕事に行って遅くに帰ってくる父さん。
教育なんてまるで興味ないのに、突然怒り出す父さん。
熱を出したとき、一番心配していた父さん。
不器用だけど、笑った顔は最高の父さん。
いつもお疲れ様って、何でずっと言えなかったんだろう。

その日の夜、父さんに電話を掛けた。
「わざわざ電話掛けてくれてありがとな」って
泣きながら言ってきた。
私は泣きすぎてボロボロで、声にならない声で
「お疲れ様。仕事、頑張ってね。」
電話を切った後でも、私は罪悪感でずっと泣いていた。

父は二日後に帰ってきた。
私の好きな東京バナナをおみやげに買ってきてくれて。
東京バナナって、甘くてとってもおいしい。
でも、私が食べた東京バナナは、とってもしょっぱかった。

ありがとう、父さん。
529名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/03(日) 19:25:46.81
男って布団の中でも色々考えるけど、女ってすぐ寝ない?
姉貴に隠れてオナニーするとき、すぐイビキかいて寝るから楽勝だった

俺は悩み事色々あるけど、姉貴はあんのか?

俺は不意にシュンってなることがあるんだけど、姉貴はいつも半笑いっつーか…
横顔見て何も考えてねーんだろうなって思った
このブログも姉貴にきずかれることはないですねw

だからこそ、何も考えてねーから人生楽しいのかなって。
俺ももうちょっと馬鹿になりたかった。自分がこの世界において、脇役なんだってきずいてしまってから、一気に冷めたよ。
顔見ただけで人の心が読めてしまう。不思議なことに自分にとってネガティブな方向に
これは相手をわかってるんじゃなくて、自分をわかってるだけだろうね。
俺の前では誰だって敵になるんすよ


(2004.02.09)

コメント1


毎晩「人生楽勝」って、自分に言い聞かせて寝てます
(姉/2004.02.13)
530名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/05(火) 10:17:17.62
始めて書き込みしますm(_ _)m
俺の泣いた話だけど…

中学卒業の話だけど…
小さい頃から親父に色々されて中学の友達にも「あいつってさ頭おかしいよね」なんて陰口言われてて、誰も信じらんなかった時が俺にもあってさ…
犯罪とか色々ヤってた時期があった時に、中学二年生の時に仲が良くて365日毎日遊んでるヤツがいて
そいつが卒業式の時に俺の所来て
「俺にゎお前の過去とかわかんねぇーけど俺ゎお前のために何でもしてやる。俺と出会って良かったて思わせてヤるからコレからもずっと一緒に遊ぼうな」って笑顔で言ってくれてさ。
始めて人の前で泣いたね

何年もたった今でもそいつゎ俺のたった一人の友達です。上辺だけの友達じゃ無くて心から信じられる友達です。

他の人から見ればどーって事無いかもしれないけど、皆さんの回りにも一人ぐらいゎ大切な人がいるはずです。

その人と今まで過ごして来た過去を思い出すと、自然に泣けて来ると思います。
皆さんも少し過去を振り返って見てください。
辛い過去だけだったら今まで生きて行けないと俺ゎ思います。
心の何処かに楽しい思いでゎ必ずあるはずです。
長々と失礼しましたm(_ _)m()
531名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/14(木) 08:53:21.57
お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。
胸は日本晴れ。本当ですよお母さん。少しも怖くない。
しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。
それは、今日私が戦死した通知が届く。お父さんは男だからわかっていただけると思います。
が、お母さん。お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのでありませんか。
弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。

お母さん。

こんなことを考えてみましたら、私も人の子。やはり寂しい。
しかしお母さん。

考えて見てください。今日私が特攻隊で行かなければどうなると思いますか。
戦争はこの日本本土まで迫って、この世の中で一番好きだった母さんが死なれるから私が行くのですよ。
母さん。
今日私が特攻隊で行かなければ、年をとられたお父さんまで、銃をとるようになりますよ。
だからね。お母さん。
今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。
でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。
お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。私が一番怖いのは、母さんの涙です。


18歳の回天特攻隊員の遺書

http://www.youtube.com/watch?v=eZZ6LmeOdB4&feature=youtube_gdata_player
532名無しさん@お腹いっぱい。:2011/07/16(土) 01:39:59.10
ちょっと話したくなったので書き込みさせてください。


私は中学時代に、色々なことがあって3年間友達が一人もいませんでした。
「高校に行ったら、友達作って楽しい生活を送りたい」という気持ちと
「どうせ高校でも友達は出来ないし行くだけ無駄」という気持ちの半々でしたが、
学歴社会ということもあり、高校は行くことにしたのですが、親戚に住所を借りて都立高校を受験しました。
入試の日に、隣の席や後ろの席の子が話しかけてくれて、
「私みたいな奴にも話しかけてくれるんだ」と凄く嬉しくて。。
私は無事に合格したのですが、入試の日に仲良くなった子は、みんな落ちてしまい、
入学してから不安でいっぱいでした。
でも、入学してからは気づいたら、色んな子と話せるようになっていて、
全然違うクラスの子とも話せていたり、
これまで凄く苦手だった派手な感じの男子とも話せるようになったりと、
自分でも吃驚する程で、泣くくらい嬉しかったのを今でも覚えています。

私にとっては、凄く嬉しくて泣く程の思い出なので
書き込みされていただきました。
大した泣ける話ではなくてごめんなさい。。。
533名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/02(火) 04:00:58.27
私が大学1年生の頃の話です。
長くなるうえに文章が下手なので感動するかはわかりませんが。

大学生活が始まり、仲の良い友達も出来ていき、サークル活動や、飲み会ばかりの生活が続いてました。
当時、大学から遠い実家のほうから通学していたために、終電で帰ると家に着く頃にはもう深夜。
そのため、心配性の母は私がいつも時間が遅くなるたびにメールで、
「ご飯は?今日はおそくなるのかい?」と送ってきました。
その時は、親の気持ちも考えずに、
自分は正直かなりめんどうで鬱陶しく、
いつも暇なときにしかメールを返しませんでした。
そうしてサークルの活動や遊びで毎日終電で帰るようになり帰宅が遅くなったり
友達の家に泊まったりと惰性の多い日が続きました。
そしてある日、友達の家でお酒を軽く飲んでるうちに帰るのがだるくなり、泊まっていくことにしました。
帰ってもメシも食べないし、帰るのがだるいからいいや、と。
そしてめずらしく母から電話が来ました
「お父さんが倒れた」
普段予想外の事が起こるとパニックを起こす母はとても慌てた口調で言ってきました。
とにかく落ち着いて救急車を呼んでもらい、父は救急車で運ばれました。

当時父は管理職という事もありいつも夜遅くに帰宅して睡眠時間も短い日が続いていたそうです。
私は、
自分がどうして大変な思いをしてる家族のそばにいてやれなかったんだ
自分の好きなことをして好きなように生きて、大学のお金も払ってくれてお小遣いもくれてて、
それでも自分の事を第一に考えて心配してくれてる両親がいるのに、
どうして親が困ってるとき時ぐらいそばにいてやれないのだと。


大学入ってからの幼稚な考えと行動に
ただただ悔しくて悔しくてしょうがありませんでした

友達の手前ということもあって、最初は我慢してましたが
やり取りを聴いてて察してくれたのか、肩を叩いて、
「大丈夫だ。お前の父ちゃんが死ぬわけないべ。」

父が死、自分への不甲斐なさ、友達の温かさ
いっぺんに波がきて、普段大きなことがあっても泣くことのない自分が
ひたすら泣きました。これでもかっていうくらい。
友達は自分の背中を泣き止むまでずっとさすってくれました。

翌朝、始発の電車ですぐに家に帰りました

そこには安心した母とすやすやと寝ている父の姿がありました

それをみてまた泣いてしまいました。



長文すいません。
534名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/04(木) 18:16:56.96
俺さー
一番の友人を中学校の時に亡くしたんだ
そいつは俺の野球仲間でキャッチャーで四番だったんだ。
俺はエースでそいつとはバッテリー組んでたんだ
地元では県内最高バッテリーとか言われて少し評判だった
家も近くだったし、キャッチボールしたり、ゲームしたり
あるときなんか恋話なんかしてすごい楽しかった。
でもさケンカってつき物なんだね
3年の最後の夏、大会の1週間前に殴り合いのケンカをした。
理由は練習中にそいつが俺のボールをポロポロこぼしてさ
それに腹が立って
俺が殴りかかったんだ。
それからあっという間に大会前日になって背番号発表があった
俺はエースナンバーをもらったけどそいつは13番だった。
納得がいかなかった。
上手くいけば全国大会も狙えたのに司令塔がいなかったらってね
でもケンカして以来一度も話さなかったから
そいつに聞けなかった。
でも試合には順調に勝ち進んで地方大会決勝まで来たんだ
そいつ抜きで。
決勝前日、俺は監督に抗議しに行った。
「どうしてあいつを試合に出さないんですか?」って
535名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/04(木) 18:42:15.23
>>534の続きです。
そしたら監督が言いにくそうにこういったんだよ
「あいつは末期がんなんだよ」と
俺はハッとした。
あいつ・・・体力が落ちてたんだ。
そいつはケンカが起こる前日に初めて抗がん剤を打って練習に来ていたんだ
俺はその話を聞いて泣きながらそいつの家に行って謝った
そいつは笑いながら許してくれた。
そしてこういった
「俺・・・下手したらあと2ヶ月くらいで死ぬかもしれない」って
嘘みたいだった。そんな素振りはまったく見せなかったから。
俺はその日そいつといろんな話をした。
迎えた決勝戦
4番ピッチャーで先発した俺は、6回まで相手校をパーフェクトに抑えていた
打撃でも2打点を上げ試合を優位に進めていた
最終回に俺は監督に直訴した
「あいつを最後に出さしてやってください」と
願いは通じた。
俺はあいつと最後のバッテリーを組んだ。
そして最高のボールをあいつのミットに投げ込んだ。
気がつくと皆がマウンドに集まっていた。
ウイニングボールはあいつが持っていた
最高のキャッチャーで、ライバルで、そして親友だったあいつに・・・
全国大会にはあいつは再び2番を背負ったが
試合に出ることは無かった。
ガンの活動が活発になったからだ
8月18日午後2時15分
あいつは息を引きとった。
同時に俺の夏も終わった。
全国大会準々決勝敗退
試合が終わった次の日に葬儀があった。
俺は棺の中にあいつが背負った背番号2のユニフォームと
俺が背負った背番号1のユニフォームを入れた。

来年俺は二十歳になります。
久しぶりに母校を訪れました
あいつの写真と3年間使ってたゼットのキャッチャーミットを持って・・・

以上です。
文才無くてすいませんでした
536名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 23:19:07.64
少し書きたくなったので書かせてください。
泣ける話じゃないけれど・・

