1 :
ナナシズム:
2 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 10:52:02 ID:BesoAZrM
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変へはしたが、今もあひかはらずしぶとく生き永らへてゐる。
生き永らへてゐるどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまつた。それは戦後民主主義と
そこから生ずる偽善といふおそるべきバチルスである。
こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終はるだらう、と考へてゐた私はずいぶん甘かつた。おどろくべき
ことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、
文化ですら。
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思はれてゐた。私はただ冷笑してゐたのだ。
或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・
自分のシニシズムに対してこそ戦はなければならない、と感じるやうになつた。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
3 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 10:52:28 ID:BesoAZrM
(中略)
この二十五年間、思想的節操を保つたといふ自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。(中略)
それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、といふことである。否定により、
批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与へて約束を果たすわけではないが、
政治家の与へうるよりも、もつともつと大きな、もつともつと重要な約束を、私はまだ果たしてゐないといふ
思ひに日夜責められるのである。その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、といふ考へが時折頭をかすめる。
これも「男の意地」であらうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間を、否定しながら
そこから利得を得、のうのうと暮らして来たといふことは、私の久しい心の傷になつてゐる。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
4 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 10:52:53 ID:BesoAZrM
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやつてきたことは、ずいぶん奇矯な企てであつた。まだそれは
ほとんど十分に理解されてゐない。もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、
私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによつて、その実践によつて、文学に対する近代主義的
盲信を根底から破壊してやらうと思つて来たのである。(中略)
二十五年間に希望を一つ一つ失つて、もはや行き着く先が見えてしまつたやうな今日では、その幾多の希望が
いかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大であつたかに唖然とする。これだけの
エネルギーを絶望に使つてゐたら、もう少しどうにかなつてゐたのではないか。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
5 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 10:53:14 ID:BesoAZrM
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。
このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、
その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が
極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。
三島由紀夫「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」より
6 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 10:57:38 ID:BesoAZrM
われわれ楯の会は自衛隊によつて育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に
報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で
準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、またわれわれも心から自衛隊を愛し、もはや
隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知った。
ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。
このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を
呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に
出たのは何故であるか。たとへ強弁と言はれようとも自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
三島由紀夫「檄」より
7 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 10:58:03 ID:BesoAZrM
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして
末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、
自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただ
ごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜してゆくのを、歯噛みしながら見てゐなければならなかつた。
われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるを夢見た。
しかも法理論的には自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の
法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因を
なして来ているのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。
三島由紀夫「檄」より
8 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 10:58:23 ID:BesoAZrM
自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけてきた。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、
警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。
われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目覚める時こそ日本が目覚める時だと信じた。
自衛隊が自ら目覚めることなしに、この眠れる日本が目覚めることはないのを信じた。憲法改正によつて、
自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる
責務はない、と信じた。
三島由紀夫「檄」より
9 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 10:58:45 ID:BesoAZrM
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念はひとへに
自衛隊が目覚める時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。
憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の
前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。
政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の
本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」
ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍(なが)ら
訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
三島由紀夫「檄」より
10 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 10:59:09 ID:BesoAZrM
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な
警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変らない」と痛恨した。
その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の
反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。
治安出動は不要になつた。政府は政体護持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、
国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで左派勢力には憲法護持のアメ玉をしやぶらせ
つづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、
実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は
気づかない筈はない。そこで、ふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
三島由紀夫「檄」より
11 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 11:03:07 ID:BesoAZrM
銘記せよ! 実はこの昭和四十四年十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつては悲劇の日だつた。創立以来
二十年に亘つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は
政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の
可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた
自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が
残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、何たる論理的矛盾であらう。
男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、
決然起ち上がるのが男であり武士である。
三島由紀夫「檄」より
12 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 11:03:29 ID:BesoAZrM
われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な
命令に対する男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを
正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に
与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。
シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、
軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に
操られ、党利党略に利用されることではない。
三島由紀夫「檄」より
13 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 11:03:51 ID:BesoAZrM
この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。
武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。
繊維交渉に当たつては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる
核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、
抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを
喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの
傭兵として終るであらう。
三島由紀夫「檄」より
14 :
ナナシズム:2010/09/10(金) 11:04:13 ID:BesoAZrM
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけにはいかぬ。
しかしあと三十分、最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。
日本を日本の真姿に、戻してそこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。
生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。
これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、
共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、
この挙に出たのである。
三島由紀夫「檄」より
15 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 12:25:11 ID:cNDf49mm
日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいて
ゐなければならなかつた。もつともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかつたのである。
(中略)
日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。
諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。
私は諸君に、男子たるの自負を教へようと、それのみ考へてきた。
一度楯の会に属したものは、日本男児といふ言葉が何を意味するか、終生忘れないでほしい、と念願した。
青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない。
三島由紀夫
昭和45年11月、楯の会会員への遺言「楯の会会員たりし諸君へ」より
16 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 12:35:32 ID:cNDf49mm
……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、
それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の
怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながつてゐるらしいのを感じた。
…それをニ・ニ六事件の陰画とすれば、少年時代から私のうちに育まれた陽画は、蹶起将校たちの英雄的形姿であつた。
その純粋無垢、その勇敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型に叶つてをり、かれらの挫折と死とが、
かれらを言葉の真の意味におけるヒーローにしてゐた。
三島由紀夫「二・二六事件と私」より
17 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 12:41:18 ID:cNDf49mm
(中略)かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みよう
といふ思ひは、たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の
「人間宣言」に引つかからざるをえなかつた。
昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の
根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。これは
文士たると否とを問はず、生の自然な欲求と思はれる。そのとき、どうしても引つかかるのは、「象徴」として
天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この「人間宣言」であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、
一すぢの影を投げ、影を辿つて「英霊の声」を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら
「美学」と称するのも滑稽だが、私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤が
わだかまつてゐることを知らねばならなかつた。それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである。
三島由紀夫「二・二六事件と私」より
18 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 12:46:43 ID:cNDf49mm
ニ・ニ六事件を肯定するか否定するか、といふ質問をされたら、私は躊躇なく肯定する立場に立つ者であることは、
前々から明らかにしてゐるが、その判断は、日本の知識人においては、象徴的な意味を持つてゐる。すなはち、
自由主義者も社会民主主義者も社会主義者も、いや、国家社会主義者ですら、「ニ・ニ六事件の否定」といふ
ところに、自分たちの免罪符を求めてゐるからである。この事件を肯定したら、まことに厄介なことになるのだ。
現在只今の政治事象についてすら、孤立した判断を下しつづけなければならぬ役割を負ふからである。
もつとも通俗的普遍的なニ・ニ六事件観は、今にいたるまで、次のやうなジャーナリストの一行に要約される。
「ニ・ニ六事件によつて軍部ファッショへの道がひらかれ、日本は暗い谷間の時代に入りました」
三島由紀夫「二・二六事件について」より
19 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 12:51:22 ID:cNDf49mm
二・二六事件は昭和史上最大の政治事件であるのみでない。昭和史上最大の「精神と政治の衝突」事件であつた
のである。そして精神が敗れ、政治理念が勝つた。幕末以来つづいてきた「政治における精神的なるもの」の
底流は、ここに最もラディカルな昂揚を示し、そして根絶やしにされたのである。
勝つたのは、一時的に西欧的立憲君主政体であり、つづいて、これを利用した国家社会主義(多くの転向者を
含むところの)と軍国主義とのアマルガムであつた。私は皇道派と統制派の対立などといふ、言ひ古されたことを
言つてゐるのではない。血みどろの日本主義の刀折れ矢尽きた最期が、私の目に映る二・二六事件の姿であり、
北一輝の死は、このつひにコミットしえなかつた絶対否定主義の思想家の、巻添へにされた、アイロニカルな
死にすぎなかつた。
三島由紀夫「二・二六事件について」より
20 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 12:55:20 ID:cNDf49mm
二・二六事件を非難する者は、怨み深い戦時軍閥への怒りを、二・二六事件なるスケイプ・ゴートへ向けてゐるのだ。
軍縮会議以来の軟弱な外交政策の責任者、英米崇拝者であり天皇の信頼を一身に受けてゐた腰抜け自由主義者
幣原喜重郎の罪過は忘れられてゐる。この人こそ、昭和史上最大の「弱者の悪」を演じた人である。
又、世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる。誰がその責任をとつたのか。
政党政治は腐敗し、選挙干渉は常態であり、農村は疲弊し、貧富の差は甚だしく、一人として、一死以て国を
救はうとする大勇の政治家はなかつた。
戦争に負けるまで、さういふ政治家が一人もあらはれなかつたことこそ、二・二六事件の正しさを裏書きしてゐる。
青年が正義感を爆発させなかつたらどうかしてゐる。
三島由紀夫「二・二六事件について」より
21 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 13:01:18 ID:cNDf49mm
しかも、戦後に発掘された資料が明らかにしたところであるが、このやうな青年のやむにやまれぬ魂の奔騰、
正義感の爆発は、つひに、国の最高の正義の容認するところとならなかつた。魂の交流はむざんに絶たれた。
もつとも悲劇的なのは、この断絶が、死にいたるまで、青年将校たちに知られなかつたことである。そして
この錯誤悲劇のトラーギッシュ・イロニーは、奉勅命令下達問題において頂点に達する。奉勅命令は握り
つぶされてゐたのだつた。二・二六事件は、戦術的に幾多のあやまりを犯してゐる。その最大のあやまりは、
宮城包囲を敢へてしなかつたことである。北一輝がもし参加してゐたら、あくまでこれを敢行させたであらうし、
左翼の革命理論から云へば、これはほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまりである。しかしここにこそ、
女子供を一人も殺さなかつた義軍の、もろい清純な美しさが溢れてゐる。この「あやまり」によつて、
二・二六事件はいつまでも美しく、その精神的価値を永遠に歴史に刻印してゐる。皮肉なことに、戦後
二・二六事件の受刑者を大赦したのは、天皇ではなくて、この事件を民主主義的改革と認めた米占領軍であつた。
三島由紀夫「二・二六事件について」より
22 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 13:14:23 ID:cNDf49mm
桜田門外の変は、徳川幕府の権威失墜の一大転機であつた。十八列士のうち、ただ一人の薩摩藩士としてこれに
加はり、自ら井伊大老の首級をあげ、重傷を負うて自刃した有村次左衛門は、そのとき二十三歳だつた。(中略)
維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、
国家変革の情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。
そこへ行くと、国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。
かれらの言葉づかひは、全然大和言葉ではない。又、あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、
コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである。あんなものをカッコイイと思つてゐる青年は、
すでに日本人らしい美意識を失つてゐる。いはゆる「解放区」の中は、紙屑だらけで、不潔をきはめ、
神州清潔の民はとてもあんな解放区に住めたものではないから、きつと外国人を住まはせるための地域を
解放区といふのであらう。
三島由紀夫「維新の若者」より
23 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 13:21:56 ID:cNDf49mm
私は、ごく簡単に言つて、青年に求められるものは「高い道義性」の一語に尽きると思ふ。さう言ふと、
バカに古めかしいやうだが、道義といふのは、青年の愚直な盲目的な純粋性なしにば、この世に姿を現はすことは
ないのである。老人の道義性などといふのは大抵真っ赤なニセモノである。
私がいつも思ひ出すのは、二・二六事件で処刑された青年将校の一人、栗原中尉のことである。(中略)
中尉の部下だつた人から直接きいた話であるが、あるとき演習があつて、小休止の際、中尉の部下の一上等兵が、
一種のアルコール中毒で、耐へられずに酒屋へとび込んでコップ酒をあふつてゐた。そこへ通りかかつた大隊長に
詰問され、所属と姓名を名乗らされたが、その晩帰営すると、大隊長は一言も講評を言はず、全員の前で、
その兵の名をあげて、いきなり重営倉三日を宣告した。
中尉は部下に、その兵の演習の汗に濡れたシャツを取り換へさせるやう、営倉は寒いから暖かい衣類を持つて
行かせるやうに命じた。それからなほ三日つづいた演習のあひだ、部下たちは中尉の顔色の悪いのを気づかつた。
存分の働きはしてゐたが、いかにも顔色がすぐれなかつた。
三島由紀夫「現代青年論」より
24 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 13:26:23 ID:cNDf49mm
あとで従兵の口から真相がわかつたが、上等兵の重営倉の三晩のあひだ、中尉は一睡もせず、軍服のまま、
香を焚いて、板の間に端座して、夜を徹してゐたのださうである。
釈放後この話をきいた兵は、涙を流して、栗原中尉のためなら命をささげようと誓ひ、事実、この兵は
二・二六事件に欣然と参加したさうだ。
青年のみが実現できる高い道義性とは、かういふことを言ふのである。第一、老人では、いくらその気があつても、
三日も完全徹夜をした上で走り回つてゐたら、引つくりかへつてしまふであらう。
二・二六事件が右寄りの話で面白くないといふのなら、左翼の革命運動も、青年がこれに携はる以上、高い
道義性の実現なしには、本当に人心を把握できないと私は信ずる。チェ・ゲバラは革命家の禁欲主義を唱へ、
強姦の罪を犯した愛する部下を涙をのんで射殺したが、これはゲバラが革命の道義性をいかに重んじたかの
証左であつて、毛沢東の「軍事六篇」もこの点をやかましく言つてゐる。
三島由紀夫「現代青年論」より
25 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 13:33:46 ID:cNDf49mm
…一学生の万引き事件、日大紛争における暴力団はだしの残虐なリンチ事件、……これらは学生による政治活動から、
道義性が崩壊してゆくいちじるしい事例である。あとには目的のためには手段をえらばない革命戦術が
残つてゐるだけである。一見、平和戦術をとつてゐる一派も、それ自体が戦術であることが見えすいてゐて、
何ら高い道義性を感じさせることはない。
ここまで青年を荒廃させたのは、大人の罪、大人の責任だ、といふのが、今通りのいい議論だが、私はさう考へない。
青年の荒廃は青年自身の責任であつて、それを自らの責任として引き受ける青年の態度だけが、道義性の
源泉になるのである。
三島由紀夫「現代青年論」より
26 :
ナナシズム:2010/09/11(土) 16:21:20 ID:cNDf49mm
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。わけてもその希望が
一つ一つ裏切られてゆくやうな状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、
自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。
決して後悔しないといふことは、何はともあれ、男性に通有の論理的特質に照らして、
男性的な美徳である。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
27 :
ナナシズム:2010/09/12(日) 00:37:20 ID:GiKHj5iP
事実(ファクト)が一歩一歩われらを死へ追ひつめるとき、人間の弱さと強さの弁別は混乱する。
弱さとはそのファクトから目をそむけ、ファクトを認めまいとすることなのか?
もしさうだとすれば、強さとはファクトを容認した諦念に他ならぬことになり、単なる
ファクトを宿命にまで持ち上げてしまふことになる。私には、事態が最悪の状況に
立ち至つたとき、人間に残されたものは想像力による抵抗だけであり、それこそは
「最後の楽天主義」の英雄的根拠だと思はれる。そのとき単なる希望も一つの行為になり、
つひには実在となる。なぜなら、悔恨を勘定に入れる余地のない希望とは、人間精神の
最後の自由の証左だからだ。
三島由紀夫「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
28 :
ナナシズム:2010/09/12(日) 16:43:57 ID:GiKHj5iP
このごろ世間でよく言はれることは、「あれほど苦しんだことを忘れて、軍国主義の過去を美化する風潮が
危険である」といふ、判コで捺したやうな、したりげな非難である。
しかし人間性に、忘却と、それに伴ふ過去の美化がなかつたとしたら、人間はどうして生に耐へることができるであらう。
忘却と美化とは、いはば、相矛盾する関係にある。
完全に忘却したら、過去そのものがなくなり、記憶喪失症にかかることになるのだから、従つて過去の美化も
ないわけであり、過去の美化がありうることは、忘却が完全でないことにもなる。
人間は大体、辛いことは忘れ、楽しいことは思ひ出すやうにできてゐる。この点からは、忘却と美化は
相互補償関係にある。美化できるやうな要素だけをおぼえてゐるわけで、美化できない部分だけをしつかり
おぼえてゐることは反生理的である。人の耐へうるところではない。
三島由紀夫「忘却と美化」より
29 :
ナナシズム:2010/09/12(日) 16:46:43 ID:GiKHj5iP
私は、この非難に答へるのに、二つの答を用意してゐる。
一つは、忘れるどころか、「忘れねばこそ思ひ出さず候」で、人は二十年間、自分なりの戦争体験の中にある
栄光と美の要素を、人に言はずに守りつづけてきたのが、今やつと発言の機会を得たのに、邪魔をするな、
といふ答である。
この答の裏には、いひしれぬ永い悲しみが秘し隠されてゐるが、この答の表は、むやみとラディカルである。
従つて、この答を敢てせぬ人のためには、第二の答がある。
すなはち、現代の世相のすべての欠陥が、いやでも応でも、過去の諸価値の再認識を要求してゐるのであつて、
その欠陥が今や大きく露出してきたからこそ、過去の諸価値の再認識の必要も増大してきたのであつて、
それこそ未来への批評的建設なのである、と。
三島由紀夫「忘却と美化」より
30 :
ナナシズム:2010/09/13(月) 11:03:02 ID:1SFL/DsV
剣道は柔道とともに、体力が必要であることはむろんであるが、柔道は一見強さうな人は実際に強いけれど、
剣道は見ただけでは分らず、合せてみてはじめて非常に強かつたりする“技のおもしろさ”がある。それに
スピードと鋭さがあるので僕の性にあつてゐる。また剣道は、男性的なスポーツで、そのなかには日本人の
闘争本能をうまく洗練させた一見美的なかたちがある。
西洋にもフェンシングといふ闘争本能を美化した格技があるが、本来、人間はこの闘争本能を抑圧したりすると
ねちつこくいぢわるになるが、闘争本能は闘争本能、美的なものに対する感受性はさういふものと、それぞれ
二つながら自己のなかで伸したいといふ気持があるものです。
三島由紀夫「文武両道」より
31 :
ナナシズム:2010/09/13(月) 11:05:12 ID:1SFL/DsV
さらに剣道には伝統といふものがある。稽古着にしたつて、いまわれわれが着てるものは、幕末の頃から
すこしも変つてゐない。また独特の礼儀作法があつて、スポーツといふよりか、何か祖先の記憶につながる――
たとへば相手の面をポーンと打つとき、その瞬間にさういふ記憶がよみがへるやうな感じがする。これが
テニスなんかだと、自分の祖先のスポーツといふ気はしない。
だから剣道ほど精神的に外来思想とうまく合はない格技はないでせう。たとへば、共産主義とか、あるひは
ほかの思想でもいいが、西洋思想と剣道をうまくくつつけようとしてもうまくくつつかない。共産党員で剣道を
やつてゐる者があるかも知れないが、その人は自分の中ですごい“ギャップ”を感じることでせう。
僕は自分なりに小さい頃から日本の古典文学が非常に好きでしたし、さういふ意味で、剣道をやつてゐても
自分の思想との矛盾は感じない。
三島由紀夫「文武両道」より
32 :
ナナシズム:2010/09/13(月) 11:07:06 ID:1SFL/DsV
戦後、インテリ層の中で、「これで新らしい時代がきたんだ、これからはなんでも頭の勝負でやるんだ……」
といふ時代があつた。その頃僕は、僕を可愛がつてくれた故岸田国士先生に「これから文武両道の時代だ……」
といつてまはりの人に笑はれたことがある。当時、先生のまはりにゐた人達にしてみれば、新らしい時代が
きたといふのに、なんで古めかしいことをいふと思つたのでせう。
元来、男は女よりバランスのくづれやすいものだと僕は思つてゐる。女は身体の真中に子宮があつて、
そのまはりにいろんな内蔵が安定してゐて、そのバランスは大地にしつかりと結びついてゐる。男は、いつも
バランスをとつてゐないと壊れやすく極めて危険な動物です。したがつてバランスをとるといふ考へからいけば、
いつも自分と反対のものを自分の中にとり入れなければいけない。(私はさういふ意味で文武両道といふ言葉を
もち出した)。さうすると、軍人は文学を知らなければならないし、文士は武道も、といふやうになる。
実はそれが全人間的といふ姿の一つの理想である。
三島由紀夫「文武両道」より
33 :
ナナシズム:2010/09/13(月) 11:09:22 ID:1SFL/DsV
その点、むかしの軍人は漢学の教養もあり、語学などのレベルも高かつた。私はいま二・二六事件の将校のことを
研究してゐますが、当時の将校は実に高い教養の持主が多かつたと思ふ。
末松太平といふ方の「私の昭和史」(みすず書房刊)なんかみると、実にすばらしい文章で、いまどきの
かけ出しの作家などはちよつと足元にも及ばない。ああいふ立派な文章を書くには、よほどの教養が身に
つかなければ書けないものです。また、文士も、漢学を学び武道に励むといつた工合で、全人間的ないろいろな
教養を身につけてゐた。
ところが大正に入り昭和になつてくると、この傾向はだんだんやせ細つてきてバランスが崩れ片輪になつてきた。
そして大東亜戦争の頃の日本人の人間像といふものは、一見非常に立派なやうですが、実際はバラバラであつた。
近代社会の毒を受けたかたちの人間が多かつた時代です。つまり先にいつた文武両道的な――自分に欠けたものを
いつも補ひたい気持、さういふ気持がなくなつてゐたのです。
最近はさらにかういふ考へ方がなくなつてゐる。また余裕もないだらう。
三島由紀夫「文武両道」より
34 :
ナナシズム:2010/09/13(月) 11:12:39 ID:1SFL/DsV
…しかし、僕は思ふのだが本を読むにしても本当に読む気があれば必ず読めるものだ。とかくいまは無理をする
といふことを一般に避けるやうになつてきてゐる。
そこで、またバランスのことにもどるが、一般に美といふ観点からも“バランス”は大事である。古いギリシャ人の
考へは、人間といふものは、神様がその言動や価値といふものをハカリでちやんと計つてゐて、一人一人の
人間の中の特性が、あまりきはだちすぎてゐると、神の領域にせまつてくる、として神様はピシャつと押へる。
すべての面で、このやうに一人一人の人間を神様はじつとみてゐるといふのですね。
…このやうな考へ方は、当時ポリス(都市国家)といふ小さな社会で均衡を保つた政治生活をおくる必要から
生れたものと思ふが、なかなかおもしろい考へ方です。人間が知育偏重になれば知識だけが上がり、体育偏重に
なれば体力だけがぐつと上がる。――これはバランスがくづれるもとで、神様はこのことを、蔭でみてゐて罰する。
だから理想的に美しい人間像といふのは、あくまで精神と肉体のバランスのとれた、文武両道にひいでたもので
なければないといふわけです。
三島由紀夫「文武両道」より
35 :
ナナシズム:2010/09/13(月) 11:27:53 ID:1SFL/DsV
松陰はやはり、日本の根本的な問題、そして忙しい人たちが気がつかない問題、しかし、これをはづれたら
日本が日本でなくなるやうな問題、それだけを考へつめてゐたんだと思ふんです。
わたくしは、精神といふものは、いますぐ役に立たんもんだといふことを申し上げました。
わたくしは、自分の書いたものや、いつたものが、いますぐ役に立つたら、かへつてはづかしいといふふうに
考へてをります。ですから、たとへばけふ申し上げたことが、あるひはみなさんのお心のどつかにとまつて、
それが十年後、二十年後に役に立つていただければ、それはありがたいけれども、あつ、三島のいつたことは
おもしろい、ぢや、けふ会社で利用して、つかつてみようかといふやうなことは、わたくしは申し上げたくもないし、
申し上げる立場にもゐないと思ふんです。わたくしは、その、ぢや日本の精神ていふのはなんだ。日本が
日本であるものはなんだ。これをはづれたら、もう日本でなくなつちやふもんはなんだと。それだけを
考へていきたいです。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
36 :
ナナシズム:2010/09/13(月) 11:29:05 ID:1SFL/DsV
(中略)
そして、いま非常な情報化社会がありますから、精神といふものはテレビに写らない。そしてテレビに写るのは
ノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。そして人間はみんなステートメント
やることによつて、なにかしたやうな気持になつてゐるんです。わたくしは、そこまでいけば、どんなことを
やつたところで、目に見えない精神にかなはないんぢやないかといふふうに思つてゐるんです。
昔のやうに爆弾三勇士、あるひは特攻隊、ああいふやうなものがあつたときに、はじめてこれはすごい、
これはテレビにも写らなかつた、なにも出なかつたが、これはすごいといふ一点があると思ふんですが、
いまテレビに写つてるものは、どんなものが出てこようが、結局、情報化社会のなかでとかし込まれて、また
忘れられ、笑はれ、そして人間の精神体系になにものも加へないままで消えていくんぢやないか。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
37 :
ナナシズム:2010/09/13(月) 11:30:31 ID:1SFL/DsV
わたくしは、政治自体も非常にさういふ点で危険な場所にゐると思ひますのは、政治もあらゆる場合に
ステートメントだけになつていく。そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、
ちやうどあたかも塵埃処理のやうに、早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうづまつてしまふ。
紙くずでうづまつてしまふ。それで情報化社会といふものは過剰な情報をどんどん処理してゐるんです。
この東京といふもの、日本といふものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになつてくる。
そのなかで人間はなにをすべきかといふことについて、わたくしはなんとか考へていきたいと思ふんです…
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
38 :
ナナシズム:2010/09/14(火) 10:30:01 ID:+xloeu3A
言ひ古されたことだが、一歩日本の外に出ると、多かれ少かれ、日本人は愛国者になる。先ごろハンブルクの
港見物をしてゐたら、灰色にかすむ港口から、巨大な黒い貨物船が、船尾に日の丸の旗をひるがへして、
威風堂々と入つて来るのを見た。私は感激措くあたはず、夢中でハンカチをふりまはしたが、日本船からは
別に応答もなく、まはりのドイツ人からうろんな目でながめられるにとどまつた。これは実に単純な感情で、
とやかう分析できるものではない。もちろん貨物船が巨大であつたことも大いに私を満足させたのであつて、
それがちつぽけな貧相な船であつたとしたら、私のハンカチのふり方も、多少内輪になつたことであらう。
また、北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、日の丸の鮮かさは無類であつて、日本人の素朴な明るい心情が、
そこから光りを放つてゐるやうだつた。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
39 :
ナナシズム:2010/09/14(火) 10:31:39 ID:+xloeu3A
それでは私もその「素朴な明るい」日本人の一人かといふと、はなはだ疑はしい。私はひねくれ者のヘソ曲りで
あるし、私の心情は時折明るさから程遠い。それは私が好んでひねくれてゐるのであり、好んで心情を暗くして
ゐるのである。これにもいろいろ複雑な事情があるが、小説家が外部世界の鏡にならうとすれば、そんなに
いつも「素朴で明るい」人間であるわけには行かない。しかし異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、
「ああ、おれもいざとなればあそこへ帰れるのだな」といふ安心感を持つことができる。いくらインテリぶつたつて、
いくら芸術家ぶつたつて、いくら世界苦(ヴエルトシユメルツ)にさいなまれてゐるふりをしたつて、結局、
いつかは、あの明るさ、単純さ、素朴さと清明へ帰ることができるんだな、と考へる。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
40 :
ナナシズム:2010/09/14(火) 10:33:49 ID:+xloeu3A
いざとなればそこへ帰れるといふ安心感は、私の思想から徹底性を失はせてゐるかもしれない。しかしそんなことは
どうでもよいことだ。私は巣を持たない鳥であるよりも、巣を持つた鳥であるはうがよい。第一、どうあがいた
ところで、小説家として私の使つてゐる言葉は、日本語といふ歴然たる「巣鳥の言葉」である。
「いざとなればそこへ帰れる」といふことは、同時に、帰らない自由をも意味する。ここが大切なところだ。
帰る時期は各人の自由なのであつて、「いざとなれば帰れる」といふ安心感があればこそ、一生帰らない日本人が
ゐるのもふしぎはない。私はこの安心感を大切にするのと同じぐらゐに、帰る時期と、帰る意思の自由とを
大切にする。人に言はれて帰るのはイヤだし、まして人のマネをして帰つたり、人に気兼ねして帰るのもイヤだ。
すべての「日本へ帰れ」といふ叫びは、余計なお節介といふべきであり、私はあらゆる文化政策的な見地を嫌悪する。
日本人が「ドイツへ帰れ」と言はれたつて、はじめから無理なのであつて、どうせ帰るところは日本しかないのである。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
41 :
ナナシズム:2010/09/14(火) 10:36:13 ID:+xloeu3A
私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。中世の能楽を誇りに思ふ。
それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の
特攻隊を誇りに思ふ。すべての日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。
この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。……
しかし、右のやうな選択は、あくまで私個人の選択であつて、日本人の誇りの内容が命令され、統一され、
押しつけられることを私は好まない。実のところ、一国の文化の特質といふものは、最善の部分にも最悪の
部分にも、同じ割合であらはれるものであつて、犯罪その他の暗黒面においてすら、この繊細な感受性と
勇敢な気性との結合が、往々にして見られるのだ。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
42 :
ナナシズム:2010/09/14(火) 10:37:58 ID:+xloeu3A
われわれの誇りとするところのものの構成要素は、しばしば、われわれの恥とするところのものの構成要素と
同じなのである。きはめて自意識の強い国民である日本人が、恥と誇りとの間をヒステリックに往復するのは、
理由のないことではない。だからまた、私は、日本人の感情に溺れやすい気質、熱狂的な気質を誇りに思ふ。
決して自己に満足しないたえざる焦燥と、その焦燥に負けない楽天性とを誇りに思ふ。日本人がノイローゼに
かかりにくいことを誇りに思ふ。どこかになほ、ノーブル・サベッジ(高貴なる野蛮人)の面影を残してゐることを
誇りに思ふ。そして、たえず劣等感に責められるほどに鋭敏なその自意識を誇りに思ふ。
そしてこれらことごとくを日本人の恥と思ふ日本人がゐても、そんなことは一向に構はないのである。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
43 :
ナナシズム:2010/09/14(火) 10:41:36 ID:+xloeu3A
Q――つぎに東南アジアについてちよつと聞きます。インドも中共との交戦の経験を持つ国ですが、
東南アジアと日本との最大の相違点は、中共の脅威を感じてゐるのと感じてゐない点にあると思ひますが。
三島由紀夫:中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。
もし日本と中共とのあひだに国境があつて向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でも
すこしはきりつとするでせう。まあ海でへだてられてゐますからね。
もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。ただ「見ぬもの清し」でせうな。
三島由紀夫「インドの印象」より
44 :
ナナシズム:2010/09/14(火) 10:42:35 ID:+xloeu3A
Q――日本人が中共をこはがらないのは一種の幻想的な“大平感”なんだらうけれど、日本にさういつた幻想が
あることも、また一つの現実ぢやないでせうか。
三島由紀夫:たしかにさうですね。幻想(イリュージョン)といへどもなにかの現実的条件によつて保たれてゐる。
ぼく自身は、日本にも中共の脅威はある、と感じてゐます。これは絶対に「事実(ファクト)」です。
しかし、日本人が中共に脅威を感じないといふことは「現実」です。「現実」とはぼくに言はせれば、
事実とイリュージョンとの合金です。
「現実」をささへてゐる条件は、いはくいひがたしで、恐らく何万といふ条件があるでせう。
海もあるし、長い中国との交流の歴史もあるし……。
ものを考へようとするとき、片方の「現実」を「事実」だけでぶちこはさうとしてもダメです。
幻想をくだくには幻想をもつてしなくつちや。ですからもし、ぼくが政治家だつたら……。
Q――「中共はこはくない」といふ幻想は、どうやつてくだきますか?
