【存在】ハイデガー【有】

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1考える名無しさん
ハイデガーについて語ろう。

1889年9月 標高600mの小さくてきれいな町ドイツのメスキルヒで生まれた
1911年 フライブルク大学で神学から哲学に専攻を変更
1919年 フライブルク大学でフッサールの助手となり教壇に立つ  
1924年 学生ハンナ・アーレントと既婚のハイデガーの愛人関係が始まる
1927年 『存在と時間(有と時)』
1933年 フライブルク大学総長となる
1933年 ナチに入党
1934年 ハイデガーの進めたナチ化改革により学内が混乱し総長を辞任
1938年 『哲学への寄与』(刊行は没後)
1946年 ハイデッガー裁判の結果、大学の職務と講義の停止命令が下された
1951年 名誉教授として大学に復帰
1975年 ドイツでハイデガー全集刊行開始
1976年5月 フライブルクにて逝去

前スレ
「マルテイン・ハイデガー 1889-1976」
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1320149266/
2考える名無しさん:2012/07/01(日) 12:20:02.16 0
ハンナ・アーレントはユダヤ人だ。
そして一時別れたものの、戦後また愛人関係を続けたという。
戦前のハイデガーのナチ化?をどう見ればいいのだろうか?
そしてハンナはハイデガーのナチ経験を本当に「真実の心からではなかった」と思っていたのだろうか?
3人力車:2012/07/02(月) 17:07:51.79 0
1889年9月 メスキルヒに生まれる。
1919年 フライブルク大学哲学第一研究室にてフッサールの助手となる。  
1920年 フッサール61歳の祝賀会でヤスパースと出会い意気投合。哲学者として認め会う。二人
の書簡は『往復書簡』として遺される。ただ、ハイデガー思想がよく理解できなかったこともヤス
パースの自伝に打ち明けられている。
1927年 『存在と時間(有と時)』刊行。ターム:Dasein 現存在、現有。 In-der-Weit-sein 
世界内存在、世界の内に有ること。 Seinsverstandniss 存在了解、有の理解。 Verfallen 
頽落。  
1933年4月 周囲の推薦でフライブルク大学学長になる。同時にナチス党に入党。  
1934年3月 総長を辞任。  
1936-1938年 論稿『哲学への寄与』執筆。生前は刊行を禁ずる。ターム:Seyn 有・、奥深い存在。
 Ereignis 性起、呼び求める促し。 Ab-grund 底無しの深淵。  
1946年 『「ヒューマニズム」に関する書簡』執筆。サルトルの命題《実存は本質に先立つ》を形而上
学の命題と断ずる。《併し、ある一つの形而上学的命題を転倒しても、その転倒は依然としてある
一つの形而上学的命題に留まっている。》 
1961年 『ニーチェ』全2巻を刊行。遺稿「力への意志」をニーチェの最終到達点とし、その意義と問
題をみる。 
1962年 『技術と転回』刊行。世界をあまねく算定し、役立つよう立たせ、かつ自分をもそれを確保
するよう立たせる対象と化す人間。 
1975年ハイデガー全集ドイツで刊行開始。  
1976年5月 心臓麻痺で逝去。
影響は現代思想ではサルトル、デリダ、フーコー、現代日本では木田元、福田和也、が有名
4考える名無しさん:2012/07/02(月) 19:05:57.78 0
>>3
>>1です。
補足感謝です。
前スレのものをそのまま使っては悪いかな、と思って簡略化しました。
5考える名無しさん:2012/07/02(月) 20:55:31.87 0
「存在と時間」、「有と時」という2種類の訳語がありますが、それぞれの訳語の理由を知ってる人いますか?
とくに「有と時」は普通は使わない読み方(う、じ)をするようですが。
6考える名無しさん:2012/07/02(月) 20:59:52.34 0
じゃあ「うとじ」でいいじゃん
ハイデガー翻訳者は造語が好きだから
7考える名無しさん:2012/07/02(月) 21:12:04.17 0
 全然悪くはないですよ。前スレの年表でも不十分な気がしてたくらいなので。ただ字数
に制限もあるから、それも問題なんですね。とりあえず年表では茅野良男のものがよく
出来ているので茅野良男のを推しておきたい。

 ハンナ・アーレントがハイデガー思想を隈無く理解したとは思えないわけです。特に
彼女も『哲学への寄与論稿』を読んではいなかったろうから。あれを読めることがハイデ
ガーの思想読解に及ぼすものは計り知れない。戦後の『「ヒューマニズム」に関する書簡』
の前梯としての『哲学への寄与』という位置付けとしても。ところがアーレントは『「ヒュー
マニズム」書簡』からもう拒否反応をもつので、結局ハイデガー思想の脱‐ヒューマニズム
的意義は理解できなかったろうと思わざるを得ない。それは盟友ヤスパースも同様です。
ただハイデガーを埋もれさせてはならないという義務感で動いてはくれたんだろうけど
も。『哲学への寄与』の重要性は計り知れなく、ただこれがなかなか理解されないことも
ハイデガーは予想してて。公共性からは理解されず拒否されるだろうとね。だから生前の
刊行を禁じたんでしょう。
8考える名無しさん:2012/07/03(火) 17:19:23.15 0
>>7
『哲学への寄与論稿』の断章を少しずつ感想を加えながら紹介してくれませんか?
9 忍法帖【Lv=3,xxxP】 :2012/07/03(火) 19:04:42.47 0
ハイデガーVSスピリチュアリズム!?♪。
10考える名無しさん:2012/07/03(火) 20:38:46.84 0
不条理を孕む原発には、がしかし存在への制約としての価値の世界、〈〜の為の…〉という物の連関、それに
よる存在の窮乏にたいする正当防衛という性質がある。原発事故は、死も含めて事物を破壊してしまうことで、
価値、有益性、道具性の檻、そこへあらゆるものを 回収する枠組み、そこへの従属自体壊す意味があった。真
理とは人間に於ける覆蔵される時=歴史の現成、というところを熟慮すれば、今がハイデガーの時代だというのが
どういう意味でなのかがよくわかる。必要性や価値の基準と選別にどこまで行っても絡め取られていくその枠組
みを逃れる衝動が、原発事故を呼ぶとすれば、的確な同時代の分析になる。それは存在の開けの到来のことだ。
それは好運と呼ぶべきことで、常識や道徳心によって塞ぐべきでない。原発廃止や東電憎悪を愚かにも唱える者は、
時代の真理に盲目である。
11考える名無しさん:2012/07/03(火) 23:12:58.82 0
 ナチズムとの対決としては戦後に発表された『ニーチェ』が内容としてはそうだったと言える。
ニーチェの晩年の思想である力への意志を人間の形而上学的な到達点として捉え、その対決を
試みている。しかもそこではナチズム、アメリカニズム、ボルシェヴィズムを繋ぐ糸としての
概念としての力への意志を掴まえる。形而上学的到達点としての力への意志というのは未だに
人類の存在形式として優位を占めているというその意味でここでの分析は未だ現在的意義を
失ってはいない。
12考える名無しさん:2012/07/03(火) 23:19:10.50 0
 『哲学への寄与』の構図は意外に簡単なもので。有の忘却が進行し、有の窮迫となった段階で、
根源の有が物象性の裂け目から、根拠不明な突発性として、変幻として、有の窮迫を暗示す
るかのように、表象しえない根拠の現成が為される。あの本で〈覆蔵することの空け透き〉とか、
〈語り拒み(語り与え)〉とか、〈脱去と合図〉といった言い方で言われているのがそうで、根拠不明な
変幻、変貌として、表象や物象の巨大化への交流断絶が贈与される。だから現代日本社会の現象と
も不思議な符号を持っている。現代日本社会がまさに有の窮迫としてあるから。
13考える名無しさん:2012/07/04(水) 02:27:44.61 0
もはや言葉の遊び
14考える名無しさん:2012/07/04(水) 10:32:44.51 0
>>10
原発の不条理とはどういうことですか?
原発は他の発電設備となにが違うのですか?
正当防衛とは誰が誰に対してなのですか?

他にも聞きたいのですが、長くなるのでとりあえずここまで教えてください。
15考える名無しさん:2012/07/04(水) 10:39:56.23 0
>>12
>有の忘却 >有の窮迫 とはどういうことですか?
また忘却がなぜ窮迫に繋がるのですか?

>物象性の裂け目 とはなんですか?
>表象しえない根拠の現成 とはなんですか?

それぞれ教えていただけないでしょうか。
不勉強のせいもあると思いますが理解できなかったので。
16考える名無しさん:2012/07/04(水) 10:43:38.99 0
>>10,11,12
わかってないで書いてるから訊いても無駄だろう。
17考える名無しさん:2012/07/04(水) 17:33:19.72 0
ハイデガーって「考えるな、感じるんだ」の世界だからね。
文学的な言いまわしで煙に巻くばかりだから、
合理的で科学的な思考・志向の人には耐えられないでしょう。
18考える名無しさん:2012/07/04(水) 23:39:44.70 0
 有の忘却はハイデガーが知の歴史を捉える場合のキーワードだよね。で、それが進行していった
涯にハイデガーが見い出すのが、忘却していることさえ忘却してしまった事態。それを窮迫とす
る。窮迫は有の根源と呼応し、根源からの呼び声を響かせる。それに呼応するのが現‐有。

 物象性とはハイデガーは言ってはなくて、有るものと言うけど。有るものの巨大化、とかね。それ
を解釈してみたわけだ。有るものでしか現実とは考えられない、その意識を掻い潜るように、
有・Seyn が有るものとの交流断絶として現成する。それが『哲学への寄与』の中心であり、裂け
開けとか言われている。

 しかし君は聞くのもいいけど、読んでいるのかな?俺は数年間読み続けてるよ。解らないまま
読解を繰り返し、ようやく大体のところは掴めたと思う。掴めるに従い凄さが解ってくる。研究
者の解説を読んでも駄目だった。自分で懲りずにやるしかない。君も頑張れ。
19考える名無しさん:2012/07/04(水) 23:57:40.70 P
ここまで酷いと
「ハイデガー信者は全員バカである」
って印象付けるために、わざとやってるようにしか見えないな
20考える名無しさん:2012/07/05(木) 00:17:41.08 0
>>18
回答ありがとう。
私がハイデガーを読んでいるかいないかということが重要ですか?

ハイデガーを理解したいのではなくて、社会や人の精神のあり方を知りたいのです。
そのひとつとしてハイデガーの論考を見ています。
私には>>12に書かれたことが言葉として理解できなかったので質問したわけです。
残念ながら>>18も同様です。

数年間読み続けている>>18さんがハイデガーを理解していることは疑いませんが、あの書き方ではその理解がどの程度普遍性があるのか他人にはわからないのではないでしょうか?
もし、もう少し具体的に書くことが可能ならお願いします。
21考える名無しさん:2012/07/05(木) 01:47:22.89 0
>>2
人間の心は複雑なんだ。ヒトラーにもユダヤの血が流れていた、と知ったら
君はどう思う?
22考える名無しさん:2012/07/05(木) 06:51:50.70 0
用語の定義さえしようともしない、定義もできない。
客観的な議論を拒み、ひとりよがりな情緒的文言を垂れ流すだけ。
こんなのは「哲学」とはいわない。池田大作先生の詩みたいなもの。
なのに「ハイデガー理解」などとw
「根源からの呼び声を響かせる」とか、ここは笑うところですか?
23考える名無しさん:2012/07/05(木) 10:37:38.39 0
>>21
どうとも思わないけど?

生物としての人間は多様な混血を経て、環境などによって特徴の違いが出てくるだけ。
そもそもユダヤ人とかゲルマン人とかいう"人種"があるわけじゃなくて、単なる歴史による民族、宗教の違い。

なにが言いたい?
24考える名無しさん:2012/07/05(木) 13:07:32.59 0
むずい
25考える名無しさん:2012/07/07(土) 00:08:20.64 0
まずハイデガー自身が『哲学への寄与』についてはイマジネーションをもって読めと書いてるので
学問や知識として知りたい人には厳しい。縁がないと思って諦めた方がいいかもな。

 90年代以降の事件のなかで、この事件を起こすには動機がない、ないし不充分と思えるものが
ある。そういった謎や論理の限界に対応している。こう書いても無駄なようだしあまり言うこと
はもうないな。
26考える名無しさん:2012/07/07(土) 00:29:26.51 0
>>25
無駄かも知れないが、 >90年代以降の事件  を具体的にあげると?
27考える名無しさん:2012/07/07(土) 00:47:49.66 0
 俺の場合、ハイデガーに詳しくないときでも存在忘却とか読むとそれに対しては何の説明もなく
とも合点できたが、結局それさえ解らんという。これはそれ自体が一個の症例として見なすべき
で、結局自分の生に於て何の傾向もなく、感動もなく、ただ教養を増やすことに労力を費やし、
その過程でハイデガーも覚えておこうか、という姿勢で、教えてください、とか書いてくる。本当
に必要なら他人に聞くまでもなく自分で苦労して読解しようとするだろう。ハイデガーが教養を
増やすためのコンテンツになるということは不快だしハイデガーの意図でもないと思うので
手伝う気は一切ない。
28考える名無しさん:2012/07/07(土) 01:31:50.34 P
要約すると
「なんだか説明できないが、俺には分かってる(気がする。気がするんだ。気がするんだ)。」
というだけの話
29考える名無しさん:2012/07/07(土) 01:34:01.91 0
「この説をとれば色々うまく説明できるんじゃね?」っていう循環論法を提示するのが哲学者
30考える名無しさん:2012/07/07(土) 01:41:06.03 0
>>27
いるようなあ、こういうやつ
モー娘。だのAKBだの何十人もいるような中の目立たないタレントに目つけて
あの子は性格が最高!だとか、そのこのことなんでも知ってる口ぶり。
「俺は一生○○○の応援団長だぁ!」とかほざいて。

50過ぎていい歳こいてリアルで女に相手にされてねえから
悪目立ちのきめぇカッコして握手会だなんだのに出没しまくり。

芸能人側も一応客商売だからよく来るきも変人ジジイまた来てるよ・・・と思いつつも
「XXXさん(ニックネーム)、応援いつもありがとございまーす!」
だと。スタッフに要チェックされまくり。死んでほしい。

あごめん、27にはそれほど恨みはないんだが
身近にそういう基地外がいるもんで・・・つい

31考える名無しさん:2012/07/07(土) 02:58:37.85 0
>>27
どう思おうと自由だが、自分がハイデガー理解するのを手伝って欲しいと思ってるわけではまったくない。
自分の理解とこのスレで一部の人が書いていることに大きな違いを感じてしまうので、その点を確認している。

ハイデガーが考えたのは観念の中の問題だけだから具体的な事象には関係しないというなら、それは自分の理解と同じだ。
だが、そうではなくて具体的な事象に対してハイデガーを理解の基準にできるという趣旨のことが書いてあるように思うので、それを具体的に聞いてみたいだけだ。
32考える名無しさん:2012/07/07(土) 11:22:30.87 0
「20世紀最大の哲学者」って誰が言い出したんだよw
電通か?
33考える名無しさん:2012/07/07(土) 14:35:02.31 0
ハイデガースレ落ちてたか
34考える名無しさん:2012/07/07(土) 16:30:55.43 0
哲学はヘーゲルとマルクスで集大成され、終わった学問。

と、大風呂敷を広げてみる・・
35考える名無しさん:2012/07/08(日) 07:55:22.41 0
大風呂敷じゃないと思うよ。
すべてヘーゲルとマルクスに集約されると思う。
客観的実在と人間の意識(主観)との関係を徹底的に解明したから。
てゆうかヘーゲルとマルクスは自然科学そのもの、もしくは自然科学の
延長上にあるから。
たしかマルクスは言ってるね。「"哲学"は発展的に解消されるべきであって、
あとは弁証法と歴史・自然に関する個別科学だけあればよい」みたいなことを。

ハイデガーみたいなのは単なる文芸作品だから、「"哲学"としての
ハイデガー研究」だの「ハイデガー理解」だのの言葉の虚しいことったら
36考える名無しさん:2012/07/10(火) 17:16:51.57 0
>>27
あなたに必要なのは哲学(ハイデガー)ではなく精神科だ
37考える名無しさん:2012/07/10(火) 23:11:21.16 0
>>36
もうとっくに患者人生らしい(過去スレ参照)
それでハイデガーの思想によって救われたんだとさw
38考える名無しさん:2012/07/11(水) 21:58:35.15 0
>ハイデガーが考えたのは観念の中の問題だけだから具体的な事象には関係しないというなら
、それは自分の理解と同じだ。

 だからそこがもうおかしいわけだ。あなたが哲学的に興味を持ち、或いは様々な事象に関心を
持つ。その事自体が既にハイデガーの問題圏なわけだ。その事に盲目である時点でもう読めてな
いことが分かるよ。
39考える名無しさん:2012/07/11(水) 23:32:12.40 0
>>38
そうすると、世の中すべてのことが >ハイデガーの問題圏 ということになるが、そういう理解でいいのかな?
40考える名無しさん:2012/07/12(木) 00:45:32.55 0
>>39の追加
もしそういう理解なら、自分とはまったくかみ合うところがないので、これで終わりにする。
41考える名無しさん:2012/07/12(木) 01:40:23.24 0
>>38
マルクス主義者に言わせるとハイデガーも誰も哲学は観念的。
文学的にいえば観念の中の問題。
文学に生きればいいではないか。
42考える名無しさん:2012/07/14(土) 10:15:30.92 0
>そうすると、世の中すべてのことが >ハイデガーの問題圏 ということになるが

 そうはならん。個体が何かに関心を持ち、気になる。その事自体が有の開けを表し、そのように
ハイデガーの問題圏に入る。たったそれだけの事だ。『有と時』を読んでいれば解る話だが?有は
個体の背中のようなもんで最も近くでしかも自分は気付かない。しかしその個体が何者かはそこ
から解かれていく。「世の中全てがハイデガーの問題圏」ではない。

 ハイデガーの方法はあらゆる知を根底から捉え返す濾過紙みたいなもんだ。よって色んな方向に
横断できる。だから色んな人間がハイデガーを語るんだ。また具体的な個体の分析にも適用できる
。ちっとも観念的ではない。ただ研究者でそういう所に気付いてる人間はいないみたいだから
研究者のは観念的だよ。ああいう用語をひたすら弄くってるだけのもんは観念的さ。しかしそれ
でハイデガー思想は判断できない。
43考える名無しさん:2012/07/14(土) 10:54:07.39 0
>>42
うーん・・

結局、人間のすべての思考はハイデガーの問題圏、と書いてるようにしか読めないけどなあ。
44考える名無しさん:2012/07/14(土) 17:55:51.61 0
マルクスは「人間の本質は個々の個人に内在する抽象物ではない」
と言ったがその通り。
マルクスに比べたらハイデガーは中二のガキの思想。
45考える名無しさん:2012/07/14(土) 23:26:28.34 0
哲学板は惨憺たるアリさまだな。
メンヘラさんと低能がけんかしている。
46考える名無しさん:2012/07/14(土) 23:46:41.49 0
そのけんかをスノッブさんが高みの見物、と。
47考える名無しさん:2012/07/15(日) 08:46:21.75 0
>世の中の全てはハイデガーの問題圏 というのが漠然としてるね。どういう構造的意味
で?というところを説明しないと。それこそ抽象的過ぎるだろう。ハイデガー思想は構造的に
歴史的に人間を捉えている。言葉は分かりづらくても具体的な誰それの生が浮かび上がる。歴史
的に捉えるというところではマルクスとも共通している。これくらいのことは読んでいれば
言えることだけどな。それから思想が生涯かけて考える量には限界がある。また、一つの方法が
別の領域にすぐ適用できるとは限らない。マルクスが経済学批判に追われたことでマルクスが
それだけの思想だと規定する人間もいるだろうが『資本論』からして後に言語学に応用されてい
ることも知られている。思想をどう生かすかは後に委ねられている。また生産的な思想はそれを
やる。思想を一定に枠付けし、大相撲よろしく見物している人間は結局それだけのもので思想とは
関係はない。
48考える名無しさん:2012/07/15(日) 10:56:40.53 0
>>47
せっかくレスしてもらったけど、あまりに自分の理解と異なっているので、レスはしない。
自分の言葉が通じるとは思えない。

誤解しないでほしいが、>>47さんの言いたいことがわからないという意味じゃない。
でも、議論になるまでには、ひとつひとつの言葉や概念を確認していく必要がある。

それには、かなりのやりとりをしなければならないだろうし、それでも共通の言葉の理解を見つけることができるかどうかわからない。
だから、これで終わりにする。
49考える名無しさん:2012/07/15(日) 12:13:30.46 0
ハイデガー=存在神秘の哲学はハイデガー入門に適していますか?
50考える名無しさん:2012/07/15(日) 13:12:29.13 0
>>49
読んだことないけど、著者の名前がすごいな・・
51考える名無しさん:2012/07/15(日) 19:44:47.14 0
>>49
尼で評判今イチなので他スレで訊いたことがあるが、
先入観なしで読めばいいんじゃない?
俺は途中までしか読んでない。
52考える名無しさん:2012/07/16(月) 03:04:37.22 0
>>49
ハイデガー入門という意味による。
学校でレポート書くとか、ひけらかす知識仕入れたいというんだったらあまり向いていない。
なにか哲学に光(救い)を求めたいっていう気持ちだったらいい本。
5349:2012/07/16(月) 12:16:40.44 0
皆様親切に有難うございます。購入しました。
哲学は初心者です。
ショーペンハウエルの自殺、読書についてを読んだ程度で、これから学ぼうと思っています。
54考える名無しさん:2012/07/16(月) 13:13:57.38 0
存在神秘w
オカルトなみw
55考える名無しさん:2012/07/16(月) 13:19:33.28 0
「存在すること」 これは人間がいるかいないかとは関係なく、ただなにかがあるだけ。
「存在とは何か」 これはただ人間が考えるだけのこと。

前者を客観といい、後者を主観という。
主観だけで思考を進めていく方法を観念論という。

その意味で当然ハイデガーは観念論の系列。
ところがヘーゲルは神を客観としてとらえたために、実は観念論ではないともいえる。
ヘーゲルでは主観と客観は明確に区別されている。
だがハイデガーには主観と客観の区別はなく、すべてを主観の中のものとして思考を進める。

ハイデガーを読むときには、そこに注意すればわかりやすいと思う。
56考える名無しさん:2012/07/16(月) 19:56:01.56 0
ということは、文学として読むのならまだしも、
「哲学」として読むには価値がないということでもある。
57考える名無しさん:2012/07/16(月) 20:21:27.09 0
>「存在すること」 これは人間がいるかいないかとは関係なく、ただなにかがあるだけ。「存在と
は何か」 これはただ人間が考えるだけのこと。前者を客観といい、後者を主観という。 主観だけ
で思考を進めていく方法を観念論という。

何何?(笑)だからここで「存在する」の語弊がもうあるんだ。ハイデガーの場合、「存在する」もしく
は「ある」は「何かがある」ことだけでなく、形容詞や形容動詞たとえば「美しい」「不快だ」といった
形容も含む。だからそこで「存在する」でなく「有る」の方がハイデガーの意図に叶う。ということが
ある。学派の争いとか関係ない。
 それから、上記のような判断が為される場合、そのことの根拠はその人間の主観ではない。主観
は生の内的経歴に拘束され、その歴史性の発現する場が現有 Da-sein と呼ばれる。
 客観を否定しないが、それが、例えば資本主義社会が、人間に訪れるのは有を通して。だという
のは我々が日常的に経験していることで、不思議でも何でもない。そういうことを消去するから
かつての連合赤軍による同志粛清みたいなことが起こるのさ。
58考える名無しさん:2012/07/16(月) 20:31:49.92 0
>>57
あなたに必要なのは哲学(ハイデガー)ではなく精神科だ
59考える名無しさん:2012/07/16(月) 21:42:54.74 0
>>57
「存在すること」と書いたのはハイデガーのいう「存在(有)」の意味で書いたわけではない。
一般的というか普通の意味で書いた。
「存在すること」ではなく「あるということ」と書いても同じだし、「有」でも言葉としての意味には違いはない。
見えても見えなくても、あくまでも客観的な物としての存在という意味。

>ハイデガーの場合
以下については、それだからこそハイデガーは主観の中だけの思考だと説明してるつもりだ。
それが >その人間の主観  であるかどうかは関係がない。
あくまでも人間の思考の中にあるだけなのだから、それを主観(観念)と書いている。

>客観を否定しないが
以下は、論点が異なるし、いまは触れない。
客観のとらえ方にはかなりのずれがある。
60考える名無しさん:2012/07/17(火) 04:42:10.24 0
うん。
「客観を否定しないが」などといいながら客観を否定するのが
ハイデガー的論法のずるいところ。
否定ちゅうか、小賢しくスルーしてるだけ。
ハイデガー的な土俵で話を進めようとする限り、
「存在」という日本語を使おうが「有」という日本語を使おうが
たいして意味はない。どちらも平等に価値がない。
61考える名無しさん:2012/07/17(火) 04:42:35.28 P
       世 界 ー 内 ー 存 在
            現存在         
日常性の様式 共現存在 ___            空間
           /   \    内 = 存 在
好奇心 配視 顧視 瞬視>)(<)  >>>      視
空談 ( \ \   \ ワ /沈黙/ / ) )  語り
 <_(__\ \___| |__/__)_)
 <_(________     ________>   
           |  ?良心___責め     倫理
曖昧性 公共性    |   |\  /       他者
           |   | \/気遣い(関心)       
           | _ |  死  |
   (非本来的  / / \ \ 本来的|    自 己
      理解)/ /頽落 \ \ 理解|     論理
 〜〜〜〜〜〜〜/ /〜〜〜〜〜\ 了解〜|〜〜〜〜〜〜〜
  〜 ___/ /__決断〜〜〜\ \_|_____〜〜
  〜/  / /   決意/〜先駆的決意|    /|〜
情状性  <__>  /恐れ 〜/ 不安_|>  //〜〜
〜/___恐れ/不安/ /  /_____|__//〜〜〜
〜|__道具____|/〜〜|______|_|世 界 性
〜〜〜/事物〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜|〜〜〜〜〜環境
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜|〜〜〜〜〜〜〜
62考える名無しさん:2012/07/17(火) 04:51:05.12 P
歴 史 性______時  間      |       
      過去____現在____未来 |   
      既在         到来的 |時間性・脱自態 
            決断____先駆 | 
           (不決断)_/ |/
                  将来
                  |  
      反復__________予期  
     (忘却)________/ 
      心境    配慮    了解     内=存在
     ◯現事実性 ◯頽落性  ◯実存性  存在論的性格
     (◯=気遣いを構成する三契機64)
63考える名無しさん:2012/07/17(火) 05:00:10.80 0
関本洋司?
64考える名無しさん:2012/07/17(火) 05:25:16.76 0
>例えば資本主義社会が、人間に訪れるのは有を通して。だという
>のは我々が日常的に経験していることで、不思議でも何でもない。そういうことを消去するから
>かつての連合赤軍による同志粛清みたいなことが起こるのさ。

もう、論理もへったくれもない、って感じの思考ですね。
気分と思いつきで語るハイデガー的思考そのもの。
65考える名無しさん:2012/07/17(火) 06:07:25.60 P
http://blogs.dion.ne.jp/le_fou/archives/10780075.html


 つぶやき、その101です。

 ハイデッガーの『有と時(=存在と時間)』の訳者、辻村公一氏のハイデッガーにまつわるエピソードを紹介します。

 辻村氏が、1958年、フライブルグ大学での留学から帰国する際、友人たちが送別のコンパを催してくれたそうです。そのお礼にと、辻村氏は芭蕉の俳句をドイツ語に訳して紹?介していると、ハイデッガーが不意に会場に入ってきました。そして、彼は芭蕉の句の中で
“よくみれば薺(なずな)花咲く垣根かな”
の句を、最上のものとして激賞したそうです。
66考える名無しさん:2012/07/17(火) 15:14:59.86 0
>>65
うーん・・

これは俳句としてはできがよくないな。
「よくみれば」というのがあまりに一般的な言い回しすぎて、句のなかで浮き上がってしまっている。

意味ははっきりしているから訳しやすいかもしれないけど、感心するほどなのかなあ?
67考える名無しさん:2012/07/20(金) 22:41:36.98 0
68考える名無しさん:2012/07/28(土) 18:01:56.01 0
ハイデカ−は、実存の認識に対して、「それぞれ各自が私である」と定義している。この存在者(私)の
「存在体制全体」を表す呼称として、ハイデカ−は、「世界内存在」と言う概念を導入した。
ハイデカ−は、実存主義の理念によって、デカルトが提起した「主観と客観の分離」という問題を
解決しょうと試みた。「それぞれが各自が私である」の、「それぞれ各自」は、存在体制全体への拡大を
目指しているが、サルトルの様に「即自存在(客観的存在)」として捉えていない。
ハイデカ−の「存在体制全体」は、自己同一性としての「主観的領域」に留まっている様に感じる。
その根本的な原因は、「それぞれ各自が私である」という「私」と言う定義付けにあるのだろうか、と思われる。
69ixtlan:2012/09/03(月) 20:01:19.19 0
 
 『哲学への寄与』はあんまり『存在と時間』から離れている感じがしない。
『形而上学入門』の方が何言ってるんだか分からなかった。
 
 いつか『そまみち』を読んでみたい。
 
70ixtlan:2012/09/04(火) 22:02:19.78 0
 
 ハイデガーにとって人間は了解と気分の合体だが、この気分というのは論理学においてすら
それを主導するものと彼は考えている。

 しかしそういうことは、ある程度は気分と論理の関連性を表現してくれないと、言いっぱなしの
断定でしかない。

 或る数学者は数学には気分が根底にある、と言っていたが、それと同様、だから何だ、という
ことで終わってしまう。
 
 
71age:2012/09/04(火) 22:13:05.16 P
気分の場合、主語が"It"または"Es"
72ixtlan=波平の可能性有り、注意!↓:2012/09/11(火) 19:28:19.61 0
> 255 : 第三の波平 ◆JXLBbnYqTY : 2011/10/03(月) 19:40:14.99 0
> それは江戸時代にさらに形式化されたときがひどい。
           ↑
         『ひどい』を平仮名で書く同一の特徴
           ↓
> 321 :ixtlan:2012/09/05(水) 19:05:40.47 0
> 竹田がハイデガーについて書いた本を大昔読んだが、
> あれはひどかった。
73考える名無しさん:2012/10/06(土) 19:19:19.25 0
 今、必要なのはフーコーの主体と権力をめぐる論考との横断線、それから、吉本の幻想論との横断
線。というのは吉本の言う幻想とはハイデガーの言う〈有る〉の領域だと読めるからだが。それら
との横断線で論ずる。言い換えれば、フーコーを濾過して見えるハイデガー、吉本を濾過して見
えるハイデガー、とは何か、が重要と言うこと。ハイデガーとの横断線は様々論ずることはあろう
けど、とりわけこの2者との横断線は重要だと思える。
74考える名無しさん:2012/10/06(土) 22:53:20.73 0
 1982年にフーコーがこれまでの自分の思考を振り返って総括している論文で「主体と権力」とい
うのがあるが、人間が様々に規範化されてそれにより主体化されていくアスペクトが項目化され
ている。観察の対象化による、または狂気と正気、病気と健康、犯罪と善良、という分割による。
 こういった分析をフーコーは終生続けたが、これらの底辺にハイデガーへの傾倒があったこと
が晩年のインタビューで明らかにされている。つまりハイデガーの中心問題であった〈忘却〉が、
フーコーの視線の背景にもあったこと。
75考える名無しさん:2012/10/06(土) 23:32:22.40 0
age
76考える名無しさん:2012/10/13(土) 07:52:08.45 0
>>55はわかりやすい
よくまとまってる
77考える名無しさん:2012/10/13(土) 14:50:20.30 0
>>55
「ハイデガ−には、主観と客観の区別はなく、すべてを主観の中のものとして、
 思考を進める。」と述べている。

 ハイデガ−は、「それぞれ各自が私である」と定義して、「存在体制全体」を表す
 呼称として「世界内−存在」という概念を導入している。 この「世界内−存在」が、
 私(主観)のことを表している。 つまり、「存在体制全体」とは、ハイデガ−にとっては、
 「主観的領野」を表している。 問題は、「主観的領野」に対極する「客観的領野」をハイデガ−は、
 どの様に解釈していたのだろうか。 フッサ−ルは、「内在−超越」構図で、「超越」を「客観的存在」と
 定義している。
78考える名無しさん:2012/10/13(土) 14:52:33.31 0
主:ハイデガー研究とか盛んな訳だけど、ハイデガー読者からすると、さほど必要性はないんだな
。ハイデガーの遺したテキストだけで十分と思えるし、むしろハイデガーをどう使うかって話の
方が必要性を感じるんだ。
客:フーコーをどう使うか。っていう議論もあるね。
主:現代社会で公共性の浸透圧というのが起こしている諸々について、批判しうるツールがある
としたら、とね。主体化を促す諸々の分析と、それの空隙が2人の思想には考えられてるだろう。
現在最も緊急な疑問を抉り続けた。教育や学問やの現場で、または自分を捉えなおす際にもね。
そのツールとして最良のものだろう。例えば山中という人がノーベル賞を取った。すると説教が
始まり、「あなた方も頑張ってノーベル賞貰いなさい」とかいう人が出てくる。ハイデガーならこう
言う。《一研究者の指導者性は彼の緒発見が世を驚かせ目を見張らせるという点にあるのではな
く、彼が自分の領分の最も基本的な事象内実と合体してしまっていることがどこまで根源的にで
あるか、という点にある》《科学とけいじじょう学との内的統一は運命の事柄なのである》(全集
29/30巻 p.309)このような実存の到来は予測も計算も成り立たない、としている。よって運命の
事柄、としている。「ノーベル賞を貰うような偉人になれ」という説教が何故誤っているか、への
真正な解答だろう。こんな解答が出来る人間は未だにいないと思う。
79考える名無しさん:2012/10/14(日) 19:09:09.83 0
>>78
「科学と形而上学との内的統一」とは、現象学の「構成的内在」と、どう関わって
 いるのでしょうか? 又、ハイデガ−とフ−コ−は、「超越論的領野」に於いて、
 「時間概念」をどの様に捉えているのでしょうか?
80考える名無しさん:2012/10/15(月) 20:26:56.83 0
主:まずハイデガーの見ていた思想的標的として、主観性の哲学というものがあった。そこがフー
コーと実は重なっている。人間を主体的にしていく条件を歴史的に解読しようとしたのがフーコ
ーだけど、あの問題設定からしてハイデガーを読み込んだ経験はよく出てる。あと、ハイデガーの
訳語〈存在する〉には注意せよ、って前にも書いたけど、単に〈〜が有る〉だけでなく、〈〜で有る〉、
事象、物が有ることを指す(自動詞)だけでなく、形容詞や形容動詞でもある。英語のbe動詞がそ
うであるように。あと、ハイデガーの場合、重心は個体に覆蔵される歴史性とその発現ということ
にある。現代では客観的事象に主観が合致することが真の条件とされるけども、ハイデガーの
場合、真理の本質は主観でも客観でもなく有、すなわち〈有る〉を贈る歴史性=経歴、になる。世界
というのもハイデガーの場合は歴史性の発現する場、になる。主観ではないよ。むしろ主観性に
解体をも強いるものだ。
客:ハイデガーが主観性の哲学、というのはあまりに理解が浅い。と言わざるを得ないね。
81考える名無しさん:2012/10/15(月) 23:41:40.14 0
>>80
>個体に覆蔵される歴史性とその発現
>〈有る〉を贈る歴史性=経歴

ハイデガーの場合歴史自体が主観だ。
歴史も世界も自身の心の中にその視点をおいている。

>客観的事象に主観が合致することが真の条件とされる

ということを否定したのがフッサール、メルロ=ポンティなどの現象学だろう。
客観的事象と主観の間には絶対的な差異がある。
これをフッサールは超越という概念で表そうとしたし、メルロ=ポンティは差異のあり方を緻密に追求しようとしたといえるのではないかな。
82考える名無しさん:2012/10/16(火) 19:48:09.33 0
客観性についてハイデガーがどんだけ偽装しようとも
主観性の哲学であることは変わりない。
言い方を変えて客観性を論じてるふりしても説得力ない。
83考える名無しさん:2012/10/17(水) 00:29:14.00 0
主観だ客観だと乱用してる人は
この区分が自明で当然の前提だと思ってるが
そんな単純なことじゃないよ。

大体何かね?客観的な事象とは。
84考える名無しさん:2012/10/17(水) 00:43:31.51 0
>>83
それが主観からの問いかけ。

つまり、それを観念論という。
85考える名無しさん:2012/10/17(水) 00:50:37.79 0
>>84
俺が聞いてるのは主観ではなく客観なのだが。
86考える名無しさん:2012/10/17(水) 01:24:06.73 0
>>85
だから、その問いかけ自体が主観だと。
客観的な事象そのものに対する疑問は主観からしか生まれない。

つまり、無意味な質問ということ。
客観的な事象は人間の意識と関係なく、ただそこにある。

区分は自明のこと。
複雑なことなどない。
人間がどうとらえるかは別問題。
87考える名無しさん:2012/10/17(水) 01:29:53.88 0

ハイデガーはその客観的な存在と人間の意識の間に、なにか特別なものが存在するかのように考えた。
だからそれは「神」とならざるをえなかった。

観念論で世界を考える限り、哲学はいつでも入り口にとどまっているほかはない。
現実の世界は、人間がいてもいなくても、そこにあるということを見つめなければならない。
88考える名無しさん:2012/10/17(水) 01:40:35.33 0
>ハイデガーはその客観的な存在と人間の意識の間に、なにか特別なものが存在するかのように考えた。

そもそもハイデガーは、「主観」と「客観」の関係では考えていないよ。
出発点から間違ってるようだね・・・
ハイデガーのいう「存在」は、主観に対する客観にはならないものだ。
主観に対する客観になってしまったら、それは、「存在」ではなくて、「存在者」だよ。
89考える名無しさん:2012/10/17(水) 02:28:02.39 0
>>86
人間は関係ない?
明らかに客観的という人の作ったカテゴリーで考えているのだが。
それに人が関係ないならどういう権利で
客観的なものがあると言うことができる?
90考える名無しさん:2012/10/17(水) 04:57:40.57 0
客観的存在とは意識以外のものすべてだお
客観について語るという行為自体は人間の意識活動だよ

ハイデガーがいくら客観について語ってみせても
それはハイデガーの意識活動を披瀝しているだけ

大事なことは、客観的存在を認めること、そして、
人間の意識がそれを正しく写し取る方法を示すこと
なのだが、
ハイデガーはこのどちらからも逃げまわっているばかり

だからハイデガーは「しょせんは主観ばかりの観念論」と馬鹿にされる
91考える名無しさん:2012/10/17(水) 05:15:51.11 0
>それに人が関係ないならどういう権利で
>客観的なものがあると言うことができる?

典型的な不可知論の罠に見事にはまってますね。

客観的なものはあります。
あなたなウンコしてケツを拭かないのですか?
そんな面倒で無断なことはしなきゃいいのにね。
でも現実にあなたはウンコを我慢できずにウンコをし、
そしていつもの肛門の位置を拭くでしょう。
また、あなたは、ご自分が死んだ後でもあなたの家族や
地球は存在し続けるということを理解している。
つまり、あなたは自身の生活の中で客観的な存在を認めている
ということです。
まあ、自然科学はこの立場ですね。

客観的な存在を人間の意識が正しくとらえることができるのか、
どうかの答えは、人間が事実として行っている感性的な行動が
すべて示してくれてます。

それでもあなたは「どういう権利で肛門や紙や地球が客観的に
存在していると言うことができる?」などと悩むのですか?
92考える名無しさん:2012/10/17(水) 09:01:55.54 0
>>88
>ハイデガーは、「主観」と「客観」の関係では考えていない

もちろんそのとおりだ。
ハイデガーに客観はない。
すべては主観の中だ。

>ハイデガーのいう「存在」は、主観に対する客観にはならない

それはハイデガーの勝手な定義づけだ。
「存在者」もハイデガーが設定しただけの「神の実現」の同意語といってもいい。
やはり客観としての存在ではない。
93考える名無しさん:2012/10/17(水) 11:42:22.18 0
>>81
>「客観的事象に主観が合致することが真の条件とされる」と言うことを否定したのが
  フッサ−ルと述べているが、それは違う。 デカルトが「方法序説」で、主観と客観の
 「一致」が原理的に存在しえない事を哲学的に証明した事により、ここから近代哲学では、
  人間が、「客観的存在」を、とらえうるかどうかは解けない「謎」となって今日に至っている。

  フッサ−ルは述べているが、客観的存在をとらえうるかどうかと言う問題の解明と、主観的存在と、
  客観的存在の一致を、可能にすることが「現象学」の第一の中心課題であると述べている。
 
94考える名無しさん:2012/10/17(水) 11:42:59.60 0
>>81
>「客観的事象に主観が合致することが真の条件とされる」と言うことを否定したのが
  フッサ−ルと述べているが、それは違う。 デカルトが「方法序説」で、主観と客観の
 「一致」が原理的に存在しえない事を哲学的に証明した事により、ここから近代哲学では、
  人間が、「客観的存在」を、とらえうるかどうかは解けない「謎」となって今日に至っている。

  フッサ−ルは述べているが、客観的存在をとらえうるかどうかと言う問題の解明と、主観的存在と、
  客観的存在の一致を、可能にすることが「現象学」の第一の中心課題であると述べている。
 
95考える名無しさん:2012/10/17(水) 12:07:26.74 0
>>93
>デカルトが「方法序説」で、主観と客観の
>「一致」が原理的に存在しえない事を哲学的に証明した

自分の読み方とはまったく違う。
デカルトは主観を廃して客観のあり方だけを追求しようとした。
成功しているとはとても言えないが。

自分は、「方法序説」をキリスト教世界の正当性を個人の倫理に置き換えたもの、と読んだ。

フッサールについても自分とは違う理解だ。
「超越」という概念は、「主観」と「客観」の埋まらない溝を無理やり架橋するために作り出した概念、と読んだ。
つまり、「主観」と「客観」の橋渡しの不可能性を表すもの、と理解した。
96考える名無しさん:2012/10/17(水) 15:53:54.41 0
>>90-91
答えになってないなあ
「客観は意識以外のもの全て」じゃ意識を基準にして客観を規定してるぞ。
しかも意識とは何なのかさっぱりわからないのに。

結局何にも明らかになってないのに、物事を主観と客観という二つに押しつけて
分かった気になってるだけじゃないのかね。
97考える名無しさん:2012/10/17(水) 20:51:14.71 0
>>95
>デカルトは、主観を廃して客観のありかただけを追求しょうとした。

デカルトは、すべての事象(科学、数学、宗教、その他一切の学問等)の
不完全なもの、不確実なもの、少しでも疑わしいものを排して(取り除く)行き、
究極の根源としての「純粋意識」に到達した。それが、絶対に疑うことの出来ない認識、
つまり、「私は考えるゆえに私は存在する」である。 この明証的な直感認識は、「方法的懐疑」
によって、極限としての「私」であり、主観そのものです。 この明証的な「主観(私)」の存在論的認識
から、「私」の外にあるものとしての、位置づけとして「客観的存在」が創出されている。従って、デカルトは、
純粋意識としての「主観」と「客観」の分離を明確とした。
98考える名無しさん:2012/10/17(水) 21:27:34.08 0
>>95
現代哲学に於いては、「主観−客観」構図を相対主義的に捉えている。
フッサ−ルは、「主観と客観」の一致を、第一の中心的課題としていたので、
「現象学」による哲学的思考を明確にする為に「内在−超越」構図を創出した。
この内在は、主観であり、超越は、客観である。 意味は同じではあるが、「現象学」は、
「現象学的還元」で、「構成的内在」より、「客観的事象」を本質観取するところが、他の
 哲学的思考と異なるので「内在−超越」構図としている。 従って、「超越」の概念は、
「主観」と「客観」の橋渡しの不可能性を表すものではありません。 
 
99考える名無しさん:2012/10/17(水) 21:44:00.02 0
>>97>>98
>>95だけど、自分の理解は違う。

人それぞれの読み方ということだろう。
100考える名無しさん:2012/10/17(水) 22:00:00.26 0
>>96
>>86だけど、>>90>>91は自分のレスではないが、十分な答えになっていると思う。
これ以上は無意味な議論。
君の言っていることは、ゼノンのパラドックスと同じで実質を伴わない言葉の遊びに過ぎない。

「客観」というのは君が意識するとしないとにかかわらず存在するもの、それだけのことだ。

「客観」をそのままあるものとするのが唯物論で、「客観」を人間の意識の産物とするのが観念論。
だから観念論は、いつでもどこまで行っても、幼稚園からやり直す、ことになる。
101考える名無しさん:2012/10/17(水) 22:19:05.04 0
ハイデガーの初期思想で留まってる人ばかりだなあ。

自己の死の観念がめばえるのが丁度幼稚園くらいの時期だろうから、
後期ハイデガー的にそれでいいんじゃないの。常に幼稚園からやり直せば。
102考える名無しさん:2012/10/17(水) 22:20:30.00 O
クダンネ
103考える名無しさん:2012/10/17(水) 22:23:26.27 0
観念化されたものを扱うことにハイデガーは極めて慎重だった。
主観、客観の存在に対してもハイデガーは断定的ではなかったはず。
慎重に思考を積み重ねることをせずに、存在するだのしないだの、馬鹿馬鹿しい。
104考える名無しさん:2012/10/17(水) 22:24:00.54 P
>>100
>「客観」というのは君が意識するとしないとにかかわらず存在するもの、それだけのことだ。

こう言っちゃうと、結局、人間の認識を超えた「神が存在する」ってな話と同じことになって
ただ観念論をひっくり返しただけの、唯物論の見かけをした観念論になっちゃうのよね

だからマルクスは、あれだけ苦労したのよね
105考える名無しさん:2012/10/17(水) 22:29:38.00 P
「客観!客観!」の人は主観=意識として
あたかもハイデガーも意識の人のように扱っているけれど
前期から、古典的な「デカルト的」(実際のデカルト自身は微妙だ)意識に対して
ある種、環境との身体的な相互作用を重視していたし
後期は、そうした人間の側の作用を超えた、世界のあり方について強調してたわけで
批判としてはずれてるなあ

むしろ、後期の、人間が受動的でしかないような世界が世界として現れる事の強調は
客観君が言う人間(の意識)を超えた世界の存在に近く
そうしたハイデガー的な人間を超えた世界という話とどう違うかを
きちんと展開しないと、結局のところ、神学的客観論にしかならない
106考える名無しさん:2012/10/17(水) 22:32:42.23 0
>>104
それが言葉の遊び、ということ。

読んでもいないマルクスに触れなくてもいいよw
107考える名無しさん:2012/10/17(水) 22:33:49.63 O
ちょっとケーシキ的な横槍だが、
観念論/実在論
唯心論/唯物論
ついでに
唯名論/実念論
が正規の対立カテゴリーに非ずや?

もっと言えば、観念論と唯物論をセットで云々する物言いは、マルクスの頃からでは?
して何故にそんな初歩的なカテゴリーミスを“敢えて”用い出したのか?
この点を思うことすらせずに、観念論だ唯物論だの擦り付け合うなんざあ、もうチンカス並の云々?www
108考える名無しさん:2012/10/17(水) 22:40:25.90 P
>>106
はいはい、君が議論を出来ない
決まりきったフレーズを繰り返すことしかできない人間だと良く分かりましたよ

>「客観」を人間の意識の産物とするのが観念論。

大体、こんな主張をした人って誰かいるかねえ?
たとえば誰を念頭においてるわけ?
109考える名無しさん:2012/10/17(水) 22:57:22.39 P
>>107
それは最もなのだけれど
例えば、原語では言うまでもなく実在論と実念論は同じRealismusであって
唯心論という語もSpiritualismusという原語では、より弱いニュアンスだし
それらの対立も、それぞれ決して明確なものでもないよね

結局、デカルトの後の時代の原子論と反原子論の対立の残滓が
唯物論と観念論へと繋がっていった事もあり
カテゴリーミスというよりも複雑な事情があるよね

というわけで、もちろんそうしたカテゴリーを振り回すこと自体が
バカなんじゃないか、という君のツッコミは正しいのだ
110考える名無しさん:2012/10/17(水) 23:06:38.19 0
>>105
ハイデガーが好きだった「スコラ派」的な言い回しだねw

そんなことはどうでもよくて、自分の意識とは無関係に世界が存在していることを認めるか認めないかの話だよ。
「意識」というのは「意識すること」で、「世界」というのは「自分を含めたあらゆる存在」という意味ね。

ハイデガーというのはすべてのことを自分の思考で理解しようとするし、理解できると思ってるところがある。
できるわけないじゃないかw

>ハイデガー的な人間を超えた世界

これは自分の意識を自分の中で拡大して「世界」と名づけているだけだ。
ぐるっと回って自分に戻っている。

ここで言っている「客観」とはまったく異なるものだし、正反対と言ってもいい。
この「世界」をとらえることは「自分」をとらえることになるだけだから、社会そのものは思考の外にある。
これは「観念論」者全体に共通する。
自分の趣味嗜好のような「世界」(社会)の理解にむすびつく。

そうした「世界」のとらえ方が、ナチ礼賛にも戦後の言い訣にも繋がっているのだろう。
111考える名無しさん:2012/10/17(水) 23:13:22.32 0
>>108
フォイエルバッハ「キリスト教の本質」でも読んでみたらどうだろう?
手に入りにくければマルクス・エンゲルスの「ドイツ・イデオロギー」でもいい。
あるいはエンゲルスの「フォイエルバッハ論」。

どれでもいいから読んからにしてもらえると、話がしやすい。
>>109
あんたはエライ☆

こう言っちゃなんだが、観念論者はまさしくウンコなる「観念」を紙なる「観念」で拭ってるわけで、観念論者はまさしく彼の言う「観念」を喰らって生きてるわけで。
もう観念やら主観やら客観やらを出来るだけ使わずに頭を絞って議論しまっしょうや、要は現実(この言葉についてもあーじゃこーじゃケチが着くんだろがねw)の生・世界こそが動かぬ与件であり云々
113考える名無しさん:2012/10/17(水) 23:29:08.39 P
「私が進んできた道は次のようなものである。観念論は人間をユニークなものとして世界から分離する、
唯我論は私だけを分離する。そして最後に、私が見てとるには、私もまた残余の世界に属するのである。
従って一方には何も残存しなく、他方には世界がユニークなものとして残存する。このようにして観念論は
厳格に考え抜かれると実在論に至るのである。[((論考)5.64を参照]」

1916年10月15日
「草稿」邦訳『ウィトゲンシュタイン全集第一巻』277頁
114考える名無しさん:2012/10/18(木) 00:03:26.39 0
>>113
具体的には、誰のどういう考え方のこと?
115考える名無しさん:2012/10/18(木) 02:27:18.08 0
>「客観」をそのままあるものとするのが唯物論で、「客観」を人間の意識の産物とするのが観念論。

これはわかりやすくよくまとまってますね。
116catt ◆.catt24qAw :2012/10/18(木) 03:37:14.12 P
【豆知識】
客観も主観も「もの」じゃないからね。
117考える名無しさん:2012/10/18(木) 04:20:32.02 0
ハイデガーの思想は日本人には500年早すぎたんだ。
118考える名無しさん:2012/10/18(木) 04:22:11.96 O
ほう
119113:2012/10/18(木) 06:37:34.96 P
ウィトゲンシュタインの言語ゲーム理論などは観念論や主観主義を
徹底あるいは複数化することで実在論に至った典型だと思います。
ちなみにウィトは中途半端な観念論としてショーペンハウアーを
考えています。

   唯物論
    |
客観__|__主観
    |
   観念論

さて、主観的云々と観念論云々は上記のように概念設定自体がズレることもあり、
客観的な観念論(カント?等)も、主観的な唯物論(一部の心理学や一部の
進化論等)もあり得ます。

また、主観的と客観的はカントの『啓蒙とは何か』における公と私のように
逆転する可能性もあります。例えばリークする公務員の行動は私的では
ない、、、

その流れで言うと、唯物論を仮想敵にしたハイデガーには客観的な部分もあり、
その意味で哲学史家として(だけ)は評価できます。例えばライプニッツ再
評価の一部はハイデガーに負っています。
120考える名無しさん:2012/10/18(木) 10:37:39.92 0
>>116
ここ数日の議論での「客観」は「もの」のこと。

つまり、「もの」と人間の意識の関係をどう考えるかという議論。
121考える名無しさん:2012/10/18(木) 12:17:16.26 0
例えば、目の前に一台の机があるとしよう。

机の存在は主観か?客観か?