俺、小さい頃から勉強ができなかった。 
保育園では保育士さんから親に
「知恵遅れじゃないですか?」といわれたらしい。

小学校ではもちろん点数はよくなく。
通知表はいつも5段階中の2ばかり
国語・算数・理科・体育・家庭科・・・
社会がいつも4か5以外はアヒルちゃんがいつも
並んでいた記憶がある。
だから親に成績通知書を見せるのがいやだった。
でも親はあきらめなかった。
家庭教師をつけたり塾にかよわせたりした。
でも点数はのびなかった。勉強がわからなかった。

中学校にいっても一緒。
英語だめ数学だめ国語だめ理科だめ
社会だけ10段階中の8で、あとは3とか2とかばかりだった。
学年でいつも180人中の130人くらい。
とても普通科にいける点数じゃなかった。
それに、中学1年くらいからいじめられ始めた。
2年生の時はほんとにひどかった。いじめっこにカツアゲされ
毎日授業を受ける気持ちにもならなかった。
まだこの世は不登校やら引きこもりが社会問題になる前。
学校にいかない人間は、即人生終了の烙印を押される時代だった。
親はそれでも諦めなかった。
「がんばれ!おまえならできる!」
と毎日学校に送り出された記憶がある。
家庭教師も引き続きつけれくれ、進学塾にも
入れてくれた。それがいやだったけど・・・
地元の優秀な進学塾にも頼みにいったらしい。
だけど即座に言われたそうだ。
「その点数ではとてもついていくことはできません」

その後も点数は伸びず。高校3年の最終進路決定の三者面談のときに
「○○くんは・・・県立○○工業高校どうでしょうか?}
と先生は言った。
私の地方は県立がトップで、私立は県立に落ちた人が入る
落ちこぼれの吹きだまりといわれていた。
特に県立高校の入試は試験150点+内申150点で、
先生たちはほとんど合格ラインを知っていたらしい。
親は即座に拒否した。「県立高校の普通科以外考えられません。」






537名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 23:20:27.25
ということで、県立高校普通科受験。見事不合格。。
その当時は、県立高校の合格発表がテレビ放送されてて
実名がずらーっと放送されていくから、すぐに俺が
県立高校落ちたこと近所の人たちにばれた。
親にいった「おちちゃったね」
照れ隠しにいったが、親は無言だった。
ただ、隣の部屋に入っていった両親が
号泣している声だけは聞こえた。

その後、私立高校の普通科だったのだが、
なぜか入るときに特別進学コースになっていた。
高校に入ると、地元で評判の英語塾にも入れてくれた。
でも点数は伸びなかった。
高校1年の進路指導の際に、先生は「○○くんは、
専門学校か短大がいいのでは?」といわれた。
親はまた即座に拒否した。「4年生大学じゃないと
意味がありません!」

なぜ、こんなに落ちこぼれな自分をカバーするのか
わからなかった。
そこで、高校2年のときに母親に聞いた。
なぜそこまでして俺を大学にいかせようとするのか?って

「お父さんね・・あなたには言わなかったけど、あなたの
おじいちゃん死んだっていったけど、実は離婚して
お父さんおいていってしまったの。
だから、勉強ができても、すぐに就職しなくてはいけない
から工業高校にしか入ることができなかった。
就職してすぐに夜学の大学に入ったけど・・・
やっぱり昼間の学生たちがすごいうらやましかったって。
だから・・ どうしても○○を普通の大学生にしてあげたい。
自分と同じ轍を踏ませたくないから・・・」

さすがに泣いた。
部屋にこもって泣いた。
2年生から猛勉強した。
そこそこ点数とれるようになった。

国立は無理だったけど、なんとか私立合格した。
大学合格通知きたとき親父は何もいわなったけど、
部屋で号泣してた。

大学では、遊んでばかりだったけど、
親孝行してやりたくて、3年から猛勉強して
地方公務員合格した。それも県職員。

あのとき、合格して帰省したときの両親の
喜んだ顔は忘れられない。

538名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/06(土) 23:20:57.68
あれからもう十何年
親父が先月他界した。

親父見てるか?
俺親父ほどではないけど、少しは立派になっただろ?
今じゃ入ることもかなわなかった国立大学出の奴らと
肩を並べて仕事できてるんだよ!!
それも全部俺のこと見捨てずに育ててくれた
あんたのおかげだよ・・・ ありがとう!!!

ついこの話を思い出して書いてしまいました。
駄文・乱文・長文すいませんでした。
539名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/15(月) 00:18:50.72

山の中の人家もまばらな場所
一本の橋がかかってるんだけど
上流域、深い谷になってて底は大きな岩だらけ
水が流れてるのかも見えないぐらい

その橋のたもとにお地蔵さんが二体いるのね
それは、おばあちゃんとそのお孫さんのお地蔵さんなんだって

おばあちゃんがお孫さんを預かってて

きっとお散歩で橋の上を歩いてたんだろう 
んで、何気なく川を覗いたんだろうね

小さい子ってさ、頭が重くてバランスが悪いから
体も小さいから、手すりの下から覗いたんじゃないかな
はしゃいで身を乗り出しちゃったんだろうね

その数日後、おばあちゃんも同じ所から。

耐えられなかったんだろうね
かわいい孫を殺してしまった重責

どんな思いで孫のお葬式に出たんだろう
その数日間どんな思いで過ごしてたんだろう

深い谷の底からおばあちゃんを連れて帰ってきた家族は
どんな思いだったんだろうって

ふたりで仲良く遊べてたらいいなって
あの橋のたもとで皆を守ってくれてたらいいなって思う

540 忍法帖【Lv=9,xxxP】 :2011/08/21(日) 16:43:26.44
      _,、 ,,,,g┓         im*┓
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    .゙゚゙━━━'゙”      .゙゙━━”
541名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/21(日) 22:06:45.22
おれ小さい息子が居たんだわ。
大声で話す、わめく、よく食う、よく動く、ゲームばっかりしていて、
背の低い、筋肉質で運動好きで、勉強しないけど、
小学校の先生にはウケていたようなにぎやかな奴だった。


ある日、車に乗っていて、小さい車に追い抜かれた
「ああ、あれ お父さん(私の事)が欲しい車だ」
「買えば?」
「金ないんだよ、大事な君を育てるのに居るから」
   こんなことを言うのではなかったと今は思う。
   そのときも乗っていたのは死んだ爺さんの乗っていた
   割と古い車
「ごめん、、、」
 (しばらくしてから)
「とうさん、大きくなったらお金稼いであの自動車買ってあげるよ」
 (ちょっとしょんぼりしてた)

「おお!楽しみにしてるよ」
「きっと買ってあげるよ」


でも、そいつは入ったばかりの中学校で運動中に死んでしまった。
 うそつき。。。
 散々泣いた、オレがわめいた。何故だ、何故。


今、街で、その車を見かけることがあると、目の前が涙でかすんで事故りそうだ。
涙がかれることが無いとはじめて知った。

あんなことを言ってくれたのは君だけだ。
542sage:2011/08/26(金) 14:25:13.85
ふん!
543SORA:2011/08/30(火) 01:29:39.86
 亡くなったおばあちゃんの話するかな
544SORA:2011/08/30(火) 01:33:02.63
。。。

あれは夏だった。
セミが鳴きうるさっかったことを覚えてる。




545名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 12:34:23.72

俺が入院する事になった時の話。、
事故って足を大幅に骨折した。
それも1週間は入院って言われて病室ごもりだった。
特にする事ないし、学校で友達もこねーしで
寝るか漫画読む毎日だった。
部屋はトイレ設置してなかったから
いつも松葉杖持ってトイレに行くんだけど
一回の大広間?みたいな処に老人とか大人が座って会話したりしてるの見て、
暇だから俺もエレベーターでそこに向かったんだよ。
546名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 12:40:56.56


そしたらさっきは見えなかったけど
子供の遊べるスペースみたいなのもあった。
本とかおもちゃとか転がっててアンパンマンのビデオがついてる。
俺はそこらへんの椅子に座ってその様子ってかアンパンマン見てたw
そしたら一人すっげえ元気な子供が走ってきてテレビの一番前に座るわけ
そりゃー他の子供も怒って「どいて」って言ってるんだけど
そいつどかないんだよ
そしたら子供も諦めたのかまた静かになった。

まさに幼稚園って感じでそれを老人が孫見てるみたいに見てんのが
微笑ましくて仕方無かった。
547名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 12:54:38.55


それから俺はそこに行くようになった。
別に誰とも喋らずその光景見てんだけど、
ある日あの元気な子供が俺の所にきた。
嬉しそうに笑いながら
「あしたパパと動物園行くんだぜー」
って言ってまた他の人の所に行って自慢してんの
確かにいつも病院にこもっている子供が動物園に行くなんて
そりゃ嬉しいだろうなーと思ってた。

そんで次の日またそこに行ったらあの元気な子供いなくて
他の子はおもちゃで遊んでた。
今頃動物園行ってはしゃいでんだろうと思うとこっちまで嬉しくなる。
そしたら隣の老人がいきなり俺に近づいてきて二階を指差した。
二階を見ると別に誰も居なくてこの人何してんだろうと思っていたら
病室を指差している事に気付いた。
「あそこがゆうき君の病室だ。行ってごらん」
俺が毎日あの元気な子供を見ていた事を知っていたのか
その老人はそう言った。
そのゆうき君っていうのは今日動物園に行っていていないだろうと言おうと思ったが
言われた通りその病室に行ってみた。
548名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 13:05:03.44


病室に行ったらあの元気な子供がいて荷物を床に散らかしてた。
表情も無くて、ずっと下向いてんのが全然そいつに似合わなかった
父親らしき人もそこにいたけど2人とも何にも喋らない。
俺がその病室に入ろうとしたらすかさず看護師に止められて廊下に出された。

看護師に話を聞くとその子の友達が今日亡くなったらしい。
それで動物園なんて行きたくないと。
でもゆうき君は退院できる日が決まってないから早く行かないと…
そこで看護師が言葉を発するのをやめた。
早く行かないとゆうき君も死んでしまう。
そう言いかけたんだと思う

それから何度あの大広間に行ってもそいつ来なくて
他の子も何にもその事について触れない。
ただテレビの前に1人分くらい座れるように開けて座ってんの。
549名無しさん@お腹いっぱい。:2011/08/31(水) 13:10:18.15

俺は無事に足も完治して、退院する事になってしまった。
それから一度もそいつは大広間に来なかった。
最後にそいつの病室に行く事にした俺はゆっくりドアを開いた。
そしたら誰も居なくてシーツが綺麗に敷かれている状態だった。
誰も知らない間に退院したのか、どうなったのかは分からない。
だけど帰り際大広間のテレビの前にそいつの指定席が用意されてんの見て
やるせない気持ちになった。

550 忍法帖【Lv=13,xxxPT】 !:2011/09/02(金) 01:09:07.79
切ないなー
551名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 01:01:59.08
京都市伏見区桂川河川敷で2月1日、無職片桐康晴被告が、
認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。
事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。
母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。
介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。
カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、
06年1月31日に心中を決意した。
「最後の親孝行に」
片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。
肩を震わせ、眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
552名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 11:23:17.61
話ぶった切るが、
泣きたいって如何言うこと?