三島由紀夫:「中共はこはい」といふファクトではなく幻想をもつてですよ。
三島由紀夫「インドの印象」より
45 :
ナナシズム:2010/09/15(水) 09:48:00 ID:LPR0Dn7D
戦後日本の歴史が一つとぎれてしまつた。そのとぎれたところに自衛隊の問題があり、警察の問題があり、
またいろいろ複雑な言ふにいはれない、日本人として誠に情けない状態があらゆる面に発生してきました。
(中略)
大体戦後の民主主義といふものは、アメリカといふ成金の新しい国から来たものでありますから、アメリカは
アメリカとしての歴史はもちろん持つてはをりますが、彼らが大切にしてゐる古い歴史といふのはせいぜい
十八世紀です。アメリカに行くと、これは非常に古い家である、十八世紀だなどとよくいはれる。
彼らはどんなにさぐつて見ても十八世紀以前に遡つてアメリカの歴史を語ることができない。
それより古い頃にはインディアンがゐたんで、インディアンの方がよつぽど歴史上における誇りもあるし、
自信もあるはずです。これが白人に駆逐されてしまつた。
白人であるアメリカ人といふものは、人の家にどかどか入つて来て、平和に暮らしてゐた人間を追ひ散らして、
新しい国を建てた。それが移民の国アメリカです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
46 :
ナナシズム:2010/09/15(水) 09:49:23 ID:LPR0Dn7D
さういふ国の人に、日本のやうな古い歴史、文化を持つた国の伝統と連続性の力といふものは判らない。
彼らにどう説明して聞かしても判らない。それは無理はないです。何となれば彼らの感覚にはそんな古い
歴史といふものがないのですから……古いといふと十八世紀を思つてゐる人間にいくらいつても判らない。
判つて貰はうとすることが所詮無理なんでせう。
まあ、日本がアメリカに占領されたといふことは国の運命で仕方がないかも知れませんけれども、一番
根本なところが彼らに判らなかつたことは日本にとつても不幸だつたのでせう。それはわれわれだけが判つて
ゐるのであつて、国といふものは、永遠に連続性がなければ本当の国ではないと思ひます。
そしてとに角今は空間といふものがここに広がつてゐる。この空間に対して時間があるわけです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
47 :
ナナシズム:2010/09/15(水) 09:50:55 ID:LPR0Dn7D
今のこの世界の情勢といふものはハッキリいひますと「空間と時間」との戦ひだと思ひます。
(中略)
しかしながらその国際的な争ひは、あくまで空間をとり合つてゐるわけです。
ところがこの地球上の空間を占めてゐる国の中にも一方では反戦、自由、平和といつてゐる人達がをります。
この人達は歴史や伝統などといふものはいらんのだ。歴史や伝統があるから、この空間の方々に国といふものが
出来て、その国同士が喧嘩をしなければならんのだ。われわれは世界中一つの人類としての一員ではないか。
われわれは国などといふものは全部やめて、「自由とフリーセックスと、そして楽しい平和の時代を造るんだ」
と叫んでゐる。彼らには時間といふ観念がない。
空間でもつて完全に空間をとらうといふ考へ方においては、彼らもまた彼らの敵と同じなのです。
それでは、今日の人類を一体何が繋いできたのかといふことを論議し、つきつめてゆくと、結局最後には
「時間」の問題に突き当たらざるを得ない。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
48 :
ナナシズム:2010/09/15(水) 09:52:04 ID:LPR0Dn7D
(中略)
今ソビエトで一番の悪口は何だと思ひますか。ソビエトで人を罵倒する一番きたない言葉、それをいはれただけで
人が怒り心頭に発する言葉は何だと思ひますか……私はロシア語を知りませんから、ロシア語ではいへませんが、
「非愛国者だ」といふことださうです。さうすると一体これはどういふことなのかと不思議になります。
その伝統を破壊し、連続性を破壊してゐる共産圏においてすら、現在は歴史の連続性といふものを信じなければ
「愛国」といふ観念は出て来てないことに気付き、その観念のないところには共産国家といへどもその存立は
危ぶまれるといふことを気付いたに違ひない。
ですからこの「縦の軸」すなはち「時間」はその中にかくされてゐるんで、如何に人類が現在の平和を
かち得たとしても、このかくされてゐる「縦の軸」がなければ平和は維持できない。
それが現在の国家像であると考へられていいんです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
49 :
ナナシズム:2010/09/15(水) 09:53:38 ID:LPR0Dn7D
ことに日本では敗戦の結果、この「縦の軸」といふのが非常に軽んじられてきてしまつた。
日本は、この縦の軸などはどうでもいいんだが、経済が繁栄すればよろしい、そして未来社会に向つて、
日本といふ国なんか無くなつても良い。みんな楽しくのんびり暮して戦争もやらず、外国が入つて来たら、
手を挙げて降参すればいいんだ。日本の連続なんかどうなつてもいいんではないか、歴史や文化などは
いらんではないか、滅びるものは全部滅びても良いではないか、と考へる向きが非常に強い。
さういふ考へでは将来日本人の幸せといふものは、全く考へられないといふことを、この一事をもつてしても、
共産国家が既に明白に証明してゐると私は思ひます。
(中略)
共産主義国家が、国家意思を持つてゐて、日本のやうな、佐藤首相が自らの手で国家を守るといつてゐるこの国に、
国家意思がないとは一体どういふことだらうか。
さういふことになるのは今の日本の根本が危ふくなつてゐるからです。根本はここにあるのです。
三島由紀夫「私の聞いて欲しいこと」より
50 :
ナナシズム:2010/09/15(水) 13:03:41 ID:LPR0Dn7D
昨今の中国における文化大革命は、本質的には政治革命である。百家争鳴の時代から今日にいたる変遷の間に、
時々刻々に変貌する政治権力の恣意によつて学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあつて文筆に
携はる者として、座視するに忍びざるものがある。
この政治革命の現象面にとらはれて、芸術家としての態度決定を故意に留保するが如きは、われわれの
とるところではない。われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に
抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、
支持を表明する者である。
われわれは、学問芸術の原理を、いかなる形態、いかなる種類の政治権力とも異範疇のものと見なすことを、
ここに改めて確認し、あらゆる「文学報国」的思想、またはこれと異形同質なるいはゆる「政治と文学」理論、
すなはち、学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する。
三島由紀夫「文化大革命に関する声明」昭和42年3月1日
(共同執筆・川端康成、石川淳、安部公房)
51 :
ナナシズム:2010/09/16(木) 12:31:09 ID:GOa3NFOH
前略
「蓮田善明とその死」感激と興奮を以て読み了へました。毎月、これを拝読するたびに魂を振起されるやうな
気がいたしました。この御作品のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と小生との結縁が確められ
固められた気がいたしました。御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。蓮田氏と同年にいたり、
なほべんべんと生きてゐるのが恥ずかしくなりました。一体、小生の忘恩は、数十年後に我身に罪を報いて
来るやうであります。今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません。
しかし蓮田氏も現在の小生と同じ、苦いものを胸中に蓄へて生きてゐたとは思ひたくありません。時代に
憤つてゐても氏にはもう一つ、信ずべき時代の像があつたのでした。そしてその信ずべき像のはうへのめり
込んで行けたのでした。
三島由紀夫
昭和42年11月8日、小高根二郎への書簡より
52 :
ナナシズム:2010/09/16(木) 13:42:01 ID:GOa3NFOH
「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の
自分の文化だと知つてゐる」(「大津皇子論」)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の
青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分が
そのやうにして「文化」を創る人間になり得なかつたといふ千年の憾(うら)みに拠る。
氏が二度目の応召で、事実上、小高根氏のいはゆる「賜死」の旅へ旅立つたとき、のこる私に何か大事なものを
託して行つた筈だが、不明な私は永いこと何を託されたかがわからなかつた。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より
53 :
ナナシズム:2010/09/16(木) 13:43:17 ID:GOa3NFOH
(中略)
それがわかつてきたのは、四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれてである。私はまづ氏が何に対して
あんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する
怒りだつた。
戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、
その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、
その非行動性、その多弁、その食言、……それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのような腐敗を放ち、
どのように文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた
文化のために、憤りにかられてゐたのである。
三島由紀夫「『蓮田善明とその死』序文」より
54 :
ナナシズム:2010/09/17(金) 10:56:58 ID:bBHbQvQR
非小説家の文壇への御戦に、私はいつも胸のすくものを感じてをります。そしてこれほど健康な「自明の理」が
今更力説されねばならぬ日本文壇の頽廃を併せ考へます。貴下の御説がユニークなものであるといふ一事ほど、
日本文学の悲しむべき現状を象徴してゐるものがございませうか。大前提が欠けて小前提ばかり発達してゐる
哀れな国状です。大前提を言ひ出す人は白眼で見られるのです。小前提ばかりバカの一つおぼえでくりかへして
ゐれば身の安全が保てるのです。(中略)
実に美を罵倒し、日本の伝統をののしり、舌を犬のやうにふるはせる芸当を心得、「歯ぎしり」といふ奴を
ハミングの代りに用ひ、それはそれは賑やかで、しかもしんみりした、何が何だかわからない、西洋料理と
中華料理をまぜこぜにしたやうな西欧人文主義的・レアリズム的・サルトル的・ドストエフスキー的・万能薬
ヒューマニズム宣伝的、あやしげなものであります。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
55 :
ナナシズム:2010/09/17(金) 10:58:05 ID:bBHbQvQR
(中略)今日「群像」十一月号が届き、高見、中島、豊島氏が僕を寄つてたかつてやつつけてゐる大人げない
継子いぢめの光景を見(この速記はもつと猛烈だつたさうですが)、鬱勃たる闘志を湧かせました。(中略)
「生きるために必要な、といふギリギリのところで已(や)むに已まれず生み出される文学」とは何でせうか。
今までの日本の告白小説家のやうな泣きっ面を、――男子としてあるまじき泣きっ面を――小説のなかで存分に
演じてみせることが、即ち「生きるための文学」であるといふ、さういふ滑稽なプリミティーブな考へ方に
僕は耐へられません。僕にはわづかながら遠いサムラヒの血が、それも剛直な水戸ッ子の血が流れてゐます。
僕の文学は、腹を狼に喰ひ裂かれながら声一つあげなかつたといふスパルタの少年に倣ひたいのです。その
少年の莞爾(くわんじ)とした微笑に似た長閑(のどか)な閑文学(とみえるもの)に僕は生命を賭けます。
僕は「狼来(きた)りぬ」といふあの臆病な子供になりたくありません。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
56 :
ナナシズム:2010/09/17(金) 10:59:21 ID:bBHbQvQR
もつとよい比喩がここにございます。我子の死に会つて数分後に舞台へかけつけなければならなかつた喜劇俳優が、
その時示した絶妙の技、さういふものにこそ僕は憧れるのです。(文学を芝居にたとへるなんて、旧文壇の人に
とつてはおそらく冒涜的な言動でせうが、文学といふものに対する自堕落な信念はそろそろ清算してよい時では
ないでせうか。僕は最後のところ、いつもギリシャ悲劇を考へます。作者が一言の思想の表白もさし控へた
純粋な技術と形式の精神がそこにあります。ギリシャ的単純さが最後の目標です。勿論これは志賀直哉氏の
単純さとは全く別個のものです)。
話をあとに戻りまして、ではその時、その喜劇俳優にとつて、喜劇といふ芸術は何ものでせうか。
逃避でせうか。自嘲でせうか。僕には彼の悲しみの唯一無二の表現形式として喜劇があるのだと考へられます。
彼は悲しみを決して涙としてあらはしてはならなかつたのです。それを笑ひとして示さねばならなかつたのです。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
57 :
ナナシズム:2010/09/17(金) 11:00:26 ID:bBHbQvQR
文学における永遠不朽な「情痴」の主題、僕はそれをこの「笑ひ」だと考へます。「戯作」と云つても同じこと
でございませう。もちろん僕としてもヒューマン・ドキュメントを書きうるゲエテ的作家の幸福を考へます。
しかしメリメのやうな「自己を語らない作家」の最も不幸な幸福をも考へます。作品の世界に凡(あら)ゆる
「日曜日」を託けて、永遠にウィークデイの累積をしか持たなかつた作家のおそるべき幸福を考へます。それを
高見順氏などは、ウヰークデイの匂ひのしない文学はディレッタンティズムだと仰言るのです。
日曜日は僕にとつて逃避の場所ではありません。そこにこそ僕は生涯を賭け、ギリギリ決着の「生活」を賭けて
ゐるのです。それこそ僕の唯一無二の喜劇の舞台なのです。僕はそこを掃除し、つやぶきんをかけ、花を飾り、
恋人を迎へ、おしやべりをし、……といふ比喩は甚だ皮相的ですが、その日曜日に、僕は自分の悪と不徳と
非情と侮蔑と残忍と犯罪とのあらゆる装ひを期待するのです。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
58 :
ナナシズム:2010/09/17(金) 11:01:27 ID:bBHbQvQR
あらゆる種類の仮面のなかで、「素顔」といふ仮面を僕はいちばん信用いたしません。
僕はかうして、僕の生にとつて必然的であつた作品からそのあらゆる窮屈な必然性をぬがせてやつて、
くつろがせてやるのです。僕は作家の歯ギシリなどといふものを書斎の外へ洩らすことを好みません。僕の
作品はそれでも尚、僕の本質的な生活だと思はれるのですが……
尤もこんなことは口で言つてもはじまらないことでございます。作品で証明する他はありません。
しかし僕は決してひるみません。負けません。書き続けて、御期待にそむかぬ人間になることをお誓ひします。
三島由紀夫
昭和22年11月4日、林房雄への書簡より
59 :
ナナシズム:2010/09/17(金) 11:06:13 ID:bBHbQvQR
美しい日本語を守りたいと思ひます。日本語を土足でふみにじる新進作家諸賢に憎悪を抱きます。
三島由紀夫
昭和22年11月26日、林房雄への書簡より
夜ばかりを愛して来た人間は、昼間の花園に出ると目がくらむのです。恋人の唇かと思つて花に接吻します。
恋人の囁きかと思つて蜜蜂に返事をします。
この間新潮に「戦艦大和」を書いた細川といふ人にある場所で会つて、その原文の、門外不出の原稿を見せて
もらひ驚倒しました。小林秀雄氏がこれを読まれて、細川氏の勤め先へかけつけられたさうですが、日本人が
うたつた最も偉大な叙事詩ともいへます。
(中略)日本人のテルモピレエの戦の細述です。人間の「目」のおそろしさを感じます。事によつたら
「心」より神に近いのは目かもしれない、人間が神からさづかつたのは、肉体とか精神とかではなく、
「目」だけかもしれない、と思はれて来るのです。
三島由紀夫
昭和23年2月21日、林房雄への書簡より
60 :
ナナシズム:2010/09/17(金) 11:09:37 ID:bBHbQvQR
小生はたつた一つの的を何とか最上の瞬間に射当てようと、弓を引いてゐるやうな気がします。これは小生の
手に負へぬ強弓で、弓を引きしぼる腕がともすると耐へきれずに落ちさうになります。しかし引きしぼつて、
待つて待つて、これぞといふ瞬間に放さなければ、矢は思ふ方向へ飛んで行かないことも確実なのです。
三島由紀夫
昭和44年3月3日、林房雄への書簡より
全学連が静かになつて、又日本は眠りかけてゐるやうな気がします。本質的なことはなほざりにされ、
又「仮面の日本」がつづくうちに、素顔を忘れてしまふだらう、と思ふと、いささか焦燥の感なきを得ません。
いくら年をとつても心は傷つき易く、矜りも傷つき易く、それだけにロマンティケルなのでせう。しかし日本は
いよいよロマンティシズムから遠のいてゆく感があります。
三島由紀夫
昭和45年3月6日、林房雄への書簡より
61 :
ナナシズム:2010/09/17(金) 16:05:15 ID:???
>>59のエピソードをもう詳しく知りたいのですが、よろしくお願いします。
62 :
ナナシズム:2010/09/18(土) 11:19:35 ID:it8WwkM3
>>61 昭和22年11月26日付の方は、
「美しい日本語を守りたいと思ひます。日本語を土足でふみにじる新進作家諸賢に憎悪を抱きます。
何も若いもの同志だからとて肩を組まねばならない理由はありますまい。」
と続き、新進作家K氏(共産主義者)が、三島由紀夫が政治的関心を示さないことを憫笑していることに、
三島が怒ってる記述です。(当時の新進作家はコミュニズム、共産思想が優勢状態だったようです)
昭和23年2月21日付けのは、前後を補足すると、
「「太陽と薔薇」は、たのしい小説と申し上げるのみで言葉がありません。夜ばかりを愛して来た人間は、
昼間の花園に出ると目がくらむのです。恋人の唇かと思つて花に接吻します。恋人の囁きかと思つて蜜蜂に返事をします。
かういふたのしいあまりの思ひすごしで私はこの長編を読んでしまつたやうです。」
と、林房雄の小説を褒める内容のものです。
表現が美しい文章だったので、取り上げてみました。
63 :
ナナシズム:2010/09/18(土) 15:19:11 ID:it8WwkM3
お葉書うれしくありがたく拝見いたしました。(中略)
久々のお便りに愚痴もいかゞかと存じますが、東京のあわたゞしい生活の中で、高い精神を見失ふまいと努めることは、
プールの飛込台の上で星を眺めてゐるやうなものです。といふと妙なたとへですが、星に気をとられてゐては、
美しいフォームでとびこむことができず、足もとは乱れ、そして星なぞに目もくれない人々におくれをとることに
なるのです。夕刻のプールの周辺に集まつた観客たちは、選手の目に映る星の光など見てくれません。
たゞかれらの目に美しくみえるフォームでとびこんでくれることを要求するのです。
『私が第一行を起すのは絶体絶命のあきらめの果てである。つまり、よいものが書きたいとの思ひを、あきらめて
棄ててかかるのである』川端康成氏にかつてこのやうな烈しい告白を云はせたものが何であるかだんだん
わかつてまゐりました。しかも川端氏のやうなこの一言が云へる境地に、一体達することができるかしら、と
たへず不安に見舞はれます。
三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より
64 :
ナナシズム:2010/09/18(土) 15:21:37 ID:it8WwkM3
東京では印象批評が滅び去りました。たとへば中里恒子や北畠八穂のやうな美しい女流作家が不遇です。
川端康成氏が評壇から完全に黙殺され、日夏耿之介氏はますます「枯坐」して化石してしまひさうです。
横光利一氏の死に対してあらゆる非礼と冒涜がつづけられてゐます。私の愛するものがそろひもそろつて
このやうに踏み躙られてゐる場所でどうしてのびのびと呼吸をすることなどできませう。
斎田君も今の東京で仕事をすれば苦しむことがわかつてゐます。美しいものが美しい故に死刑に処せられるのです。
三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より
65 :
ナナシズム:2010/09/18(土) 15:24:42 ID:it8WwkM3
(中略)
ギロチンへみちびく民衆は笑はない民衆です。おそろしくシリアスな、ニイチェ的笑ひとおそろしく無縁の民衆です。
共産党系の雑誌や新聞に出てゐる漫画は笑ひを凍らせます。かれらはデスマスクをかぶつた民衆です。
美の死刑執行人であるといふ自負すらもちえない精神です。
銀蠅が芥箱から出てきてそこらをとびまはつてゐます。ブンブンといひて夜もねられず、といふところでせうが
――かれらは「海」とは無縁の精神です。蠅は海のまへで引返します。かれらは翼をもたないくせに翅(はね)を
翼だと思つてゐるのです。(中略)
――たゞ一意専念、あの未知の国から一条の光をこの地上へもたらせば私の仕事はすみます。
どうぞ時々お暇な折に励ましの御言葉をいたゞきたうございます。詩人に対し要求することは罪であると知りつゝ、
敢て(「要求」とは失礼ながら)お願ひいたす次第でございます。
三島由紀夫
昭和23年3月23日、伊東静雄ヘの書簡より
66 :
ナナシズム:2010/09/18(土) 15:33:16 ID:???