確かに机は目の前に実在している。
しかし机と言うからには、ある何らかの意味を持ったまとまりが考えられている。
木材やスチールなど様々な材料の組み合わせである机を、
一つの客観的な対象とする根拠は何か?

机はどこまでが主観で、どこからが客観なのか?
122考える名無しさん:2012/10/18(木) 12:32:04.59 0
>>121
みんな机のたとえが好きだなあw
いつも机に向かって考えてるから、つい例にあげちゃうのかな?

それはともかく、マルクススレにこんなのがあった。
マルクスもどっかで机を引き合いに出してなんか言ってたような記憶があるけど、なんだっけ?

>48 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2012/09/14(金) 00:24:22.10 0
>よく知らないんだが、こんな分類でいいのかい?

>>「机」というものの本質を考える。

>>マルクス主義  労働者が歴史的な過程の中で生産した商品

>>構造主義  材質は木、天板の大きさは120×80、高さが110、4本の脚で支える

>>ポスト構造主義=ポストモダン?  木目に意味があり、大きさは変化しながらよりすぐれた機能が与えられ、異なる支え方も考案されるだろう

>>ハイデガー  机は存在者であり、人間が机に向かったときに双方が現存在となる

横道レスで失礼。
123考える名無しさん:2012/10/18(木) 16:32:40.89 0
>マルクス主義  労働者が歴史的な過程の中で生産した商品

これはちょっと違うと思うな。まあ、マルクス"主義"だからな。

マルクスならこうじゃないかな?
机という客観的存在を人間の意識が反映している。
材質とか構造とかを考えるのは、机という客観的存在の反映である
概念が机という客観的存在に合わせてあれこれ運動している状態。
124考える名無しさん:2012/10/18(木) 16:52:25.99 0
>>123
それは「マルクス主義哲学」的と言うべきかな?
そんなものがあれば、だが。

マルクスは間違ってもそんなこと書かないと思うよ。
まあ、スレチだからこの辺で。
125考える名無しさん:2012/10/18(木) 17:09:47.54 0
>マルクス主義  労働者が歴史的な過程の中で生産した商品
この一文は経済的歴史的な考察であって、
主観と客観の問題は含まれていないからね
>>121の問いかけに対する答えとしてはズレてると思うよ
126考える名無しさん:2012/10/18(木) 17:17:58.20 0
>>125
だから横道だって書いといたんだよ。
127catt ◆.catt24qAw :2012/10/18(木) 18:34:30.14 P
>>120
それことばを間違えてる。

それを言うなら主体と客体。
128考える名無しさん:2012/10/18(木) 18:42:37.46 0
>>127
君、言葉を辞書で調べた方がいいよ。

哲学辞典なんかじゃなくて、普通の国語辞典で十分だ。
129考える名無しさん:2012/10/18(木) 18:45:35.04 0
『存在と時間』を買って読んでみたいのですが
Amazonだけでも色々出ていてどれを選ぶか迷っています。
訳文がこなれているとか注釈が充実している等、おすすめがあれば教えてください。

・ちくま学芸文庫 細谷 貞雄 (翻訳)
・岩波文庫 桑木 務 (翻訳)
・中央クラシックス 原 佑 (翻訳), 渡邊 二郎 (翻訳)
・ハイデッガー選集 理想社 細谷 貞雄 (翻訳), 船橋 弘 (翻訳), 亀井 裕 (翻訳)
130考える名無しさん:2012/10/18(木) 19:15:15.14 0
>>124
客観的存在に主観が入らないと解釈できる。 「資本論」の内容は客観的存在として
独立しているが、マルクス自身は、フォイエルバッハの「類としての存在」の哲学的概念に
強い影響をうけている。 独我論的な唯物論の創出も、「類としての存在」概念が基となっている。
この「類」の概念には、「主観と客観」の合一と言う形で含まれる。この点が、フォイエルバッハの
哲学の特徴となっている。
131catt ◆.catt24qAw :2012/10/18(木) 19:35:34.84 P
やれやれ
132考える名無しさん:2012/10/18(木) 19:56:16.54 0
客:主-客の議論が盛んだけど、全然ピンと来ないんだな。そもそも生活の中では全く能天気にし
か見えない話だし、明日もある仕事、やらなきゃ食えない。客観的に確かな事などわざわざマルク
スやらヘーゲルやら出さなくても始めから分かるしな。でも本音では休みたい。主観的には(笑)
どれかのレスでもあったけど人間が日常的に主観的にも客観的にも同時に生きていることほど
確かな事はない。それが生活ってことだ。
主:その生活に於ては主観的にも客観的にも生きている、ってことは実はハイデガー思想に於て
も絶えず横目で見られている。元々事実性ということをそこでは重んじている訳で、生の事実性
を如何に解釈するかがハイデガーの課題でもあった。だけどそこで主観や客観が成立する場とし
ての生というのが問題だったと思う。生ということを事実性として捉える時、関心 sorge とい
う領域が浮上し、到来性としての歴史性というのが看過されない問題として出てくる。それこそ
が有の問題、時性なわけだ。そう難しい問題ではない。ハイデガーの場合はね。
客:生の事実性の解読として読むべき、ってことだよね。
133考える名無しさん:2012/10/18(木) 20:10:33.22 0
>>130
続けるならマルクススレのほうがいいよ。
134考える名無しさん:2012/10/18(木) 20:19:50.57 0
>>132
>生ということを事実性として捉える時、関心 sorge という領域が浮上し
>到来性としての歴史性というのが看過されない問題として出てくる

結局、ハイデガーは自分の主観ですべてをとらえている、と書いているとしか読めない。
>>110の指摘通りじゃないの?
135考える名無しさん:2012/10/18(木) 21:08:40.51 O
クダンネ
136考える名無しさん:2012/10/18(木) 21:58:10.15 0
主観−客観が、今日、なぜ問題となっているのか、それは、今の「科学技術」が、
「論理実証主義」を基底としているからである。その「科学技術」による歪みが、
 種々の環境問題そして、社会問題を生じているからである。
137考える名無しさん:2012/10/18(木) 22:29:07.39 O
↑真性のチンカスがw
138考える名無しさん:2012/10/18(木) 22:55:05.46 P
>>130の人は、いつもマルクススレで
マルクスを過剰にフォイエルバッハに還元して、バカにされてる人だね

マルクスにとってフォイエルバッハが重要だったことは事実だけれど
その批判によって資本論にたどり着いたのも事実
139考える名無しさん:2012/10/18(木) 23:18:50.55 0
>>119
>唯物論を仮想敵にしたハイデガー
>哲学史家として(だけ)は評価できます。

おもろい
140考える名無しさん:2012/10/19(金) 10:59:26.23 0
>>138
言葉のアヤに噛み付くようで申しわけないが、誰もバカにしたりはしてないだろ。

あまり触れる機会がないフォイエルバッハを思い出させてくれるだけでも意義がある。
あらためて思い起こせば、やっぱりヘーゲルに対峙した大思想家だ。

ハイデガーとは好一対、と言ったら怒られるかな?

141考える名無しさん:2012/10/19(金) 11:04:28.25 0
>>136
「主観−客観」と「論理実証主義」とは、どの様な連関にあるのか。>136さんは、認識論の
 立場から述べているのだと思う。 哲学的な認識論は、デカルトによって「主−客の分離」が、
 創出され、それを基に「論理実証主義」が理論構築されている。 つまり、認識論での「客観的領域」とは、
 普遍的存在、自由の意志、類てきなもの、霊魂等の「形而上学的領野」であり、この場合の「主観的領域」とは、
 認識論上では、「論理実証主義」の事である。 「論理実証主義」の欠点は、この「形而上学的領野」の事象を
 命題として不可能として論理構成する段階で除いて(排する)いる。これでは、論理実証主義により創出した理論
 は、完全性と多様性はない。その理論を自然又、社会に適用すれば「歪み」を生ずるのは自明である。
142考える名無しさん:2012/10/19(金) 16:36:32.12 O
ほう
143考える名無しさん:2012/10/19(金) 17:48:44.91 0
思いもよらず退屈になってしまった時にどれだけ根底からの呼びかけに
耳を傾け、解決していくか。何となく、彼の思索思考の日々が読み取れるような気がする。


144考える名無しさん:2012/10/19(金) 17:52:38.55 O
根底からの呼び掛け ?

セックスしたい!眠てー!腹減った! とか?
145考える名無しさん:2012/10/19(金) 18:22:55.60 0
>>141
哲学を専攻してるわけではないので自分勝手な解釈になるかもしれないが、
ハイデッガーは何かしらな目標を持ってはいなかったが、それに気づいて
自分は学問上で何をしたいのかを問い続けたという感じ。
あくまで学問上の話で。

何となく進学して、あるとき自分は何で進学したんだろうとか、
何を学びに来たんだろうとか。
146145:2012/10/19(金) 18:23:59.49 0
訂正
>>141-→>>144
147考える名無しさん:2012/10/19(金) 20:51:03.25 0
>根底からの呼びかけに耳を傾け
「気分の"哲学"」に騙されないようにしてね
148マジレス太郎:2012/10/19(金) 23:34:21.93 O
現存在的還元によって明らかになった、僕ちんの「根底からの呼び掛け」を発表します

ママのおっぱいばぶう♪


やっぱおっぱい女だね、大事なのは☆
149考える名無しさん:2012/10/20(土) 06:24:15.11 0
>>104がマルクスを読んでないということは
俺クラスでもわかるわw
150考える名無しさん:2012/10/20(土) 12:26:05.07 0
>>104
>「ただ、観念論をひっくり返しただけの、唯物論の見かけをした観点論になる。」

 私も、最初これを読んで、「唯物史観」は、客観的論理そのものであると、認識していたので、
 マルクスを読んでいないと、感じた。 しかし、 認識論の立場から「唯物史観」を論究すると事情が変わってくる。
 つまり、フオイエルバッハの「類としての存在」から「類概念」の客観的領野の部分のみを論理構築したのが、
 マルクス主義(唯物史観)である。認識論に於ける「主観−客観」での客観とは、主観との究極的な「純粋意識」の 
 連関によって認識されるものであり、「唯物史観」の様に、客観的存在だけを抽出することはできない。 それを、
 無理に独立した形で、論理形成することは、頭の中の「観念論」となってしまう。 つまり、>104が記したように、
 唯物論の見かけをした観念論になる。 「類」の概念が、今、見直されなければならないのは、「認識論」の主観−客観が
 明証的(根源的)な「純粋認識」より、論理構築されているからである。 客観的領野を論点とした、マルクス主義そして
 構造主義は、確かに優れた点はある。しかし、今述べたように「認識論」としての欠点をも包摂している。この点を理論的に
 克服することは、新たなる哲学原理の創出へと繋がるのではないかと思う。
151考える名無しさん:2012/10/20(土) 12:28:49.87 0
>>150
(訂正)観点論→観念論
152考える名無しさん:2012/10/20(土) 14:49:26.93 0
>>150
認識論というものがそうであるか、あるいは認識論という分類を設定することが適切なのかどうかは触れないとしても疑問が出てくる。

「純粋意識」とは何か、あるいは設定可能なものなのかどうか。
「客観」とは人間の意識(主観)にとって特定的に認識が可能ではないとしても、それを「客観的存在だけを抽出することはできない」と結び付けていいものかどうか。

他にもあるが、短文では読み取りにくい言い回しのところは今後として、この2点についてどうだろうか?
153考える名無しさん:2012/10/20(土) 15:58:02.06 0
>>152
>150さんは、「類の概念」で客観的存在を「形而上学的領野」と、捉えていますが、
この「客観的存在(形而上学的領野)」と「唯物史観」とは、どの様な連関にあるのでしょうか?
154考える名無しさん:2012/10/20(土) 16:47:21.45 0
思いもよらず退屈になって、その時に存在について考察したのがハイデガーではないの?
存在を問うほど深い退屈だったんだろ。気分転換できるほどの退屈ではない。
個々の事柄に対する退屈ならその事柄を変えればいいだけ。

自分の存在への問いかけがおっぱいバブうww程度で
気晴らしができるならそいつの存在もその程度ってことだ。


155考える名無しさん:2012/10/20(土) 17:14:50.42 0
>>153
それは>>150への質問ではないの?

自分は「客観的存在」を「形而上学的領野」とは考えないから、ちょっと答え方が難しい。

「唯物史観」とは、経済的な歴史の動向が国家や宗教のあり方を規定する、という思想(哲学)。
経済的な歴史を研究することによって自身を含めた国家等に対する人間の思考、感情のあり方を理解し、変革の根拠を求めようとするもの、といっていい。

つまり、個人の主観はその思考、感性自体が、経済社会の限定を受けている、という考え方。
その限定のされ方を明らかにすることによってしか、人間の自由な変革への意志を実現することはできない。
ちなみに、「共産主義」とはその自由な思考をもって、常に社会の変革を目指す運動そのもののこと、と定義されている。

ハイデガー的な「存在」の追及と重なり合うところをさがすことが適切かどうかには、疑問がある。
156考える名無しさん:2012/10/20(土) 17:20:02.14 O
>>150は例えばヒロマツが徹底してやってる仕事でしょ
157考える名無しさん:2012/10/20(土) 18:33:05.97 0
>>155
>自分は「客観的存在」を「形而上学的領野」とは考えないから答え方が難しい。 

 「認識論」に於ける「主観と客観」は、主観が「形而下学的(有限)」として、又、
 客観が、「形而上学的領野(無限)」と定義されている。「唯物史観」の哲学的根拠が、
 独立した「客観的理論」であるならば、認識論の「客観的領野」と唯物史観の「客観的領野」とは
 「整合性」が、なければならないと思う。
   
158マジレス太郎:2012/10/20(土) 18:35:10.63 O
>>154
おら(>>148)わざわざ「現存在的還元」なる物言いをしたが、「現存在論的」とは書かなかっただよwww
「現存在的」の次元じゃ、誰だって底は身体的"呼び掛け"だわさあ、あんたもねW

じゃあ「現存在論的」還元の底は? 神様やら良心やら使命やらですかいノォ?
奇特なこってw んなもん真面目くさって社会化された日にゃあ、それこそ「存在論」「根底からの」とやらの名による「存在者」の抑圧迫害でさあな。
…あ、だからナチスっちゃったのね!
159考える名無しさん:2012/10/20(土) 18:52:58.19 O

こいつ馬鹿。何もしらない
160考える名無しさん:2012/10/20(土) 20:39:59.67 0
>>157
>「主観と客観」は、主観が「形而下学的(有限)」として、又、
>客観が、「形而上学的領野(無限)」と定義されている

そういう「認識論」もあるのだろうが、自分はそういう分け方をしていない。

>「唯物史観」の哲学的根拠が、
>独立した「客観的理論」である

これは意味がとりにくいが、たぶん自分とは違う考え方だ。

>認識論の「客観的領野」と唯物史観の「客観的領野」とは
>「整合性」が、なければならない

自分にはこうした結論はない。
自分にとっては、まったく別の概念だからだ。

唯物史観については>>155に書き込んだ通りで、特に変更したりつけ足したりする必要はないと思う。
161考える名無しさん:2012/10/20(土) 21:58:43.27 0
>>160
「つまり、個人の主観は、その思考、感性自体が経済社会の限定を受けると言う考え方」

 上記は、「経済社会」が、客観的領野を表している。 つまり、唯物史観とは、個人の
 主観的存在(思考、感性自体)が、経済社会、物質的な生産様式によって規定されている。
 この、「経済社会、物質的な生産様式」が、客観的領野に入る。マルクス主義は、この「客観的領野」
 について哲学的論点として、あまり述べられていないが、「類の概念」より、弁証法的唯物論が構築
 されているので、マルクス主義の分析にあたって、この点も、明確にする必要があると思う。
162考える名無しさん:2012/10/20(土) 23:54:38.04 0
>>161
>「経済社会」が、客観的領野を表している

のはたしかだが、>>157
>客観が、「形而上学的領野(無限)」と定義されている

とは別の人なのかな?
それとも同じことを違う方向から言っているのかな?

ちょっとその関係がわからない。

>「類の概念」より、弁証法的唯物論が構築されている

これはどういう意味だろうか?
163考える名無しさん:2012/10/21(日) 12:32:30.64 0
>>162
認識論に於ける「客観的領野」の定義について貴方の考えをお聞きしたい。
私は、デカルトの「主観−客観の分離」の二元論を基本として「客観的領野」を
捉えています。
164考える名無しさん:2012/10/21(日) 15:02:00.20 0
>>163
「認識論」的な定義というのは自分にはない。

「客観」は人間を含めて、ただ自然としてそこにあるもの、という以上のものではない。
人間はその「客観」に実践的に働きかけることによって、新たな「客観」を生み出し、またそのことによって新たな観念がもたらされる。
その連続として「客観」があり、「主観」がある。

そういう考え方だ。
極めてありふれた考え方だと思う。
165考える名無しさん:2012/10/21(日) 20:02:35.37 0
「唯物史観」の基本となっている「弁証法的唯物論」は、デカルトの「主観−客観」の二元論が、
 基底となっている。従って、マルクス主義を哲学的に論究するには、認識論の「主観−客観」の分離
 と言う原点に回帰しなければならない。この主観と客観を厳密に定義するのは、単に認識論の問題のみではなく
 「存在論」にも関わってくるものと思う。 デカルトの二元論(主観−客観の分離)が、フォイエルバッハに引き継がれて
 「類」の概念が、創出している。 従って、「客観」の捉え方は、ただ漠然とした認識では、「客観的存在」を定義
 することは出来ない。「弁証法的唯物論」を論究するには、哲学的な「存在論」、「認識論」まで掘り下げることが、
 必要となって来るものと思う。
166考える名無しさん:2012/10/21(日) 20:49:34.94 0
>>165
ひとつひとつすべてのとらえ方が自分とは違うので、残念ながらこれ以上の議論は無理だと思う。

ちょっと自分には理解できない表現もあるし、それぞれの考え方ということで打ち切りにしたい。
167考える名無しさん:2012/10/21(日) 20:57:18.51 0
ハイデガーは日本人の「空」の考え方にも言及していただろう。
日本人の主観・客観論は中国由来の仏教観を介さないと説明がつかないのでは?
168考える名無しさん:2012/10/22(月) 22:57:38.50 0
客:『哲学への寄与論稿』を久しぶりに読んだけど、以前読んだ時分からなかった箇所が見えてきた
こともあって、めちゃくちゃ面白いんだな。『道の手帖 ハイデガー』で高田珠樹が読む価値がない
かの如く評したのが信じられない程にね。
主:あの高田珠樹の評価は不可解だな。まるであの論稿からひたすら距離を置きたいかのような
‘配慮’が浮き彫りになってる。ハイデガーの論稿なんかより高田の‘配慮’の方がよっぽど難解
じゃねえか?
客:あの論稿の拒絶というタームからして現代日本社会の引きこもりの像が浮上するところが
ある。逆に言えばそれくらい今的な不気味さを湛えているとも言える。高田みたいなアカデミズム
が生々しいと敬遠する要素満載だからね。
主:でもその時点でその研究者のハイデガー研究は放棄されたようなものだけどな。あの論稿を
どれだけハイデガーが自らの重要部として見てたかはあの論稿の発表手順からして見えるけどね。
169考える名無しさん:2012/10/23(火) 09:05:24.28 0
客:拒絶ってのは有が現状を見棄て、個体の奥深くへ覆蔵され、そこから不可解な否定性が贈与
されること、なわけだけど、これがある種の終末感を帯び、死の匂いを纏っている。にもかかわらず
人間のある種の尊厳性をも指示している。そこが魅力って言えるわけだ。残念ながら無知なハイデ
ガー研究者は気付かなかったみたいなんで敢えて言うけども。
主:『寄与』の研究書は出てるけどね。
客:だけどそこで全く現実の人間には関わりを持たぬかのように捉えられるわけで、実は人間
存在の根源の不可解さに照明を当てる物でもあることが忘れられている。あの手の解説は『寄与』
には不要じゃないのかと思えるわけだ。むしろある事実性を根拠にしてもいるわけだから。単なる
観念のモザイクではない。観念のモザイク以上の物として読んでいるのか、というのが根本的疑問
だ。
170考える名無しさん:2012/10/23(火) 09:14:13.84 0
>>168
どうせ書くなら感想の前に自分の解釈に触れて欲しい。

感想だけだと、あ、そう、で終わってしまう。
171考える名無しさん:2012/10/23(火) 10:38:20.61 0
>>168
ハイデガ−の「世界内−存在」が、主観的領野と、どの様な連関にあるのかを、
感想とは別にして、認識論の観点から自身の考えを展開してほしい。
172考える名無しさん:2012/10/23(火) 10:47:06.19 0
>>169
「拒絶」も「人間存在の根源の不可解さ」も個人(集団)の心理的な問題として説明される場合と、どこが違うのでしょう?
173考える名無しさん:2012/10/23(火) 14:55:30.54 0
なんで浅田彰みたいな口調なんだ
174考える名無しさん:2012/10/23(火) 18:17:45.61 0
客:大体ハイデガー自身がイマジネーションの大切さを中で訴えている。具体的にはno.192で、
「現有は(中略)想像の領域に於ける最高の現実」だとわざわざ書いている。‘この論稿は想像力が
理解の鍵だ’とわざわざ言っているのと同じだ。既製の知に置き直せる物以外に価値を認められ
ない学生やら研究者やらは眼中にないことも暗に断りされている。そこまでハイデガー自身も
気合いも入れてたし度肝を抜く物だとも思っていたことをこうした記述は表している。
主:そっから顧みると高田珠樹の発言の能天気さや読めなさが余計に見えてくるね。
客:既製の哲学タームでしか読めない学生やら研究者やらもハイデガーとは無関係な人間だと思う
ね。ハイデガーを読むには想像力も重要だし内省力も重要だ。多分哲学の知識以上にね。哲学知か
ら離陸していくにつれてそれがはっきりしてくる。
175考える名無しさん:2012/10/23(火) 21:13:39.01 0
>>174
そうやって開き直っちゃうのもいいんだけどね。
それだとハイデガーからは、ナチ経験もごまかして、すべては自分だけがわかっている(わかろうとしている)という自己循環の中の姿しか出てこない。
スコラ哲学を復活させようとしただけの現実逃避の姿しか残らない。

言葉だけは迫力あるから、言葉の後追いする人はいるけど哲学を受け継ぐ人は見当たらない。
難解さのベールをかぶせて自己満足に浸ってる人もいるようだ。

ハイデガーが御簾の奥で宣託を垂れて、お付きのものが下々にふれまわる。
これじゃどうしようもない。

読者は御簾を巻き上げて、中にいる哲学者の素顔を晒させる努力をしないといけないと思うよ。

上昇するだけの知識は一度否定されなきゃいけない、ということも忘れてはいけないんじゃないだろうか。
176考える名無しさん:2012/10/23(火) 21:18:03.18 P
吉本信者みたいなのが
そういう内容のない長文を書くことが分かって
面白かったです。
177考える名無しさん:2012/10/23(火) 21:21:26.68 0
>>176
吉本信者ではないらしい君の考えも書いてみたらどうかな?
内容豊富なやつでも。
178考える名無しさん:2012/10/23(火) 21:25:38.08 0
>>176
あ、それから、>>175ぐらいの文章だと長文なの?
ふだんどういうものを読んでると、あのくらいで長いと思うのかな?
179考える名無しさん:2012/10/23(火) 21:38:51.48 P
基本的に、吉本信者というのは
「内容のない長文」という一文が読めずに
「長文」だけに条件反射するということも分かって面白い

人の話を理解できない人種だから仕方ないのだろう
180考える名無しさん:2012/10/23(火) 22:36:30.08 0
>>179
>「内容のない長文」という一文が読めずに

「内容のない長文」を「一文」とは言わないし・・・
同レベルの言い争いだ・・・

微笑ましい限りだ。
なんか、平和な気分にさせてもらった。
181考える名無しさん:2012/10/23(火) 22:43:32.10 0
大人になっても、受験用語の特殊な意味しか知らない
かわいそうな人っているんだな……。
182考える名無しさん:2012/10/24(水) 09:31:26.75 0
>>179
君が内容のある文を書いてみなw
183考える名無しさん:2012/10/24(水) 09:40:50.92 0
まともな議論はレスがつかずに、こういうくだらないやり取りだとレスが多くなるんだなあw

ハイデガーの読者も情けないね。
それともこういうレスするやつは読者じゃないのかな?

誰の読者でも、同じだけどね。
184考える名無しさん:2012/10/24(水) 12:19:08.36 0
ハイデガーが最初は神学をやってたって点について
日本人の研究者はよくわかんないのでぜんぜん手を出したがらない。

ハイデガーが「存在」と言っているのは三位一体、父、子、霊の聖霊のことで、
永遠なる存在であるといってるんだよ。だから『存在と時間』は「永遠と時間」って意味。
そういうタイトルの本でアリストテレスの解釈論をやってたってのは、
つまりはトマス・アクィナスの聖霊論を再検討するって意味なんだが
日本人でそれがわかってる研究者はごく一部。
そして、それがわからないとなんで『存在と時間』を途中で放り出したかもわかんないままになる。
185考える名無しさん:2012/10/24(水) 12:23:58.51 0
ところが問題は、
それがわかってる研究者たちの間でも三位一体論や聖霊論など
神学をちゃんとわかってる人があまりに少なく、ちゃんとわかってる人は
神学を研究していてハイデガーは研究しないということなんだ。

186考える名無しさん:2012/10/24(水) 13:04:43.18 0
>>175
上昇するだけの知識は、一度否定されなきゃいけない。  

上記を現象学的に述べるとすれば、一度否定ではなく、「中立性変様(エポケ−)」
することだと思う。 「否定」は、弁証法的思考としての、ヘ−ゲル的な解釈になってしまう。
「現象学還元」で、一番、重要なのは、「中立性変様(判断中止)」と思う。
187考える名無しさん:2012/10/24(水) 15:59:05.79 0
>>186
「現象学的に述べ」ないで、普通の言葉で語るのが、上昇だけの知識を否定する、ということ。
188考える名無しさん:2012/10/24(水) 16:06:47.24 0
>>184>>185
このレスの当否は自分に判断できないが、キリスト教社会の「神」はほとんどの日本人には理解不能だと思う。
だからほとんどの西欧哲学が、日本では言葉の解釈だけになってしまってるんじゃないかと思ってる。

逆に、マルクスの思想は抵抗なく受け入れられた。
西欧以上に、日本でのマルクス理解は、早く、深いんじゃないだろうか?
189考える名無しさん:2012/10/24(水) 17:25:12.59 P
背景に似たような構図があった時期があることも否定しないけど
トマスには散々否定的な事を書いてるし
「もし神学を記すなら、今哲学としてやっていることとは全く違うものになる」って
言ってるけどね

彼の出発点であるスコラとの関係はそんなに単純じゃないですよ

190考える名無しさん:2012/10/25(木) 00:21:56.76 0
>>188

日本人でもわかってる人は、いるはいるんだよ。

>西欧以上に、日本でのマルクス理解は、早く、深いんじゃないだろうか?

マルクスの思想は逆立ちしたカトリック主義ってエンゲルスが言ってるのは知ってる?
マルクスはアリストテレスとトマスを本歌取りしてたんだよ。
英米のマルクス研究調べてみ。
日本じゃそういうのは誰もいってない。

>>189

>背景に似たような構図があった時期があることも否定しないけど
俺が言ってるのは『存在と時間』執筆のころ。

>トマスには散々否定的な事を書いてるし
だから「再検討」ってのに。

>彼の出発点であるスコラとの関係はそんなに単純じゃないですよ
キリスト教がわからんから複雑にみえるだけさ。
191考える名無しさん:2012/10/25(木) 00:46:17.73 0
>>190
スレチだから深入りしないけど、確認だけしておきたい。

>逆立ちしたカトリック主義ってエンゲルスが言ってる

これは知らなかった。
どこで言ってるの?

>英米のマルクス研究

具体的には誰のこと?
192考える名無しさん:2012/10/25(木) 01:23:09.81 P
この手のろくに知らない手合いに限って
スコラの遺産を単純化したがるから困る

いまさらトマスがキリスト教を代表してるとか
何十年遅れてる事か
キリスト教も、キリスト教神学も全く一枚岩から程遠い
ハイデガーが教授資格を取ったスコトゥスとトマスの距離は
少なくともハイデガーとカルナップ程度に離れている

大体三位一体論と人間の存在について
永遠についてからめながら話をしたいなら
似た構図は、むしろアウグスティヌスの方にあるし
少なくとも『存在と時間』のハイデガーは
トマスが、アウグスティヌスを引き継ぎながらも
アラビア的に再解釈された流出論的構図を使って
それを再構成したような図式には批判的だ
後に、そうした流出論的図式への接近を強めるにしても
193考える名無しさん:2012/10/25(木) 09:28:01.93 0
詳しいな
そこら辺のおばさんにもわかるような平易な言葉で説明頼む
194考える名無しさん:2012/10/25(木) 10:26:41.38 0
>>191

『原始キリスト教の歴史によせて』。マルエン全集の22巻。

"actus purus" thomas aquinas aristotle marx
で検索したらだいたいのことはわかると思う。

>>192


>いまさらトマスがキリスト教を代表してるとか
言ってねえし。

>キリスト教も、キリスト教神学も全く一枚岩から程遠い
そういうこと言う割には西方の教父のなかでも超メジャーな名前しか知らないらしいね。

>大体三位一体論と人間の存在について
永遠についてからめながら話をしたいなら
似た構図は、むしろアウグスティヌスの方にあるし

ラテン教父でメジャーなところだとアウグスティヌスになるんだろうが、
そういうのはギリシャ教父や東方正教会の方が詳しい。
あと、バルトはカトリックの神学者でなくプロテスタントの神学者と近しかったよね。

そのあたりをちゃんとやると、何でハイデガーがトマスに批判的だったかわかるよ。
195考える名無しさん:2012/10/25(木) 11:43:18.73 0
>>194
『原始キリスト教の歴史によせて』に「マルクスの思想は逆立ちしたカトリック主義」という言葉の記憶はないな。
機会があればあらためて読んでみるけど。
社会救済の理念としてキリスト教が出てきた、と書いてあるだけだったと思うが、自分の記憶力と理解力不足かな?

検索しても「アリストテレスとトマスを本歌取り」なんていうのは、マルクスを読んだことあるのかな? という印象のものしか出てこなかった。
まあ、自分の英語力だからあてにはならないが、何とかと理屈はどこにでもくっつく、以上には思えないな。

なんにしてもスレ違いなんで、もし、これ以上書き込むならマルクススレに移ろうよ。
196考える名無しさん:2012/10/25(木) 12:47:04.08 0
「本歌取り」って言葉の意味を調べてごらんな。
一句引用するだけで、元ネタを知ってる人なら「ああ、あれね」となるってやつ。
元ネタ知らないとそれが引用であることすら気がつかない。

西洋の知識人の場合、ところどころに急にラテン語やギリシャ語を放り込んできたりするだろ。
ハイデガーもマルクスもラテン語やギリシャ語の文献を自在に引用してるって
読む人が読んだらわかるんだってことさ。

マルクスについてはひと言だけヒントを言っておくよ。
マルクスは資本主義については詳細に述べたが、社会主義や共産主義の社会については
ごく簡潔にしか述べてないってことになってるだろ?
ところがよーく読んでみな。その簡潔な記述の中でアリストテレスとトマスを
持ち出して本歌取りしてるんだ。邦訳だと無理やり日本語にしてて気がつかないかもしれないが
ドイツ語で読むとラテン語やギリシャ文字の語句が出てくるからすぐわかる。
注釈に原典の書名とページ数までついてることが多いし、今はネットで一発でネタがわかる。

日本のマルクス研究者はマルクスがまさかそんなことしてるなんて夢にも思わないらしいうえ
証拠をいろいろみせてやってもポカンとしてて、「そういうのは枝葉末節の議論」とか
「マルクスの本質を見失ってる」とか言い始めて会話にならん。





197考える名無しさん:2012/10/25(木) 15:08:54.23 0
>>196
アンカーつけてね。

「本歌取り」については多分君よりは詳しいと思う。
>一句引用するだけで、元ネタを知ってる人なら「ああ、あれね」となるってやつ
こんな説明すると笑われるよ。

それこそ、「言葉の意味を調べてごらんな」w

そんなことはどうでもいいけど、西欧人の著作が聖書やギリシャの古典を縦横に引用するのは、マルクスに限らず非常に多くの知識人がやってる。
日本人が中国の古典や日本の古典の慣用句を引用するのと同じこと。、
まさか、そんなことで影響がどうこうみたいなことを書いてるとは思わなかった。

しかも、得意顔でw

もういいよw
君のレベルはわかった。
198考える名無しさん:2012/10/25(木) 15:10:37.33 0
波平は馬鹿なんだから2ちゃんの名無しで適当なこと言ってる糞板の置物がお似合いだな
199考える名無しさん:2012/10/25(木) 22:21:54.60 0
客:ハイデガーの文章の迫真性からすれば.‘御託せん’とか‘簾を剥がせ’とかの声ってのがむし
ろ現代人の無理解にしか見えないんだな。古くは盟友ヤスパースの例があるけど、あれほど近い
人間でさえが最後まで理解出来なかったというね。ハイデガーの思想の重心が最後まで掴めなかっ
た。盟友でさえがそうだったという悲劇がある。ナチ体験について沈黙した、よく言われてるけど
、『哲学への寄与論稿』からはそれは見えるわけで。ただし『寄与』ってのはメッセージがあるとした
ら、〈底無しの深淵に、有の拒絶に、脱‐理性的動物に開かれよ。人間の尊厳はそこにある〉なんだか
ら、よって人権主義的反省など、いずれにせよハイデガーから出てくる余地はないわけだ。そこで
ナチス運動を惑星的運命と捉える視点も可能になったろうからね。
主:その辺で理性的動物としての哲学とハイデガーとの相容れなさが明確になるんだろうな。い
わゆるグローバル・リベラリズム、進歩主義、等々と相容れなさが浮き上がる。もっと言えば人間
を客体化し、主体化する理性主義ね。その辺で分岐していくでしょう。
客:そういう意味でも『寄与』は重要だと思うね。
200考える名無しさん:2012/10/26(金) 00:13:24.88 0
>>197

もうちょっと相手の言い分を引き出せよ。

まだ具体的なところにちっとも踏み込んでない。

201考える名無しさん:2012/10/26(金) 02:25:43.50 0
>>197

まあまてよ。 >>196 の所論を
学部の集中講義で来た先生の余談できいたことがある。
細かく思い出せないんだよなあ。
202考える名無しさん:2012/10/26(金) 02:34:43.05 0
【青山繁晴】中国に狙われる沖縄 26:44
http://www.youtube.com/watch?v=XEOX81ABrM4&feature=relmfu
尖閣諸島が中国領ではない5つの理由 15:08
http://www.youtube.com/watch?v=05x4iciT_z8&feature=related
中国軍事力の真実[桜H24/2/25]  3本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=YeMo1JaOm0U&feature=list_other&playnext=1&list=SP742E374F1A55EBAD
尖閣諸島・日中もし戦わば[桜H24/6/9] 3本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=Itu8VN7UrSo&feature=list_other&playnext=1&list=SPE6A5B81B8A7DB63E
!】日本が核武装したら世界はどうなる[桜H24/6/23] 3本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=C8lGIqJV_k8&feature=list_other&playnext=1&list=SPF6E7CF849E89964C
宮脇淳子と語る真実の中国史 1:31:18
http://www.youtube.com/watch?v=SEuE0sDu_dc&feature=relmfu
宮脇淳子再び登場! 1:36:54
http://www.youtube.com/watch?v=tUY_Siu-BFk&feature=relmfu
宮脇淳子が語り尽くす!中国講座 1:33:06
http://www.youtube.com/watch?v=IiJ2iF-zHlc&feature=relmfu
【井上和彦】韓国軍の実力を徹底分析![桜H22/6/24] 25:14
http://www.youtube.com/watch?v=tSyG0amF6Xk&feature=related
【井上和彦】韓国レポート・第2弾[桜H21/10/29]  22:15
http://www.youtube.com/watch?v=DVQ6T4DZ1_k&feature=relmfu
【井上和彦】北朝鮮軍分析 Part1[桜H22/7/8] 23:43
http://www.youtube.com/watch?v=A54RvpIpQqw&feature=relmfu
【井上和彦】北朝鮮軍分析 Part2[桜H22/7/12] 22:47
http://www.youtube.com/watch?v=2RIAyW9p6jE&feature=relmfu
竹島問題-31本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=BRE4DdgG-Rk&feature=rellist&playnext=1&list=PL879B0C2ABBBC157E
ch桜 討論ー178本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=buBpYJO3Vro&feature=relmfu
中国関連ー115本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=jAGPCjZ-WFo&feature=autoplay&list=PLAF90E662881D388C&playnext=2
小室直樹ー37本の動画
http://www.youtube.com/watch?v=AKhnvjV6ZIQ&feature=rellist&playnext=1&list=PL6DF427CB2A6A0F04
203175:2012/10/26(金) 10:59:49.24 0
>>199
まず、指摘しておくけど、自分は「人権主義」や「リベラル」な視点から書いてるんじゃない。
もっとも、君みたいに単純に「人権主義」や「リベラル」をあざ笑えばいいとも思っていない。

>底無しの深淵に、有の拒絶に、脱‐理性的動物に開かれよ。人間の尊厳はそこにある
>惑星的運命と捉える視点

「深淵」 どこから見て深いのか?
「有の拒絶」 自分自身をどこにおいて拒絶するのか?
「脱‐理性的動物」 は何をもたらすのか?
そして、それが「人間の尊厳」とどう結びつくのか、というより、「人間の尊厳」とはなにを指して、なぜ必要なのか?

さらに「惑星的運命」とはどういう意味で使っているのか?
そして、そう捉えることの意義はどこにあるのか?

説明してみて欲しい。
できるだけ君の言葉で説明して欲しい。
ハイデガーを引用するときは、自分の言葉ではどう説明するのかも添えて欲しい。
204考える名無しさん:2012/10/26(金) 19:11:41.58 0
不条理を孕む原発には、がしかし存在への制約としての価値の世界、〈〜の為の…〉という物の連関、それに
よる存在の窮乏にたいする正当防衛という性質がある。原発事故は、死も含めて事物を破壊してしまうことで、
価値、有益性、道具性の檻、そこへあらゆるものを 回収する枠組み、そこへの従属自体壊す意味があった。真
理とは人間に於ける覆蔵される時=歴史の現成、というところを熟慮すれば、今がハイデガーの時代だというのが
どういう意味でなのかがよくわかる。必要性や価値の基準と選別にどこまで行っても絡め取られていくその枠組
みを逃れる衝動が、原発事故を呼ぶとすれば、的確な同時代の分析になる。それは存在の開けの到来のことだ。
それは好運と呼ぶべきことで、常識や道徳心によって塞ぐべきでない。原発廃止や東電憎悪を愚かにも唱える者は、
時代の真理に盲目である。
205考える名無しさん:2012/10/26(金) 19:54:59.59 0
>>204
前にもどっかで見たけど、支離滅裂がかっこいいと思ってるだろ?
206考える名無しさん:2012/10/27(土) 19:04:54.54 0
>>204
ハイデガ−に於ける「世界内−存在」、主観的領野、客観的領野、と「現象学的還元」との
連関を明確にし、そのうえで原発事故と歴史的な関わりを述べないと、第三者には、支離滅裂で、
何を知らしめたいのか、分からない。
207catt ◆.catt24qAw :2012/10/27(土) 19:48:15.54 P
>>206
ハイデガーの用法は「世界-内-存在( In-der-Welt-sein)」だよね。
「世界内」にすると意味が変わってくるぞ。
208考える名無しさん:2012/10/27(土) 19:55:59.10 P
同意味が変わると?
と聞いてもまともな答えは絶対に帰ってこないんだろうなあ
209catt ◆.catt24qAw :2012/10/27(土) 23:56:32.47 P
23節を繰り返し読むことだな。
210考える名無しさん:2012/10/28(日) 00:01:41.55 0
>>209
横で悪いが、それでは答えにならないよ。
他人にケチをつけるなら、自分で答えられないとね。
211考える名無しさん:2012/10/28(日) 00:38:29.30 0
ハイデガーと神学の話はどうなった?
212catt ◆.catt24qAw :2012/10/28(日) 01:29:46.15 P
>>210
答えにならないのは当たり前。問題は問いを見つけられるか否かだ。
213考える名無しさん:2012/10/28(日) 07:26:42.19 P
ドイツ語では、そのままだと術語化しにくいから
ハイフン(Viertelgeviertstrich)を使ってるだけ

日本語では漢語についてはそのまま繋げて術語化(新語化)される

という正書法の問題が理解できないバカにはつける薬がない
214考える名無しさん:2012/10/28(日) 10:37:56.48 0
>>212
なんだ、>>208が言ってるとおりなのか。
つまらん。
215catt ◆.catt24qAw :2012/10/28(日) 15:54:50.40 P
>>213
「世界内-存在」や渡辺訳の「世界内存在」にすると、日本語としては
「世界の内の存在」という意味合いになる。
が、23節で口を酸っぱくして述べているのは、存在は「内世界的な」手元(近み:遠近的な一)
にあるのでは決してない、ということ。そういった意味合いの限定のために術語化したわけで
それを述語として「世界-内-存在」と訳さないとだめ。

>日本語では漢語についてはそのまま繋げて術語化(新語化)される
これ全然関係ないよなw
216考える名無しさん:2012/10/28(日) 16:12:50.45 0
客:203レスが疑問点を並べてるわけだけど、それを読んでて、これはハイデガーを語るレベル
では到底ないって思える。そもそも『有と時』からして読んだことのある人なのかという疑問を
感じたな。それから現象学的に云々とあったけど、現象学とハイデガーの関係なぞ簡単な話で、
現象学の格率である〈事象そのものへ〉を研究の格率にしたのが紛れもないハイデガーなんで。
こここそが肝心なところだよ。まさに事実性の重視というね。
主:そもそもハイデガー読んでも解らなかったって人が集っている場所ってのが当りかもしれな
いけどね。大量でなくても『有と時』『ヒューマニズムに関する書簡』辺りを読んでればハイデガー
の思想を理解するのは難しくないけどね。多分それさえ解らなかったわけだ。
客:そこで2ch.にやって来た。こんないい加減な場所で教えてもらおう等考えない方がいいと
思うけどな。解らなかった、なら解る迄苦労してでも読むだけだろ。一つだけ書いておくと、ハイ
デガー思想では技術的支配の運命というのが認識の根幹にある。その技術的支配の惑星的運命と
いう場所からすれば資本主義圏も社会主義圏も大差ない。また色んな反体制勢力も大差ない。
いずれも主客共に対象とし、立てていく技術的支配の一部である。またこの問題でフーコーの研究
ともクロスしていくことになる。
主:人間をも物をも対象的に立てていく。人間を理性によって健康‐不健康、正常‐異常、健全‐不法
、等に分割し、矯正する支配と同調が全面的になる。そういった流れを有の忘却であり尊厳の喪失
とみた。その究極で喪失し切った人間の変容が起こる。それは有の立ち去りから起因し、不可解さ
やあり得ないもの、驚愕を帯びる。これが有の立ち去りから起因することも把握されないまま歴
史は過ぎるであろう。
客:そう。これが何の実証も前提もなく書かれるのが『哲学への寄与』であり、謎めいてるとこ
ろでもある。だけどリアリティーだけは凄い。そこが驚異的だよ。
217考える名無しさん:2012/10/28(日) 17:23:35.75 0
>>216
自分だけが理解者だと思ってるところは、まあ、病気と言ってもいいな。

他人の指摘に何一つ反論できないくせに、「謎めいてる」「だけどリアリティーだけは凄い」「そこが驚異的」などと頓珍漢で無意味な感想を漏らす。
誰も君に「教えてもらおう」なんて思ってないよw
君の、無内容ででたらめな言い草を批判してるんだよ。

そのくらいのことも読み取れないなら、自分を含めて批判している人のレスを「解る迄苦労してでも読」んでから書き込んでくれ。
君がハイデガーを実際に読んだのかどうかは知らない。
読んだのなら、君はまったく無意味な読後の感想を得ただけなのだろう。

自分でそれに気づくことはできないだろうが、せめて、他人の批判には、ほんの少しだけでも耳を傾けることだ。
218考える名無しさん:2012/10/28(日) 17:42:24.39 P
>>日本語では漢語についてはそのまま繋げて術語化(新語化)される
>これ全然関係ないよなw

ドイツ語と日本語のシステムが違うから
そのツッコミは意味がない、と言われているのに
反論できずに「w」で逃げる、いつもの手口
219catt ◆.catt24qAw :2012/10/28(日) 17:44:53.83 P
>>218
システムうんぬんじゃないんだよ。
「世界内-存在」と「世界・内・存在(桑木訳)」のシニフィアン的差異の話。
220考える名無しさん:2012/10/28(日) 18:09:16.49 0
>>219
横でなんだが、そんなことに「シニフィアン的差異」なんて使わない方がいいんじゃないかと。
221catt ◆.catt24qAw :2012/10/28(日) 18:10:36.40 P
まあ、語句の問題だからいいかなと。w
222考える名無しさん:2012/10/28(日) 18:19:11.08 0
>>221
お前仲間内では特定されてるんだけど、その上から目線評判悪いから止めた方がいいぞ
223catt ◆.catt24qAw :2012/10/28(日) 18:22:01.70 P
やさしさを求めるな。
224考える名無しさん:2012/10/28(日) 18:27:49.79 0
フィーフィーちゃんいるかい?
225考える名無しさん:2012/10/28(日) 18:44:39.80 0
>>223
性格の悪い奴は、正論吐いても、相手されないぞ
自分でも気付いてるんだろ?
もっと社会性を身に付けような
226catt ◆.catt24qAw :2012/10/28(日) 18:46:25.44 P
>>225
その物言いを身に付ければ良いのだね?
227考える名無しさん:2012/10/28(日) 18:47:09.79 0
社会性を建前に差別する人間は性格悪い以前にクズ。
228考える名無しさん:2012/10/28(日) 18:47:50.62 0
なんであれ、コテハンで書き込む姿勢だけは評価できるよ。
229考える名無しさん:2012/10/28(日) 19:26:54.54 0
うだつの上がらない研究者崩れの自己顕示欲が肥大してるだけだろ
230考える名無しさん:2012/10/28(日) 19:29:09.01 0
>>226
威勢のいいのは勝手だが、あの態度は駄目だよ
あの研究会の事だ
231考える名無しさん:2012/10/28(日) 20:07:40.17 0
>>195
> 『原始キリスト教の歴史によせて』に「マルクスの思想は逆立ちしたカトリック主義」という言葉の記憶はないな。

自分も、この人、思わせぶりに変な事いってるなあと思ってチェックしてみたが
そういう表現はないね

多分、彼の中で、しばしば言われる共産主義の目的論的な姿が
キリスト教的目的論を引き継いでるという議論が、ごっちゃになってるんだろう
232考える名無しさん:2012/10/28(日) 20:34:12.21 0
cattってあのゲーテの奴か?
233考える名無しさん:2012/10/29(月) 20:25:08.60 0
>>215
「世界内−存在」や「世界内存在」にすると日本語としては、「世界の打ちの存在」という
 意味合いになる。又、存在は「内世界的な」手元にあるのでは決してない。   
 
>上記の「世界内−存在」や「世界内存在」と訳すと、自己(主観)が「世界内の内に存在する」と、
 解釈することとなる。 では、「世界−内−存在」の場合は、自己(主観)が、世界(超越)と、  
 どの様な関わりを持つのでしょうか。又、この場合の自己(主観)は、超越論的主観のことでしょうか。
  
234考える名無しさん:2012/10/29(月) 20:28:48.64 0
>>233
(訂正)「世界の打ちの存在」→「世界の内の存在」
235catt ◆.catt24qAw :2012/10/30(火) 03:14:55.11 P
>>233
>では、「世界−内−存在」の場合は、自己(主観)が、世界(超越)と、  
>どの様な関わりを持つのでしょうか。
>又、この場合の自己(主観)は、超越論的主観のことでしょうか。