泣く事をストレス発散にしてるのか?
553名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/09(金) 20:24:35.71
感情出すことが少ないと心が淀んでく感じはするよ。
起こるも笑うも泣くも適度にやっておいたほうが精神的に良い。
554名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 23:34:14.82
スレチかもしれんが

俺も居る研究室の後輩(以下A)が6月から急に来なくなった。
Aは学部の4年生で俺院生1年。
Aとは結構仲がよく良く帰りに遊んでたりもしてた。
就職はせずにそのまま院へ上がって来ることになっていて色々と教えていた。

それなのに急に来なくなり心配になって連絡を取ってみるが音沙汰なし。
メールも帰ってこない、電話も出ないし、掛けなおしてくることもない。
そして教授に呼ばれて驚愕の言葉
「A君は家庭の事情で院に上がるのをやめた。
それと研究を続けられる状況でなくなった。」

いきなりそんなことを言われたものだから驚いた。
555名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/10(土) 23:36:23.63
続き

そのあと少したってからやっとAと連絡が付いた。
A:「先輩ゴメンナサイ、結局(大学院へ)いけなくなりました。」
俺:「家庭の事情って聞いたけど大丈夫なのか?とりあえず近くだから話さないか?」
という事で二人で適当な店でお話。

そして本人からとんでもない事実を聞いてなきたくなった

なんでも、Aの母親が今期納めるはずの学費を全てギャンブルに使ってしまい
学費が未納である事が発覚。大学院を考えていたこともあり
本来大学院の学費に回す予定のお金を納めなんとかしのぐ事は出来たが、
大学院への進学は絶望的。当然親戚内で大騒ぎで両親は離婚し
Aは父親の元へ。予想外の出費が出たためAもバイトの数を増やす結果に。
成績も良く単位は卒業研究だけとってしまえばOKという単位数らしく
単位を出すという事にして卒業は何とかできる状態。

なんとも理不尽で泣けてくるような話だった。
この時期から就活ってきついだろうに。

長文に駄文で乱文で申し訳ない。
556名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/20(火) 16:29:42.38
>>554
俺の場合は逆バージョン
大学の時、同じ寮といっても定員10名だったので皆フレンドリー
その中に俺より下の男がパチンコにはまった。
学校にも行かずに朝からパチンコ。で、今日は10万負けたとか平気で言う。
たまに勝ってもお菓子とかに替え、寮の仲間に振る舞う。
皆、そんなものいらない。パチンコやめた方がいいと言っても
ヘラヘラ笑うだけ。そんなことが長く続き、俺が寮に戻ってきたら
ちょうど彼の部屋から本人とその両親が出てきた。
母親が泣きながら『いままで色々お世話になりました』と俺に頭をさげた。
結局単位が足りなくて留年し、大学を去るのに親が迎えに来ていたということらしい
その時の彼の両親の悔しい・なさけないというのが混ざったような涙顔が忘れられない
557名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 19:18:19.83
大好きなあなたは、今も笑っているのでしょうか。

小さいころなぜかおじいちゃんに引き取られた私(当時7歳)は、そこで三人の男の子に出会いました。
9歳のすごい元気なLと12歳の大人っぽいけど天然なS、仏頂面なのに本当は優しいAでした。
おじいちゃんがとてもいい人なので三人共親がいなく、おじいちゃんが私同様引き取った子達でした。

それから私たちは本当の兄弟のように、家族のように育ちました。1年が経った頃、大人っぽいお兄ちゃんがいなくなりました。
本当に急で。信じられなかった。あっけなかった。おじいちゃんには死んでしまったと知らされめったに泣かなかったお兄ちゃんも
おお泣きしていました。

そしてAが17歳、Lが14歳、私が12歳のときにAと私は家を離れました。Aは学校に行ってはおらず、働いていたので
転勤する、とのことでした。Aは一人じゃまともに家事もできないし私はAが好きだったためLも快く送り出してくれたので
Aについて行きました。
二人で暮らし始めてすぐにAも私を愛してくれました。近所にAの同僚等がたくさん住んでいて(会社近くのマンションだったため)
とても楽しく過ごしていました。Aの会社の社長さんもすぐ近くに住んでおり、親のいない私たちを実の子どものように可愛がってくださいました。
とても、とても幸せでした。
すでに私は15歳で、16になったら結婚する約束をしていました。

会社の旅行で山に行くときに、たまたま遊びに来ていたLと私もお誘いを受け、一緒に行かせていただきました。
Lもすぐに会社の人たちと仲良くなり、ずっとこのままでいたいと心から思いました。


558名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 19:42:59.18
なのに。

どうしてあなたと社長さんはいないのですか。
山で土砂崩れに会って、なぜ私をかばったのですか。
社長さんも、なぜ私が落としたネックレスを探しにいったのですか。Aがくれた宝物だとして、私は誰かを失いたくなかったのに。
Aはこんな私だったのに、 愚痴の一つも吐かないで、愛してる、ありがとう、しか言わないで。なんでよりによってLの前で死にますか。最期までバカですね。
しばらくして見つかった社長さんの手にはちゃんとネックレスが握られていましたね。 一生この身から離しません。

ただ、結婚式で社長さんに父が座る席に座ってほしいと言えてよかった。最期までAを抱きしめていれてよかった。

おじいちゃんとLに抱きしめられながら泣きました。
理不尽な世界を。無力な私を呪いました。

私は、一度は壊れました。けれど会社の人やL達に支えられて、最近また笑えるようになりました。
今、私のそばには二人のとてもかわいい女の子と男の子がいます。
あのあと、病院に行ったら、いたんですよ。あなたと私の子どもです。双子ですよ。
なんでこの子達をあなたは抱きしめてあげないのですか本当バカですね?

私はずっと、あなた達のとこに行くまであなたに悪態をつきまくるでしょう。
毎日、毎日。
559名無しさん@お腹いっぱい。:2011/09/22(木) 20:03:19.00
悪態をつかれたくなかったらもう一度、夢の中でもいいから愛してるって言ってくださいよこのバカが。

あなたは今も、笑っていますか。

今はただ、悪態をついたら、ついでに笑っていることを祈ってあげる。



駄文長文すいませんでした。


560名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/15(土) 19:21:49.24
1 :名無しさん@1周年:2000/08/23(水) 19:28
原潜乗組員、死亡覚悟で原子炉停止か=英雄的決断と専門家 時事通信社 8月22日21時55分
モスクワ22日時事 ロシアの原子力潜水艦「クルスク」の乗組員は死亡覚悟の上で原潜の原子炉を停止した。
原潜事故の原因と影響を調査している英国の専門家は22日タス通信に対して爆発事故後も生き残った乗組員らの英雄的決断が、放射能洩れの大惨事を未然に防いだとの分析を明らかにした。
海軍関係者によれば、原潜の原子炉が停止した場合、艦内への電力供給が完全にストップする。この結果、艦内に酸素を供給するための空気清浄装置機能が停止し乗組員の生存には極めて厳しい状況が生じる。
英国の専門家は、乗組員らが原子炉停止を決断した後は、3時間程度しか生き延びることができなかっただろうと指摘。彼らにとっては苦しい決断だったが自分自身のことよりわれわれ全体のことを考慮したと英雄的な行為を称賛した。
*今日のホームルームの時間に先生が、何度も泣きながらこの記事を読んでくれました。

561名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/29(土) 14:14:19.34
 俺の実体験を書き込ませてくれ。
 中学生の頃、祖父が死んで、それから一週間ぐらいたった日の
ことだ。
 祖父はとにかく、随筆を書くのが趣味だった。
 で、俺がそれを読んでいた時の事。
「私はいつも、孫に勉強しろ、勉強しろと口うるさく言います。それは孫の
 夢である医者になることをかなえさせるためです。そして、c型肝炎であ
 り長くは生きれない祖母の病状について、一日も早く理解してほしい。
 世界中の人々の役に立つ医者になってほしい。」
 っていう文章が書かれてあった。
 俺はそれをよんだ時、涙が止まらなかった。
 小学生の頃、俺はたしかに医者になりたいって言ってたし、
祖母もそのころ、亡くなっている。
 あの時、そんな気持ちを込めてオレに口うるさく「勉強しろ」
って言ってたんだな。
 ありがとう。おじいちゃん。
562名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/31(月) 22:34:39.91
>>440
深呼吸からの?
563名無しさん@お腹いっぱい。:2011/11/02(水) 20:33:46.58
Y!知恵袋で軽く聞いたら、泣ける回答・・
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1163436166?fr=top_mantenna
概出スマソ
564名無しさん@お腹いっぱい。:2011/12/02(金) 21:01:10.20
俺二人の男の子の親だけど10年前不倫してた。
俺の誕生日に彼女がお祝いだと言ってレストランで飯をご馳走してくれた。
夜9時ごろからは俺の携帯が引っ切り無しに鳴った。
もちろん家からだけどなかなか電話に出れなくて
9時半ごろ店の外から家に電話すると小学校の長男が
「まだ帰って来ないの〜」
「もうすく帰るから」
早く帰りたかったけど彼女がなかなか帰してくれず結局12時ごろ帰宅した。
テーブルには二人の息子が折り紙で作った人形と
パパおめでとうのメッセージが
ケーキは手付かずで置いてある
かみさんと息子の寝顔を見た時に涙がでた
565名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/25(水) 22:04:33.38
<40代姉妹死亡>「生活苦しい」区役所に3回相談 札幌
毎日新聞 1月24日(火)12時22分配信


札幌市白石区のマンションで知的障害のある妹(40)と姉(42)とみられる遺体が見つかった。

この姉は約1年半前から3回にわたり区役所に生活相談に訪れ、生活保護申請の意向をみせていたことが市役所への取材で分かった。

姉は自身の仕事や妹の世話をしてくれる施設も探していたようで、その最中に急死し、連鎖的に悲劇が起きたとみられる。

札幌市保護指導課によると、姉は10年6月、11年4月、同6月の計3回、区役所を訪れ「生活が苦しい」と訴えた。

2人の収入は中程度の知的障害がある妹の障害年金だけだったとみられる。

昨年6月、姉は「今度、生活保護の関係書類を持ってくる」と言って必要な書類を聞いて帰ったが、その後は相談がなかった。

北海道警の調べでは、姉妹の部屋に求職に関するメモがあった。姉とみられる遺体の死因は脳内血腫。姉は3年前に脳外科を受診した記録があり、
体調不良を自覚しつつ職探しをしていた可能性がある。