67 :
ナナシズム:2010/09/18(土) 17:51:57 ID:it8WwkM3
僕は今この時代に大見得切つて、「共産党に兜を脱がせるだけのものを持て」などゝ無理な注文は出しません。
時勢の流れの一面は明らかに彼らに利があり、彼等はそのドグマを改める由もないからです。しかし我々の任務は
共産党を「怖がらせる」に足るものを持つことです。彼等に地団太ふませ、口角泡を飛ばさせ、
「反動的だ! 貴族的だ!」と怒号させ、しかもその興奮によつて彼等自らの低さを露呈させることです。
正面切つて彼等の敵たる強さと矜持を持つことです。ひるまないことです。逃げないことです。怖れないことです。
そして彼等に心底から「怖い」と思はせることです。
(中略)貴族主義といふ言葉から説明してかゝらねばなりません。
学習院の人々に貴族主義を云ふとすこぶる誤解されやすく、それはともすれば今までの学習院をそのまゝそつくり
是認する独善主義の別語とされる惧れなしとしません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
68 :
ナナシズム:2010/09/18(土) 17:52:55 ID:it8WwkM3
(中略)
明治以来、「華族」とは政治的特権を背景にもつた政治的な名称であり、文化的意義は頗る稀薄にしかもつて
をりません。新華族が簇生(そうせい)した所以です。――貴族主義とはプロレタリア文化に対抗すると同じ
強さを以てブルジョア文化(アメリカニズム)に対抗するといふことを知つていたゞきたい。この意味で
政治的意味の貴族主義は無意味です。なぜなら世界史の趨勢はアリストクラシイの再来を絶対に希みえず、
現今までわづかに残された政治的特権も過去の特権の余映にすぎぬといふ理由が第一、もう一つは、ブルジョア文化が
今では貴族社会一般を風靡し、単に華族を集めてみても貴族主義は達成されぬといふ理由が第二です。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
69 :
ナナシズム:2010/09/18(土) 17:54:10 ID:it8WwkM3
――それでは文化的貴族主義とは何でせうか。それは歴史的意味と精神的意味と二つをもつてゐます。
…後者はあらゆる時代に超然とし、凡俗の政治に関らず、醇乎たる美を守るといふエリートの意識です。
(これは芸術からいふので、倫理的には道徳を守るエリートたりともある人はいふでせう)
…しかもその効果は美的標準に於て最高のものであらねばならぬ点で明らかに貴族主義的です。向上の意識、
「上部構造」の意識、フリードリヒ・ニイチェが貴族主義とよばれる所以です。
第二に、唯美主義は本質的に反時代性をもつといふ点で貴族的です。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日付、神崎陽への書簡より
70 :
ナナシズム:2010/09/18(土) 17:55:17 ID:it8WwkM3
われらの外部を規制する凡ゆる社会的政治的経済的条件がたとへ最高最善理想的なものに達したとしても、
絶対的なる「美」からみればあくまでも相対的なものであり、相対的なものが絶対的なものを規制しようとする時、
それは必ず悪い効果を生じます。いかによき政治が美を擁護するにしろ、必ずその政治の中の他の因子が美を
傷つけることは、当然のことで仕方ないことです。したがってあらゆる時代に於て美を守る意識は反時代性をもち、
極派からはいつでも反動的と思はれます。すなはち、彼らのいはゆる反動的なるがゆゑに貴族主義的です。
――「中庸」といふ志那クラシックのいかにも睡つたやうなこの言葉がやうやう僕には激しい激越な意味を以て
思ひかへされて来ました。中庸を守るとは洞ヶ峠のことではありません。いはゆる微温的態度のことではありません。
元気のない聖人気取ではありません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
71 :
ナナシズム:2010/09/18(土) 17:56:37 ID:it8WwkM3
「中庸」の思想こそ真に青年の血を湧かせる思想なのです。それは荊棘の道です。苦難と迫害の道です。
漢籍に長ずるときく山梨院長が、戦時中の輔仁会で翻訳劇を上演しようとした僕の意図を抹殺し、戦争終るや
「モンテ・カルロの乾盃」を手もなく容認するやうな態度を、人々はいはゆる「中庸」の道だと思つてゐます。
これは思はざるの甚だしきものです。これこそいはゆる論語よみの論語知らずです。
右顧左顧して世間の機嫌をうかゞひもつとも「穏当な」道を選ぶといふ思想こそ、孔子が中庸といふ言葉で
あらはしたものと全く反対の思想です。
中庸といふこと、守るといふこと、これこそ真の長い苦しい勇気の要る道です。
このやうな時代に、美を守ることの勇気、過去の日本精神の枠、東洋文化の本質を保守するに要する勇気、
これこそ真の男らしい勇気といはねばなりません。
学習院は反動的といふ攻撃の矢面に立ち、真の美、真の文化を叫びつゞけねばなりません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
72 :
ナナシズム:2010/09/18(土) 17:58:23 ID:it8WwkM3
(中略)
君は大東亜戦争を何と考へてゐられますか。
僕らはあの戦争の中で育ち、その意味であの戦争を僕らは生涯(いや子孫代々)否定することはできません。
あの戦争が間違ひだつたのどうのといふことでなしに、人間の成長と形成の「過程」として否定したくもできない
一個の内面的事実なのです。我々が以て恥とすべきは戦争に協力したとか、戦争目的に盲目であつたとか、
為政者にだまされたといふことよりも、あの戦争から「我々が何も得て来なかつた」といふことではないでせうか。
何らわれらにプラスするものを得てこなかつたといふ痛切な恥ではないでせうか。この点は僕も省みて面を
赤くせぬわけにはゆきません。
しかし今日の輔仁会、といふよりはその背後にある昨今の学習院学生の気風にこれに対する反省がみられるでせうか。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和21年2月10日、神崎陽への書簡より
73 :
ナナシズム:2010/09/19(日) 20:09:20 ID:7CyiyZ3V
東京へ出ました序でに学習院へ立寄り、はじめて焼跡を見てたゞならぬ感慨がごさいました。萌え立つ緑のなかに
赤煉瓦の礎石のみ鮮やかに残つて、近眼の目には、遠くの緑の光にまばゆく立ち働らいてゐる人々が懐しい
後輩たちかと映り、近寄つてみると、それが見知らぬ兵隊たちであつた寂しさ。(中略)
中等科の校舎の中には、見知らぬ人々が往来し、事務室もザワザワして、昔のやうに温かく私を迎へては
くれぬやうに思はれました。「ふるさとは蠅まで人を刺しにけり」それほどでもありませんが、無暗に腹が立つて、
何ものへともしれず憤りを抱きながら門を出ました。
ふしぎな私の冷酷。昔、共に学んだ友人たちには、具体的に逢つてどうといふ感激もないのに、たゞ会はずにゐると
漠たる悲しみと孤独の感じに苛まれるのを如何ともなす術がございません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
74 :
ナナシズム:2010/09/19(日) 20:09:41 ID:7CyiyZ3V
そしてそれは却つてなまじひに顔見知りでない後輩たちを、電車のなかに見出す場合、懐しさに胸がドキドキして、
用もないのに話しかけたくなり、しかも我ながら馬鹿らしい含羞で、話しかけることもできずにじつと見つめて
ゐるやうな時、私のなかに私の少年時代が俄かに蘇るやうな気がします。こんな初々しい清らかな興奮をどんなに
長い間忘れてゐたことでせう。新宿駅で私は汚ない作業服とキャハンを穿いた後輩を発見しました。彼は私が
彼の先輩であることもしらず、私を不思議さうに見てゐましたが、その目は学習院の学生によくある澄んだ、
のんびりした目付で、口は少しポカンと開いてゐました。私は所用で大塚まで行くので、車内で、目白駅に下りた
その小後輩を見送つたわけですが、彼は、そこで我勝ちに下りた乗客たちとは似てもつかない、実にオットリした、
少したよりない、少し眠さうな歩き方で、階段の方へゆつくり歩いて行きました。何故かそれを見ると、私は
ふと涙がこぼれさうになりました。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
75 :
ナナシズム:2010/09/19(日) 20:09:57 ID:7CyiyZ3V
ああした人種、ああした歩き方、あれがいつまでこの世に存続して行けるであらうか。私たちもその一員であつた、
閑雅なあまり頭のよくない、努力を知らない、明るい、呑気な、どこともしれず、生活からにじみ出た気品の
そなはつた学習院の学生たち、あの制服、あの挙止、そしてあの歩き方、そのすべてが象徴してゐたある美しいもの、
それ自身頽落を予感されてゐたもの(私の十数年の学習院生活はその予感のなかにのみ過ごされました。)が、
今や鶯色の汚れた作業服を刑罰のやうに着せられ、靴は埃にまみれ、トボトボと不安気に歩いてゆくのを見て、
私が目頭を熱くしたのも道理でございます。帰途学習院へ寄つてみて、あの焼跡を見、後輩たちをみて、
相似た感慨に搏たれました。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
76 :
ナナシズム:2010/09/19(日) 20:10:33 ID:7CyiyZ3V
(中略)かうした終末感を私は、徒らな感傷や、信念の不足からして感ずるのではございません。ある漠たる直感、
夢想そのもののなかに胚胎する覚醒の危険、凡て夢見るが故に覚めねばならない運命を感ずるのでございます。
現実に立脚した精神がわれわれの夢想の精神より更に弱体なものとみえる今日、われわれの夢想も亦凋落の決心を
必要とします。昼を咲きつづける昼顔の仄かな花弁は、昼の烈しい光のために日々に荒され傷つけられます。
何ものも神の夢想に耐へるほど強靭であることは出来ません。
しかし人の夢想の極限に耐へえた人は、その烈しさ極まる目覚めの失墜にも耐へうるであらうと思ひます。
ただ朝をのみ時めいた朝顔とはちがって、あの長い烈しい昼間をよく耐へた昼顔の夢想は、その後に来る長い
夜の烈しさにも耐へるでありませう。私共は今日ほど私共の生の強さと死の強さを感じることはございません。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
77 :
ナナシズム:2010/09/19(日) 20:10:50 ID:7CyiyZ3V
私共は遺書を書くといふやうな簡単な心境ではなく、私たちの文学の力が、現在の刻々に、(たとへそれが
喪失の意味にせよ)、ある強烈な意味を与へつづけることを信じて仕事をしてまゐりたいと思ひます。
その意味が刻みつけられた私共の時間は、永遠に去つてかへりませんが、地上に建てた摩天の記念碑よりも、
海底に深く沈めた一枚の碑の方が、何千万年後の人々の目には触れやすいものであることを信じます。
私共が一度持つた時間に与へた文学の意味が、それが過去に組入れられた瞬間から、絶対不可侵の不滅性を
もつものであると思はれます。
項日(けいじつ)、生じつかな名声は邪魔であるが、真の名声はますます必要であることを感じて来ました。
文学作品を本文とするなら、名声はその註釈、脚註に相当します。本文が死語に化した場合、この難解な
ロゼッタ・ストーンを解読しうるものは、たえず更新される註釈のみでございませう。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年7月3日、清水文雄への書簡より
78 :
ナナシズム:2010/09/19(日) 20:15:31 ID:7CyiyZ3V
あれより二週間病床に臥り、つい御返事がおくれしままにかくの如き事態となりました。
玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられたる使命なることを確信しました。
気高く、美しく、優美に生き且つ書くことこそ神意であります。ただ黙して行ずるのみ。
今後の重且つ大なる時代のため、御奮闘切に祈上げます。
たわやめぶりを みがきにみがかむ
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年8月16日、清水文雄への葉書より
79 :
ナナシズム:2010/09/19(日) 20:15:52 ID:7CyiyZ3V
大神々社への参籠は八月下旬と決め、その後、広島へ一寸伺ひ、そのあと、汽車で、(飛行機はイヤなので)、
熊本八代へゆき、神風連のことをしらべたい、などと、夏のをはりの旅をいろいろと計画してをります。いづれ、
間近になつて旅程がはつきりいたしましたら、御連絡申上げます。
「英霊の声」は文壇では冷たいあしらひで、かれらの右顧左眄(うこさべん)ぶりがよく見えます。
天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。
それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます。
三島由紀夫
昭和41年6月10日、清水文雄への書簡より
80 :
ナナシズム:2010/09/19(日) 20:16:45 ID:7CyiyZ3V
「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。
小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、
かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。書いたあとで、
一知半解の連中から、とやかく批評されることに小生は耐へられません。又、他の連中の好加減な小説と、
一ト並べされることにも耐へられません。いはば増上慢の限りでありませうが……。
それはさうと、昨今の政治情勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、
と思はれます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失ったら
二度と取り返しのつかぬ「日本」は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
81 :
ナナシズム:2010/09/19(日) 20:17:09 ID:7CyiyZ3V
戦後の「日本」が、小生には、可哀想な若い未亡人のやうに思はれてゐました。良人といふ権威に去られ、よるべなく
身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに。下品な比喩ですが、彼女はまだ若かつたから、日本の男が誰か一人立上れば、
彼女をもう一度女にしてやることができたのでした。しかし、口さきばかり巧い、彼女の財産を狙ふ男ばかり
周囲にあらはれ、つひに誰一人、彼女を再び女にしてやる男が現はれることなく、彼女は年を取つてゆきます。
彼女が老いてゆく、衰へてゆく、皺だらけになつてゆく、私にはとてもそれが見てゐられません。
このごろ外人に会ふたびに、すぐ「日本はどうなつて行くのだ?日本はなくなつてしまふではないか」と心配さうに
訊かれます。日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。「これでいいぢゃないか、結構ぢゃないか、
角を立てずに、まあまあ」さういふのが利口な大人のやることで、日本中が利口な大人になつてしまひました。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
82 :
ナナシズム:2010/09/19(日) 20:17:52 ID:7CyiyZ3V
スウェーデンはロシアに敗れて百五十年、つひに国民精神を回復することなく、いやらしい、富んだ、
文化的創造力の皆無な、偽善の国になりました。
この間もベトナム残虐行為査問会(ストックホルム)で、繃帯をした汚ないベトナム農民が証言台に立ち、
犬をつれた、いい洋服の中年のスウェーデン人たちがこれを傾聴してゐるのに、違和感を感じる、と書いてゐる人が
ゐましたが、日本が歩みつつある道は、正に、「犬を連れた、いい洋服の中年男で、外国の反戦運動に手を貸す
『良心的』な男」の道です。
どの社会分野にも、責任観念の旺盛な日本人はなくなり、デレッとし、ダラッとしてゐます。
三島由紀夫
昭和45年11月17日、清水文雄への書簡より
83 :
ナナシズム:2010/09/20(月) 11:11:56 ID:/3TGpaCG
天地の混沌がわかたれてのちも懸橋はひとつ残つた。さうしてその懸橋は永くつづいて日本民族の上に永遠に
跨(またが)つてゐる。これが神(かん)ながらの道である。こと程さ様に神ながらの道は、日本人の
「いのち」の力が必然的に齎(もたら)した「まこと」の展開である。(中略)
神ながらの道に於ては神の世界への進出は、飛躍を伴はぬのである。そして地上の発展そのものがすでに神の
世界への「向上」となつてゐるのである。かるが故に「神ながらの道」は地上と高天原との懸橋であり得るのである。
神ながらの道の根本理念であるところの「まことごゝろ」は人間本然のものでありながら日本人に於て最も
顕著に見られる。それは豊葦原之邦(とよあしはらのくに)の創造の精神である。この「土」の創造は一点の
私心もない純粋な「まことごゝろ」を以てなされた。
平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より
84 :
ナナシズム:2010/09/20(月) 11:12:34 ID:/3TGpaCG
「まことごゝろ」は又、古事記を貫ぬき万葉を貫ぬく精神である。鏡――天照大神(あまてらすおほみかみ)に
依つて象徴せられた精神である。すべての向上の土台たり得べき、強固にして美くしい「信ずる心」であり
「道を践(ふ)む心」である。虚心のうちにあはされた澎湃(はうはい)たる積極的なる心である。かゝる
積極と消極との融合がかもしだしたたぐひない「まことごゝろ」は、又わが国独特の愛国主義をつくり出した。
それは「忠」であつた。忠は積極のきはまりの白熱した宗教的心情であると同時に、虚心に通ずる消極の
きはまりであつた。
かゝる「忠」の精神が「神ながらの道」をよびだし、又「神ながらの道」が忠をよびだすのである。かくて
神ながらの道はすべての道のうちで最も雄大な、且つ最も純粋な宗教思想であり国家精神であつて、かくの如く
宗教と国家との合一した例は、わが国に於てはじめて見られるのである。
平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より
85 :
ナナシズム:2010/09/20(月) 15:05:50 ID:/3TGpaCG
――国家儀礼と申せば、この間新(日)響へゆきましたら、たゞ戦歿勇士に祈念といへばよいものを、
ラウド・スピーカアが、やれ「聖戦完遂の前に一億一心の誓を示して」どうのこうのと御託宣をならべるので、
ヒヤリとしたところへ、「祈念」といふ号令、トタンにオーケストラが「海ゆかば」を演奏、――まるで
浅草あたりの場末の芝居小屋の時局便乗劇そのまゝにて、冒涜も甚だしく、憤懣にたへませんでした。
国家儀礼の強要は、結局、儀式いや祭事といふものへの伝統的な日本固有の感覚をズタズタにふみにじり、
本末を顛倒し、挙句の果ては国家精神を型式化する謀略としか思へません。主旨がよい、となればテもなく
是認されるこの頃のゆき方、これは芸術にとつてもつとも危険なことではありますまいか。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年9月25日、徳川義恭への書簡より
86 :
ナナシズム:2010/09/20(月) 15:06:58 ID:/3TGpaCG
今度の学制改革で来年か、さ来年、私も兵隊になるでせうが、それまで、日本の文学のために戦ひぬかねば
ならぬことが沢山あります。
去年の戦果に、国外国内もうこれで大丈夫と皆が思つてゐた時、学校へ講演に来られた保田與重郎氏は、
これからが大事、これからが一番危険な時期だと云はれましたが、今にしてしみじみそれがわかります。
文学を護るとは、護国の大業です。文学者大会だなんだ、時局文学生産文学だ、と文学者がウロウロ・ソハソハ、
鼠のやうにうろついてゐる時ではありません。この際、貴方下の御決心をうかゞひ、大へんうれしうございました。
たゞ、かういふ言葉の意味もお弁へ下さい。鹿子木博士の言葉、「今日大切なことは、億兆一心といふ事であり
総親和といふ事ではない。陛下が詔書の中でお示しあそばされてゐる億兆一心とは、億兆一心とは、億兆の者が
一つの心、国体の精神によつて一つになる事也」(ラウド・スピーカアのお題目も亦、億兆一心といふことばを
形式化し、冒涜するものでせう)。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和18年9月25日、徳川義恭への書簡より
87 :
ナナシズム:2010/09/21(火) 11:01:40 ID:e14kLzQM
大島正満博士の「修学院の秋」といふ文章を読んだことがありますか。塩原太助の馬を舞台に観てふきだした
アメリカ少年が、秋たけなはの修学院を周遊して、ふと拾つた一葉の紅葉に、日本の秋――日本の荘厳な美の
真髄を悟るといふ美しい記録文で、今に忘れられません。
アメリカ人が六代目の鏡獅子を本当に味解しようとする努力、――と云ふより大国民としての余裕を持つてゐたら
戦争は起らなかつた。文化への不遜な態度こそ、戦争の諸でありませう。日本の高邁な文化を冒涜する国民は
必ず神の怒りにふれるのです。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年1月6日、三谷信への葉書より
88 :
ナナシズム:2010/09/21(火) 11:03:07 ID:e14kLzQM
けふで丸五日間、丸つきり空襲がありません。不気味な不安。そのなかにも駘蕩たる春の日は窓辺まで
押しよせて来てゐます。(中略)
大学から、「肺浸潤でも何でもかまはんから出て来い」といつ呼出しがあるかわかりません。さうなつたら
さうなつた時のことです。
僕はこれから「悲劇に耐へる」というより、「悲劇を支へる」精神を錬磨してゆかなければ、と思ひます。
古代ギリシャ人にその範を仰がずとも、身近な巣林子の元禄時代は、我々に文芸復興が何であるかを、赤裸々に
教へてくれます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年3月3日、三谷信への葉書より
89 :
ナナシズム:2010/09/21(火) 11:04:18 ID:e14kLzQM
佐藤春夫氏が近く疎開されるので、林さんと、大垣といふ陸軍曹長の詩人と、伊東静雄のお弟子の庄野といふ
海軍少尉と僕と四人でウィスキーを携へてお別れに行きました。
僕は短冊に佐藤氏の殉情詩集のなかにある詩「きぬぎぬ」の一節
「みかへりてつくしをみなのいひけるはあづまをとこのうすなさけかな」
といふのを書いていたゞき、嬉しうございました。僕は自分でその日の先生を、
「春衣やゝくつろげて師も酔ひませる」「澪ごとに載せゆく花のわかれ哉」
とうたひました。本当に美しい晩でした。佐藤春夫氏はたしかに第一流の文豪であると思ひます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月7日、三谷信への葉書より
90 :
ナナシズム:2010/09/21(火) 11:06:10 ID:e14kLzQM
ルーズベルトが死にましたね、日本時間の十三日の金曜日に。新聞は良き敵将を失つて哀悼の意を表す、といふ
態度に出てゐて、結構だと思ひます。阿南大将が二年程前、アメリカの国旗をふみにじつて行進する日本軍を
写した劇映画をみて、「これでは国が危い。徳義の戦ひをやつてゐるのを忘れたのか」と嘆かれたさうですが、
この挿話をきいて、頗る阿南大将を尊敬しはじめました。軍人でかういふ立派な見識をもつてゐられることは
実にありがたいことです。今は亡き帝大国家主義憲法学の泰斗上杉慎吉博士が大正十三年に著はした「日米衝突の
必至と国民の覚悟」なる警世の大文章をよみ、その史眼の卓越、見識の高邁に深く搏たれました。(中略)
――今日偶然地下鉄新橋駅で稲田さん(今海軍中尉です)にあひました。沖縄で、特攻隊と共に敵艦へ
肉迫したのださうです。「くはしく話して下さい」と云つたら「いやだ、ネタにされるから」とにげられました。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月14日、三谷信への葉書より
91 :
ナナシズム:2010/09/21(火) 11:07:14 ID:e14kLzQM
君と共に将来は、日本の文化を背負つて立つ意気込みですが、君が御奉公をすましてかへつてこられるまでに、
僕が地固めをしておく心算です。僕は僕だけの解釈で、特攻隊を、古代の再生でなしに、近代の殲滅――
すなはち日本の文化層が、永く克服しようとしてなしえなかつた「近代」、あの尨大な、モニュメンタールな、
カントの、エヂソンの、アメリカの、あの端倪すべからざる「近代」の超克でなくてその殺傷(これは超克よりは
一段と高い烈しい美しい意味で)だと思つてゐます。
「近代人」は特攻隊によつてはじめて「現代」といふか、本当の「われわれの時代」の曙光をつかみえた、
今まで近代の私生児であつた知識層がはじめて歴史的な嫡子になつた。それは皆特攻隊のおかげであると思ひます。
日本の全文化層、世界の全文化人が特攻隊の前に拝跪し感謝の祈りをさゝげるべき理由はそこにあるので、今更、
神話の再現だなどと生ぬるいたゝへ様をしてゐる時ではない。全く身近の問題だと思ひます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年4月21日、三谷信への葉書より
92 :
ナナシズム:2010/09/21(火) 11:10:07 ID:e14kLzQM
御葉書拝見。何はあれ、このやうな大変に際会して、しかも君とそれについて手紙のやりとりの出来るやうな
事態を、誰が予想し得たでせう。想像するだに、時代の異常さに想ひ到らずにはゐられません。かゝる事態は、
その型式や態様の如何はしばらく措き、夙に想像し得たところでした。今は何も語りたくありません。
これから勉強もし、文学もコツコツ落着いてやつて行きたいと思ひます。自分一個のうちにだけでも、最大の
美しい秩序を築き上げたいと思ひます。戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけに及ばず乍ら全力をつくして
貢献したいと思ひます。(中略)
すべては時代が、我々を我々の当面の責務に追ひやります。僕は少なくとも僕の廿代を、文化的再建の努力に
捧げたいと思つています。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年8月22日、三谷信への書簡より
93 :
ナナシズム:2010/09/21(火) 11:11:04 ID:e14kLzQM
君のゐる戦後の軽井沢が見せた変化よりも、ずつと激しい変化が東京の街にあります。
一寸用があつて尾張町へ出ましたら、その人通りの激しさは戦前と少しも変りません。と云つても日本人が
物を買へるやうな店はたゞ一軒もないのです。進駐軍人気といふか、たゞもう妙な人気で、カーキ色やモンペ姿の
貧弱な汚ない日本人が右往左往してゐるのです。(中略)
――東京が「世界の大東京」だとか、何とか云つて大見得を切つてゐた時はいつしか、それが汚いアバタの
地図になつて了つたのと同様、乙にすまして馴れない絹靴下にハイヒールを穿いたり、頭をテカテカ光らせて
レディ・メードの背広で夜毎に押し出した連中の化けの皮が見事にはげ、女は自堕落なうす汚いモンペ姿、
男は工員がへりらしいカーキ色の菜葉服姿で、彼等の痴鈍、醜悪、無智の本性を惜しげもなく、いやむしろ
快よげに、発揮してゐるのです。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
94 :
ナナシズム:2010/09/21(火) 11:11:55 ID:e14kLzQM
進駐軍からの煙草漁りに眉をひそめて「日本人も堕落した」と慨嘆する人がありますが、これは些か見当外れな嘆息で、
現在の彼等の醜状は、彼等に何ものをもプラスせぬと共に、何ものをも彼等からマイナスしません。日本人は
何といふ下劣な卑賤な、しかし愛すべき国民でせうね!
僕は総じてこの妖精のやうな刻々変様する東京に甚だ愛着を感じてゐます。これは僕がたゞ東京で生れたから
といふだけではありますまい。祖母の先祖は旗本で江戸に永くをりましたから、亡くなつた祖母からきいた、
江戸―東京、明治―大正の東京の移りかはり、(おそらく祖母が生きてゐた頃は、東京はこれで一応完成して少くとも
二、三十年は目に立つ変化もないと思はれたのでしたが)それに加へて、僕がこの短い二十年に経験して来た
東京の変転、それが定めなく、うつろひやすいものであると思へば思ふほど、僕は東京を愛するやうになります。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
95 :
ナナシズム:2010/09/21(火) 11:13:11 ID:e14kLzQM
東京を愛する人は、あるひは知つてか知らずか、その流転の美しさを愛するのではないでせうか。
歴史と時には不変と変様の二態があり、不変は変様によつてその刻々の意味を与へられ、変様は不変に
基礎づけられてはじめて変様たり得ます。日本で云へば、東京と田園、それが変様と不変でせう。
僕のやうな「せつかち」は、山野の不変を歌ふ余裕と胸懐に乏しく、ここにゐて終始変様に向ひ、それに耐へ、
この変様を、歌ひ疲れるほど歌つてゐる外はありません。我々の目は変様のかゞやきをとらへた。流れる目こそ
流されない目であり、変様に遊ぶ目こそ不変の目です。僕はこのやうに自負して自ら慰めてゐます。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年10月5日、三谷信への書簡より
96 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 11:44:30 ID:of8tiF2F
最初の特攻隊が比島に向つて出撃した。我々は近代的悲壮趣味の氾濫を巷に見、あるひは楽天的な神話引用の
讃美を街頭に聞いた。我々が逸早く直覚し祈つたものは何であつたか。我々には彼等の勲功を讃美する代りに、
彼等と共に祈願する術しか知らなかつた。彼等を対象とする代りに、彼等の傍に立たうとのみ努めた。
真の同時代人たるものゝ、それは権利であると思はれた。
特攻隊は一回にしては済まなかつた。それは二次、三次とくりかへされた。この時インテリゲンツの胸にのみ
真率な囁(ささや)きがあつたのを我々は知つてゐる。「一度ならよい。二度三度とつゞいては耐へられない。
もう止めてくれ」と。我々が久しくその乳臭から脱却すべく努力を続けて来た古風な幼拙なヒューマニズムが
こゝへ来て擡頭したのは何故であらうか。我々はこれを重要な瞬間と考へる。人間の本能的な好悪の感情に、
ヒューマニズムがある尤もらしい口実を与へるものにすぎないなら、それは倫理学の末裔と等しく、
無意味にして有害でさへあるであらう。
平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
97 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 11:44:45 ID:of8tiF2F
しかし一切の価値判断を超越して、人間性の峻烈な発作を促す動力因は正統に存在せねばならない。
誤解してはならない。国家の最高目的に対する客観的批判ではなく、その最高目的と人間性の発動に矛盾を
生ずる時、既に道義はなく、道徳は失はれることを云はんとするのである。人間性の発動は、戦争努力と同じ
強さを以て執拗に維持され、その外見上の「弱さ」を脱却せねばならない。この良き意思を欠く国民の前には
報いが落ちるであらう。即ち耐ふべきものを敢て耐ふることを止め、それと妥協し狎(な)れその深き義務より
卑怯に遁(のが)れんとする者には報いが到来するであらう。
我々が中世の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に
対して早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から
目を覆ひ、国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を
声高に叫び、彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒涜の語を放ち出した。
平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
98 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 11:45:08 ID:of8tiF2F
彼等は戦術と称して神の座と称号を奪つた。彼等は特攻隊の精神をジャアナリズムによつて様式化して安堵し、
その効能を疑ひ、恰(あた)かも将棋の駒を動かすやうに特攻隊数千を動かす処の新戦術を、いとも明朗に
謳歌したのである。沖縄死守を失敗に終らしめたのはこの種の道義的弛緩、人間性の義務の不履行であつた。
我々は自らに憤り、又世人に憤つたのである。しかしこの唯一無二の機会をすら真の根本的反省にまで
持ち来らすに至らなかつた。
軈(やが)て本土決戦が云々され、はじめて特攻隊は日常化されんとした。凡ての失望をありあまるほど
もちながら、自己への失望のみをもたない人々が、かゝる哀切な問題に直面したことには一片の皮肉がある。
我々は現在現存の刹那々々に我々をして態度決定せしめる生と死の問題に対して尚目覚むるところがなかつた。
もし我々に死が訪れたならそれは無生物の死であつたであらう。
平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
99 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 11:45:22 ID:of8tiF2F
(中略)
沖縄の失陥によつて、その後の末世の極限を思はしむる大空襲のさなかで、我々がはじめて身近く考へ
目賭(もくと)したのは「神国」の二字であつた。我々には神国といふ空前絶後の一理念が明確に把握され
つゝあるが如く直感されたのである。危機の意識がたゞその意識のみを意味するものなら、それは何者をも
招来せぬであらう。たゞ幸ひにも、人間の意識とは、その輪廓以外にあるものを朧ろげに知ることをも包含する
のである。意識内容はむしろネガティヴであり、意識なる作用そのものがポジティヴであると説明して
よからうと思はれる。それは又、人間性の本質的な霊的な叡智――神である。(中略)
我々が切なる祈願の裏に「神国」を意識しつゝあつた頃、戦争終結の交渉は進められてあり、人類史上その
惨禍たとふるものなき原子爆弾は広島市に投弾されソヴィエト政府は戦を宣するに至つた。かくて八月十五日
正午、異例なるかな、聖上御親(おんみづか)ら玉音をラヂオに響かし給うたのである。
平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
100 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 11:45:51 ID:of8tiF2F
「五内(ごだい)為に裂く」と仰せられ、「爾(なんぢ)臣民と共に在り」と仰せらるゝ。我々は再び我々の
帰るべき唯一無二の道が拓(ひら)くるを見、我々が懐郷の歌を心の底より歌ひ上ぐるべき礎が成るのを見た。
我々はこの敗戦に対して、人間的な悲喜哀歓喜怒哀楽を超えたる感情を以てしか形容しえざるものを感ずる。
この至尊の玉音にこたへるべく、人間の絞り出す哭泣の声のいかに貧しくも小さいことか。人間の悲しみが
いかに同じ範疇を戸惑ひしてうろつくにすぎぬことか。我々はすでにヒューマニズムの不可欠の力を見たが、
これによつて超越せられたる一切の価値判断は、至尊の玉音に於て綜合せられ、その帰趨(きすう)を
得るであらうと信ずる。人間性の練磨に努めざりし者が、超人間性の愛の前に、その罪を謝することさへ
忘れ果てて泣くのである。この刹那我等はかへりみて自己が神であるのを知つたであらう。人間性はその限界の
極小に於て最高最大たりうることを。
平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
101 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 11:47:05 ID:of8tiF2F
(中略)
けふ八月十九日の報道によれば、参内されたる東久邇宮に陛下は左の如く御下命あつた由承る。
「国民生活を明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも
即刻撤廃せよ」
かくの如きは未だ嘗て大御心(おほみこころ)より出でさせたまひし御命令としてその例を見ざる処である。
この刹那、わが国体は本然の相にかへり、懐かしき賀歌の時代、延喜帝醍醐帝の御代の如き君臣相和す
天皇御親政の世に還つたと拝察せられる。黎明(れいめい)はこゝにその最初の一閃を放つたのである。(中略)
青年の奮起、沈着、その高貴並びなき精神の保持への要請が今より急なる時はない。
ますらをぶりは一旦内心に沈潜浄化せしめられ、文化建設復興の原力として、たわやめぶりを練磨し、
なよ竹のみさを持せんと力(つと)めることこそ、わが悠久の文学史が、不断に教へるところではあるまいか。
平岡公威(三島由紀夫)「昭和廿年八月の記念に」より
102 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 11:50:03 ID:of8tiF2F
○ 偉大な伝統的国家には二つの道しかない。異常な軟弱か異常な尚武か。
それ自身健康無礙(むげ)なる状態は存しない。伝統は野蛮と爛熟の二つを教へる。
○ 承詔必謹とは深刻なる反省の命令である。戦争熱旺(さか)んなりし国民が一朝にして
平和熱へと転換する為に、自己革命からの身軽な逃避が、この神聖な言葉で言訳されてはならない。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
103 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 11:50:18 ID:of8tiF2F
○ デモクラシイの一語に心盲ひて、政治家達ははや民衆への阿諛(あゆ)と迎合とに急がしい。
併し真の戦争責任は民衆とその愚昧とにある。源氏物語がその背後にある夥しい蒙昧の民の
群衆に存立の礎をもつやうに、我々の時代の文学もこの伝統的愚民にその大部分を負ふ。
啓蒙以前が文学の故郷である。これら民衆の啓蒙は日本から偉大な古典的文学の創造力を
奪ふにのみ役立つであらう。――しかしさういふことはありえない。私は安心してゐる。
政治家は民衆の戦争責任を弾劾しない。彼らは、泰西人がアジアを怖るゝ如く、民衆を
おそれてゐる。
この畏怖に我々の伝統的感情の凡てがある。その意味で我々は古来デモクラチックである。
○ 日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
104 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 11:50:34 ID:of8tiF2F
○ ナチスもデモクラシイも国の伝統的感情の一斑と調和するところあるために取入れられ
又取入れられ得たのであると思ふ。これを超えて、強制的に妥当せしめらるゝ時、
ナチスが禍(わざはひ)ありし如く、デモクラシイも禍あるものとなるであらうと思ふ。
○ 偏見はなるたけない方がよい。しかしある種の偏見は大へん魅力的なものである。
○ 芸術家の資質は蝋燭に似てゐる。彼は燃焼によつて自己自身を透明な液体に変容せしめる。
しかしその融けたる蝋が人の住む空気の中に落ちてくると、それは多種多様な形をして
再び蝋として凝化し固形化する。これが詩人の作品である。
即ち詩人の作品は詩人の身を削つて成つたものであり、又その構成分子は詩人の身に等しい。
それは詩人の分身である。しかしながら燃焼によつて変容せしめられたが故に、それは
地上的なる形態を超えて存在する。しかも地上的なる空気によつて冷やされ固められ乍ら。
○ 人生は夢なれば、妄想はいよいよ美し。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
105 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 11:51:08 ID:of8tiF2F
○ 退屈至極であつた学習院の学友諸君よ。
諸君らに熱情ある友情の共感をもちつゞけることができるほど、僕は健康な人間ではなかつた。
君らがジャズを愛好するのもまだしも我慢できた。君らが一寸も本を読むといふことを
しらないで、殆ど気高くみえるほど無智なことにも我慢できた。
だが僕には我慢ならなかつた。君らと会ふたびに、暗黙の内に強いられたあの馬鹿話の義務を。
つまり君たちが、おそろしく、さうだ慶応年間生れの老人よりも、もつとおそろしく
退屈であつたことを。――戦争が僕と君らを離れるやうに強いた。今では、昔より、僕は
君らを愛することができるだらう。尤も君らが僕の目の前にゐないことを前提としてだ。
――なつかしい「描かれる」一族よ。君たちは君たちの怠惰と、無智と、無批判の故に、
描かれるべく相応に美しくなつてゐる筈だ。僕には「桜の園」の作者となる義務があるだらう。
(君らがゑがかれるために申分なく美しくなつた時代に)
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
106 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 11:51:23 ID:of8tiF2F
○ 流れる目こそ流されない目である。変様にあそぶ目こそ不変を見うべき目である。
わたしはかゞやく変様の一瞬をこの目でとらへた。おお、永遠に遁(に)げよ、そして
永遠にわたしに寄添うてあれ。
○ 神界がもし完全なものならそれが発展の故にでなく、最初からあつたといふことは
注目すべき事実だ。
○ どのやうな美しい物語にも慰さめられないとき、生れ出づるものは何であらうか。
それを書いた瞬間に、すべては奇蹟になり、すべては新たにはじめられ、丁度、朝警笛や
荷車や鈴や軋(きし)りやあらゆる騒音が活々とゆすぶれだし、約束のやうに辷(すべ)り出す、
さういふ物語を私は書きたい。そしてそのやうな作品の成立がもはや恵まれずとも怨まない。
平岡公威(三島由紀夫)
昭和20年9月16日「戦後語録」より
107 :
ナナシズム:2010/09/22(水) 20:31:12 ID:82qGFNmk
日本の支配層が朝鮮系だったことを、三島は当然しっていたよね。
108 :
ナナシズム:2010/09/23(木) 10:29:34 ID:???
