美牧○京は、自室の玄関に駆け込むなり、こらえていた涙をようやく解放した。
涙は後から後から、受けた苦しみの分だけ、とめどなく溢れてくる。
近頃、楽屋出は針のむしろだ。めっきり減ったお付を従え、逃げるように楽屋口を
後にしても、ギャラリーの陰口がひそひそと後を追ってくる。
「あれが美牧だよ」「へえー、あれか。全然見たことないや、私宙ファン長いのに」
「まじ、早くやめればいいのにね」「いたっていなくたって大差ないんだし、
奴ともども消えてほしいよ」「ちょっと、言いすぎじゃない?あの子は何も悪くないんだよ。
悪いのはあのキチ○イだけじゃん」「でもあの子のファンなんでしょ?奴って」
「そうそう、り○ってあの子の愛称だってさ」「うわ、きもっ。もう、今日付けでやめていいよw」
―――言われなくたって、やめてやるわよ!
できるなら、ギャラリーに向かって叫んでやりたい。美牧はぐっと唇を噛んだ。
今公演の香盤を見たとき、美牧はあまりに酷い扱いに驚いた。前回の本役は誰もが認める
若手ホープだったのに、今回は専科である。路線落ち………。美牧は目の前が真っ暗になった。
美牧はその足で、プロデューサーに抗議しに行った。音楽学校に入学して6年、美牧は地道な
努力を続けてきた。それが実って、前公演の新公で良役をかちとったのだ。そして、舞台には
全力で臨んだ。満足のいく結果も出せた。それなのに、どういうことなのだ。
「君はインターネットはやるかね?」
プロデューサーの第一声はそれだった。美牧は何のことか分からなかった。
「ヤ○ーの検索ぐらいなら、たまに使いますけど」
「大型掲示板の2ち○んねるは、行ったことはないかい?うちの劇団専用のカテゴリーも
あるんだよ」
美牧は2○ゃんねると聞いてすぐに閃いた。ニュースで見たことがある、そのインターネット
掲示板では、根拠のない噂や悪口が書き込まれ、何度か訴訟沙汰になっているという。
「何を書かれたか知りませんが、私は劇団に恥じるようなことは一度もしていません。
匿名をいいことにあることないこと書くような連中の言う事を、プロデューサーはお信じに
なるんですか」
「あることないこと、ね。その類ならよかったんだが」
プロデューサーはデスクのパソコンを立ち上げ、美牧にある2ちゃんね○のスレッドを見せた。
1分後、美牧は吐き気をこらえて唇を覆うことになる。
「りさたんでしゅ〜っブイブイ」「あひ『りさ、お前って本当に可愛いよな』」
「りさたんってまじ、貴族の顔だよなっ」「りさたんのくりくりお目目〜」
「宝塚に入って宙組に入りたい」「芸名は鳳端わたるに決めました」
初めは普通に公演の話を続けていたスレッドが、一人の異常者に乗っ取られ、機能停止を余儀なく
されていた。そしてその異常者は、美牧本人が見ても、彼女のファンに他ならない。
「今のファンは、みんなインターネットやるからねえ。困るんだよ、こういうのは。
こう言っては難だが、君はまだ知名度も低い。多くの宙組ファンに、美牧○京=異常なファンが
ついている人というイメージがついてしまった。君の出番のたび、お客様の多くはこの異常者を
連想する。そんな君に大きな役がつけられると思うかね?」
「そんな………」
「気の毒だが、ファンを選べないのが人気商売だ。諦めなさい」
美牧はその場にへたりこんだ。それが、美牧の苦難の始まりだった。
稽古場に戻った美牧のもとに、ある同期が走ってきた。慰めてくれるのだろうか。やはり同期は
良いものだ。ほころびかけた美牧の表情は、同期の言葉に固まった。
「りさ、悪いけど、しばらく私に寄らないでくれる?」
「え………」
「何かインターネットに変な人いてさ。あんたのファンらしいんだけど。私とあんたのこと仲良し
とかいって、超きもいの。あんなのに名前出されて、はっきり言って迷惑だしさ」
「わ、私だって、迷惑よ!」
「でもあんたのファンでしょ。あんたにさえ寄り付かなければ、私には関係ないことだもん。
私、まだやめる気ないし。だから、ごめんね」
心苦しそうな同期の後ろ姿を、美牧はぼうぜんと見送った。突然体に取り付いたばい菌のせいで、
仕事と友人が一度に遠ざかってしまった。これから一体どうなるのだろう。
玄関先に座り込んで、美牧は小一時間も泣いていた。稽古中も、公演が始まっても、美牧を襲う
苦難は尽きることはなかった。同期と同じく異常者に名前を出されたために、急に白い目で自分を
見るようになった先輩。突如として増えたいやがらせの手紙(全てがインターネットの異常者絡み
だった)。「りさたんの仲良し」として異常者に目をつけられたくないのか、距離を置いて接する
ようになった組子たち。誰が悪いわけでもない、もし他の生徒が同じ目にあったとしたら、美牧だって
同じことをしただろう。ファンが腹を立てるのだって理解できる。
―――だけど、私が悪いんじゃないのに。悪いのは、あの異常者なのに。
美牧は胸の中に、かつてないほどの憎しみを鬱積させていた。
温かな家庭に生まれ、友人にも恵まれた美牧にとって、他人に対してこれほどの憎しみを抱いたのは
初めてのことだった。
―――何がファンだ。あんたのせいで、私の宝塚人生はめちゃくちゃよ!
美牧は頭をかきむしった。
そのとき、携帯電話の着信音が鳴った。
「もしもし、俺。また泣いてたの?」
電話の声を聞き、美牧は荒みきった心の中に温かな波が広がるのを感じた。婚約者だ。
「うん、でも、大丈夫だよ」
「ごめんな、仕事のせいで傍にいてやれなくて」
「いいよ、仕方ないよ」
「何度も言うけどさ。明日にでもやめられないの?毎日毎日りさが泣いてるの、俺いやだな」
「そうしたいけど………届けとか、挨拶回りとか、色々あるのよ。できるだけ、早くやめるけど、
次の大劇場が年末だから、それまでには」
「宝塚って、確か妊娠したら中途半端でもやめられるんだろ?俺襲っちゃおかな」
「やだあ」
美牧は、その日初めて、自然に笑っていた。砂を噛むような日々の中で、幸せな時間といえば、婚約者
との電話の時間だけだった。
「できるだけ、早く迎えに行くから」
「うん。待ってる」
美牧は、頬につたう涙をすくいとった。
―――早く、迎えに来てよ。ここはもう地獄なんだから。
憧れて憧れて、必死のレッスンを重ねてようやく入って、気の合う仲間達と夢の舞台を
創り上げていた、砂糖菓子のような世界が、数日のうちに姿を変えた地獄。
美牧は胸の中で憎しみを新たにした。さっさと劇団をやめて、奴の前から「りさたん」を
消し去ってしまうことが、美牧にできる唯一の復讐だった。
(※※この物語はフィクションです※※)