自分の発言の意味を他人に聞くというのもめずらしいね。
236catt ◆.catt24qAw :2012/10/30(火) 03:39:30.40 P
二十三節には有名な「遠ざかりの奪取と方向の切り開き」という表現があるよな。
237考える名無しさん:2012/10/30(火) 08:28:08.92 0
ネットではあいかわらず絶好調だな
238考える名無しさん:2012/10/30(火) 09:25:05.25 0
>>237
まあ、何か不愉快だったことがあるんだろうが、個人攻撃は控えめに。

それにしても、cattコテは無意味なレスばかりだな。
カッコいいと思ってるんだろうが、他人からは馬鹿にされるだけだな。
239考える名無しさん:2012/10/30(火) 10:03:40.25 0
近所のオバサンが外で大声で延々と話しつづけてる
うるさいすぎて起きてもうた
240考える名無しさん:2012/10/30(火) 12:20:21.87 0
>>235
現象学に対する自分の認識では、「世界−内−存在」の概念を、超越論的主観より、
構成的内在から「超越」を認識することと判断している。従って、「世界ー内−存在」とは、
自己の主観的領野から、世界(超越)を純粋意識として認識することと思う。この点に関して、
catt氏は、「世界ー内−存在」をどの様に解釈しているのかな?
241catt ◆.catt24qAw :2012/10/30(火) 14:12:32.07 P
>>240
ハイデガーの「das In-der-Welt-sein」についての解釈は多様だからね。
自分は「世界における(への)存在」という訳に近いと理解しています。
242考える名無しさん:2012/10/30(火) 16:26:53.99 0
純一さんを攻めてる野郎かww
243考える名無しさん:2012/10/30(火) 17:38:33.50 0
ヒント 本人
244考える名無しさん:2012/11/04(日) 20:29:47.16 0
in die Weltとin der Weltの区別がつかないお馬鹿さん
245考える名無しさん:2012/11/08(木) 01:06:54.54 P
「しかしながら、道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。
シナの歴史家は道教のことを常に「処世術」と呼んでいる、というのは道教は現在を??
われら自身を取り扱うものであるから。われらこそ神と自然の相会うところ、きのうとあ
すの分かれるところである。(略)人生の術はわれらの環境に対して絶えず安排するにある。
道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂き世の中に
も美を見いだそうと努めている。」(『茶の本』「第三章 道教と禅道」岡倉天心 村岡博訳より)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000238/files/1276_31472.html

このなかの「処世(術)」の英訳 (to be in the being of the world)がハイデガーの
世界内存在(in-der-Welt-sein)に繋がったとされる。
荘子の「処世」は「世に処(お)る(In-Sein)」と「世に処する(Ver-walten)」の二つを兼ねる。

? Allein das wichtigste Gedanke des Taoismus an das
Leben Asians liegt auf dem Gebiete der Aesthetik. Die chi-
nesischen Historiker haben vom Taoismus stets als von
der "Kunst  des In-der-Welt-Sein”  geredet, denn er handelt
von der Gegenwart, von uns selbst. ?
"Das Buch vom Tee" p.31
/ Okakura Kakuzo. Aus d. Engl. von Marguerite und Ulrich Steindorff [1919]
参考;今道友信「一哲学者が歩んだ道」(中央公論1999年1月号)
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5022
246考える名無しさん:2012/11/08(木) 01:10:44.80 P
今道友信さんが、回想録(中央公論一月号)の中でハイデッガーの『世界内存在』という
語は、日本人から教えられたものだという面白いエピソードを紹介しています。
(「一者の研究」という彼のドイツ語の著作にもあります)

まだハイデッガーが無名の頃、当時ドイツに在外研究で出張中の伊藤吉之助
のドイツ語の家庭教師をしていました。そのとき、伊藤はハイデッガーに
岡倉天心の「茶の本」を贈りました。(1919年)
岡倉は荘子の「処世」と言う語を、英訳してBeing In the World としましたが、
それが1908年にドイツ語に訳されたときに Das In-der-Welt-Sein になった
という次第。ハイデッガーの「存在と時間」が出版されたのは、1925年で、
ここで彼は、西洋哲学史ではじめて「世界内存在」を哲学用語として使ったという次第。
「処世」とは「世に処る(おる)In-Sein」と「世に処するVerwalten」の両義が
あるので、まさにハイデッガーの言うことにピッタリ。

「世界内存在」という重々しい訳語を捨てて、「処世」という意味を念頭において読むと
ハイデッガーの言っていることは、もっと我々に身近なものとなるかも。http://www.eleutheria.com/philosophia/data/590.html
247考える名無しさん:2012/11/25(日) 16:40:40.14 0
客:ここのレスを読んでるとハイデガーが何故現代人に解らないかが朧気ながら見えるところが
ある。現代人にとって、またインテリにとって概念化が最も重要で公共的に分かつことにすること
がとにかく重視される。ところがハイデガーの場合は反対に、人間を非-通約的にする場所に問題
が見られている。一連のターム、現-有、世界、有というタームからして公共的な場所から如何に
して人間は逸脱するか、という問題から考えられる。尊厳や深淵といった用語がさっぱり解らん
とか俺等もハイデガーを解らんくせに、とか病気だとか中傷していたアンチャンも、そういった
ハイデガーの問題意識そのものが先ず理解できない訳で、従ってどれだけ説明されても一向に
判然としない。それは公共的な場所から逸脱することに実存的意味を見る問題意識そのものが、
そもそも理解不能な訳で、しかもその実存を動かすものが主観ではないとか言われてますます
解らなくなる。大体そんなところじゃないか?
主:主観ならば学の基点として知的に上昇すればいい。それは今の学校教育の考え方と同じだよ
。ところが個体の構造そのものが主観と同一ではないのだからそういった自己意識から考えられ
るものとも違う。何でこう読めないのか不思議だったけど、大体そんなところじゃないかね。如何
にハイデガーの思想が現代人に不得手か、よく解ったね。
248考える名無しさん:2012/11/25(日) 18:13:57.36 P
「世俗にまみれた馬鹿どもには理解できないハイデガーを理解できる俺すごい」
というだけの何の内容もない文章
249考える名無しさん:2012/11/25(日) 19:38:01.15 0
大五郎うめーっ、焼酎はいいね!
ハイデッガーってナチスのインテリの本、酒場でインテリの兄ちゃんにもらったけど
くるね!
薄い本だったけど、名前は忘れたけど、存在は大事だよな
体が資本の土木作業は存在が無くなったらダメだもんな
その後焼酎とソープで一発、いいね!
>>247のアンチャンはハイデッガーの事、なんもわかっとらんね
大五郎とソープ知らねーでハイデッガーはわからんよ
ハイデガーの問題意識そのものが先ず理解できていないってがーね
250考える名無しさん:2012/11/25(日) 19:58:26.22 0
大五郎なんて高級な焼酎よく買えるな。
俺なんてもっぱらホワイトリカーなのに。
251考える名無しさん:2012/11/25(日) 21:50:49.87 0
客:特に取り上げるべきレスもないんでどんどんやっちゃうけど。246レスに今道って人の説が
引用されて、荘子の処世がbeing in the worldとして訳されたのが世界内存在の元になった
とか、面白いんだけど、「世界」の意味合いとして「世間」があるとハイデガーが書いてる所もある
んで「世」という意味合いは把握していた筈で、しかしハイデガーの場合にはその意味合いではな
い。「世」という意味は知っていたが、自分の場合にはそうではない。「有るもの」という意味で捉え
る限り解らないよ。今道って人も含め。吉本の心的現象論で書かれる原了解以前にある問題をたど
れば解るんじゃないかと思うけども。あれだけでも目を通せば足りる位に問題意識は重なってる
からね。肝心のハイデガー研究者も吉本研究者も目が悪い為に気付かないみたいだけどね。
主:目が悪いというよりは元々どこまでハイデガーとか読んでるのか疑問だけどね。専門家の話
を読んでもハイデガー専門家っていうのは大学教授とかだからか、あくまでも学問の、それも
大学学問の一種としてしかハイデガー等も、またはニーチェ等も捉えられないような感じを持つ
訳だ。それだと自ずと読み方に限界が出てくる。「教養は何と言っても大事です」みたいなね。そう
いう教養主義をニーチェは嫌ってたしハイデガーだってそうだろう。とことん迄行くと大学学問
からはみ出すのがあれらの思想と思うけどね。
252考える名無しさん:2012/11/25(日) 21:51:15.87 0
>>250
酒がのめるだけで十分だろ?
253考える名無しさん:2012/11/25(日) 21:53:56.23 0
>>251
取り上げられる価値がないのは自分のレスかもしれない、とは思わないんだなw

他人の悪口はいいかげんにしておきなよ。
254考える名無しさん:2012/11/25(日) 21:55:54.92 P
大学だから駄目なんだってのは大抵大学コンプレックスの裏返しでしかない
255考える名無しさん:2012/11/25(日) 22:30:48.65 0
>>251
吉本氏の「心的現象論」は即物的な思考だ。
それを個人と母体の関係から生じる心の問題にまで遡ってみた。
そこから先は遺伝子の領分になっていくだろう。
事実、「ハイ・イメージ論」では、わずかに遺伝子について触れている。

体力と気力があれば遺伝子まで行った思考を、人間に戻す道筋をたどったに違いない。
それで吉本氏の最終論考の完成となったはずだ。
残念ながら「心的現象論」の後半は、すでに体力も気力も続けるのが無理な状況だったのだろう。

なお、吉本氏自身はハイデガーをスコラ的だとして否定的な評価をしている。
吉本氏をハイデガーとの関係で取り上げるときは、そのことも考慮に入れた方がいいと思う。
256考える名無しさん:2012/11/26(月) 03:45:11.45 0
客:251が簡単に済ましてる程吉本とハイデガーの関係は簡単ではない。先ず幻想という吉本の
タームだが、あれが〈有る〉という領域をそのものとして指している、つまり還元したり歴史性を
解読したりしない段階での〈有る〉を指していることは解る。それを幻想と名付けたことで歴史の
地層としての歴史の問題に関わるのが吉本のいわゆる幻想論だ。そういうことは吉本は自覚でき
ておらず、当然語られていない。それを真に受けるから本当の関係が問われなくなるのさ。
主:あと、『心的現象論』は即物的だということだけど、即物的というよりも具体的と言い換えた方
がいい。ハイデガーの場合、〈有る〉の成立に歴史が関わるところまで、その意味をハイデガーなり
に思索し続けている。ただ如何せん哲学から外に出ることはなかった。自分ではマルクス主義との
対話の可能性を示唆はしたが、やはり具体的には為されなかった。ただ、後期の集-立の概念には
現代文明の性格はよく描かれているけど。それに対し吉本の場合には彼が理科系の人間というこ
ともあるのか幻想と歴史の関係が哲学から出ることで為されている。そこが吉本の特徴だよ。ただ
問題意識自体は相当近い。
客:自己表出は内臓だと言ったことも有論の一種として読めるし有と歴史という問題で読める
ところがある。色んなクロスロードがあるのは解るよ。
257考える名無しさん:2012/11/26(月) 09:45:01.90 0
>>256
>そういうことは吉本は自覚できておらず、当然語られていない。それを真に受けるから本当の関係が問われなくなる

それを曲解と言う。
本人が定義している概念を、それは違うとか、自覚できていないとか決め付ける権利も根拠も君にはない。
詩でも小説でもない、思想の論考なのだから。
あまりバカなことを言ってはいけない。

>幻想と歴史の関係が哲学から出ることで為されている

もともと「哲学」などという分野は外に出るとか出ないとかいう概念ではない。
せめてヘーゲルでも読んでから「哲学」とは何であるのかを考えなさい。
「幻想」も「歴史」も君のようにいいかげんな「雰囲気」で定義づけすることはできないことがわかるだろう。

君がなにをどう解釈しようと、もちろん自由だが、正しさの保証はどこからももたらされない。
吉本氏は「客観的」な「正しさ」を生涯求め続けた。
本人は雑だと謙遜してはいても、それぞれの論考は極めて厳密に概念を定義づけようとしている。

ああ読めるだのこう読めるだのというものではない。
そう思えたとしたら、君が吉本氏の論考をまったく理解していないだけのことだ。

君のハイデガーに対する理解についてはあえて触れない。
258考える名無しさん:2012/11/26(月) 10:20:48.89 0
>>256
>幻想という吉本のタームだが、あれが〈有る〉という領域をそのものとして指している

とすれば、〈有る〉という概念は人間の「観念」を言い替えただけに過ぎないないということになる。
吉本氏の「幻想」は人間の「観念」と完全に同義なんだから。

それを違うと言いたいのだろうが、違うと主張するならその根拠を明示しなければいけない。

俺や他の相手に対して、根拠なく吉本氏やハイデガーを読めていないだの理解していないだの罵倒しても、君の正しさが保証されることは全くない。
それくらいのことは「自覚」しなさい。
吉本氏の口真似をして他人を罵倒しても、君と吉本氏では、思想の深さも大きさも、そして他人の論考の読み込みの正確さも比較にならないのだから、君のはただの悪口雑言にしかならないということも「自覚」しないといけません。

他人がハイデガーをわからないのではなく、君自身が他人のハイデガー理解を読み取れない、ということをこそ省みないといけない。
259考える名無しさん:2012/11/26(月) 12:48:33.76 0
客:人間が判断する、確信する、〈有る〉とする事象を分解する作法をハイデガーはフッサールから
学んだ、そして自らの有論に生かしたと思うけど、自然的態度や感性や判断や気がかりやを幻想と
することでね。そして幻想には根底にハイデガーが目測したのと酷似する時性の領域が置かれて
いた。そういう思考の積み方、人間の掴み方は両者に共通した物だ。因みに吉本の語法自体、かつて
浅田彰に「詩的・我流・あれが読まれた理由が分からない」とこっぴどく批判されたことがある。
「吉本先生は何が客観的かを絶えず心掛け」とする意見は滅多に読まない。余程の読者なんだろう
がこの人みたいな話の方がマイナーじゃないかね。
主:因みに「本当の考えと嘘の考え」という違いには固執はしていた。だけどそれは幅のある考え
で、史的唯物論に全存在や倫理や個体幻想までを収斂させるマルクス主義に否定的だったのも
客観的であることの複数性、重層性に注意していたからだし、客観性が成立し難い領域として
幻想を見ていたのでは、と思えるところがある。例えば三島に対しても思い込みを批判しながら
も変死に向かう根底にまさに母型論的問題を見ていたし、それはハイデガー的に言えば世界の原
像=先像の問題になるだろうけど、客観的と称する思想がいかに自らの生の歴史に拘束されてる
か、死ぬ迄拘束するかも見ていたよ。また、だからといって思い込みの思想を抱いて死んだ人間に
否定的なだけでなく、不可避を見ていた。吉本にとって、「本当」ってことと「不可避」ってことは実
は近かったんじゃないかとも思えるんだけど。少なくとも全てに於て客観的でさえあればいい、
等とは考えてはいなかったと思うね。
客:もうひとつ?と思うのは、「本人が自覚もせず認めてもいないことをそうだと言う等とは
何事か。思想を分かっていないのではないか」とか言ってるところで、自覚も認識もしていない
問題を探り突っ込むことを否定してたら思想の進化などないよ。どこまで「教科書鵜呑み」してる
のだ。
主:
260考える名無しさん:2012/11/26(月) 15:13:42.41 0
>>259
吉本氏が浅田氏のことを「3バカ」のひとりに数えていたことも知らないのか?
本人からバカと言われた人間の吉本解釈がメジャーだと思ってどうするんだw

君は「言語にとって美とはなにか」やその前後の評論を読んだことがないみたいだから、まず、そのくらいは読んでから書き込んで欲しい。
読めば「客観的な正しさ」の追及がどれほど吉本氏の論考の主調音になっているかわかるだろう。

吉本氏の著作を数冊読んだだけで吉本氏を語るのはかまわない。
しかし、他人の吉本評で吉本氏を判断するのは誤解や曲解と隣り合わせだということは知っておいた方がいい。

君はほとんど吉本氏の主著を読んでいないようだ。
人には様々な契機があるのだから、読んでいなくてもしかたがない。
だが、主著を読まずに思想を語るには大変な蓄積と深い洞察力が必要だ。
君には無理だと思う。

君の好きなハイデガーを、他人と会話のできるところまで理解を深めて、そしてそれを他人が理解できるように表現する努力が大切だ。
自分だけが納得している狭い世界に閉じ込めるのではなく、外の世界に触れさせることだ。
外の世界は君の世界とは違う深さと大きさで動いているのだから。
261考える名無しさん:2012/11/26(月) 21:56:06.79 0
客:260が言ってることから2点取ってみよう。
1.吉本本人からバカと言われている人間の言うこと等真に受けることはあり得ない。
吉本が何と言おうがバカと言おうが用語が我流で難解の故に生前から意図が伝わらないことは
事実だけどな。その無理解や誤読の歴史が吉本には付いて回った。『言語にとって』からして同じ
運命を辿ったことは当時からあれへの批評を読めば大体解る。確かにあれは批評の基準を探る本
で、客観的と言えば客観的。ところが吉本自身の出発点には膨大な詩が存在し、吉本の思想的生涯
自体、あれらの詩の延長と見なすこともできる。吉本の批評にある客観性の根底に絶えず情感が
ある。少なくともあの根底に絶えず何かしら抑えた情感があったことが吉本の批評の魅力だった。
主:いや、客観的と言うならば吉本の原理的著作は客観的。ハイデガーだって客観的。そんなこと
を問題にしても、客観的。だから何?となる。人間が存在する場所には様々な面があり、客観的な面
はその1つに過ぎない。詩や小説、を吉本はずっと論じてきた訳で、客観的存在が人間の一部に
過ぎないことは自明だったはずだ。
客:思索の方法として客観的。それはそれ自体挙げても意味ない話だろう。だけど幻想として、
あるいは〈有る〉としては客観的であるか否かは問題外になる場合はある。それらが歴史的根底
を持つという解釈が両者に共通する。読んでれば解る話だ。芸術は典型的でね。
2.『言語にとって美とは何か』の周辺の批評に吉本が如何に客観的であろうとしたかが解る。
おおそうだけど。別に吉本が客観的ではないとか軽視したとか言ってないけどな。ただ客観性でさ
え或不可避とともにあることがしばしば指摘もされるだろう。しかし客観的客観的って何かの
宗教か?(笑)
主:客観性信者でいいじゃねえか?相当の信仰みたいだから。大学とかでそうなったのかね。
262考える名無しさん:2012/11/26(月) 23:35:28.50 0
客:ついでに言ってみたいのは、俺達の議論に異義を提出してる人間の話を読んでいて、実にたい
したことは言っていない。ただ「自分だけが解っていると思い込んでいる」「説得力はない」「吉本
ほどの教養もない人間が同じように真似しても不快なだけ」だいたいこんなものだけど、面白い
のがあれこれ長たらしく書いてはいるが、ほとんど具体性がなく、つまりハイデガー理解のここ
がおかしい、という指摘はなく、しかも「解ってるようなことを言うな」とは言う。「説得力はない」
とは言う。だけど具体的には言わない。あるいは言えない。ただ「吉本さんは君と違って云々」と
大雑把なクレームだけは言う。こんなことを書いてくるから馬鹿にされるのさ。自分の読み方も
言えず周辺のクレームだけ。それよりはハイデガーの読み方を何故書かない。何もないからか?
それで他人には「君には説得力はない」と、それより何を言ってるかさえ実は解らんのではないか?
だから何処が間違いかさえ指摘不能。そう言われて然るべき輩だよ。表面繕ってるけど貧しいんだ、
残念ながら。
主:260のアンチャンも実は具体性はない。「君には読解は無理だ」「吉本の原理的著作も読んで
ないみたいだから」とこれまたこっちの論を挙げて、「そうではなくこうだ」とする気もない。これ
また実はただくさしたい輩じゃないかね。説教ばかりして吉本にせよハイデガーにせよ「この読
み方はここが違う」とはやらない。何故かね。そもそも自分の読み方はあるのか?それと他人の読
み方を対比する気もないのかね。よくよく見るとこの男もさしてこういう場所でやっても意味の
ない説教ばかりしている。さほど重要とは思えない揚げ足とね。
客:繕ってるけど本質は貧しい訳ね。大体自分の読み方もないんだから。
263考える名無しさん:2012/11/26(月) 23:51:21.92 P
この人は結局他人と話が出来ないから
自分で対話もどきのモノローグを書くことにしたのね
見てるだけで可哀相
264考える名無しさん:2012/11/27(火) 01:07:19.54 0
客:上のレスで俺達の論を具体的に挙げている数少ない箇所があるのでちょっと見てみよう。こ
うある。曰く《君はハイデガーの〈有る〉そのものが吉本の言う幻想だと言う。しかし幻想とは観念
の言い換えである。では〈有る〉とは観念なのか》大体こう書いてある。
先ず「幻想とは観念の言い換え」と言ってる箇所は思い出せない。しかし幻想は上部構造だと言っ
てる箇所は『共同幻想論』附属のインタビューにあるので解る。それはいいとして、問題は吉本自身
が幻想というタームについて、後から考えれば個人幻想や対幻想については妥当ではないかもし
れない。と言ってることだ。共同幻想のような、精度的意味合いは個人幻想にはない。そう吉本は
言う。個人幻想というのは個人の精神現象だと。共同幻想という場合と個人幻想という場合とは
意味合いはかなり違うと『吉本隆明が語る戦後55年6』p.66ではっきり言ってる。つまり幻想とい
うタームにせよ吉本自身の使い方に問題はあった。というのは幻想ということで3つの幻想の
意味は全く同じと捉える向きもあっただろう。実は全く同じではない。それを95年に述べている
。観念、というのは幻想というタームに籠めた意味の一つではあっても全てではない。恐らく共同
幻想という場合には妥当だと思うけども。ハイデガーが論じたような実存は吉本では個人幻想に
なると思うけども、吉本に於ても個人の精神現象の全体を指す訳で、〈有る〉という問と無関係では
ないことは容易に掴める話だろう。しかも両者とも生が覆蔵する歴史や経歴に注意を払っている
。そこも同じな訳だ。
265考える名無しさん:2012/11/27(火) 01:16:28.98 0
>>261
>用語が我流で難解の故に生前から意図が伝わらない

吉本氏の用語がそうならハイデガーはどうなんだ?
少なくとも君の受け止め方ではほとんどの学者や愛好家がハイデガーの用語も内容も理解できていないんじゃなかったのか?
あんまり笑わせないでくれ。

吉本氏の著作はていねいに言葉どおりに読めば誰にでも理解できる。
そう書かれている。
難解と思われるところがあるとすれば吉本氏自身が困難な論点だ。

君のように無理やり詩やハイデガーと結びつけているのでは、何をどう読んでも吉本氏の論考を理解するのは無理だ。
266考える名無しさん:2012/11/27(火) 01:27:50.10 0
>>262
>説教ばかりして吉本にせよハイデガーにせよ「この読み方はここが違う」とはやらない。何故かね。

なぜだと思う?

君には他人の批判を受け入れる姿勢がまったくないからだよ。
吉本氏についてもハイデガーについても、俺だけではなく何人もの人が君の理解を「具体的」に批判した。
どれひとつ君がまともに答えたものはない。

まず、他人の批判の内容を理解できていない。

たとえば君がいま書き込んだところを例にあげよう。

>幻想ということで3つの幻想の意味は全く同じと捉える向きもあっただろう

そんな理解をする人間がいるわけはないだろ?
異なるから、「共同幻想」であり、「個人幻想」であり、「対幻想」なんだよ。

別に「幻想」というものがどこかに固まって落ちているわけじゃない。
それぞれ人間の心のあり方を分析しようとしたものだ。
「共同幻想」とセットとして考えるときの「個人幻想」が人間の個人としての観念のすべてではないことも当然だ。
267考える名無しさん:2012/11/27(火) 01:45:32.51 0
>>264
3種類の「幻想」があるわけではない。
ひとりの人間がそれぞれの場面でどういう心のありかたになるのかということを考えている。

当然、その心も一瞬でも同じ状態にあることはない。
見ても聞いても触れても、客観的な世界や他の人間の心との間で、何らかの変動が相互におこる。
これも言うまでもないことだ。

そうした観念のあり方を一定のレベルに抽象して、それぞれの一般的(客観的)な論考としてまとめあげようとしていたのだ。
仮想の議論の相手は、もちろんマルクスとヘーゲルだ。

ヘーゲルの扱った分野でマルクスがやり残したことを、マルクスの代わりに自分がやる、そういう強い思いがあった。
その大きな構想がまったく見えていない君には、他人をバカにできる力量など全くないことを自覚しなきゃいけない。

亀は自分の甲羅の大きさの穴を掘る。

君は少し謙虚になって、日本語の読解力から勉強しないといけない。
まず、相手の書いたことを理解することから始めないといけない。
そうしないと、吉本氏もハイデガーも自分の思いを装飾するだけのアクセサリーになってしまう。
268考える名無しさん:2012/11/27(火) 01:50:16.28 0
>>267
>日本語の読解力から
日本語の読解から、に訂正。
269考える名無しさん:2012/11/27(火) 07:53:39.54 0
お前に必要なのは哲学でなくて精神科だろう
270考える名無しさん:2012/11/27(火) 12:29:40.93 0
常に反発するのは心の病。無視するべきことは無視し、
捉える必要のあることは捉える。
相手をするならば相手の本意を確認し、相手の言葉で
それの矛盾を正す。

単に意見を言うのは小学生の言葉の使い方となんの違いも無い。
271考える名無しさん:2012/11/27(火) 13:05:41.16 0
>>270
そうしたければ自分がすればいいし、そうじゃないなら余計なお世話。
年寄りが、ここはわしの忠告を聞きなさい、なんて言うのはみっともないよ。
他人のけんかに口を挟むと巻き添えを食うよ。

火事と喧嘩は江戸の華。
楽しく見てるか、片肌脱いで自分も割って入るか。
煽り方にもコツがいる。

爺さん、ちょっと修行が足らないよ。
272考える名無しさん:2012/11/28(水) 00:49:55.25 0
主:吉本思想について解説してご苦労様て感じだけど、此方の立場はハイデガーとの関連でのみ
ここでは論ずることが主眼で、ああいう吉本思想紹介とか、やっているのはいいけど、此方はさほ
ど(笑)此方の問題は至ってシンプルであり、吉本でいう幻想とは歴史の疎外する超越的領域で
あり、それはハイデガーでいう〈有る〉がやはり超越的であるのとパラレルだっていう。そこで両者
の思想はよく見えてくるところがある、ていう、そこだけなのでね。それに「吉本はハイデガーを
関係ないと言っていた。それが全てである」と固執するなら言うことはない。此方の立場とは平行線
ということだ。
客:あと「君の話が通ずることはない」と断言してるが外れてるけどね。実際例としてはかつて
ハイデガー・フォーラムで壇上の講師と1o分近く対話してるし、ハイデガー研究の重鎮と言われ
る某名誉教授とも此方の読み方をぶつけ感想を尋ねたことがある。『哲学への寄与』と現代日本
社会の不思議な接近について、だけど、「そういう読み方はある。現代日本社会がもつ終末的風景が
あり、ハイデガー自身があの本で終末を描いている。だからそういう読めるところが出てくる訳
でしょう」という感想で、此方の読み方を解説してくれた感じがして刺激的だった。「通じない」と
いうことは何れもなかった。実際には通じた訳でね。いろんな研究者がいるのだから勿論通じない
こともあるとは思うけども話してみる迄解らんのだから、とは思うね。
273考える名無しさん:2012/11/29(木) 08:23:59.70 0
客:先のレスで吉本を講義していた男というのは吉本をアカデミズムが扱うとどうなるか、の見
本になるんじゃないか。曰く「原理的著作を読まない人間は語るべきではない」とか、要するに大学
やら学術関係者に特徴的な閉鎖性で囲い込み出している。「安易に触れるべからず」とでも言いた
げに。こうした象牙の塔への仕舞い込み、「安易に論ずるべからず」的な姿勢を吉本が好きな訳が
ないしアカデミズムに溶け込まなかった理由はこういうところに一つはあったのかとも思える。
主:吉本の読者といえば最近では糸井が有名で、ああいう身軽さを吉本が与えるとも思えたんだ
けど、それは実はそう単純ではなく、読者のセンスが関係してる。吉本を学術で囲い込み硬直して
しまう。ただの教材にしてしまう。そういう例だってあることが分かってきた。俺の場合、ハイデ
ガーで相互の相対化を図ることをやった訳だけど、それが良かったところもあると思う。
客:ハイデガーにアカデミズムで扱う限界が見えたりしたことはあったけど、吉本も例外ではな
いってことね。
主:原理的著作に関して言えば竹田青嗣みたいに読み込んでいながらオウム事件では吉本と小浜
の論争では吉本を「たわごと」呼ばわりするようにまで変貌した。原理的著作を熟読することが
理解の保証になる訳ではない。、読み方は自由で良いっていうのが吉本自身の意見でもあったと
思うけどね。
274考える名無しさん:2012/11/29(木) 09:14:06.23 P
結局この人の理屈って
・他人が何を言おうが、俺は絶対に正しい
・なぜならば、他の連中はすべて間違っているからだ
これだけなのよね・・・
275考える名無しさん:2012/11/29(木) 10:10:26.54 0
>>273
あのさ、哲学やってる俺には君のレスが義務教育すら終えてないような子供程度の
知能しかない人の書いたレスのようにしか見えないのです。

存在問題を一生懸命考えるのはたいへんよろしいことですが、
まずはその問題を解決するために必要な学問の基礎を学ぶのが
君にとっては大事なのではないかと思いますよ
276考える名無しさん:2012/11/30(金) 22:05:58.34 0
客:竹田青嗣の名前が出たついでに竹田の『ハイデガー入門』についても一言やってみよう。単刀
直入に言って『入門』は違うだろう、っていう感想がある。竹田の思想に引き寄せてるのが露骨に
出てる箇所の1つは、『存在と時間』にある個体の欲望相関的哲学を発展し、「普通の生活から人間
的価値(本当・良い・美しい)の必然性を根拠付ける」ことが出来ればよかったが、後期になるに
従い主体性の批判、存在を贈る彼岸、になる。それがせっかくの思想の可能性を奪った。しかし
そういう竹田の思想を読んでいると、他人から承認されてるもの、ないし社会の承認、公共的に
通用しなきゃならないことが価値の前提条件にあり、竹田の思想としては解るがハイデガーの思
想、問題、「〈有る〉とは何か」とは違うしハイデガーから見ると公共的承認に偏り、かつ主体性の
哲学であり、いわばリベラリズムへの溶かし込みに過ぎないのではないか、という批判が来そう
に思えるんだな。換骨奪胎してはいかん、と。
主:後半に『存在と時間』の要旨を纏めてる箇所があるんだけど、1番に「人間の実存は個的な実存
ではなく、根源的な共存在である」というのが来る。で、「本来的な実存とは、歴史の中での善きこと
を自覚しつつ、しかも共存在として(共同体・民族の一員として)「善きこと」のあり得るをめがけ
て生きることである」となる。実は共存在っていうのは実存範疇としての世界に於て「我」や「汝」が、
意味付けられることでもある。単に他人と共生することではなく、それさえ実存領域と言っていい
。因みに主観や客観が意味付けられるのも実存範疇としての世界になる。どうも竹田の読み方は
共存在でさえが実存範疇ってことを読めてない。実存ではあるが社会的、という意味付けでのみ
読んでいる。共に有ることであるが、それさえが世界に内存在することとい意味付けされる。
277考える名無しさん:2012/11/30(金) 22:54:32.97 0
例えば今のイジメ問題でも、加害者と被害者(自分)というのは単に相対するだけじゃな
い。内存在として理解されてしまう。そこで子供の世界、というのがどういう理解をして
しまうかが被害者の自殺やイジメの集中とかに影響してしまうことが考えられる。つい
でに「善きことを共存在ー共同体や民族ーとして追究し生きることを訴えている」という
ところも共存在が実存範疇の媒介なしに共同的に捉えられ、これこそファシズムじゃな
いの、民族主義じゃないの、というひどいことになっている。実存思想としての深度が
掴めていないんじゃないかね。


主:>共に有ることであるが、それさえが世界に内存在することとい意味付けされる。

は書き直すと〈共に有ること〉ではあるが、それさえが世界に内存在すること、という意味
に媒介されてしまう。他者でさえが個体の有の理解によって理解されてしまう。という
意味になる。「我」「汝」でさえがそうである。個体の事実性としてそうなっている、という
のがハイデガーの言いたいことであろう。
278つくだに:2012/12/03(月) 23:02:05.60 0
オナニーポエムはブログでやってろこの精神病
279考える名無しさん:2012/12/14(金) 23:51:48.86 0
客:創文社版の日本語版ハイデガー全集が出たのって何時かっていうと1985年じゃないかと思う
んだけど、もう相当な巻数になって。この全集で初めて訳されて出た講義や草稿もある。既に理想
社選集で出ていたものもあるけども、改めて翻訳し直され、読みやすくなったものもある。『「ヒュ
ーマニズム」に関する書簡』とかね。理想社版の訳は確かに解りにくい。あれに比べれば創文社版
は用語が変わってることはあるけど解りやすくなったと思う。
主:創文社版の用語が良くないって意見はあったけど、俺はそうは感じない。むしろ「存在」とか、
ハイデガーの意味付けが為されてることが取りやすいという意味で、むしろ良いと思える。それ
と、あの創文社版全集でハイデガーに初めて接した、という人が既に居ると思うんだけど、そうい
う人間にとって、さほど抵抗もないと思うんだけど。
客:ハイデガーの場合、seinの訳語とかで木田元も批判のしてたからね。だけど、新しい世代に
とって、さほど大きい問題でもないんだよ。問題はハイデガーの問題意識をどこまで読み手が
受け止め、詰められるか。いつもそこにあるわけだから。
主:ただ木田元の訳した『現象学の根本問題』は実際に聴講した人間の書いた速記も使われて、そこ
は貴重とは思うけど。だけど創文社版全集があるか否かでハイデガー理解の質は違ったと思う。
創文社って会社、よく知らなかったけど、この事業については意味は大きい、と言うべきだろう。
客:『哲学への寄与』の頃の覚書がまだあるということなんで、あれも楽しみじゃないかね。どんな
ことを書いてるか。
主:ミシェル・フーコーがハイデガー用の大量の読書ノートを作ってたらしい。ハイデガーという
内壕、フーコーという外壕っていう関係がますます見えてくるね。
客:〈有〉と〈有の忘却-主体化-〉。フーコーがハイデガーをずっと念頭に置いていたのは明らかで
はないかということね。
280考える名無しさん:2012/12/15(土) 00:19:05.28 P
まるで波平レベル
281考える名無しさん:2012/12/16(日) 15:33:17.98 0
客:竹田青嗣の『ハイデガー入門』の一番の問題点があるとすれば、p.156辺りに書かれてる、ハイ
デガー用語の「宿命」(翻訳によって「運命」)を、《「宿命」とは、人間が自分の本来の存在可能性を、
その具体的な目標として見い出すことだ。》とする点が1つ。いかにも主体的な概念のようにあつ
かわれてるが、実は〈既有的に将来する〉という歴史把握抜きにこの辺の思索は捉えられない。ハ
イデガーの歴史思索の、また本来性の、肝心要が外されて、いかにも竹田のような市民主義が
言いそうな歴史性に脱色されている。これじゃあどうしようもない。2つめ。p.154に竹田は、こ
う書いている。《つまり、人間存在の本来的な可能性は、ある何らかの善き「遺産」を「伝承」しようと
する心意としてはじめて具体的なものでありうる。》同じ節でハイデガーは、《(本来的反復は)「過
ぎ去ったもの」に説得されて、そのものを以前に現実的であった通りにただ回帰せしめんとする
ことにはならない。》としている。《反復を我々は、(中略)実存の本来的経歴の内にもっているので
あり、実存の本来的経歴は現有の将来から発現する。》この《将来》とは、《現で既に有った実存の〈内
に含まれている〉可能性に応答する。》っていうのがハイデガーの本来性の要になる。しかもこれは
《如何なる歴史学をも必要としない》つまり事実性として考えられる、としている。
主:竹田の言うように主体的でもなければ、回帰的でもなければ、共同体主義でもない。共同体と
は個体の集まり、すなわち個体の合一性として考えてはならない、と釘をさしている。特に『有と
時』第74節というのはハイデガーのナチ加担の根拠とされることの多い節で、竹田の読解も典型
な訳だけど、実は共同体のレベルと個体のレベルには差異がおかれている。そこは言われることは
はほとんどないけども。「ナチ加担」にズルズル引き摺られてしまう。竹田は典型的だよ。
282考える名無しさん:2012/12/16(日) 16:31:08.13 0
一番くじNavi導入してると店舗検索公開される前(だいたい一ヶ月前)から商品を登録できるようになるんだよ
発売日も勝手に登録されるんじゃなくて、
一ヶ月前くらいにバンプレから店に入荷日が通達されるから、
それをもとに店側が各自登録するってシステム
だから、数週間前に黒子の入荷日が連絡されて店舗はそれを公開したってだけだから
直前になって発売延期はありえるよ
現に未だに店舗検索公開されないし…
283考える名無しさん:2012/12/16(日) 19:56:18.84 0
>>281
マジな話あたしって霊能師なんだけどぉ
ハイデガーとあなたのことしゃべったらぁ
童貞にはオレの哲学は分からんって爆笑してたよ
あたしもぉ童貞なのに存在語る人は生理的に無理です!><
284考える名無しさん:2012/12/16(日) 20:38:26.95 0
主:竹田は『ハイデガー入門』の中で、ナチ加担を絶えず念頭に置いて読もうとしている。しかし、
『有と時』を読んでいると、竹田とかがハイデガーの政治の根拠としている箇所は共同体の原理と
かではないいわゆる現有の歴史性の〈既有的に将来する〉もの、〈既有的な可能性に応答する〉こと
を何とか言い表そうと苦闘した箇所だと解る。例えば竹田がいかにもナチ加担の原理のように
取り上げる「遺産」「伝承」とか、個体レベルに於ける、共同体でも民族ではない本来性の発見の根拠
として読める。しかも少なくとも『有と時』に於いては共同体と個体の位相は異なることが自覚
されていると読める箇所はある。これをナチ加担の根拠とするのは無理がある。共同体の革命と
いうのが考えられてはいない訳ではないが、これも主体的ではない。また行動的でもない。ここ
から竹田のようにナチ加担を引っ張ってくるのは無理がある。
客:どこまでもナチ加担の根拠が『存在と時間』にある、とするのが竹田の読解だから、むしろその
手付きの曲解さが見える。これを『ハイデガー入門』には出来ない。肝心要の箇所が読めないのだ
からね。
285考える名無しさん:2012/12/17(月) 00:26:49.90 0
>>284
読み方をどう変えても、ハイデガーがナチに加担した事実は変えられない。
どういう哲学に基づいてナチに加担したのか、あるいは自身の哲学とは関係なく、たんに自己保身のために加担したのか、のどちらかだ。

それを明確にしないと、他人の理解を否定することはできないだろ?
まず、自分の立場を明らかにすることが必要だよ。
286284は:2012/12/17(月) 06:56:26.75 0
┏━━━┓    ┏┓      ┏┓ 
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287考える名無しさん:2012/12/18(火) 11:50:34.86 0
客:ハイデガーのナチ加担の真相とか、既に相当本人からも、自分の哲学へ引っ張って行くことが
できると考えた、また時流に逆らえないこと、も当然ある。大学の自治の為に頑張れるのは自分し
か居ないとなればやらなきゃいけない。大体1930年代の草稿で「民族」は現有と等号として使われ
る。民族の実体に融けることで現実の不満を満たすことのダメさまで語られる。しかし、そんな
ことより、ナチやナチ加担を断罪することの絶対的正義を謳うことと、ナチやナチ加担の絶対的
正義を謳うのも、等価だとすることの方が重要で、ファシズムとスターリニズムを同様に批判し
得る思想の必要性を論じることの方が重要だよ。かつて2000以降に吉本が論じた存在倫理という
概念の意味もそこに有った筈だ。
主:どうせナチ加担の断罪をやるなら返す刀で市民主義やスターリニズムの批判まで進むべき、
ってことね。でなければ思想の停滞と通俗性に落ち込むのは目に見えてる。
288考える名無しさん:2012/12/18(火) 12:00:48.21 0
>>287
>ナチやナチ加担を断罪することの絶対的正義を謳うことと、ナチやナチ加担の絶対的正義を謳うのも、等価

等価ではないだろう。
等価なら、「市民主義やスターリニズム」の批判も加担も等価だということになる。

前後の論旨に矛盾をきたしている。

すべてを等価とするなら、社会の共同性に対する評価自体がありえないことになる。
つまり、社会の体制や法律はどうでもいい、ただ自分の立場(学長としての立場)だけ守れればいい、ということになりかねない。

もう一度、君の考え方を整理して欲しい。
289考える名無しさん:2012/12/20(木) 23:55:00.61 0
客:歴史喪失というのが現代人の特徴で、大学教師みたいな人間も例外ではない。ハイデガーの
研究は大学外も巻き込んで盛んにやられてる訳だけど、そこでハイデガーの問題意識がどこまで
詰められるかは知の党派である大学関係者には限度があるんじゃないか?党派の特徴として、
かつて『有と時』でハイデガー自身も〈自己への見えなさ〉とした〈自己点〉をあげてもいい。
主:そういうこととまた別に問題の指摘をしたいんだけど。ハイデガー研究会ってところが最近
出した本に『科学と技術への問』という本がある。そこで「芸術と学問」っていう論文があるんだが、
そこに読んでて「?」という箇所がある。論者は「ハイデガーの芸術規定は古代ギリシャ以来の芸術
本質を決定的に否定するものである。」としている。ハイデガーの芸術論といえば、『芸術作品の
根源』が有名だけど、あれはよく読めば決して狭量な理論ではない。芸術とは真理の作品化である
、という芸術規定にせよ、拡がりも深みも備えたもので、この論者の言っているようなことはどこ
にもない。
290考える名無しさん:2012/12/20(木) 23:57:35.23 0
元々『有と時』から、芸術作品というものを〈有の開け〉として捉えることを可能にする、
そういう読み方を可能にする本でもあった。だからこそ現代の芸術家たちがハイデガーを認める
ようになったところがあるんじゃないか。〈有の開け〉は『芸術作品の根源』では〈世界と大地の闘い
〉になる。これは言葉は違うけど同じとみていい。歴史の地層が覆蔵するところから世界が現成す
る、そういう関係を言っている。同じことだ。ちっとも変化はしてないんだ。現代芸術家を否定
しているところなどないよ。論者は「現代芸術家の主観主義を否定する」とも言うけど、「主観主義
」というのは歴史の忘却であって、「自分の技術的な独創」だと解する歴史の喪失を批判したものだ
。しかしそこで現代芸術家そのものまで否定はしないよ。そういう思想ではない。論者は誤読して
るんだ。こういう論者が言っているよりも遥かに普遍的だし、拡がりも深みのある思想だよ。
客:すごく狭量な思想として読んでる訳ね。それこそナチ加担を背景にして、かもしれないが。
主:そこが違うって思うね。
291考える名無しさん:2012/12/21(金) 11:06:48.76 0
>>290
>>288の指摘は無視する?
292考える名無しさん:2012/12/21(金) 18:44:39.45 0
>>290
ここはおまえの日記帳じゃねーんだよ
精神病院に入ってろこのキチガイが
293考える名無しさん:2012/12/24(月) 04:42:50.09 0
客:共同性について、『有と時』の言い方に倣えば、意識的に合一しなきゃならないような共同体
など問題にはならない。共同性というのは一人一人の本来性が求められる中で導かれるものであ
る。共同体に合一することで何かが埋められる等という捉え方を否定するのだから。ナチズムに
関して言えば、反ナチズムを謳うことが別の党派への加担を意味することになる。ナチズムを踏
み絵にして新たな党派への認証になる。それがナチズムを巡る昨今の状況なわけだ。典型的なの
が左翼でありリベラルであり市民主義だ。ナチズムを試金石として成立する共同性なわけだが、
新たな党派性の証明書として反ナチズムが使われる。これが状況なわけだ。である以上、ナチズム
を絶対悪として批判する共同体もまた批判する必要が出てくる。ハイデガー的に言えば現代的な
忘却と困窮の形態としては同一な訳だから。
294考える名無しさん:2012/12/24(月) 05:04:04.03 0
読めてないハイデガーガーって哀れそのものだな
295考える名無しさん:2012/12/24(月) 16:05:12.34 0
主:吉本の麻原評価への断罪といい、社会道徳的批判としてそういうものが出てくるのはまあ
解るとして、世の論檀というのがすべからくそういった声に大政翼賛的に同調するというのがあ
からさまだった。ハイデガーの『哲学への寄与論稿』にしても、渡邊二郎が病床で重要性を訴え続け
たにもかかわらず、渡邊没後の研究では未だにあれがリアリティーを備えたものだというところ
は触れずに済ましている。とんでもない話で、高田珠樹が典型的だけど、いかにも触れたくない
のがみえみえなんだな。お粗末というか(笑)小心というか。〈根源の歴史が有るものとの交換の拒絶
を開け、贈与する〉〈底無しの深淵を開ける〉とか、サリン事件に繋がる〈使い途のない否定性〉を
ストレートに言い表している概念とも言える。また、ナチズムがハイデガーからみればまだ現代的
な効率主義であり工作機構であったことも伺える。色んなことが読める本だが、ハイデガー研究も
公共性に呑み込まれたことの象徴に見えるんだけどね。無難なことしか言えなくなってる。
296考える名無しさん:2013/02/12(火) 05:56:19.76 0
守中高明 ‏@ladissemination
古井由吉論のために必要があって後期ハイデガーの論文いくつかを読むが、創
文社版の全集では、かの≪Ereignis≫をことごとく「性起」と訳しているのに
辟易する。この訳者たちは「性起」が華厳宗における純然たる佛教概念である
ことを知りつつそうしているのだろう。
守中高明 ‏@ladissemination
≪Ereignis≫を「性起」と訳したり、≪wesen≫を「現成する」などと訳すの
は、京都学派の末裔たちによるハイデガーの横領と言うべきであり、自民族中
心主義的な恥知らずの翻訳の典型である。そして、その種の訳語を無批判に援
用する他のヨーロッパ系哲学の研究者たちも同罪である。
297考える名無しさん:2013/02/16(土) 16:10:51.56 0
デリダだの脱構築だのと言ってる奴がバカが多い
298考える名無しさん:2013/02/18(月) 15:04:00.60 0
自民族中心主義的とか意味不明
バカじゃねえの
299考える名無しさん:2013/02/22(金) 19:42:14.75 0
仏哲研究者の99%は馬鹿です
300考える名無しさん:2013/03/19(火) 07:15:28.12 0
http://homepage3.nifty.com/BANBAN_MD/public/Bpage/sekainai.htm
これってただのカントだろ?
301考える名無しさん:2013/03/19(火) 18:56:09.11 0
幻戯書房NEWS 2013年 03月 13日 4月の新刊情報 3点 【4月22日頃刊】 何を、なぜ、保守すべきなのか 保守主義の要諦を集成 西部 邁 著 ■保守の辞典
四六上製/336頁/本体2000円 ISBN978-4-86488-022-0 保守主義の要諦を43の項目をあげて論じ、解き明かし、知のありようを問う。 「表現者」巻末連載(2005年〜2013年)
本文より 《ハイデッガーの高尚哲学に言及しながら、ハイデッガーが注目したバークの常識哲学(「保守するための改革」という真理)にまで遡及することができず、
ましてや保守主義の意義について刮目することなど及びもつかない、というのは我が国の知識人が知識をみずからの精神の血肉としていないことの証拠といってよい。》
http://genkishobo.exblog.jp/18151505/
302考える名無しさん:2013/04/20(土) 15:05:41.96 0
熊野訳買った?
303考える名無しさん:2013/04/20(土) 23:05:20.82 0
値段がきついが、ちゃんと揃ってから買おうかな

関係ないけど、哲学への寄与、そろそろどっかが文庫にしてくれないだろうか
304考える名無しさん:2013/05/09(木) 19:11:01.33 0
 熊野純彦訳の『存在と時間』(岩波文庫)は買う予定はないなあ。桑木務訳が役目終了とされて新
世代が採用されたということかな?既に何種類も出てるからね。岩波書店も難しい商売をするね
。それより創文社の全集の新刊が何になるかの方が気になるな。
305考える名無しさん:2013/05/09(木) 19:35:36.06 O
いくつも翻訳本読む時間があるならドイツ語勉強して原書読めばいいのに(存在と時間の話な)
306考える名無しさん:2013/05/09(木) 23:09:42.02 0
熊野が仕事する度に便乗でアピールする取り巻きウゼー
307考える名無しさん:2013/05/28(火) 14:29:48.97 P



http://polylogos.org/philosophers/arendt/heide.html
ハイデガー狐
(ハンナ・アレント、中山 元訳)


 ハイデガーは誇らしげに語る−−「人々はハイデガーが狐だという」。
よろしい。それではハイデガー狐の本当の話をお聞かせしよう。


 昔むかしあるところに、一匹の狐がいました。この狐は悪智恵を働かせる
ことがまったくできないために、いつも罠にかかってしまうのです。それは
なんと、この狐は罠と罠でないものの区別ができないからです。



「とてもたくさんの狐がぼくの罠を訪問してくれるので、ぼくは世界で最高
の狐になった」。そしてこれは必ずしも間違っているわけではありません。
一生をかけて罠の中に座っている狐ほど、罠についてよく知っている狐はい
ないからです。


注:ハイデガーに、そしてハイデガーの思想の構造に対する愛憎のこもった
この文章は、アレントの1953年の『思考メモ』に収録されています。
Arendt:Essays in Understanding 1930-1954, PP.361-2から。
308考える名無しさん:2013/05/29(水) 19:13:35.80 0
難しいことを難しく書いてる時点で、文才はないよね、この方。
309考える名無しさん:2013/05/30(木) 02:07:05.12 O
哲学者ってみんな罠にかかって一生を終える人間だろ
のちの人間がそれを引き継いでまた自分の罠にかかる
ハイデガーだけじゃない
310考える名無しさん:2013/05/30(木) 02:08:52.28 O
>>308
いや、人を夢中にさせる何かがあるという点では大した文才だよ
311考える名無しさん:2013/05/30(木) 12:01:22.75 0
>>310
誰か夢中になってるの?
312考える名無しさん:2013/05/30(木) 12:43:03.62 O
>>311
大勢を夢中にさせたからこんなに有名なんだろ?