109 :
ナナシズム:2010/09/23(木) 10:56:20 ID:biEuFMEi
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。僕らの肯定は
諦観ではない。僕らの肯定には残酷さがある。――僕らの数へ切れない喪失が正当を
主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦正当である筈だ。なぜなら歴史に於ける蓋然性の
正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは
達するといふのか。僕らは止められてゐる。僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。
時空の凡ゆる制約が、僕らの目には可能性の仮装としかみえない。僕らの形成の全条件、
僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、――そこに僕らはたえず僕らを無窮の
星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。決定されてゐるが故に僕らの
可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。
三島由紀夫「わが世代の革命」より
110 :
ナナシズム:2010/09/23(木) 10:58:22 ID:biEuFMEi
新らしさが「発見」であるとするならば、発見ほど既存を強く意識させるものはない筈だ。
発見は「既存」の革命であるが、それは既存そのものの本質的な変化ではなく、既存の
現象的相対的変化に他ならない。既存の革命といふよりも、既存の意味の革命といふべきだ。
盲目的なるかにみえる衝動も、言葉を行使するに当つての理性と同一の源泉から生れた
ものであり、畢竟(ひつきやう)理性の詩的発現に他ならない。
三島由紀夫「わが世代の革命」より
111 :
ナナシズム:2010/09/23(木) 11:00:36 ID:biEuFMEi
あらゆる批判と警戒の冷水も、真の陶冶されたる熱情を昂(たか)めこそすれ、決して
もみ消してしまふものではない。むしろあらゆる冷血にも耐へうる熱情の強さに僕らは
誇りを感じるべきだ。
形成とは本質的なるものの分裂とその対立緊張による刻々の決闘である。
独創性は真の普遍性の海のなかでしか発見されぬ真珠である。
三島由紀夫「わが世代の革命」より
112 :
ナナシズム:2010/09/23(木) 11:01:25 ID:biEuFMEi
かくて僕らは若年の権利を提言する。「たゞ若年に可能性をのみ発掘しようとする努力に終るな。
なぜなら我々の最も陥りやすい信仰の誤謬は、存在そのものを信仰してゐるつもりで
その存在の可能性のみを信仰してゐることに存するのだから」かくの如く僕らは主張し
警告することを憚るまい。
新らしい時代を築かうとする若年には夭折の運命がある。神の国を後にした古事記の
王子(みこ)たちは、凡て若くして刃に血ぬられた。彼等と共に矜り高くその道を
歩むことを、恐らく僕らの運命も辞すまい。
三島由紀夫「わが世代の革命」より
113 :
ナナシズム:2010/09/24(金) 12:42:45 ID:Sf3Qmell
テレビの場合、ぼくらは実にニュース取材というのは困るんです。うっかり映像を出すと、
映像にウソはつけない。私がカメラの前に立つ、何かをしゃべる。何かをやる、それを
フィルムではどうにでもなるということですね。しまいにちょっとしたコメントリィを
つけて「……と三島は意気揚々、過激な言論を吐いて高笑いをしていた」なんていわれたら、
これはもうマンガになっちゃう(笑)
マンガにされるのも悲劇にされるのも、みんな向こう様の自由。ですから言論の自由にしろ、
偏向にしろ、われわれは実に微妙なところで生きているということです。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
114 :
ナナシズム:2010/09/24(金) 12:43:14 ID:Sf3Qmell
タクシーに乗っていたとき、ラジオで無着成恭が子供の質問に答えていたんです。
子供が「先生、スサノオノミコトとか、アマテラスオオミカミの話は本当にあったんですか」ときくと、
その無着が「チミ、それね、ぼくこれからハナスしるけどね。あのスンワ(神話)というのは、ほんとうの
ハナスと違うの。…アマテラスオオミカミ(天照大神)ツウ人がいだの。それがらスサノオノミコト、ツウ人が
いだの。これが悪い人でね、何したがどいうど、まんず、田んぼ荒らして米とれなぐしたの。…それがら
機織りをこわして……(中略)」(笑)
これじゃ、ぼくは子供が可哀想になっちゃった。(笑)唯物史観の、つまり、やり方を教えて、まず基本的な
生産関係の生産手段の破壊とか、そういうところから教えていって、それがいかにいけないことかと。
そして神話的なことを全部リアリスティックに教えている。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
115 :
ナナシズム:2010/09/24(金) 12:43:30 ID:Sf3Qmell
子供の雑誌なんかをみていますと、手塚治虫などがやはり神話を書いている。たとえば神武天皇など他民族を
侵略した蛮族の酋長にしている。日本に古代奴隷制なんてないんですが、奴隷たちが苦しめられて鞭で打たれて、
そこで金の鳥が弓の上にとまったりして、それで人民を威嚇して……と、全部そういう話です。
ぼくは大学生が白土三平のマンガを読むのはまだいいと思う。それは唯物論をかじってからマンガを読むんだから
まだいい。あるいはマンガで唯物論をかじるにしてもです。だけど小学生や子供が読むのは、大学生が読むのとは
違うでしょう。これがなんでもないような女の子向きのマンガの中に、支配階級を倒せとか、資本主義はいかんとか、
それがたくみにしみ込むように織りこんである。大人が神経をつかっても、いつのまにか侵入してきているんですよ。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
116 :
ナナシズム:2010/09/24(金) 12:43:44 ID:Sf3Qmell
清らかなものはそっとしておきたいって気持ちがとても強いんだけれども、清らかの
まわりには濁流がうずまいている。われわれが清らかなものをもとうとすると、
清らかなものだけもっていたら、どんどん押流されてしまう。エロティックというのは
清らかなものの中にもあるんだ。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
117 :
ナナシズム:2010/09/24(金) 12:43:59 ID:Sf3Qmell
核兵器というのは男で、世論というのは女という考えを非常に強くもっているんですよ。
…それをさらに敷衍しますと、こういう世の中にしたのは、どうも核が原因じゃないかと思えるんです。
というのは国家権力でも何でも、権力というのは力ですから、「“力”イコール兵器」で、兵隊の数と強い
兵器をもっている方が強い。当然でしょう。それが世界歴史を支配してきた。
いままでは兵器は使えるからこそ強かったんです。ところが使えない兵器をついつくっちゃったんですね。
広島で使ってあんな惨禍を起こして使えなくしてしまった。使えない兵器というのは、あるいは力というのは
恫喝にしか用をなさない。恫喝ないしは心理的恐怖、ひとつのシンボリックな意味だけが強まってきた。
そうなると、片一方の方は使えぬ兵器に対するものとして人民戦争理論みたいに、ずっと下の方から
しみこんでくるやつが出てくるのは当然ですね。それをみて被害者意識というのがだんだん勝つ力になってくる。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
118 :
ナナシズム:2010/09/24(金) 12:47:29 ID:Sf3Qmell
広島市民には非常に気の毒だけれども、つまり「やられた」ということが、何より強い立場とする人間ができてくる。
そうすると、やられないやつまでも、やられたような顔をする方がトクだというようになるわけです。
つまり女が男にだまされたといって訴えるようなものです。とにかくトクなのは、なぐることじゃなくて、
なぐられることだと。そして痛くなくとも、「あっ、イタタタ!」というほうがいつも強い立場をつくれる。
それで全学連がヘルメットの下に赤チンを綿にしみこませていて、なぐられると赤チンがダラダラと
垂れるようになっているという話もききますが、それも被害者ぶる者の強さの一例ですね。
被害者という立場に立てば、強いということがわかっちゃっている。なぜなら向こうは力が使えないに決まって
いるんだから。それが世論であり、女の勝利だと思うんですね。女はあくまで「弱い女をどうしてこんなに
いじめるんだ」と、断然反対してくる。すると男はそれ以上、腕力をふるえないから負けちまうわけですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
119 :
ナナシズム:2010/09/24(金) 12:47:55 ID:Sf3Qmell
…力対力という関係が、戦後の世界ではだんだん薄れてきつつあると思うんですよ。(中略)
われわれの主張は正しいのに、こんなに弱い、武器をもたない学生がやられているじゃないかと、頭から血が
流れているじゃないかと。全学連を非難する人たちも、やっぱりおしゃもじをもって、主婦連じゃないけれども、
弱いわれわれの生活を守るのにはどうすればいいのか、すべて「弱いわれわれ」が前提になっている。
これは世論のいちばん大きな要素で、われわれが世論に迎合するためには、自分が強者、あるいは加害者であったら
たいへんなことになっちゃう。
自衛隊があんなに悪口をいわれるのはもう、自衛隊が力だということがはっきりしているからですね。そして
警察の悪口がいわれるのは、警察が力だということがはっきりしているからですね。力をもっているやつは
かなわない世の中になっちゃっている。これは戦略をよほど考えないと、いまわれわれは左翼の言論を力だと
思って評価したらまちがいで、あれは弱さの力なんですね。
それをいちばん象徴しているのは、ぼくは核と世論というものの関係だと思います。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
120 :
ナナシズム:2010/09/24(金) 12:48:12 ID:Sf3Qmell
…「ウエストサイド・ストーリィ」というミュージカルがありますが、実に皮肉な歌が出てきます。
暴力団の不良少年どもが、お巡りがやってくると、みんなで被害者意識を訴える歌を歌うんです。
…われわれに罪もなければ責任もない、教師が悪い、社会が悪い、政治が悪い、経済が悪いというんです。
お巡りは閉口してしっぽを巻いて逃げ出すんです。
ああいう逆手のとり方というのは、日本では一般的になっちゃった。いつも個人が責任をとらないからです。
それは現体制にも責任があるんで、誰も個人が責任をとらなければ、罪を人になすりつけるほかない。
そうすると金嬉老のような殺人犯の罪さえ、誰かに、あいまいモコたるものになすりつけることはできるんですね。
これは人間が、本当に自分個人の責任をとらなくなった時代のあらわれですね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
121 :
ナナシズム:2010/09/24(金) 12:48:30 ID:Sf3Qmell
(中略)たとえばわれわれの中に、自立感情というのがあり、…何とか一人立ちしたい、人に頼らずに生きたいという
気持ちがあることは右も左も問わないと思うんです。その気持ちを左に利用されるというのは非常につらいですね。
たとえば米軍基地反対とか、沖縄を返せとか、どこかに訴える力がありますよね。それは右にも共通するからですね。
ぼくはこのあいだアメリカ人にいったんです。ここらが君たちの性根のきめどころだと。安保条約をやめて
双務協定にするとか、そのためには憲法をかえなければならない、そのときには君らの国に基地をくれと
いったんです。(笑)ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンの四ヶ所でいいから、
基地をほしいと……。一坪でもいいんです。そのまわりに基地反対デモが押し寄せても、その一坪の中に
はいってきたら、撃っちまえばいいんですからね。
…向こうで基地反対闘争でも起これば大成功です。(笑)
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
122 :
ナナシズム:2010/09/24(金) 12:48:46 ID:Sf3Qmell
…もうひとつは自立という問題に関係するんですが、自衛隊がどうもいざというときには、アメリカの指揮で
動くんじゃないかという心配をみんなもっているわけですよ。
これは自衛隊によく聞いてみても、最終的な指揮権がどこにあるかということになると、実にむずかしいですね。
…最終指揮権については、いろんなカバーがあるわけですね。
…私はどうしても日本人の軍隊をもたなければいかん、どんなに外国から要請があっても、条約がない限り動かんと、
あるいはこっちはこっちの判断でやっていく軍隊がなければならん、そうすると、どうすればいいんだということを
いろいろ考えた。どうしても二つに自衛隊を分けて、全くの国土防衛軍と、それから国連協力軍の二つに分ければいい。
…ぼくは陸上自衛隊の九割までは国土防衛軍でいいと思う。そうすれば、その軍隊はどんなことがあっても
日本をまもるため以外は動かないんだから、国民の信頼を得ますよね。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
123 :
ナナシズム:2010/09/24(金) 12:50:25 ID:Sf3Qmell
(中略)
防衛大学の学生なんかに聞きますと、われわれの軍隊はシビリアン・コントロールの軍隊であると。
だから政権がかわれば、それに従うのは当然だと。日本に共産政権ができれば、われわれは共産軍になるのは
当然だという考え方をするのが、かなり多いらしいですね。
そういう考え方は間違いだということを世間はこわいから教える自信がないんです。これは軍隊の重大な問題で、
自衛隊というのは、もともとイデオロギッシュな軍隊であるということを、もっと周知徹底させないと……。
それを世間でたたき、国会でたたき、ぼくにいわせると、イデオロギー的な軍隊であるけれども、名誉の中心は
やはり天皇であるというところで、すこし極端ですが、そこまでいかなければだめだと思うんです。
三島由紀夫
小汀利得との対談「天に代わりて」より
124 :
ナナシズム:2010/09/26(日) 12:52:08 ID:c8HwUb0Z
何を守るかといふことを突き詰めると、どうしても文化論にふれなければならなくなるのだが、ただ文化を守れ
といふことでは非常にわかりにくい。文化云々といふと、おまへは文化に携つてゐるから文化文化といふ、
それがおまへ自身の金儲けにつながつてゐるからだらう――といはれるかもしれない。あるひは文化なんか守る
必要はない、パチンコやつて女を抱いてゐればいいんだといふ考へ方の人もゐるだらう。文化といつても、
特殊な才能をもつた人間が特殊な文化を作り出してゐるんだから、われわれには関係がない。必要があれば
金で買へばいい、守る必要なんかない――と考へる者もゐるだらう。しかし文化とはさういふものではない。
昔流に表現すれば、一人一人の心の中にある日本精神を守るといふことだ。太古以来純粋を保つてきた一つの
文化伝統、一言語伝統を守つてきた精神を守るといふことだ。しかし、その純粋な日本精神は、目には見えない
ものであり、形として示すことができないので、これを守れといつても非常に難しい。またいはゆる日本精神
といふものを日本主義と解釈して危険視する者が多いが、それはあまりにも純粋化して考へ、精神化し過ぎてゐる。
三島由紀夫「栄誉の絆でつな
125 :
ナナシズム:2010/09/26(日) 12:54:11 ID:c8HwUb0Z
…だから私は、文化といふものを、そのやうには考へない。文化といふものは、目に見える、形になつた結果から
判断していいのではないかと思ふ。従つて日本精神といふものを知るためには目に見えない、形のない古くさい
ものと考へずに、形あるもの、目にふれるもので、日本の精神の現れであると思へるものを並べてみろ、そして
それを端から端まで目を通してみろ、さうすれば自ら明らかとなる。そしてそれをどうしたら守れるか、どうやつて
守ればいいかを考へろ、といふのである。
歌舞伎、文楽なら守つてもいいが、サイケデリックや「おれは死んぢまつただ」などといふ退廃的な文化は
弾圧しなければならない――といふのは政治家の考へることだ。
私はさうは考へない。古いもの必ずしも良いものではなく、新しいもの必ずしも悪いものではない。
江戸末期の歌舞伎狂言などには、現代よりももつと退廃的なものがたくさんある。それらを引つくるめたものが
日本の文化であり、日本人の特性がよく表はれてゐるのである。
日本精神といふものの基準はここにある。しかしこれからはづれたものは違ふんだといふ基準はない。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
126 :
ナナシズム:2010/09/26(日) 12:55:27 ID:c8HwUb0Z
良いも悪いも、あるひは古からうが新しからうが、そこに現はれてゐるものが日本精神なのである。従つて
どんなに文化と関係ないと思つてゐる人でも、文化と関係ない人間はゐない。
歌謡曲であれ浪花節であれ、それらが退廃的であつても、そこには日本人の魂が入つてゐるのである。
私は文化といふものをそのやうに考へるので、文化は形をとればいいと思ふ。形といふことは行動であることもある。
特攻隊の行動をみてわれわれは立派だなと思ふ。現代青年は「カッコいい」と表現するが、アメリカ人には
「バカ・ボム」といはれるだらう。
日本人のいろいろな行動を、日本人が考へることと、西洋人の評価とはかなり違つてゐる。
彼らからみればいかにばか気たことであらうとも、日本人が立派だと思ひ、美しいと思ふことがたくさんある。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
127 :
ナナシズム:2010/09/26(日) 12:56:03 ID:c8HwUb0Z
西洋人からみてばからしいものは一切やめよう、西洋人からみて蒙昧なもの、グロテスクなもの、美しくないもの、
不道徳なものは全部やめようぢやないか――といふのが文明開化主義である。
西洋人からみて浪花節は下品であり、特攻隊はばからしいもの、切腹は野蛮である、神道は無知単純だ、と、
さういふものを全部否定していつたら、日本には何が残るか――何も残るものはない。
日本文化といふものは西洋人の目からみて進んでゐるとかおくれてゐるとか判断できるものではないのである。
従つてわれわれは明治維新以来、日本文化に進歩も何もなかつたことを知らなければならない。
西洋の後に追ひつくことが文化だと思つてきた誤りが、もうわかつてもいい頃だと思ふ。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
128 :
ナナシズム:2010/09/26(日) 13:00:45 ID:c8HwUb0Z
再び防衛問題に戻るが、この文化論から出発して“何を守るか”といふことを考へなければならない。
私はどうしても第一に、天皇陛下のことを考へる。天皇陛下のことをいふとすぐ右翼だとか何だとかいふ人が
多いが、憲法第一条に揚げてありながら、なぜ天皇陛下のことを云々してはいけないのかと反論したい。
天皇陛下を政治権力とくつ付けたところに弊害があつたのであるが、それも形として政治権力として
くつ付けたことは過去の歴史の中で何度かあつた。しかし、天皇陛下が独裁者であつたことは一度もないのである。
それをどうして、われわれは陛下を守つてはいけないのか、陛下に忠誠を誓つてはいけないのか、私には
その点がどうしても理解できない。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
129 :
ナナシズム:2010/09/26(日) 13:01:42 ID:c8HwUb0Z
ところが陛下に忠誠を尽くすことが、民主主義を裏切り、われわれ国民が主権をもつてゐる国家を裏切るのだといふ
左翼的な考への人が多い。
しかし天皇は日本の象徴であり、われわれ日本人の歴史、太古から連続してきてゐる文化の象徴である。
さういふものに忠誠を尽くすことと同意のものであると私は考へてゐる。
なぜなら、日本文化の歴史性、統一性、全体性の象徴であり、体現者であられるのが天皇なのである。
日本文化を守ることは、天皇を守ることに帰着するのであるが、この文化の全体性をのこりなく救出し、
政治的偏見にまどはされずに、「菊と刀」の文化をすべて統一体として守るには、言論の自由を保障する政体が
必要で、共産主義政体が言論の自由を最終的に保障しないのは自明のことである。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
130 :
ナナシズム:2010/09/26(日) 13:03:46 ID:c8HwUb0Z
(中略)
間接侵略においては日本人一人一人の魂がしつかりしてゐたら、日本刀で立ち向つても負けることはないと思ふ。
もちろん小銃、機関銃、無反動砲など、普通科の近代兵器は自衛隊に整備させてゐても、私はやはり市民武装
といふ形で日本人が日本刀を一本づつ持つことが必要だと思ふ。
勿論、ほんたうに日本を守らうと思つてゐない者には持たせられないことはいふまでもないが……。
私は現在日本刀が美術品として、趣味的に扱はれてゐることに対して、甚だ残念に思つてゐる。日本刀を
美術品とか文化財として珍重するのはをかしなことで、これは人斬り包丁だ――と私は刀屋に冗談話をするのだが、
日本刀のやうに魂であると同時に殺人道具であるといふのは、世界でも稀れなものであらう。
日本刀を持ち出したのは一種の比喩であるが、私は自衛隊の武器は通常兵器でいいが、その筒先をどこに
向けるべきか、といふことこそ問題だと思ふ。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
131 :
ナナシズム:2010/09/26(日) 13:05:18 ID:c8HwUb0Z
…これに関して、一説によるとある創価学会の自衛隊員は、「私はいざといふときには上官の命令で弾は撃たない、
池田さんのおつしやつた方に向けて撃つ」といつたといふ。こんな軍隊は珍らしい軍隊で、このやうに、
いざといふときにどつちへ弾が行くのかわからないといふのでは全く困る。
再び魂の問題に戻るが、自衛隊に対しては決して偽善やきれい事であつてはならない。
自衛隊は、平和主義の軍隊であり、平和を守るための軍隊であることに違ひはないが、もつと現実に目覚めて、
一人一人高度の思想教育を行なはなければならない。
さうでなければ毛沢東の行なつてゐるあの思想教育に勝てないと思ふ。さうでなければ、日本の隣にある、
このぎりぎりの思想教育を受けた軍隊に勝つことの不可能なことを、私は痛感するのである。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
132 :
ナナシズム:2010/09/26(日) 13:06:09 ID:c8HwUb0Z
ドナルド・キーンといふアメリカ人がおもしろいことをいつてゐる。幕末に来日した外国人旅行記を読むと
「維新前の日本人はアジアでは珍しく正直で勤勉で、清潔好きで非常にいい国民である。ただ一つだけ欠点がある。
それは臆病だ」と書いてゐる。ところがそれから五、六千年後は、臆病な国民どころか大変な国民であることを
世界中に知られたわけだが、それがまたいまでは、再び臆病な日本人に完全に戻つてしまつてゐる――といふのである。
しかし鯖田豊之氏にいはせると、日本人は死を恐れる国民だといつてゐる。これはおもしろい考へ方だと思ふ。
確かにアメリカはベトナム戦争であれだけの死者を出してゐる。日本人だつたら大変な騒ぎだと思ふが、
羽田空港などで戦地に赴くアメリカ兵士の別れの場面を見てゐても、けろりとしてゐるが、日本人だつたら
とてもそんな具合に淡々として戦場に行けるものではない。まづ千人針がつくられる。日の丸のたすきを掛け、
涙と歌がついて、悲壮感に溢れてくる。そのほかいろいろなものが入つてくる。それらが死のジャンプ台に
ならなければ、どうにも死ねない国民なのだ。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
133 :
ナナシズム:2010/09/26(日) 13:07:53 ID:c8HwUb0Z
私はインドへ行つて死の問題を考へさせられたのだが、ベナレスといふ所はヒンズー教の聖地だが、そこでは
人間が植物のやうに死んでいく。死骸がそこらにごろごろあつて、そばでそれを焼いてゐるのに平気でゐる。
これは死ねば生まれ変ると信じてゐるためで、未亡人など、自分も死んだら死んだ亭主に会へるといつて、
病気になるとお経を読んで死を待つてゐる。
このインド人のやうな植物的な死に方は、日本人にはとても真似できないだらう。
日本においては死は穢れだとされてゐることもあるが、日本人といふものは非常に死の価値を高く評価してゐる。
だから、たやすく死んでたまるかといふことで、従つて切腹で責任を果たすといふことにもなるわけだ。
私たちは、さういふ死生観にもとづいて、文化概念としての栄誉大権的な天皇の復活をはからなければ
ならないと思ふ。繰返へすやうだが、それが日本人の守るべき絶対的主体であるからだ。
三島由紀夫「栄誉の絆でつなげ菊と刀」より
134 :
ナナシズム:2010/09/26(日) 23:24:39 ID:???
三島由紀夫 インドの印象
はどの本に載っているの?
135 :
ナナシズム:2010/09/27(月) 09:42:48 ID:???