区内の民間障害者施設によると、姉は約1年前に妹の通所の相談に来たが、決まらないまま連絡が途絶えたという。

一方、妹とみられる遺体の死因は凍死で、死後5日〜2週間。料金滞納のためガスは11月末に止められており、室内は冷え込んでいたとみられる。

札幌白石署によると、昨年12月15日に家賃滞納分の振り込みがあり、それから数日内に姉が急死したとみられる。

同20日に「111」など複数の発信記録が姉の携帯電話にあった。

残された妹が110番など何らかのSOSを出そうとしたのかもしれない。
566名無しさん@お腹いっぱい。:2012/01/26(木) 22:52:54.01
俺は泣いた。いい話だよ。

http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1171263986
567名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 09:49:10.26
俺は小さい頃、家の事情でおばあちゃんに預けられていた。
当初、見知らぬ土地にきて間もなく当然友達もいない。
いつしか俺はノートに自分が考えたスゴロクを書くのに夢中になっていた。

それをおばあちゃんに見せては
「ここでモンスターが出るんだよ」
「ここに止まったら三回休み〜」
おばあちゃんはニコニコしながら
「ほーそうかい、そいつはすごいねぇ」
と相づちを打ってくれる。

それが何故かすごく嬉しくて、何冊も何冊も書いていた。
やがて俺にも友達ができ、そんなことも忘れ友達と遊びまくってた頃、家の事情も解消され自分の家に戻った。

おばあちゃんは別れるときもニコニコしていて
「おとうさん、おかあさんと一緒に暮らせるようになってよかったねぇ」
と喜んでくれた。


先日そのおばあちゃんが死んだ。89歳の大往生だった。
遺品を整理していた母から「あんたに」と一冊のノートをもらった。
開いてみるとそこにはおばあちゃんの作ったスゴロクが書かれてあった。
モンスターの絵らしきものが書かれてあったり、なぜかぬらりひょんとか妖怪も混じっていた。

「おばあちゃんよく作ったな」とちょっと苦笑していた。
最後のあがりのページを見た。
「あがり」と達筆な字で書かれていた、その下に
「義弘(俺)くんに友達がいっぱいできますように」

人前で、親の前で号泣したのはあれが初めてでした。
おばあちゃん、死に目にあえなくてごめんよ。

568名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/05(日) 09:50:01.50
俺は小さい頃、家の事情でおばあちゃんに預けられていた。
当初、見知らぬ土地にきて間もなく当然友達もいない。
いつしか俺はノートに自分が考えたスゴロクを書くのに夢中になっていた。

それをおばあちゃんに見せては
「ここでモンスターが出るんだよ」
「ここに止まったら三回休み〜」
おばあちゃんはニコニコしながら
「ほーそうかい、そいつはすごいねぇ」
と相づちを打ってくれる。

それが何故かすごく嬉しくて、何冊も何冊も書いていた。
やがて俺にも友達ができ、そんなことも忘れ友達と遊びまくってた頃、家の事情も解消され自分の家に戻った。

おばあちゃんは別れるときもニコニコしていて
「おとうさん、おかあさんと一緒に暮らせるようになってよかったねぇ」
と喜んでくれた。


先日そのおばあちゃんが死んだ。89歳の大往生だった。
遺品を整理していた母から「あんたに」と一冊のノートをもらった。
開いてみるとそこにはおばあちゃんの作ったスゴロクが書かれてあった。
モンスターの絵らしきものが書かれてあったり、なぜかぬらりひょんとか妖怪も混じっていた。

「おばあちゃんよく作ったな」とちょっと苦笑していた。
最後のあがりのページを見た。
「あがり」と達筆な字で書かれていた、その下に
「義弘(俺)くんに友達がいっぱいできますように」

人前で、親の前で号泣したのはあれが初めてでした。
おばあちゃん、死に目にあえなくてごめんよ。

569名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/11(土) 16:52:32.84
私には 親友がいた

クラスではムードメーカーで
人の好き嫌いがなく
毎日明るく笑っていて
言葉づかい悪いけど一番優しいんだ

昔からやんちゃで明るい奴だったから
よくあざがあって いつも
よくこけている 言えばウルトラスーパー天然
あああああああああああああああああああああああ

時間。戻れ!!!!!!!!!
あの時 親友は心で叫んでいたんだ
助けを求めていたんだ
バカバカバカバカバカバカ

ウルトラスーパー天然??
違う違う違う違う違う違う
違うかったんだ

戻りたい あの時へ戻りたい
助けてあげたい

親友は虐待を受けていた
知らなかった
いや 予想もできなかった自分に腹が立つ
思えば あざ、あんなにあったのに
いないんだ
もう親友はいないんだ
笑いあえないんだ

親友がいる人に伝えたい
親友の変化は親友であれば親友であるほど
わかりにくいから
気付いてあげてほしい 助けてあげてほしい
570名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/18(土) 17:06:52.44
11才の息子がいる。5年生。サッカーやってる。
(親バカだけど)ディフェンダーで頑張っててチームにも期待されてる。
その息子が怪我をした。市の一番を決める大一番だ。試合中に激しく相手と接触し、転倒した際に右手首骨折。日曜日だったが休日出勤してた私はかみさんからの連絡を受け病院に。整骨のために処置をした息子は泣かずに頑張ってた。
でも、私が、「しばらく試合は無理や。ベンチで応援しよう。」と言うと涙ぼろぼろながして、悔しがった。出たっかたろうに。出て優勝したかったろうに。
そんな息子が誇りだ!
571とある名無し。:2012/02/20(月) 04:55:15.88
去年の3月頃……ちょうどその頃は東日本大震災で日本中が揺れに揺れてた時だった。
これは、そんな時の話。
俺には3月31日生まれのばあちゃんがいる。いや、正確には、いた。
そのばあちゃんは本当に優しくて、俺が兄貴と喧嘩して泣かされた時なんかにはいつも俺を抱き寄せて、慰めてくれた。
そんなばあちゃんが3月の中旬、いきなり入院した。
俺は高校生になってから、ばあちゃんと会う機会がめっきり減っていた。
いや、正直に言うと、どこかで避けていたんだと思う。
平日は部活で忙しく、休みの日は友達と遊んでた。それが楽しかった。
たまにくるばあちゃんからの電話も、わざと出ないときもあった。
めんどくさかったから……。
春休みになり、ばあちゃんのお見舞いにも顔を出さず、部活で毎日河川敷グラウンドへ行く日々。
そして1週間がたった。すると、いつもはあまり話しかけてこない父がいきなり話しかけてきた。
父「明日はお見舞いに行くからな。予定キャンセルしとけ。」
俺「え?なんで?」
父「いいから!予定キャンセルしとけ!」
あまり怒鳴らない父がいきなり怒鳴ってきたので断りきれず、次の日の予定をキャンセルした。
そして、お見舞いに行った。病院に向かう途中の車で父から意外なことが告げられた。
父「実は、ばあちゃんもう長くないんだ。もうすぐ死んじゃうんだ。今はもう頭もボケてきて、正直、お前のことすらわからないかもしれない。
だから、びっくりしないで昔みたいに普通に接してやってくれ。頼む。」
頭が真っ白になった。
そして、いざ病院に着き、ばあちゃんのいる病室へ向かうと、そこには腕に何本もの点滴が刺されていたばあちゃんがいた。
父「母さん、慎之介連れてきたよ。」
と言った。
すると、ばあちゃんはこう言った。
「初めまして、慎之介さん。」
返す言葉も見つからなかった。
俺はあまりの衝撃に、ただただ作り笑いをするしかできなかった。
そして、10分くらいして俺は車に戻った。ばあちゃんに笑顔で「慎之介さん」と呼ばれるのが辛かったから……。
次の日、俺は部活だった。が、少し寝坊をしてしまった。
そのせいで機嫌の悪い俺は、ソッコーで着替えていつもの河川敷に向かおうとした。
玄関を出ようとした時、母が俺にこう言った。
「いつでも電話に出れるようにしときなさいね。」
俺は二つ返事で、
「はいはいわかったよ」
と言い、家を後にした。
練習開始10分前にグランドに着き、着替えてる途中、携帯がなってるのが聞こえた。
俺は早く着替えなきゃいけないのと、電話に出るのがめんどくさく、シカトしてしまった。
着替え終わってアップに合流し、4時間ほど練習した。
そしてグラウド整備を終え、携帯を見た。
すると、着信履歴106件,受信メール87件もあった。
全て家族からのものだった。
胸が騒いだ。
すぐ兄貴に電話した。
もう何を言われるかはわかっていた。
そして、すぐに兄貴が出た。
俺「どうしたの?」
わかってたのに聞いた。
572とある名無し。:2012/02/20(月) 05:00:25.09
兄貴「……ばあちゃんが死んじゃった。とりあえず一回家に帰って来い。」
俺は、ジャージのまま無言で自転車を走らせた。すぐに。
その時部活の友達に何か話しかけられたが、何も覚えてない。
不思議なことに、涙は一滴も出てこなかった。多分、まだその時は実感が無かったんだと思う。
15分くらいして家に着き自転車を置いたとき、ちょうど母から電話がきた。
母「もしもし?」
俺「ごめんなさい…」
怒ってると思ったから、謝った。けど、母から帰ってきたのは意外な言葉。
母「ごめんね、慎ちゃん。ごめんね……」
電話越しにおかんが泣いているのがわかった。
俺「なんで…。なんでおかんが謝んの。悪いのは……」
その瞬間、目から涙が溢れてきた。俺は抑えきれなくなり、大声出して泣いた。駐輪場で。
母「今お兄ちゃんが迎えに行くから。そこで待っててね。」
そして、兄貴がきた。
声を出して泣いてる俺のとこに来て、
「ほら、おばあちゃんに会いに行くぞ。」
と言われた。
車で5分くらいして、近くの葬儀屋についた。
そして、事務の人に話をし、ばあちゃんに会いに行った。
が、その部屋にはばあちゃんはいなかった。
しばらくして、父が来た。俺は、また謝った。
ごめんなさい…
ごめんなさい……
ごめんなさい………
父は
「謝らなくていい。お前は悪くない。ほら、ばあちゃんに顔見せてやれ。」
そして、父が係りの人に頼むと、ばあちゃんは死体冷蔵庫から出てきた。
近くにより、ばあちゃんの顔を見た。そこには、昔のままの優しいばあちゃんがいた。
俺は、また大声出して泣いた。係りの人がいたけど、泣いた。
すると、家族みんなが俺のとこに来た。皆で俺を慰めてくれた。
その時の皆は、本当に暖かかった。
家族ってやっぱいつでも俺の味方なんだな、って思った。
でも、俺が本当に慰めてもらいたい人は、目の前にいる。
だが、その人はもう二度と動くことはない。それを思うと、やっと実感した。
ばあちゃんが死んだ、って。
皮肉にも、その日はばあちゃんの83回目の誕生日。3月31日だった。
この文を読んでくれた人達に、1つだけお願いがあります。
家族からの電話には、しっかりでてください。
573名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/20(月) 07:07:50.24
こんなブログもある。