ここでは「夢中」を二つの意味で考えることも大事
313考える名無しさん:2013/06/01(土) 18:09:34.76 0
189 :考える名無しさん:2012/07/11(水) 11:20:13.67 0
しかしハイデガーは言葉を言葉でいじくりまわす哲学者の
一番醜悪な部分の完成形でもある
314ハイデッカーw:2013/06/01(土) 19:55:42.90 O
↑うるせーバカ!
315考える名無しさん:2013/06/01(土) 22:28:21.79 0
哲学が哲学として成功するためには、決して社会の既存の権力構造に
取り込まれてはならないが、哲学をする人間が哲学者として成功する、
つまり、社会に哲学者として認知されるには、必然的に既存の権力
構造に取り込まれなければならない。
316考える名無しさん:2013/06/02(日) 07:36:54.94 O
凡人の「である」調ってなんか滑稽だよな
317考える名無しさん:2013/06/03(月) 02:34:50.61 0
確かにニャンコは凡人でない。
「我輩は猫である」
318考える名無しさん:2013/06/03(月) 03:07:12.63 O
ツマンネ
319考える名無しさん:2013/06/03(月) 08:01:43.85 P
http://polylogos.org/philosophers/arendt/heide.html
ハイデガー狐
(ハンナ・アレント、中山 元訳)

 昔むかしあるところに、一匹の狐がいました。この狐は悪智恵を働かせる
ことがまったくできないために、いつも罠にかかってしまうのです。それは
なんと、この狐は罠と罠でないものの区別ができないからです。



「とてもたくさんの狐がぼくの罠を訪問してくれるので、ぼくは世界で最高
の狐になった」。そしてこれは必ずしも間違っているわけではありません。
一生をかけて罠の中に座っている狐ほど、罠についてよく知っている狐はい
ないからです。
320考える名無しさん:2013/06/03(月) 15:35:15.67 0
>>319
>一生をかけて罠の中に座っている狐ほど、罠についてよく知っている狐はいない

これは間違いだね。
中にいる人間には中の構造はわからない。

こんな簡単な勘違いをするハンナ・アレントって、どこの誰?
321考える名無しさん:2013/06/03(月) 15:43:46.80 0
騙されたらどうして騙されたか考えるんじゃない
そして哲学者ならその構造を分析するんじゃない
輪からでられない理由を考えるんじゃない
でも構造がわかったからってでられるわけじゃないけど
そこで実存論的分析が重要になるんじゃない
322考える名無しさん:2013/06/03(月) 15:52:57.61 0
>>321
騙されていること自体に気がつかない。

それが構造の中の人間。
323考える名無しさん:2013/06/03(月) 15:54:06.52 0
>こんな簡単な勘違いをするハンナ・アレントって、どこの誰?

罠に仕掛けられた餌じゃない?
アーレントはハイデガーの愛人。共産主義工作員兼反共工作員を
二番目の夫としたシオニストの自称ユダヤ人。
324考える名無しさん:2013/06/03(月) 15:58:37.74 0
>>323
回答ありがとう。

哲学的な、思想的な、どこの誰かも付け加えてくれると、さらにありがたい。
325考える名無しさん:2013/06/03(月) 16:09:35.97 0
多くのことが戦後も続く国家機密にかかわっているので秘密のまま。
公開される資料は、その影響を考えて厳密に選ばれているはず。
そうした資料をもとにして推測や憶測を重ねても、印象操作で
誘導されているに過ぎないのかもしれない。
326考える名無しさん:2013/06/03(月) 16:10:16.79 0
>>322
ハイデガーの著作と罠をかけてると思うんだけど
そういうことでしょこのアーレントの文章は?

>騙されていること自体に気がつかない。

それが構造の中の人間。

構造を突き詰めていったら構造や論理に偏ることは無意味だと気付いてもおかしくないけど?
そうすると構造からでるんじゃないの
327考える名無しさん:2013/06/03(月) 16:27:22.08 0
>>326
自分が愛人であり続けたことへの、自分に対する言いわけでもあり、慰めでもあり、冷笑でもある

一匹の狐というのはハンナ自身のこと。
罠というのは、もちろんハイデガー自身のこと。

あとから出てくる狐はハイデガーを含めた哲学者たち。
ハイデガーは罠を作る大狐である、と。

構造というのは、現実の社会、ナチスであり、ユダヤであり、敗戦のこと。
そして、戦後社会そのもの、でもある。
328考える名無しさん:2013/06/03(月) 16:41:18.71 0
>>327
サンクス
329考える名無しさん:2013/06/05(水) 19:03:52.92 0
しかしハイデガーは言葉を言葉でいじくりまわすケツネの
一番醜悪な罠の完成形でもある
330考える名無しさん:2013/06/05(水) 20:05:09.49 0
言葉や観念を弄繰り回していろんな想像を掻き立てるハイデガーのスタンス
別に嫌いじゃないけどね。無駄な屁理屈はそんなに書いてないでしょ。
331考える名無しさん:2013/06/05(水) 20:33:53.35 0
無駄な屁理屈を書かないぶん、空虚なオレサマ用語の羅列で水増ししてる
332考える名無しさん:2013/06/05(水) 20:41:55.29 0
>>330
無駄な屁理屈しかないだろ?

存在者と存在は違う、とかさ。
333考える名無しさん:2013/06/05(水) 20:48:50.21 0
理屈だけで考えたらハイデガーは読めないんじゃないの?(理屈だけで読んでも本当の価値はわからない)
死に至る病を理屈だけで読んだらつまらんだろうなってのと同じ感じがしてるんだが
334考える名無しさん:2013/06/06(木) 19:38:24.18 0
まさしく「考えるな、感じるんだ!」の世界。
主観と気分と情念だけの文学世界。
335考える名無しさん:2013/06/06(木) 20:14:44.83 P
ハイデガーとサルトル

ハイデガーとサルトルの思想の根本的な差異は何でしょうか?

ベストアンサーに選ばれた回答

サルトルは、「本質的存在が事実存在に先立つ」という伝統的形而上学の
テーゼを逆転させて、「事実的存在が本質的存在を規定する」と主張して、
形而上学の克服をはかる「実存主義」の根本テーゼとして立てたのですが、
ハイデガーはこの主張を嗤って、「形而上学的命題を転倒させても、それは
所詮一個の形而上学的命題にすぎない」のであり、必要なのはむしろ、
<本質的存在としての存在>と<事実的存在としての存在>という存在の
二義的区別がいかなる存在の命運から生じたのかを問うことであり、
そうすることによって、始原の「単純な存在」の近みに立つことだと、
「ヒューマニズム書簡」という論文で書いているそうです。
336考える名無しさん:2013/06/06(木) 20:42:45.04 0
>>335
存在に本質があるなんてこと自体が、すでにエンゲルスによって否定されているからね。
本質というのは物の見かたに過ぎない、と。

サルトルも多分それを踏襲している。

ハイデガーはエンゲルス以前に、というより、ヘーゲル以前の神学的観念論に戻そうとしただけだ。
337ジャップ ◆.EDMOUBKE2 :2013/06/06(木) 21:26:33.58 O
ハイデッガーばかりナチとの関係を言われて、何でニーチェは
スルーするんだ?

バカか?
338考える名無しさん:2013/06/06(木) 21:38:49.12 0
実存的なキリスト教信仰が核にあるって感じで読むと解釈しやすいんじゃない?
本質というよりあえて傾向性があるって言い換えた方がよさそうだが
339ジャップ ◆.EDMOUBKE2 :2013/06/06(木) 22:19:33.20 O
どっちにしろ、ナチ党入党の頃に形而上学に向かって転向した後の
ハイデッガーはツマランが。
340ジャップ ◆.EDMOUBKE2 :2013/06/06(木) 22:24:54.32 O
それを逆さまに有り難がってるトンチンカンがいる。

合理主義や形而上学を解体しようとする転向以前の『存在と時間』が
なかったらハイデッガーなんて読むに値しない。
341考える名無しさん:2013/06/07(金) 00:44:56.59 O
哲学は言葉遊び。
哲学科なんかに行ったから、貴重な大学生活を台なしにしてしまった。
342考える名無しさん:2013/06/07(金) 02:16:29.26 0
ゴールを知ってれば分かりやすい
ハイデガーの書物自体から何かを得ようするのは非効率じゃないか
ハイデガーの書物自体に答えなんて書いてないんだからあるのは標識だけ
343考える名無しさん:2013/06/07(金) 09:02:23.01 0
言葉の向こうに「現実」があるとする考えこそ、
ハイデガーが否定したものなんだけれどなー

「言葉は存在の家である」(ヒューマニズム書簡)。

言葉こそが現実であり、力なんだよ。
344考える名無しさん:2013/06/07(金) 10:47:10.64 0
家はあくまでも家だよ
345考える名無しさん:2013/06/07(金) 13:07:41.90 P
houseが現存在でhomeが存在

ただしハイデガーは最終的にはこれを逆転させる
346考える名無しさん:2013/06/07(金) 17:09:23.15 0
>>345
それはいくらなんでもw
347考える名無しさん:2013/06/08(土) 21:25:43.46 0
>>336
>存在に本質があること自体がすでにエンゲルスによって否定されている。

>サルトルの「事実存在が本質存在に先立つ」という命題は、「事実存在(主観=私)が本質存在(絶対者=神)
 に先立つ」と解釈出来る。

 ハイデガ−は、命題を転倒させても形而上学的論理は変わらないし、主知主義(主観主義)としての形而上学的
 命題であることには変わらない。と、述べている。
 ハイデガ−は「本質存在としての存在」と「事実存在(主観的存在)としての存在」に対して二義的区別が、
 いかなる存在の命運から生じたかを問うており、始原の「単純な存在」の近みに立つことだと述べている。
 この「単純な存在」とは、メルロ=ポンティの「身体性=未分化領野」の概念と同義であると思う。 しかし、
 ハイデガ−の場合は、「世界−内−存在」という現象学的命題により、「自分に先立って、すでに一つの世界の
 中に存在する」と述べている。 ハイデガ−の「世界」の概念は、デカルト的な「主客二元論」に於ける客観的存在
 ではなく、フッサ−ルと同じ様に「構成的内在(主観的領野)」と同じ概念と解釈している。
 フッサ−ルが、「構成的内在」を認識論の立場から論理構築しているのに対して、ハイデガ−は「構成的内在(主観
 的領野)」を、存在論の立場から論理構築をしている。 この概念は、マッハの「感性的要素一元論」の概念と類似
 している。
 
 サルトルそして、ハイデガ−の「命題」は00に先立つと言う「優越的存在論」を基底としている。
 ハイデガ−が、述べている「始原の単純な存在」とは、主観と客観の未分化領野(純粋経験)であり、「00に先立つ」
 という概念自体が存在しない領野である。
 そして、ハイデガ−の存在論は、デカルト的「超越論的主観(私)」を基底とした、「主客二元論」の克服を視野に
 入れた哲学であり、ヘ−ゲル以前の神学的観念論とは、本質的に異なっている。
348考える名無しさん:2013/06/08(土) 23:02:46.81 P
ハイデガーが偉そうにできたのは
アリストテレスを知っていたからだ
そこはヘーゲルもおなじだが、
ヘーゲルよりもハイデガーはギリシア語が出来た
単に言語能力の問題なのだ
言語能力がなければ詩人にもなれない
349考える名無しさん:2013/06/08(土) 23:46:01.62 0
>>347
>本質存在としての存在

エンゲルスは、それを否定してるんだが。
350考える名無しさん:2013/06/09(日) 00:06:07.74 0
エンゲルス万能説
351考える名無しさん:2013/06/09(日) 00:13:44.23 0
>>350
>本質存在としての存在

などと言うものを設定することが、意味のない空論だと言ってるんだよ。
352考える名無しさん:2013/06/09(日) 00:15:50.39 0
経験より情報が先にきたら、だから何? って感じになるだろ
経験しないで息をしたからなんなんだよといってるようなもんやで
353考える名無しさん:2013/06/09(日) 00:17:10.28 0
例えが難しいな
ようするに食わず嫌いってことだな
354考える名無しさん:2013/06/09(日) 10:28:52.17 0
これから存在と時間の英訳を買いにいって来る。
355考える名無しさん:2013/06/09(日) 10:41:59.03 0
ハイデガーは誰に向かって何の為に本を書いたのか。
356考える名無しさん:2013/06/09(日) 10:45:29.94 0
知識人に向かって、権力に従わせる為に。
357考える名無しさん:2013/06/09(日) 10:48:23.16 0
へーゲルとかカントはその辺りがなんとなく分かりやすい。ああ、これは実践家に活用されるなというか。
ハイデガーはそこが分かり難い。
358考える名無しさん:2013/06/09(日) 10:51:10.16 0
近代哲学は結局実践というか主体の行動規律に帰結するような所があると思うんだよ。
ハイデガーは、図式に当てはめようとしても中々当てはまらない。実存哲学の起源の様に位置づけられてるけども。

どうも近代哲学とギリシア哲学よりな気がする。
359考える名無しさん:2013/06/09(日) 10:53:30.24 0
○ハイデガーは、図式に当てはめようとしても中々当てはまらない。

いやギリシア哲学の方が近代哲学者よりもより徹底的に、つまりは存在論敵に、「いかに生くべきか」を追求したという事なのか。
360考える名無しさん:2013/06/09(日) 10:54:29.24 0
○どうも近代哲学ではなくギリシア哲学よりな気がする。
361考える名無しさん:2013/06/09(日) 10:56:54.11 0
ハイデガーとニーチェは似ていると思う。
両者ともに行き着く先はエロスか。
362考える名無しさん:2013/06/09(日) 10:58:09.31 0
実践志向が強いが故に、全く実用的でないというか。
363考える名無しさん:2013/06/09(日) 10:59:06.04 0
道具製を突き詰めた結果、それが人間のキャパを超えてしまったというような印象。
364考える名無しさん:2013/06/09(日) 22:15:27.22 0
>>349
>本質存在としての存在
 エンゲルスは、それを否定している。

>「事実存在が本質存在に先立つ」という命題は、事実存在を「主観的存在=コギト」又、
 本質存在を「客観的存在」として捉えている。
 この捉え方は、デカルト的「超越論的主観(私)」を基底とした「主客二元論」より論究している。
 
 デカルトによって創出した「主客二元論」の問題(主観と客観の一致)は、スピノザ、から今日まで
 多くの哲学者が、「主観と客観」の一致を試みたが、以前、解決されていない。 フッサ−ルとハイデガ−は、
 この「主客二元論」の克服を一つの目標として、現象学の立場から解決を試みたのである。この「主客二元論」の
 解決は、デカルトによって創出した「超越論的主観(私)」の次元から解決を試みるよりない。フッサ−ル自身も
 その事を痛切に感じて「現象学」の立場から、デカルトの「コギト」より解決を試みているのである。

 エンゲルスの「弁証法的唯物論」が、論理構築された経緯は、ヘ−ゲルの世界創造の原理と根拠を、神やコギトに見る
 ドイツ観念論の体系を「転倒」させて、神やコギトに「物質」や「自然」を置き換えた一元論である。従って、その本質は
 唯物論という名のもとの観念的形而上学(本質存在の領野)である。
365考える名無しさん:2013/06/09(日) 22:23:01.66 P
>主観と客観の一致

こんなのデカルト以前からある真理観の問題なのに
この手の大ぼら好きな人ってどうして哲学史の常識がないんだろう
366考える名無しさん:2013/06/09(日) 22:40:25.81 0
デカルトが提起した、近代哲学の「認識の謎」を知らないのだろうか。
367考える名無しさん:2013/06/10(月) 00:06:03.23 0
存在と時間の英訳版を購入してきた。種類の違うのを二冊。
やはりハイデガ−はおもしろい。
主体も認識も幻想かもしれないが、存在はそうではあり得ない。
存在を脱構築することは不可能だろう。
368考える名無しさん:2013/06/10(月) 00:07:28.86 0
ハイデガ−は現存在一元論じゃないの?
369考える名無しさん:2013/06/10(月) 00:12:06.56 0
>>366
なに、その「認識の謎」って?
370考える名無しさん:2013/06/10(月) 00:15:40.61 0
>>367
その存在って、神(絶対者)のことじゃない。

なにがおもしろいの?
371考える名無しさん:2013/06/10(月) 00:17:00.96 0
え?現存在って現実の人間を煮詰めて出来た概念でしょ?
372考える名無しさん:2013/06/10(月) 00:26:03.93 0
>>370
現存在と存在は全く違う概念だよ。
373考える名無しさん:2013/06/10(月) 00:26:50.96 0
>>372はアンカーミス
>>371あて。
374考える名無しさん:2013/06/10(月) 00:29:17.24 0
え?俺存在と現存在が同じものだとは一言もいっていないけど。
現存在とは自らの存在との係わり合いにおいて自らを規定するそんな存在者でしょ。
375考える名無しさん:2013/06/10(月) 00:34:21.76 0
>>374
かみ合ってないな。

「存在と時間」での存在は神のことで、神の世界にいるから現存在。
376考える名無しさん:2013/06/10(月) 00:45:43.25 0
日本人はキリスト教を馬鹿にしてるから
実際に教義を調べたりしないんだろうな
情報が先にくるばかりで経験をおろそかにする

だから絶対者概念を文字や論理の中だけでこねくりまわして主知主義に陥り
ハイデガーの罠から抜け出せずハイデガーを詐欺師呼ばわりするんだな
テキストの中自体には答えがないので的外れでもないが
377考える名無しさん:2013/06/10(月) 07:54:54.14 0
中世以来もうキリスト教と哲学はほんとに深く結びついてるんだよな
他者とかハイデガーの現われつつ隠れるものはようは神の話を別の角度からやってるといえる
ハイデガーと彼以前以後のドイツ神学という視点が案外日本人にはかけてる
378考える名無しさん:2013/06/10(月) 11:20:57.97 0
>>369
>デカルトが「方法的懐疑」という思考法によって、これ以上疑うことの出来ない
 不可疑な領野としての「超越論的主観(コギト)」より、 その「外部」に在る存在を
 「客観的存在」と定義した。 これが、デカルト的な「主客二元論」です。
 この超越的な「主客二元論」より、主観と客観の一致は原理的に存在しえないことを哲学的に
 証明した。(「方法序説、省察に記述」)
 
 ここから近代哲学では、人間が客観認識=真理を、とらえうるかどうかは解けない「認識問題の謎」
 として今日に至っている。

 ギリシャから中世スコラ哲学の時代まだにも、「二元論」はあったが、不可疑性の原点まで高められた
 主観と客観の概念ではなく、明晰性を欠いた「曖昧」なものであった。
 超越論的な「主観概念」と、その対比としての同次元の「客観的概念」の哲学的明確化は、デカルトが
 初めてであり、この主観と客観の学問的位置づけにより、これ以後、西洋哲学が隆盛を究めていく。
379考える名無しさん:2013/06/10(月) 13:36:51.94 0
主客二元論成立の背景には存在の忘却がある、と指摘したのがハイデガー。
ようやく昨日一章の半ばまで読み終えた。
380考える名無しさん:2013/06/10(月) 13:38:21.31 0
現存在が、主客体制を生み出すんだよ。
381考える名無しさん:2013/06/10(月) 13:41:48.82 0
主客体制は実存する現存在が生み出す都合だ。
382考える名無しさん:2013/06/10(月) 21:36:14.82 P
>主観と客観の一致は原理的に存在しえないことを哲学的に
>証明した。(「方法序説、省察に記述」)

一致しないなんてそんな不誠実に世界が出来てるわけなんてない
ってのが省察の結論なのに、どうしてこういうトンデモなことが書けるのか
本当に不思議だ

適当に哲学史の本とかかじっただけなんだろうなあ
383考える名無しさん:2013/06/11(火) 00:15:53.36 0
都市は存在の忘却を促す。
384考える名無しさん:2013/06/11(火) 22:30:43.75 0
>>382
「主観的存在」と「客観的存在」が一致していると述べているが、「省察」のどのペ−ジに
記述されているのでしょうか?私の読んだ限りでは、ア・ポステリオリな「神」の記述はあるが
主観と客観の記述は見あたらない。
385考える名無しさん:2013/06/11(火) 22:35:03.67 P
その「客観的」って省察のラテン語で言うと何て言葉をイメージしてるの?
「神」の記述はあるが、って省察真面目に読んでないのね…
386考える名無しさん:2013/06/11(火) 22:44:45.56 0
>>382
貴方はデカルトが、主観と客観が一致していると、「省察」で結論していると述べているが、
その、「主観と客観の一致」が、どの様な論理なのか説明してもらいたい。
387考える名無しさん:2013/06/22(土) 14:17:40.91 0
ハイデガーって考え方が理系っぽい。ニーチェは文系だけど
388考える名無しさん:2013/06/22(土) 14:47:48.78 0
客観とは主観に捉えられた客観の一部に過ぎないと言うこともできる。
また、主観とは客観の一部に過ぎないと言うこともできる。

前者は、ハイデガー批判の根拠となりうるし、後者は現象学の根拠でありうる。

主観とは客観の一部だ、という考え方を代表するのが、メルロポンティだろう。
389考える名無しさん:2013/06/23(日) 23:56:51.88 0
ハイデッガーなんて、難解すぎる。オナニー文しか書けないしな。
390考える名無しさん:2013/06/26(水) 18:53:08.55 P
主観と客観を判定できる人間はいない
だから思惟と延長の一対一対応を厳密にするしかない
存在と時間のクライマックスもブルジョア的思惟の言語化部分にある
391考える名無しさん:2013/06/30(日) 21:57:47.49 0
なるほどブルジョア的思惟の言語化か
392390:2013/07/01(月) NY:AN:NY.AN P
つまりハイデガーはマルクス主義的に見て高く評価出来るのだ
それは谷崎潤一郎も同じ

ただ自分はプルードン主義者だからどうでもいい
393考える名無しさん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN 0
マルクスとかいってる馬鹿がハイデガー読むなよw
394考える名無しさん:2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN 0
>>393
マルクスとかいってると、なんで馬鹿で、なんでハイデガー読んじゃいけないの?
395考える名無しさん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN 0
存在と時間の岩波文庫の最新の奴買ったんですが、
注釈が本文より多いというとんでもない代物で別のが欲しくなりました。
あれほど注釈が多くなく文体も古臭くないものはなにがありますか?

ちなみに本自体は序盤を少し読みましたがとてもおもしろかったです。
存在という言葉で指されているもののことを普段から考えていれば
結構わかりやすく楽しいと思います。注釈なんていりません。
396考える名無しさん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN 0
渡邊二郎訳の中公クラシックスンのが読みやすかった まだ1しか読んでないけど
397考える名無しさん:2013/07/15(月) NY:AN:NY.AN 0
長谷川穂積の試合は見て知っててもあおおは知らない人いるのかな
398考える名無しさん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN O
中公クラシックスでしか読んでないけど良かったよ
399考える名無しさん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN 0
>>398
どんなところが良かった?
400考える名無しさん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN 0
人は後から原因や理由を当てはめたり考えるものなのよ
401考える名無しさん:2013/07/19(金) NY:AN:NY.AN 0
それはみんな知ってると思うが、女だから馬鹿にしてるのかな
402考える名無しさん:2013/08/17(土) NY:AN:NY.AN 0
『哲学への寄与論稿』何度読み返しても感動が残る。また、今という時代が
浮かび上がる。研究者は語彙の研究だけで済ますつもりだろうが、そのよう
な学者の狭量さを超えて、読み継がれていく気がする。
403考える名無しさん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN 0
『哲学への寄与論稿』でハイデガーは有・ Seyn の問いに至らない限り、無
の問いは空しいお喋りになるしかない、と断言し、その段階で停滞する哲学に
、また、それらの愛好家へ、一線を画している。また、「分別的議論」がもつ
「正確さ」がもつ「厳密さ」と、有・の問い、すなわち自分が今ここでやろう
としている問いとは同じではない、ともしている。それらは所謂文化的な
知識人や哲学研究者の悉くをおそらく意味している。そこからも、『哲学へ
の寄与論稿』がどのような思索か、その特異性は浮かび上がる。また、それら
の特異性から、動機なき諸事件が勃発する現在の社会に何故か届いてしまう
『論稿』の思索の深淵、その謎が垣間見れる。不思議な書物であり、現在を語
場合、外せない作品といえる。
404考える名無しさん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN P
ようやく退院されたのですね…
405考える名無しさん:2013/08/18(日) NY:AN:NY.AN 0
 たとえば池田晶子が生前出したエッセイ『考える日々』だったと思うが、
意味不明な事件を起こした少年の言葉を取り上げて、それはしばしば浅薄
だったり、マスメディアを意識したものだったり、するわけだが、そこでそ
れらを取り上げて、浅薄さを弾劾する。しかしそういった人間が自己のやっ
た行為の意味を分かっているわけではない、分かっているわけではないが、
そこに意味が探せないわけではないことは、ハイデガーの言葉を辿るうちに
、自ずと浮かび上がるものである。『論稿』のもたらす力にはそういうことも
含まれている。池田晶子はハイデガーを自著で論じてもいるわけだが、また、
池田はハイデガーの弟子のガダマーとわざわざガダマーのいる海外まででか
けて対談までしているわけだが、所詮は大新聞の論説委員と大同小異の違い
しかない。残念ながら池田晶子の場所はそうだったと思う。そういう人間が
わざわざガダマーのところまで出向いて対談をし、存在について語り、本に
まで収録しているのだからたいしたものだ。哲学研究の浅薄さを象徴する
出来事に見える。
406考える名無しさん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN 0
不条理を孕む原発には、がしかし存在への制約としての価値の世界、〈〜の為の…〉という物の連関、それに
よる存在の窮乏にたいする正当防衛という性質がある。原発事故は、死も含めて事物を破壊してしまうことで、
価値、有益性、道具性の檻、そこへあらゆるものを 回収する枠組み、そこへの従属自体壊す意味があった。真
理とは人間に於ける覆蔵される時=歴史の現成、というところを熟慮すれば、今がハイデガーの時代だというのが
どういう意味でなのかがよくわかる。必要性や価値の基準と選別にどこまで行っても絡め取られていくその枠組
みを逃れる衝動が、原発事故を呼ぶとすれば、的確な同時代の分析になる。それは存在の開けの到来のことだ。
それは好運と呼ぶべきことで、常識や道徳心によって塞ぐべきでない。原発廃止や東電憎悪を愚かにも唱える者は、
時代の真理に盲目である。哲学研究者が反原発を得意気に賛美することは、哲学研究の浅薄さを象徴する出来事に見える。
407考える名無しさん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN 0
>>406
原発災害を、こんなに喜んでる人がいるんだな。
408考える名無しさん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN 0
ハイデガ−の哲理は、「世界−内−存在」を基底として、自己を含めて世界の歴史性と言う
存在を「解体」することであり、連続的な解体の中に実体を捉える。
しかし、その解体のあとに始まる「再構築」は、不変性があるのであろうか。
409八神太一 ◆YAGAMI99iU :2013/08/23(金) NY:AN:NY.AN 0
まあね、なんでもハイデガーのオリジナルだと思い込むのはいいんだよ
一人で時代の真理だなんだシコシコやってる分には、誰も困らないし。

しかし分かりやすい信者を生んじゃう時点で、ハイデガーの高が知れるというかね。
健全な青少年が毒されないことを祈るばかり
410考える名無しさん:2013/08/25(日) NY:AN:NY.AN 0
ハイデガ−の「自己を含めて世界の歴史性の存在」を「解体」するが、問題は連続した「解体」の中に
実体を捉えているので、再構築としての「存在領域」が明確に示されていない。
フッサ−ルの場合は、「エポケ−」による「解体」と、「形相的還元」によって「再構築」が明確になされている。
411考える名無しさん:2013/09/03(火) 02:30:50.97 0
■ 2013年10月刊行予定の本
『存在と時間』
 ハイデガー  高田珠樹訳  予価:7,000円(税別)
412考える名無しさん:2013/09/03(火) 19:43:12.40 O
もう訳はお腹いっぱいです
つーか誰がそんな高くてデカイ読みにくい本買うんだよ
インテリアにしかならんわ
413考える名無しさん:2013/09/04(水) 00:13:37.99 0
まるちん(こ)ぱい(乙)でかー かね?
414考える名無しさん:2013/09/04(水) 17:50:58.42 0
存在と時間ばかりもういいのに
他をはよ
415考える名無しさん:2013/09/07(土) 21:58:04.45 0
哲学への寄与、どっか出してくれないかな
創文社全集が嫌いなわけじゃないけど、別の訳がいくらでもあっていいし、
できれば文庫でもっと手が届きやすい本になってほしい
416考える名無しさん:2013/09/09(月) 19:51:56.15 O
全集内の著作は版権がどうので全集訳出してる会社しか出せないらしいよ
417考える名無しさん:2013/09/11(水) 01:25:25.83 0
喜代の創文社訳はなかなかの名訳だぞ
418考える名無しさん:2013/09/18(水) 01:36:44.29 0
そうだね。創文社全集版『哲学への寄与』に関しては渡部二郎が生前、
ハイデガーの翻訳について仏教用語を使うべきでないと散々書いてはいるが
仏教用語だとか知らずに読んでいる俺みたいのも居たわけで。渡部自身の
訳がまずいとは言わないが、渡部も苦労して編み出していたみたいだからね。
創文社版の訳は何度も読んでいるうちにこちらに染み込んでいる。あれは
あれでもうひとつの手法として定着している。渡部の訳は生前に一応完成して
いたらしいから、いずれ弟子たちの手で出版されるんだろう。病床でよく
やり遂げたとそこはねぎらいをかけておきたい。
419考える名無しさん:2013/09/18(水) 01:39:56.89 0
ハイル ヒトラー!
420東郷 ◆UDkHKH.cgD3K :2013/09/20(金) 01:10:26.60 0
>>412
ゼミの学生が買わされたりする
421考える名無しさん:2013/09/22(日) 04:43:36.27 0
森岡正博 ‏@Sukuitohananika 7時間
ハイデガーフォーラムの発表終わって、懇親会出た。ハイデガーやカントが本当は何を言いたかったかをめぐってあれだけ盛り上がれる集団にひさびさに混じった。たいへん勉強になった。
422考える名無しさん:2013/09/22(日) 17:36:56.84 0
おそらくは学生が授業で読まされたと推測される熊野訳の古本をブックオフで見かけのですが
実際のところ学問的にどういう評価なんですか?
えらくこなれた日本語になっていますけれど実際のハイデガー(原語)はあんな感じなのですか?
大戦期のドイツで大衆受けした一因として日常用語を駆使・加工した記述が
哲学門徒以外にもとっつきやすかった、というのを以前聞いたことがあります。
423考える名無しさん:2013/09/22(日) 18:22:08.87 0
ハイデガーフォーラムはあいかわらず盲目な信者ばかりだったな
もうだめだだなあの集団は
424考える名無しさん:2013/09/22(日) 18:42:05.04 0
>>422
熊野自身が週刊読書人で書いていたと思うけど
当時のハイデガーの若々しさ(37歳)と新カント派への挑戦的な態度を汲み取ったらしい
従来の訳がハイデガーをすでに「大家」として扱っているのが気に入らなかったんだと
細かな術語の訳し方についてもちょっと触れていたはずだが、いかんせん忘れてしまった
425考える名無しさん:2013/09/22(日) 18:51:17.42 0
熊野訳はいいと思うんけれども
それゆえにハイデガーの駄目さが際立つね
熊野純彦はハイデガーには基本的に批判的だった人だし
426考える名無しさん:2013/09/22(日) 19:19:48.93 0
>>424
ハイデッガーって、生まれたときから大家みたいな顔してそう。
427考える名無しさん:2013/09/22(日) 19:22:00.88 0
顔がかなりデカイよねハイデガーはwww
428東郷 ◆UDkHKH.cgD3K :2013/09/23(月) 00:34:49.34 0
ハイデガーイ
429考える名無しさん:2013/09/23(月) 09:24:40.89 0
>>424>>425

確かにカント学派への挑発的記述の多いのが「存在と時間」ですよね。
ただ、カント研究者でもある哲学者の中島義道が指摘するように
ハイデガーによるカントの引用には意図的な歪曲があり、
従来のカント研究やハイデガー、フランス現象学派の研究にはこの影響を脱していないものが多かった、と。
そして熊野さんの新訳は上述の欠点を踏まえたものである、と。
そういえばハイデガーの理論操作は胡散臭く、古くはポパーも指摘しているわけで、
であるならば熊野さんの訳本は買いですね。
貴重なご意見、どうもありがとうございました。
430考える名無しさん:2013/09/23(月) 11:22:10.10 0
ハイデガーといえば、今ではナチスに荷担したという話がもっぱら
とりあげられるが、ハイデガーはユダヤ人についてはどう考えて
いたのかねえ。
431考える名無しさん:2013/09/23(月) 14:59:40.10 0
無関心。
432xeo ◆topaTViseQ :2013/09/23(月) 22:50:15.94 0
ニーチェは著作の中でユダヤ人によく触れていたが、ニーチェに多大な
影響をうけたハイデガーはぜんぜん無関心だったとな〜
しかしまあ、愛人兼弟子だったハンナ・アーレントはユダヤ人だったし
一切ユダヤ人に関心なかったかというと、そうは思えないんだが。
433考える名無しさん:2013/09/23(月) 22:53:46.77 0
あんなにドイツ的なものに執着していた人が、ユダヤ的なものに反発を感じないわけがない
434xeo ◆topaTViseQ :2013/09/23(月) 23:07:44.83 0
反発感じてたなら、ユダヤ人の悪口のひとつも書きそうなもんだが
そういうのもないのかなぁ。ハイデガーにとっては微妙な問題なんで
ずっと沈黙しどうしたのか。 ユダヤ人ではなかったハイデガーにとって
ユダヤ的アイデンティティは真剣な考察に値する問題ではなかったのか。

ユダヤ人であったマルクスも、ユダヤ人であったフロイトも、ユダヤ的
アイデンティティについての著作をものしてたね。
435考える名無しさん:2013/09/24(火) 10:44:09.39 0
時間と空間の根底について『有と時』をはじめとする思索が掘り下げている
のはたしかなわけで。それは無論有との、<有る>の根底を掘り下げること
でだけども。特にカント一人を批判していたわけでもない。むしろ哲学史
全体が問題だった。問題は当然ながら<有る>だった。あるいは文明史全体
だったわけで。そこがくみ取れなければ読めたとはいえない。ニーチェを
問題にしたのも「最期の形而上学者」という読み方、そこにある哲学史に
共感したからにすぎない。
436考える名無しさん:2013/09/24(火) 11:05:37.35 0
 「ハイデガー・フォーラムが信者ばかり」というレスがあったが、
高田珠樹も典型だが、ハイデガーを現在の視点から本気で読む人間が
どれだけいるのかは疑問だ。ハイデガーは「哲学研究」とかの垣根
を越える思索である。それを「哲学研究」の柵に囲い込む思想は
全部だめだ。「ハイデガー研究者」のうちどれだけがそこを免れて
いるのかも疑問だよ。「ヒューマニズムを越えて」が戦後間もなく
の作品だが、「ハイデガー研究」の90%は「ヒューマニズムの内側」
ではないのか。高田珠樹はその典型さ。ハイデガーがニーチェの
どこに限界をみたのかも、あれは人間的主体の枠内に収斂された思想、
その主体性に収斂されている、というのがあったはずだ。批判には
理論的根拠があるわけだ。
437考える名無しさん:2013/09/24(火) 11:09:26.78 0
ハイデガーを現代の視点から読むよりも、ハイデガーを種に自分で21世紀の哲学を作ったほうがいいと思うけど
438考える名無しさん:2013/09/24(火) 11:10:46.05 0
京都府警は22日、銀閣寺にスプレーで落書きした韓国人旅行客を、器物損壊、文化財保護法違反で逮捕した。
容疑者は調べに対し、「金閣寺は金色で綺麗だったのに、銀閣寺が銀色でないのに
腹が立った。銀色に塗ってやろうと思ったが、漢字が読めなかったので銅色を買ったようだ。
次は間違えないように銀色を買う。」と供述しているという。
439考える名無しさん:2013/09/24(火) 11:32:58.16 0
 広松渉にとって、世界は共同主観的であり、<有る>もまたそう
だった。そこからハイデガー思想もまた広松の批判の対象となる。し
かし<有る>には共同主観的なアスペクトとともに、そこを外れる
アスペクトもまた含有されている、というのがハイデガー有論には
ある。それが歴史の贈与とされているもので、そこは広松の批判が
外しているところだし、広松のシンパが外しているところだ。熊野
純彦みたいな広松渉のシンパにはそこを指摘しておきたい。広松は
そこは読めてなかったとね。
440考える名無しさん:2013/09/24(火) 17:14:10.82 0
ハイデッガー アフォデッガー
441考える名無しさん:2013/09/24(火) 21:50:35.50 0
ハイデガーさんの三段論法

 ハイデガーは哲学研究の枠を超えている
 俺も社会の枠を外れている
 だから俺だけがハイデガーを理解できる
442考える名無しさん:2013/09/25(水) 04:10:36.22 0
守中高明 ‏@ladissemination 8月9日
「Zuhandenheit」を「手許に在ること」、「Vorhandenheit」を「手先に在ること」とすでに訳している。
諸概念が有機的に関連し合った体系的哲学の書を翻訳する際の逐語性の要請。ここから発して初めて、たとえばデリダによる分析が可能になる。
開く
守中高明 ‏@ladissemination 8月9日
『存在と時間』には、周知のように「目」を含む別の概念系列があり、「Zuhandenheit」における「手Hand」
を保存するならば「Vorhandenheit」のほうも、断固として「手」に訴えるべきではないか。事実、茅野良男
氏はその『世界・時間・真理』(1981年)において→
開く
守中高明 ‏@ladissemination 8月9日
熊野氏は、鍵概念の一つである「Zuhandenheit」に、原語の「手Hand」に「対してzu」存在していること
を反映させて「手もとにあるありかた」の訳語を充てる一方、対概念である「Vorhandenheit」には「目のまえにあるありかた」を充てているが、なぜここで「目」なのか→
開く
守中高明 ‏@ladissemination 8月8日
前期の成績提出が済み、少しゆとりができたので、遅ればせながら熊野純彦氏によるハイデガー『存在と時間』の新訳を
(まだ既刊の第1分冊と第2分冊だけだが)あちこち拾い読みする。こなれた日本語、かつ適所に懇切な「梗概」と「注解」があり、
見事なお仕事だと感じるが、1点どうしても強い疑念→
443考える名無しさん:2013/09/25(水) 05:03:47.28 P
       世 界 ー 内 ー 存 在
            現存在         
日常性の様式 共現存在 ___            空間
           /   \    内 = 存 在
好奇心 配視 顧視 瞬視>)(<)  >>>      視
空談 ( \ \   \ ワ /沈黙/ / ) )  語り
 <_(__\ \___| |__/__)_)
Zuhandenheit=道具  Vorhandenheit=事物  Zuhandenheit=道具
手元に在ること   目の前?手先に在ること  手元に在ること
 <_(________     ________>   
           |  ?良心___責め     倫理
曖昧性 公共性    |   |\  /       他者
           |   | \/気遣い(関心) 
           | _ |  死  |
   (非本来的  / / \ \ 本来的|    自 己
      理解)/ /頽落 \ \ 理解|     論理
 〜〜〜〜〜〜〜/ /〜〜〜〜〜\ 了解〜|〜〜〜〜〜〜〜
  〜 ___/ /__決断〜〜〜\ \_|_____〜〜
  〜/  / /   決意/〜先駆的決意|    /|〜
情状性  <__>  /恐れ 〜/ 不安_|>  //〜〜
〜/___恐れ/不安/ /  /_____|__//〜〜〜
〜|__道具____|/〜〜|______|_|世 界 性
〜〜〜〜/事物〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜|〜〜〜〜〜環境
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜|〜〜〜〜〜〜〜
歴 史 性______時  間      |       
      過去____現在____未来 |   
      既在         到来的 |時間性・脱自態 
            決断____先駆 | 
           (不決断)_/ |/
                  将来
444考える名無しさん:2013/09/30(月) 05:01:55.04 0
平凡社ライブラリー マルティンハイデッガー=著 定価:1575 円
(本体:1500 円)

(未刊) 技術への問い)
445考える名無しさん:2013/09/30(月) 07:13:37.52 0
ハイデガーを現代の視点から読むよりも、ハイデガーを種に、
客観的思考の苦手な迷える青年たちにハイデガー本を売りつけて
金儲けしたほうがいいと思うけど
446考える名無しさん:2013/09/30(月) 19:14:45.15 0
ハイデガ−は、フッサ−ル後期の「発生的現象学」の影響を強く受けている。ハイデガ−哲学の
特徴は、「時間性」を基底とした存在者の「間主観的還元」により、「将来(未来)」の「死へと
先駆する覚悟性」にあると思う。
フッサ−ルに於いては、現前性(今)の不動的存在に対して、ハイデガ−は、「現前性」の動的存在を
主張している。「時間」に対する「間主観的還元」の現出が、その後の、思想展開に大きく影響している。
447考える名無しさん:2013/09/30(月) 19:19:17.82 0
能書き大将
448考える名無しさん:2013/09/30(月) 19:30:52.67 0
馬鹿なことばかり言ってないでフッサールの危機本でも読み直せ
449考える名無しさん:2013/10/01(火) 20:17:46.34 0
死だの覚悟だのいってる本は、本屋の「哲学」コーナーよりも
「文芸・エッセー」コーナーに並べておくべき
450考える名無しさん:2013/10/01(火) 23:57:57.79 0
Unsere Betrachtungen erwiesen, dass die Epoche nicht nur nicht in
der Einzelreduktion innerhalb der einzelnen Seelen verfehlt ware,
sondern dass sie auch als Einzelreduktion von Seele zu Seele
fortlaufend verfehlt ware.
451考える名無しさん:2013/10/02(水) 00:01:14.73 0
Alle Seelen bilden eine einzige durch die Phanomenologie systematisch
zu entfaltende Einheit der Intentionalitat in wechselseitiger Implikation
der Lebensstrome der einzelnen Subjekte; was in der naiven Positivitat
oder Objektivitat ein Aussereinander ist, ist von Innen gesehen ein
intentionales Ineinander.
452考える名無しさん:2013/10/03(木) 12:52:57.39 0
現象学的還元とは、AussereinanderがIneinanderとして現れるように
反転させることそのものではなのか?
453考える名無しさん:2013/10/03(木) 23:18:16.58 0
>>452
何を反転させるのか、日本語で簡潔に記述してほしい。
454考える名無しさん:2013/10/03(木) 23:28:12.02 0
ハイデゲリアンのみなさん
毎日元気に
死ぬことばかり考えながら
生きてくださいね
455考える名無しさん:2013/10/04(金) 00:36:55.98 0
現象学的還元とは、AussereinanderがIneinanderとして現れるように
世界を反転させることそのものではなのか?
456考える名無しさん:2013/10/04(金) 08:36:09.59 0
>>452>>455訂正
現象学的還元とは、AussereinanderがIneinanderとして現れるように
世界を反転させることそのものではないのか?
457考える名無しさん:2013/10/04(金) 16:13:58.18 0
>>456
全文を「日本語」で記述して下さい。
つまり、「還元」にも「超越論的還元」、「現象学的還元」、「間主観的還元」
又、「相互主観的還元」、「形相的還元」、そして、「発生的現象学」と「超越論的現象学」
でも「還元」の意味がまるで異なる。

だから、哲学用語は、非常に難解である。ドイツ語、フランス語、英語は使わず、ここの哲板では、
日本語を使用してもらいたい。
458考える名無しさん:2013/10/04(金) 16:55:12.54 0
悪いがお前のようなゴミは相手にしない。
他の不特定多数に向けられてレスしているものと考えて無視してくれて結構。
459考える名無しさん:2013/10/04(金) 19:58:09.28 0
47 :考える名無しさん:2013/10/03(木) 21:12:38.95 0
ハイデガーの戦略というより戦後、ドイツで活動出来ないからフランス語で発表したのかと。ドイツ人などがハイデガーを使うと親ナチと思われるが、デリダはユダヤ人だからハイデガーを自由に使えたという話だと思います。柄谷氏の最近の作品は夫人が結構協力してるのかなと
460考える名無しさん:2013/10/04(金) 20:49:01.81 0
>>458
あれ?

逃げちゃった?
461考える名無しさん:2013/10/05(土) 00:23:17.09 0
猫はもう袋の外に出ている
462考える名無しさん:2013/10/05(土) 01:56:58.01 0
小野紀明の『ハイデガーの政治哲学』(岩波書店)をみると、
ハイデガーの政治哲学の中に「終末論的政治哲学」とも言うべきもの
があり、それは『哲学への寄与論稿』と、これと同時期に書かれた
『省察』にあるとしている。『寄与』はすでに翻訳刊行されているが、
『省察』はまだで、いずれ出版される。‘根拠の底無し化’というの
が鍵概念なようだ。『寄与』では‘没落’が鍵概念のひとつだ。独語
で untergang といい、「沈み;沈没;澪落、破滅、滅亡;堕落」
をあらわす。ここですでに現在の日本社会の風景が浮かび上がってくる
。つまり、感性の先端的な部分が直面しているものと、ハイデガー
の終末論哲学がどこかで連結しているのが感じられる。
463考える名無しさん:2013/10/05(土) 02:03:19.46 0
ドイツ語の名詞をどう書くかという基本も分からないなら
無理してドイツ語書かなきゃいいのに
464考える名無しさん:2013/10/05(土) 02:41:24.28 0
Leck mich am Arsch, du Arschloch !
465考える名無しさん:2013/10/05(土) 08:29:21.79 0
>>462>>463>>464
自演乙
466考える名無しさん:2013/10/05(土) 08:42:58.66 0
世の中には縺れを解こうとする人間と意図的に縺れさせようとする人間がいる。
縺れていることを認識できない人間や意図的に縺れさせようとしている人間を
相手にいくら解き方を示してやっても無駄である。だが、解こうとする人間が
存在する限り、提示された解き方は公の知となる。既に公となってしまった
知は、弾圧することはできても、消し去ることはできない。
467弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/10/05(土) 14:24:52.99 0
なんだよ、杯で下痢アンってWWWWW

フッサーリアンかWWWWWW
468考える名無しさん:2013/10/06(日) 03:50:41.90 0
世の中には、俺は縺れを解こうとする人間だ、解き方を示してやる、
といって人々を騙す人間やそんな人間を祭り上げてオコボレを期待する
取り巻き連中がいる。
469考える名無しさん:2013/10/06(日) 08:58:37.23 0
規制や荒しで書き込みを妨害したり、個人情報を流出させたりする以外は、
何の強制力ももたない掲示板で、それは無理だな。実際に役に立つなら
勝手に使われる。役に立たなければ無視される。それだけのことだ。
470考える名無しさん:2013/10/06(日) 09:16:22.90 0
>>469
2chでも結構ステマが多いよ。

興味のある人が見てるから、かなり有効。
471考える名無しさん:2013/10/06(日) 10:44:53.15 0
現象学のステマとかいかにも金になりそうだな。
472考える名無しさん:2013/10/06(日) 14:47:48.76 0
>>471
ステマに乗ってドゥルーズやデリダをいくつか読んじゃったけど、特段の新しさは感じなかったな。
社会や人間をその動態のままに捉えたいという意欲から書かれたと思うけど。

ある意味、絵画におけるある種の抽象画みたいなものかな?