>>134 決定版 三島由紀夫全集34巻に収録されてますよ。
136 :
ナナシズム:2010/09/27(月) 10:22:01 ID:U5ScYEI3
よく明治時代の小説にありますが、胸の悪い女の人は美人に見えて、白い頬つぺたにポッと赤みがさしてて
きれいである。堀(辰雄)さんの小説を見ると、いかにも胸の悪い美人といふ感じがするんです。
私は小説と肉体との関係といふものを、これもずいぶん考へました。私も実は昔胃弱で、大蔵省にゐた頃は
非常な胃弱でした。当時から、小説の締め切りが近づくと胃が痛んでしやうがないんで、壁に足をのせて
逆立ちして、しばらく我慢したりしてた。こんなことを続けてゐたら今に肉体的破産である、さう思ひまして
私は、自分の身体を鍛へ直さうと思つたわけです。
(中略)
私は、文士といふものは肉体のもうひとつ奥底にあるもので書くんだが、肉体といふものはそれを媒体にして
出てくる大事な媒体だといふふうに考へるんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
137 :
ナナシズム:2010/09/27(月) 10:23:02 ID:U5ScYEI3
小説を書くときには、自分の幼時記憶やら、あるひはもつと生まれる前の記憶もあるかもしれません、人類の
いろんな記憶がわれわれの精神のなかに堆積されてゐる。自分の無意識のなかへ手を突つ込めば、どこまで
ズルズル入りこむか分からない。しかしその奥そこに何かがあつて、それが自分に芸術作品を書くやうに
そそのかしてゐる。多少神秘的な考へですけれども、ユンクの言ふやうな集合的無意識、その集合的無意識が
ある人間に技術を与へて小説を書くやうに促してゐるんだといふふうに私は考へるわけです。
(中略)書くといふ行為にも肉体が媒体になつてゐるのがはつきりしてゐるんですから、したがつてその媒体に
何かの故障があれば、もつと基にあるものが出てくるときにどこかでひつかかるに違ひない。これは、フィルターで
濾されるやうなものであります。私は、小説家としてなるたけ濾されないで、途中で何かにひつかからないで
出てくるやうに自分の身体をこしらへようと思つたのが、私が体育に精を出した端緒でありました。
三島由紀夫「日本とは何か」より
138 :
ナナシズム:2010/09/27(月) 10:23:52 ID:U5ScYEI3
と申しますのは、前にお話ししたやうに、堀辰雄さんの小説といふものは非常にいいけれども、堀辰雄はどうしても
旋盤工の話は書けない。どんなに頑張つても新宿デモの話を書けない。堀さんの小説の世界といふものは、完全に
限られてゐる。それからまた川端康成さんは、これは非常な胃弱といひますか不眠症の方でありまして、やはり
この方の小説は非常に優雅な美しい小説でありますけれども、川端さんがストライキの小説を書いたといふものは
ひとつもない。さういふ具合に、作家といふものはかなり肉体によつて掣肘されてゐるやうな感じがする。
人間の問題全部に興味を持つのが作家であるとすれば、その媒体でもつてひつかかるものをとらなきやならない。
媒体をなるたけ自由に、透明に自在にしておいて、さうすることによつて媒体の力をフルに使つて媒体以前のもの、
自分のもつとも源泉的なものを表に出さなきやいかんといふふうに考へてきたわけです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
139 :
ナナシズム:2010/09/27(月) 10:36:13 ID:U5ScYEI3
(中略)そして、日本といふ国が非常に特徴的だと思ふのは、私が日本のことを考へると日本も日本のことを
考へてゐるんだといふ神秘的な共感を感じるんです。
(中略)
私は今のやうな時代には、つまりは安保賛成、反対といふやうな簡単な問題ぢやないんだ、これから日本といふ国は、
「日本とは何だ」といふことを非常に鋭く鋭く、ますます問ひつめられる状況にあると、かう判断するわけです。
安保については、…安保賛成か反対かといふことで私は日本人全部を分けるといふ考へには賛成ではない。
これは、あたかも白人と黒人とにアメリカ人を分けるやうなもんだ。私はやはり、安保反対か賛成かで
分けられないものが日本人のなかにある。それが、日本人が合理的に安保に賛成したはうが生活が楽であるといふ
やうな論理算段、理性判断ぢやなくて、情緒判断における選択といふものがどこかにある。これが七〇年問題の
これから先の大きな問題になるんぢやないかといふことを、私は信じて疑はないんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
140 :
ナナシズム:2010/09/27(月) 10:40:27 ID:U5ScYEI3
これから一年、来年の六月の安保は自動延長になるでせうが、さういふ時期を経過して日本が揺れ動いていくときには、
表面上のかたちは安保賛成か反対かといふことで非常な衝突が起こるでありませう。しかし私は、安保賛成か
反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がするんです。
…私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか中共賛成と
いふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るかといふ問題にすぎないやうな感じがする。
そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。私はこの安保問題が一応方がついたあとに
初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、選ばないのかといふ鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。
そのときには、いはゆる国家超克といふ思想も出てくるでありませうし、アナーキストも出てくるでありませうし、
われわれは日本人ぢやないんだといふ人も出てくるでありませう。しかし、われわれは最終的にその問ひかけに
直面するんぢやないかと思ふんです。
三島由紀夫「日本とは何か」より
141 :
ナナシズム:2010/09/27(月) 10:56:42 ID:U5ScYEI3
たまたま私がさういふことを言ひますものですから、こなひだの全学連とのディスカッションで私の隣へ
ヒッピーふうな学生が来まして、ふけだらけの髪の毛が肩まで垂れて、髭を生やして不気味な感じでありましたが、
その男が「三島、お前は可哀さうだ。お前、日本人てとこに、完全に囲ひの中に入つてゐる一種の家畜にすぎない」
「君は一体なんだ」
「俺は日本人ぢやない」
「君はどこか外国で生まれたの?」
「いや、俺は無国籍だ」
「君の戸籍、どうするの?」
「戸籍はあるけど無国籍だ。俺は日本人なんてもんぢやない。人間だ」といふんです。私はその顔をいくら
眺めても、やはりモンゴリアン的な日本人の風貌をしてをりまして、これはどう考へても西洋人ぢやないと思つた。
かういふ人たちがこれから増えてくる、「あくまで私は日本人だ」「オレは日本人ぢやない」
――さういふ二種類の人種がこれから日本に出てくる。そのときに向かつて私は自分の文学を用意し、思想を
用意し、あるひは行動を用意する。さういふことしか自分には出来ないんだ。これを覚悟にしたい、さう思つて
ゐるわけであります。
三島由紀夫「日本とは何か」より
142 :
ナナシズム:2010/09/28(火) 11:22:10 ID:QPMoqlof
諸君は、去年の10・21からあと、諸君は去年の10・21から後だ、もはや憲法を守る軍隊になって
しまったんだよ。自衛隊が二十年間血と涙で待った憲法改正というものの機会はないんだ。もうそれは政治的
プログラムから外されたんだ。ついに外されたんだ、それは。どうしてそれに気がついてくれなかったんだ。
去年の10・21から一年間、おれは自衛隊が怒るのを待った。もうこれで憲法改正のチャンスはない。
自衛隊が国軍になる日はない。健軍の本義はない。それを私は最も嘆いていたんだ。
自衛隊にとって健軍の本義とはなんだ。日本を守ること。日本を守るとは何だ。
日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである。
おまえら聞け。聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。
三島由紀夫
自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説より
143 :
ナナシズム:2010/09/28(火) 11:22:25 ID:QPMoqlof
それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらなければ、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものは
ないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。諸君と日本……アメリカからしか
来ないんだ。シビリアン・コントロールといって……シビリアン・コントロール……んだ。
シビリアン・コントロールというのはだな、新憲法の下でこらえるのがシビリアン・コントロールじゃないぞ。
そこでだ、おれは四年待ったんだよ。おれは四年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。……四年待ったんだ、
……最後の三十分に……待ってるんだよ。
三島由紀夫
自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説より
144 :
ナナシズム:2010/09/28(火) 11:22:42 ID:QPMoqlof
諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、
自分らを否定する憲法にペコペコするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。
諸君は永久にだね。今の憲法は、政治的謀略で、諸君が合憲だかのごとく装っているが、自衛隊は違憲なんだよ。
自衛隊は違憲なんだ。きさまたちも違憲だ。憲法というものは、ついに自衛隊というものは、憲法を守る軍隊に
なったのだということにどうして気がつかんのだ。どうしてそこに気がつかんのだ。どうしてそこに皆
気がつかんのだ。おれは諸君がそれを断つ日を待ちに待っていたんだ。……でもただ小さい根性ばっかりに
惑わされて……、ほんとうに日本のために立ち上がるときはないんだ。
…憲法のために、日本を骨なしにした憲法に従うことしか知らないのか。
諸君の中に一人でもおれと一緒に立つやつはいないのか。
三島由紀夫
自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説より
145 :
ナナシズム:2010/09/28(火) 12:29:55 ID:QPMoqlof
どうもこの日本人といふのは、防衛といふ問題について、まだ戦争のアレルギーが残つてゐる。すぐ、徴兵制度の
恐怖といふのを考へる。私はこの機会にもはつきり申し上げておきますが、徴兵制度は反対であります。少なくとも
自分の意志に反して兵隊にするといふことは、これからの時代には、私は原理的に不可能なんぢやないかと思ふんです。
そんな兵隊が軍隊にゐたら反戦運動やるに決まつてるし、パンフレットを配るに決まつてるんです。そんな人間で
軍隊が内部崩壊することを恐れるのに比べれば、人数は少なくつてもいいから、やりたいつて奴だけ集めればいい。
それ以外の人間は、もし戦争でも起きたらどういふふうに国に協力できるか。それは各々の軍を持つてやればいい。
…普段の平時からそれぞれの能力に応じて、一旦緩急ある時に協力できる体制を作ればいいぢやないか。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
146 :
ナナシズム:2010/09/28(火) 12:31:13 ID:QPMoqlof
国民精神といふものは、歴史と伝統と文化との誇りから自然に生まれてくるものである。外国から押しつけられた教育で、
国民の誇りをなくすやうな方向へ日本を持つて行きながら、さうして国民精神を自ら崩壊させる方向へ持つて
行きながら、何をもつてさういふものを基盤にした防衛といふものが成り立ちうるか。
それで、私はまたしても憲法の問題に戻つてくるんです。私共のやうな人間が絶えず憲法を改正しろと言つて
ゐなければ、もう憲法改正の気運は永久にどつかへ消えてしまふでありませう。私はあの敗戦憲法を敗戦の日本に残した、
この傷跡をですね、なんとかして改善しなけりやならんといふことを永年考へてきたんです。しかし、我々が
いくら言つてもダメだといふやうな悲しい事態になつたのに、国民はそれについて憲法改正できないといふことは、
何を意味するんだといふことを考へないできたんです。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
147 :
ナナシズム:2010/09/28(火) 12:31:31 ID:QPMoqlof
それでは憲法改正すりや、ファッショになるだらうか。これが非常に問題なんですね。
ナチスはワイマール憲法を改正してないのは、皆さんご存知と思ふんです。
ナチスはたうとう憲法改正事業つていふことを、やつてないんです。そして、全権授権法つていふのを成立させたのは、
ワイマール憲法下で成立させたんです。あくまで平和憲法下でナチズムといふものは出てきたんです。
この事実、歴史的な事実をよく知らない人間は、憲法改正すればファシズムになる、ナチズムになると言ふんです。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
148 :
ナナシズム:2010/09/28(火) 12:31:56 ID:QPMoqlof
私は戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の富)だと考へる者である。
三島由紀夫「わが『自主防衛』」より
149 :
ナナシズム:2010/09/28(火) 20:46:49 ID:wNuzPTPS
baka
150 :
ナナシズム:2010/09/29(水) 16:01:41 ID:vD6/RIBo
もちろんわれわれは、いたづらに自己を拡張し、いたづらに古い軍国主義や、軍国主義の幻に惑はされて、
日本をそのうぬぼれの成し進めるままに、昔の誤りを繰り返へさせようとするものではありません。しかし、
私が言ひたいのは、元と末といふことであります。何よりも大事なのは、何を元と考へ、何を末と考へるかであり、
まづ元を固めてから末に及ぼすのが、政治のみならず人間精神の常道であります。元とは何か。
元とは、日本が自主自尊の念を持つて国防に邁進し、日本文化と伝統を守るのに人の力を借りず、その力を
侵さうとするものに対しては、一人一人、断固としてこれを排除する決意を持ち、少なくとも国民の一人一人に、
このやうな背すぢが一本通つたところで、はじめて堂々と面を上げて諸外国と交際し、産業・文化の交流はもちろん、
国益のために必要があれば軍事同盟もいとはず、あるひは国際連合への義務をも回避しないといふところに
あるのでなければなりません。
三島由紀夫「70年代新春の呼びかけ」より
151 :
ナナシズム:2010/09/29(水) 16:05:43 ID:vD6/RIBo
(中略)
私は、十月二十一日の新宿における反戦デモの見物に行きましたが、あのデモを見物したあとの私の感想は、
ただ一言「これで日本の憲法は変はらない」といふことでありました。(中略)
もし政府当局者が、この現場を見れば、もはや憲法を変へなくても、あらゆることが可能であるといふ判断を
持つたに違ひなく、しかも憲法を変へないといふことは、国際的、国内的に二つの極端なメリットを持つといふ
ことを認識したに違ひありません。
(中略)また憲法自らは、相変はらず偽善的なただ乗り主義と、肩身の狭いやうにみえる防衛義務と相携へて
いかねばならんといふ跛行的状況の永続を意味し、われわれが矛盾に耐へるのをおそれれば、みすみす外国の
術中に陥り、われわれが矛盾を甘受すれば、知らない間に精神の弛緩状態に陥つて、ますます現状維持の泥沼に
沈むかもしれないからです。
われわれは狼にならうとすれば熊に食はれ、豚にならうとすれば人間に食はれるのかもしれないのです。
三島由紀夫「70年代新春の呼びかけ」より
152 :
ナナシズム:2010/09/29(水) 16:07:55 ID:vD6/RIBo
国際関係はいつも微妙な力のバランスの上に立ち、一国民のナショナリズムをもつてしても、なんともなる
ものではありません。しかし一九七〇年を境に、われわれは個々に目をらんらんと光らせてわが身を振り返へり、
世道人心の奥に目を開いて、そこに底流するものを認識し、日本とは何か、真のナショナリズムなるものとは何か、
それを守るにはどうすればよいかを考へなくてはなりません。いまやナショナリズムは、新聞紙上や街頭で
絶叫される演説の叫びではなくて、われわれの一人一人に対する鋭い問ひかけになつたのであります。
ナショナリズムとは何か。ナショナリズムとは、軽々しく心に訴へるやうなものではなく、われわれの心の
奥底にあるものに対して、鋭い深いふれ方をし、われわれの最も美しい記憶とまた最もおそろしい記憶とも
結びついてゐるやうなものであります。
三島由紀夫「70年代新春の呼びかけ」より
153 :
ナナシズム:2010/09/29(水) 16:09:37 ID:vD6/RIBo
それは、ヘルデルリンのハイムクンフト(帰郷)といふ詩にもあるやうに、ふるさとといふものは、われわれの
いちばん奥にあつて最もなつかしいものであると同時に、最もおそろしいものなのであります。
日本でいま、このやうなナショナリズムなものはあるでせうか。この民主主義の、言論自由の世の中で、
米軍基地撤廃も、沖縄の即時奪還も、いかやうな政治的な主張も、あるひは北方領土返還にしろ、言論として
声高に叫ばれ、また整然たるデモ行動にあらはされれば、自由にあらはされることができるものであります。
そのかはりそれは大衆社会の中で、不可能を、難業を、道理立てはするが、また再び忘れられるおそれのある、
いくつかの政治的主張の一つなのであります。
もはやわれわれのいちばん心の奥底で鋭い問ひを問ひかけ、外国のあらゆる力の干渉に対して、何千年の歴史・
伝統をもつて堂々と応へ得るものはただ一つ、天皇しかないといふのが、私の長年の主張であります。
三島由紀夫「70年代新春の呼びかけ」より
154 :
ナナシズム:2010/09/29(水) 16:14:54 ID:vD6/RIBo
人は、天皇と言ふと、たちまち戦前、明治憲法下における天皇制の弊害を思ひ出し、戦争からにがい経験を得た
人ほど、天皇制に対する疑惑を表明してきたのが常ですが、私は、天皇制とは、その歴史は、あくまでもその
時代時代の国民が、日本人の総力をあげて創造し復活させてきたものだと思ふのです。いつも新しい天皇制があり、
いつも現在の天皇制があり、その現在の天皇制の連続の上に永遠の天皇制があるといふところに、天皇の本質が
ひそむのです。これは一つの例をとつても、天皇ご自身にわれわれのやうな姓名ファミリーネームがなく、
一つの非人称的な方として伝承されてきたことをみてもわかります。新しい天皇制は、われわれがつくつて
いくものであり、そしてこれを抜きにしては日本の今後の自立の精神の中心は見あたらず、また天皇をいたづらに
政治権力に接着おさせすることなく、あくまで無限受容の無我の本主体として、その日本独自の歴史・文化・
伝統のみにかかはる君主制を確立しなければなりません。(中略)
左翼の民族主義が、その欺瞞を露呈するのは、彼らから天皇に対する態度徹底を、はつきりと再び引き出す
ことにしかないでせう。
三島由紀夫「70年代新春の呼びかけ」より
155 :
ナナシズム:2010/09/30(木) 00:37:15 ID:ZREgbz/+
今の日本の大威張りの根拠は、みんな西洋発明品のおかげである。
これはそもそも、大東亜戦争の航空機についてさへ言へることで、あの戦争が日本刀だけで戦つたのなら
威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦つたのである。ただ一つ、真の日本的武器は、
航空機を日本刀のやうに使つて斬死した特攻隊だけである。
そして今日の「日本は大したもんだ派」は、みんなこの上に立脚してゐるのである。私がお茶漬ナショナリスト
といふのは、かれらのナショナリズムの根拠を追ひつめてゆくと、舌の上に感じる「ものの味」といふ、
どうにも否定できない、しかも主観的で説得力のない、さういふもののエモーションを一方に持ちながら、
一方では文明開化以来の迷妄に乗つかつてゐることだ。
では、「日本はまだ貧しい」とか、「日本はどうして大したもんだ」とか言はないで、問題をそんな風に大きく
しないで、ただ、
「お茶漬は実にうまいもんだ」
とだけ言つたらどうだらうか?
比較を一切やめたらどうだらうか?
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
156 :
ナナシズム:2010/09/30(木) 00:38:04 ID:ZREgbz/+
(中略)
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとつて唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮で
あつても少しも構はない。これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ、
衰亡してしまふ。子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちよぼ口のPTA精神や、青少年保護を
名目にした家畜道徳に乗ぜられてはならない。
ところで、私はこの元旦、わが家の一等高いところから、家々を眺めて、日の丸を掲げる家が少ないことに
一驚を喫した。こんな美しい国旗はめづらしいと思ふが、グッド・デザインばやりの現在、むづかしいことは
言はずに、せめてグッド・デザインなるが故に、門毎に国旗をかかげることがどうしてできないのか?
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
157 :
ナナシズム:2010/09/30(木) 00:38:56 ID:ZREgbz/+
去秋の旅で、私は二度鮮明な日の丸の思ひ出を持つた。
一つは私の泊つてゐたニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルに、たまたまオリエント研究関係の
国際会議か何かで、三笠宮殿下が御来泊になり、正面玄関に大きな日の丸の旗が掲げられ、パーク・アヴェニューに
ひるがへつた。これは実に晴れがましい印象だつた。自分も一日本人、一同宿者として、その巨大な日の丸の旗の、
一センチ角ぐらゐを受持つてゐる感じがして、心がひろがるのであつた。
もう一つは、他にも書いたが、ハムブルグの港見物をしてゐたとき、入港してきた巨大な貨物船の船尾に、
へんぽんとひるがへつてゐた日の丸である。私は感激おくあたはず、その場にゐたただ一人の日本人として、
胸のハンカチをひろげて、ふりまはした。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
158 :
ナナシズム:2010/09/30(木) 00:40:05 ID:ZREgbz/+
かういふことを、私は別に自慢たらしく言ふのではない。私にとつては、ごく自然な、理屈の要らない、
日本人の感情として、外地にひるがへる日の丸に感激したわけだが、旗なんてものは、もともとロマンティックな
心情を鼓吹するやうにできてゐて、あれが一枚板なら風情がないが、ちぎれんばかりに風にはためくから、
胸を搏つのである。
ところが、こんな話をすると、みんなニヤリとして、なかには私をあはれむやうな目付をする奴がゐる。
厄介なことに日本のインテリは、一切単純な心情を人に見せてはならぬことになつてゐる。(中略)
自分の国の国旗に感動する性質は、どこの国の人間だつてもつてゐる筈の心情である…(中略)
私の言ひたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは縁の切れない、さういふ
中途半端な日本人はもう沢山だといふことであり、日本の未来の若者にのぞむことは、ハンバーガーをパクつき
ながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである。
三島由紀夫「お茶漬ナショナリズム」より
159 :
ナナシズム:2010/09/30(木) 09:22:56 ID:bGCz0cs3
非ぃ科学的ぃ
160 :
ナナシズム:2010/09/30(木) 17:00:35 ID:ZREgbz/+
――二・二六事件に関してどう考へてゐるか。
三島:十一歳のとき起きたあの事件は、私にたいへん大きな精神的影響を与へた。私がいまも持つてゐる英雄崇拝と
ざせつ感は、すべてあの事件に由来するものです。いふまでもなく私は反乱軍といはれた青年将校の味方で、
のちに反乱軍として糾弾した本がたくさん出たが、さういふたぐひの本を読むと、ハラがたつて破つて捨てた
ほどですよ。その後の軍閥政治であの挙兵が逆用され、すつかり汚されてしまつたが、青年将校たちの行動は、
いはば昭和維新になりうる可能性を持つたものであり、救国の信念に基づく純粋なものでした。
それが反乱軍の汚名を冠せられたのは、陛下を取り巻く卑怯で臆病でずる賢い老臣どもの策謀であり、ひいては
それを受け入れられた陛下ご自身の責任です。
三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
161 :
ナナシズム:2010/09/30(木) 17:02:10 ID:ZREgbz/+
――戦前の「天皇制国家」を唯一の国体と考へるのか。
三島:さうです。天皇が自ら人間宣言をなされてから、日本の国体は崩壊してしまつた。戦後のあらゆる
モラルの混乱はそれが原因です。なぜ、天皇が人間であつてはならぬのか。少なくともわれわれ日本人にとつて
神の存在でなければならないのか。このことをわかりやすく説明すれば、結局「愛」の問題になるのです。
近代国家はかつての農本主義から資本主義国家へ必然的に移行していく。これは避けられない。封建的制度は崩壊し、
近代的工業主義へ、そしていきつくところは、人生の絶望的状態である完全福祉国家とならざるをえないすう勢だ。
そして一方、国家が近代化すればするほど、個人と個人のつながりは希薄になり、冷たいものになるんですね。
かういふ近代的共同体のなかに生きる人間にとつては、愛は不可能になつてしまふ。
三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
162 :
ナナシズム:2010/09/30(木) 17:03:23 ID:ZREgbz/+
たとへばAがBを愛したと信じても、かういふ社会では、確かめるすべをもたない。逆にBのAに対する愛にしても
さうです。つまり、近代的社会における愛は相互間だけでは成立しないといふことなのです。
愛し合ふ二人の他に、二人が共通にいだいてゐる第三者(媒体)のイメージ――いはば三角形の頂点がなければ、
愛は永遠の懐疑に終はり、ローレンスのいふ永遠に不可知論になつてしまふ。これはキリスト教の考へ方でもあるが、
昔からわれわれ日本人には、農本主義から生まれた「天皇」といふ三角形の頂点(神)のイメージがあり、
一人々々が孤独に陥らない愛の原理を持つてゐた。天皇はわれわれ日本人にとつて絶対的な媒体だつたんです。
私は天皇制についてきかれるたびに、いつも“お祭りは必要なのだから大切にすべきだ”と一言いつてたのは、
さういふ意味です。
三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
163 :
ナナシズム:2010/10/01(金) 10:37:19 ID:d5e1c/7g
自衛隊法第三条にも明記されてゐる通り、いまや我々が自衛隊は間接侵略の対処及び、通常兵器による局地的な
侵略については、安保条約の力を借りずに全くの自分の力でこれに対処するやうに規定されてゐる。
…なぜこのやうな変化があつたのかといふと、これは日本の自主防衛力が多く認められてきたことばかりとは
いへない。すなはち、間接侵略といふものは、高度に政治的な戦争形態であり、高度にイデオロギッシュな
性質なものであり、またその範囲はきはめて広く思想戦、心理戦、言論戦から実際のゲリラ戦や、いはゆる遊撃戦
活動から社会主義革命に至るまで、あらゆる段階を含んで進行することは自明であるから、このやうな国内問題に
類する間接侵略に対して、外国軍隊が直ちに第一段階で介入することは内政干渉と受けとられる恐れが充分あるので、
したがつてアメリカとしても間接侵略に対する対処を早く自衛隊自らの手にゆだねようとしたわけであらう。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
164 :
ナナシズム:2010/10/01(金) 10:37:49 ID:d5e1c/7g
日本の周囲の情勢を見渡すのに、直接侵略事態はむしろ可能性が薄く、間接侵略事態がある程度進行した場合に
はじめて直接侵略事態が起こるであらうといふことが常識として考へられる。
一例がソビエトはいはゆる熟柿作戦といはれてゐるやうに、昔からいつたん相手を安心させてから、例へば
一国が両面作戦を恐れてソビエトと手を握つた時に、ソビエトは一旦これと手を握つて相手を安心させた後に、
相手がソビエトに背をむけて敵と戦つてゐる留守を狙つて背後から、その条約を破つてこれを打ちのめし、占拠し、
あるひは自分の手に収めるといふ時機を狙ふ戦略に甚だ老練であり、甚だ狡猾である。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
165 :
ナナシズム:2010/10/01(金) 10:38:16 ID:d5e1c/7g
ソビエトが現下のやうな政治情勢で、日本に直接侵攻してくることは、すぐには考へられないけれども、
ソビエトなり北鮮なり中共なりのそれぞれ色彩も形態も異なつた共産主義諸国が、もし日本に政治的影響を及ぼして、
間接侵略事態を醸成するのに成功した場合、そしてそれが日本全国の治安状態を攪乱せしめ、国内の経済も崩壊し、
革命の成功が目の前に迫つた場合、このやうな場合にはソビエトが、あるひは新潟方面に陽動作戦を伴ひつつ
北海道に直接侵攻してくる危険がないとは決していへない。
決していへないけれども、このやうな直接侵略事態を考へる前に、最も我々が問題にすべきものは、これを
最終目的として狙つてくる、間接侵略事態の進行である。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
166 :
ナナシズム:2010/10/02(土) 00:32:08 ID:gOduurc+
日米共同コミュニケによつて、現憲法の維持は、国際的国内的に新たなメリットを得たのである。
すなはち国内的には、今後も穏和な左翼勢力に平和現憲法の飴玉をしやぶらせつづけて面子を立ててやる一方、
過激派には現憲法にもこれだけの危機収集能力のあることを思ひ知らせ、国際的には、無制限にアメリカの
全アジア軍事戦略体制にコミットさせられる危険に対して、平和憲法を格好の歯止めに使ひ、一方では
安保体制堅持を謳いながら、一方では平和憲法護持を受け身のナショナリズムの根拠にするといふメリットが
生じたのである。
これはいはば吉田茂方式の継承であり、早急な改憲は、現憲法がアメリカによつて強ひられた憲法であるより以上に、
さらにアメリカの軍事的要請に沿うた憲法を招来するにすぎないといふ恫喝ほど、効き目のあるものはあるまい。
改憲サボタージュは、完全に自民党の体質になつた。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
167 :
ナナシズム:2010/10/02(土) 00:32:52 ID:gOduurc+
空文化されればされるほど政治的利用価値が生じてきた、といふところに、新憲法のふしぎな魔力があり、
戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない。
完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす。
それは戦後のヤミ食糧取締法と同じことである。
(中略)
私が憲法を問題にするのは、そこに国家の問題が鮮明にあらはれてゐるからであり、しかも現憲法は、国家への
忠節に肩すかしを食わせて、未実現の人類共通の理想へのみ忠誠を誓はせるやうにできてをり、国家と忠誠とを
別次元に属する形で併記してゐる。
国家とは何ぞや、忠誠とは何ぞや、といふ問ひからはじめなければ、変革の論理は実質を欠くことにならう。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
168 :
ナナシズム:2010/10/02(土) 00:36:02 ID:gOduurc+
私見によれば、祭政一致的な国家が二つに分離して、統治的国家(行政権の主体)と祭祀的国家(国民精神の主体)に
分れ、後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐるのが現代の日本である。近代政治学が問題にする国家とは、
前者にほかならない。ところで自由世界の未来の国家像は、ますます統治国家がその統治機能を、自治体、
民間団体、企業等へ移譲し、国家自体は管理国家としてのマネージメントのみに専念し、言論やセックスの自由は
最大限に容認し、いはばもつとも稀薄な国家がもつとも良い国家と呼ばれることにならう。そこでは時間的連続性は
問題にされず、通信連絡、情報、交易の世界化国際化による空間的ひろがりが重んじられる。スポーツや学術を
はじめ、多くの領域で世界国家的イメージが準備される。事実このやうな管理国家は世界連邦たるべきものの
胎児なのである。これを支配する原理は、ヒューマニズム、理性、人類愛などであり、非理性的ないし
反理性的なものはきびしく排除されるロゴスとしての国家である。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
169 :
ナナシズム:2010/10/02(土) 00:37:18 ID:gOduurc+
一方、祭祀的国家はふだんは目に見えない。ここでは象徴行為としての祭祀が、国家の永遠の時間的連続性を保障し、
歴史・伝統・文化などが継承され、反理性的なもの、情感的情緒的なものの源泉が保持され、文化はここにのみ
根を見いだし、真のエロティシズムはここにのみ存在する。このエートスとパトスの国家の首長は天皇である。
ここでは濃厚な国家がもつとも良い国家なのである。
さて統治国家を遠心力とすれば祭祀国家は求心力であり、前者を空間的国家とすれば、後者は時間的国家であり、
私の理想とする国家はこのやうな二元性の調和、緊張をはらんだ生ける均衡にほかならない。
私はこの二種の国家をつきつけて、国民にどちらの国家に忠誠を誓ふか、決断を迫るべきであると思ふ。
いふまでもなく真にナショナルな自立の思想の根拠は、祭祀的国家のみにあり、統治的国家は国際協調主義と
世界連邦の方向の線上にあるものである。
そしてその忠誠の選択に基づいて、自衛隊を二分したらよいのである。このことは現憲法下でも法理的に可能である。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
170 :
ナナシズム:2010/10/02(土) 00:38:34 ID:gOduurc+
(中略)
日本の防衛のあるべき姿を考へれば考へるほど、私にはほかの解決は思ひ当らない。もちろんこれには憲法の
制約を考慮に入れた上のことで、憲法を変へるとなれば、また話は別である。
日本にとつて緊急に変革を要するものは防衛の問題であり、しかもそこにいかにして自立の思想を盛り込むか
といふ問題である。日本に変革の必須な問題は多々あらうが、これを除外して変革を考へることは空論であり、
共産党ですら、核兵器に一言も触れぬ狡猾さをもつて、武装中立を謳つてゐる。日本の防衛と自立の永遠の
ジレンマのもとである核兵器が、国内戦に使へないといふ特質を持つてゐるところに目をつけて、この特質を
逆手にとつて、絶対自立の軍隊を健軍することがまづ急務であり、自衛隊をただあいまいに安保条約に接着させて
おくことは危険なのだ。
中共はすでにIRBMの戦略配置を終つたと伝えられ、日本はその射程距離内にはひるのである。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
171 :
ナナシズム:2010/10/02(土) 00:42:29 ID:gOduurc+
(中略)
変革とは一つのプランに向かつて着々と進むことではなく、一つの叫びを叫びつづけることだ、といふ考へが、
私の場合には牢固としてゐる。前述の自衛隊二分論は、相対的解決策としての変革にすぎぬが、その中にも
私の叫びの貫流してゐることを、聞く人は聞くであらう。
かつてアメリカ占領軍は剣道を禁止し、竹刀競技の形で半ば復活したのちも、懸声をきびしく禁じた。
この着眼は卓抜なものである。あれはただの懸声ではなく、日本人の魂の叫びだつたからである。彼らは
これらをおそれ、その叫びの伝播と、その叫びの触発するものをおそれた。しかしこの叫びを忌避して、
日本人にとつての真の変革の原理はありえない。近代日本知識人が剣道のあの裂帛の叫びを嫌悪するのは、
あれによつて彼らの後生大事にしてゐる近代ヒューマニズムと理性の体系にひびのはひるのをおそれるからだ。
あの叫びこそ、彼らの臆病な安住の家をこはしにかかる斧の音をきくからだ。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
172 :
ナナシズム:2010/10/02(土) 00:42:55 ID:gOduurc+
変革とは、このやうな叫びを、死にいたるまで叫びつづけることである。その結果が死であつても構はぬ、
死は現象には属さないからだ。うまずたゆまず、魂の叫びをあげ、それを現象への融解から救ひ上げ、精神の
最終証明として後世にのこすことだ。言葉は形であり、行動も形でなければならぬ。
文化とは形であり、形こそすべてなのだ、と信ずる点で私はギリシャ人と同じである。
三島由紀夫「『変革の思想』とは――道理の実現」より
173 :
ナナシズム:2010/10/02(土) 00:44:05 ID:gOduurc+
日本の歴史をみてわかるやうに天皇は多くの時代日本文化の中心であられた。日本文化のおほらかな、人間性を
あらはした明かるく素直な伝統が天皇の中に受容されてゐる。この文化の象徴である天皇を守るにはどうしたらいいか。
私は、天皇の鏡にもし日本の文化、歴史、伝統とちがつた、大御心といふことのためでないものが映つてきたならば、
それは陛下は拒絶なさることはできないので、国民がそれを拒絶することが忠義であると思ふ。
共産主義が日本の政体を変へて天皇を日本の文化、伝統から引き離し、あるひは日本の文化を破壊して天皇をすら
破壊しようといふ意図を秘めてゐるのであるから、われわれはこれと戦はねばならないと思ふのである。
三島由紀夫「私の自主防衛論」より
174 :
ナナシズム:2010/10/02(土) 00:44:58 ID:gOduurc+
そして天皇の伝統が絶たれた場合にわれわれの祖先代々の文化の全体性が侵食されてしまふからこそ、それを
守つて戦はねばならない。そのためにはやはりいまの憲法下でも、非常に制約があるけれども陛下があるときには
自衛隊においでになつて閲兵を受けられることも必要であらう。
あるひは国の名誉の中心として文武いづれの名誉の中心も陛下であられるといふかたちをなんとか新憲法下でも
つくつていけることができるんぢやないかと考へるのである。
私は日本を守るとはどういふことか、守るべきものは何なのかといふことについていま青年たちと議論してゐる。
私はまづ手近なところから、自分にできる範囲のことで小さくやつていきたい。すべてそこから始めなければ
何ごとも始まらない。
国民一人一人がいざといふ場合は銃をとつて立ち上がるぐらゐの気持を持つてやらないと将来の日本は
えらいことになるぞといふ感じを持つてゐる。
三島由紀夫「私の自主防衛論」より
175 :
ナナシズム:2010/10/03(日) 15:58:29 ID:qcDn/ekv
Q:あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。
三島:大東亜戦争でいいぢやないか。歴史的事実なんだから。
太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。
戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢやないか。
Q:あの戦争をどう意味づけてゐるか。
三島:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。
いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。
三島由紀夫「歴史的事実なんだ」より
Q:自衛隊が存在しなければ、日本は侵略されると思ひますか?