「未来は僕らの手の中 禁パチ禁スロ鬱病」

励まされますよ。
574名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/22(水) 08:49:40.83
>>443
いねーよ
どうせあなたが書いてて宣伝したいんでしょ?
575名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/26(日) 01:06:07.70
>>539

場所はどこ?
検索したけど出て来なかった
作り話でないなら何かお供えに行きたいな…
576名無しさん@お腹いっぱい。:2012/02/26(日) 21:37:59.84
>>467
何か元気出た
577名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/04(日) 01:36:02.88
小学校低学年でガンを患って以来、えらい病弱になった。
元々体は弱かったけど、ここ数年は年を重ねていくごとに弱っていくような感じだった。
冬なんて学校を休むのはいつもの事だった。
ちょっとした事で熱を出したり、それが悪化して肺炎になったり。
今年は入院もした。それくらい弱かった。

ある冬の日、学校から帰ってきて夕飯を食べた後。
ゴロゴロしていたらチョコレートが食べたくなったので近所のスーパーに買いに行こうとした。
家から300m程のかなり近いス―パで、よく行く店だった。
だが両親は寒いからダメだと言った。
わたしは「それくらいいいだろう…」と思った。
いくら体が弱いとはいえ、近所のスーパーくらいいいだろうと思ったのだ。
しばらく反論していたが、すると父親はわたしが先月入院した話をもってきた。
「そうやって寒い時に外出するから風邪を引くんだ。
それが悪化して肺炎になってお前は1週間も入院したじゃないか」と。

わたしはチョコレートが買いに行けないとか
お菓子が食べられないとかそういうのじゃなくて、
自分の身体の弱さで行動を制限される事が悔しかった。

身体が弱いから、正直外出してもしなくても倒れる時は倒れる。
だけど父はそれを聞いてくれなかった。

「お前は体が弱いから」

そう言われる事が悔しくて悲しくて、
情けない事にわたしは泣いてしまった。
そのまま布団に行って泣きながら眠った。

数日後。
昼食をつくるためにキッチンへ。
戸棚の下にある引きだしにパスタがあったので開けると、
そこには板チョコレートが何枚も入っていた。

祖母に理由を聞くと
「あんたのお父さんとお母さんが、あんたが夜の寒い時にチョコレート食べたいって言い出したらいつでも食べられるようにって買って来たんだよ。ばあちゃんも最初見た時はびっくりした」
と笑いながら話していた。

父と母はわたしがどうしてもチョコレートが食べたくて泣いたんだと思ったらしい。

何枚もの板チョコを見て、わたしは泣きそうになった。
もう自分の身体の弱さを自覚してわがままを言わないようにしようと思った。
578名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/08(木) 03:59:44.91


J1第1節
(3/10 土)
 札幌 − 磐田  [札幌ド 14:00]
 仙台 − 鹿島  [ユアスタ 14:00] NHK総合
 名古屋 − 清水  [豊田ス 14:00]
 G大阪 − 神戸  [万博 14:00]
 広島 − 浦和  [広島ビ 14:00]
 鳥栖 − C大阪  [ベアスタ 14:00]
 川崎 − 新潟  [等々力 17:00]
 大宮 − FC東京  [NACK 19:00] NHKBS





579名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 05:15:38.72
二十歳、キャバ嬢。
ろくな仕事じゃないという人もいる。
その意見も理解できる。
でも夜の仕事をしたおかげで私は成長出来た。
お店の先輩みんな優しくて、社長なんてずっと私の父親代わり。
いや、父親以上。
片親(母)に育てられた私は16から夜の仕事をしないといけない環境にあった。
母に迷惑をかけられないので地道にお金を貯めて自分で専門学校の資金を貯めた。
入学時期にあと10万足りなかった。
社長がなにも言わずに10万渡してくれた。
その後またお金貯めて返そうとしたら、勉強の道具をもっと揃えろと突き返された。
580名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/22(木) 17:13:08.17
大震災のとき、母親と同じ部屋にいた。 
みんな地震きたら 家具とか押さえるのに
母は俺のこと守ってくれた。
泣いた。
581名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/01(日) 15:51:59.20
文書くの下手だと思うがありのままを書きます。

昨年ばぁちゃんが死んだ
ばぁちゃんっつってもひぃばあちゃん。
家族みんなでそのばぁちゃんと住んでた。
自分はちっちゃい頃からばぁちゃんっ子で
小学生ん時に親が離婚して兄弟みんな母親に連れられて
引っ越すことになったときもばぁちゃんと居るんだー
って一緒にいかなかった。
ばぁちゃんの作る飯が最高にうまかった記憶がある。
ばぁちゃんが出かけるときは絶対ついて行ってたし、
友達と遊びに行っても飯の時間には絶対帰ってた。
582名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/01(日) 15:52:32.74
そっから何年かたって母ちゃんが再婚することんなって
みんな連れてばぁちゃんちに帰ってきたんだよ。
もちろん母ちゃんとか兄弟といれるのは嬉しかったけど
再婚相手の人とうまく接することができなくて
そーこー言ってる間に新しい妹が出来たんだ。
そしたらさ、新しいオヤジの態度とかがやっぱ全然違ったのよ。
それが気に食わなくて中学入ったばっかの自分はグレて
家に帰んなかったり帰る時は友達何人も連れて帰って
たまり場みたいにしてたのよ。

ばぁちゃんはそれでも優しくって
たまってる友達とか家出してきた奴とかに
「昼からでもいいから学校はいきんしゃい!」
っておにぎりとか作って渡すのな。

だれもばぁちゃんには反抗しなかったし
気づいたらみんなばぁちゃん!ばぁちゃん!って
ばぁちゃんっ子みたいんなってた。

「あんたらみたいなん孫にした覚えない!」
って言いながら嬉しそうに笑うんだよ。
すんげぇ優しいばぁちゃんだったんだ。

583名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/01(日) 15:53:34.94
中学も卒業して高校に行く奴、
仕事する奴、みんなバラバラんなって集まらなくなったぐらいに
ばぁちゃんが老人ホームに入ることになったんだ。

最初は毎日行ってたけど次第にめんどくさくなって行かなくなった。

たまに行ったら「この前○○が来てくれよったよー」
って嬉しそうに話すから友達も行ってたんだと思う。

それで安心してもっと行かなくなった
そしたら仕事中に母ちゃんから電話が鳴ったんだ。
「ばぁちゃんが病院に搬送されたからすぐ来て」って
仕事ほっぽり出して急いで行ったら結構元気で
ばぁちゃん普通に「来てくれたんかーありがとう」って。

それに対してどうゆうことだよ!って怒ったんだ。
今思ったらどうもなかった事にもっと喜べばよかったって思うよ。

すぐ老人ホームに帰れたばぁちゃんは病院にはもう戻りたくない!
って笑ってた。
でもそっから一気に弱って行っても話すことが減って、
飯も食わなくなった。ほとんど寝てた。

でも病院だけは嫌だって言うし老人ホームで
看取ってもらうことになった。
584名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/01(日) 15:55:05.65
そっから毎日仕事昼に終わらして昼から夜まで
ばぁちゃんのとこに行ってた。
どんどん弱っていく姿見てもう話せなくなって相槌くらいしか
うてないばぁちゃんに今日は仕事でこんなだったとか
天気の事とかいっぱい話した。

帰る時間になってまた明日!って声かけたら
いつも「ありがとう」って言ってたのが
弱い声で「ありがとう。もういいんよ。」って言うんだ。

それでも明日も来るから!って声かけて
部屋からでた瞬間に泣き崩れたよ。
あーもう駄目なんだなって。

翌日行ったら苦しそうに息してて
話しかけてももう相槌も帰ってこなかった。
枕元見たら死んだじいちゃんの写真置いてんだよ。

我慢できなくなって泣きながら
もういいよ、ばぁちゃん苦しいやろう、じいちゃん迎えに来てあげて。
もうばぁちゃんも頑張らんでいいって言って帰ったんだ。

帰り際にばぁちゃんが小さい声で「ありがとう」って言った。
585名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/01(日) 15:58:00.51
家に帰っても涙止まらなかった、
寝ようって部屋真っ暗にしても寝れなくて気づいたら夜中2時すぎてたんだ。
仕事の時間が早いから普段なら寝てる時間なんだよ。

そこで家の電話が鳴ったんだ。
番号見なくても分かった。ばぁちゃんがもう駄目なんだなって。
すぐに母ちゃん起こして泣きながらばぁちゃんとこに行ったんだ。

着いた時にはもう死んでて、見た瞬間に頭が真っ白になったよ。
寝てだけみたいな顔してんだもん。

手続きも終わって霊安室に入る前に時間をもらえた。
もう動かなくなったばぁちゃんにずっと話しかけた。
手握ったら冷たくて話しかけながら最後まで一緒にいた。

未だに死んだ実感が湧かないんだ。

なぁ、ばぁちゃん。
こんなひ孫でごめんなぁ、何もしてやれんでごめんなぁ。
夜叉孫抱かせてやれんでごめんなぁ。
結婚する姿見せてやれんでごめんなぁ。
そっちはどんな感じかな?こっちは悩み多くも頑張ってるよ

もう23になるが今でもばぁちゃんが大好きだ。

586名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/09(月) 02:14:12.66
これが泣けるか他人はわからないが
あとにも先にも今のところ35年生きていて号泣をしたのは初。
当事者だからって事でお願い。

自分の家は母子家庭。父親が病気で小学校1年の時に倒れ
脳の病気だったから当時は死ぬレベルだったらしい。
ただ小学校1年までは母親は色々な教室かよわせたり
父親も地方都市だけどMRACH卒だから
若くして地元では有名企業で役職が上だったみたい。
比較的エリート路線だったらしい。