成功失敗はそれぞれだとして、新たな視点を作り上げる拠点にはなるのかねえ?
473考える名無しさん:2013/10/07(月) 00:40:33.69 0
心理学のなす真に普遍的な判断中止(エポケー)は心の相互外在という
仮象を打ち壊す。心理学者から発して四方へひろがる相互内在の関心が、
心理学的な主題設定の歩みを規定しているのである。 
E.フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」pp.485-486
474考える名無しさん:2013/10/07(月) 01:24:57.47 0
現象学的還元とは、相互外在が相互内在として現れるように
世界を反転させることそのものではないのか?
475考える名無しさん:2013/10/07(月) 13:14:30.09 0
フッサールがあれほど多くのページを費やして言おうとしていたことは、
実は次のような極めて単純なことであるように思える。

《自我、すなわち判断中止を遂行する自我は、唯一絶対に疑いえないもの》
であり、この唯一絶対的な根源的明証性に還元された「自我」は、心理学
におけるような《相互外在》における自我ではなく、《相互内在》としての
自我である。
476考える名無しさん:2013/10/07(月) 13:21:22.23 0
>>475
さらに、この「《相互内在》としての自我」は、数学における単位そのもの
だろうと私は考える。これは数学がその自我の基礎にあるという意味において
ではなく、数えることの基礎そのものに「《相互内在》としての自我」が
あるという意味においてである。2進法において1が既に2つのうちの1つとして
現れるとともに、分割可能な単位として現れることに相互外在と相互内在
の関係が見てとれるように思われる。
477考える名無しさん:2013/10/08(火) 19:48:56.64 0
>>475
>自我、すなわち判断中止を遂行する自我は、唯一絶対に疑えないもの。

>現象学的還元とは、すべての事象(既成概念)に対して、一切の先入見を排して
 意識に直接に明証的現れている現象を直観し、その本質を記述することです。

 上記で、「判断中止」を遂行する自我を、唯一絶対に疑いえないもの、と記述して
 いるが、“現象学的還元”より「既成概念」の一切を排すると言うことは、『自我』も
 一緒にエポケ−(判断中止)するということでしょうか。
478考える名無しさん:2013/10/08(火) 19:52:59.74 0
>>477
訂正 “現象学的還元”より→“現象学的還元”により
479考える名無しさん:2013/10/08(火) 20:31:32.04 0
ややかわいいよややせかいいちかわいいよやや
480考える名無しさん:2013/10/08(火) 20:43:28.72 P
ネタとして扱うのが判断停止
ベタに扱うのが現象学的還元
481考える名無しさん:2013/10/08(火) 20:54:55.70 0
>>480
その比喩はベタ、じゃなかった、下手すぎ。
482考える名無しさん:2013/10/08(火) 22:28:40.32 0
επεχω
483考える名無しさん:2013/10/09(水) 08:32:26.39 0
真におのれ自身を理解した普遍的判断中止において、その固有の本質における
心にとっては、およそ相互外在的な分離といったものはないということが
明らかになる。判断中止に先立つ自然的−世界内部的な態度において、心と
身体に定位させることによって相互外在としてとらえられるものも、判断中止
によって純粋に志向的な相互内在に転ずるのである。
E.フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」pp.455-456
484考える名無しさん:2013/10/09(水) 09:01:07.54 0
>>484
フッサールが言い表そうとしていることに対して「現象学的還元」という
表現は、実は不適切であり、むしろ、「現象学的反転」と呼ばれるべき
ではないかと思う。また、「すべての心は、...唯一の統一を
形成している」という表現も誤っているだろう。なぜなら、
「現象学的還元(反転)」によってもたらされるのは、多数の心が唯一の心に
統一されることではなく、「相互外在としての複数(数えられた数)」という
外観が反転して「数えることそのもの、つまり、相互内在としての単位」
が現れてくることなのだから。
485考える名無しさん:2013/10/09(水) 16:11:38.26 0
>>484
フッサ−ルの哲学は、前期(超越論的現象学)と後期(発生的現象学)に分かれるが、
>484で述べられている「数えることそのもの、つまり、相互内在としての単位」と言うのは、
 発生的現象学の「相互主観性」の現象化のことで、主観が、身体を介して他者に転移・移入し、
 他者が、主観的意識を共有するということでしょうか。
486考える名無しさん:2013/10/09(水) 16:51:40.50 0
>主観が、身体を介して他者に転移・移入し

どこにこのような表現があるのか出典を明確にしてください。
487考える名無しさん:2013/10/09(水) 19:58:48.52 0
フッサールがどのような考え方をしたのか知ることに関心はあるが、
フッサール学には一切興味がないので、その哲学にどのような
試行錯誤があったのかは知らない。フッサールを権威として崇めて、
その考え方に従わなければならないとも思っていない。だが、
フッサールの反復される思考/試行において、フッサールが>>485
ような考え方をしなかったことは容易に分かる。
488考える名無しさん:2013/10/09(水) 20:03:42.02 0
だが、超越論的主観、すなわち世界構成のために作動しつつある主観は、
人間なのであろうか。判断中止は、人間もやはり「現象」にしてしまったのだから、
判断中止をおこなっている哲学者は自分をも、また他人をも、素朴にそのまま
人間として妥当させるのではなく、まさしく「現象」として、つまり
超越論的な遡行的問いの極としてしか妥当させない。
E.フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」p.334
489考える名無しさん:2013/10/10(木) 16:52:05.92 0
判断中止は、相互外在において1人1人の主観として認識されている
各自が行う他ない。しかし、遡行的問いの極として現れるのは、各自の
純粋な主観としての自我ではなく、相互内在としての自我である。
遡行的問いの極として、相互内在としての自我が、1人1人の主観、
つまり、相互外在において等価な複数の主観を認識することを可能している
ことが理解される。つまり、自我の反転が生じているのである。
490考える名無しさん:2013/10/10(木) 23:05:41.34 0
>>488
>判断中止は、人間もやはり「現象」にしてしまったのだから、判断中止を
 行っている哲学者は、自分をも、また他人をも、素朴にそのまま人間として
 妥当させるのではなく、まさしく「現象」として、つまり、超越論的な遡行的問いの
 「極」としてしか妥当させない。

>超越論的主観の次元より、主観的存在(自分)と客観的存在(他者等)の、「判断中止(宙吊り)」を
 行った場合、遡行的問いの「極」とは、現象学が行き着く「根源的な次元」と解釈している。
 この「根源的な次元」とは、フッサ−ルが述べている「起源」のことなのか、それとも「起源ならざるもの」
 と接する地点なのであろうか。
 
491考える名無しさん:2013/10/11(金) 00:47:20.43 0
>>490
フッサール著作からの引用と>>490自らの発言に同じように引用符を
つけて意図的に混乱させようとしている。>>485でフッサールの
発言をでっち上げたのと同一人物なのだろう。縺れさせようとする
書き込みの典型。
492考える名無しさん:2013/10/11(金) 11:26:41.16 0
>>484
>「相互外在(超越)としての複数(数えられる数)という外観が、反転(現象化)して
 数えられることそのもの、つまり、相互内在(構成的内在)としての単位」が現れることなのである。

>フッサ−ル中期の「超越論的現象学」は、デカルトの超越論的主観を起点として、一切の事象に対して
 判断中止(エポケ−)をしているので、その到達次元は「多数の心(客観的存在)が唯一の命題(=認識)
 へ統一されることとなると思う。何故かと言うと、判断中止の「対象」がすべての心(他者)をも含めた
 一切の既成概念を排する(宙吊り)からである。
 つまり、多数の心(数えられる数)をも「排する」ということは、すべての「解体」を意味している。
493考える名無しさん:2013/10/11(金) 11:58:13.46 0
統一された状態とは、単一として「数えられた数」として存在すること。
相互外在における多数が解体されるなら、その多数が統一された状態も解体される。
494考える名無しさん:2013/10/11(金) 12:55:42.68 0
超越論的還元のあとでもなお、主観性はおのれを、共存する人間や物の
あいだにある人間として客観化することをやめはしない。ただ、この
ずっと持続しつづけている自己構成が、いまは超越論的にくまなく
照らし出された過程になった、というだけのことである。
E.フッサール「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」p.488
495考える名無しさん:2013/10/11(金) 16:22:58.60 0
>>493
現象学は、「現象学的還元(反転)」によって、一切の既成概念(客観的存在と主観的存在)を、
判断中止(宙吊り)する。この状態を「構成的内在」と言い、この概念を「解体」と解釈している。
そして「形相的還元」に進み「形相的還元」で宙づりとしていた「既成概念」を解放する。
この「形相的還元」を、“再構築”と解釈している。
496考える名無しさん:2013/10/11(金) 17:53:22.01 0
>>495による>>495の現象学の解釈がどうであれ、それをフッサールの
考え方に関連付けたければ、しっかりと出典を示すことだな。
497考える名無しさん:2013/10/11(金) 20:20:33.32 0
現象学をむりやりに、フッサ−ルの出典に関連付けることはないと思う。あくまでも、現象学の
基本となる論理を中心として論究することが重要と考えている。
従って、現象学の基本となる論理を基底として、フッサ−ル、メルロ=ポンティその他哲学者の論理
或いは、出典を参考とするのが正道であると思う。
498考える名無しさん:2013/10/13(日) 17:37:42.39 0
実はレヴィナスって言うほどハイデガーに影響受けてないよね。
必死こいて消しゴムで消したのかもしれないけどw
499考える名無しさん:2013/10/13(日) 22:18:31.59 0
大きな影響を受けていないというより、そもそも現象学をまともに理解していないものと思われる。
反論があれば、レヴィナスが現象学を理解していることを示す具体的な証拠をレヴィナス自身の
著作から示してごらん。
500考える名無しさん:2013/10/14(月) 12:14:33.78 0
誰と戦ってんのこいつ
501考える名無しさん:2013/10/14(月) 12:18:30.39 0
そもそもハイデガーなんぞ現象学でもなんでもない
「僕の生きる道」についてしか書いたり喋ったりしていないしw
502考える名無しさん:2013/10/14(月) 12:42:28.84 0
精神現象学は現象学ですか
503考える名無しさん:2013/10/14(月) 13:06:46.54 0
精神の現象学じゃなくて、
精神現象(について)の学
という感じ
504考える名無しさん:2013/10/14(月) 13:12:34.18 0
ん、フッサールはそんなこと微塵も考えなかったが
ハイデガーは現象学と言う言葉でヘーゲルのそれも念頭に置いていたって話じゃないの?
505考える名無しさん:2013/10/14(月) 14:06:22.57 0
>>502
>私見としては、ヘ−ゲルの「精神現象学」は、フォイエルバッハ、ニ−チェ、ハイデガ−から
 フッサ−ルそしてサルトル、メルロ=ポンティへと続き、その後一連のポストモダニズムに
 「現象学」として引き継がれていく。
 だから、元となるのはヘ−ゲルの「精神現象学」で、これまで西洋哲学の本流であったアリストテレスの
 「形式論理学」から、初めて「現象学」を学問的(哲学的)に位置づけている。
 ヘ−ゲルの「精神現象学」は、「Aは非Aである」という現象学的な原理を述べているので難解ではあるけれども
 「現象化」という「志向性の思考」を身につけるとスメ−ズに理解できるものです。
506考える名無しさん:2013/10/14(月) 14:09:24.62 0
>>505
訂正 スメ−ズ→スム−ズに理解できる
507考える名無しさん:2013/10/14(月) 14:10:46.96 0
>スメ−ズに理解できる
           
なるほどスメーズにね
ヘーゲルのスメーズは難解な概念だな
508考える名無しさん:2013/10/14(月) 19:46:57.05 0
wikiの存在論みてワロタ
晩年のハイデガー「答えはない。問うことが大事」
誰もがすぐ気づくことに一生かかった大先生
509考える名無しさん:2013/10/14(月) 19:51:24.78 0
> 誰もがすぐ気づくことに一生かかった

答えに気づくことじゃなく、問いを考えること自体が大事なんだよ
510考える名無しさん:2013/10/14(月) 19:55:16.48 0
だからそんなことすぐ気づくだろ
意固地になって存在論にしがみついてただけだろ
で、老年になってようやく事実と向き合えたと
511考える名無しさん:2013/10/14(月) 20:02:56.51 0
哲学ってそういうもんじゃね
512考える名無しさん:2013/10/14(月) 20:33:04.93 0
問うことが大事というのは一般に受け入れられているけど、答えはないというのは、
実際に考えつくさないとわからないことだしな。考えるのが面倒だから答えなんかないと
決めつけるのは、ただの酸っぱいブドウだし。
513考える名無しさん:2013/10/14(月) 20:40:33.12 0
そいつはただの馬鹿だろう
514考える名無しさん:2013/10/16(水) 15:05:08.00 0
>>494
>超越論的還元の後でもなお、主観性はおのれを、共存する人間や物の間にある
 人間として客観化することをやめはしない。ただ、このずっと持続しつづけている
 “自己構成”が、いまは超越論的にくまなく照らし出された過程になった、と言うことである。

>現象学の“本質”は、主観性をも含めて「一切の既成概念を排する」のが現象学の開始の
 第一段階(エポケ−)である。フッサ−ルはこの点に関して「十分な根拠から、私たちは
 このエポケ−の全般性を制限する。なぜなら、もしこのエポケ−がおよそ可能な限り包括的な
 ものであるなら、いかなる定立、従って、いかなる判断もまったく自由に変様(=中立化)され、
 変様されない(=中立化されない)判断のためには、もはやいかなる余地もないことになり、ましてや
 「学」にいたっては言うまでもないからである。ところが私達が目指しているのは、まさしくある新しい
 学問的領野の発見に関わるものなのである。」(イデ−ン・I・56)と述べている。

 エポケ−に於いて「主観」を除外して現象学的還元をすると言うことは、「学」を優先し、知らず知らずの
 うちに、各人が勝手に、思い思いに頭の中で描いた論理を創出することとなる。そう言う意味では、
 現象学の目指している存在の本質としての「起源」への道筋を、自らに閉ざしている事にならないであろうか。
515考える名無しさん:2013/10/16(水) 15:36:32.28 0
επεχω
516考える名無しさん:2013/10/16(水) 16:15:55.83 0
どんなに丁寧に作られた料理でもちょっとゴミを混ぜ合わせるだけで食えなくなる
517考える名無しさん:2013/10/16(水) 18:47:30.08 0
>>514
確実に言えそうなのは、エポケー自体が各個人の主観とそれを支える環境から逃れられないということ。
いくら単純エポケーみたいなものを想定しても、人間の観念である以上、動的な側面を持ってしまう。

逆に、静的な数字のようなエポケーを想定しても、そこから積み上がるのは2進法的なコンピュータの世界。
フッサールの思考は2進法のコンピュータがその完成形みたいなものだから、人間の世界までは距離が遠すぎる。
とはいえ、ハイデガーの混沌が有効だとも思えない。

現象学最後の思索者としてその解決の道を探ったのがメルロ=ポンティだろう。
現代の現象学は、メルロ=ポンティだけが語られる価値があるような気がする。
518考える名無しさん:2013/10/16(水) 19:52:30.55 0
>>514 >>517
自演乙
ゴミはゴミ箱へ
519考える名無しさん:2013/10/16(水) 23:34:53.22 0
>>518
>>517だけど、>>514とはむしろ正反対の考え方だよ。
自演に見えたのなら、>>517をもう一度よく読んでくれないか?
520考える名無しさん:2013/10/17(木) 00:20:51.11 0
>>514 >>517 >>519
自演乙
ゴミはゴミ箱へ
521考える名無しさん:2013/10/17(木) 00:28:17.93 0
>>520
自演じゃないよw
同じことを言わせるなよ。
それとも、内容も文体も区別がつかないの?
522考える名無しさん:2013/10/17(木) 10:58:09.95 0
>>517
現象学的還元(エポケ−)によって、超越論的主観(私)に至までの過程は、デカルトの
「方法的懐疑」と同じです。
エポケ−は、主観をも含めて「一切 を排する(宙づり)」とするが、この「一切を排する」手順が
「偽となるものを斥ける」ことであり、この思考過程を進めることにより、客観的な既成概念と主観的な
既成概念を取り除いていく。

「主観」とは、そもそもが「自己」を中心とした多くの「既成概念」によって構成されている。
デカルトも述べているように、この「主観」を構成している種々の既成概念を、一枚一枚、慎重に根気よく
取り除いていくことが重要である。
この手順(思考過程)の遂行により、不動の極点としての「不可疑」な超越論的な「私」に到達している。
フッサ−ルに於いても、この超越論的な「私(主観)」を起点として、現象学的還元の更なる手順を進めている。
523考える名無しさん:2013/10/17(木) 11:07:32.15 0
>>517
フッサ−ルの思考は、2進法的な思考であるというのは、
どの様な論理でしょう?
524考える名無しさん:2013/10/17(木) 13:21:37.88 0
2進法だろうと16進法だろうと、数のまとめ方の違いであって
数えることに違いはない。
525考える名無しさん:2013/10/17(木) 13:25:22.37 0
何度も指摘するようにエポケーするとは、「επεχω 」だから
「επεχω 」という行為においてその行為の主体性を疑い得ない
ということでしかない。
526考える名無しさん:2013/10/17(木) 13:47:21.50 0
>>476で指摘したことは、数えられた数ではなく、数える行為の最も
基礎的な表現である2進法において、相互内在としての自己(単位)
を見て取ることができるということであり、2進法が他の数の数え方
と根本的に違うと主張しているわけではない。
527考える名無しさん:2013/10/17(木) 14:15:07.31 0
>>525
行為であれば、必ず外界との接触がある。
ただ考えているだけでも、最低限の肉体的変化がある。
その変化を無視してエポケーという概念を取り出そうとすれば、静的なモデルとしてしか成り立たない。

エポケーをその主体性として捉えても、それはただ生きているということの証明にしかならない。
またそれは、あらゆる感性を含む人間の相互作用すべてに当てはまる。

ということじゃない?
528考える名無しさん:2013/10/17(木) 14:43:36.22 0
少なくともフッサールはそんな中途半端なことは主張していない
529考える名無しさん:2013/10/17(木) 19:18:08.58 0
エポケーするというのは、モイシンキ的に言うと「概念的論理を中断して抽象的直観に専念する」、すなわち観照みたいなものなんだよね
で、またモイシンキ的には現象学は「純粋にフッサール的な概念」と捉えるから、
つまるところ観念論と独我論が神秘的実在論とは相容れない。
すなわち、「フッサールの現象学とハイデガーの現象学は異なる」
なぜか?
なぜならハイデガーの現象学は「解釈学的だかろ」だよ
気になるならモイシンキの「現象学的哲学論考」
を読んでみて
530考える名無しさん:2013/10/17(木) 19:20:21.30 0
最高の揶揄だな
君、才能あるよ
531考える名無しさん:2013/10/17(木) 20:55:07.99 0
なんであれ、人間が考えたり書いたりしてるんだからな。
言葉自体が、すでに歴史からも社会的な状況からも個人の環境からも、自由にはなれない。

数学だって、仮定や定義で塗り固めた人間の思考に過ぎないんだろ?

エポケーだとか存在だとか、そんなものを想定してなんかの役に立つのかねえ?
個人も社会も、宗教や国家も理解できない哲学は、存在そのものが無意味じゃないの?

なんのために考えて、なんのために言葉を紡ぐの?
532考える名無しさん:2013/10/17(木) 21:05:28.93 0
ハイデガー=自己人生論学
533考える名無しさん:2013/10/18(金) 00:37:00.45 0
フィヒテの著作でも読んでみることだな。
個人についても社会についても、宗教や国家についても論じてるよ。
現代の「言論人」や「批評家」よりはるかに辛辣で鋭い。
534考える名無しさん:2013/10/18(金) 01:45:39.33 0
>>533
フィヒテというのは読んだことないんだ。
個人と市民社会と国家(宗教)の関係をヘーゲルやマルクスのようにきちんと位置付けている人なの?
哲学史的な解説だと、なんでも自分の観念の中みたいな哲学者と書いてあるけど。
535考える名無しさん:2013/10/18(金) 01:49:15.73 0
ハイデガーが馬鹿すぎるから何を読んでも勉強になることは間違いない
536考える名無しさん:2013/10/18(金) 02:05:13.58 0
関係悪化後もフッサールに推薦されるような人間が哲学的にバカだったら誰がバカじゃないんだよw
537考える名無しさん:2013/10/18(金) 10:33:44.54 0
フッサールとハイデガー以外の哲学者、ということになるかな?
538考える名無しさん:2013/10/18(金) 11:52:05.37 0
あれだけ多様な主題について考察したモンテーニュも「επεχω 」を座右の銘
としていたわけで、「επεχω 」を必要としない人間は哲学者ではない。
539考える名無しさん:2013/10/18(金) 12:50:37.38 0
フッサ−ル哲学が難解なのは、中期(純粋現象学)と、後期(発生的現象学)の論理が
180度異なるところにある。フッサ−ル哲学の目標としているのは、近代哲学に於いて、
デカルトが「主観と客観の分離」を哲学的に論証したことに対する、「主観と客観の“一致”」にある。
デカルト以後から今日まで「主観と客観の分離」による種々の弊害(人文科学の領域、論理実証主義等)が
現われており、それが、ヨ−ロッパの文明的な危機を招来していると、フッサ−ルは述べている。
 
上記にも述べているように、文明の危機の、最大の原因の一つに、哲学上の「主観と客観の分離」がある。
フッサ−ルだけではなく、ハイデガ−そしてメルロ=ポンティも「主観と客観の一致」を目標として思索を
しているが、ハイデガ−とメルロ=ポンティの思想は共に「発生的現象学」の分野に立っている。
540考える名無しさん:2013/10/18(金) 14:36:16.58 0
あのさ、子午線に沿ってずっと南下を続けてたら、いつのまにか北上してるんだよ。なんで?
541考える名無しさん:2013/10/18(金) 14:49:52.39 0
そういや北極や南極はあるのに東極や西極はないな
542考える名無しさん:2013/10/19(土) 07:15:27.49 0
北西極も南東極もないな
543考える名無しさん:2013/10/19(土) 20:18:02.68 0
そういや、ハイデガーを論駁した人っているの?生存中は皆無らしいが
544考える名無しさん:2013/10/19(土) 20:22:44.58 0
ハイデガーは都合が悪くなってくると黙る癖があったから
論駁までいかないんだよ
545考える名無しさん:2013/10/19(土) 20:54:03.58 0
ハイデガーを論駁するのは、詩人を論駁するみたいなもん
546考える名無しさん:2013/10/19(土) 21:39:52.32 0
論駁も論破もないのか、ハイデガー強いな。なんかポモの連中なら限局的否定はしてそうだが。
547考える名無しさん:2013/10/19(土) 22:17:44.88 0
ウィトゲンシュタイン主義者みたいな連中だけは
もっともナンセンスな愚者としてハイデガーを叩いていたらしいが、反駁ってわけでもないか
(ウィーン学団だっけ)
ウィトゲンシュタイン本人がハイデガーをどう思っていたかは知らないが「ハイデガーがやろうとしていることは分かる」と共感はしている
548考える名無しさん:2013/10/19(土) 22:53:47.18 0
あ、そうか、ウィトゲンシュタインなら、反駁ってか、論破できるな!!
549考える名無しさん:2013/10/20(日) 00:06:44.12 0
『論理哲学論考』には世界とは何か、という問い、世界があること、自体へ
の驚きが語られている。そういうところは非常にハイデガー的だし、ハイデ
ガーの思索自体、哲学や形而上学の成立しだす始まりとその終わりを暗示す
るもので、ハイデガーによる〈有る〉の思索自体が、形而上学批判としても
読めるもの。つまり、〈〜とは何か〉という問い自体、問いの成立基盤自体
の批判としても読める。
550考える名無しさん:2013/10/20(日) 00:46:52.33 0
しかしハイデガーからすればウィトゲンシュタインも独我論から出発しているから間違いだということになるのだろうか
世界内存在って当たり前すぎるけれども無敵だな
551考える名無しさん:2013/10/20(日) 01:06:51.57 0
>>546
論駁も論破もされなかった代わりに
呆れて絶縁される方が多かったんだよ
親友で恩人でもあるヤスパースしかり
愛人であったアーレントしかり…
ただ思想的に反論は山ほど出ているよレヴィナスもその一人
まあでもナチ問題後のハイデガー自身の対応は全部失敗したよね
批判者の反論すらできなかったのは致命的だったと思うし
552考える名無しさん:2013/10/20(日) 01:58:38.85 0
ナチ問題での沈黙には、〈存在の深淵からの没落の呼び声〉という
のが、理性で計られるものではない、というのがあったんじゃないかと
。1930年代以降、権力闘争に敗れてからハイデガーは多量の覚書を書
くわけですが、それが現代人に理解されるとは思えない。でも、そこ
にハイデガーの真骨頂があるとも言えるので。そこが難しいと思います。
553考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:01:14.74 0
 ヤスパースについては、ハイデガーとの文通は1963年まで続けてます
よね。また、ハイデガーに関する覚書も相当な量を残してます。後に
『ハイデガーとの対決』(紀伊国屋書店)として刊行されてますが。
理解できないところがあるにせよ、ハイデガーに、現代、問い直すに
価する何かが潜んでいるのをヤスパースは悟っていたと思えるんです
けどね。
554考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:14:30.20 0
>>552
はあはあなるほど
確かにハイデガーが書き残したものは『寄与』以外はほとんどが覚書とか書簡ですよね
私はあの第二の主著と呼ばれている『寄与』もそれほどの価値があるとは思えないんですよね
木田元さんも『寄与』にはあまり関心がないようですが私もやはり薄いですね
レヴィナスが述べた「ハイデガーに他者はいない」ということはやはり重要で他人の気持ちにはとかく無頓着過ぎるところがありました
しかもそれはあまりに病的といえるほど無頓着なので結果としてナチ以降に大きな反感を買うわけです
『存在と時間』の前におこなった「カッセル講演」もかなり雑なんですよね他者に対して
ウィトゲンシュタインとハイデガーは全く同じ生年ですが両者はかなり似通っています
海外経由では近年両者が自閉症スペクトラムであったと言われてそうですがそれも然りです
自閉症者の特性として他者との関係性の希薄さと配慮の無さがありますがそう言われると両者には完全に当てはまります
そういうことを知ると
555考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:16:49.48 0
>>554 続き
・・・そういうことを知ると「他者がいない」という言葉が虚しく響くんですよね
障害特性としての結果があの思想の裏面であるという意味ですが
556考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:25:25.26 0
一つ言っておくと、「他者との共存」なんて哲学じゃないよ。
自閉症とかそういう問題じゃなく、ハイデガーの思想に他者がいないと批判するのは、ハイデガーの試みを誤解しているよ

ハイデガーに他者云々するのはまるっきり見当違い
557考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:30:14.00 0
性格は思想に関わると思うけどな
まあハイデガーに他者がどうのするのは思想を全く理解していないのも確かだけど
558考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:32:17.15 0
うーん(笑)レヴィナスの著作をちらと読んだことがあって。それは
ハイデガー批判が根底にあるのは分かりましたけどね。で、他者という
けども、不可知であるというのが他者であって、今流通してる他者論
では、いずれも、歓待すべき、とか、身代わり、とか、いうじゃない
ですか。それを倫理とかね。そこではいずれも不可知としての他者で
はなくなってると思えるんですよ。つまり自己にとっての都合のよい
他者。ハイデガーでは他者は(移し置き)つまり自分を他者に移し置く
だけだ、というね。そこでは他者の不可知は温存されている。こっち
の方がリアルだと思えるんです。
559考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:33:24.49 0
>>556
そえれは個別の読みですからムキになられてもこまるわけで(笑)
ただレヴィナスの指摘として「ハイデガーには他者がいない」というのはあるわけですから
それに対して私は共感できるということに過ぎません
ちなみに熊野純彦さんも同様のことを講義でいっていましたが
あと別にまだ何人もそいう意見の人はいますね
ですから全くの見当違いということではなくてそういう考え方もある
数あるハイデガーへの感想の一つですね
560考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:36:02.26 0
だからそれが当たっていないんだけどね
話の内容からするに(悪文すぎて解読に苦しむが)存在と時間のことだろうが、
人の話を云々するまえに存在と時間を読み返してみてはいかが
見当違いだっていうのが分かるから
561考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:38:31.15 0
それらの人は批評家と変わらんな
自分の考えのために都合よく引っ張りだして使っているだけ
もはやハイデガーは関係ないと言ったほうがいい
で、あなたはそれに共感しただけ
562考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:47:26.13 0
>>560-561
すもませんです
ちょっとあなたとはレスはもうやめますね
>>558さんは言っていることがわかるんですけれども
あなたは次元が低いというか(笑)
具体性がまったく無いのでこれからはスルーします(失礼)
563考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:50:27.63 0
次元が低い()。
最高の逃げ言葉ですね。
自演もしてるし。
564考える名無しさん:2013/10/20(日) 02:55:05.37 0
>>562
はいさようなら喜んで
565考える名無しさん:2013/10/20(日) 03:00:45.32 0
〈移し置き〉というのは創文社全集29/30巻『形而上学の根本諸概念
』で出てくる他者論です。ハイデガーの講義に実際に出てきてますよ
。具体性はありますけどね(笑)。それから木田元さんの話しが出た
ので言っておくと、『寄与』が終末を書いている、そこで現代日本
社会とシンクロするものがある、というのは本人から実際にきいた
感想です。木田さんがあれを重要とは思っていない、とか決めつけ
ては駄目ですよ。
566考える名無しさん:2013/10/20(日) 03:04:34.09 0
>>558
ちなみに熊野純彦のハイデガー講義に興味がおありでしたら以下ですよ

死すべきものとしての人間−生と死の思想(東大講義)
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/movie?id=711&r=
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/movie?id=712&r=

ここでの話題以外に面白い話があると思いますのでどうぞ!
567考える名無しさん:2013/10/20(日) 03:14:05.42 0
>>565
そうでしたか
しかし私も木田元さんとはお話ししているんですよ
たしか去年でしたか
その時に「今では“アレ”はどうもねえ(笑)。私も老いたんですかね」などといってました
あとハイデガーじたいに全体的な興味がなくなっているともいっていましたから
そういう状態ではさすがに細かいお話しまでいきませんでしたが
568考える名無しさん:2013/10/20(日) 11:26:16.33 0
>>565
ハイデガ−が、主観から客観(他者)への“現象化”を「移し置き」と言う表面的な概念として
捉えているのは、フッサ−ルの「相互主観性(間主観性)」を、正しく理解をしていなかったとも
捉える事が出来る。
569考える名無しさん:2013/10/21(月) 20:36:22.47 0
>今では“アレ”はどうもねえ(笑)。私も老いたんですかね

というのは触れる予定はないようにも取れますけど、高田珠樹と同じような
かんじですねえ、残念だけども(笑)。もっともアレを現代日本社会における
終末現象との関連で研究するとか、言論自体が規制の対象になる可能性が
ある、また、ハイデガーがカルトにされてしまう危険もでてくるわけで、そう
いう話しになるのも同情的にみれることはありますけどね。ただ、アレが
たいしたものではない、と本気で言ってるとしたらまったく不可解さしかな
いですね。大学研究者の話をそこまで有りがたく聞くことはできない。
あと、木田さんに「『寄与』は手に負えない」感を与えたとしたら責任を
感じますけどね(笑)ただあのときはあの木田さんに持論をぶつけるという
のでこちらも必死だったので。より大きな思考で言い直してくれましたから
光栄としか言えないです。
570考える名無しさん:2013/10/22(火) 17:10:19.54 0
>>527
>ただ考えているだけでも、最低限の肉体的変化がある。
 その変化を無視して、エポケ−という概念を取り出そうとすれば、
 静的なモデルとしてしか成り立たない。

>考えている肉体的変化とは、主観(精神)と身体(肉体=物質)がもともと
 「合一」したものと言う「発生的現象学」の立場から、エポケ−(判断中止)を捉えているのだと思う。

 肉体的変化(物質の連続的分裂)を対象にして「エポケ−」をすると、肉体的変化(物質の連動性)は
 エポケ−により、物質の概念そのものが「宙づり(判断中止)」とされる。しかし、その後の
 「形相的還元」により、再構築されるが、肉体の変化(物質の連動性)は続く。この現象化を、
 メルロ=ポンティは「還元の最も偉大な教訓とは、完全な還元は不可能である。」と述べている。
 
571考える名無しさん:2013/10/22(火) 18:56:19.11 0
566さんが貼ってくれた熊野先生の講義動画、少し見させてもらった
んですが。後半にハイデガー思想への批判として、何人か紹介してい
るところがありますね。そこでレヴィナスを取り上げて、‘他者にたい
して、他者の為に、他者の身代わりに、たとえ不可能としても人間が
死ぬことがある。それはハイデガーが不可能として切り捨ててしま
ったものだ’として、レヴィナスの問題を紹介していました。
 しかし、私が知るかぎりここでの問題をハイデガーは「根拠の本質に
ついて」(1929)で取り上げており、人間が利己的にまたは利他的に
ありうるのは何故か、という問題で言及している。
572考える名無しさん:2013/10/22(火) 19:07:11.14 0
 そこで、現有が利己的にまた利他的にありうるのこと、それが可能
である制約とは、〈現有は現有として自己性によって限定されているが
故にのみ〉である。また〈多くの人間達は自分自身を他人のために
犠牲にするということや総じて自分独りで実存するのみならず、共同体
の内で実存するということを、指摘することによっては〉この自己性
による限定は〈反駁されえない〉としています。創文社全集9巻「道標
」194頁に出てきます。
573考える名無しさん:2013/10/22(火) 19:09:25.18 0
全然話がかみ合ってないということに自覚はないのだろうか・・・
574考える名無しさん:2013/10/22(火) 19:21:45.07 0
 レヴィナスの反論として提示した論点はすでにハイデガーは想定され
る反論として取り上げ、自己の論点から批判、というよりは包括してい
ます。ここでいう〈自己性〉がすなわちハイデガー思想の肝である
〈時〉であり贈与としての〈有る〉であるのは言うまでもない。ここ
での批判はまた先に取り上げた講義「形而上学の根本諸概念」に発展
すると思えます。レヴィナスは初期の弟子として熊野さんに紹介されて
いますが、それでもあの反論の出し方を見るかぎり、そんなには通じ
てはいなかったんじゃないか。とも思えますけどね。
575考える名無しさん:2013/10/22(火) 20:19:51.26 0
話が噛み合ってないことにしたいバカが「一人」いるだけだよ
「一人」ね
576考える名無しさん:2013/10/22(火) 23:58:31.62 0
ハイデッガー信者ってやっぱり頭がオカシイんですねwww
577考える名無しさん:2013/10/23(水) 05:33:01.27 0
 ハイデガーの偉大さを理解できないあなたがバカなだけだと思います。
578考える名無しさん:2013/10/23(水) 12:53:40.29 O
存在論的差異ってのがどういうことだか説明できる奴いる?
579考える名無しさん:2013/10/23(水) 15:32:55.62 0
SeinとSeiendeの違いのこと
580ハイデガー:2013/10/23(水) 15:48:51.32 O
崇拝しようが罵倒しようが、何をえらそうに言っても、
ハイデガーを論じれのに、存在者と存在がどう違うか言えなければ無意味。
581考える名無しさん:2013/10/23(水) 16:16:25.14 0
>存在者と存在がどう違うか言えなければ

どう違うかは言えないだろ、違いそのものだから
582考える名無しさん:2013/10/23(水) 18:16:43.21 0
ハイデガーというのは私小説のようなものですから
ただし生前に1冊しか出版していない私小説家ですがねぇ プププ
583考える名無しさん:2013/10/23(水) 23:01:49.05 0
>>581
「世界−内−存在」と言う在り方をする「存在者」とは、「現存在(=人間存在)」のことである。
「現存在(主観性)」が世界内に於いて、様々な「物」と関わり合う、と、同時に個々の現存在が“各自”である。
つまり、「それぞれが私である」と言うことをも合意している。

「それぞれが私である」と言う直観的命題は、相互主観性(間主観性)の「世界−内−存在」を現しており、
この「世界−内−存在」として認識(直観)することが、発生的現象学の特徴としてある。
584考える名無しさん:2013/10/23(水) 23:07:46.68 0
>>574
何回かレスを読ませてもらいましたがどうにも意味が掴めません
もう少し分かりやすく書いてもらえると助かるのですが
よろしくお願いします
585考える名無しさん:2013/10/23(水) 23:16:36.77 0
テストでその回答書いたら良くて30点だな
問題に全く答えていない
586考える名無しさん:2013/10/24(木) 00:44:28.52 0
まったく問題に答えてないのに30点ももらえんのかよw
587ハイデガー:2013/10/24(木) 10:34:02.49 O
存在者と存在の差異、存在論的差異は何か。何のことを言っているか。
手っ取り早く言うと「である」と「がある」の違いね。
存在者が……である。
赤いピアノである。赤い色をしている。鍵盤がある。
弾くと音がする。ペダルを踏める。
存在者についてこれは……であるといくらでも内在規定を置ける。
しかし、その内在規定をいくら積み上げても全て数え上げても、
「がある」存在には迫れない。これが存在論的差異の意味。
588ハイデガー:2013/10/24(木) 10:52:22.20 O
では何故存在者と存在を分けないといけないか。
いろんなアプローチがあるけど、存在と時間の発表と同じ時期に、
講義された現象学の根本諸問題から見るのがわかりやすい。

存在は事象内容を表す述語ではない。カントのこの言葉を主に分析している。
「……である」という、存在者側、客観的な事象内容、
内在規定でいくら埋め尽くしても「……がある」という事実性、
その人間にとっての主観的、個別的、視点に立っての「存在」は表せない。
存在は個々の事象内容でもその積み重ねでもない。
存在者という三人称、客観性では、存在という一人称、主観性を捉えられない。
これは端的に存在論的差異と全く同じことだね。
589ハイデガー:2013/10/24(木) 11:04:19.51 O
無論、ハイデガーはフッサールの点的な主観で、
世界を把握することには批判的で、
世界内存在で主観と客観の対立は避ける立場で主観絶対主義者ではない。
しかし、存在論的差異が客観万能に対する主観側の異義申し立てなのも、
間違いない。
590考える名無しさん:2013/10/24(木) 11:09:25.02 0
そういう物言いは分哲では通用するか知らんが、現象学では無理だな
分哲で洗脳された頭では現象学を理解することができない例証のような文だ
591ハイデガー:2013/10/24(木) 11:25:17.84 O
そもそもカントが何故存在論的差異を言い出したのか。
存在は事象内容を表す述語ではない。

それまでは世界は神が作ったもので、存在の意味も神から与えられる。
しかし、カントはコペルニクス的転換をし、世界が有限か無限か、
神がいるかいないか、世界に目的があるかないか、
有限な人間には理性では判断できない。決着をつけられない。
それが批判哲学。
世界に客観的な意味があり、読み取ればいい。の従来の哲学とは違う。

客観的な存在者では埋め尽くせない人間の内部の主観領域がある。
主観的事実がある。

現実にある百ターレルと空想の中の百ターレル。
であるの点ではどちらも同じ。
しかし、現実のがあるの百ターレルは使える。
であるでしかない百ターレルは使えない。

想像して最大の概念である神はであるで実在するという神の存在論的証明。
それを批判してであるがあるからとがあるがあるとは言えない。
神がいるかは有限な人間には証明できない。

それが存在論的差異につながっている。
592考える名無しさん:2013/10/24(木) 12:41:26.22 0
>>591
>一つ質問があります。
 現象学の創始者である、フッサ−ルの「純粋現象学(中期)」と「発生的現象学(後期)」の
 相違点を具体的に記述してもらえますか。
593ハイデガー:2013/10/24(木) 13:31:15.14 O
では何故カントの神の存在論的証明批判を存在論的差異として変形し、
ハイデガーが引き継ぐのか。
どちらも客観的な存在者に刻印されたプログラムを引き継いで遂行する、
人間を超越的な目的を読み取る機械にする思想への批判がある。
ハイデガーの射程は世界を神の目的にするヘーゲル。
神の代わりに物を祭り上げ客観の奴隷にする唯物論。
超越的な物への判断は留保してひたすら客観性の確保に努める、
実証主義や分析哲学。
これらが批判される。
客観的なものの中に目的があり、それを受け入れればいい。
そういう思想は批判される。
594ハイデガー:2013/10/24(木) 14:04:52.60 O
ヘーゲルはカントが神の存在論的証明批判して哲学の領分確保したのを、
批判した。
ヘーゲルにして見れば既に哲学は勝利しており、
宗教や科学、技術を哲学が支配するために、カントの制限は邪魔だから。
世界の中に神の目的は現れており、哲学はそれを先導する。

そういう見方にハイデガーは噛みつく。

科学にしろ何にしろそういう対象化、客観性に跪き臣下になることが、
近代の、哲学の病だと。
ハイデガーの技術論とか。
存在と時間にしろ、現象学の根本諸問題にしろ、後半は時間論になるが、
時間を分割化し、計量可能にし、平板化する思想、生活のあり方、
近代の現実そのものと戦う。
キェルケゴールのパクリだけど。
最大の標的はアメリカ民主主義、ソビエト社会主義。
ドイツは万力でねじ上げられているが立ち向かわねばならない。
それがドイツの使命。
民主主義も資本主義も社会主義も共産党独裁も、
どれ計量可能な客観性、「である」の専制を体現している点で同じ。
それを準備したのがデカルト的な表象の形而上学だ、
ギリシアにさかのぼって語源学だ翻訳イコール脱構築だと、
おどろおどろしくなり、秘教的になり、嫌われるが、
存在論的差異とはそもそも何かと言うとこういうわかりやすい話以外ではない。
客観的な「である」の専制に対する「がある」の個人にとっての切実性、
平板化し、歯車となる人間の臣下化に対する、本当の時熟した時間。
そういうものの擁護。
595ハイデガー:2013/10/24(木) 14:15:47.59 O
存在と時間でも現象学の根本諸問題でも、
線的なプログラミングされた時間とは違う本来的時間があると言うが、
あまり説得的ではない。
しかし、いずれにしても客観的存在者、客観的時間に対する、
そういうものに覆い尽くせないものがある。
そのことの証明、それが存在論的差異。
596考える名無しさん:2013/10/24(木) 14:29:18.08 P
ハイデガーの認識は構造主義的だから、キルケゴールやニーチェとも違う。小林秀雄(「美しい『花』
がある、『花』の美しさといふ様なものはない」)とも違う。

サルトルが、存在は本質に先立つ、と言っても、ひっくり返しただけではダメだとハイデガーに言わ
れるのは、構造が大事だから。

ただ、その構造は(自意識だけが循環し)、「である」と「がある」が一致するような絶対的他者は排除
するように出来ている。

アーレントとの愛欲、カントの物自体、黒いアテナ、はもちろん排除される。特にスピノザに
対する(デリダのいう)排除はみっともないし、哲学史家としても失格だろう。

結局、ギリシア語のできるブルジョアの典型なのだ。
ただ彼が主著を出した第一次大戦後と世界は再び似てきている。その思考は一般化しておかしく
ない状況にある。
597考える名無しさん:2013/10/24(木) 23:50:10.73 0
 色々出てきたのでざっくばらんに感想してみます。

>「である」と「がある」が一致するような絶対的他者は排除するように出
来ている。

 これはおそらく前レスでの規定を受けて「客観と主観が一致するような絶対
的他者は排除される」と言いたいのか。しかし世界-の内に-有ることとしての
時においては「主観や客観の以前にある」(『有と時』第80節)。これは596
さんのいう意味なら「絶対的他者」だと言えそうだが。絶対的他者でありか
つ没交渉的でもある。

 小林秀雄が引かれているけども。ハイデガーと似ている、という声も出て
いる。人間存在に浸透し種子と花のように時間化する自然を思索したのが
ハイデガーだと思っている。個体にとっての根拠として有の理解を思索した。
宿命の用語とか、共通はしている。歴史についても共通したものを考えた
かもしれない。しかし小林はハイデガーほどには方法的ではないし、思考の
強度の差があると思う。
598考える名無しさん:2013/10/25(金) 00:54:54.37 0
>>597
あなたはきちがいですか?
599考える名無しさん:2013/10/25(金) 05:04:27.60 0
 あらゆる有るもの-木、水、空、哲学、数学、水泳、イチロー、原発、台風
、選挙、友人、私、…は特に自覚されなくとも、固有なる世界、情態、関心
、先行する像、先行する世界了解の上に到来し、関わっていく。それがなけれ
ばあらゆる物事と私は関わることはない。この先行する区別が実在や非実在の
世界を成立させる。この先行する了解や情態が無化され、余計として捨象され
るのが文明であり、よって有の忘却とは有論的差異の忘却であり消去でもあ
る。また忘却が現代文明の前提であり、形而上学とされる。サルトルの命題が
批判されるのは、存在と本質が転倒されただけで変わらぬ忘却性に基づいて
いるとみなされたからだ。
600ハイデガー:2013/10/25(金) 12:54:25.39 O
昨日の授業、存在論的差異とはカントの、
「存在は、事象内容を表す述語ではない」。
客観的な存在者が「……である」ということをいくらかき集めても、
視点に制限され、局所的に制約され、有限な存在である、
個々の人間にとって存在者「がある」という経験には迫れない。
客観的な存在者の意味だけをつつき回して読み取るだけでは、
存在はわからない。
客観的な存在者からプログラミングを読み取るだけでは主観的な体験としての、
あなただけにとってでしかない置き換えの利かない存在はわからない。
存在者と存在は違う。
ここまではいいですね?
続いては時間論に行きます。
といっても時間論も存在論的差異と構図は同じです。
客観的な時間からプログラミングを読み取るだけでは主観的な体験としての、
あなただけにとってでしかない置き換えの利かない時間はわからない。
存在者が時間に置き換わるだけです。
601ハイデガー:2013/10/25(金) 13:36:45.93 O
日常、人は時間を物として扱っています。
しかも他人に明け渡しています。
他人の為に仕事し、そのために納期はどうだいついつまでに進めよう。
時間を物として交換可能なものとして。
客観的な存在者として取り扱います。
本来は私的な余暇や自由な時間さえも、皆が見てるから同じテレビを見て、
皆が聴いてるから同じ音楽を聴く。
皆が話しているから同じ話題を出し、自分のものであるはずの趣味も、
他人に明け渡している。
時間を他人との交換可能な物として存在者として取り扱っている。
602ハイデガー:2013/10/25(金) 14:11:13.36 O
他人に交換可能な財貨で、自分の仕事も他人の価値も判断し、
他人の気を引くためにどうでもいい、話題でも一生懸命話し、
他人より上だとちょっとした昇進に一喜一憂する。
それが人間です。
しかし、置き換えられないものがあります。
自分の死です。

死は置き換え不可能です。他のものは財貨に替えて交換可能でも、
一つ死については交換不可能です。

客観的な置き換え可能な時間。
それとは違う主観的なその人間にとってでしかない時間。

ハイデガーはアリストテレス的な数えられる時間。
運動の数として量化され、置き換えられる時間は本源的な時間ではないといい、
今の単純な継起としての時間を否定します。
物として存在者としての時間ではない、
それからの差異としての時間を論じます。
603考える名無しさん:2013/10/25(金) 14:16:32.95 0
> (デリダのいう)排除はみっともないし

 一方、デリダという人は痕跡としてのみ考えられる概念として有を措定する
。決して過去に現在したことはなく、いつか現在することもない。そのような
概念だと。ただ、忘却態としてのみ考えられるに過ぎない。それは生起しない
。また場所をもたない。痕跡として、消失の痕跡としてあるのみである。また
現前するものとは、消去した有の痕跡なのである。それらはエクリチュール
の効果である。…ハイデガーの熟読者であるというこの人がやっているのは
有を否定的にのみ、消去されたもの、としてのみ提示する。しかし一方、有
は覆蔵として付きまとうものでもある。覆蔵として中心にある。でなければ
人間にとって〈有る〉はないわけで、デリダの痕跡論が空虚に見えるのはそ
こ。存在の事実性から外れていると思えるわけです。
604ハイデガー:2013/10/25(金) 14:21:54.56 O
存在論的差異と全く同じで、量として、
客観的な物としての存在者では埋め尽くせない存在と同じように、
量としての時間、客観的な物としての時間ではない、
脱-自 ex-ist。
個人的な置き換えの利かないものとしての本源的時間。
時熟した時間を問題にします。
それにはアリストテレス的時間、ヘーゲル的時間、
そして近代資本主義的な時間、近代社会の時間への批判があります。

それらこそが置き換えの利かない死から目を逸らさせ、
時間を他者に明け渡させるシステムであり、思想だからです。
個人的なかけがえのない時間が他者への従属となる、
全てが対象化され、置き換え可能なものとなる、近代の時間イコール社会。
605考える名無しさん:2013/10/25(金) 16:58:02.45 0
ハイデガー=真理 という図式で考えている人がいるけれども
こういう信仰をしだしたら人間はおしまいです。
606考える名無しさん:2013/10/25(金) 17:16:51.65 0
存在と存在者の違いを知ってる程度でドヤ顔しちゃう奴とか。
そんなもん概説書読んだだけだろ。
607考える名無しさん:2013/10/25(金) 17:18:13.11 0
上でHNハイデガー氏が丁寧に理論を説明されている。そこで補足と脱線を
兼ねて、〈個人的なかけがえのない時間〉とはたとえばどういうもののことを
いうのであるか、例えば好きなクラシックを聴いている時間はそうでしょう
、夕焼け空に気がついて見とれていた、というのもそうでしょう。しかし、
〈個人的なかけがえのない時間〉というのはそういうことばかりではなく、
ちょっと恥ずかしい、あまり人に言えないことも含むんですね。たとえば
足の爪の匂いを嗅がずにはおられない趣味があるとか、女性のタイト・スカ
ートに浮き上がる下着のラインを探す癖があるとか、あるいは女装の趣味が
あり、女装したときだけは自分自身に戻れた実感がもてる。あるいは、指原
莉乃と関係している妄想が生きがいで、一日一回は妄想で関係している。そ
ういう事柄も〈個人的なかけがえのない時間〉に含まれる。これはHNハイデ
ガー氏も否定はしないでしょう。
608ハイデガー:2013/10/25(金) 17:22:58.87 O
しかし、人は死から目を逸らさないで生きてなどいけるのでしょうか?
死から目を逸らさない覚悟というものこそ、
死から目を逸らす欺瞞ではないのでしょうか?