三島:もちろん侵略される。日本はこれまで、ただの一日でも、力に守られなかつた平和を持つたことがない。
侵略に対処するには力しかない。
三島由紀夫「これでいいのか日本の防衛」より
176 :
ナナシズム:2010/10/03(日) 16:08:12 ID:qcDn/ekv
私は決して平和主義を偽善だとは言はないが、日本の平和憲法が左右双方からの政治的口実に使はれた結果、
日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になつた国はないと信じてゐる。この国でもつとも危険のない、人に
尊敬される生き方は、やや左翼で、平和主義者で、暴力否定論者であることであつた。それ自体としては、
別に非難すべきことではない。しかしかうして知識人のConformity が極まるにつれ、私は知識人とは、
あらゆるConformity に疑問を抱いて、むしろ危険な生き方をするべき者ではないかと考へた。一方、知識人たち、
サロン・ソシアリストたちの社会的影響力は、ばかばかしい形にひろがつた。母親たちは子供に兵器の玩具を
与へるなと叫び、小学校では、列を作つて番号をかけるのは軍国主義的だといふので、子供たちはぶらぶらと
国会議員のやうに集合するのだつた。
三島由紀夫「『楯の会』のこと」より
177 :
ナナシズム:2010/10/03(日) 16:09:39 ID:qcDn/ekv
それならお前は知識人として、言論による運動をすればよいではないか、と或る人は言ふのであらう。しかし
私は文士として、日本ではあらゆる言葉が軽くなり、プラスチックの大理石のやうに半透明の贋物になり、
一つの概念を隠すために用いられ、どこへでも逃げ隠れのできるアリバイとして使はれるやうになつたのを、
いやといふほど見てきた。あらゆる言葉には偽善がしみ入つてゐた、ピックルスに酢がしみ込むやうに。
文士として私の信ずる言葉は、文学作品の中の、完全無欠な仮構の中の言葉だけであり、前に述べたやうに、
私は文学といふものが、戦ひや責任と一切無縁な世界だと信ずる者だ。これは日本文学のうち、優雅の伝統を
特に私が愛するからであらう。行動のための言葉がすべて汚れてしまつたとすれば、もう一つの日本の伝統、
尚武とサムライの伝統を復活するには、言葉なしで、無言で、あらゆる誤解を甘受して行動しなければならぬ。
Self-justification は卑しい、といふサムラヒ的な考へが、私の中にはもともとひそんでゐた。
三島由紀夫「『楯の会』のこと」より
178 :
ナナシズム:2010/10/03(日) 16:12:24 ID:qcDn/ekv
私は或る内面的な力に押されて、剣道をはじめた。もう十三年もつづけてゐる。竹の刀を使ふこの武士の
模擬行動から、言葉を介さずに、私は古い武士の魂のよみがへりを感じた。
経済的繁栄と共に、日本人の大半は商人になり、武士は衰へ死んでゐた。自分の信念を守るために命を賭ける
といふ考へは、Old-fashioned になつてゐた。思想は身の安全を保証してくれるお守りのやうなものになつてゐた。
(中略)
しかし私は、若者はギュムナシオーンとアゴラを半ばづつ往復しなければならぬと信ずる者であり、学生ばかり
でなく、あらゆる知識人がさうすべきだ、と考へる者だ。言論を以て言論を守るとは、方法上の矛盾であり、
思想を守るのは自らの肉体と武技を以てすべきだ、と考へる者だ。
三島由紀夫「『楯の会』のこと」より
179 :
ナナシズム:2010/10/03(日) 16:14:25 ID:qcDn/ekv
かうして私は自然に、軍事学上の「間接侵略」といふ観念に到達したのである。間接侵略とは、表面的には
外国勢力に操られた国内のイデオロギー戦のことだが、本質的には、(少なくとも日本にとっては)日本といふ国の
Identify を犯さうとする者と、守らうとする者の戦ひだと解せられる。しかもそれは複雑微妙な様相を持ち、
時にはナショナリズムの仮面をかぶつた人民戦争を惹き起し、正規軍に対する不正規軍の戦ひになる。
ところで日本では、十九世紀の近代化以来、不正規軍といふ考へが完全に消失し、正規軍思想が軍の主流を占め、
この伝統は戦後の自衛隊にまで及んでゐる。日本人は十九世紀以来、民兵の構想を持つたことがなく、あの
第二次世界大戦に於てすら、国民義勇兵法案が議会を通過したのは降伏わづか二ヶ月前であつた。日本人は
不正規軍といふ二十世紀の新しい戦争形態に対して、ほとんど正規戦の戦術しか持たなかつた。
三島由紀夫「『楯の会』のこと」より
180 :
ナナシズム:2010/10/03(日) 16:25:11 ID:qcDn/ekv
自主独立の問題一つとつても、戦前の「自主独立」の日本が、軍縮会議以来、いや三国干渉以来、絶えず列強の
干渉によつて軍縮に対するチェックを受け、それによつて国内世論が、沸騰してきたことを考へると、
日本のやうな地理的要衡の、一定の経済力と一定の軍事力しか持ちえない小国が、条約下にあらうがあるまいが、
国際同盟の参加国であらうがあるまいが、外力の影響によつて左右されるのは宿命的だと思はなければならない。
(中略)
抵抗とは遊戯ではない。完全無防備の抵抗といふものがもしありうるならば、その最有力な例をとり上げて
指摘するならともかく、それが成功するかしないかの時点で、それを無防備的抵抗の良きお手本とすることは、
それ自体が国家を否定し、民族の自立を否定する思想であると言はなければならない。
三島由紀夫「自由と権力の状況」より
181 :
ナナシズム:2010/10/03(日) 16:26:24 ID:qcDn/ekv
(中略)
無益な武力的抵抗によつて、国家主権を奪はれるくらゐなら、流血の惨を避け、秩序を保つて表面的に妥協を
受け入れ、国家の存立をはかつたはうがよい、といふならば、非武装抵抗の利点は、一つは血を流さないですんだ、
といふことと、一つは国家の主権が曲りなりにも保たれたといふことでなければならない。
しかし、それはあくまで「非武装抵抗」の利点であつて、「非武装」の利点ではない。非武装(チェコは事実上
非武装国家ではなかつたが)それ自体は、強大な武力に対して何らの利点を持ちえないことは明らかである。
武力抵抗の反対概念は、非武装そのものではなく、非武装抵抗といふことであらう。
三島由紀夫「自由と権力の状況」より
182 :
ナナシズム:2010/10/03(日) 16:28:01 ID:qcDn/ekv
そして非武装抵抗の存立条件は、国民の結集した否(ノン)にしかなく、又、陰に陽にサボタージュその他で
抵抗する他はないが、次に来る段階は、非武装抵抗ですら血を流さずには有効性は発揮しえぬ、といふ段階であり、
又、国家の主権が曲りなりにも保たれても、その国家権力の実質的な主導権を奪はれるといふ状況をすでに
容認するならば、そのあとで、実質的な主導権を奪ひ返さうといふ抵抗は、抵抗の最初の論理的根拠を欠くことになる。
なぜなら、われわれが抵抗の手段の選択を迫られたとき、その一方(すなわち非武装)によつて、論理的に
一貫するならば、敵をすでに受け入れた己れの状況に対する抵抗とは、われわれ自身に対する抵抗に他ならなく
なつてしまひ、抵抗の論理は自らの身を喰ふものになるからであり、つひには抵抗それ自体が成立たなくなる
からである。
そのとき、われわれは、非武装抵抗の利点が一つもない地点に立つてをり、「非武装抵抗」と「非武装」とは
同義語になり、つひには敗北主義の同義語になるのである。
三島由紀夫「自由と権力の状況」より
183 :
ナナシズム:2010/10/04(月) 16:30:52 ID:/OSLQ7ei
もし暴力肯定が戦争肯定につながるといふ市民主義的な思考に従ふならば、三派全学連の存在理由は全く
認められないことにならう。その点では私は国家といふものの暴力を肯定してもそれが直ちに無前提に戦争を
肯定することにはならないといふ立場に立つものであるが、この立場に真に対立するものが次のやうな毛沢東の
言葉なのである。すなはち「われわれの目的は地上に戦争を絶滅することである。しかし、その唯一の方法は
戦争である」これが毛沢東の独特な論理であつて、この論理がすなはち右に述べたやうな暴力肯定の論理と
ちやうど反極に立つものである。すなはちそれは平和主義の旗じるしのもとに戦争を肯定した思想なのである。
私は戦後、平和主義の美名がいつもその裏でただ一つの正しい戦争、すなはち人民戦争を肯定する論理に
つながることをあやぶんできたが、これが私が平和主義といふものに対する大きな憎悪をいだいてきた一つの
理由である。
三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞」より
184 :
ナナシズム:2010/10/04(月) 16:32:54 ID:/OSLQ7ei
そして、私の暴力肯定は当然国家肯定につながるのであるから、平和主義の仮面のもとにおける人民戦争の
肯定が国家超克を目的とするかのごとき欺瞞に対しては闘はざるを得ない。国家超克はいはゆる共産主義諸国の
理論的前提であるにもかかはらず、現実の証明するとほり共産主義諸国も国家主義的暴力の行使を少しも遠慮
しないからである。(中略)
しかし「人民戦争のみが正しい暴力である」(このことは、「中共の持つ核兵器のみが平和のための正しい
核兵器である」といふ没論理をただちに招来する)といふ思想は、それほど新しい思想であらうか。それは又、
古くからある十字軍の思想であり、その根本的性格は「道義的暴力」といふことであるが、道義的主張はどんな
立場からも発せられうるものである。かくてあらゆる道義が相対化されるときに、被圧制、被圧迫の立場のみが、
道義的源泉であるとすれば、その自由と解放は、たちまち道義的源泉を涸(か)らすことになるのは自明である。
三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞」より
185 :
ナナシズム:2010/10/04(月) 16:34:27 ID:/OSLQ7ei
道義の問題を別としても、暴力に質的差異をみとめること、正義の暴力と不正義の暴力をみとめることは、軍隊と
警察の力のみを正義の力とみとめ、その他の力をすべて暴力視する近代国家の論理と、どこかで似て来るのである。
かくて毛沢東の論理は、結局、国家の論理に帰結する、と私は考へる。
私はかりにも力を行使しながら、愛される力、支持される力であらうとする考へ方を好まない。この考へ方は、
責任観念を没却させるからである。責任を真に自己においてとらうとするとき、悪鬼羅刹となつて、世人の
憎悪の的になることも辞さぬ覚悟がなくてはならぬ。それなしに道義の変革が成功したためしはないのである。
自分がいつも正しい、といふのは女の論理ではあるまいか。
三島由紀夫「砂漠の住人への論理的弔辞」より
186 :
ナナシズム:2010/10/04(月) 23:59:29 ID:/OSLQ7ei
(中略)
彼らは今なほ「朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね」といふやうな、古くさい左翼風の下品な
きまり文句のとりこになつてゐた。そして彼らは、目に見える天皇像があまりにも週刊誌に毒され、マス・
コミュニケーションに毒されてゐる、その毒された媒体を通してしかこれを評価し得ないことも明らかである。
彼らはその根本について少しも疑つてみようともせず、また、マス・コミュニケーションに耐へながら
存続してゐる天皇といふものが、何ゆゑこのやうな新しいマス・コミュニケーションと極度の言論の自由の中で
存立し得てゐるかといふ、歴史的意味や時間の連続性の問題についてもよく考へてゐないことが察知された。(中略)
天皇といふものが現実の社会体制や政治体制のザインに対してゾルレンとしての価値を持つことによつて、
いつもその社会のゾルレンとしての要素に対して刺激的な力になり、その刺激的な力が変革を促して天皇の
名における革命を成就させるといふことを納得させようとしたがうまくいかなかつた。
三島由紀夫「砂漠の住民への論理的弔辞」より
187 :
ナナシズム:2010/10/05(火) 00:01:35 ID:jpNQZ8kM
天皇は、いまそこにをられる現実所与の存在としての天皇なしには観念的なゾルレンとしての天皇もあり得ない、
(その逆もしかり)、といふふしぎな二重構造を持つてゐる。すなはち、天皇は私が古事記について述べたやうな
神人分離の時代からその二重性格を帯びてをられたのであつた。この天皇の二重構造が何を意味するかといふと、
現実所与の存在としての天皇をいかに否定しても、ゾルレンとしての、観念的な、理想的な天皇像といふものは
歴史と伝統によつて存続し得るし、またその観念的、連続的な天皇をいかに否定しても、そこにまた現在のやうな
現実所与の存在としてのザインとしての天皇が残るといふことの相互の繰り返しを日本の歴史が繰り返してきたと
私は考へる。そして現在われわれの前にあるのはゾルレンの要素の甚だ稀薄な天皇制なのであるが、私はこの
ゾルレンの要素の復活によつて初めて天皇が革新の原理になり得るといふことを主張してゐるのである。
三島由紀夫「砂漠の住人たちへの論理的弔辞」より
188 :
ナナシズム:2010/10/05(火) 12:02:44 ID:jpNQZ8kM
芸術における虚妄の力は、死における虚妄とよく似てゐる。団蔵の死は、このことを微妙に暗示してゐる。
芸道は正にそこに成立する。
芸道とは何か?
それは「死」を以てはじめてなしうることを、生きながら成就する道である、といへよう。
これを裏から言ふと、芸道とは、不死身の道であり、死なないですむ道であり、死なずにしかも「死」と同じ
虚妄の力をふるつて、現実を転覆させる道である。同時に、芸道には、「いくら本気になつても死なない」
「本当に命を賭けた行為ではない」といふ後めたさ、卑しさが伴ふ筈である。現実世界に生きる生身の人間が、
ある瞬間に達する崇高な人間の美しさの極致のやうなものは、永久にフィクションである芸道には、決して
到達することのできない境地である。「死」と同じ力と言つたが、そこには微妙なちがひがある。いかなる
大名優といへども、人間としての団蔵の死の崇高美には、身自ら達することはできない。彼はただそれを
表現しうるだけである。
三島由紀夫「団蔵・芸道・再軍備」より
189 :
ナナシズム:2010/10/05(火) 12:03:48 ID:jpNQZ8kM
ここに、俳優が武士社会から河原乞食と呼ばれた本質的な理由があるのであらう。今は野球選手や芸能人が
大臣と同等の社会的名士になつてゐるが、昔は、現実の権力と仮構の権力との間には、厳重な階級的差別があつた。
しかし仮構の権力(一例が歌舞伎社会)も、それなりに卑しさの絶大の矜持を持ち、フィクションの世界観を以て、
心ひそかに現実社会の世界観と対決してゐた。現代社会に、このやうな二種の権力の緊張したひそかな対決が
見られないのは、一つは、民主社会の言論の自由の結果であり、一つは、現実の権力自体が、すべてを同一の
質と化するマス・コミュニケーションの発達によつて、仮構化しつつあるからである。
さて、芸能だけに限らない。小説を含めて文芸一般、美術、建築にいたるまで、この芸道の中に包含される。
(小説の場合、芸道から脱却しようとして、却つて二重の仮構のジレンマに陥つた「私小説」のやうな例もあるが、
ここではそれに言及する遑(いとま)はない)
三島由紀夫「団蔵・芸道・再軍備」より
190 :
ナナシズム:2010/10/05(火) 12:07:43 ID:jpNQZ8kM
(中略)芸道には、本来「決死的」などといふことはありえない。(中略)
ギリギリのところで命を賭けないといふ芸道の原理は、芸道が、とにかく、石にかじりついても生きてゐなければ
成就されない道だからである。「葉隠」が、
「芸能に上手といはるゝ人は、馬鹿風の者なり。これは、唯一偏に貪着(とんちやく)する故なり、愚痴ゆゑ、
余念なくて上手に成るなり。何の益にも立たぬものなり」
と言つてゐるのは、みごとにここを突いてゐる。「愚痴」とは巧く言つたもので、愚痴が芸道の根本理念であり、
現実のフィクション化の根本動機である。
さて、今いふ芸術が、芸道に属することをいふまでもないが、私は現代においては、あらゆるスポーツ、いや、
武道でさへも、芸道に属するのではないかと考へてゐる。
それは「死なない」といふことが前提になつてゐる点では、芸術と何ら変りないからである。
三島由紀夫「団蔵・芸道・再軍備」より
191 :
ナナシズム:2010/10/05(火) 12:08:39 ID:jpNQZ8kM
(中略)
武士道とは何であらう?
私はものごとに「道」がつくときは、すでに「死」の原理を脱却しかかり、しかも死の巨大な虚妄の力を自らは
死なずに利用しはじめる時であらう、と考へる。武士道は、日常座臥、命のやりとりをしてゐた戦国時代では
なくて、すでに戦国の影が遠のき、日常生活における死が稀薄になりつつあつた時代に生れた。
真に死に直面してゐた戦闘集団には、それこそ日々の「決死」の行為と、その死への心構へと、死を前にした
人間の同志的共感がすべてである。それは決して現実を仮構化する暇などはもたない。それこそが、現実の側の
権力のもつとも純粋な核であり、あらゆる芸道的なものを卑しめる資格があるのは、このやうな、死に直面した
戦闘集団に他ならない。それさへ、現実に権力を握れば、現実の仮構化をもくろむ芸道の原理に対抗するに
自分も亦、こつそりと現実の仮構化を模倣しつつ、しかも芸道を弾圧せねばならない。これが現実権力の腐敗である。
三島由紀夫「団蔵・芸道・再軍備」より
192 :
ナナシズム:2010/10/05(火) 12:09:58 ID:jpNQZ8kM
私が決して腐敗を知らぬ、永遠に美しい、永遠に純粋至上な「現実権力」として認めるものは、あの挫折した
二・二六事件の、青年将校の同志的結合である。末松太平氏の「私の昭和史」の次のやうな一節を読むがいい。
天皇の軍隊を天皇の命令なくして、私的にクーデターなどに使ふことに反対してゐた高村中尉(著者の学友)が、
つひに著者に説得されて、理屈よりも友情が勝ち、次のやうに言ふところである。
「『(略)…貴様がやることなら、おれもやるよ。しかしやるまで暇があるなら、そのあいだにできるだけ、
そのおれの疑念を晴らすよう教えてくれ。疑念が晴れなければやらないというのじゃないよ』」
この最後の一句のいさぎよい美しさこそ、永遠に反芸道的なものである。そして芸道を河原乞食と卑しむことが
できるものは、このやうな精神だけであり、固定して腐敗した政治権力には、そのやうな資格はない。
三島由紀夫「団蔵・芸道・再軍備」より
193 :
ナナシズム:2010/10/05(火) 12:13:26 ID:jpNQZ8kM
さて、死に直面する戦闘集団の原理は、多少とも武士道に影を宿し、泰平無事の元禄の世にも、赤穂義士の義挙と、
「葉隠」の著作を残した。それが、命のやりとりを再び復活した幕末から維新を経て、人々の心に色濃く
のこつてゐた。このやうな戦闘集団の同志的結合は、要するに、戦野に同じ草を枕にし、同じ飯盒(はんがふ)の
飯を喰ひ、死の機会は等分に見舞ふところの、上長と兵士の間の倫理を要請した。
飛躍するやうだが、旧憲法の統帥大権の本質はここにあり、武士道を近代社会へつなぐ唯一のパイプであつたと
思はれるのである。
史家は、明治憲法制定の時、薩摩閥が、国務大権を握つたのに対抗して、長州閥が、天皇に直属する統帥大権を
握つて、国務大権から独立した兵馬の権をわがものにしようとした、と説明するが、政治史の心理的ダイナミズムは
そのやうに経過したとしても、統帥大権の根本精神は、もつと素朴な、戦闘集団の同志的結合の純粋性を天皇に
直属せしめるところにあつたと思はれる。
三島由紀夫「団蔵・芸道・再軍備」より
194 :
ナナシズム:2010/10/05(火) 12:15:36 ID:jpNQZ8kM
二・二六事件の悲劇は、統帥大権の純粋性を信じた青年将校と、英国的立憲君主の教育を受けた文治的天皇との、
甚だしい齟齬にあつたが、私が近ごろ再軍備の論をきくにつれ、いつも想起するのは、この統帥大権の問題である。
シヴィリアン・コントロールとたやすく言ふが、真に死に直面した戦闘集団は、芸道的原理に服した現実の
権力のために死ぬことができるであらうか?早い話が、「死ぬこととみつけた」武士道は、「死なないですむ」
芸道のために、死ぬことができるであらうか?