しかし若くして病気で倒れて(今の俺くらいの年齢w)自分含めて兄弟は母親の両親の実家で生活
させてもらうよになった。
あまりにも何不自由なく暮らしてしまい
自分は公立高校落ちて地元私立高校と東京の私立大学いってしまった。

その後に就職して某上場企業勤めて、みんなよろこんでくれたけど
じいちゃんがなくなった。
もう認知症でだめとはおもっていたけど
なんかショックだった。
そして葬式の時に母親から重大な話があると兄弟3人にいわれた。

これが自分では何するかわからなかったが
親戚のおじさんやおばさん連中は
「母親は悪くないから責めないで」とのことだけ。
結局その後ふたをひらいたら
実はもう一人兄弟がいた。
その瞬間、妹が泣いた。
地元にずっといたからそっくりすぎて
よく間違えられたらしい。ばあちゃんは墓場までもっていく
つもりだったみたいだけど、向こうから真相をしって
会いたいときたらしい。

長文だから続く
587586:2012/04/09(月) 02:25:02.04
んで当日にあった。
妹号泣。
向こうの妹(3つ子か)
号泣。俺も鼻水ダラダラ。泣かないようにしていただけ。
とにかく32くらいでこんな事おこるなんてしらなく
漫画みたいでびっくりしすぎた。
ながらく妹だと思っていた人間が
「もしかしたら私が向こうにいっていたかも」
なんて電話で泣くのはこちらも心痛めた。
髪の毛抜けたわw
その後は二人の妹も無事結婚しましたけど
いまでもこの悲しい関係は父ちゃんはよくわかってないし
(脳やられてるから)いまだにあってない。
結局、父親方面の親が勝手に3つ子の時点で里子に出したらしい。
こんなの書くと特定されそうで怖いけど
今でも二人の妹には幸せになってほしいて切実に願うよ。
588586:2012/04/09(月) 02:25:49.22
んで当日にあった。
妹号泣。
向こうの妹(3つ子か)
号泣。俺も鼻水ダラダラ。泣かないようにしていただけ。
とにかく32くらいでこんな事おこるなんてしらなく
漫画みたいでびっくりしすぎた。
ながらく妹だと思っていた人間が
「もしかしたら私が向こうにいっていたかも」
なんて電話で泣くのはこちらも心痛めた。
髪の毛抜けたわw
その後は二人の妹も無事結婚しましたけど
いまでもこの悲しい関係は父ちゃんはよくわかってないし
(脳やられてるから)いまだにあってない。
結局、父親方面の親が勝手に3つ子の時点で里子に出したらしい。
こんなの書くと特定されそうで怖いけど
今でも二人の妹には幸せになってほしいて切実に願うよ。
589586:2012/04/09(月) 02:26:45.44
スマン
590名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/10(火) 22:43:06.60
俺は、この女に5年前28万貢がされた

これってイロエンピツのことだよね

728 :774号室の住人さん:2009/10/31(土) 13:05:17 ID:tW7Q2eJ3
>661 大阪のイロエン○ツの主催者のジュンコって、性格の悪い性悪ババアですよ。こいつのやり方は、言いなりになりそうな男性をしつこく勧誘して、スタッフにして、色んな物買わせたりとか、自分より目立つ可愛い女に、嫉妬し、出禁にしたりとか、無茶苦茶。
591名無しさん@お腹いっぱい。:2012/05/30(水) 18:30:25.85

数年前の話だが

ある夏の日の早朝、私が寝起きでぼんやりしているところに突然家の電話が鳴り響いた。
母方のおばあちゃんが亡くなったという報告だった。
あまりに衝撃的な事実に、悲しいという感情も湧かず、結構年もいっていたし『とうとうか…』っていう感じだったと思う。
生前私は、おばあちゃん家の近所の高校に通っていたので、たまに足の悪いおばあちゃんがゆっくり歩いている時に偶然会う…とかそんな感じでしか交流はなかった。
おばあちゃんが亡くなったその日、お葬式やお通夜の計画の為に親戚や近所の人が集まって話し合っていたが、私はまだ若いということもあり従兄弟達のお守りをしていた。そこに、ふと現れた近所のおばさんのT。
T『おお、○○(私の名前)か』
私『あ、お久しぶりです』
T『おばあちゃんがよく○○のことを話してたんだけど、ほんと大きくなったなー』
私『え?』
T『あんたいつも駅で会った時に声かけてやってたんだろ?「○○はいつも笑顔で声をかけてきてくれて、足大丈夫?気をつけて帰ってねって言ってくれるんだ」って何度も言ってたんだよ』
それを聞いた時は驚きつつも、そうだったんだ…程度に思ってた。でもその日の晩、駅で会った時のおばあちゃんのこと思い出して、おばさんの言葉思い出して、一人で号泣した。

今でも思い出すと泣ける
長文スマソ

592名無しさん@お腹いっぱい。:2012/07/27(金) 18:21:51.60
友人の話です。
生涯独身でした。
http://blogs.yahoo.co.jp/light_sgur
593名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/10(金) 00:27:47.17

自分はブラジル人で、おばあちゃんやおじいちゃんはブラジル、
自分と、自分の姉、弟、母、父は日本、たまにお父さんとも離れてくらすときもありますが。

自分のひいおじいちゃんが3年前に亡くなりました。
正直合ったのは2回ほどで、顔もあまり覚えていませんでした。

あまり家にも写真がなくて、2年後におばあちゃんが日本に来たときに写真をもってきてくれて、それで知ったくらいです。

家で普通にゲームやらしていたら突然ブラジルから電話がかかってきて、
久しぶりに話せるからうれしくてうれしくて、お母さんが電話しているときも『早くかわって!』といいながら横にいました。

すると突然母が泣き出し、電話を切りました。

子供の前では絶対に泣かない母が泣き、とても驚きました

『どうしたの?』ときくと、『ひいおじいちゃんがね、亡くなったの』
ときき、最初は理解できず、ただあたふたしていました。

正直ひいおじいちゃんでも顔もおぼえていない。あまり合ったことが無い。
母が泣いている中、自分は泣くこともなく、ぼーっとしていました。

それからずっと母は落ち込んでいて、

お金もなく、遠いブラジル。

お葬式に行くという風に母はいっていましたし、自分たちとしてもまだ小さかったのでよくはわかりませんが
いったほうがいいと思っていましたが、結局子供3人家に残していけない。
といい、私たちのせいでいかせてあげられませんでした。

正直まだ自分はなんだかひいおじいちゃんが亡くなった感覚がまだないです。
今でもまだいるような気がして。

ブラジルに帰ればおじいちゃんやおばあちゃんと一緒にまっててくれるんではないか。


正直これが泣ける話かどうかはわからないけど、

そのとき自分は泣いていなかったけど今は思い出すとすごく自分は泣ける


あと、もう一つ、自分はまだ小学校通ってない頃からの夢があります。

おじいちゃんとかおばあちゃん、叔母、叔父、家族みんなそろってほしい。

1回でもいい。

ひいおじいちゃんが死んだときはそれで少し落ち込んだ

日本語まだまだいたらないところがありますが、大目に見て頂けるとうれしいです。


長文失礼しました
594名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/13(月) 17:03:23.79
母上、お元気ですか。
長い間、本当に有難うございました。
われ六歳の時より育て下されし母。
継母とはいえ……慈しみ育て下されし母。
有難い母。尊い母。
俺は幸福だった。
遂に最後まで「お母さん」と呼ばざりし俺。
幾度か思い切って呼ばんとしたが、何と意志薄弱な俺だったらう。
母上、お許し下さい。
さぞ寂しかったでせう。
今こそ大声で呼ばしていただきます。
お母さん、お母さん、お母さん、と。


知覧特攻平和会館の遺書から
595名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/16(木) 01:36:35.40
母さんの葬式様の写真探してたらさ
俺と一緒に写ってると母さん全部俺の事見てんの
俺が撮るとカメラ目線なんだけどさ
596名無しさん@お腹いっぱい。:2012/10/19(金) 04:28:46.34
小学生の時近所の公園で何やら縁日があり、私も行きたかったので出かけた

会場は混んでいたが屋台が数店舗あり、そこに人が群がっていた
ふと会場の公園の離れた一画に目をやると小ぢんまりした一つの屋台があって、そこで近所の一人暮らしのおじいさんが一人で弁当を売っている
しかし誰も買おうとしない為か少し哀愁が漂っていて悲しくなったが、私は他の屋台の美味しそうな出し物に惹かれてしまい、アメリカンドッグを買って食べた

暫くして、にわかにトイレがしたくなりそのおじいさんの前を通ると
「喪美ちゃん。お弁当食べない?おじさんが頑張って作ったから美味しいよ」
と満面の笑みで微笑みかけてきた

商品棚に山のように積まれている弁当の量は、私が会場に来た時と変化が無いように思えた
当時の私はアスペ気味だったため、
「え〜そんなのいらない」
と言った
その時に「そうか・・・ごめんね」とおじさんが言ったので切なくなり、「お腹減った」と言ってやっぱ買おうかと思ったが、恥ずかしくてそのまま無視して帰宅した

2ヶ月後に屋台のおじいさんが亡くなったと母親から聞いた
なんでも病気で体を患っていてもう長くないから、これが自分の最期の縁日になるだろうと近所の人に世話になった恩返しをするために内緒で縁日への出店を前から計画していたらしい
おじいさんは昔コックをしていて料理の腕は確かなのに全く売れず、さみしそうに作った弁当を破棄している姿を想像して泣いた

竹馬できない私に教えてくれたのも、昔の歌を教えてくれたのも、そろばん教えてくれたのもそのおじいさんだったのに私は何もしてあげられなかったなと思ってスレタイ
ずっと謝りたかった
天国で奥さんや息子さんと楽しく過ごしていて欲しい
597名無しさん@お腹いっぱい。:2012/11/26(月) 20:18:02.57
個人的にこの話がめちゃくちゃ泣ける

http://nakerukopipenomatome.blogspot.jp/2012/11/blog-post_26.html
598名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/01(土) 17:19:48.50
TPP推進派を支持する愚かな人々へ

ネットで調べよう

ユダヤ支配のモンサントが画策している世界同時飢餓計画
ロッキード事件の真相
911の真相(やらせ疑惑)
311東北地方太平洋沖地震の裏側(地震兵器疑惑)
日本航空123便墜落事故の真相

[推奨コピペ]今こそ広めるべき真実
599名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/09(日) 08:26:08.17
全部読んだが泣ける?
600名無しさん@お腹いっぱい。:2012/12/19(水) 17:41:01.36
昨日拾ったやーつ

24 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 23:02:42.18 ID:A65Tjuyr0 [1/2]