目を逸らすことの中にしか、死と向き合う本当の生き方など、
ないのではないでしょうか。
自分は本当に死と向き合っているという覚悟こそ、
人間の本質、何をしても無駄だからこそ、死をごまかし続ける、
ギリギリの中にしか本当に死と向き合えない人間からの逃避なのではないでしょうか?
死をごまかすしかない人間こそ本質的で、
ハイデガーのようなそこから逃れられるとの傲慢こそが真の病ではないのか。

人は死んでしまいます。なのに何故、財産や名声を残そうとするのでしょうか?
子供に財産残したって失敗したり、かえってスポイルすることがあること、
誰でも知っているじゃないですか。
教育したって効果はどうなるものでもないこと、
どんなに最低に見える教育受けても天下取る人間は天下取るし、
最高の教育与えてもどうにもならない人間はどうにもならない。
誰だって知ってることじゃないですか。
609考える名無しさん:2013/10/25(金) 17:27:23.76 0
ハイデガー哲学は「老荘思想」のようなものだと思う。
一種の「達観境地」であり当然ながら立派な「人生論」となっている。
                                
610考える名無しさん:2013/10/25(金) 17:29:34.00 0
 元々ハイデガーには大学教官になった初期 から人間における不可解さ、
異様な性癖、異様な精神に着目するところがあった。これはハイデガーという
思想家を考える上で重要な証言にも思えるわけですが、ある日ヤスパースの
大學に分裂病者と思われる人間から手紙が届き、高尚な学問が無意味ではな
いかという疑問が乱れた文法で書かれていた。大學関係者は「無よりも下ら
ぬことを考える人間がいるものですね」と馬鹿にしていたが、私(ヤスパー
ス)はその手紙のことをハイデガーに話した。そして彼と話し合った、彼ほど
こういう人間についてまともに受け取る人間は他にいなかった、という
くだりがヤスパースの自叙伝にあります。いかに生の事実性、机上で考えら
れたものではない存在の事実、生身の人間を重要視していたか、うかがえる
episodeだと思います。
611ハイデガー:2013/10/25(金) 17:45:40.71 O
子供だろうが事業だろうがそれが将来どうなるかなど、その子供次第、事業次第で前もってどうにかなるものでもない。
子供にしろ、事業にしろ、時代が必要とする事を成し遂げるなら、必要とされ、そうでないなら相手にされないだけ。
前もって何が必要とされるかなど誰にもわからない。それは本人が何よりわかっている。
てはそれがわかってて一生懸命働いている人は何なんでしょうか。何をしているのでしょうか。

答えはただ一つ。死から目を逸らしているだけです。
それで何がいけないのでしょうか。

死んだ子供の命日にお供えをします。子供を偲びます。そんなことしても、子供はかえってこない。
あの世があったとしても、それがあの世での子供の幸せにつながるわけがない。つながるならどんなメカニズムですか。
しかし、そんなことは皆わかってて人は葬式を上げ個人を偲ぶのです。
衣服を着飾り格好をつけ、喝采を浴びる。どうせ浴びたほうも喝采したほうも死んでしまいます。
あるいはすぐに老いて鼻も引っ掛けられなくなります。
宗教からあらゆる文化、経済、社会。
ただ今ここで気持ちよい部分もあるでしょうが、未来において、死を超えた幻想のために賭けられた部分が殆どです。殆どが無駄なのです。
死んでしまい、意味がなくなるのにやっています。
いや、むしろ無駄だからこそやるわけです。自分が何の意味もなく死んでいく。そのことに耐えられないからこそ、無駄とわかっててごまかし、
意味があるように振る舞うわけです。何が悪いのでしょうか。
612ハイデガー:2013/10/25(金) 18:06:59.66 O
ハイデガーは本来的時間と非本来的時間。あるいは存在者と存在の存在論的差異。二つに分けます。凡庸なものとそうでない本来的決意性。
しかし、凡庸でないものを目指すことこそが凡庸なことなのではないか。人間は死をやり過ごしごまかし、その中から少しでも本当に役立つことを、探し出していくしかない。
凡庸と向き合い凡庸な中でそれを突き詰めることでしか、真に意味のある非凡なことも成し遂げることはできない。
答えを見つけられると思わないことが答えなのです。人間の生の意味。死の意味など予めありません。
答えを捏造していく努力の中にしか、答えはありません。答えを見つけられないからこそそこに答えはあるのです。
民主主義も近代資本主義も近代社会もまた、答えを適当に捏造し、調整する制度です。
総長就任講演でアメリカとソ連を罵倒しドイツ民族の使命を語ります。
ハイデガーのナチ荷担はその哲学に本質的要因があるのは事実です。

死には答えはないのに、自分たちはそれに向き合えるかのように、凡庸な生と向き合って調整しなければならないのに、
自分たちはそうではないかのように、そういう形で民族の使命に同化し、思考放棄する要因が、
ハイデガー哲学の精雅の時間論に、そして存在論的差異の思考にあります。
今日、ハイデガーの時間論が中二病でヤバいということ、ハイデガーが中二病でヤバいということは最先端では広く了解された事項です。
613ハイデガー:2013/10/25(金) 18:19:58.82 O
以上ね。ハイデガーを崇拝する上でも罵倒する上でもこれくらいは、
わかっていろという基本事項ね。
その上で批判するなり擁護するなり議論を深めるのは自由だから。
存在論的差異と時間論。
テストに出るから、良く覚えておくように。

ハイデガーの時間論の差別的特権的視座がヤバいということは、
広く議論され共有されたものだから。
デリダのアポリアとかでも、ネットでも出てくる議論。
繰り返すがその上で擁護するのは自由。構わない。
しかし、ここで論じたことは基礎知識として知っていて欲しい。
614考える名無しさん:2013/10/25(金) 19:17:32.95 0
三島由紀夫という作家があり、どういう人かは割合よく知られてもいるわけ
です。到達不可能な美を作品において暗示、晩年は自己の倫理として絶対者
への殉死を美化し、同時に戦前の日本人に愛着をもち、天皇を崇拝し、その
言葉通り、自衛隊に乗り込み非合法に憲法改正の決起を促し、失敗した直後、
「天皇陛下万歳」を三唱して割腹、頓首し死ぬ。いろんな理窟は当人が生前
に残してはいるわけですが、後から考えれば不審な点が残り、どうも最初
から死ぬつもりで行ったんじゃないか、と思わないわけにはいかない。
後に親しい批評家などから出生時の過酷な環境が明かされ、実は自殺の意味
があったんじゃないか。ただ、本人は明朗だし男や武士を前面に(笑)出し
ているし、軟弱さを敵視もしていた。だけど、結局は出生のときの原意識の
病を超えられなかった。とも言える。これとハイデガーの思索を重ねると、
『現象学の根本問題』に〈現有は既有的に将来する〉というテーゼがある。
過去に埋め込まれた因子が開花する、しかし、現有自身はそのことをあから
さまに承知しているとは限らない。
615考える名無しさん:2013/10/25(金) 19:42:40.54 0
 三島さんにとって自死の論理は自己の思想と行動の帰結としてある。だけど
生涯をみる者にとって、思想と行動で死に引きずられていった、そしてその死
とは生涯の最初に埋め込まれた因子であろうことがみえる。そして三島さんが
そのことをあからさまに承知していたかどうかは分からない。ここでハイデガ
ーとの関連での鍵は、本来性は幾つかの層にくるまれて、というのは表層では
思想と行動、しかし深層では固有な自己史のもたらすもの。しかし本人は
客観的に時代や社会やを見定めて動いていた。自己で見出していったと思い
込んでいた。自己で見出していったことはしかし予め埋め込まれた種子の
開花だと後からみえてくるわけです。ハイデガーの功績としてそういう運命
を人間に見透かすことを提示したことがあると思います。で、三島さんの
場合でも、あの思想や行動が非凡か凡庸かは議論の分かれるところで、ただ、
ああするより道はなかった。そのことに彼が忠実だった。それだけが今は
言えるだけなんですね。それはハイデガーのいう本来性を今受け取る場合も
一人の人間において支配する、彼や彼女にのみ見出される孤絶した義、
という問題としてみれば今もそれは抵抗なく読める、と思うわけです。これ
はHNハイデガー氏の説明への感想のひとつです。
616考える名無しさん:2013/10/25(金) 22:17:52.20 0
>>614-615
君ねえ、>HNハイデガー氏の説明への感想のひとつです。と書いているが
どこをどう読めばそういう的はずれな感想が出るの?
                                      
君はハイデガーの良いところも悪いところも両方とも説明すらできていない
それを彼が代わりにやってくれたんだ
もう少しまともな応答をしなさいよ
だって君に向けて書かれたも同然のレスではないですか
617考える名無しさん:2013/10/25(金) 22:58:46.73 P
トピズレになるが、三島の自決は自身の同性愛の隠蔽にすぎない。
あれは心中なのだ。

同じようにハイデガーもアーレントとの愛欲を隠蔽した。
エクスターゼに性的な意味はないとハイデガーが言う時図らずも
その根源を暴露しているのだ。
だからマルクスは批判してもフロイトは批判しなかった。
(戦前に精神分析について言及したが戦後は知らないふりをした)

ハイデガーのアーレントへの恋文は美しいけれど、研究者は言及
しないし言及出来ない。
恋愛はハイデガー哲学にとって論理的な裏ということになる。

不倫=非本来的な本来性or本来的な非本来性、と言えなくもないが、
哲学を人生論に回収しようとしても人生そのものが回収出来ない。
618考える名無しさん:2013/10/25(金) 23:06:33.23 0
ハイデガーはナチ党員であったことの総括を戦後にも一切にやらなかった
どちらにしても世界大戦という極めて大きな戦争に自分自身が生きていて関わっていたというのに
その総括をしないというのはどのような後付の理屈をこねまわしたとしても無責任すぎる
少なくとも大学の総長までした哲学者なのだからこの大問題をハイデガーなりに考察しなければならなかったのだ
ハイデガー本当に卑怯な人間であったと思う
619考える名無しさん:2013/10/25(金) 23:31:48.33 0
616は少し落ち着いた方がいいね。

>HNハイデガー氏の説明への感想のひとつです。と書いているがどこをどう
読めばそういう的はずれな感想が出るの?

 と不審に思っているようだけど、612レス前半の色々書いてるでしょう。

612前半 〈凡庸でないものを目指すことこそが凡庸なことなのではないか。人
間は死をやり過ごしごまかし、その中から少しでも本当に役立つことを、探
し出していくしかない。凡庸と向き合い凡庸な中でそれを突き詰めることで
しか、真に意味のある非凡なことも成し遂げることはできない。答えを見つ
けられると思わないことが答えなのです。人間の生の意味。死の意味など予
めありません。 答えを捏造していく努力の中にしか、答えはありません。答
えを見つけられないからこそそこに答えはあるのです〉
620考える名無しさん:2013/10/25(金) 23:50:46.98 0
 三島を例に出して本来性の例証としたのは、本来性において鍵となるのは
そこにハイデガーの言葉でいう没交渉性、理解されがたさ、交渉しがたさ
が籠められていることで。凡庸さ、というのはさほど重要視しなくていいの
ではないか。ただ、現有の有限性と没交渉はそこに籠められている。また、
本来性の概念にしても、主体的なものではなく、到来的としてとらえること
がそこに含まれている。〈既有的に招来する〉というふうに。そういうとこ
ろでHNハイデガー氏の612レスにたいする応答としたわけです。ハイデガー
の功績としては615に書いているけどね。ハイデガーの哲学を概論的に論ずる
ほど知らないし(笑)やれる方は立派とは思うけど、俺がやる理由はないの
でね。とにかくちょっと落ち着いてさ(笑)
621考える名無しさん:2013/10/26(土) 00:27:17.35 0
あと、あのハイデガー概論を読んで気がついたけども、俺の場合、
ハイデガーの史実やのちの論争やとは別に、こういう読み方をすれば
まだ生きられる、というところでやっていると思うのです。また、現在
を解読する方法たりうる、という。ハイデガーの危険さや愚かさやら
をいつまでも云々していても仕様がないというか、いつまでそればか
りやってんの、と言いたくなりますね。大學研究者含めてね。ハイデ
ガーは思索の宝庫だと見えるわけで、人間を考える上で。ナチ加担し
てるから、とか史実とか、知ってるつもりになってで脇に押しやって
おしまいじゃあ勿体ないですね。(勿論知ってもいいわけですけど)
フッサールとの関係を知らないから語る資格ない、わけでもなかろう
し。哲学科の学生でも何でもないし使えるところだけ使っても本人は
怒りはせんと思いますけどね。
622考える名無しさん:2013/10/26(土) 15:54:35.20 0
>>619-621
なんというか、非常に弁解がましいことばかり書いていると思う
>哲学科の学生でも何でもないし使えるところだけ使っても本人は
>怒りはせんと思いますけどね。
と書いているが、それは確かにそうでしょう
しかしそういう風に「自分の勝手の正当性」を主張していていてもナチ加担は論ずるに値しないものですかね?
むしろハイデガーを考える際に最も重要な視点のひとつではないですかね
しかし君はそれを「意図的」に必死に「排除」しようとする
ハイデガーについての人間的分析は拒絶するくせに三島由紀夫の自決については勝手な分析を証拠もあげずに分析してみせる
なんで同様にハイデガーという人物の分析もやらないのですかねえ
>俺がやる理由はないのでね。とにかく憂ちょっと落ち着いてさ(笑)
逃げ口上ばかりならば偉そうなことは書くなよな
自分の精神安定剤としてのハイデガー感想文ならBlogでやればいいじゃやないか
とにかく「ナチ加担問題」は極めて重要な問題だといえるはずだよ
もっと真面目にやりなたまえ
623考える名無しさん:2013/10/26(土) 19:11:13.30 0
ハイデガ−を論究するには、「発生的現象学(フッサ−ルの中期思想)」と、
「純粋現象学(生態的現象学=フッサ−ル後期思想)」の“論理的違い”を明確にして論究を
進めないと、ハイデガ−が最終目標としていた「主観と客観の一致」という視点が曖昧となる。

ハイデガ−哲学は、フッサ−ル中期の「発生的現象学」の分野に入るが、その論理の中核となるのは、
主観的存在と客観的存在に於ける相互主観的還元(間主観的還元)による、他者としての「存在者」と「存在」の
連関にあると思う。ここで問題となるのは、相互主観性としての他者(それぞれの存在者)が、フッサ−ルの述べている
「超越論的次元」へと“還元”によって到達出来るのかと言うことである。

従って、フッサ−ルの目指す「超越論的次元」と、ハイデガ−の「世界−内−存在」の「存在者」との連関の
からハイデガ−哲学を論じていくことが重要と思う。
624考える名無しさん:2013/10/26(土) 19:32:30.60 0
>>623
(訂正)純粋現象学(静態的現象学)=後期思想

            ↓
    純粋現象学(中期思想)と発生的現象学(フッサ−ルの後期思想)
625考える名無しさん:2013/10/26(土) 22:30:23.97 0
>>622
ハイデガーも人間であるということをここで明確化するならば、やはり戦後におけるハイデガーの対応というものはどうにも納得のいくものではないですね。
いわゆる哲学界の中からも非難轟々だったのだから、それに対する対応は誰よりも明確にすべきだったと思います。
ハイデガーが亡くなってから、様々な書簡などの情報が開示されましたが、それらの内容をみてもハイデガーは沈黙を貫いていたと同様の態度だったと思う。
ハイデガーは大学教員もやっってきたし、大学の総長までやってきた。
そして何よりも大哲学者であったという事実。
ハイデガーには《説明責任》が断固としてありました。しかしそれを全うしませんでした。
我々ハイデガー愛好者はやはりハイデガーの説明責任を回避して、ただ「好きだ」という感情の内にハイデガー哲学を論じてはいけないとお見ます。
人間だからこそ、「善悪」という二面性の中にいるのであり、一般人のようには明らかにされないような様々なかたちの情報が出ているからこそ、それらを材料にするべきでしょう。
《20世紀最大の哲学者》という、そうそうは与えられない形容詞で語られるほどの人物であるからほど、ハイデガーを真剣に人間の行為として分析することには重大な意味があります。
私もそのように考えている一人のハイデガー愛読者です。
626考える名無しさん:2013/10/26(土) 22:53:23.13 0
>20世紀最大の哲学者

大きいことはいいことだ〜♪
じゃあ、20世紀最小の哲学者は誰?ってのもあるけど、
哲学自体の大きさを測る基準はないから、人物としての影響力のこと?
じゃあ、池田大作の方が大きそうな気がする
627考える名無しさん:2013/10/26(土) 22:59:11.28 P
ただハイデガーは20世紀最大の哲学者であることは間違いない
構造主義的であり、なおかつその構造主義の限界を提示(A=非A)しているから、、、
世に言われる構造主義者は全くその限界を想定していないから説得力がない、、

自分が彼を評価するのは哲学史家としてだが、スピノザを排除したとしても、
ニーチェやライプニッツを論じたのは意味がある
カントの批判哲学の系譜にありながらその限界を体現(B=非B)している、、、、

ドイツとギリシアの間で思考するのは
存在と本質の間に立つのと同じことだ

日本人でこうした間に立つことを自身に強いている人は少ない
628ハイデガー:2013/10/27(日) 11:47:48.74 O
人間は神の存在を証明できない。
そう言って有限な理性で人間を制限したカントは謙虚か?
そんなことはない。

宗教の代わりに神の代わりに、哲学を人間を置いて、
自分は哲学者としてそれを支配先導する立場に身を置くために、
哲学と宗教の領分確定分割しただけなんだよね。
ヘーゲルが鋭く理解したように。

ヘーゲルの客観的目的論や客観重視の分析哲学の実証主義、
客観そのものの、唯物論や物理主義を罵倒し、
主観的存在論的差異にしがみついたハイデガーもまた、謙虚にはほど遠い。
629ハイデガー:2013/10/27(日) 12:09:59.86 O
凡庸さを受け止め粘り強く調整するという、近代民主主義、
近代資本主義を嫌悪し、死には答えはなく、凡庸に目を逸らしながら、
その中にあるごくまれなかけがえのない物を拾っていく、
それしかないのに、そこから目を逸らし本当の自分があるかに捏造した。
客観視なものには答えはないと言っても主観の中にも本当の答えはない。
人は地道にすり合わせ調整して、存在者の中からよりマシな答えを出す。
それしかない。
凡庸な日常、凡庸な社会と向き合うしかないのに、
それとは違う、本来的決意を持った自分、時間があるかに語り、
あまつさえ、ナチス荷担。
ナチスを支持し、ナチスの支援化で総長になり、
ナチズムに理論的根拠を与える講演を行った。
資本主義や社会主義とは違うドイツ民族と哲学の使命を語り、
人々を死にいざなった。
戦後も反省せず、遺伝子改良のような農業をナチスのガス室と同じと語り、
近代技術に荷担しない俺カッケーを貫いたが、そういう凡庸な技術含めて、
凡庸さと向き合って折り合いつけることを拒否し、
ナチズムよりは民主主義選択する凡庸な中の正しい努力を、
最後まで、否定し自己を正当化し続けた。

ハイデガー哲学のそういう側面はほぼ事実だから忘れてはならない。

本当の自分は凡庸な近代の民主主義や資本主義とは寝ずに、
先駆的覚悟性でナチズムに身を投じる。
近代科学技術で大地と離れた生を送るくらいなら、
凡庸な生を送るくらいならそっちの方がマシだ。
ハイデガー思想にそういう要素があるのは事実で否定しようがない。
630ハイデガー:2013/10/27(日) 12:35:00.77 O
ハイデガー哲学の中に、誰だって死とはまともに向かい合えず、
死をごまかし、答えのない中で答えを出す。
答えを捏造する努力の中にしか本当の答えはない。
そういうごく当たり前の常識への忘却があった。
存在忘却なんかよりもっとはるかに重要な。

その結果、死に対して答えを出せる、そう振る舞える、
本当の自分がいるかに勘違いしてしまった。
哲学として、これは痛かった。


死を知ることができる。答えを出せる。
そういう倒錯した本来性を捏造し、自分がカントのように、
それを先導できると夢想してしまった。
そのための存在者と存在の存在論的差異。ハイデガー哲学。
631考える名無しさん:2013/10/27(日) 13:27:42.78 0
ナチスに加担し、理論的根拠を与えていた当時のあれらをあげる、それによ
ってハイデガー思想の本質が分かった、これである、とするのは『有と時』に
おける個体性や自立性、没交渉性、あるいは『哲学への寄与』でもそうだけ
ども、実存の空虚を埋めるために民族に同化することの愚を説いていた、それ
らをなかったことにしている。その意味で無意味な、実際に残されたテキスト
を無視している、それによって成立させているだけの論ですね。本来性に
しても、没交渉的な個体性としてまたは自立性として論じている。で、共同体
にしても、異なる運命が生起するなかで導出されるの共同体の運命である、
とする。これらと政治的な場面での民族主義に乖離があること、が謎で。HN
ハイデガー氏のいうほどには単純な話しではないと見れますけどね。本来性
なりを民族主義や玉砕主義と同一化したいようだけど、少なくとも主要な
論文からそれを導く、それしかないと導くのは無理と思います。
632考える名無しさん:2013/10/27(日) 13:55:12.31 0
 あと、民主主義政治や凡庸さから答えを探り出すしかない、とか、そ
れは本来性をナチズムと同一化してるので、いやでも否定するしか道
はないわけですが、本来性ひとつとっても、『有と時』と『哲学への
寄与』だと後者だと没落する動力を顕揚していたり、一枚岩ではないん
ですね。また、狂気や喪失を拒絶の動力として掲げているかのように
もみえる。時代によって推移がある。ナチズムにどこまでも一致させる
のは不可能ですよ。あと、ハイデガー思想にアレルギーのある人ほど
現代個人主義を掲げそこでの価値相対主義をそれしかないみたいに
云う傾向がありますが、どうもHNハイデガー氏もそうのように見えます
ね。よく知られている例だと『ハイデガー入門』を書いている竹田青嗣
がそうですが。正確にはそのアレルギーとはハイデガーをナチズムに
一致させたため、また、『寄与』などにおける没落や拒絶の動力の意
味がつかめない、それによるアレルギーで、簡潔にいえば全体を
掴み損なっているためのアレルギーであり、読解の限界によるもの
と思います。有の忘却も集-立もたいした話しではないと。それこそ
私には理解不可能な話ですが。
633考える名無しさん:2013/10/27(日) 14:28:32.70 0
 もうひとついうと、ハイデガーのいう有は主観でもないですね。主観
からみればむしろ他者というしかない。真実とは〈客観でも主観でも
ない〉。そこで〈人々がそれぞれを地道にすり合わせてひねり出す〉
市民主義の重要さ。しかし最初の把握からしてそこには誤解があるし、
有にある他者性がまるで掴めてはいない。他者性だからこそ到来的で
あるし、そこが掴めなかったとすると、既有も将来も掴めていない
ことになりますね。つまり、ハイデガーにおける本来性の時間が
理解できないことになります。そこでの時間把握からはナチズムを
直接的に導出することはできないし、実存の普遍的な動態をハイデガー
なりに提出しているのが分かる。個体性の根源が指示されていると
すればそういうところだと思います。理性的人間という定義と
近代民主主義が連結するとすれば、双方とも有の担い手としての人間
とはズレを生じる。ナチズムをわざわざ持ってこなくとも、有の担い手
というところからそこにはズレはあるわけです。
634考える名無しさん:2013/10/27(日) 16:10:05.63 0
>ナチスに加担し、理論的根拠を与えていた当時のあれらをあげる、それによって
>ハイデガー思想の本質が分かった、これである、とするのは
                             
もう上記のことが全くの詭弁であり、そもそものハイデガーにおけるナチ加担問題をねじ曲げているわけです。
一番重要なことは(以下)
 @ハイデガーはなぜ大戦後の自らの姿勢をしっかりと述べなかったのか
 A大学の学長という重要職の経験もありながら戦争について考えることを放棄した理由はなにか
 Bナチズムとはなんであったのかという哲学的考察の放棄をした
おおまかに言うとこれらの事実があるわけだが、ハイデゲリアンの中でも狂信的なファンダメンタリストとしてハイデゲリアンは
なぜかこれらを問われると「ハイデガー思想とは関係がない」という奇妙な弁解をする。
そもそもハイデガー思想について云々しているわけではなく、戦争経験者としての当事者として、さらに哲学者として
どうしてナチズムの問題や、悲惨な戦争そのものということについて述べなかったのかという意味であるのに
それらを別の意味に転嫁しようとするハイデゲリアンは、まことに異常としか言いようがない。
ハイデガーとナチズムそして大戦という大きな問題はまさに哲学の問題として成立するどころか、これこそが哲学の問題であり、
我々は戦争という悲惨な体験を繰り返さないためにも絶対に考えなければいけない問題なのだ。
ハイデガーという極めて卑怯な人間と、それを異常な側面から擁護する共犯的ハイデゲリアンに対しても厳しい哲学的・精神病理学的
考察をしていくしか、もはや方法は無いのかもしれない。
635考える名無しさん:2013/10/28(月) 03:31:26.54 0
パイデカーは巨乳
636考える名無しさん:2013/10/28(月) 08:25:35.93 0
@オバマはなぜ同盟国政府の盗聴発覚後の自らの姿勢をしっかりと述べなかったのか
A米国の大統領という重要職の経験もありながら同盟国政府の盗聴について考えることを放棄した理由はなにか
B同盟国政府の盗聴とはなんであったのかという哲学的考察の放棄をした
637考える名無しさん:2013/10/28(月) 08:29:08.12 0
訂正
B同盟国政府の盗聴とはなんであったのかという国際法上の考察の放棄をした
638考える名無しさん:2013/10/28(月) 14:29:29.65 0
>>636
自由、平等、基本的人権は、社会システムの基盤となるものであり、
国際間のル−ルも、自由、平等、基本的人権を基底とした国家間の“信頼”により
成り立っている。
639考える名無しさん:2013/10/28(月) 15:23:30.20 0
その人物がどうであれ、それなりの地位に就いているからには時代の権力に
迎合して生きている。でなければ、そのような地位には就いていないわけであり、
名を残す人物となることすらなかったであろう。だが、その迎合から
その人物の考え方を理解することができるとするのは、人格崇拝を
逆にしただけのあまりにも浅薄な人間と社会の見方ではないだろうか。
640考える名無しさん:2013/10/28(月) 18:32:21.92 0
>>634
ハイデガーは、心の底からヒトラーに賛同していたんじゃないだろうか?
戦後のなってもその考えは変わらなかったが、それをあからさまに言えば罪にも問われかねない。
言いわけばかり繰り返していたのは、そのせいじゃないかと思う。

「存在と時間」と「現象学の根本問題」しか読んでないけど、自民族の優位性にもその優位性が他者を否定していくことにも疑問は持ってもいない気がする。
641考える名無しさん:2013/10/28(月) 20:24:08.26 0
Guido Giacomo Preparataの『Conjuring Hitler: How Britain and America Made the Third Reich』なんかを読めば、
ヒットラー自身が心の底からヒトラーに賛同していたかどうかさえ疑わしく思える。
642ハイデガー:2013/10/29(火) 14:25:10.90 O
>>631
ナチス加担がどうだろうが、民族への同化を否定してるテキストがあろうが、
ハイデガー哲学の中に、誰だって死とはまともに向かい合えず、
死をごまかし、答えのない中で答えを出す。
答えを捏造する努力の中にしか本当の答えはない。
そういうごく当たり前の常識への忘却があった。
存在忘却なんかよりもっとはるかに重要な。

その結果、死に対して答えを出せる、そう振る舞える、
本当の自分がいるかに勘違いしてしまった。
哲学として、これは痛かった。
のは否定しようがないね。
どう言い繕うがハイデガー哲学の中に問題がある。
643ハイデガー:2013/10/29(火) 14:46:01.95 O
静態的現象学から発生的現象学に移行したことが、
フッサールの中で一番駄目なところでしょう。
デリダが鮮やかに論じたように、現象学が目的論であり、
哲学者が世界を先導し、支配するという欲望と結びついている。
それがあからさまに露呈している。
ライオンという綴りの意味しているものは日本語では同一の意味している。
理念の中で過去から未来の世代まで数学や文化は世界中のものが同一として、
イデア的に充足される。
インドやシナなどどうでもいい。

生活世界からたち現れるものの中から超経験的理念があり、
それを経験離れてイデア的に充足する形て人々は理念的に結合し、
歴史の地平の中で実現していく歯車でしかない。
フッサールが相互主観性論じたところでははっきり描かれています。

そういう形で諸学の危機も幾何学の起源も描かれている。
相互主観の網の目の中、哲学者が先導したい理念が超経験的に、
たち現れ人々はそれに従属するのみ。
生活世界はそういう危ない理念です。
諸学の危機や幾何学の起源読んだことがありますか?教えてください。

ハイデガーもそれに竿さしているなら余計始末に負えない。
ま、ハイデガー自身は本来的自己の実現のために、
死さえ私ははっきり見つめられ誤魔化さずに答えを出すという形で、
フッサールには興味はなかったと思いますが。
644考える名無しさん:2013/10/29(火) 19:08:00.71 0
>>643
静態的現象学(純粋現象学)から発生的現象学に移行したことが、
フッサ−ルの中で一番駄目なところでしょう、と述べているが、
この純粋現象学(静態的現象学)と発生的現象学の、“分岐点”に
あるのが、デカルト哲学の「超越論的主観性」であると思う。

この「超越論的主観性」を分岐点として、フッサ−ルが純粋現象学(静態的現象学)
から発生的現象学へ移行する“直接的な原因”は、なんでしょうか。
645考える名無しさん:2013/10/29(火) 19:41:50.60 0
また痔炎か
646ハイデガー:2013/10/29(火) 20:39:32.79 O
静態的現象学。
これは何のためにあるかと言うと、経験からは出てこない客観的なもの。
それを捉えるためなんですね。
現象学には誤解があるけど、経験の内部を主観的に解釈する学問じゃない。
数学とか、論理とか個々の有限な経験の内部では正しさを証明できないもの、
理念。
体験する色でもこの色、あの色ではなく、
それを結びつけてこれが色の本質である。
そういう色の理念。
本質を直観するものなのだよね。
経験を超えた本質を直観するための哲学。それが現象学。
647ハイデガー:2013/10/29(火) 21:29:04.35 O
何故理念を探るのか。西洋哲学が元々そういうものだから。
ソフィストに戦ったソクラテス以来。哲学は経験超えて万人が従う理想。アプリオリな理念を追いかける。
ヒュームでなくカントが何故偉大とされるか。経験超えたアプリオリを理念を追求したから。数学者だったフッサールもそうする。
フッサールが罵倒したのは自然主義。唯物論と実証主義。太陽が百回昇ったからって次昇るとは限らない。
認識の中の客観性を無視している。
もう一つ世界観哲学。相対主義。すべては相対的で文化や歴史によるその都度のもの。そういう見方にフッサールは与しない。

数の認識は万人にとって経験離れて同一だ。色だって一人一人個々のクオリアは確認できないようで、共通の認識持てる。時間は一瞬一瞬の視点に立てば理解不能だが、時間の本質について個々の経験離れて把握できる。
ソフィストに対するソクラテスのように経験離れて万人に妥当するアプリオリ。理念を人間は把握でき、そのための厳密な学問。誰がやっても同じ答えにたどり着く客観的理念の把握の方法論。
それが現象学。
648ハイデガー:2013/10/29(火) 21:40:20.66 O
ここまで整理すればわかってもらえるとおもうけど、静態的現象学から発生的現象学への移行の必然性が見えてくると思う。
確かに個々の主観性からも理念がたち現れるのは把握できる。
しかし、雑多で複雑に生成する学問、文化。そういったものは静態的現象学では無理だ。個人に焦点与えた現象学では無理だ。
そこで相互主観性の中で発展していくもの、文化や理念の成長発展を捉える現象学が必要になる。
相互主観性。発生的現象学。おどろおどろしいが何のことはない。静態的から発生的への移行はそういうものとして必然的だった。
649ハイデガー:2013/10/29(火) 22:15:49.71 O
個々の人間の経験からは出てこない、相互主観の中の社会の中に貯められている理念性。
幾何学の起源でドイツ語でLoweライオンと言う語はドイツ語においては、一度だけしか現れてないのであり、この語は任意の人による無数の表出において同一なのである。と書かれている。
幾何学の起源でフッサールは語る。自分は幾何学の創設者が誰か、ターレスだ何だの任意の個人には興味はない。
相互主観性の中で地平に幾何学の理念がたち現れ、起源から永遠に同一で万人にとっても規則的で経験超えて妥当する。そういう自己同一的な幾何学の理念の地平だけが問題だと。
個々経験的な逸話、エピソードには興味ない。今日子供たちに学習され、再現される、その作図の中から子供の頭の中に直観される、幾何学の地平、起源から変わらない理念を語るのだと。
ヨーロッパ諸学の危機の第六節でギリシア的人間性においてはじめて発展する理性が開示していく歴史的運動。ヨーロッパ的人間性が、絶対的な理念を担い、シナだとかインドなどの経験的な類型ではない使命を語るのが現象学だと。
650ハイデガー:2013/10/29(火) 22:30:45.36 O
確かに万人に共通なアプリオリを語るなら、経験を切り捨てないといけない部分があることは認める。
しかし、異常すぎないか?
Loweに対してそれは無時間的に同一だと言うが、一人一人そこで思い浮かべているものは違う。
ピタゴラスの定理についてそれをピタゴラスよりも昔の誰かが見つけ出した瞬間から、少なくともそれが伝達されて伝えられて今日子供たちが学習する間に、
相互主観性の網の目で伝達されているなら同一のものであり、同じ地平の同じものだ。

そうだろうか。人々が創意工夫し、それぞれに教えられながらも見いだしたそれは全部同じものだろうか。それぞれの発見は別のものではないのか。
また、ライオンについて、ピタゴラスについて間違うことは許されないのか。共同体から、地平から外されて何の価値もないのか。
651ハイデガー:2013/10/29(火) 22:54:12.64 O
結局、アプリオリに理念にこだわるがために、多様な現実を、その中のやりとりから多くのものを排除してしまっている。
人々の日々の営み、様々なやり方での発見。間違いや取引、調整。そのそれぞれの価値。そういう多様性含む科学の現実的なあり方を無視して、有り得ない抽象的な共同体。
その地平の中に含まれるエリートを優遇し、自分が現象学がそれを先導する。そういう哲学の支配。搾取。混じりっけなしの目的論を展開している。
これはテキストに当たればそのまんまだから他に読みようがない。
確かに個々の経験には還元されない理念も大切だろう。しかし、同じくらい経験に基づく雑多さ、その中に含まれる驚きも大切だ。

幾何学がそのすべての真理とともに、すべての人間、すべての時代、民族にとっても普遍的に妥当するものだ。そのアプリオリを提示するのは必然的に現象学による普遍的歴史的アプリオリを基礎としてのみ可能だ。
現象学こそがそういうアプリオリそのものだ。
フッサールははっきり言っている。

フッサールはナチスによる迫害された人間だが、同時にナチスによる迫害を準備した人間だ。
相互主観性。地平。発生的現象学。
それはまさに準備したものだし、生活世界と言う概念も優しいものではく、相互主観性の中から理念を立ち上げる。そういう危ないものだ。
世界内存在が。存在論的差異か。本来的時間性が。
ナチスを導かないにしてもナチスに抵抗しない、むしろ同化し、
私だけが死に立ち向かい凡庸な生を離れて本来的死を獲得するとうそぶくように。
652考える名無しさん:2013/10/30(水) 08:33:54.29 0
デタラメを書き込むことにこれだけのエネルギーを注ぐ情熱はどこから生まれてくるのだろう
653考える名無しさん:2013/10/30(水) 09:46:59.07 O
>>652
こういう馬鹿は結局、何となく好きになった哲学者を擁護したいだけ、なんだよな。
わけもわからず。
アイドルと哲学者を間違えてやがる。
654考える名無しさん:2013/10/30(水) 12:27:21.21 0
>>648
フッサ−ル中期の静態的現象学(純粋現象学)では、「現象学的還元」が中心となるが、
この「還元」とデカルトの「懐疑(方法的懐疑)」の思考過程は、同じものと解釈しています。

フッサ−ルの「還元」と、デカルトの「懐疑」の極限に於ける到達点が、デカルトの「超越論的主観」と
解釈している。
この「還元」と「懐疑」の思考過程を、貴方はどのように解釈していますか。
655考える名無しさん:2013/10/30(水) 19:05:32.25 0
ハイデガーは極悪人過ぎるな
モサドに消されるべきだった
656考える名無しさん:2013/10/30(水) 20:58:08.29 0
ヒトラーを支持していた人は大非難されているのに
ハイデガーだけはお咎め無しというのは変だよね?
657考える名無しさん:2013/10/30(水) 23:20:09.89 0
え?
めっちゃ非難されてたじゃんwww
658考える名無しさん:2013/10/31(木) 00:23:29.83 0
ヒトラーを支援した人たちは非難されるどころか、いまだに名前すら表に出てこないだろ
659考える名無しさん:2013/10/31(木) 00:29:17.91 0
Nicht der eine Mann Hitler, der damals noch ausschliesslich in
bayrischen Bierkellern seine Reden hielt, konnte diese Tausende
junger Burschen zu einem so kostspieligen Apparat aufgerustet haben.
Es mussten starkere Hande sein, welche diese neue >Bewegung< vorschoben.
660考える名無しさん:2013/10/31(木) 13:06:46.09 0
>>659
これ書いた人、ブラジルで謎の「自殺」を遂げてるんだよな。
それにこれが書かれてる本を日本語に翻訳した人も若死にしてる。
661考える名無しさん:2013/10/31(木) 20:24:41.29 0
>>659-660
何が書いてあるかわからないから、どうでもいいや。
662考える名無しさん:2013/11/02(土) 20:54:05.94 0
 フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』『幾何学の起源』
。例えば前者(中公文庫版)p.472に書いてますが。

〈世界の存在論という理念、世界についての客観的普遍学ーこれはその背後に
、ありうるであろうあらゆる事実的世界がそれによって幾何学的様式で認識
されうることになる普遍的アプリオリを有しているーの理念、ライプニッツ
をさえも誘惑したこの理念は、まったく無意味である。心の領域にとっては
こうした存在論は原理的に存在しないし、たとえ心的存在が超越論的普遍性
において完全に体系的に、つまりアプリオリな学というかたちで原理的な
本質的一般性において研究可能だとしても、物理学的-数学的理想にかなった
ようなタイプの学問は存しないのである。〉

 つまり心というものが事物と同様に有るのではないこと、扱われないこと
がよく把握されている。それを学問が、ないし心理学もでしょうが、やること
は無意味だとみなしている。人間把握として透徹してると思えますね。また、
イデア中心主義的に扱うような人間性把握も出てこようがないでしょう。そ
れを言い換えれば全体主義ではないということ。
663考える名無しさん:2013/11/02(土) 21:20:37.98 0
>>658
そりゃそうだろ。だってユダ公差別の大先輩はキリスト教なんだからw
664考える名無しさん:2013/11/02(土) 22:05:57.50 0
>相互主観性の中で地平に幾何学の理念がたち現れ、起源から永遠に同一で
万人にとっても規則的で経験超えて妥当する。そういう自己同一的な幾何学
の理念の地平だけが問題だと。

 〈自己同一的な幾何学の理念〉がどういうふうに現象したかが問題で、しか
しそれは個々の学者や歴史を無視しているのとは違いますね。自然の形態へ
の明証があったはずだ、として描いている。幾何学にたいするいわば現象学的
還元が動機でしょう。幾何学はどのようにして可能か、であって。そう大騒ぎ
することないんじゃないか(笑)

>アプリオリに理念にこだわるがために、多様な現実を、その中のやりとり
から多くのものを排除してしまっている。

 学の成立する基盤を探求しているわけで、それは理念による恐怖・排除とは
おのずと違いますね。
 結局ここでもナチズムとの関係を弾劾したいあまり、性急で、すべてを
民族主義に落とし込む作業になっちゃってる。 実際にテキストを読むかぎり
、よく考えられてるしー当然だけど(笑)ー安易な全体主義、イデアリズム
とは一緒にはなりようがない印象を受けますね。

 ついでにデリダについて一言あげれば、初期に『差延』という論文があって
。そこでフロイトの無意識について色々書いてるわけですが、「かつて現前し
たこともなく、これからも現前しない痕跡」といった云い方をしてたわけです
。話にリアリティがなく、そんなものは幽霊だよ、馬鹿かとしか言いようは
ない。これを感心して頷いてる日本の文化人は何考えてんのか、と訝ったの
を覚えている。
665考える名無しさん:2013/11/02(土) 23:39:29.49 0
静態的現象学(純粋現象学)の“現象学的還元”に於いて、カントの「アプリオリ」について、
「カントは、人間の認識は先験的に、「感性−悟性−理性」という区分を持ち、そのそれぞれが、
「時間・空間」「四つのカテゴリ−」「三つの理想理念」という“アプリオリ”な形式性を持つと
主張する。 しかし、これについては誰も“検証”出来ない。」とフッサ−ルは述べている。

それに対して、フッサ−ルは、「原則として誰もが自分の内在意識を内省的に直観しつつ、確かに
“確認”出来る。」と述べている。
この内在意識を内省的に「直観」するとは、アポステリオリ(後天的)に直観により“経験的”に
認識をすることである。

ここに記述しているのは、フッサ−ル中期の静態的現象学(純粋現象学)の場合を述べている。
相互主観性の中での地平の現象学は、フッサ−ルの後期の「発生的現象学」に入る。従って、
この「静態的現象学」と「発生的現象学」の概念は、180度異なる、この点が「現象学」の
“難解”なところなので、注意しなければならない。
666考える名無しさん:2013/11/03(日) 11:45:30.57 0
>生活世界からたち現れるものの中から超経験的理念があり、
それを経験離れてイデア的に充足する形て人々は理念的に結合し、
歴史の地平の中で実現していく歯車でしかない。
フッサールが相互主観性論じたところでははっきり描かれています

 フッサールが『危機』で述べる方法とは、実際の生活世界での人間の生、
自然、それをとらえ返す理性の存在、であり、とりわけ上レスであげたよう
に、事物的に人間をとらえる心理学などに厳しい否定を加え、無意味と論断
しています。そこで生々しい生をどうとらえ返すか、がこの時新しい学の問
題として考えられていたことが想像される。だからこそのタイトル『ヨーロ
ッパ諸学の危機と超越論的現象学』、学が人間を捉えられなくなっている
ことに対して、現象学がどうそれを回復できるのか、そこから物理-数学的に
人間をとらえる学への否定も現れる。しかしそれでも学が蘇生し、再生する
ことに期待をかけないわけではない。〈人類の自己理解〉に賭けないわけ
わけにはいかない。それがあそこでの学へよせる、まだ蘇生はできるはず、
という希望にもなってるわけですね。「経験を離れたイデア」を優先させ、
具体的経験や生活世界は無視してればよい、ではない。
 まとめ方として、超経験的イデアを先導する哲学、人間は斬り捨て、として
弾劾するわけですが。むしろその傾向-生身の人間の捨象-を歴史的に分析し、
取り戻し、それによって学の再生の可能をさぐったのがあの『危機』だった
と読むのが正解と思います。
667考える名無しさん:2013/11/03(日) 12:11:49.68 0
そういう形で諸学の危機も幾何学の起源も描かれている。
>相互主観の網の目の中、哲学者が先導したい理念が超経験的に、たち現れ
人々はそれに従属するのみ。生活世界はそういう危ない理念です。

 ここが最も、本当に読んだのかな?と訝りたいところですね。

〈われわれが見過ごしてはならないのは、近代哲学は、それが客観的諸科学
というかたちをとるかぎりでは、それ自体において真なる世界という虚構
された概念、また少なくとも自然に関しては、数学的形式のうちに基礎を
もつ世界という虚構された概念によって導かれている、ということである。〉
(中公文庫版『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』p.317 )

〈哲学がもしこの領域(生活世界)を「無記名性」のままに放置しておくとし
たら、哲学は、究極的に根拠づける普遍学であるというその創建時の意味を
満たしていないことになりはしないか。だが、はたして哲学にそれがなしうる
のだろうか。〉(同上 p.201)

 どれほどここでフッサールが無名の人間の世界、名づけられたことはまだな
い世界について気に留め、新しい学問がそれをやれるのではないかと希望を
つないでいたことが窺えるのではないか。〈生活世界を主題化する〉ことが
それであることが窺える。これが生活世界をめぐる『危機』での情況であり、
これが喪われていることがそのまま「諸学」の「危機」だとしている。そう
のように読むのが妥当と思いますけどね。
668考える名無しさん:2013/11/04(月) 14:09:46.03 0
>>666
静態的現象学(純粋現象学)の、「超越論的主観性」に対してフッサ−ルは、
一般的(常識的)に言われる“独我論”ではないが、「超越論的主観性」は超越論的な
“独我論”と述べている。
この超越論的な“独我論”の超克が、「形相的還元」によって出来なかったことが、後期の
発生的現象学(相互主観性)への転換へと繋がった、一つの根拠となったと思う。
669考える名無しさん:2013/11/18(月) 09:46:28.69 0
作品社 ‏@sakuhinsha 14 Nov
作品社 新刊情報。マルティン・ハイデガー、高田珠樹訳『存在と時間』22日取次搬入予定。
存在の意味を問い直し、固有の可能性としての死に先駆けることで、良心と歴史に添った本来的な生を提示する西欧哲学の金字塔。
傾倒40年、熟成の訳業。
http://www.sakuhinsha.com/philosophy/24548.html
670考える名無しさん:2013/11/18(月) 09:50:26.96 0
自分が40年をかけた訳業の出版の直前に、熊野純彦が他の仕事のついでにやった訳が
岩波文庫から出て、むかついているだろうなw
671考える名無しさん:2013/11/18(月) 10:17:08.42 0
>>670
はっきりいって細谷と渡辺の訳に比べて良いということもないだろうな
もともとのハイデガーが「存在と時間には文法が存在しない」とか言ってるんだから
ようは駄目なんだよあの本は
ハイデガーって講義はいいけど文章は全く駄目だな
672考える名無しさん:2013/11/18(月) 10:30:12.99 0
熊野訳は文庫版で手軽だから、今度出る高田訳よりも確実に売れるし今後も読まれる。
高田訳は、完全に熊野訳の影に隠れた格好になってしまった。
あと一年でも早く出せていれば、全然売れ行きは違っただろうなあ。
高田訳の利点は、分冊ではなく一冊になっていることぐらいか。
673考える名無しさん:2013/11/18(月) 11:10:46.03 0
熊野訳は4分冊だから今後は新規で買う人は少ないだろう
高田訳は翻訳がそうとう良ければそこそこ売れるかもしれない
それこそ高田訳が今後文庫化されるならば継続販売になるだろうな
熊野訳は4冊で5000円以上だから評判が悪ければ絶版になる可能性はある
674考える名無しさん:2013/11/18(月) 11:14:23.08 0
プロはともかく、素人はとりあえず文庫の第一巻を買うほうを選ぶだろ
675考える名無しさん:2013/11/18(月) 11:22:02.17 0
>>673
高田訳の版元は作品社だから文庫化される可能性はほぼない。
熊野訳はこれまでのところ評判もいいし、そもそも岩波文庫の旧訳が酷かったので、
熊野訳が絶版になる可能性はまずない。
676考える名無しさん:2013/11/18(月) 11:35:22.40 0
出版元は関係ないよ
他の出版社から文庫で出せるから
熊野は分冊しすぎ
せめて3冊だな
じっさい3巻目はそれほど売れていない
まあ用語の表記の仕方とかも良くないから
そこが問題かな
677考える名無しさん:2013/11/18(月) 11:44:07.33 0
熊野純彦さんのはハードカバー仕様も岩波から来年出るそうです。
むしろそれは研究者には助かりますけれども。
678考える名無しさん:2013/11/18(月) 12:11:06.51 0
ハードカバー版ってマジ?
出すなら要約を省くか別冊にすればいいね。
679考える名無しさん:2013/11/18(月) 12:25:08.67 0
もし熊野訳がハードカバーの1巻本として出たら、
高田訳の意義はますます小さくなるな。本当に遅きに失したね。
680考える名無しさん:2013/11/18(月) 12:43:50.11 0
>>679
内容しだいだろ?

もっともハイデガーの研究者が翻訳本をそんなに欲しがるのかどうかは知らないが、僕みたいな素人の語学音痴はいくつかの翻訳を図書館でよんでから、必要であれば買う。
多くの翻訳が出たのなら、とてもいい比較の対象になる。

もっとも翻訳本が多すぎて、近所の図書館にはどちらも購入されないかもしれないなw
681考える名無しさん:2013/11/18(月) 12:53:21.12 0
純粋理性批判も文庫7冊中山訳の直後?に熊野訳の一冊ハードカバーが出てたな……
売り上げは中山のほうがあっただろうが・・・
682考える名無しさん:2013/11/18(月) 13:15:04.46 0
書籍としては細谷訳が一番ハンディになってるのが皮肉だな。
683考える名無しさん:2013/11/18(月) 13:28:09.08 0
有と時というタイトルの翻訳本があったこともたまには思い出してあげて
684考える名無しさん:2013/11/18(月) 16:29:42.24 0
存在と時間の新訳なんかが出ても買うのは大抵がジジイ
だから文庫は字が小さくてきつい
ハードカバーにこしたことはないな
685考える名無しさん:2013/11/18(月) 18:43:20.50 0
ドイツ語も出来ない下衆は熊野先生訳を黙って買うのがよろし(提案)
かわいいガールにはじきじきに贈与してあげますよ
686考える名無しさん:2013/11/18(月) 20:14:44.49 0
>>685
ドイツ語も英語もできなくて日本語も怪しい下衆以下のゴセなんだが、熊野訳のどこがいいの?
687考える名無しさん:2013/11/18(月) 20:23:09.20 0
 〈現有はそれ自身のために実存する、という命題(…)。上記の命題のうち
には、現有を独我論的に隔絶することも、現有を利己的に高揚することも、含
まれてはいない。それに反して確かに、この命題は、人間が「それ自身」を「利
己的」にか「利他的」にかどちらかの仕方で関わり合わせうるということを可能
にする制約を、与えている。〉Sein が開ける現であることが、人間を利己的に
、または利他的に、場合によっては自己犠牲的にする。どちらになるかは
まさに-主観ではなく-Seinにとって、何が気にかかるのか、本来的だとみえ
ているか、に掛っている。
688考える名無しさん:2013/11/18(月) 21:15:20.17 0
ハイデガーというのは、「20世紀最大の哲学者」というステマキャッチを取り除くと、貧相な観念論哲学にしか見えないんだが?