「死なないですむ」芸道的原理が現代を支配し、大臣も芸能人も野球選手も、同格同質の社会的名士と扱はれ、
したがつてそこに、現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との、真の対決闘争もなく、西欧的ヒューマニズムが、
唯一の正義として信奉されてゐるやうな時代に、シヴィリアン・コントロールが、真に日本人を死なせる
原理として有効であらうか、私は疑問なきを得ない。
もちろん、シヴィリアン・コントロールは、天皇の代りに、総理大臣のために死ぬことではない。
三島由紀夫「団蔵・芸道・再軍備」より
195 :
ナナシズム:2010/10/06(水) 23:05:51 ID:xDL/6wD6
(大野)氏が、天皇に心をとらへられることを、単に十九世紀の制度の作つた新しい侵略主義的感情だといふならば、
階級が感情を作るといふこの古くさい退屈な理論は、尊皇思想のみの力が明治天皇制を形成したといふ唯心論の
裏返しにすぎない。制度が先か、国民感情が先か、といふ鶏と卵とどちらが先かといふやうな「論争」に
巻き込まれたくない点では、氏も私と同様であらう。
私が特に制度の問題を論ずるに当つて、歴史的「文化的」伝統との関聨を重んじ、このエトス=パトスに重点を
置くのは、文化とは非常に高度な洗練を成立条件としつつ、一方民族の根底的なエトス=パトスの原始性と
切り離されたとたんに、その生命力を失ふやうな繊細な花だといふ考へがあるからである。
三島由紀夫「再び大野明男氏に――制度と『文化的』伝統」より
196 :
ナナシズム:2010/10/06(水) 23:08:52 ID:xDL/6wD6
高度な宮廷文化(みやび)の保持者として機能しつつ、民族的原質とつねに相関はつてきたものこそ天皇であり、
それを措いて、他に日本民族の最終的なアイデンティフィケーションは不可能であると私は考へる。もちろん、
宮廷文化を除外した日本の歴史も書けるし、民衆文化史も書けるであらう。大野氏の云ふやうに「ええぢやないか」
騒動を中核に置いた民衆の歴史を書くことも可能であらう。しかし、大野氏のやうな考へは、文化から、
その最高の洗練と美と高貴を追ひ出さうとする一種の畸型の情熱に転化することが容易であり、あげくのはては、
毛沢東の、「百姓にわからない文化は文化でない」といふ考へ方や、江青女史の京劇改革の方向へ結びつき、
つひには文化芸術は、ガサツな政治宣伝の道具に使はれてしまふのである。すなはち大野氏は、最初の私の引用に
あるやうに、「革命的であればこそ他のあらゆるものに優越する」といふドグマを、一歩も出ない人だからである。
三島由紀夫「再び大野明男氏に――制度と『文化的』伝統」より
197 :
ナナシズム:2010/10/07(木) 10:54:36 ID:2AsF1aIj
日本とは何か、といふ最終的な答へは、左右の疑似ナショナリズムが完全に剥離したあとでなければ出ないだらう。
安保賛成も反共も、それ自体では、日本精神と何のかかはりもないことは、沖縄即時奪還も米軍基地反対も、
それ自体では、日本精神とかかはりのない点で同じである。そしてまたそのすべてが、どこかで日本的心情と
馴れ合ひ、ナショナリズムを錦の御旗にしてゐる点でも同格である。「反共」の一語をとつても、私は
ニューヨークで、トロツキスト転向者の、祖国喪失者の反共屋をたくさん見たのである。私は自民党の生きる道は、
真のリベラリズムと国際連合中心の国際協調主義への復帰であり、先進工業国における共産党の生きる道は、
すつきりしたインターナショナリズムへの復帰しかないと考へる。真にナショナルなものは、そのいづれにも
本質的に欠けてゐるのである。
真にナショナルなものとは何か。それは現状維持の秩序派にも、現状破壊の変革派にも、どちらにも
与(くみ)しないものだと思はれる。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
198 :
ナナシズム:2010/10/07(木) 10:55:40 ID:2AsF1aIj
現状維持といふのは、つねに醜悪な思想であり、また、現状破壊といふのは、つねに飢ゑ渇いた貧しい思想である。
自己の権力ないし体制を維持しようとするのも、破壊してこれに取つて代らうとするのも、同じ権力意志の
ちがつたあらはれにすぎぬ。権力意志を止揚した地点で、秩序と変革の双方にかかはり、文化にとつてもつとも
大切な秩序と、政治にとつてもつとも緊要な変革とを、つねに内包し保証したナショナルな歴史的表象として、
われわれは「天皇」を持つてゐる。実は「天皇」しか持つてゐないのである。中共の「文化」大革命に決定的に
欠けてゐる要因はこれであり、かれらは高度な文化の母胎として必要な秩序を、強引な権力主義的な政治的秩序で
代行するといふ、方法上の誤りを犯した。文化に積極的にかかはらうとしない自由主義諸国は、この誤りを犯す
心配はない代りに、文化の衰弱と死に直面し、共産主義諸国は、正に文化と政治を接着し、文化に積極的に
かかはらうとする姿勢において、すでに文化を殺してゐる。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
199 :
ナナシズム:2010/10/07(木) 10:56:36 ID:2AsF1aIj
(中略)最近私は一人の学生にこんな質問をした。
「君がもし、米軍基地闘争で日本人学生が米兵に殺される現場に居合はせたらどうするか?」
青年はしばらく考へたのち答へたが、それは透徹した答へであつた。
「ただちに米兵を殺し、自分はその場で自決します」
これはきはめて比喩的な問答であるから、そのつもりできいてもらひたい。
この簡潔な答へは、複雑な論理の組合せから成立つてゐる。すなはち、第一に、彼が米兵を殺すのは、日本人としての
ナショナルな衝動からである。第二に、しかし、彼は、いかにナショナルな衝動による殺人といへども、殺人の
責任は直ちに自ら引受けて、自刃すべきだ、と考へる。これは法と秩序を重んずる人間的倫理による決断である。
第三に、この自刃は、拒否による自己証明の意味を持つてゐる。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
200 :
ナナシズム:2010/10/07(木) 10:58:20 ID:2AsF1aIj
なぜなら、基地反対闘争に参加してゐる群衆は、まづ彼の殺人に喝采し、かれらのイデオロギーの勝利を叫び、
彼の殺人行為をかれらのイデオロギーに包みこまうとするであらう。しかし彼はただちに自刃することによつて、
自分は全学連学生の思想に共鳴して米兵を殺したのではなく、日本人としてさうしたのだ、といふことを、
かれら群衆の保護を拒否しつつ、自己証明するのである。
第四に、この自刃は、包括的な命名判断(ベネンヌンクスウルタイル)を成立させる。すなはちその場のデモの
群衆すべてを、ただの日本人として包括し、かれらを日本人と名付ける他はないものへと転換させるであらう
からである。
いかに比喩とはいひながら、私は過激な比喩を使ひすぎたであらうか。しかし私が、精神の戦ひにのみ剣を使ふとは
さういふ意味である。
三島由紀夫「『国を守る』とは何か」より
201 :
ナナシズム:2010/10/08(金) 11:26:28 ID:37QuLhmn
安保体制はそれ一つで孤立してゐる問題ではなく、わかり切つたことですが、新憲法とワンセットになつてゐて、
どうしても切り離せないやうにできてゐて今も続いてゐる。このワンセット関係、換言すれば、シャムの双生児の
やうにおなかまでつながつてゐて頭が二つといふ状況を十分把握しておかないと、安保、憲法は論じられないと
思つてゐる。安保は新憲法における欠陥、すなはち安全保障についての無力を補填するといふ形でできてゐる。
アメリカの本音としては日本を属国にしておきたいけれども、まあ日本が強くならない程度の憲法ぐらゐは
与へておかうと考へたわけですね。さういふ背景を考へると、安保、さらに沖縄の問題が派生的な二次的な
問題だといふことがはつきりしてくる。
私が諸君に、目前の変転する事象に惑はされることなく、根本的なことだけを考へてくれと言ふのは、憲法が
このままでは、日本の防衛問題も最終的な解決はつかない、日本が本当に姿勢を正して本来の姿に戻るには、
このままではだめだと思ふからであります。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 三、安保、新憲法はシャムの双生児であるといふことについて」より
202 :
ナナシズム:2010/10/08(金) 11:29:41 ID:37QuLhmn
このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは
安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。精神といふと、またいつもの精神主義かと
いはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松陰の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との
信念で行くほかないと思つてゐる。「功業」といふのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。
そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが「功業」の意味で、それはいづれは
大勲位の勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。
しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、
その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
203 :
ナナシズム:2010/10/08(金) 11:30:41 ID:37QuLhmn
吉田松陰が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松陰の時代にも、全てをシニカルに
見てわらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、とにかく毎日が楽しければよく、明日のこと
など考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。
さういふ基本的メンタリティがあつたわけです。さういふ状況の中で、松陰は、孤立して狂つてゐるのでは
ないかと疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。そして、松陰が異常に孤立した、
自分一人しかゐない、自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 六、松陰は狂はなければならなかつたといふことについて」より
204 :
ナナシズム:2010/10/08(金) 11:33:12 ID:37QuLhmn
私は、諸君がこれを肚の中に一人一人持つてもらひたいと思ふ。左翼の大衆運動といふものは、大衆を
動かさなければどうにもならないので、まづ大衆を巻き込んで、彼らの大きな力で状況を変へていく、といふのが
基本的な立場ですね。赤軍派の場合は例外と言へるかもしれないが、左翼は一般にさうですね。ところが
われわれの立場は、孤立を恐れない、孤立でほかにみちなく、助けてくれる身方もゐない、さうなつた状況から、
初めて何かが始まるのです。いはば絶望からの出発といふのが特色だと思はれる。いはゆる能動的虚無、
さういつた絶望感を胸の中で噛みしめたことのない人間は、松陰の忠義のみちを行くことはできない。
かりにも世間を甘く考へて、世間の支持を期待したり、大衆をあてにするやうな思想の磨き方ではどうにも
ならないところまで来てゐることを自覚して欲しい。
三島由紀夫「『孤立』ノススメ 七、絶望から思想を磨くといふことについて」より
205 :
ナナシズム:2010/10/08(金) 20:07:52 ID:37QuLhmn
或る有名な左派の政治学者は、戦後二十年、ファシズムと軍国主義以上に悪いものはないと主張する政治学で
人気を得てゐたが、新左翼の学生に研究室を荒らされ、頭をポカリとなぐられたとき、「ファシストもこれほど
暴虐でなかつた。軍閥でさへ研究室まで荒らさなかつた」と叫んだ。二十年間彼が描きつづけた悪魔以上の悪魔が、
他ならぬ彼の学説上の弟子の間から現はれたといふわけだ。
日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、
外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。
十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母
エンタープライズ号の寄港反対の左翼デモに対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて
勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台のマダム・バタフライの子供である。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
206 :
ナナシズム:2010/10/08(金) 20:15:27 ID:37QuLhmn
私は必ずしも栄誉大権の復活によつて「政治的天皇」が復活するとは信じません。問題は実に簡単なことで、
現在の天皇も保持してをられる文官への栄誉授与権を武官へも横辷りさせるだけのことであり、又、自衛隊法の
細則に規定されてゐるとほり、天皇は儀仗を受けられるのが当然でありながら、一部宮内官僚の配慮によつて、
それすら忌避されてゐるのを正道に戻すだけのことではありませんか。
いはゆるシヴィリアン・コントロールとは政府が軍事に対して財布の紐を締めるといふだけの本旨にすぎないが、
私は日本古来の姿は、文化(天皇)を以て軍事に栄誉を与へつつこれをコントロールすることであると考へます。
三島由紀夫「橋川文三への公開状」より
207 :
ナナシズム:2010/10/09(土) 13:49:04 ID:9FN2xttA
…戦後の変節の早さ、かりにも「一国一城の主」が、女みたいに「私はだまされてゐた」と言ひ出すのを見ては、
私はいはゆる文化人知識人の性根を見たやうな気がしたのである。
大体、文化人や知識人と名乗るだけの人間が「だまされてゐた」では通るまい。この種の人たちは、十中八九、
口ほどにもないお人よしで、実際にだまされてゐたのかもしれないが、それを言はないで、だまされてゐたままの
自分の形を押し通すだけの自負がなかつたのか。思想的弾圧のはげしさは言語を絶してゐたかもしれないが、
いくら割り引いてみても、知識人文化人のたよりなさの印象はのこるのである。
変節防止のために相互監視をやつたらどうか。言論の自由を守るとは、結局自分を守ることだといふのでは情けない。
三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
208 :
ナナシズム:2010/10/09(土) 13:52:02 ID:9FN2xttA
「われわれの考へる言論の自由」といふものを本当に信じ、それを守り抜くためには、一人一人ばらばらでは、
はなはだたよりなかつた前歴があるから、今度は二度と引き返せぬやうに、相互監視でもやつて変節を
防止しなければ、第一、われわれの言論を信じてくれる読者各位に対して申し訳ないではないか。十年もつといふ
宣伝で買つた洗濯機が、三日でこはれてしまつては、商業道徳に反するではないか。
大体、文化人知識人などといふものは、弱い立場なのである。社会的地位もあいまいで、非常の場合に力で
押して来られたら一トたまりもない。幸ひ今は平和な時代で、大きな顔をしてゐられるが、われわれが大きい顔を
してゐられるから、平和がありがたい、といふのでは、材木が売れるから地震がありがたい、といふ材木屋の
考へと同じである。
三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
209 :
ナナシズム:2010/10/09(土) 13:55:24 ID:9FN2xttA
(中略)
世論なるものの作られ方自体にも、相当怪しいところがあるのである。子供にだつて、シュークリームと
あんころもちの二つを選ばせれば、どちらがうまいか、自分の意見を決めることができるが、シュークリームだけを
与へつづければ、世界中でシュークリームほどうまいものはないと思ふやうになる。
今、日教組がとなへてゐる「教育の自由」とは、シュークリームだけを与へる教育の自由なのである。
ジャーナリズムの有力な傾向も、公正に見せかけた「選択の自由の排除」であつて、われわれは言論を通じて、
公正な選択の場を何とか確保しようと努めてゐるにすぎない。
三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
210 :
ナナシズム:2010/10/09(土) 13:57:11 ID:9FN2xttA
現代政治の特徴は何事も世論のフィルターを濾過されねばならぬことであらうが、そのフィルターにくつついた
煤の煤払ひをしなければ世論自体が意味をなさぬ。かくも強力なフィルターが、煤のおかげで、ひたすら被害者、
被圧迫者を装つて、フィルターの濾過を拒んでゐるやうな状況は、不健全であるのみならず、フィルターの
権威を落すものであると考へられる。
かくてわれわれは、手に手に帚を持つて、煤払ひの戦ひに乗り出したといふわけなのである。
三島由紀夫「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
211 :
ナナシズム:2010/10/09(土) 14:00:54 ID:9FN2xttA
私は弱い者が大ぜい集まつてワイワイガヤガヤ言つて多数の力で意見を押しとほすといふ考へがきらひだ。
全学連だつて、一人一人会えば大人しい坊ちやんだし、体力的に弱いタイプが多い。
なぜ多数を恃むのか。自分一人に自信がないからではないのか。
「千万人といへども我行かん」といふ気持がないではないか。
もつとも一人の力では限りがあることがわかつてゐる。だから私は少数精鋭主義である。
その少数の一人一人が、「千万人といへども我行かん」といふ気構へをもち、それだけ腕つ節がなければならない。
たつた一人孤立しても、切り抜けて行けなければならない。
三島由紀夫「拳と剣――この孤独なる自己との戦ひ」より
212 :
ナナシズム:2010/10/10(日) 20:46:27 ID:a8TUOgk+
Q――現代のビジネスマンに要望することは?
三島由紀夫:私はね、商人といふのはきらひなんですよ。ですからね、万国博にも行つてゐないですよ。あれは
商人のお祭だから、武士は行かないんだといつてぐわんばつてゐるんです。
とはいひながらね、デパートだつて商人だしね、武士といへども、商人とつきあはざるを得ない、つらいところ
ですよね(笑)。武士だけやつてゐると、お米も食へなくなつちやふ。
かういふ世の中だから商人様全盛の世の中でしよ。ですけど、ぼく本人の中にはやつぱり武士の魂はあると思つてね。
商人の中にも銭屋五兵衛みたいな男もゐますしね。明治の政商でも、政治とかんでゐて、そこでやつぱり自分の
意気地を投げ打つといふ気持があつたと思ふんですよ。商人がきらひといふ意味は、商人を尊敬しないわけぢやない。
ただ一般に、商人には自己犠牲の精神がないからきらひなんです。
日本人といふのは、自己犠牲の精神がなくなつたら日本人ぢやないですよ。今の商人といふのはさういふ気持が
ないから本当のユダヤ人になつちやふだらうと思ふんです。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」
213 :
ナナシズム:2010/10/10(日) 20:46:56 ID:a8TUOgk+
資本といふのは、本質的にインターナショナルなものですよ。どんな国の、いかにも民族資本でもね、
インターナショナルな性質をもつてゐるのが資本だと思ふんですよ。ところがそつちの面ばかりが出てくるとね、
日本人の魂が商人道によつてをかされてきてゐると思ふ。そのお金本位、金権主義にをかされてゐるのがこはい。
私は、青年が金権主義といふものに反抗する気持がいちばんよくわかる。自分らが企業体の中で活躍するとき、
いかに武士の魂をもつてても、結局、金権主義、ご都合主義、さういふものによつてをかされていくといふのは、
青年として耐へがたいだらうと思ふ。それでボクは武士は武士として一人でぐわんばつてゐる。ところがボクもね、
扶持をくれないから浪人なんですよ。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
214 :
ナナシズム:2010/10/10(日) 20:47:22 ID:a8TUOgk+
やつぱり日本人は身を殺して仁をなすといふ気持がなければだめなんだけど、これがね元禄時代と同じでね、
今、税法がモラルを崩壊させてゐるでしよ。あのころの侍がみんな藩のお金を平気で使つて飲み食ひする、
何をする、さういふことをしない人もゐますがね、当時から日本人はさういふ悪いところがあるんですよね、
公私混同みたいなところが。
とくにね戦後は税法のおかげで会社の交際費が自由に使へるとね、社長にいたるまで家族つれてすし屋に行くとか。
戦前は少なくともポケットマネーがありましたからね、重役クラスになりますと、金の使ひ方が公私混同して
ゐなかつたですよね。これは自分のこづかひといふけぢめがあつたでしよ。今何でも会社の伝票を切る、
かういふことがいちばん日本人全体のモラルを崩壊させてゐると思ふんです。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
215 :
ナナシズム:2010/10/10(日) 20:48:16 ID:a8TUOgk+
外人記者なんかに会ひますとね、日本に軍国主義が復活してゐることを懸念してゐる。これは実はまちがひ
だつていふんです。
…といふのは武士道といふのを、日本人がわからなくなつてゐるからだ。武士道といふのは何かといふことを
外人に説明するとき、三つあるといふんです。
それはSelf-respect 自尊心ですね。次はSelf-responsibility 自己責任ですね。自己において責任が終了するといふ。
第三がSelf-sacrifice 自己犠牲ですね。この三つのうちどれをとつても武士ぢやないといふんですよ。
そしてね、軍国主義といふのは外国からきたものでね、このSelf-respect と、Self-responsibility はある
かもしれない。Self-sacrifice は欠けてゐると。かうなつたらアウシュビッツの収容所長だつてさうなんで、
自尊心はもつてゐた、責任観念はもつてゐた、ただねSelf-sacrifice といふものは外国にはないから、
だからさういふことになるといふふうに説明するんですよ。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
216 :
ナナシズム:2010/10/10(日) 20:48:54 ID:a8TUOgk+
ですから本当に日本人が武士道にめざめれば、あなたがたが心配することは何もない。身を殺して仁をなすことが
武士道の極意だと説明するんです。その場合、欠けてゐるものは武士道のみならず、ことに商人に欠けてゐる。
そして、とにかく口では国家の再建をとなへ、日本精神をとなへ、自分の金は一文も出すのはいやだ。十円の金も
惜しい、全部会社の伝票、そんな精神ぢやだめなんだといふことですね。
(中略)自主防衛といふのは自分が苦しい思ひをするといふことがだれもわかつてない、まづ自分が犠牲を
はらふといふことがまづない。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
217 :
ナナシズム:2010/10/12(火) 10:50:02 ID:92ipVn2Z
Q――石原(慎太郎)氏に向かつて「自民党にはひつたら党を批判するな」といふあなたの論法。
…従属といふか、非常に暗いものを要求する、抵抗を押へるのではないか、と思ふのだが……。
三島由紀夫:抵抗は死に身になれ。抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、といふことだ。たとへば抵抗は
楽しいものであるといふベ平連などの考へですね。あれが一番きらひなんです。ベ平連式の“抵抗”は、大衆に
アピールする。抵抗とは楽しい、抵抗とは手をつないでフランス・デモをやることだ、フォーク・ダンスを
やることだ、これが非常にいやなんです。抵抗はナマやさしいもんぢやない。血みどろで、死に身にならなきや
できないのが本当である。内部批判をする連中が、手柄顔で歩いてゐる。石原君のことぢやなく、世間一般ですよ。
共産党を内部批判すると英雄になる。公明党を内部批判すると英雄になる。自分の属してゐるものの内部批判
した男が英雄視される。こんな間違つたことはない。抵抗をもう少し暗いものにしなきやいかん。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
218 :
ナナシズム:2010/10/12(火) 10:50:25 ID:92ipVn2Z
(中略)藩のきびしさは、いまの会社などとは、なるほど、くらべものにならないかもしれない。しかし、
そこに仕へるものの内面的なモラルといふものは同じだ。つまり、お前はこんな批判をしたから切腹ものだ、
首をはねる、なんて規則は外面的な規則でしよ。だけど自分は賊名を着せられてもあへてやるんだとか、あるひは
自分の中では内面的にそれを許さない、といふ場合に、人間はどういふ態度をとるべきか。その態度決定は
文化や伝統が規定すると思ふんです。(中略)
個人的な怨恨を巻きこまなければ、大きな抵抗は組織できない。さういふ組織がいけないといふのではない。(中略)
いまの日本は「公」と「私」の別がないやうな国、私益優先の国ですね。人命尊重以上の高い価値を持つたものは
なくなつた。それがいまの日本です。ですから「よど号」事件なんかでも、日本の政府は人命尊重以外には
何もいへない。日本には、それ以上の国是がないんだから。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
219 :
ナナシズム:2010/10/12(火) 10:50:41 ID:92ipVn2Z
韓国でも北朝鮮でも国家意志といふものがあつたでせう。いまの日本には、国家意志などといふものはない。
石原君なんか、国家意志を持たうとするために政治家になつたのぢやないか。さういふ日本から脱却して――。
ぼくは、そのために彼を応援したのぢやないのか。だから石原君が私益優先みたいな社会の中で「私」と「公」を
混同するやうなものの考へ方だつたら、初めから矛盾ぢやないのか。あくまで公的なものだけを大切にするのが
彼の政治行為ではないのかと思ふのです。ぼくはむりやりにでも「公」と「私」を分けなきや政治行為なんて
できるものではないと思つてゐる。いまの若いもの、若い政治家が持つてゐる満たされないもやもやしたものを、
公的なものにすりかへてゐる。これは卑怯です。(中略)会社の帰りに、いつぱい飲みながらやる上役の悪口が、
いま日本中の世論といふものの原型になつちやつた。昔は、あんなもの私的なもので、上役とのいさかひは
その場で終はつた。翌日はケロッとしてゐたものだ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
220 :
ナナシズム:2010/10/12(火) 10:50:56 ID:92ipVn2Z
Q――士道とは何か。
三島由紀夫:山鹿素行の士道とか、吉田松陰のそれとか、士道にもいろいろあつてね。さう堅いことばかり
いつてゐるわけぢやない。「柔よく剛を制するの理(ことわり)をわきまふべし。しゐてつよからんと思へば、
かへつてよはきことあり。われつよければ、かれも又つよし」なんてのもある。こりや、ぼくのこといつてるの
かもわからんが……。
ぼくは、魂の問題といふことで「士道」といふ言葉を使つた。内面的なモラルといつてもいい。内面的なモラル
といふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。それがなければ、精神なんてグニャグニャになつちやふ。
今日では、自分で自分をしばるといつたストイックな精神的態度を、だれも要求しなくなつた。
ストイックなのは損だと、だれもが考へてゐる。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
221 :
ナナシズム:2010/10/12(火) 10:51:24 ID:92ipVn2Z
Q――「士道」といふもの、そもそもアナクロニズムではないのか。
三島由紀夫:ぼくは「士道」を、みんなに向かつて鼓舞するつもりはない。ストイックなものだから、一人が
さうであればいい。あるひは十人がなるかもしれないが、この巨大な社会の歯車の中で、一人がストイックになれば、
それがしだいに波及して順々に歯車が動いていくんぢやないか。さういふ気違ひみたいなヤツがゐないと、
日本、面白くないと思ひますね。
アナクロ? さうかもしれない。しかし、人間、どんな新しい身なりをしてゐても、一つだけ古いものを
持つてるのがダンディーぢやないのですか。精神的態度として。士道ていふのはダンディズムですよ。男の
“見伊達”といふか、さういふものですね。精神的な伊達ものですね。最新流行の服を着て、口に何十年か前の
古いパイプをくはへてゐるやうに、精神的にも一点、アナクロニズムが残つてゐるてのがダンディーなんですよ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
222 :
ナナシズム:2010/10/12(火) 10:52:41 ID:92ipVn2Z
Q――「士道」の復活は、現代において可能ですか。
三島由紀夫:ぼくはさういふふうに問題を考へてゐない。「士道」といふ言葉をいふのは、その言葉が、まるで
一滴のしづくのやうにその人の心にしたたつたら、自分で考へてごらんなさい――といふだけなんです。
「士道」といふものは、マスコミを通じて広まるやうな性質のものではない。われわれの心の中を探つてみると、
心のなかに持つてゐる自己規律に照らして、どこかやましいものがあるはずだ。やましいものがあれば、
士道に反してゐるのだと考へるべきだ。それが日本人だと思ふんです。なぜやましさを感じるか。それは
士道にもとつてるからなんです。士道つてそんなものではないか。一言でいへば、「士道」とは男の道ですよ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
223 :
ナナシズム:2010/10/14(木) 12:46:56 ID:ubOjnefu
戦後平和日本の安寧になれて、国民精神は弛緩し、一方、偏向教育によつてイデオロギッシュな非武装平和論を
叩き込まれた青年たちは、ひたすら祖国の問題から逃避して遊惰な自己満足に耽る者、勉学にはいそしむが
政治的無関心の殻にとぢこもる者、「平和を守れ」と称して体制を転覆せんとする革命運動に専念する者の、
ほぼ三種類に分けられるにいたりました。(中略)
われわれは一九六〇年以後、言論活動による国の尊厳の回復の準備を進めて参ると共に、一九六五年にいたつて、
国防精神を国民自らの真剣な努力によつて振起する方法の研究に着手しました。(中略)…核兵器の進歩は
却つて通常兵器による局地戦(いはゆる代理戦争)の頻繁か発生を促し、これを戦ふ者も正規軍のみでなく、
ベトナム戦に見る如く人民戦争の様相を呈して来た以上、必ずしも高度に技術化された軍隊でなくとも、
通常兵器を以て国防に参与できる余地のあることが常識化されるにいたりました。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
224 :
ナナシズム:2010/10/14(木) 12:47:13 ID:ubOjnefu
そもそもわが自衛隊は、安保体制下集団安全保障の一翼を担つて、国防の任務に就いてをりますが、この任務のうち、
純然たる自主防衛の領域は、新安保条約によれば、
一、間接侵略に対する治安出勤
二、非核兵器による局地的直接侵略に対する防衛
の二領域であります。この二つのケースにおいては、自衛隊は、いかなる外国軍隊の力をも借りず自らの手で
国防を引受けるといふ重大な任務を負うてゐるのであります。(中略)
「間接侵略」の形態も亦、一様ではありません。革命の客観的条件の成熟と向うが認めた時点が何時であり、
そこへ向つて、いかなる一連の動きによつて「間接侵略」といふ内戦段階へ移行するかは予断を許さぬのみならず、
現に今日只今の平和な日常生活の中にも、間接侵略の下拵(したごしら)へは着々と進められてゐると考へて
いいのです。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
225 :
ナナシズム:2010/10/14(木) 12:47:33 ID:ubOjnefu
これに応戦する立場も、単に自衛隊の武力ばかりでなく、千変万化の共産戦術に応じて、あるひは言論、あるひは
行動により、千変万化の対応の仕方を準備するのが賢明であります。そのための最後の拠り処は、外敵の
思想的侵略を受け容れぬ鞏固な国民精神であると共に、民族主義の仮面を巧妙にかぶつたインターナショナリズムに
だまされない知的見識であり、又、有事即応の不退転の決意でなければなりません。このやうな決意を持たぬ思想は、
怯懦に陥つて、いつか敵の術策に陥ることをなしとしないのであります。
不退転の決意とは何か? すなはち、国民自らが一朝事あれば剣を執つて、国の歴史と伝統を守る決意であり、
自ら国を守らんとする気魄(きはく)であります。
しかし、気魄だけでは実際の役に立たないので、武器の取扱にも周到な教育を要し、指揮統率の能力も、
又これに応ずる能力も、一定の訓練体験なしには、つひに画に描いた餅にすぎません。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
226 :
ナナシズム:2010/10/14(木) 12:47:51 ID:ubOjnefu
又、別方面から考へれば、何事も感覚的にしか理解しえない無関心層の青年に、国防精神を植ゑつけるには、
単なる思想指導や言論による教育では不十分で、実際に彼らに執銃体験を与へることによつて、彼らが
武器といふものの持つ意義も危険も知り、感覚を土台にして、より高い国防精神に覚醒する端緒をつかむといふ
ことも十分考へられるのであります。
ここに思ひ到つたわれわれは、諸外国の民兵制度を研究し、左記のやうな各種の資料を得ました。
(中略)
以上のやうに、民兵制度なるものを種々検討してみたわれわれは、平和憲法下の日本で、われわれ国民が
市民としての立場で国防に参与する方途は、ここにあると確信するにいたりました。民主国家国民としてあらゆる
自由と権利を享楽してきた日本人は、戦後、義務の観念を喪失したと云はれますが、実はまだ使つてゐない権利が
一つ残つてゐるのではないか、民主国家の国民としてのもつとも基本的な権利である、「国防に参与する権利」
だけは、まだ手つかずのままではないか、といふのがわれわれの発想のもとであります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
227 :
ナナシズム:2010/10/14(木) 12:48:06 ID:ubOjnefu
民兵といふ言葉はみすぼらしく、魅力的でないので、われわれは祖国防衛隊といふ言葉を使ひます。(中略)
専門家の概算によると、長大な海岸線を持つわが国の国土防衛のためには、三五万から百万の陸上兵力を
必要としますが、(中略)…のこりの十七万は何とか国民の自主的な努力により確保せねばならぬのであります。
従つて祖国防衛隊は、大都市においては都市防衛、海浜地域においては沿岸警備、山間地域においては
対ゲリラ防衛を任務とすることになるでせう。又、出勤した正規軍師団の後方警備要員としても有効適切であります。
ヨーロッパ諸国の軍事制度を研究した者は、むしろ戦前の日本の国軍一本化がむしろ異例であることを知つてゐます。
正規軍以外の各種の軍隊の並立のうちに発達してきたヨーロッパ軍事制度の歴史に鑑み、日本の戦前の軍事制度に
関する常識を、戦後の平和憲法下の特殊事情を考慮して、一ぺん徹底的に考へ直し、真に有効な現代的方途を
発見してゆかなければなりません。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
228 :
ナナシズム:2010/10/14(木) 12:50:34 ID:ubOjnefu
現に戦時中も、総力戦体制と称しながら、軍の権力構造を保持するために、知識人や行政上経営上の指導者をも
一兵卒として召集し、無理な一本化を急いで弊害のみを助長させた教訓は近きにあり、むしろ、戦争末期は
市民軍の養成を別途に推進すべきであつたのであります。
正規軍の増強と精鋭を望む議論としては正論でありますが、日本の現状から見るとき、徴兵制度の弊害の記憶が
ありありと残つてゐる国民感情から見ても、又、もし将来徴兵制度復活が実現されても、そのときはもはや
国論統一が成し遂げられた時点であり、国論統一が成就するや否やわからぬ過渡期の危機を収拾するには間に合はず、
前途のとほり、間接侵略の複雑微妙な進行過程において、徴兵制を強行すれば、軍自体の赤化の危険さへ
懸念されるのであります。その点からも、「思想堅固な者にのみ、武器をとらせる」方式を別途に考へなければ、
間接侵略に真に対処することは不可能なのであります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
229 :
ナナシズム:2010/10/14(木) 12:50:50 ID:ubOjnefu
これらの考察ののち、われわれは一九六六年秋にいたつて、祖国防衛隊のもつとも基本的な原案を作製しました。
(中略)
概ね、右のとほりでありますが、無給である以上、隊員には強い国防意識と栄誉と自恃の念の養成が必要とされます。
又、まだ法制化を急ぐ段階ではありませんから、純然たる民間団体として民族資本の協力に仰ぐの他はなく、
一方、一般公募にいたる準備段階に数年をかけ、少くとも百人の中核体を一種の民間将校団として暗々裡に
養成することが先決問題と考へられたのであります。(中略)
われわれはかくて自衛隊内部にも知己を得て、国防問題について真剣に論じ合ひました。われわれの知りたいことは、
市民軍の指導者たる幹部要員の教育に、必要最低限度、どれだけ訓練が必要とされるか、現行法制下でそれが
可能か、といふことでありました。そしてつひに、それが可能であるといふ成果を得たのであります。
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
230 :
ナナシズム:2010/10/14(木) 12:51:04 ID:ubOjnefu
祖国防衛隊基本綱領(案)
祖国防衛隊は、わが祖国・国民及びその文化を愛し、自由にして平和な市民生活の秩序と矜りと名誉を
守らんとする市民による戦士共同体である。
われら祖国防衛隊は、われらの矜りと名誉の根源である人間の尊厳・文化の本質及びわが歴史の連続性を
破壊する一切の武力的脅威に対しては、剣を執つて立ち上がることを以て、その任務とする。
隊 歌
強く正しく剛(たけ)くあれ
文武の道にいそしみて
正大の気の凝るところ
万朶(ばんだ)の花と咲き競ふ
日本男子の朝ぼらけ
われらは祖国防衛隊
若く凛々しく勇ましく
高根の雪に恥づるなき
市民の鑑(かがみ)武士の裔(すゑ)
祖国を犯す者あらば
かへりみはせじ楯の身を
われらは祖国防衛隊
清く明るく晴れやかに
憂憤深き夜は明けて
正気光りを発すれば
歩武堂々の靴跡に
敵影(てきえい)霜と消え失せん
われらは祖国防衛隊
三島由紀夫「祖国防衛隊はなぜ必要か?」より
231 :
ナナシズム:2010/10/18(月) 10:28:52 ID:tIi9W0S3
三島:…少なくとも自民党が危ないときになって国民投票をやったとします。そうしてウイかノンかといのを
国民に問うたとします。できることは、安保賛成(ウイ)か安保反対(ノン)かどっちかしかない。
安保賛成というのは、はっきりアメリカですね。安保反対というのはソビエトか中共でしょう。日本人に向かって
おまえアメリカをとるか、ソビエトをとるか中共をとるかといったら、僕はほんとうの日本人だったら態度を
保留すると思うんですね。日本はどこにいるんだ。日本は選びたいんだ、どうやったら選べるんだ。
これはウイとノンの本質的意味をなさんと思うんですよ。
…まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況にいる。
これで安保騒動をとおり越しても、まだやれないんじゃないかという感じがしてしようがない。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
232 :
ナナシズム:2010/10/18(月) 10:29:08 ID:tIi9W0S3
三島:それで去年の夏、福田赳夫さんと会ったときに、
「自民党は安保条約と刺しちがえて下さいよ」と言ったんですよ。私が大きなことを言うようですが、
私の言う意味は、自民党はやはり歴史的にそういう役割を持っている、自民党は西欧派だと思うんです。
西欧派は西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい。
その次に日本か、あるいは日本でないかという選択を迫られるんであるというふうに言ったことがある。
いま右だ左だといいましても、安保賛成が右なのかということは、いえないと思うんです。
安保賛成も一種の西欧派ですよ。安保反対はもちろん外国派です。
そうすると国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には加担していないですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
233 :
ナナシズム:2010/10/18(月) 10:29:23 ID:tIi9W0S3
三島:ですからナショナリズムの問題が日本では非常にむずかしくなりまして、私が思うのに、
いま右翼というものが左翼に対して、ちょっと理論的に弱いところがあるのは、われわれ国粋派というのは、
ナショナリズムというものが、九割まで左翼に取られた。
だって米軍基地反対といったって、イデオロギー抜きにすれば、だれだってあまりいい気持ちではない。
それからアメリカは沖縄を出て行け、沖縄は日本のものであったほうがいい、なにを言ったところで、
左翼にとってみれば、どこかで多少ナショナリズムにひっかかっているから広くアピールする。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
234 :
ナナシズム:2010/10/18(月) 10:29:43 ID:tIi9W0S3
三島:そうして私は、ナショナリズムは左翼がどうしても取れないもの――九割まで取られちゃったけれども、
どうしても取れないもの、それにしがみつくほかないと信じている。だから天皇と言っているんです。
もちろん天皇は尊敬するが、それだけが理由じゃない。ナショナリズムの最後の拠点をぐっとにぎっていなければ
取られちゃいますよ。そうして日本中が右か左の西欧派(ナショナリズムの仮面をかぶった)になっちゃう。
林:(中略)僕は今の左翼の“ナショナリズム”は発生が外国指令だと思う。
いくら彼らに教えても反米はできるが反ソ、反中共はできない。したがって尊王ということは、彼らにとっては、
もってのほかです。(中略)
三島:(中略)やつらは天皇、天皇といえばのむわけないです。
のむわけないから、やつらから天皇制打倒というのを、もっと引出したいですよ。(中略)
これをもっとやつらから引出さなければならない。やつらのいちばんの弱味を引き出してやるのが、私は手だと
思っているんですがね。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
235 :
ナナシズム:2010/10/18(月) 10:29:58 ID:tIi9W0S3
三島:僕は理論なんか根底的に必要じゃないと思うんです。根底的には誠だけでいいんですよ。誠以外になにが
いりますか。
(中略)
最近感心したのは、大東塾の靖国神社問題に対する対処の仕方ですね。これには感心している。
つまり靖国の霊を国が神道の祭祀にしたがって顕彰し、弔うべきだというだけのことです。彼の言いたいことは。
それを政治家だとか、いろんな圧力団体がそうさせない。遺族会すらそういう本旨を誤っているという場合に、
だれがその思想をとおすのか。その思想をとおすのに、言論だけでたりるのか。どの政治家のところへ
お百度詣りしたら、それをとおしてくれるのか。人間がそういうことを考えたら、それをとおす方法といったら、
やっぱりぶんなぐるほかないでしょう。だからちょっとぶんなぐったでしょう。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
236 :
ナナシズム:2010/10/18(月) 10:33:21 ID:tIi9W0S3
三島:政治家をぶんなぐることがいいかどうかわからない。ただ影山(正治)氏の塾の人がやったことは、
ある一つの思想をとおすには、どうしても法的にも、議会政治の上でも、どうしてもとおらない。しかしそれが
日本にとって本質的なものだと考えたら、あの方法しかないんじゃないですか。その方法の良し悪しというよりも、
あの方法しかないからやったんでしょう。そういうふうな、どうしてもやらなければならんことで、ほかに
方法がないということをやるために右翼団体というものはあるんだと思うし、塾というものがあると思うんだ。
それはその姿勢は守らなければならない。それを捨てたらだめだと思うんですよね。
(中略)
日本人というのは自分の主義主張のためには体を張るものである、命を最終的に惜しまないものであるという
伝統的なメンタリティーがある。
三島由紀夫
林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
237 :
ナナシズム:2010/10/19(火) 00:33:25 ID:YymaF4yJ
現下の日本のもつとも重要な問題は、国家理念の確立と、青年に「大義とは何か」を体得せしめることであります。
多くの青年が、日本が犯される時は銃を執つて戦ふ覚悟を、口でこそ示しますが、その方途も、真の敵の所在も
明確につかんでゐないのが実情であります。
間接侵略の過程においては、まづ基幹産業の侵蝕と破壊が企てられることは、常識でありますが、わが企業体を
身を以て守るといふ覚悟乃至行動は、それ以上の高い国家理念の裏附なしには期待することができません。
企業防衛こそ国土防衛の重要な一環であり、一例が電源防衛にしても、それ自体がただちに国土防衛の本質的な
ものにつながります。
しかしこのやうな自覚も、強い思想的バック・ボーンなしには、たちまち足元から崩れ去るのが、今後の複雑な
政治状況であり、又、そのためには団体生活の訓練と、一定の基礎的な肉体訓練が必須であります。
三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より
238 :
ナナシズム:2010/10/19(火) 00:33:51 ID:YymaF4yJ
このやうな青年によつてこそ、日本の安全保障と自主防衛の精神は、将来へ向つて輝やかしく保持され、
国の安全こそ企業の安全につながることが、国民全体によつて理解される糸口がひらけるのであります。
企業防衛イコール国土防衛の精神を確立するために、われわれは陸上自衛隊の協力を得て、従来の体験入隊より
一歩前進した、比較的長期間の組織的体験のプランを作製し、各企業体経営者各位の賛同を得て、J・N・Gの
横の組織を創り出したいと念ずるものであります。
仮 案
一、中卒あるひは高校卒の青少年を、一定期間(十日乃至一ヶ月)当組織へお預りし、体験入隊をお世話し、
必要に応じて年一回、あるひは春秋二回といふ風に継続し、J・N・G隊員として、溌剌たる挺身的な模範社員を
各職場へお返しします。企業防衛を国土防衛の基盤として理解する、信念ある中堅社員育成のために、資する
ところ大なるものがあると信じます。(後略)
三島由紀夫「J・N・G仮案(Japan National Guard ――祖国防衛隊)」より
239 :
ナナシズム:2010/10/20(水) 22:14:18 ID:+B547k3L
天才はいつの時代も正しい。
政治に疑問をもたない大勢の愚民の前で討論しても時間の無駄かもしれない
具現化するための話し合いのほうがおもしろい
2ちゃんねるの天才と話し合いたいのだが、場所ある?