俺が3歳の頃に親が離婚した、俺は父に、妹は母に引き取られた
父は長距離トラックの運転手をしてて帰りは午前1時過ぎ、小学生になってからは朝食の時くらいしか顔を合わせられないような生活
炊事や洗濯は俺の仕事なので放課後友達と遊ぶ時間も少なかったが、寂しいという感覚は無かった、その頃の俺にとってはもう普通だった
ある日、小学校から帰る途中で用水路に鉄のカゴが入ってるのを見つけた、興味本位であげてみると中には奇妙な魚が入っていた
なんの種類か気になって帽子に水と魚を入れて持って帰りバケツに移し、家事を済ませ朝を待った
魚はナマズだった、種類もわかったから通学途中で返してこようとナマズを持って出る俺を父が引き止めた
このナマズをうちで飼うことにしたらしい、大きくして食うのだという、ナマズは夜行性なので世話は俺がするらしい
なま平、父にひどい名前を付けられたナマズは間抜け顔で動きも少なく正直つまらない奴だと思っていた、が
ナマズだけじゃつまらないからと父に頼んで同居させた金魚が1匹づつ消えていくことに気づいてからは水槽から目が離せなくなった
そして俺は決定的な瞬間を目にする、なんと、なま平の口から金魚の頭が出ているのだ、俺は金魚を助けようと水槽を叩いた
なま平はびっくりして金魚を吐き出したが、吐き出された金魚の下半身にはもう色はなかった、すぐにすべての金魚を回収し、バケツに移したが
しばらくしてその金魚は死んでしまった、庭に小さなお墓を作ってあげたが、作っている最中涙が止まらなかった
俺が連れてこなければ金魚はまだどこかで生きてたはずなんだと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいだった
残りの金魚は川に帰した、本当はなま平を捨てたかったがなま平は父のだからできなかった
それから俺は毎日なま平が食い切れないほどの人工餌を水槽に入れるようになった
早く大きくなって俺と父に食われてしまえばいいと思ったからだ、水もこまめに換えるようになった、汚い水の魚は食いたくないと思ったからだ
食う前に死なれても困るので正しい飼育の勉強もした

25 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です[sage] 投稿日:2012/12/18(火) 23:07:54.02 ID:A65Tjuyr0 [2/2]

そんな日々も1年以上続くと、父も俺も愛着が湧き食用で飼っていることを忘れていった
むしろ、家に来た友達にかわいいやら、かっこいいやら言われるなま平を誇らしく思うようにさえなっていた
ちゃんと世話して偉いねと大人たちに褒められるのもうれしかった

なま平がうちに来てもう2年近くになる
金魚たちの件は許し、金魚の分も長生きさせよう
そう思っていたんだよ、なま平

ごめんね

いつものように外のバケツになま平を移し台所で水槽を洗っていると、外からガタンという音が聞こえた
何事かと思い外に出ると、走り去っていくネコと、倒れたバケツが目に入った、バケツの中になま平はいない
不安な気持ちでいっぱいになりながらも辺りを探そうと目を凝らした
手前、濡れた砂利の色と大差ないなま平を探すのは容易ではないと思ったが
奥、見渡した砂利の一部が赤いことに気づく、駆け寄ってその赤い部分を両手ですくった、見つけた、なま平だ
赤い色はなま平の破けたお腹だった、すぐにバケツに水を溜め移した、助かるなんて思ってない
もう死んでるんだから、でも死んだとも思いたくなかった

バケツの前から体が動かなくてしばらく学校を休んだ、父にも仕事を休ませてしまった
3日ほどして、なま平から完全に色が抜けた時、俺は納得した


大きなお墓を作った
「寂しいよ、なま平」

作り終えても涙は止まらなかった
601名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/13(日) 20:49:38.87
会社で濡れ衣着せられて、上司が助けてくれて、それが今の嫁


っていうの昔2chで読んだんだけど誰か知らない?
また読みたくてかなり検索してみたんだけど出てこない。。
602名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/14(月) 17:41:44.14
「母ちゃんより怖い女」で調べると出てくると思うよ
603名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/15(火) 21:07:56.44
>>602
これだ!!ありがと〜!
ここ1ヶ月くらいずっと探してた!!
604名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/15(火) 22:14:50.93
>>603 役に立ってよかったよ
605名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/17(木) 23:46:53.72
http://www.youtube.com/watch?v=He3kXT3Y31Q
文月メイ「ママ」

ぼくのことが邪魔なの? あのゴミ袋と一緒に捨てるの?
生きることが辛いの? 頼る人が誰もいないの?
ごめんね、ママ なにもわからなくて なにもできなくて
でもぼくには、たった一人のママ いい子にしてるから
どうして、ねぇママ どうして、ねぇママ

神様が決めたの? ぼくは生きちゃダメって
ぼくね、天使になったよ いつでもママを見守ってるよ
だって弱虫なママは 一人じゃ生きられないでしょ
ごめんね、ママ ぼくが大きかったら 助けてあげれたのに
でもぼくには、たった一人のママ 二度と巡り会えなくても
606名無しさん@お腹いっぱい。:2013/10/23(水) 21:40:07.54
/                   \  ____
ゴハンヨー  (・ω・` )            | ̄|ヽ _\
\      ( ∪ ∪  _____        |  |= )   )
        と__)__) [_i(::)ェ]     |  | r   r
                  / | ̄ ̄i ̄ ̄ ̄|

「今カセットテープに吹き込んでるから音立てないでよ!」

・・・そしていつの日にか録音に混じった家族の声の方が大切になる。
607名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/05(木) 01:56:17.99
>>601
つべで「結婚に至った過程を思い出して語るスレ」で検索すると全5話の動画で見れる。
608もりやん:2013/12/05(木) 15:18:28.29
私は法律上は誰でも乗れる女性専用車に
乗っただけで見た目が60歳ぐらいの
自称マトリGメンの女に痴漢犯人に
でっち上げられました。
女と駅員との会話などをネット上で公開しました。
宜しければYouTubeで下記の文字で検索して下さい。
         ↓
      痴漢冤罪四条畷
609名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/13(金) 22:31:18.34
どこで聞いた話か忘れたが……

彼の父親は真面目で堅物、いわゆる融通の利かない、冗談も通じないような男だった。
彼が小学生の頃のこと。毎週楽しみにしていたテレビ番組「8時だよ!全員集合!!」を観ていた彼はあまりの面白さにテンションがあがってしまい、思わず「俺、大人になったら、ドリフに入るんだ!」って叫んでしまったらしい。
それを聞いた父親は、何故か怒りだして言ったそうだ。「ばか野郎!そんなふざけたこと言ってんじゃねぇ!」って。
彼は子ども心に、冗談なのにそんな怒らなくても……と思い、我が親ながらそのくそ真面目さにウンザリした。
そして月日は流れ、彼は高校3年生になった。
進級してすぐに進路を決める三者面談があり、珍しく彼の父親が「俺が出る」と仕事を休んで同席することになったんだ。
彼の成績は中堅高で上の下というところで、頑張ってそこそこの大学に行けるかどうか、無難に三流大学にしておくか、という線だったそうだ。
彼は担任と色々な大学名を挙げ、ここはどうか?あそこなら行けそうか?など真剣に話しあった。その間、父親は腕組みして黙ってそのやり取りを伺っていた。
彼がチラリと横目で父親の様子を見ると、何故かイライラしているようだった。彼はそれを気にしつつも、担任に相談を続けた。
「先生、話しの途中で悪いが」
黙っていた父親が突然口を開いた。
「どうぞお父さん、お考えをおっしゃってください」
黙ったままだった父親のことがずっと気になっていたのか、担任はホッとしたような表情をして言った。
「先ほどから、高校を出たら当然のごとく大学に行く前提で話を進めておられますが、うちの息子は……」
まさか進学はさせないということか……彼も担任も不安になった。
「卒業したら、ドリフに入ります!」
610名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/13(金) 23:21:30.48
忘れられない年賀状

入社して一年目。一生懸命頑張ったが何をやってもうまく行かなかった。部長から年賀状が届いた。
「俺は見てるぞ。頑張れ」

二年目。板に付いてきて、努力が報われ出した。部長から年賀状。
「みんな見てるぞ。頑張れ」

三年目。部下も出来、仕事が定着してきた。部長から年賀状
「もう見なくて大丈夫だな」

そして、いつの間にか中堅になり、部下も増えてきた。何年かぶりに部長から年賀状。

「もう見れないけど、頑張れ」


その年、部長は定年で静かに職場を去って行った。
四通の年賀状は、俺の宝物として、大事に保管している。
611名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/14(土) 16:00:04.16
知人が亡くなった
会社では毎日搾られ
家に帰ればアル中で認知の入った老親と
近所でも有名なヒス嫁がいた
子供の一人が女の子妊娠させて高校は辞めた
子供の一人は不登校だった
家族を養わなければいけないって頑張ってたけど
勤務先の倉庫で亡くなった
大嫌いな会社だったはずなのになぜ自殺場所に選んだのか
誰にも分からなかった
612名無しさん@お腹いっぱい。:2013/12/16(月) 22:11:56.70
小学生の時、古本屋の親父さんと仲良くなってね
本ばっかり読んでる暗い子供だったけど家が貧乏で新刊本は手が出なかったから
本はもっぱら図書館で借りて
小銭を貯めてはその古本屋の50円均一の文庫コーナーに行くのが唯一の楽しみでさ
そのうち親父がおすすめの本や作家を薦めてくれるようになって
小銭がなくてもよく立ち寄るようになったんだよ
服や靴で貧乏だってのが分かったのか
たまに全集の半端ものなんかを「どうせ売り物にならんから」ってタダでくれてさ
ほんとうれしかったな
お礼に本棚にはたきかけたり、本を運ぶの手伝ったりしてさ
今考えるとずいぶん邪魔したんだろうけど、楽しかったよ

ある時、親父さんが店を閉めることになったって言ってきて
「これやるよ」って山岡荘八の「徳川家康」全32巻が入った段ボールをどんっと出してきたんだ
そのころ歴史小説にハマってた俺の気に入るものをと思ったんだろうな
でも俺は親父さんがいなくなるのが悲しくてろくにお礼も言えなかった
それから毎日数巻ずつ徳川家康を持ち帰った
天井まで本が積み上がってた店内もどんどん片付いていって寂しかったよ
最後の日、残った1冊を取りに行ったら親父さんが待ってて
「お前が最後のお客さんだ」って言ってしっかり包装した本を渡してくれた
「お金払えなくてごめんなさい」って泣いたら「そんなの気にするな、本屋にとっては本が好きな客が一番いい客なんだ」ってさ
家に帰って包装紙をはがしたら、1万円分の図書券が入ってた
「もう古本屋は辞めるからこれはただの近所のじじいとしての小遣いだ」って手紙が入ってた
次の日、お礼に行ったらもう古本屋は閉まってて誰もいなかったよ
親父さんがその後しばらくしてがんで亡くなったって知ったのはだいぶ後になってからだ
もう一度会ってちゃんとお礼を言いたかったな
俺がずっと本好きでいるのが何よりの恩返しだと今は思うようにしている
「徳川家康」はもうぼろぼろだけど一生捨てられない
613しまどり:2014/01/18(土) 01:48:49.01
もともと私は親にそんなに反発はしてなかった。もちろんがぁがぁいったりもしたかったけど、うちのおかんは切れるとヤバい人だからそんなことは言えなかった。
おかんの言い分がおかしくても、どうせいってもダメだろうから、と心の底で諦めていた。