『現象学の根本問題』では、自分でもそんなようなことを言ってる気がする。
689考える名無しさん:2013/11/18(月) 21:20:45.24 0
ハイデガーは「文献解釈学者」だからね
哲学者というほどの仕事はしていないし
だいいち文章が下手すぎるな
フッサールのおかげでいわゆるバーターだよ
690考える名無しさん:2013/11/18(月) 22:49:51.66 0
age
691考える名無しさん:2013/11/18(月) 23:11:52.72 0
687の引用は「根拠の本質について」(1929年)のものだが、人間が
Sein の開ける場であること。そこで利己的にも利他的にもなり得るが、
それは何が気に掛けられているか、また志向されていくか、によるので
あり、それが自己=倫理の引き金になっていくが、それは主観の力という
よりは、時=自然のもたらす到来によることが、根底にある。主観では
なく、いわゆる時熟が、過去の刻印が或る時表現されるにしたがい己を
変えていく、というのが生の事実性にたいし解釈される根本である。
692考える名無しさん:2013/11/18(月) 23:14:09.40 0
 熊野氏はレヴィナスを引用し、人間が自己犠牲もし、ある場合には
他者の身代わりにさえなる、そういう他者との関係はハイデガーには
ない、と講義動画で言うが、実は現有が利己的にも利他的にもなりう
ること、しかしそれは人間がSeinの到来する場であるから、であるこ
ととして包括してしまっている。すなわちレヴィナスのいうような関
係がなぜ可能であるのか,既に言い当ててしまっていることになる。

 そのようことについて言えない方が『Sein und Zeit』を訳したと
いうこと。また、ハイデガーについて動画で配信する講義まで行って
いる。不思議なことだと思う。
693考える名無しさん:2013/11/18(月) 23:17:26.04 0
>>691
その説明、分かる人にはしみじみと分かるのかなぁ....
694考える名無しさん:2013/11/18(月) 23:19:21.64 0
一生を象牙の塔の中で暮らしたハイデガーと、強制収容所からの生還がその哲学の原点にある
レヴィナスを比べてやるなよ
695考える名無しさん:2013/11/18(月) 23:36:13.55 0
ハイデガーの他者論の特徴は他人に自己を置き移す、つまり〈置き移し〉
として語られている。つまりこれが他者との間に媒介されて他者は可能に
なる、という。柄谷行人のように「未来の他者」とか、持ち出す思想家
もいるが、ハイデガーの場合、むしろ「他者自体」にたいし、禁欲して
いるといっていい。柄谷は『探究』のころはコミュニケーションの非対
称性を論じていた、つまり真摯だったのにのに転向して安易な他者論に
滑り落ちたと思う。
696考える名無しさん:2013/11/19(火) 09:21:02.35 0
>>692
不思議なのはお前の理解力が異常に低いことだけだよ
それよりも毎日ちゃんと薬は飲んでいるか
精神科の薬は乱用するなよ
697考える名無しさん:2013/11/19(火) 09:28:32.34 0
人身攻撃しても利口には見えないぞ
698考える名無しさん:2013/11/19(火) 09:37:09.82 0
>>697
人身攻撃にみえるけれど
後ろ二行は事実なんだよ
なんせ当人が以前のスレでその身の上を語っていたからね
699考える名無しさん:2013/11/19(火) 09:37:47.35 0
>人間が自己犠牲もし、ある場合には他者の身代わりにさえなる

滅私奉公の精神とか、自己犠牲とか、他者の身代わりとかどこの会社の経営哲学にでもあるぞw
だいたい、戦時中の倫理教育はそんなもので溢れていただろう。
700考える名無しさん:2013/11/19(火) 09:43:59.78 0
ハイデガーが他者に対する感情移入が出来ない脳構造であったことは間違いない
でなければナチ党員であったことの説明が出来ない
701考える名無しさん:2013/11/19(火) 10:07:15.86 0
>強制収容所からの生還がその哲学の原点にある

召集直後に戦争捕虜としてつかまって、終戦時まで薪割りの仕事をさせられてたのが、
戦地で戦闘員として働かせられることと比べて、それほど悲惨なのか?
リトアニアの家族を戦時中に亡くしたことは、東京大空襲や原爆投下で
家族を全員殺された人たちの経験の痛ましさと何か違いがあるのか?
702考える名無しさん:2013/11/19(火) 10:24:45.05 0
「悲劇」とは「個別の悲劇」のことである
それぞれの「悲劇」はそれぞれにとって「悲劇」であり
それを質的に順位をつけたり比較したりすることはできない
それぞれの人間にとって今まさに目の前にある「悲劇」こそが重大な「悲劇」なのだ
ハイデガーはそれを(置き移し)によって均質化してしまった
それによって彼のナチ加担もユダヤ人のホロコーストも「誰にでもあり得ること」とし
個別の「悲劇」であるはずのものから「悲劇」そのものを抹消しようと企てた
レヴィナスによるハイデガー批判の根本はじつはここにある
そして熊野純彦もそのことを指摘しているのであろう
703考える名無しさん:2013/11/19(火) 10:57:07.93 0
>>702
それは言葉の定義しだい。

言葉に振り回されてしまうのが、観念論の大きな弱点。
704考える名無しさん:2013/11/19(火) 11:10:35.39 0
>>703
702は観念論ではないよむしろ「現実論」だ
誰もが実際に感じている「悲劇」をハイデガーが「観念論」として否定してしまった
誰だって自分が「悲しい」と感じればそれは確かに「悲しい」ことだ
そして各人の「悲しい」という気持ちを「おまえの“悲しい”は大したことはない」とは言えないはず
そもそも比較対象にはならないのが「情動」なんだよ
脳神経医学的にも「情動」は当人の脳機能のひとつであり普遍的基準による比較対象にはなりえないということが
脳神経学者の認識にもなっている
こうした研究の最前線のひとつにイタリアの医学者であるルック・チオンピも多くの論文で指摘している
705考える名無しさん:2013/11/19(火) 11:27:23.56 0
まあ、普通の日本人にとってパキスタンで子供が無人機による爆撃で死ぬことより、
自分の買ってる猫が車に轢かれて死ぬことの方が、はるかに悲惨な悲劇なわけだ。
706考える名無しさん:2013/11/19(火) 11:30:16.54 0
買ってる×→飼ってる○
それに知らない人の飼ってる猫が車に轢かれることより、
自分の財布を落としてしまったことの方が悲劇だ
707考える名無しさん:2013/11/19(火) 11:39:18.60 0
>>705
そういうことだろうな
パキスタンで爆撃死した子供は「悲惨」
自分の猫が轢かれて死んだことは「悲惨」
それぞれにとって「悲惨」だし「悲しい」ことだよ
ハイデガーが言ったことはその二つの悲劇を「≒」で結んでしまったこと
そしてこう言った「ユダヤ人の悲劇はドイツ人が逆になっていたかもしれない
戦争とはそういうものだ。そしてどの国の誰もがそうなってしまう可能性はあったのだ。
そういうことに過ぎない。」
これは晩年の発言だがナチに加担していた人間がいってはいけない言葉だ
708考える名無しさん:2013/11/19(火) 11:46:41.51 0
ふつう戦争の結果に応じて逆転するのは官軍と賊軍だな
709考える名無しさん:2013/11/19(火) 11:53:46.99 0
負けた側が勝った側にお「前が負けていたら真実は異なっていただろう」などと
言ったところで負け惜しみに過ぎないわけで、勝った側から「反省が足りない」
とさらに踏みつけられるだけのこと。だから負ける戦争をしてはいけない。
710考える名無しさん:2013/11/19(火) 12:22:01.04 0
>>704
なぜ、悲劇一般を個別の悲しさに解消できると思う?

個別の悲しさなどを抽象するところで概念としての悲劇が成立する。
現実を抽象した概念である言葉を現実の個別の感情に置き換えても意味をなさない。

だから、

>「悲劇」とは「個別の悲劇」のこと

である場合もあるが、概念としての悲劇である場合もあるということだ。
個別の事象を指し示して表現した言葉と、現実を抽象して概念として成り立つ言葉を混同するから、観念論の域を出ないしそれが観念論の大きな弱点ということだ。
言ってみれば、抽象の度合いがまったく違う。

>>707
>戦争とはそういうものだ

ハイデガーがそう言ったとしたら、それはただの本音でもあるし、ただの事実でもある。
どういう立場の人間であれ、言ってはいけない言葉には入らない。
そういう指摘は、いつでも誰に対しても必要な指摘だ。
711考える名無しさん:2013/11/19(火) 14:21:30.33 0
>>710
なんか馬鹿丸出しやん。
712考える名無しさん:2013/11/19(火) 15:37:58.53 0
思想が中学生レベルだなwww
713考える名無しさん:2013/11/19(火) 15:40:38.48 0
いや、園児の疑問レベルだよっ♪
714考える名無しさん:2013/11/19(火) 17:04:07.25 0
>>711>>712>>713
ほらね。

君たちは、ちょっと現実を見せてあげて普通の論理のレベルで書くと、こんな程度の反応しかできないだろ?
現実を見て論理を組み立てることができない。

所詮ハイデガー好きなんてのは、こんな程度w
715考える名無しさん:2013/11/19(火) 17:38:39.70 0
子供に真面目な話を返しても意味がないから笑ってるんだろ?
716考える名無しさん:2013/11/19(火) 17:43:24.09 0
まーた論理とか言い出すやつほど論理的でない法則か
717考える名無しさん:2013/11/19(火) 18:10:54.22 0
そんな法則ねーよ
718科哲:2013/11/20(水) 11:54:40.27 0
ハイデガーヲタに論理力が無いのは仕方ないよ。
フッサールは英米哲学である分析哲学にも取り入れられたがハイデガーはねえ。
浪漫文学に論理を求めても仕方ないさ。
719考える名無しさん:2013/11/20(水) 13:16:58.46 0
英米哲学である分析哲学を代表する哲学者といえば、ヒラリー・パトナムだな

「導きとしてのユダヤ哲学 ローゼンツヴァイク、ブーバー、レヴィナス、ヴィトゲンシュタイン」
720考える名無しさん:2013/11/20(水) 13:53:32.85 i
個別的な経験的現実と一般的な概念を混同するのが観念論の弱点とか言ってる奴がいるが、こいつは観念論を何だと思ってるんだ?
精神現象学の冒頭100ページくらい読んでから出直してきなさい。
721考える名無しさん:2013/11/20(水) 13:56:19.62 0
ハイデガーが言う〈置き移し〉とは別に特別なことでも何でもない。現に日常的
に我々が様々に実践していることを言ってるに過ぎない。上のレスで様々な不幸
が例として挙げられているがそれらを我々が語る場合、例外なく〈置き移し〉を
やっている、それにより自分のものとして語っている。上のレスでの語りを
みればまったく我々が日常的に実践しているということがよく分かる。それら
のレスはハイデガーによる事実性の解釈に裏付けているようなものだ。

 ハイデガーのいう〈世界の-内に-あること〉でいう〈世界〉とはよく言われ
ることだが有るもの=存在者ではない。可能性として有限である他ない単独者
の世界性=存在了解を指している。そこでそれぞれの存在了解は、異なる
超越としてあり、他者性はそこで生成する。ハイデガーの有論に他者が語られ
ないことはない。〈世界の-内に-あること〉〈存在了解〉といった概念が、
まさに単独者の本質であると同時に、コミュニケーションの場面での他者性を
表していると読めるからだ。
722考える名無しさん:2013/11/20(水) 14:53:07.53 0
>>720
ごめん。

精神現象学は読んだけど、そもそもヘーゲルは観念論じゃないからw
723考える名無しさん:2013/11/20(水) 15:54:41.65 I
ハイデガー理解はなんでこう感情論的な方向に傾いて行くのかね
きっと頭が悪いからそれくらいにしか解釈できないんだろうな
724考える名無しさん:2013/11/21(木) 08:24:23.63 i
>そもそもヘーゲルは観念論じゃないからw
ヘーゲルが観念論じゃないってどういう理解なんだ?誰の解釈?どういう論拠があるの?
つーかヘーゲルが観念論じゃなければ何が観念論なんだ?イギリス的ないわゆる主観的観念論がそうなの?プラトン?
725考える名無しさん:2013/11/21(木) 08:29:04.10 i
まあ観念論なる概念そのものが多義的だから、こんなぐちゃぐちゃ突っ込んでも意味ないけど、観念論概念を不明確なままに観念論を批判してもそれは全然論理的じゃないよ。
それこそ特殊性と一般性を取り間違えるという初歩的な誤謬ね。
726考える名無しさん:2013/11/21(木) 08:38:45.10 i
さらにいうなら、>>702は別に悲劇概念一般を定義しようとしてるわけではないのでは?
確かに、SはPである、という一見全称肯定に見えなくもない判断形式をとってるけど、もちろんレトリックのレベルと論理形式のレベルは区別しなければならない。これも初歩中の初歩ね。
727考える名無しさん:2013/11/21(木) 09:59:28.26 0
>>725
>観念論概念を不明確なままに

>>722のレスで観念論の概念を明確に説明していないことは認める。
しかし、それは書いた人間の観念論の概念が不明確であることを意味しない。

>特殊性と一般性を取り間違えるという初歩的な誤謬

それなのに、なぜこの単純な思いつきにに結びつくのか、説明できるなら説明してごらん。
書いた人間の概念の内容もわからないままに、さらに、特殊性とか一般性とかの概念自体を不明確なままにして、誤謬であるとかないとか結論付けても、空想の上に思い付きを重ねた、まさに観念論そのものだよw

>>726
>レトリックのレベルと論理形式のレベルは区別しなければならない

そのとおりだ。
>>702の、その区別を具体的に指摘してから、>悲劇概念一般を定義しようとしてる、のかそうではないのかという感想を書かないと、これもまた、空想の上に思い付きを重ねているだけということになる。

観念論という代わりに、自己撞着と言い換えてもいいけどねw
728考える名無しさん:2013/11/21(木) 12:53:02.78 0
ハイデッガーは観念論というよりもほとんど文学だよ。
729考える名無しさん:2013/11/21(木) 16:34:53.99 0
>>722
はあ?
730考える名無しさん:2013/11/21(木) 23:26:37.76 0
1984年に講談社「人類の知的遺産シリーズ」の一冊で出た『人類の知的遺産 
75 ハイデッガー』(茅野良男)を少しずつ読み返してるが、最初に感じていた
よりも、紙数の制限のあるなかで圧縮しながらよくやってるな、と感じた。1925
年生まれで当年88歳、とうに大学は退官し、最後の本は2002年にハイデッガー
全集の一冊で出た『哲学入門』の翻訳だったようだ。この茅野良男といい、
渡部二郎といい、細谷貞雄といい、辻村公一といい、木田元といい、60-90
年代にかけての彼らが地道な翻訳や研究ををこなし、それらには世話になった
。当時の翻訳や研究全部が素晴らしいなどと言う気がないが、哲学科でも何
でもない俺などが彼らの仕事なしではハイデガーを知ることはなかったわけ
で、改めて彼らの影響と恩恵を感じる。
731考える名無しさん:2013/11/21(木) 23:36:19.50 0
>>730
ハイデガーなんぞよりも
ほぼ同時代のフロイトやソシュール
そして同時代人であるウィトゲンシュタインをちゃんと勉強しろよ
その方が現代では極めて重要だ
732考える名無しさん:2013/11/22(金) 00:13:12.65 i
茅野のハイデガー本はあんまり読んでもしょうがないかもしらんが、少なくとも前期ハイデガーは別にウィトゲンシュタインやソシュールに、現代への影響力の点で劣るわけでは決してないね。
733考える名無しさん:2013/11/22(金) 09:37:12.75 0
ナチの哲学なんぞ読んでも仕方ないwww
734考える名無しさん:2013/11/22(金) 13:02:01.13 0
ナチはいつでもみんなの傍にいるよ
735考える名無しさん:2013/11/22(金) 13:21:10.58 0
>>732
ハイデガーは、現代社会にどんな影響を与えているの?
736考える名無しさん:2013/11/22(金) 13:47:51.39 0
『人類の知的遺産 75 ハイデッガー』の見どころは3点ある。1つ目は、p.
237-319にかけての詳細な年表で、実に細かい。2つ目にナチ政権時代のコミ
ットについて、実際のところはどうか、1984年の時点でいえることを歴史的事
実と照合し、いちいち検討してみせている。3つ目は、ハイデッガー思想の
1930年前後の転回、全集26巻「論理学 形而上学の始元諸根拠」の重要性、
30年代後半に起草された「哲学への寄与」の重要性について、紙数を割いて
説いている。前期の『Sein und Zeit』から上記の中期をへて、戦後の技術論
の展開まで、ここの時点で言えるであろう点は網羅してみせている。
737考える名無しさん:2013/11/22(金) 13:49:24.37 0
 同じ時期1983年に木田元も岩波書店『20世紀思想家文庫 4 ハイデガー』
を出し、1927年講義「現象学の根本諸問題」を取り上げたり、ハイデガーは実存
主義ではない、「ある」の意味を問い直すことにあった、と斬新な視点を
提示していたが、木田ほど有名ではないにしろ、茅野の方もこういう形で同じ
時期に斬新な視点を提示している。木田と共有するところもあり、
茅野もまた1927年講義「現象学の根本諸問題」を上記本では取り上げ、重要
性を指摘している。
738考える名無しさん:2013/11/22(金) 14:04:20.21 0
>現代社会にどんな影響を与えている

「何が間違っているかさえ、もう分からなくなった」ような感想を、我々は抱
きがちで、それはここまで色んな要素や情報があふれている以上、仕様がない
ところもあるわけだけど、少なくともハイデガーの仕事をフォローするかぎり
、若者のなかのキレる要因、キレることで何かを取り戻そうとする力動から、
社会学がいうような同調圧力から、じゃあ何を取り戻せばいいというのか、と
いう根本問いから、人間性にまつわる根本的な問い-答えのことごとく、ヒント
を提示してくれていた感じはある。ナチ加担や国家社会主義のような経歴など
、いまだに謎かけを投げかけるところもある。
739考える名無しさん:2013/11/22(金) 15:06:46.32 0
>>736-738
精神疾患を持った高齢者からみた
ハイデガーの感想といいうのは
どういうものなのですか?
740考える名無しさん:2013/11/22(金) 15:53:02.88 0
精神の成立、という側面からみた場合、当然ながら寄与するものははかりしれ
ない。そんなことは言うまでもないが。何故かといえば、特に1930年前後におい
て、アプリオーリの本質について、すなわち〈先なる像 Vor-build〉〈原なる
像〉として、すべての有るものの現れに先行する原について、指摘をしている。
具体的には「根拠の本質について」(1929)があるが。もしもその精神疾患者
が本を読めるくらいの状態にあるならば自己の成り立ちについて、理解を得る
ことは間違いないと言える。自己の成りたちについて了解しうるということ
は、客観性の取得の権利ということをも意味している。そういう多大なる
貢献を意味している。
741考える名無しさん:2013/11/22(金) 16:02:22.48 i
茅野本のダメなところは、ハイデガー哲学をハイデガー語で解説するっていう無意味な試みをしてる点やな。哲学とは無関係なハイデガー信者用だね。
742考える名無しさん:2013/11/22(金) 16:05:50.75 0
>>740
精神疾患はあんたのことだよ
どう見えるの?
743考える名無しさん:2013/11/22(金) 16:24:27.82 0
存在論と実存主義は別個のものではあるけど、乖離したものであるわけがない。
744考える名無しさん:2013/11/22(金) 19:25:45.45 0
740としてはこれまで散々ここに書いているんだが、訳が分からなかった
のかな?ならば改めて説明することもない。説明しても分からないみたい
だから。多分ハイデガーの著書など読んだこともないのだろう。このスレ
とは関係ない人だ。
 あと精神疾患の人間のことをやたらと気にするのは何故かな。心を病ん
だ人間は遺伝によって子孫をも病んだ人間にするから、収容所に搬送し、
早急に根絶やしにする、すなわち絶滅させねばならない、日本民族の
繁栄のためにはやむを得ないとか。それじゃあナチみたいだが。
745考える名無しさん:2013/11/22(金) 20:13:09.70 0
 741の人が
>ハイデガー哲学をハイデガー語で解説するっていう無意味な試みをして

 としてる。気持ちは分かるが、ハイデガー語をハイデガー語によらず
して書いてる人間の方が皆無に近いのではないか。日本の研究者は勿論、
海外の思想家、デリダなどもハイデガーを読みこなす場合、ハイデガー
語になるしかない。柄谷なども、ハイデガー批判はハイデガー語を使い
ながら、になる。語で表される歴史がそれだけ深度を持っているという
ことでもある。
746考える名無しさん:2013/11/22(金) 20:16:48.91 0
 あとは、個々の思想家の語彙との関係づけがなされていくことは、こ
れからも続いていくとは思うが。小林秀雄は「様々なる意匠」で、血球
とともにめぐる一真実、宿命の主調低音ということをいう。それを聞き
、語ることが私の批評の可能だと。ここを読んでて、おそらく木田元
などもハイデガーとの親近を予感していたと思うが。小林がここで自ら
の批評の方法とする語彙はハイデガーがいう主題-Sein und Zeit-と
同じに俺には見えた。小林は作品から、作家における、いわゆる〈有の
理解〉〈存在了解〉を取りだすことができると考えた。それは小林の
いう〈宿命の主調低音〉と同じことで、だから近年木田が小林秀雄に
ついて新書を書いたことは当然の経緯に思えた。小林秀雄の批評に
親近感をもってる人間がハイデガーを読むと異和感がないんじゃないか
と思えるところもある。
747考える名無しさん:2013/11/22(金) 20:40:13.64 0
>>738
>人間性にまつわる根本的な問い-答えのことごとく、ヒントを提示してくれていた

具体的には?
748考える名無しさん:2013/11/23(土) 11:08:02.74 0
>>744-746
コミュ障???
実に稚拙な文章だ。
749 忍法帖【Lv=40,xxxPT】(2+0:8) :2013/11/23(土) 13:00:28.09 O
寧ろ逆に人間中心主義は巨悪だろ
他に別に人間中心主義は有害だろ
当然正反対に人間中心主義は外道だろ
750考える名無しさん:2013/11/23(土) 20:07:48.46 0
                       
             人
          ノ⌒ 丿  
       _/   ::(  
      /     :::::::\
      (     :::::::;;;;;;;)     
      \_―― ̄ ̄::::::::::\   
      ノ ̄     ::::::::::::::::::::::)
     (     ::::::::::::::;;;;;;;;;;;;人   
    / ̄――――― ̄ ̄::::::::\   
    (        :::::::::::::::::::::::::::::::::)
    \__::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ
751考える名無しさん:2013/11/24(日) 16:55:56.11 0
茅野のアナクシマンドロスの訳は非常に読みづらい。
木田がいってた用語を統制されてやる気がなくなった訳の例の1つかもしれない。
まあ原著に当たったらこれも訳しづらかったけどね。
ナチ云々いってる奴は無視していいよ。どうせ読めてないから。
752考える名無しさん:2013/11/24(日) 17:01:17.82 0
>>751
>ナチ云々いってる奴

具体的には?
753考える名無しさん:2013/11/24(日) 17:02:08.78 0
>>751
悪いけれど、このスレは基本[sage]レスなんだ。
[sage]で頼むわ。
スレ主がモノホンの精神病だからさ(過去レス参照)。
754考える名無しさん:2013/11/26(火) 15:20:10.52 0
>>751
全集の別の巻ではSein=有という編集方針を例外として
他の従来の訳語は訳者が考えて、独自に選別しなおしたって書いてあるし、
用語の統制なんて本当にあるんだろうか
755考える名無しさん:2013/11/26(火) 22:26:46.74 0
高田訳ざいんうんとつぁいと
756考える名無しさん:2013/11/26(火) 23:26:44.77 0
>>754
あるのは明らかでしょ。
茅野良男だって薗田宗人だって自分の別の本では有なんて使ってないし。
それいつの話?
辻村公一がもう死去してるから、その後変わったのかな。
757考える名無しさん:2013/11/28(木) 17:03:58.34 0
Motoki Saito ‏@eksistenz 11月24日
2014年よりハイデガー全集94・95・96巻、いわゆるシュヴァルツヘフテ
(Schwarzhefte:黒封筒内草稿)が刊行される。1931年以来書き溜められ、
全遺稿の刊行後に刊行が指示されたもの。ハイデガー哲学の真の全貌がいよいよ公に。
758考える名無しさん:2013/11/28(木) 23:43:06.32 0
>>756
だからSein=有が基本方針としてあるのは確かだけど、
ほかは自分の解釈で好きに出来る(訳者は放任と表現してる)んだから、
統制とは言えないと思うし、少なくともやる気を無くすほどの事でもないと思うが
あと、図書館で借りた時に読んだから正確な記述と巻数は忘れたが、
有に違和感があれば、適時存在と読みかえればよろしいみたいな事を堂々と書いてあったと思う

この話が載ってるのは俺がたまたま持ってる全集79巻で、出版は2003年だから
翻訳期間を含めるともっと昔になるだろうか、辻村公一は存命中のことだね
759考える名無しさん:2013/11/30(土) 15:39:15.48 0
訳者がやりにくいなんて訴えているわけで、
統制してなかったら全集がほとんど研究書で使われない有なんていう訳語で統一されるわけないだろ
基本方針だか何だか知らんが、仮に「方針」とされていようともそれは事実上の統制だよ
あんたのいってるのはseinじゃなくてonの訳語だろ
760考える名無しさん:2013/11/30(土) 17:15:06.55 0
有・も読みづらいよね。
761考える名無しさん:2013/11/30(土) 21:18:38.87 0
ラパポート「ハイデッガーとデリダ」面白いね
762考える名無しさん:2013/12/01(日) 16:43:06.33 0

現有
有と時
     
最悪じゃ〜(泣)
763考える名無しさん:2013/12/01(日) 20:29:29.72 0
鵜と鴇
764考える名無しさん:2013/12/03(火) 15:50:02.37 0
有論
手元に有るもの
有に見放されてあること

読みにくいことこの上ない。
時論だと、日本語の本来の意味は時事的な議論という意味なんだがなw
カントとかアリストテレスの全集みたいに刊行し直してほしいわ。
残りの巻を担当する訳者が気の毒。
vittorioの原著ではとっくに出てるのに邦訳がなかなか刊行されないのは
翻訳を引き受けてくれる人がいないからだろうな。
765考える名無しさん:2013/12/03(火) 16:52:22.09 0
>>764
スレ主はむしろ読み易いと絶賛しているよ
766考える名無しさん:2013/12/11(水) 23:36:25.17 0
新訳結構読みやすいね。
現存在のところだけ気になるけど・・・ほぼ定訳なのに何故に変えたんだろうか
767考える名無しさん:2013/12/13(金) 05:07:06.71 0
渋谷遼典 ‏@RyosukeShibuya 11分
最近出た『読書について』は、『反哲学入門』の木田元さん(彼の『何もかも小林秀雄に教わった』は一寸タイトル詐欺の感
がありましたが)が編んだアンソロジーで、「美を求める心」も入っており、小林秀雄入門には非常に好い一冊になっていま
す。お勧め。http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4120045404


木田元が編んだ小林秀雄アンソロジーか。買ってみようかな
768考える名無しさん:2013/12/13(金) 05:36:32.32 0
存在と時間 4点4冊セット ハイデガー (2013/12/19)
¥ 5,229 文庫
769考える名無しさん:2013/12/14(土) 08:20:00.74 0
Motoki Saito ‏@eksistenz 12月4日
これは読みたい。"@TohokuUP_Sendai: 【新刊】『細谷貞雄 ニーチェ特殊講義』(杉田泰一・輪田稔 編)ハイデッガーやショーペンハウエルの翻訳で知られる故・細谷貞雄先生の、東北大学教授時代の講義ノートを書籍化。
770考える名無しさん:2013/12/15(日) 12:52:33.44 0
フッサ−ル後期の「発生的現象学」での“存在”に対する捉え方が、両者に於いて、基本的に
異なることである。
ハイデガ−の場合は、“欲望(ア・ポステリオリ的認識)”を基底として対象(世界)を捉えている
のに対して、フッサ−ルの場合は、“知覚”を基底として、自己と対象(世界)を捉えている。

つまり、ハイデガ−は、“間主観的還元”により、主観(=欲望)の“能動性”が時間概念を形成している。
それに対して、フッサ−ルの場合は、間主観的還元により、主観(=知覚)の“受動性”により“超越論的地平”を
目指している。

従って、「発生的現象学」に於いて、ハイデガ−とフッサ−ルの思想的な違いは、主観に対する“間主観的還元”による、
“構成的内在”における“能動的現出”と、“受動的現出”の相異であることが分かる。
771考える名無しさん:2013/12/15(日) 14:07:54.72 0
出ました、ステルス式ネガティブキャンペーン!
一体何が目的なのかね?フッサール現象学に親でも殺されたか?
772考える名無しさん:2013/12/15(日) 15:15:46.14 0
>>771
「現象学ことはじめ」(山口一郎)に中に、第二次大戦後の世界でのイデオロギ−と
西洋哲学の本流としての歴史的経過に対する、形式論理学(論理実証主義等)と、現象学の
哲学的経過が詳しく記述されている。

戦後の思想的流れは、戦後の各国の政治体制と連動しており、戦後から現代社会を考察する上で、
プラグマティズム、論理実証主義(科学哲学等)、生の哲学、心の哲学、相対主義そして、現象学を
総合的に論究する必要がある。
773考える名無しさん:2013/12/15(日) 20:36:53.09 0
東浩紀:また、韓国については韓国が日本をレイプしたのを日本がレイ
プし返したような関係になっているので、これを修復するのは難しい。
日中韓の歴史認識問題に関してはサスペンドしておくしかない。
774考える名無しさん:2013/12/17(火) 22:33:00.85 0
Motoki Saito ‏@eksistenz 7時間
「ハイデガーの思考日記」とも呼ばれるシュヴァルツ・ヘフテだが、前述の問
題発言を含むためか、全集該当巻の編者の関連書物の刊行にあたりフランスの
親ハイデガー派から圧力がかかったという。真偽は定かではないが、ともかく
も当該巻の公刊が待たれる。
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Motoki Saito ‏@eksistenz 7時間
ドイツのハイデガー・ゲゼルシャフトがハイデガーの「シュヴァルツ・ヘフテ
(Schwarzen Heften)」について意見表明。1930-40年代の文書で、反ユダヤ
主義的文言も含まれるが、開かれた学問的考察を要請するとのこと。
775考える名無しさん:2013/12/18(水) 02:55:58.65 O
ちょっと教えてくれー

存在と時間 第一章 第二節 存在への問いの形式的構造
の後半で存在への問いが循環論証ではない根拠を述べている箇所があるけど、俺にはハイデガーがなに言ってるが全然分かんねー

「演繹的な導出によって根拠づけすることではなく、邪魔物を取り払って根拠を提示することであるからである。」

ってもその提示するのも存在であって循環論証的だと思うんだけど違う?
776考える名無しさん:2013/12/19(木) 17:00:03.92 0
演繹的な導出によって根拠づけすることではなくとは“、形式論理”の「Aは非Aでない」論理形式
である演繹的思考ポプロセスではなく、「現象学的還元」によるエポケ−により、既成概念を取り払う
ことにより、根拠を提示する。この辺の認識が「現象学」の、難しいところであると思う。
777考える名無しさん:2013/12/19(木) 17:06:19.88 0
>>776
訂正
  演繹的思考ポプロセス→演繹的思考プロセス
778考える名無しさん:2013/12/21(土) 06:24:52.49 O
ハイデガーが存在へ問う存在を循環論証と認めるなら
エポケーする存在を循環論証と認めないのはおかしくね?
779考える名無しさん:2013/12/21(土) 15:25:37.52 0
>>775
>演繹的な導出によって根拠づけることではなく、邪魔者を取り払って根拠を提示することであるからである。

上記の演繹法とは、形式論理であり、「前提→推論→結論」という思考プロセスとなる。
ハイデガ−の「存在の認識」は、演繹法(形式論理)ではなく、“現象学的還元”によって認識される。

現象学的還元とは、“演繹法(形式論理)”と根本的に異なっており、 現象学的還元は“前提”を必要としない。
つまり、「前提→推論→結論」という思考プロセスをとらない。 
現象学は、“判断中止(エポケ−)”を基底とした思考過程となるので、ア・ポステリオリ(経験に依存する)した
認識となる。

循環論証(循環論法)とは、形式論理の一種であり、「ある命題の証明に於いて、その命題を仮定した議論を用いること。
又は、証明すべき結論を前提として用いる論法。」です。
循環論証と現象学的論証の違いは、“循環論証”が「前提」を“設定する”のに対して、ハイデガ−の現象学的論証は、
「前提」を“設定しない”ところが、根本的に異なっており、ハイデガ−の“存在者”の現前に於ける“存在”認識は
循環論証とはならない根拠となっている。
780ixtlan:2013/12/21(土) 16:29:40.56 0
>>770

 どっちも受動能動性にこだわっていると思いますが。

 たとえば、フッサール『経験と判断』における受動性と能動性。

 ハイデガー『存在と時間』における受動性と能動性。
 
781ixtlan:2013/12/21(土) 16:31:22.66 0
>>779

 解釈学的循環というのがありますね。

 適切に解釈の循環に入り込むこと。

 
782考える名無しさん:2013/12/21(土) 19:54:43.90 0
>>781
>適切に解釈の循環に入り込むこと。

 解釈学的循環と循環論証(形式論理)の思考過程は、
 異なると思うが、この“解釈学的循環”とは、存在者の現前に
 於いて、どの様な“現象化”が行われるのでしょうか。
 
783ixtlan:2013/12/22(日) 00:47:38.22 0
>>782
 
 解釈学的循環とハイデガーは言うけれども、この言葉の背後には、ゾルゲというのが控えていると思います。

 つまりゾルゲ自体が循環しているということです。

 ゾルゲとは、受動性と能動性で循環しているということです。

 それは端折って言えば、過去的未来的現在ということで、この世界に投げられているという受動性の地盤から、この世界を投げるという能動性に循環するということです。

 とりあえず意味という言葉が「投げる」の目的語として妥当でしょう。

 
784考える名無しさん:2013/12/22(日) 10:29:04.11 0
>>783
この世界に投げられているという“受動性”は、自己という“存在者”が、“世界の内”にあると
言う“受動性”として理解しているが、「この世界を投げるという能動性」は、相互主観性として、
ハイデガ−の言葉で述べれば、客観的存在としてある「それぞれが自分である」という認識と解釈している。
785考える名無しさん:2013/12/23(月) 02:02:16.57 O
>>779
ハイデガーが循環論証でないとするのは存在の前提の下のシーニュのレヴェル

でも存在への問いは常に存在を前提としているから循環論証(シーニュのメタレヴェルとしての)から免れなくね?
存在無しには問う事もエポケーも成し得ないと思うけどな

常に外部にいる私の上位の私という存在を規定する私という私を規定する…この無限後退的性質を有する私を存在とした上での話だけどね
786考える名無しさん:2013/12/26(木) 20:56:43.11 0
なんでハイデガーって文章が下手なんんですか?
787弧高の鬼才 ◆zD.tvziESg :2013/12/26(木) 20:57:27.87 0
馬鹿だからです
788考える名無しさん:2013/12/26(木) 20:59:55.61 0
>>787
やっぱりそうでしたか。
書簡も読んだんですけれどもやっぱりそれも下手でした。
文才が無かったんですね。
789考える名無しさん:2013/12/27(金) 14:58:48.99 0
講義では平易なのにな
頭じゃなくて性格が悪い
790考える名無しさん:2013/12/27(金) 16:55:57.71 O
訳も悪いな
791考える名無しさん:2013/12/27(金) 18:06:32.72 0
無理矢理漢字熟語にしなくて良いんだよなぁ
例えばテンポラリテートは存在時性じゃなくてテンポラリテートのままで充分w
仏教用語持って来たやつはアホ過ぎる
792考える名無しさん:2013/12/28(土) 18:55:34.34 0
>>785
>でも存在への問いは、常に存在を“前提”としているから循環論証から免れなくね?
 存在無しには、問う事もエポケ−も成し得ないと思うけど。
 
>現象学的還元は、まず一切の先入見(主観と客観の既成概念)を排して(取り除いて)意識に
 直接に明証的に現れている現象を直観し、その本質を記述(本質記述)する思考プロセスとなる。

 一切の先入見を排した純粋意識とは、「構成的内在」であり、構成的内在から「形相的還元」へと
 進む、この形相的還元を経て、高次元での「純粋経験」の領域に至る。
 この「純粋経験」の領野にて、超越論的次元での“存在”が認識される。

 だから、ハイデガ−の「世界内存在」としての現存在としての自己の認識と、現存在が世界の内の存在
 として認識されるのも、“前提”という概念を排した(エポケ−した)後の、「純粋経験」の領野にて
 現出してくるものとしてある。
793考える名無しさん:2013/12/28(土) 19:55:44.88 0
>>792
>一切の先入見を排した純粋意識

そういうものがある根拠はなに?
すべての先入見を排したら、意識そのものがなくならない?
純粋意識というものを想定したら、その想定自体が個人の先入見からの影響を受けてることにならない?
794考える名無しさん:2013/12/28(土) 22:26:28.42 O
"存在"と名付けている時点で存在は了解されている

名付けられた存在は既に私の了解の範疇であり、それは存在への問いで問うているものとは別物だと思うなー
795考える名無しさん:2013/12/28(土) 23:34:46.43 0
>>793
意識そのものが、“主観”であり、一切の先入見を排すると言うことは、
主観と客観の概念を「エポケ−」することである。
だから、純粋意識という言葉は、本来は適切な表現ではないと思っている。
「意識」という言葉は、主観と連動してしまうからである。一切の先入見を排した領野を
「構成的内在」と呼んだ方が適正な表現であると思う。
796考える名無しさん:2013/12/29(日) 11:23:34.38 0
いろいろ混乱してると思うね。その根本原因は、より一般的な概念を
より限定的な概念で規定しようとしていることだ。原理的に不可能なんだよ。
797考える名無しさん:2013/12/29(日) 15:08:26.26 0
>>795
エポケーそのものが主観の域をでないんじゃないかな?
完全に思考を停止してしまえば、概念も意識もないただの生命反応しか残らない。
そこからのスタートを想定するなら、ある意味発生学からの生物学的分析と変わらなくなる。
意識がなにものかへの意識であって、常にその対他的意識を自分の意識に繰り込むことによって新たな意識の場を作り上げるという意識のあり方を捉えることができなくなるのではないかと思う。
798考える名無しさん:2013/12/29(日) 15:15:34.23 0
ハイデガーは優勢思想
どう考えても知的障害者を劣等生物扱いしてる
799考える名無しさん:2013/12/29(日) 19:55:30.20 0
>>797
“意識が、なにものかへの意識”と捉えることは、意識(主観)に囚われていることになる。
現象学的還元が、一切の先入見(すべての既成概念)を排するということは、客観と同時に主観も
排することであり、主観と客観のカベが消滅することである。つまり、「主客未分化」の領野に至ることであり、
この「主客未分化」の領野を、純粋経験と呼んでいる。
800考える名無しさん:2013/12/29(日) 20:00:42.23 0
ハイデガーの存在論はそれなりの成果をあげてはいるが
ハイデガーってなんか余計なことを絡ませているよね
人生とかどうしたら納得できるかみたいな
そういうことを多くの専門家も指摘しているけれど
それが邪魔
フッサールの現象学のようになんで生活価値観抜きの哲学を出来なかったんだろう?疑問だ
801考える名無しさん:2013/12/29(日) 20:27:34.49 0
>>800
所詮は神学校出身者。
哲学といっても倫理学とか頭によぎっていて仕方なかったんだろwww
802考える名無しさん:2013/12/29(日) 20:39:38.48 0
>>801
それはたぶんハイデガーが神学生時代から救いを求めていた証拠なんじゃないかな
しかしハイデガーは牧師としてでは救いは得られないことに気づいた
だから哲学へと道を変えた
ハイデガーの根源はそうした「人生の救済」なんだよ
しかし現象学から存在論という流れで読まれてしまったからはなしはおかしくなる
あくまでも「人生の救済」がハイデガーのテーマだから
803考える名無しさん:2013/12/29(日) 21:16:12.56 0
やっぱり現存在というのはハイデッガー自身のことだったのか
それで老荘だ仏教だと言っていたんだね
キリスト教のかわりの自己の支えか
804考える名無しさん:2013/12/29(日) 21:27:00.34 0
>>799
それはただの自己満足だよ。

主観といっても客観といっても、所詮は個人の思考の範囲。
まして、「主客未分化」だの純粋経験だのといっても、それを保証できる根拠はどこにもない。

意識を考えるなら、意識の螺旋を対象にしない限り、自分の都合にあわせてある状態を設定する、という自己撞着を超えられない。
805考える名無しさん:2013/12/29(日) 21:45:11.31 0
>>804
意識の螺旋を対象するとは、論理的にどの様なことでしょうか?
806考える名無しさん:2013/12/29(日) 21:58:03.83 0
>>805
>>797
>意識がなにものかへの意識であって、常にその対他的意識を自分の意識に繰り込むことによって新たな意識の場を作り上げるという意識のあり方
807考える名無しさん:2013/12/29(日) 22:02:03.59 O
意識への意識は入れ子構造やな
808考える名無しさん:2013/12/30(月) 09:26:41.24 0
対象が意識の対象であることを自覚して対象そのものを捉えようとしても、
やはり対象の意識を捉えることしかできない。セミオーシス(semiosis)ですよ。
809考える名無しさん:2013/12/30(月) 09:40:29.80 0
ハイデガーの哲学の仕方にも、フッサールの哲学の仕方にもそれぞれ
特徴的な欠点がある。

より一般的な概念をより限定的な概念で規定することはできない。
このことをより明確に意識して厳密であろうとしたのがフッサールだろう。
だが、逆に一般的な概念を限定的な概念に発展させることもできない。
できるのは、より限定的な概念から一般的な概念に遡ろうとする試みを
絶えず繰り返すことだけなのだが、フッサールは、一般的概念を求める
あまり、より限定的な概念に立ち戻ることを疎かにしてしまった。
810考える名無しさん:2013/12/30(月) 09:53:19.70 0
ハイデガーは、逆に、あたかも、より一般的な概念をより限定的な概念で
規定することが可能であるかのように、一般的概念をより限定的概念で
説明しようとすることを積み重ね、より限定的であるはずの思索が、
より一般的概念から導き出されるかのような言説を紡ぎ出してしまう。
ハイデガーの哲学が既存の権力を正当化するイデオロギーではないとしても、
そうであるかのように権力に迎合することを可能にしているのが、
まさにハイデガーの哲学の歩み方なのだ。
811考える名無しさん:2013/12/30(月) 09:57:10.91 0
やはり対象の意識を捉えることしかできない×
やはり意識の対象を捉えることしかできない○
812考える名無しさん:2013/12/30(月) 10:07:37.25 0
個人的にもっともシンパシーを感じるのは、やはりモンテーニュのような思索の
スタイルかな。さまざまな事象を自らの視点から考察しながら、権力の足場を
踏み固めることにばかり寄与しようとする社会時評などとは対極にある。
813考える名無しさん:2013/12/30(月) 12:56:36.34 0
>>809
>より一般的な概念を、限定的な概念で規定することは出来ない。

>フッサ−ルの現象学は、中期の純粋現象学(静態的現象学)と、後期の
 発生的現象学の二通りの“現象学”に分かれている。
 純粋現象学(静態的現象学)と発生的現象学の論理は、180度異なっている。

 上記の「一般的な概念」を、より「限定的な概念」で規定することは出来ない。と言う意味は、
 発生的現象学での、主客未分化(原初的存在)から主観と客観の分離による“差異化”のことを
 述べているのでしょうか。
814考える名無しさん:2013/12/30(月) 13:17:22.64 0
ステルス・ネガティブ・キャンペーンを繰り返すことにしか能のない人間を相手にする気はない。
815考える名無しさん:2013/12/30(月) 18:43:09.64 0
>>806
意識が常に何者かについての意識を、「意識の螺旋」と述べていますが、
この“意識が常に何者かにつての意識”の概念は、ブレンタ−ノの「志向性」の概念の
ことと思う。

方法的懐疑による、意識の究極的な到達点は、超越的な存在であるデカルトの「超越論的主観性」
ですが、フッサ−ルは「静態的現象学」に於いて、デカルトの「超越論的主観性」を起点として、
“現象学的還元”を試みている。

この現象学的還元に於いて、志向性の概念がかかわってくる。
ブレンタ−ノは、「志向性」とは意識(=主観)のあらゆる活動、つまり心的現象の持つ特性であって、
心的現象は志向性によって物質的(=身体性)・自然的現象から区別されると述べている。
816考える名無しさん:2013/12/30(月) 19:00:31.66 0
>>815
フッサールはその意識を固定化して、その意識のあり方を排除してしまった。
意識のダイナミズムというか、ヘーゲル、マルクス的弁証法というか、その扱い方を静的ではなく動的に表わせば「意識の螺旋」ということになる。

意識はどこにも還元できないだけじゃなくて、もしかしたら遺伝子レベルで意識の積層と意識の螺旋を想定する必要もあるかも知れない。
一見トンデモ理論のように見えるが、遺伝子レベルでの親子伝達の研究報告も出てきている。
817考える名無しさん:2013/12/30(月) 22:55:05.92 0
フッサ−ルの静態的現象学は、意識(主観)を“固定化”していくが、その原因はどこに
あったのであろうか。
意識の固定化は、なぜ起きたのかを、その過程を自分なりに辿ってみる。
フッサ−ルは、ブレンタ−ノの「志向性」を基底として、静態的現象学(純粋現象学)を創始する。

現象学的還元とは、一切の先入見を排(判断中止=エポケ−)し、意識に直接に明証的に現れる現象を
直観することですが、この現象学的還元の過程に於いて、「志向性」はどの様に関わっているのであろうか。

「志向性」とは、意識が常に何者かの意識の現象化であり、「主観」という概念が“基底”なっている。
つまり、現象学的還元(エポケ−)に於いて、“志向性”に固執する限り、本質観取は“主観的世界観”からは、
抜け出す事は出来ない。この状態が、「意識の固定化」と解釈している。


「志向性」とは、
818考える名無しさん:2013/12/30(月) 22:59:45.64 0
守中高明 ‏@ladissemination 12月28日
「現代思想」1月号読み始める。が、千葉雅也×清水高志「ポスト・ポス
ト構造主義のエステティクス」でいきなりつまづく。清水氏は、ミシェ
ル・セールの「ノワーズ」の思考を西田流の述語的論理によって「補強」
できると言う。そんな読みをきっぱりと斥けるのがセールの「唯物論」であることは明証事。
守中高明 ‏@ladissemination 12月28日
この種の日本的思考をヨーロッパ哲学に曖昧に融合させることが生産的
だと考えるのは、たとえば、ハイデガー哲学を京都学派の諸概念に翻訳
することを企てる自民族中心主義者・辻村公一一派と同類である。
清水高志 ‏@omnivalence 12月29日
守中高明はもうちょっと考えてからもの言おうよ。(苦笑) 郷原佳以をい
きなり剽窃よばわりして顰蹙を買っていた頃と何も変わらないな。対談
で西田の名前を出しただけで「京都学派の自民族中心主義者」だとのレッ
テル貼り。。いい加減にしてくれよ馬鹿かよ。
清水高志 ‏@omnivalence 23時間
ハイデガーを京都学派風に読もうとしているやつと同じだとか、俺がい
つそんな読み方をした。ちゃんと書いたものを読んでから口を利け。そ
もそも俺にはハイデガーを持ち上げる趣味は全くないし。
清水高志 ‏@omnivalence 23時間
二十年くらいまえならいざ知らず、今時西田にも哲学的に参照すべきア
イデアがあると言ったことに対してまるでファシストか何かのように決
めつけるとか、そんな出鱈目が許されると思ってるのか。
清水高志 ‏@omnivalence 23時間
それとセールの「唯物論」とやらについて、展開できるものならしてみ
ろ。笑 自分がさっぱり分かってもいない、語る能力すらないものについ
て知ったかぶりをし、明証とかなんとか言っているのは滑稽で仕方がない。
819考える名無しさん:2013/12/31(火) 13:03:34.63 0
デリダ研究者って何でこうバカばっかりなんだ?
820考える名無しさん:2013/12/31(火) 17:04:40.51 0
>>818
大学教師らしい連中なのに2ch並の知的レベルで驚いたw

なにが専門なのかは知らないが、自分の分野なら多少の知識はあるのだろうな。

やっぱりツイッターなんかに書きたがる連中は、2ch並ということかな?
821考える名無しさん:2013/12/31(火) 17:09:52.71 0
まあ2ちゃん並みのレベルで哲学してるんだろうな(笑)
822考える名無しさん:2013/12/31(火) 17:26:12.10 0
哲板のレベルは
哲学科よりは高い
823考える名無しさん:2013/12/31(火) 20:05:24.65 0
>>818
学会とかこの界隈の人たちの仕事をほとんど何も知らないんだけど、
コップの中の嵐を演じている暇があったら、もっと議論すべき重要な
問題があるんじゃないのかね?

例えば、「ある」ことと「いる」ことの違いはまともに議論されている
のだろうか。Daseinを「そこにある」とするのと、「そこにいる」と
するのでは、根本的に意味が異なる。このことは、「言語は存在の家である」
としたとき、「家にいる」のと「家にある」のでは、意味がまるで異なる
ことからも明らかだろう。
824考える名無しさん:2013/12/31(火) 20:23:36.89 0
古語では、生物も無生物も同様に「ある」の主語になるとされる。
しかし、現代の言葉では、基本的に「いる」の主語は生物であり、
「ある」の主語は無生物である。「ある」を一般的な存在の様態の
表現であるとするなら、「いる」は、より限定された、生命の存在
の様態の表現ということになる。だが、「ある」は、存在の様態
として、「いる」の存在の様態よりも基礎的なのだろうか。
「ある」を一般的とすることは、「そこにある」という三人称
の存在の様態を、「ここにいる」、「そこにいる」という一人称、
二人称の存在の様態よりも優先することにならないのだろうか?
825考える名無しさん:2013/12/31(火) 20:41:19.46 0
>>823-824
あのう、それ言葉の問題だと思うんだけど?