そんな私にとって、学校というのは家よりも楽しいところだった。

むしろ家に帰りたくないという奴だった。

学校の友達とつるむのが一番楽しくて、もう厨三の受験シーズンだっていうのに私は学校の部活にしょっちゅう顔をだしたり、友達の家にいってゲームとかしてた。

親はそんな私に、どこにいってたんだ、お前受験生なんだぞ、と言われっぱなしで、「そんなことはわかってるよ!」といいたかった。けど、言えなかった。怖かった。

そして、卒業の時。

なんとか高校に受かってホッとした。でも、親はもっと上を…とか言ってきてすごく泣けてきた。

みんなでがやがや、卒業式の恒例の先生のお言葉をアルバムのフリースペースにかいてもらってる中、アルバムを買えなかった私はどうしていいか分からずにぼうっとしていた。
そのとき先生がむかってきてノートをさしだして、「これにかいてもらいな」と言ってくれた。

もうそれだけでも嬉しかった。

けど、ノートを開いて、もっと泣いた。

「卒業おめでとう、○○ちゃん!
 もっと子供らしく、元気に、何でもいっていいのよ!!」

先生は偉大だ。

今でもそのノートは取っておいてある。



…なんだか私だけが泣ける話でスマソ
614名無しさん@お腹いっぱい。:2014/01/18(土) 12:44:18.29
鬱になり家出同然でした。もうどうなってもいい、そんな諦めかけた俺を拾ってくれた某社長…。片足に障害を持ちながら、自営してた。
あるとき俺に言った。みんなと同じようにしてたら今のオレはなかったと…みんなが遊んでるときでも働いてきたと…あの社長に叩き上げられた俺がいる。
615名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/30(日) 10:28:07.04
私と父は、介護型アパートに住んでいる
下駄箱スタイルの古い木造アパートなのだが、個室がズラッと並んでいて
介護が必要な人とその家族(1名のみ)が1部屋ずつもらえるのだ
部屋は6畳で、キッチン・バス・トイレは共用だけど
私みたいに結婚せず会社も辞めて親を介護してきたビンボー喪女には十分♪
看護師さんも常駐してるし、他の介護家族がいるから孤独じゃないし

私と父の部屋の間には、親を介護している60代女性の居室が挟まっている
今朝、布団の中でウトウト朝寝坊していたら
この女性の部屋からおしゃべりする声が聞こえて来た
日曜なので姉妹が訪ねてきたのだろう
「親は年取ったら子供に従うべきよねえー」などとペチャクチャやっている
すると突然、
「俺はダァ〜レの言うことも聞かねえ!」という父の大声が聞こえた

今日は覚醒してる!と、私は飛び起きた
父は痴呆が酷くて、普段はほとんど口をきかずボーッとしているのだが
2、3ヵ月に1度、奇跡かと思うほど意識がハッキリして
元気だった頃と同じように会話が成立する日があるのだ

私は嬉しくて、大急ぎで部屋の流しに飛びつき
冷たい水でじゃぶじゃぶ顔を洗いながら
……目が醒めた




全部、夢

そんなアパートなんかありゃしない

私は、一人ぼっちで住んでいる実家の天井を見ながらベッドの中にいた
14年介護した父は、去年の暮れに亡くなった
616名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/31(月) 09:49:13.62
>>615
お疲れ。

前半、「そんなアパート(施設)あるのか!」と思い読み進んだ。

やはり、あるわきゃないな・・・
これからの時代、こうゆう施設が本当にあればいいのに。
政治家、役人、馬鹿ばかりだ。

せめて、あなたの残りの人生は自分のためだけに生きてくれ。
燃え尽きるにはまだ早い。金かかる楽しみだけが人生でもない。健闘を祈る。
617名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/31(月) 19:07:00.90
>>616
ありがとうございます
618名無しさん@お腹いっぱい。:2014/03/31(月) 22:14:50.24
なんでだろう…

いいとも見てるととても涙が出る。

小学校のときも、高校も、社会人になってからも当たり前にやってた番組。

ひとつの時代が終わる。

なんだかとても悲しい
619名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/17(木) 19:52:12.67
今年で30歳になる俺
決して多い方ではないけど、友達もそれなりにいると思う
でも高校卒業して以来、ほとんど連絡も取り合ってない
基本的にひとりが好きだし、特に問題は無いかな
そんなとき、高校の友人の一人からメールが入った

元気か? お袋さんにこのメアド聞いた。
おまえ3/21誕生日だろ? 俺ら仲間内での決めごとなんだが、みんな30歳の誕生日に飲み会することにして

んだ。
お誕生会みたいなもんだな(笑)だからこっち帰ってこいよ!!

うれしかった・・・みんな俺のこと忘れてなかった。だから6年ぶりに実家に帰ったんだ
お誕生会(笑)か、楽しみだな・・・そしたらこんなメールが来た

ちょっと忙しくてさ、お店の予約まだしてないんだ
とりあえず店は決めてるので、人数分予約だけしといてくんない?
店は********、TELは****-**-****、人数は15人、19時から貸し切り、パーティーAコース
よろしくー

言われた通りに予約してお店に行ってみた
おぉーこんな田舎には珍しい、結構おしゃれなお店だな
でも、まだ誰も来てないなぁ?6時半だし、まだ早いか・・・

7時になった。誰も来ない。大きなテーブルに料理だけはたくさん並んでる
俺一人。お店の人が心配そうにこっちを見てる

10時になった。だれもこない

あぁそうか。そーゆーことか・・・ばかだな俺

料理10万円か・・・結構するな
お金そんなに持ってないよ。とりあえず来月まで支払い待ってください、必ずお支払いします。
5万円で良い?ありがとうございます・・・

家には笑顔で帰った。母がまだ起きてて「楽しかったみたいね」と言った
「うん」とだけ答えた

帰りの飛行機の中で俺は泣いた

となりに座ってた小さな女の子が「どうしたの?おなか痛いの?」と聞いてきた
「うん」とだけ答えた
そしたら背中をさすってくれんだよ。まだ小さいのにホントに俺のこと心配してくれてんだよ・・・ありがとうね

ほんとにありがとうね・・・
620名無しさん@お腹いっぱい。:2014/04/18(金) 16:40:14.25
>>619
事実なら復讐を許す
621名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/09(水) 04:59:31.05
他スレのレスコピーして置きます。
俺んちの田舎、在日朝鮮人学校があるんだわ。で、そういうところって必ず朝鮮人部落ってのがあるんだよね。
朝鮮人なんかが犯罪犯してそこに逃げ込まれると、警察も手出しが出来ないくらいの暗黒街なんだわ。
親から『あの近所には絶対近づくな。どうしてもあの近所に用があるときは、包丁でもなんでもいいから、必ず武器を持っていけ』
って言われたくらいだからね。俺が小学校高学年の時かな。

下校途中の中学生の女の子が、在日朝鮮人学校の生徒にレイプされる事件があったんだよ。
たまたま一緒にいたクラスメートの男子が助けに入ったんだけど、彼はバットか何かで頭を殴られてしまったんだ。

女の子の方は、部落に引きずり込まれてさんざん嬲られた挙句、あそこに電球つっこまれて、それが中で割れちゃっててひどい事になっていたらしい。

結局、頭を割られて血まみれになったクラスメートの男子と一緒に、ほとんど全裸で通りに放り出されていたのを通行人に助けられたんだ。
頭を割られた男の子は、頭蓋骨陥没骨折と脳挫傷で3日後に死亡、
女の子もレイプされたショックから立ち直れず、半年くらい後に、『お母さん、ごめんなさい』
って遺書を書いて自殺しちゃったよ。

俺はその時、子供ながら
『何で、あの女の子が“お母さん、ごめんなさい”なんて書いて自殺しなきゃなんないんだ?悪いのはみんな在日朝鮮人だろう!!』
って、物凄い怒りを覚えたよ。

警察も動いたけど、結局、部落には踏み込めなかったよ。
最後に警察が掴んだ情報は、『犯人は総連にその日のうちに保護されたもよう、2〜3日後に総連の保護のもと、北に逃げたと思われる。』
という情報だけだったそうだ。

女の子が自殺して二年くらい経った時かな。
被害者の遺族あてに差出人不明のいやがらせの手紙が届いたんだ。
内容は『お前達の息子を殺し娘を犯した者達はわが祖国で労働英雄となった。いい気味だな日本人』という内容だったそうだ。

結局、被害にあった家族はみんな町を捨ててどこかに引っ越していった。
(例の日本人小学生を斧で殴った朝鮮人も無罪になりました。)
622名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/09(水) 17:27:44.85
遊べる女友達、恋人、セフレ、不倫のあいてなどを探すにはここが一番かな?
LINEとかもやってみたのですが、顔面偏差値高くないと全く相手にされず私にはちょっと無理でした。
結構あちこち登録してやってみた限り、ここがベストだと思います。

ミ. ン. ト http://forurl.co/yv8Y8

精神的に落ち込んでる時、ここでいろんな意味でいつも慰めてくれる女性と会えたんでそれが1番よかったかも。
理解者がたった1人でもいれば救われるんです。
本当によかったです。
みなさんにも良い出逢いがあることを祈ってます。
623名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/16(水) 16:33:33.16
東北大学大学院文学研究科の吉川裕ちゃん
おちんちん見せてきたの
624名無しさん@お腹いっぱい。:2014/07/21(月) 03:08:52.23
>>1
クリスマスパーティーを開催!
http://ameblo.jp/koorogiyousyoku/entry-11735609932.html
625名無しさん@お腹いっぱい。:2014/09/09(火) 06:00:39.10
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626名無しさん@お腹いっぱい。:2014/12/22(月) 02:46:28.87
クリスマス間近なのに恋人いない人必見!!
l恋人ls.biz/aws7/1215
恋人は「ocalgir」に変更してね♪
627罎畄鬆:2015/01/07(水) 20:30:14.85
>>18
泣いた
628泣ける実話スレッド
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http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/entrance/1368304709/
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