人の心のあり方は必ずしも言葉と一致するわけじゃないし、言葉もまた、多くの人の感じ方の集まりだから、ある幅はあるとしても、人によって大きく違う。
826考える名無しさん:2013/12/31(火) 21:35:26.95 0
マジ、最低なやつです。
1)自分の立場を利用して、自分に関心のある学生に手を出す。既婚者でありながら
結婚話を持ち出す。妻と離婚して一緒に暮らそうと言って、くどく。
2)利用するのは2、3万円する都内のホテル。常に現金払い。エッチに関して
私が発言するのはいとも簡単ですが、思い出すのも嫌なので、要するにしつっこい
中年のエッチだったと証言します。今の彼氏に出会えて守中高明のヘンタイ
ぶりが確認できた。私からのキーワード。傷。
3)高い料理をふるまう。いつもおいしいものを私に食べさせたよ。
827考える名無しさん:2014/01/01(水) 20:50:36.63 0
現代の日本語を使って存在論を語る限り、「いる」と「ある」を
区別せずに議論を進めることは不可能であるように思われる。
存在論で中心となるドイツ語の「sein」、フランス語の「etre」、
英語の「be」はすべて、現代の日本語では「(〜て)いる」であり、
「(〜)てある」、すなわち、行為の結果や、「(〜が)ある」は、
「私には金がある」のように、have動詞で表現される。
「いる(在)」ことの否定は、「いない(不在)」ことであり、
「ある(有)」ことの否定は、「ない(無)」である。
828考える名無しさん:2014/01/01(水) 20:57:03.92 0
作用に先行して存在するいかなる実体も存在しない限りで、
世界は「ある」のではなく、存在して「いる」。
そこに空や海が広がって「いる」ように。
829考える名無しさん:2014/01/01(水) 21:45:22.51 0
「私には手がある」、「I have hands」というけれど、手のありかた自体も
「Vorhandenheit」と表現されるのでは?
830考える名無しさん:2014/01/01(水) 21:50:35.02 0
Es gibt
831考える名無しさん:2014/01/02(木) 00:08:33.64 0
「1(ひと)」つが「存在」を表すとすれば、「0」が表すのは「有」に
対する「無」ではなく、「存在」に対する「不在(=空)」だろう。
実際、ゼロという語やその記号が表しているのは、無ではなく、
「空(不在)の場所」である。「そこにいる」ことが「ここ」から
見て1(ひと)つを表すとすれば、そのことにより、「ここにいる」ことは、
「そこ」から見てやはり1(ひと)つを表すことになる。
832考える名無しさん:2014/01/02(木) 11:09:53.87 0
何も見えない暗闇にいれば、自分が「どこにいる」か分からない。
「ここにいる」とは、まずなによりも「そこにいる」相手に対する
確認であり、「そこにいる」相手に対して自らが「ここにいる」ことが
相対的に決る。「そこにある」ことは相手の手元にあることであり、
「ここにある」ことは自らの手元にあることである。さらに、
「あそこにある」ものに対する「そこにいる」相手の相対関係と、
同じ「あそこにある」ものに対する「ここにいる」自分の相対関係から、
客観的に自分がいる「ここ」がどこであるのかが分かる。
833考える名無しさん:2014/01/02(木) 11:12:31.06 0
なにそのラカン
834考える名無しさん:2014/01/02(木) 11:18:38.81 0
お正月だから、酔っ払って戯言を書き散らしたくなるんだろう。

大目に見てあげようよ。
835考える名無しさん:2014/01/02(木) 15:38:22.20 0
>なにそのラカン

人名を出すとそれだけで何か言った気になるのって、ある種の病気だよ。
836考える名無しさん:2014/01/02(木) 16:38:31.04 0
なにその文系脳
837考える名無しさん:2014/01/02(木) 17:14:35.46 0
「ここ」(一人称)は、「そこ」(二人称)との相互関係でしか存在せず、
「あそこ」(三人称)も、「ここ」と「そこ」の相互関係に対してしか現れず、
「ここ」と「そこ」の「相互関係そのもの」も、「あそこ」(三人称)との
対比においてしか現れない。つまり、「ひと」の存在を語るうえで、
「Dasein(そこにいること)」だけを特権化することはできない。
ましてや、「いる」ことに「ある」ことを優先させることはできない。
838考える名無しさん:2014/01/02(木) 17:28:08.78 0
人生相談やカウンセリングなどでよく出てくる「自分のない/ある人」という
表現も、この人称構造と、「いる」と「ある」の区別から理解することができる。
「自分のある人」とは、「自分を持っている人」という意味であり、
相手から見て自分が「そこいる」だけではなく、「自分」を三人称的な
存在としてとらえている(自分が「ある」)。これに対して、
「自分のない人」は、自分が三人称的に存在せず(自分が「ない」)、
相手から見て「そこにいる」二人称的な自分しかいないので、
相手次第で自分のあり方が変わってしまう。
839考える名無しさん:2014/01/02(木) 18:48:19.42 0
相手次第で自分のあり方が変わってしまう「自分のない」状態とは、
また異なるのが、「自分を見失っている」と形容される状態であり、
「自分を見失っている」自分には、その状態は、事後的にしか把握されない。
「そこにいる」相手ではない三人称的ななにかに動かされて、
「そこにいる」相手も、その相手に対して「ここにいる」自分も見えなく
なっている状態が、事後的に「自分を見失っている」と形容される。
相手には、「そこにいるのに不在」であるという印象か、「ここにいるのに
無視されている」という印象を与えることになる。
840考える名無しさん:2014/01/02(木) 21:04:18.30 0
本来的な自己の存在の様態などというものはない。あるとすれば、それは、
自己が、人称構造における様々な関係性を生きているということだけだ。
特定の関係性に固執することにより、他の関係性を生きることが阻害されて、
円滑に生きることが困難になる限りで、その自己の存在の様態は病的である
とされる。周囲の誰も予期しないことを成し遂げることが、そのような
自己の存在の様態を必然的に要請するにしても。
841考える名無しさん:2014/01/02(木) 22:24:08.80 0
>>827
なるほど、それでSeinを有と訳すことの違和感の謎が解けた
842考える名無しさん:2014/01/03(金) 17:11:34.34 0
世界は常に自己が生きている人称構造の関係性として存在する。
843考える名無しさん:2014/01/04(土) 12:20:37.32 0
>>842
いくらなんでも、そんなわけないだろw

主観的な心のあり方としてだって、世界はそんな存在じゃないよ。
844考える名無しさん:2014/01/04(土) 14:00:57.41 0
have written(書かれて'有する'→書いて'ある')
is written(書かれて'いる')
845考える名無しさん:2014/01/04(土) 14:12:21.68 0
>>844
バカじゃないのw

文字などが書いてあれば、それは誰かが書いたもので、自然に湧き出たものなんかじゃないよw
846考える名無しさん:2014/01/04(土) 17:42:09.59 i
ハイデガーかじって真似するのは構わんが、特に読むほどの価値もなさそうなのでチラシの裏にでも書いてくれんかな?価値がないというのは、内容が陳腐なうえに、厳密さも知的誠実さも欠けているから。

なんとなくハイデガーのようなことを言って自己満足してるようだけど、
そもそも、何故、そしてどのように、特殊な自然言語の文法と存在論が関係するのか不明な以上、たんなる陳腐なエッセーの域をでてないんだよな。
847考える名無しさん:2014/01/04(土) 17:51:03.36 i
あとちなみにDaseinというときのdaは日本語でいう(ある場所を示す)「そこ」と必ずしも一致しないからな。ハイデガーの真似するならドイツ語やったほうがいいぜ。
848考える名無しさん:2014/01/04(土) 18:16:44.08 0
さすが便所の落書きにエラソーにコメントするだけある。
849考える名無しさん:2014/01/04(土) 18:35:37.14 0
糞の山の頂上から見下ろしてる感じ。
850考える名無しさん:2014/01/04(土) 20:02:26.02 0
人も寄付かない汚物まみれの公衆便所で他人に偉そうに説教したければ、
それなりの流儀というものがあるだろう。高いところに登ってさえいれば
それがゴミの山だろうと取り巻きが崇めてくれる大学や学会とここは
違うのだ。まずは汚物を片付けて、便器をきれいに磨き上げるとか、
人の嫌がる便所掃除を自ら率先して丁寧にやってみせることだ。
それもできずに威張ってみせたところで、そんなのはカマドウマが
糞の山の上で跳ねているのと似たり寄ったりだ。
851考える名無しさん:2014/01/04(土) 20:05:55.83 0
>>850
なんで?

すべては君の思いつきの感想に過ぎないんじゃない?
852考える名無しさん:2014/01/05(日) 02:06:14.63 i
>それがゴミの山だろうと取り巻きが崇めてくれる大学や学会とここは違うのだ。

馬鹿なのかな?
853考える名無しさん:2014/01/05(日) 07:36:23.41 i
ところで、フッサールの超越論的現象学と、SZのハイデガーの基礎存在論(現存在分析)の方法論って、同じ現象学的方法でもどういう点が違うのか誰か分かりやすく教えてくれませんか。
解釈学を現象学の方法に導入するとは、いかなる意義を持っていたんでしょうか?
854考える名無しさん:2014/01/05(日) 12:34:55.72 0
それは大学のレポートの課題ですか?
855考える名無しさん:2014/01/05(日) 13:00:49.12 0
フッサールのどの時期までを考えるかによってハイデガーとの近さと遠さは結構かわるから難しい問題だね
856ixtlan:2014/01/05(日) 14:54:27.88 0
>>853

 ハイデガーが実際に言ったことは、方法論というより或る種の無理筋な話と言ったほうがいいでしょう。

 現象学の方法論というのも、あってなきがごとしでしょう。

 ハイデガーの無理筋議論というのは、しかし人を引きつけた。

 それは、一言で言えば、人間の心的機能と時間性とを一対一に対応させるという話です。

 これの延長上に『カントと形而上学の問題』があります。
 
857考える名無しさん:2014/01/05(日) 15:04:55.87 0
>>853
フッサ−ル中期の「超越論的現象学(静態的現象学)」と、後期の「発生的現象学」の論理の
違いを、まず確実に知ることではないでしょうか。
858考える名無しさん:2014/01/05(日) 16:25:02.10 i
>>856
>それは、一言で言えば、人間の心的機能と時間性とを一対一に対応させるという話です。

これを、もう少し敷衍して欲しいです。
現存在の存在といわれる、ゾルゲという一見すると心理学的な概念が、ハイデガー的な意味での時間の概念から説明される、というようなことを言っているのでしょうか?
あとこの場合、SNにおける、〈解釈学〉という契機はどうなっているんでしょう?これも無理筋な方法という程度のものなのですか?
859考える名無しさん:2014/01/05(日) 16:33:56.52 i
>>857
私の理解というか、知っていると自覚しているところですと、
静態的現象学/発生的現象学という区分は、超越論的現象学という上位概念に含まれると思っています。
>>857さんの書き方ですと、フッサールの静態的現象学と発生的現象学はそれぞれ、ハイデガーの解釈学的現象学に対して有する関係を異にしている、ということになると思います。
もしそうであれば、解釈学的現象学に対するこの二者のそれぞれの関係というのは、どのようにお考えですか?
860考える名無しさん:2014/01/05(日) 17:34:27.73 0
しかしその「心的機能」のはなしつまり「人生論的」なことが本当に邪魔なんだよね。
散々考えていって結局は「人生論」かい?というね。
現象学に人生論なんか出てこないし必要も無い。
だからハイデガーの哲学は動機が不純過ぎる。
861考える名無しさん:2014/01/05(日) 17:49:39.06 0
動植物や無生物と比較される「人間」は、その「人間」が「我々とは何か?」という
問いに対する答えである以上、必然的に自己としての「ひと」という規定を含むが、
自己としての「ひと」は、「人間」として規定されない。
862考える名無しさん:2014/01/05(日) 19:49:26.67 0
>>859
私が理解している「超越論的現象学」とは、デカルトに於ける“超越論的主観性”を基点とした
超越論的還元(現象学的還元)による本質観取までの一連の思考過程と解釈している。

従って、超越論的現象学と静態的現象学は、同義と解釈している。
静態的現象学と発生的現象学の論理的な違いは、発生的現象学が「生活世界(=主客未分化領野)」を
基底としていることであり、“時間概念”を導入していることである。
ハイデガ−は、フッサ−ル後期の発生的現象学に於ける“時間概念”を中心として「間主観的還元」により、
“相互主観性”による「世界−内−存在」という存在論的現象学(解釈学的現象学)を創出している。

私見としては、フッサ−ル中期の静態的現象学(純粋現象学)での、“現象学的還元”による、「構成的内在(=不可疑)」の
「不可疑的存在」と、後期の発生的現象学の「可疑的存在」かで分けて、両者を定義している。
静態的現象学が、デカルトの超越論的主観性(私)を基点としているのであり、超越論的主観性が「不可疑的存在」であるからです。
863考える名無しさん:2014/01/05(日) 20:11:18.38 0
ぱいでっかー
864考える名無しさん:2014/01/05(日) 20:11:51.01 0
しかもフル賃(爆撃
865考える名無しさん:2014/01/05(日) 20:12:56.50 0
どんな生物だよwww
866考える名無しさん:2014/01/05(日) 20:57:55.91 0
形而上学の根本諸概念は名作だねー。
867考える名無しさん:2014/01/06(月) 00:15:51.46 0
世界は常に自己が生きている人称構造の関係性として存在するのだから、
いくら世界を徹底的に「客観的」に、つまり、三人称で記述しようとしても、
そこから究極的に自己を排除することはできない。そのように記述しよう
としている自己がいることを一時的に忘却することはできても。
868考える名無しさん:2014/01/06(月) 00:26:55.42 0
>>867
>世界は常に自己が生きている人称構造の関係性として存在する

そんなわけないだろって、何回書けばわかるんだよw

世界は自己とは関係なく存在してるし、その世界と自己とのかかわり方が、そういいたければ現存在というだけじゃないかw
869考える名無しさん:2014/01/06(月) 01:05:08.29 0
>世界は自己とは関係なく存在してるし

そのような世界の存在を誰も示すことも、表すこともできない。
それができるならその世界は既に自己と関係して存在している。
870考える名無しさん:2014/01/06(月) 01:09:38.49 0
>>869
そんなこと言ってるから、哲学はいつでも幼稚園、なんてバカにされるんだよ。

ゼノンのパラドックスから1ミリも進んでないねw
871考える名無しさん:2014/01/06(月) 05:41:11.37 i
>>862
>ハイデガ−は、フッサ−ル後期の発生的現象学に於ける“時間概念”を中心として「間主観的還元」により、“相互主観性”による「世界−内−存在」という存在論的現象学(解釈学的現象学)を創出している。

なるほど、ハイデガーの現象学的存在論は、フッサールの発生的現象学の時間化論を受け継ぎ(間主観的還元によって)発展させたもの、ということでよいでしょうか。
となるとこの場合、ハイデガーがフッサール発生的現象学に施した〈相互主観的還元〉こそ、ハイデガーによる、現象学の〈解釈学化〉の内実であるということになるとおもいます。

フッサール自身も間主観性や間主観的還元ということについて、『デカルト的省察』や『間主観性の現象学』などでかなり色々と書いているとおもいますが、ここでハイデガーの間主観的還元と、フッサールのそれとではどのような違いがあるとお考えですか?
すこし突っ込んで教えてもらえるとありがたいです。

個人的には、SZにおけるハイデガーには、他我の構成、また発生という視点が欠けているように思えます。
そうすると、ハイデガーが間主観的還元によって世界内存在の議論を可能にしたとして、その還元はいかにして行われうるのでしょうか?
フッサールの場合、例えばデカルト的省察における、他我構成の議論を挟むことによって、自我論的現象学から間主観的現象学への〈還元〉が可能になっていると思います(「相互主観的還元」を私はこのように理解しました)。
ハイデガーはこうした議論を持ってないと思いますが、ではいかにして他我や他の現存在、共同現存在といったものが可能になったのでしょうか?
ここに〈解釈学的〉という概念の秘密があるような気もしますが、どうでしょうか。
872考える名無しさん:2014/01/06(月) 18:20:16.72 0
>>871
現象学的還元は、すべての既成概念としての、事象(主観と客観)を排して(エポケ−)
意識に直接に明証的に現れる現象を直観することですが、ハイデガ−の場合は、“還元”による
究極の直観的な命題が、「それぞれが私である」と記述している。

この「それぞれが私である」という直観命題は、デカルトの「私は考えるゆえに私は在る」という
直観命題と大きく異なっている。このハイデガ−の「それぞれが私である」の“それぞれの私”が
相互主観性を現わしている。

フッサ−ルとハイデガ−の発生的現象学の違いは、「時間概念」の捉え方にあると思う。
つまり、フッサ−ルは現前性(今)を“不動のもの”と捉えているのに対して、ハイデガ−は
現前性(今)を“動的なもの”として捉えていることであると思います。
873考える名無しさん:2014/01/06(月) 18:35:03.11 0
>>872
ちょっと、身近な経験に沿って説明してもらえます?
874考える名無しさん:2014/01/06(月) 20:01:59.44 0
>>873
身近な経験とは、事象に対する“エポケ−”での具体的な思考過程のことでしょうか。
875考える名無しさん:2014/01/06(月) 20:28:00.45 i
>>872
>このハイデガ−の「それぞれが私である」の“それぞれの私”が相互主観性を現わしている。

直観命題「それぞれが私である」というのは、SZですと、5節や9節などにおいて現存在に与えられている規定のことでよいでしょうか
(5節「私たちはその上、そのつど自身が現存在なのであるから……」熊野訳)。
また、この規定は、Jemeinigkeit(そのつど私のものであること・各自性)ともいわれているものかと思います。

現存在とは、自己関係的な存在の仕方(みずからの存在に関わりつつ存在するという仕方=実存)を持つものであり、
つまり、〈私〉(と呼ばれる存在者)のことである(ハイデガーにとってはハイデガー自身、読者にとっては読者自身のこと)。
このことを、各自性とハイデガーは言っていると私は理解していますが、
この各自性の各、つまりje-という契機に間主観性が含まれる、ということでしょうか。

各自性とはむしろ、私の死は私が死ぬしかないように、〈私〉は私でしかなく、他の誰にも引き受けられない、
という、〈私〉のユニークさを強調する概念と思っていたので、これに間主観性が含まれるというのは、興味ぶかいと思います。
876考える名無しさん:2014/01/06(月) 22:12:52.20 0
 
877考える名無しさん:2014/01/06(月) 22:14:00.29 0
 
878考える名無しさん:2014/01/06(月) 22:15:08.21 0
 
879考える名無しさん:2014/01/06(月) 22:17:25.01 0
 
880考える名無しさん:2014/01/06(月) 22:21:28.09 0
 
881ixtlan:2014/01/07(火) 00:37:54.19 0
>>858
> >>856
> >それは、一言で言えば、人間の心的機能と時間性とを一対一に対応させるという話です。
>
> これを、もう少し敷衍して欲しいです。
> 現存在の存在といわれる、ゾルゲという一見すると心理学的な概念が、ハイデガー的な意味での時間の概念から説明される、というようなことを言っているのでしょうか?

  
 心的機能とは、了解と情状性です。

 この了解は、意志的思考ともいうべき、理論と実践の根源にあるとされるものです。

 情状性は気分の言い換えです。

 あるいは情状性は端的に感情といってもいい。ハイデガーは論理学の根底に感情があるともっていく。
 こういうのは数学の根底に情動があるというのと同じで、だから何ですかという反応しか産まない。

 で、一方に了解と情状性があり、他方に、未来と過去がある。

 その中間にゾルゲがあって、それが受動能動。
 

> あとこの場合、SNにおける、〈解釈学〉という契機はどうなっているんでしょう?これも無理筋な方法という程度のものなのですか?

 解釈学は、解釈学的循環という意味でしか機能しないと思います。ですがこの循環もまたゾルゲの受動能動の循環を定着させる程度の役割しか果たしてないのではないでしょうか。
 
 実際のところ、現象学にしても解釈学にしても、固有の方法があるようには見えないのですが。
882考える名無しさん:2014/01/07(火) 00:39:09.02 0
 
883考える名無しさん:2014/01/07(火) 00:39:58.87 0
 
884考える名無しさん:2014/01/07(火) 00:40:36.85 0
 
885考える名無しさん:2014/01/07(火) 00:41:36.51 0
 
886考える名無しさん:2014/01/07(火) 00:43:51.87 0
 
887考える名無しさん:2014/01/07(火) 21:35:11.65 0
>>862
フッサ−ルの創始した現象学は、デカルトの提起した「認識問題の謎(主観と客観の一致)」の解明が、
現象学の第一の“中心課題”であると、フッサ−ルは記述している。

日本に於いては戦後から現在まで、発生的現象学が主流として展開されているが、「認識問題の謎」の解明
という観点から、発生的現象学と併行して、静態的現象学(超越論的現象学)の論究が必要となる。
888考える名無しさん:2014/01/07(火) 22:58:03.76 0
 
889考える名無しさん:2014/01/07(火) 23:02:16.78 0
 
890考える名無しさん:2014/01/07(火) 23:03:28.85 0
 
891考える名無しさん:2014/01/07(火) 23:11:18.39 0
 
892考える名無しさん:2014/01/07(火) 23:29:37.65 0
いんびんです^^いろいろとね
893考える名無しさん:2014/01/07(火) 23:31:14.57 0
 
894考える名無しさん:2014/01/08(水) 13:10:39.01 0
>>875
「私たちはその上、そのつど自身が“現存在”なのである」この捉え方が、
ハイデガ−の「世界−内−存在」を現している。

「それぞれ各自が私である」という“相互主観性”が、認識論から存在論への転化を
可能としている。しかし、この発生的現象学が、“時間概念”を基底としているのであり、
大局的な「現象学」の観点から、静態的現象学(超越論的現象学)と“対比”しながら論究
することが必要と思う。
895考える名無しさん:2014/02/09(日) 16:06:25.50 0
「神的批評」所収「柄谷行人論」を読んだ。まとめよう。
ハイデガーがそうであったように、自己言及は死を招き寄せるが、これは死への欲動を内に取り込んだせいである。
柄谷の「形式体系を内破する」ことは、ここでは、死への欲動を外に溢れさせることを指す。
ところで、デリダは、ハイデガーの死への投企を死を与えることと読み換え、さらい
他人のために死ぬことを付け加える。これは、死への欲動を他人に贈与することを意味する。
自己言及はそもそも他人への自己放棄を前提としている。
このような自己放棄は資本主義社会では貨幣と労働力商品のみができることである。
労働力商品だけではなく、これを多方面で行うことが求められよう。
896考える名無しさん:2014/02/09(日) 16:07:02.12 0
國分「ドゥルーズの哲学原理」第5章を読んだけど、
よく書けてるわ。
「フーコー」なんて、読んでも全く分からなかったが、
クリアカットに解説されていて、すばらしい。
ただ、フーコーは権力論を放棄はしていないんだよね。
それが問題編であって、80年代のは解答編といえる
(解答編が問題編を放棄するということはありえない)。
また、80年代のフーコーに対する高評価も触れられていない。
しかし、読む価値は十分にありそうなので、今から続き
(というか最初から)読みたい。
897考える名無しさん:2014/02/21(金) 07:11:25.18 0
麻薬中毒のクズ
898考える名無しさん:2014/02/22(土) 01:03:27.05 0
先生なのに穢多?
899考える名無しさん:2014/02/23(日) 04:19:41.57 0
俺、エッピ、間に合ったから同和先生に汚されてねえぜ?
900考える名無しさん:2014/02/23(日) 12:36:21.65 0
>>898>>899
穢多って被差別部落出身者の蔑称?
誰のことかわからないけど、被差別出身者だとなんか悪いことがあるの?
むしろ差別された中で生存してきたんだから、優秀なんじゃないの?
901考える名無しさん:2014/02/23(日) 15:48:24.64 0
>>900

穢多ニティー?
902考える名無しさん:2014/02/23(日) 15:52:38.15 0
>>901
なにそれ?
永遠?
わかることかいてよ。
903考える名無しさん:2014/02/23(日) 16:34:06.42 0
>>902

てめえのやってることは哲学じゃねえんだよ。
マガイものだ。仁を廃れさせる穢多の仕事だろうが。
904考える名無しさん:2014/02/23(日) 18:57:29.64 0
>>903
ふーん。
誰のことか分からないから、具体的に名前を挙げてどういうところが「マガイもの」で「仁を廃れさせ」てるのか書いてよ。
ついでに「仁」というのが「哲学」的にはどういうものなのかも書いてね。

それから、「穢多の仕事」(被差別部落出身者の仕事?)だとなんで「仁を廃れさせる」のか、も説明してね。
905考える名無しさん:2014/02/23(日) 19:02:10.02 0
>>904

ハイデガーを読むなんて、同和のヤルこと 同和
906考える名無しさん:2014/02/23(日) 19:11:10.24 0
>>905
同和って、被差別部落出身者のこと?
それとも、被差別部落解放運動のこと?

被差別部落出身者が嫌いなの?

ハイデガーと部落問題はどういう関係があるの?
907考える名無しさん:2014/02/23(日) 19:27:35.58 0
>>906

同和はねえ、朝鮮人とか在日とか、右翼・民族団体とか、100パーセント、ヤクザの人だよ
908考える名無しさん:2014/02/23(日) 20:29:39.28 0
>>907
同和って、被差別部落出身者のこと?
ハイデガー読んでるのは被差別部落出身者なの?
誰が同和なの?

で、ヤクザとハイデガーとどういう関係があるの?
909考える名無しさん:2014/02/23(日) 22:09:11.85 0
>>908

俺、麻薬中毒者のクズで精神病院に入ってたからさあ
出身地や看護師さんに友達の名前を借りて社会復帰したから
オモシロくなかったんだ
みんな、同和で仕方ねえもの
ハイデガーは実際、同和が読んでるからしょうがねえじゃん
910考える名無しさん:2014/02/23(日) 22:32:02.68 0
>>909
なんだ、病気だったのか。
大事にしろよ。
911考える名無しさん:2014/02/24(月) 00:00:24.12 0
>>910

麻薬中毒者のクズが。同和民のくせに。
イルミナティーみたいなイカガワシイ団体に出入りしやがって。
フリーメーソンも裏で操ってる。
912考える名無しさん:2014/02/24(月) 08:54:08.11 0
ハイデガ−の哲学は、従来の認識論的主観主義から、“存在論”への転換を試みている。
現象学の現代的意義は、純粋現象学(静態的現象学)と発生的現象学との両方の観点から
捉え直していく必要がある。

ハイデガ−哲学は、「世界−内−存在」概念を基底とした“発生的現象学”の立場での理論展開を
しているが、これは事象をパ−スペクティヴ的に捉えている。
事象の捉え方には、二通りあり、“静態的現象学”の視点からも理論構築し、両者の論理の対比の
中から考察することが必要となる。
913考える名無しさん:2014/02/24(月) 16:23:58.35 0
大学教授はヤクザの就ける職業なんだね

個人の思想や信条に関係なく教員免許がなくても入れるって
恫喝を続けてたら、推薦状を貰えるよね
914考える名無しさん:2014/02/25(火) 00:20:09.40 0
どうなんだろうね、俺が身近に見てきた連中は「インテリ」だか、「知識人」だか、
「研究者」だか、「大学人」だか知らないけど、真実を自己都合に従属させること
を当然と思っているどころか、自分に都合のいいことが真実であると信じ込んで、
それをほんのわずかでも疑うことすらできないような人間ばかりだった。
915考える名無しさん:2014/02/25(火) 00:25:25.20 0
それはそういう類いの人の宿命だよ
結構仕方が無い
916考える名無しさん:2014/02/25(火) 00:26:34.52 0
大学教授はゴミ屋のオヤジでもアイヌ人でも這い上がれる職業だよね
917考える名無しさん:2014/02/25(火) 00:28:20.38 0
それとなく矛盾に気づかせてあげようとすること自体が無駄というより、
危険なんだよね。自分の都合=真実だから、どんなに辻褄が合わなくても
一向に気にしないし、辻褄が合っていないことに気づかせてあげようと
しようものなら、個人攻撃を受けたと見なして、何の理屈にも基づかない
罵詈雑言が返ってくるだけ。
918ダニエル・カール:2014/02/25(火) 00:57:59.47 0
私、ハイデガー読んでたら気が付いたの
人が捨ててるようなものを集めれば、人生は成功するって
だって、タダでお金を生み出せるってことじゃないですか
ウンコ、ゴミ、中古市場にハイデガーの哲学を生かしたい
919アイヌの賢者 ダニエル・カール:2014/02/26(水) 14:27:43.99 0
有りましたー! やってやりましたー!
920アイヌの賢者 ダニエル・カール:2014/02/27(木) 05:44:32.38 0
エコロジーの分析論で論文書いたから
921アイヌの賢者 ダニエル・カール:2014/02/28(金) 01:09:33.92 0
アイヌの100%・ヤクザが学者やって悔しいよ
同和だぜ ヤクザだぜ?
正業、止めさせますから
私をハイデガー研究者に取り換えてください
922アイヌの賢者 ダニエル・カール:2014/03/01(土) 05:55:32.54 0
次の博士さん、逆行して、ごめんなさい
昔に戻った罰で穢多をやります

うひゃ〜 おったまげたな〜
923アイヌの賢者 ダニエル・カール:2014/03/02(日) 15:50:48.49 0
どうして こんなにゴミの出し方が悪いのかな〜
ゴミを貰ってやらない
924アイヌの賢者 ダニエル・カール:2014/03/03(月) 05:56:51.30 0
ゴミを貰ったらダメ

マナーの悪いゴミ出しは持って帰ってあげない罰を与えないと

私、ここら辺で頭から叱れる人だから、先生なんだよ?
925考える名無しさん:2014/03/03(月) 06:03:03.26 0
>>923-924
すげー。シンクロニシティっていうか、予言じゃなくて透視か!?
いや、過去のこの事実を俺がアカシックレコード伝いで受取って俺のレスにしてある。

だって、読んでないんだぜこのスレ、俺がさっきのレスした時点で。

http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/philo/1393328818/927
926アイヌの賢者 ダニエル・カール:2014/03/03(月) 09:51:57.60 0
>>925

今日から俺のことをレザーって呼んでくれ
927考える名無しさん:2014/03/03(月) 10:33:11.84 0
【1/2】ニコ生ノンフィクション論 『飼い喰い』〜三匹の豚が「肉になる前 (60:02) http://nico.ms/sm18341673 #sm18341673
928アイヌの賢者 ダニエル・カール:2014/03/04(火) 04:43:15.58 0
>>927

ハイデガー部落か?
929考える名無しさん:2014/03/04(火) 04:54:42.84 0
デスノート10周年だってよ。やばいな。
時系列的にツイスターゲームになっている。
せめてやっているのが美少女であってほしい。
930アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/04(火) 05:09:11.08 0
>>929

ハイデガー ダニエルの新しい部落?
931アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/05(水) 00:49:57.72 0
先端の哲学以外、やりたくないから・・・
932考える名無しさん:2014/03/05(水) 20:30:24.56 0
>>931
>先端の哲学

ここ、笑うところ?
933パンの耳:2014/03/05(水) 20:49:46.41 0
 
 ひざ  
  
934パンの耳:2014/03/05(水) 20:52:28.05 0
 
 にー♪
 
935アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/05(水) 21:54:41.57 0
>>932

俺、同和って仕事の話しをされるから、いつも、人の仕事をバカにしてんのー
激・賤民ですまん
936アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/06(木) 04:58:00.01 0
ダニエルを許してあげなさいね

部落民だから
937考える名無しさん:2014/03/06(木) 17:23:54.34 0
靖国神社、英霊、A級戦犯は、イングランド帝国に転生させる。
938考える名無しさん:2014/03/06(木) 17:27:23.42 0
だめな、二本陣、ナマイキなおっさん、ナマイキで、念、呪怨を送ってくる奴は、
朝鮮半島行確定、それがダメなら、中国、ブラジル、メキシコに、輪廻転生確定
その他、好きな国へ転生
939アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/06(木) 18:04:54.39 0
お前、警察か? 部落民だから
940アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/07(金) 00:40:39.04 0
ダニエル・カールだよ アバターだよ 同和じゃなくてエイワだよ
941アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/08(土) 11:50:20.42 0
同和地区を抜け出そうと
学者を目指したけど
もう一つ、部落ができただけだったね
942考える名無しさん:2014/03/08(土) 15:38:19.68 0
なぜ
943考える名無しさん:2014/03/08(土) 15:43:12.71 0
オバマと藻の研究した仲~ァ
944考える名無しさん:2014/03/08(土) 16:40:48.53 0
ハイデガーって、メタのメタを思い付いて説明しようとしたけど、
メタ・レベルでしか考えられなかったために失敗した、て感じ?
945考える名無しさん:2014/03/08(土) 19:26:38.61 0
メタとメタメタの差異をひっくり返してメタメタメタになった感じ
946アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/08(土) 23:23:07.52 0
>>945

なに、その週末救世主みたいなの?
947アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/09(日) 04:14:24.41 0
俺 献血してアイヌの血を日本に混ぜるのが趣味なの
948考える名無しさん:2014/03/09(日) 04:17:14.56 0
エイズの売春婦そのものだな。
949考える名無しさん:2014/03/09(日) 17:31:27.05 0
北海道か沖縄に転生してください。
950アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/10(月) 00:57:22.69 0
アイヌの誇りと同和根性を植え付けるから嫌われた
951考える名無しさん:2014/03/11(火) 18:55:51.66 0
18時〜東電本店前デモ( http://antitepco.ldblog.jp/archives/36175877.html … )もあるようだし、はてさてどうやって帰ろうかな(´・ω・`)
それにしても反原発・反天皇は思想の違いもあるのでともかく、反黙祷ってのはイミフでしょうよ。
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/05fcb265247ea4cd302fcf68b6c28c85
952アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/11(火) 21:46:23.90 0
人生 ドブに捨てたぐらいの気持ちになって 徹底的に 哲学やらないとダメだあ
953考える名無しさん:2014/03/12(水) 00:07:13.50 0
私のデコぽん飲んだ―――――――――!!!
954考える名無しさん:2014/03/12(水) 05:25:43.31 0
>>952
良いこと言うじゃん。
955考える名無しさん:2014/03/12(水) 09:09:09.21 0
>>951
加害者と一般国民を同列に据えることで、加害者、原子力利権の享受者と一般の国民の境界を曖昧にさせようとしているというのは、普通の見方というより、むしろスタートラインだろ?
956アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/13(木) 10:32:35.37 0
>>954

ハイデガーばかり考えちゃダメ

アイヌの歴史を網羅した辞書を研究所に買わないと
957柚子胡椒:2014/03/13(木) 10:33:28.25 0
愛ぬは大事ぬ
958アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/14(金) 05:51:37.37 0
同和民は盗んだバイクで走りだした?
959考える名無しさん:2014/03/16(日) 19:37:46.73 0
ハイテガーの本は破いて捨てるがよろし
960考える名無しさん:2014/03/16(日) 20:56:38.86 0
電通
961考える名無しさん:2014/03/20(木) 23:56:41.20 O
存在と時間 第三十四節 現にそこに開示されている現存在と語り 言語

に書かれている「…語りは了解可能性の分節化なのである。…世界内存在の情状的な了解可能性は、語りとしておのれを言表する。」
ってどういうこと?
了解可能性の時点で語られる意味が分かんない。語が前提となるっていう事なら分かるんだけど
962考える名無しさん:2014/03/21(金) 00:07:48.53 O
っー事自体が語られてるって意味か
963考える名無しさん:2014/03/21(金) 00:21:31.73 0
語りには世界の了解可能性が先行しており、語りは世界の了解可能性の現実的発現ということじゃないの
964考える名無しさん:2014/03/21(金) 00:29:06.85 O
語りが了解可能性つーか了解の現実的発現ってのは当然だろうけど

了解可能性に語りが先立つってのが気になってさ
965考える名無しさん:2014/03/21(金) 00:37:13.12 0
「了解可能性に語りが先立つ」ってのはどこに書いてあるの?
966考える名無しさん:2014/03/21(金) 00:43:12.87 O
あーごめん俺が勘違いしてた
同節「…語りは了解可能性の分節化なのである。だから語りは、解釈と陳述の根底にすでにひそんでいる。」

解釈と陳述に先立つってだけの話やった
すまぬ
967アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/26(水) 21:27:34.23 0
>>966
同和問題で屋敷でも立てるつもりか?
968アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/03/30(日) 19:19:57.92 0
俺 ぜってえ エコロジーに妥協しねえ
資源に出会えるの信じてるから
単純な存在になるまで 徹底的に分析する
969考える名無しさん:2014/04/05(土) 14:12:00.98 0
地球エネルギーの枯渇、代替エネルギー開発。それらはとりあえずのエネルギ
ー問題としては重要だが自然の価値化、それを遂行する人間の価値化が組みあ
わさった工学、ハイデッガーの語彙でいう工作機構の一部であることに違いは
ない。原子力エネルギー利用の是非、代替エネルギーの可能性、が原発事故
以来云われて久しいが、その背景にハイデッガー的な問題が隠されていること
はまったく云われなくなっている。近代における技術の意味について根底的
に思索したのがハイデッガーで、いわゆる集-立としての運命をあげないこと
には技術と人間のかかわる真の姿は隠されたままである。
970考える名無しさん:2014/04/05(土) 14:25:19.53 0
>>969
「集−立としての運命」とは、具体的にどのようなことでしょうか?
971考える名無しさん:2014/04/05(土) 14:42:01.89 0
この世には、
  単なる「有〔存在)」はない。
  「C点による時空論」を検索。

  確かに、あるものはある
  だが、 あるもの=「有無合一体」
  だが、 感覚器官は「無を認識出来ない」ので、

      「有無合一体」=あるもの

  単なる「有(存在)」はない。それが、この世。
972考える名無しさん:2014/04/05(土) 14:49:47.44 0
 2012年の震災とそれによる文明の瓦解を日本社会の立て直しの機会
としてとらえ、人間の紐帯はまだありうることのきっかけとしてみよう
とする文化人が多々あるようだが、震災をそのようにとらえる運動の
おかしいのは、瓦解した文明はいつかは修復され、元通りになる。そ
れが復興の意味である。それはとりもなおさず、現代の日本社会にあ
る欠陥もまた同じく再発してしまうことを意味している。つかの間出
現した<後進地域>はいつかまた文明の現段階に追いついていく。
追いついていくことが<復興の完成>なわけだ。偶然出現した<後進
地域>に日本社会の立て直しを夢見る運動はそこを錯覚している。
文明は自己の不全を意識して刷新しないことにはいずれ同じ場所に
行きついてしまう。技術の欠陥はかつてよりも強固な技術と意志で再
建されていくだけだ。非労働時間まで価値化が浸透し、生産の一部と
みなし、駆りたてていく現段階の文明にたいし、意図的に<後進地域
>を維持し文明に抵抗することができるかといえば、それは難しい
だろう。いずれ取り込まれていくことは避けられない。そこで再び
人間と文明の在り方が検討に付されるかもしれない。そのままかもし
れない。いずれにせよわれわれにできる文明への働きかけはもう乏しい
だろう。
973考える名無しさん:2014/04/05(土) 14:58:02.03 0
 自然を役立つものへ、用在へ、価値へ立て、同時に人間自身がそれを
遂行する主体としてみなされおのれ自身が価値として立てられていく。
すべてがそのように総動員され価値化へ駆りたてられていく。ふるい落
とされていく。淘汰されていく。その動態を集-立 Ge-stell と名づけた
974考える名無しさん:2014/04/05(土) 23:32:16.86 O
事物を道具的存在へってのは世界の世界性に対して盲目的だな
975逝ってしまえーpart2:2014/04/06(日) 04:57:44.24 0
     
 だったら 文明の導火線 に置き換えてもいいけど
          
976考える名無しさん:2014/04/06(日) 07:47:45.24 0
ピアジェ
977アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/04/07(月) 18:27:06.76 0
ええ!?賤民なのお
978考える名無しさん:2014/04/07(月) 21:56:03.36 0
 ハイデッガー有論の可能性は乳児心理学において、実はもっとも豊富なんじゃ
ないかという感がある。世界の-内に-有ることという概念、先-像 for-build
が世界を拘束するという、いわゆる前-有論的とされる概念。また、出生の
傷の隠蔽としての文明という考えにも発展しうる。

 もう一つは人間にとっての有の忘却へ追い立てる自然の用在化、その算定と
効率化、それを遂行する主体としての人間と、その集-立によるふるい落とし
、陶太、その全面化。これはマルクス思想との連動によってより展開されう
る。われわれの生きている世界を考えるうえで外せない概念だと思われる。
979考える名無しさん:2014/04/08(火) 01:04:46.61 O
そのふるい落しの独善性の理解の有無はともかく、それが成功してるとは思えないな
980考える名無しさん:2014/04/08(火) 06:35:27.90 0
>for-build

分かっていないドイツ語無理に使うのをやめたらいいのにw
981考える名無しさん:2014/04/08(火) 07:20:15.37 0
失礼。先-像はfor-build ではない。それじゃあ英語だ。独逸語では
Vor-bildが正解。失礼した。
982考える名無しさん:2014/04/08(火) 08:26:51.27 0
 これからのハイデッガー研究では、やはり『哲学への寄与論稿』以降、
『「ヒューマニズム」に関する書簡』『放下』『技術への問い』を、
われわれの社会状況、あるいはもっと拡大して最終的には惑星的命運
として、読んでいくことが必要なんじゃないか。
 代々ハイデッガー研究というのは大學研究者の専売特許だったわけ
だけど、そろそろそこの垣根を取っ払って、われわれの住む社会の
本質を透徹した視線で論じた思想家として広まっていけば理想だな
と思う。むしろフリーターや引きこもりや、大学外の若者の手に
届けば理想的だという気がする。TVに出てるコメンテーターよりも
遥に徹底的にわれわれの生存のその意味を抉りだした思想だと。
983考える名無しさん:2014/04/08(火) 08:44:17.73 0
たしかに用語が独特だったりもするが、特に戦後はアカデミズムから
離れ、独自に思索を進めた。本人がアカデミズムから離れて思索したわ
けで、しかも実は今に生きる人間の姿をたえず考えていた。それはまた
一人一人の生存の尊厳として考えていた。しかもhumanismに収斂させき
れないものとして。それが有 Seyn の意味だ。そう考えていくと、
現代人のもつ孤立やきつさをもっとも語り得るタームをハイデッガー
が提起している。現代においての孤独の意味をもっとも本質的に語り
得るタームを提供しているのがハイデッガー。今後、そういう評価が
高まれば理想だと思う。
984考える名無しさん:2014/04/08(火) 15:27:48.05 0
日本のハイデッガー翻訳及び研究者というとよく知られたところでは
戦前からでは九鬼周三、桑木務、松尾啓吉、辻村公一、渡辺二郎、原祐、
細谷貞雄、川原栄峰、茅野良男、木田元、細川亮一、熊野純彦、
高田珠樹、創文社ハイデッガー全集関係となると上記の人以外にも
多数分担している。

 ハイデッガー関連書籍の分量でいうと渡辺二郎、茅野良男、辻村公一
、木田元あたりが多い筆頭ではないだろうか。それぞれ個性があって
、だがそれぞれに恩恵を被った覚えがある。ネットの無料動画で
熊野純彦がハイデッガーを論じた動画を配信しているのは本や論文
以外の新しい媒体だろう。
985考える名無しさん:2014/04/08(火) 15:54:08.00 0
 ハイデッガー全集といえば創文社が版権をとって続行しているが
70年代までは理想社のハイデッガー選集があった。しかし訳がいまいち
で、たとえば今なら「超越論的」というところを「超越的」となって
いたり、『「ヒューマニズム」書簡』も創文社版を読んでから読むと
非常に読みにくいし意味を取るのが一苦労する。今もちくま文庫や
平凡社ライブラリーに入っている細谷貞雄の『存在と時間』『ニーチェ
』を除くと出来は多分バラバラなんだろうと思っている。ちなみに
『技術論』(小島威彦 訳)『放下』(辻村公一 訳)はとても読み
やすかった。しかしいずれにせよハイデッガーの翻訳はどの訳者も
苦労なしでは終わらないらしい。
986考える名無しさん:2014/04/08(火) 18:37:29.03 O
>>938
孤独の意味を本質的に語り得るハイデガーのタームって具体的に何?
987考える名無しさん:2014/04/08(火) 19:53:13.52 0
ハイデガー ヒトラー宛 電報 一九三三年五月二十日
 ベルリン帝国宰相官房内。帝国宰相閣下。ドイツ大学同盟理事会との計画中の話合いの会を、大学同盟指導部においてとくに必要な画一化が完了する時点まで延期されますよう要請いたします。フライブルク大学学長ハイデガー
988考える名無しさん:2014/04/08(火) 19:59:14.46 0
 もともとハイデッガーの思索では本来的実存は自-立性として、
すなわち「彼のもっとも自己的な卓抜な可能性から曖昧さを容れぬ
仕方でそれ自身を理解すること」(『有と時』第74節)が<既有的に
将来すること>、歴史的現成として描かれている。易しくいえば
‘取り換えのきかない自分’とは何かが考えられている。それは『有
と時』にある見方だが、一方で近代が絶えざる総動員として、駆り
立てとして価値として追い立てていく動態であることも『技術と転回』
に於いて見出されている。これらによって今という時代に自己性が
保有する意味ときつさが掴まれているとみなしている。
989考える名無しさん:2014/04/08(火) 20:35:02.28 0
「有」ではない。「在」だ。
990考える名無しさん:2014/04/08(火) 21:22:11.35 0
 竹田青嗣は『ハイデガー入門』で、本来性を民族・共同体とみなし
している。
しかし竹田がそうみなす箇所たとえば第74節をみれば、あくまで自己性
として、「現で既に有った現有」をそのまま持ち来たらすのではなく
「現で既に有った」に含まれる可能性に応答することとして、「過去」
として影響を及ぼしている諸々に「反対し撤回すること」を現有の運命
として、有限性(自分は何にでもなれるわけではない)として、見出さ
すこととして本来性をとらえている。「伝来された諸可能性をそれ
自身に伝承すること」「自己の模範とすべき人物を選ぶこと」等は「
既有的な実存可能性を本来的に反復すること」であり<自己から自己
への伝承>である。ハイデッガーの語彙でいえば「現有は彼の歴史に
於いて反復しつつ‘それ自身’を引き受ける」。これは竹田が
言っているのと異なり民族主義や英雄主義ではない自己-史のことが
らである。何よりも第72節に明らかだが、「彼の誕生と死の間の連関」
をどう捉えるかが歴史性の基底として考えられている。「最も自己的
な、無関連(没-交渉的な)、追い越しえない可能性」(第50節)が
問われていることがらであり自己-史に民族が刷り込まれているのは
当然だがだが結局は自己の問いである。竹田青嗣はナチ加担を読み
こみたい余り論旨を逃している。
991考える名無しさん:2014/04/08(火) 21:29:43.93 0
前:考える名無しさん[] 投稿日:2012/07/03(火) 20:38:46.84 0
不条理を孕む原発には、がしかし存在への制約としての価値の世界、〈〜の為の…〉という物の連関、それに
よる存在の窮乏にたいする正当防衛という性質がある。原発事故は、死も含めて事物を破壊してしまうことで、
価値、有益性、道具性の檻、そこへあらゆるものを 回収する枠組み、そこへの従属自体壊す意味があった。真
理とは人間に於ける覆蔵される時=歴史の現成、というところを熟慮すれば、今がハイデガーの時代だというのが
どういう意味でなのかがよくわかる。必要性や価値の基準と選別にどこまで行っても絡め取られていくその枠組
みを逃れる衝動が、原発事故を呼ぶとすれば、的確な同時代の分析になる。それは存在の開けの到来のことだ。
それは好運と呼ぶべきことで、常識や道徳心によって塞ぐべきでない。原発廃止や東電憎悪を愚かにも唱える者は、
時代の真理に盲目である。
992考える名無しさん:2014/04/09(水) 02:02:24.00 0
 竹田青嗣の読み方の特徴ははっきりしており、市民社会を異なる
欲望の相関として肯定的に捉える。ハイデッガーのせよオウムにせよ、
或いは左翼思想にせよそこへの異議申し立てを相対的に否定し市民社会
を擁護する。竹田の場合、ハイデッガーが後期思想で論じた技術論の
もつ惑星的命運、集-立の全面化にどう抗うか、という問いが提起され
るにもかかわらず、頽落と本来性の二項対立へは与出来ない、なぜなら
ナチス的、左翼的、オウム的な思考停止、偏狭な政治的信条に落ち込む
しかない、またハイデッガーによる有から呼び要められる思索とやら
もオカルトで訳が分からない、といった理由で一切まともには受け取
らない構えをとっている。
 まずハイデッガーの技術論はわれわれの社会における日々感じる
感触からして決して難解なものではない。なぜなら日々効率や価値
を露わに発くことに追い立てられ、かつそれを遂行する主体として
駆り立てられ奔走するのはたいして考えずとも実感される事柄であ
る。次にオカルトという文言は『「ヒューマニズム」に関する書簡』
の一節について云われているが、有に促される思索とはカントから
マルクスまで、同時代における<有る>とは何かを思考したという
意味ならまさしく有に呼び求められたといえるわけで、どこが
オカルトか分からない。読解力に問題があるのではないかと
思うし、この読解力で『ハイデガー入門』はどうなのかと言わざる
をえない。
993考える名無しさん:2014/04/09(水) 03:55:41.72 O
竹田の存在論的差異に基づく集-立とやらの実践
994考える名無しさん:2014/04/09(水) 12:26:47.90 0
創文社ハイデッガー全集は日本人翻訳者の翻訳とドイツ人研究者のハイデッ
ガーの直筆原稿と照合、難解な箇所を助言するという日独共同作業という型式
でなされている点が特徴で、この共同作業型式は全巻通じてやるつもりらしい

 ドイツ人側翻訳者ハルトムート・ブフナーは1967年の河出書房世界の
大思想『有と時』の翻訳時にすでに辻村公一と共同作業で仕事し助言して
いたと辻村は全集第2巻『有と時』訳者後記に書いている。河出書房新社
の『有と時』後記によるとブフナーはこのときすでに全集の編集に取り
くんでおり、「多忙を極めているにもかかわらず4回にわたって不確かな
箇所について助言を書き送ってくれた」としている。このときの翻訳はま
だ全集の原著も出る前でマックス・ニーマイヤー社の原書を使ったと思わ
れる。全集で『有と時』を再度翻訳刊行するとなったとき、辻村は1992年
にドイツで再度ブフナーと共議したという。

 第65巻『哲学への寄与論稿』には巻頭表題裏にブフナーへの追悼と謝辞
が書かれている。訳者後記によると『寄与』の翻訳は1997年に開始された。
大橋と秋富二人で別々に担当した初校を原文と照合し結果を交換し訳語の
統一をはかった。2001年になっていた。第二校でも同じ作業をしその後訂
正が相当量必要とわかり最終段階では二人の分担は跡形もなくなり文字通
り「共訳」となった。しかしそれは開始から数年のかかる作業となった。
ブフナーは2004年7月に享年77歳で急逝した。「絶えず有益な助言」を
与えてくれた」「深い感謝の念を抱く」「本書を故ハルトムート・ブフナー
氏に献ずる」とある。2005年5月に初版刊行と巻末にある。
995考える名無しさん:2014/04/09(水) 12:47:27.90 0
 失礼。誤りを訂正します。2005年6月初版発行が正しい。↑
996考える名無しさん:2014/04/09(水) 14:36:26.27 0
 この第65巻『哲学への寄与論稿』についてこの刊行後の哲学研究者の動向
をあげると、やはりハイデッガー翻訳研究で著名な渡邊二郎はこの邦訳が
出版されて一年後2006年6月「『哲学への寄与』についての論文を書いてみる
」と『講座 近・現代ドイツ哲学』編者に打ち明けている。この頃2006年夏
に渡邊は癌の闘病を開始するがそれと並行して『哲学への寄与』の研究を
開始した。それは2008年1月まで続き、この時書かれたものについての
参照箇所の指示を2月初めに編者に鉛筆書きで渡した三日後に亡くなった
とされている。また、渡邊はこの論文の1.8倍にものぼる和訳を独自に完成
していたと編者は書いている。
 論文のなかで渡邊は創文社版全集を指すであろう翻訳について、“仏教的
語彙で分かったつもりになるべきではない、ハイデッガー自身が自分の
思索を仏教とは関係ないとしている”とたびたび激しい口調で非難している
。しかし今の若い読者には創文社版全集で初めてハイデッガーに接する
読者もおそらくいる。その読者にとって、「有と時」が道元の『正法眼蔵』
に出てくるとか、性起説が華厳宗にあるとか、関係なく受け取っている人間
がいるだろう。性起ereignisは渡邊訳では「呼び求める促し」有・Seynは
「奥深い存在」だが、<有・が没落する者を自らへ指し向ける>こと、が性
起である、また、<有・は神現の震えである><有・は神の必需である>
として有・Seynが人知で算定できない底無しであることは創文社版で表現
されている。渡邊のいう本書の意図は無視されているわけではない。
 訳者がもっとも適切である訳語を採用することは当然だが、読者は一種類
の翻訳しか認めない必要などないし、創文社版翻訳も渡邊の翻訳も同じく
読むことができればいい。そこで理解が深まればいいだけである。
997アイヌの賢者 ダニエル・カールズ:2014/04/09(水) 22:34:54.53 0
向こうの国から勢いよく飛び出して来た神父とか芸能人の言葉
998考える名無しさん:2014/04/09(水) 22:39:01.20 0
結局ぐたぐたと理由を付けて
・自分の好きなものは全面的に肯定
・自分の嫌いなものは全面的に否定
するだけの理屈以前の糞
999考える名無しさん:2014/04/09(水) 22:55:41.87 0
 
1000せんこ ◆ALDuc1GHMs :2014/04/09(水) 22:56:16.63 0
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