240 :
ナナシズム:2010/10/20(水) 23:32:49 ID:97Cm9RBj
241 :
ナナシズム:2010/10/21(木) 00:08:05 ID:aeIfH1kL
>>240 三島が「愚かな日本」に気づいて語り聞かせ、友人であった美輪明宏が日本人の相談役にまで行き着いたように、有名じゃなくても実力のある人が2ちゃんねるにもいるはず
小さくても協力することでこの世を動かせる
どうしていまだに巨大掲示板が何も成し遂げていないのかな?
電車男止まり?
242 :
ナナシズム:2010/10/21(木) 07:21:02 ID:???
>>241 三島が死んで美輪と石原はそれぞれの道を歩んだに過ぎない。
三島が生きていればもっと良かったはず。
243 :
ナナシズム:2010/10/24(日) 19:50:53 ID:0XhAY+PE
私は民主主義と暗殺はつきもので、共産主義と粛清はつきものだと思っております。
共産主義の粛清のほうが数が多いだけ、始末が悪い。暗殺のほうは少ないから、シーザーの
昔から、殺されたのは一人で、六十万人が一人に暗殺されたなんて話は聞いたことがない。
これは虐殺であります。(中略)
たとえば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配が
なかったら、いくらでも嘘がつける。
大体政治の本当の顔というのは、人間が全身的にぶつかり合い、相手の立場、相手の思想、
相手のあらゆるものを抹殺するか、あるいは自分が抹殺されるか、人間の決闘の場であります。
それが言論を通じて徐々に徐々に高められてきたのが政治の姿であります。
しかしこの言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に
堕することは、日本の立派な国会を御覧になれば、よくわかる。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
244 :
ナナシズム:2010/10/24(日) 19:52:19 ID:0XhAY+PE
私が一番好きな話は、多少ファナティックな話になるけれども、満州でロシア軍が
入ってきたときに――私はそれを実際にいた人から聞いたのでありますが――在留邦人が
一ヵ所に集められて、いよいよこれから武装解除というような形になってしまって、
大部分の軍人はおとなしく武器を引き渡そうとした。その時一人の中尉がやにわに
日本刀を抜いて、何万、何十万というロシア軍の中へ一人でワーッといって斬り込んで行って、
たちまち殴り殺されたという話であります。
私は、言論と日本刀というものは同じもので、何千万人相手にしても、俺一人だというのが
言論だと思うのです。一人の人間を大勢で寄ってたかってぶち壊すのは、言論ではなくて、
そういうものを暴力という。つまり一人の日本刀の言論だ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
245 :
ナナシズム:2010/10/24(日) 19:53:32 ID:0XhAY+PE
初めから妥協を考えるような決意というものは本物の決意ではないのです。
私は、暗殺者が必ずあとですぐに自殺するという日本の伝統はやはり武士(さむらい)の
道だと思っている。
人間が一対一で決闘する場合には、えらい人も、一市民もない。そこに民主主義の原理が
あるのだと私は考える。
だから、政治というものはいずれにしろ激突だ。そして激突で一人の人間が一人の人間を
許すか、許さないか、ギリギリ決着のところだ。それが暗殺という形をとったのは
不幸なことではあるけれども、その政治原理の中にそういうものが自ずから含まれている。
もしそうでなければ、諸君が選挙の投票場へ行って投ずる一票に何の意味がありますか。
民主主義なんて甘いものじゃない。これをどうやって純粋民主主義に近づけるかなんて、
いつまでたっても無駄なんだ。人間は汚れている。汚れている中で相対的にいいものを
やろうというのが民主主義なんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
246 :
ナナシズム:2010/10/24(日) 19:58:08 ID:0XhAY+PE
どんな政治体制でも歴史的な基盤があって、徐々に形成されたものであるので、その点では
日本の天皇制もまったく同じだと思います。ですから民主主義が悪いとか、天皇制が
いいとか悪いとかいう問題じゃなくて、その国その国の歴史的基盤に立った政治体制が
できていくということは当然だと思います。
国家がなくなって世界政府ができるなんという夢は、非常に情けない、哀れな夢なんです。
…資本主義国家も国家が管理している部分が非常に大きくなっておりますから、実際の
国家の時代という点では、国家の管理機能はむしろ史上最高ぐらいまで達しているのではないか。
これが極点に達し、崩れて、超国家ができるかどうか、そんなことは先のことである。
我々はまず国家の中に生きているという存在から問題を考えなければならんというように
私は思っております。ですから、国家の時代なればこそ戦争も必ずある。であるから、
それに対する防衛の問題も真剣に考えなければならんと、私はそういうように思っております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
247 :
ナナシズム:2010/10/24(日) 19:58:34 ID:0XhAY+PE
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの
社会であります。そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が
戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、日本の例をとってみますと、
日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。たとえばアメリカなどは
民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識が
ある国です。というのは、ヨーロッパを真似して成金が階級をつくったのですね。
ですからこれはアングロ・サクソンの文化の伝統ですが、クラブというのがありますね。
みんなメンバーシップオンリーのクラブで、下のクラブの人が上のクラブをステイタス・
シンボルとして、ステイタス・クライマーが上流のクラブへ入るためにあらゆる算段を
するわけです。(中略)
アメリカにはステイタス・シンボルというものが非常にたくさんあります。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
248 :
ナナシズム:2010/10/24(日) 19:58:49 ID:0XhAY+PE
ところが日本ではステイタス・シンボルに当たるものが私は何があるのかと聞きたい。
…一つの社会風俗的現象としてのステイタス・シンボルがあるのか。キャデラックに
乗っていたらブルジョアなのか。みんな会社の金でキャデラックに乗っている、それが
ブルジョアなのか。あるいはゴルフクラブに入っていたらそれがブルジョアなのか。
ゴルフクラブに入って、あのキャディに、かよわい女性に重いものを背負わせて歩けば
それがブルジョアなのか。そして日本では社会主義者も共産主義者もみんな軽井沢に
別荘を持っている。(中略)
私は階級差というものの甚だしい例をヨーロッパでたくさん見てきた。(中略)
富の分配というのは一応マルクス主義の美名になっておりますが、これは別の方法を
使ったってできるのだ。(中略)
権力の分配に至っては、共産主義社会のあのおそろしいビューロクラシーと比べると、
我々はむしろ権力の分配の公正な社会に生きていると、私はこう考えております。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
249 :
ナナシズム:2010/10/24(日) 19:59:15 ID:0XhAY+PE
我々はヒューマニスティックな愛情を何に対して持つか。ニューヨークじゃ、もう人間に
同情する人がなくなっちゃったのでみんな犬に同情している。それがアングロ・サクソン
動物愛護協会というものなんです。これは生活の余裕がなければできないことで、
オールビーの「動物園物語」という芝居をご覧になった方はわかりますが、犬を可愛がって、
犬としか対話しない人間が長々と出てきます。人間というのはそういうふうになっちゃう
ものなんですね。愛情と憐れみを何に向って与えようか。その溢れるアフェクションの中から
どうやって社会革新の情熱を呼びさまそうか。人間はこういうものを考える動物だと思います。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
250 :
ナナシズム:2010/10/24(日) 20:04:22 ID:0XhAY+PE
未来ということを考える暇がないほど現在の時点における自分の存在の中に、連綿たる
過去の日本の文化伝統と日本人の長い民族的蓄積とが、太古以来ずっと続いている、
その一番ラストに自分はいるんだ、自分が滅びたらもうお終いなんだ、自分は
日本というものの一番の精髄をになってここにいま立って、そこで自分は終るのだ。
そういうことがなければ、ぼくは人間の最終的な誇り、日本人としての最終的な誇りは
持てないと思います。
未来を所有しているのは老人の特徴で、未来を所有しないのが青年の特徴である。(中略)
青年は未来に対してあらゆる可能性があるように見えるかわりに、未来を何一つ所有しない。
言論自由下の社会主義なんていうものを夢見ているとあぶないんだ。
…もし美しき社会主義を夢見れば醜き社会主義にやられてしまうんだ。
三島由紀夫「国家革新の原理――学生とのティーチ・イン」より
251 :
ナナシズム:2010/10/24(日) 20:09:26 ID:0XhAY+PE
肉体の外に人間は出られないということを精神は一度でも自覚したことがあるだろうか、
これは私がいつも考えてきたことであります。なぜなら、われわれは自分の肉体の外へ
一ミリも出られない。こんな不合理なことがあるだろうか。
おれの作品は何万年という時間の持続との間にある一つの持続なんだ。ぼくは空間を
意図しないけれども、時間を意図している。
文化というものは一つの長い時間の集積でもってここにまた自分の中に続いている。
外在すると同時に内在するその中から自分がセレクトするというのが自分の現在一瞬一瞬の
行為である。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
252 :
ナナシズム:2010/10/24(日) 20:10:47 ID:0XhAY+PE
私にとっては、関係性というものと、自己超越性――超時間性といいましたかな、
そういうものと初めから私の中で癒着している。これを切り離すことはできない。
初めから癒着しているところで芸術作品ができているから、別の癒着の形として
行動も出てくる。
言葉は言葉を呼んで、翼をもってこの部屋の中を飛び廻ったんです。この言霊がどっかに
どんなふうに残るか知りませんが、私がその言葉を、言霊をとにかくここに残して
私は去っていきます。
三島由紀夫「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘――美と共同体と東大闘争」より
253 :
ナナシズム:2010/10/27(水) 23:07:38 ID:xwmB63AR
近松も西鶴も芭蕉もゐない昭和元禄には、華美な風俗だけが跋扈してゐる。情念は涸れ、強靭なリアリズムは
地を払ひ、詩の深化は顧みられない。すなはち、近松も西鶴も芭蕉もゐない。われわれの生きてゐる時代が
どういふ時代であるかは、本来謎に充ちた透徹である筈にもかかはらず、謎のない透明さとでもいふべきもので
透視されてゐる。
どうしてかういふことが起つたか、といふことが私の久しい疑問であつた。外延から説明する、工業化や
都市化現象から説明する、人間関係の断絶や疎外から説明する、あらゆる社会心理学的方法や、一方、
精神分析的方法にわれわれは飽きてゐる。それは殺人が起つたあとで、殺人者の生ひ立ちを研究するやうなものだ。
何かが絶たれてゐる。豊かな音色が溢れないのは、どこかで断弦の時があつたからだ。そして、このやうな
創造力の涸渇に対応して、一種の文化主義は世論を形成する重要な因子になつた。正に文化主義は世をおほうて
ゐる。それは、ベトベトした手で、あらゆる文化現象の裏側にはりついてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
254 :
ナナシズム:2010/10/27(水) 23:09:29 ID:xwmB63AR
文化主義とは一言を以てこれを覆へば、文化をその血みどろの母胎の生命や生殖行為から切り離して、何か
喜ばしい人間主義的成果によつて判断しようとする一傾向である。そこでは、文化とは何か無害で美しい、
人類の共有財産であり、プラザの噴水の如きものである。
フラグメントと化した人間をそのまま表現するあらゆる芸術は、いかに陰惨な題材を扱はうとも、その断片化
自体によつて救はれて、プラザの噴水になつてしまふ。全体的人間の悲惨は、フラグメントの加算からは
証明されないからである。われわれは単なるフラグメントだと思つてわれわれ自身に安心する。
悲惨も、いかなる悲惨であらうとも、断片の範囲を出ないからであり、脱出はわれわれの能力外のところではあるが、
立派にのこされてゐるからであり、われわれの不能に酔ふことと脱出に酔ふこととは一致してゐるからである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
255 :
ナナシズム:2010/10/27(水) 23:11:36 ID:xwmB63AR
日本文化とは何かといふ問題に対しては、終戦後は外務官僚や文化官僚の手によつてまことに的確な答が与へられた。
それは占領政策に従つて、「菊と刀」の永遠の連環を絶つことだつた。平和愛好国民の、華道や茶道の
心やさしい文化は、威嚇的でない、しかし大胆な模様化を敢てする建築文化は、日本文化を代表するものになつた。
そこには次のやうな、文化の水利政策がとられてゐた。すなはち、文化を生む生命の源泉とその連続性を、
種々の法律や政策でダムに押し込め、これを発電や灌漑にだけ有効なものとし、その氾濫を封じることだつた。
すなはち「菊と刀」の連環を絶ち切つて、市民道徳の形成に有効な部分だけを活用し、有害な部分を抑圧する
ことだつた。占領政策初期にとられた歌舞伎の復讐のドラマの禁止や、チャンバラ映画の禁止は、この政策の
もつともプリミティヴな、直接的なあらはれである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
256 :
ナナシズム:2010/10/27(水) 23:13:47 ID:xwmB63AR
そのうちに占領政策はこれほどプリミティヴなものではなくなつた。禁止は解かれ、文化は尊重されたのである。
それは種々の政治的社会的変革の成功と時期を一にしてをり、文化の源泉へ退行する傾向は絶たれたと考へられた
からであらう。文化主義はこのときにはじまつた。すなはち、何ものも有害でありえなくなつたのである。
(中略)しかしこれはもともと、大正時代の教養主義に培はれたものの帰結であつた。日本文化は外国に対しては
日本の免罪符になり、国内に対しては平和的福祉価値と結合した。福祉価値と文化を短絡する思考は、大衆の
ヒューマニズムに基づく、見せかけの文化尊重主義の基盤になつた。
われわれが「文化を守る」といふときに想像するものは、博物館的な死んだ文化と、天下泰平の死んだ生活との
二つである。その二つは融合され、安全に化合してゐる。その化合物がわれわれを悩ますが、しかし、文化に
対する、ものとしての、文化財としての、文化的遺産としての尊敬は、民主主義国、社会主義国(中共のやうな
極端な例外を除いて)を問はないのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
257 :
ナナシズム:2010/10/27(水) 23:16:34 ID:xwmB63AR
(中略)
(社会主義的文化政策は)文化の形式と内容は分離可能なもの考へられてをり、形式自体は無害であるから、
これに有用な内容を盛ることができるとされ、極端な場合は江青女史の京劇改革のごときものも可能になる
ところの理論的根拠がほの見えてゐる。
しかし、単にものとして残された安全な文化財については、レニングラード・バレエがソヴエトにとつて
有害でないやうに、歌舞伎も、能も、あらゆる伝統的日本文化も、一応有害ではないのである。それはむしろ
有益な観光資源であり、芸術院会員の歌舞伎俳優は、一転して、忽ち人民芸術家の称号を与へられるであらう。
(中略)アマチュアの創造する文化は、既成職業人の創造する文化よりも、はるかに規制しやすいといふ認識が
ここ(働くものが文化をつくる)には含まれてをり、社会主義国家が発表機関を独占すれば、ことさらな
言論統制を強行しなくても、一般アマチュアの発表慾と虚栄心に訴へかけて、それと引きかへに、内容を
規制することが容易なのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
258 :
ナナシズム:2010/10/27(水) 23:20:57 ID:xwmB63AR
しかし、社会主義が厳重に管理し、厳格に見張るのは、現に創造されつつある文化についてであるのは言ふ
までもない。これについては決して容赦しないことは、歴史が証明してゐる。(中略)
何らかの政治的規制が文化の衰弱を防ぐといふ口実をゆるすところが、文化自体の包含する矛盾であり、
文化と自由との間の永遠の矛盾である。(中略)
が、いはゆる自由陣営の文化主義と、社会主義国の安全な文化財に対する尊重とは、いづれも一見、伝統の
擁護と保持の外見をとるがゆゑに、もつとも握手しやすい部分であると思はれる。
いづれの立場からも文化は形成された〈もの〉として見られてゐる。その結果何が起るかについては、中世以来の
建築的精華に充ちたパリの破壊を免かれるために、これを敵の手に渡したペタンの行為によくあらはれてゐる。
(中略)国民精神を代償として、パリの保存を購つたのである。このことは明らかに国民精神に荒廃をもたらしたが、
それは目に見えぬ破壊であり、目に見える破壊に比べたら、はるかに恕しうるものだつた!
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
259 :
ナナシズム:2010/10/27(水) 23:23:30 ID:xwmB63AR
このやうな文化主義は、一度引つくりかへせば、中共文化大革命のやうな目に見えぬ革命精神の形成のために、
目に見える一切の文化を破壊する「逆の文化主義」「裏返しの文化主義」に通じるのであり、それは、ほとんど
一枚の銅貨の裏表である。私はテレヴィジョンでごく若い人たちと話した際、非武装平和を主張するその一人が、
日本は非武装平和に徹して、侵入する外敵に対しては一切抵抗せずに皆殺しにされてもよく、それによつて
世界史に平和憲法の理想が生かされればよいと主張するのをきいて、これがそのまま、戦場中の一億玉砕思想に
直結することに興味を抱いた。一億玉砕思想は、目に見えぬ文化、国の魂、その精神的価値を守るためなら、
保持者自身が全滅し、又、目に見える文化のすべてが破壊されてもよい、といふ思想である。
戦時中の現象は、あたかも陰画と陽画のやうに、戦後思想へ伝承されてゐる。このやうな逆文化主義は、前にも
言つたやうに、戦後の文化主義と表裏一体であり、文化といふもののパラドックスを交互に証明してゐるのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化主義と逆文化主義」より
260 :
ナナシズム:2010/10/29(金) 12:17:31 ID:yYDH2o+6
第一に、文化は、ものとしての帰結を持つにしても、その生きた態様においては、ものではなく、又、発現以前の
無形の国民精神でもなく、一つの形(フォルム)であり、国民精神が透かし見られる一種透明な結晶体であり、
いかに混濁した形をとらうとも、それがすでに「形」において魂を透かす程度の透明度を得たものであると
考へられ、従つて、いはゆる芸術作品のみでなく、行動及び行動様式をも包含する。文化とは、能の一つの型から、
月明の夜ニューギニアの海上に浮上した人間魚雷から日本刀をふりかざして躍り出て戦死した一海軍士官の行動をも
包括し、又、特攻隊の幾多の遺書をも包含する。源氏物語から現代小説まで、万葉集から前衛短歌まで、中尊寺の
仏像から現代彫刻まで、華道、茶道から、剣道、柔道まで、のみならず、歌舞伎からヤクザのチャンバラ映画まで、
禅から軍隊の作法まで、すべて「菊と刀」の双方を包摂する、日本的なものの透かし見られるフォルムを斥(さ)す。
文学は、日本語の使用において、フォルムとしての日本文化を形成する重要な部分である。
三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
261 :
ナナシズム:2010/10/29(金) 12:18:53 ID:yYDH2o+6
日本文化から、その静態のみを引き出して、動態を無視することは適切ではない。日本文化は、行動様式自体を
芸術作品化する特殊な伝統を持つてゐる。武道その他のマーシャル・アートが茶道や華道の、短い時間のあひだ
生起し継続し消失する作品形態と同様のジャンルに属してゐることは日本の特色である。武士道は、このやうな、
倫理の美化、あるひは美の倫理化の体系であり、生活と芸術の一致である。能や歌舞伎に発する芸能の型の重視は、
伝承のための手がかりをはじめから用意してゐるが、その手がかり自体が、自由な創造主体を刺戟するフォルム
なのである。フォルムがフォルムを呼び、フォルムがたえず自由を喚起するのが、日本の芸能の特色であり、
一見もつとも自由なジャンルの如く見える近代小説においても、自然主義以来、そのときどきの、小説的フォルムの
形成に払はれた努力は、無意識ながら、思想形成に払はれた努力に数倍してゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
262 :
ナナシズム:2010/10/29(金) 12:20:48 ID:yYDH2o+6
第二に、日本文化は、本来オリジナルとコピーの弁別を持たぬことである。西欧ではものとしての文化は主として
石で作られてゐるが、日本のそれは木で作られてゐる。オリジナルの破壊は二度とよみがへらぬ最終的破壊であり、
ものとしての文化はここに廃絶するから、パリはそのやうにして敵に明け渡された。
(中略)
このもつとも端的な例を伊勢神宮の造営に見ることが出来る。持統帝以来五十九回に亘る二十年毎の式年造営は、
いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであつて、オリジナルはその時点においてコピーに
オリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。大半をローマ時代のコピーに
たよらざるをえぬギリシア古典期の彫刻の負うてゐるハンディキャップと比べれば、伊勢神宮の式年造営の
文化概念のユニークさは明らかであらう。歌道における「本歌取り」の法則その他、この種の基本的文化概念は
今日なほわれわれの心の深所を占めてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
263 :
ナナシズム:2010/10/29(金) 12:22:51 ID:yYDH2o+6
このやうな文化概念の特質は、各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神(あまてらすおほみかみ)と
オリジナルとコピーの関係にはないところの天皇制の特質と見合つてゐるが、これについては後に詳述する。
第三に、かくして創り出される日本文化は、創り出す主体の側からいへば、自由な創造的主体であつて、型の
伝承自体、この源泉的な創造的主体の活動を振起するものである。これが、作品だけではなく、行為と生命を
包含した文化概念の根底にあるもので、国民的な自由な創造的主体といふ源泉との間がどこかで絶たれれば、
文化的な涸渇が起るのは当然であつて、文化の生命の連続性(その全的な容認)といふ本質は、弁証法的発展
乃至進歩の概念とは矛盾する。なぜならその創造主体は、歴史的条件の制約をのりこえて、時に身をひそめ、
時に激発して(偶然にのこされた作品の羅列による文化史ではなくて)、国民精神の一貫した統一的な文化史を
形成する筈だからである。
三島由紀夫「文化防衛論 日本文化の国民的特色」より
264 :
ナナシズム:2010/10/31(日) 15:01:32 ID:stkSDkx3
日本人にとつての日本文化は次のやうな三つの特質を有することになるが、これはフランス人にとつての
フランス文化も、同種の特質を有すると考へてよからう。すなはち国民文化の再帰性と全体性と主体性である。
真のギリシア人のゐないギリシアに残された廃墟は、ギリシア人にとつては、そこから自己の主体へ再帰する
何ものもない美の完結した〈もの〉であつて、ギリシアの廃墟からの文化の生命の連続性を感じうるのは、
むしろヨーロッパ人の特権になつてゐる。しかし日本人にとつての日本文化とは、源氏物語が何度でも現代の
われわれの主体に再帰して、その連続性を確認させ、新しい創造の母胎となりうるやうに、ものとしての
それ自体の美学的評価をのりこえて、連続性と再帰性を喚起する。これこそが伝統と人の呼ぶところのものであり、
私はこの意味で、明治以来の近代文学史を古典文学史から遮断する文学史観に大きな疑問を抱くものである。
文化の再帰性とは、文化がただ「見られる」ものではなくて、「見る」者として見返してくる、といふ認識に
他ならない。
三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より
265 :
ナナシズム:2010/10/31(日) 15:02:38 ID:stkSDkx3
又、「菊と刀」のまるごとの容認、倫理的に美を判断するのではなく、倫理を美的に判断して、文化をまるごと
容認することが、文化の全体性の認識にとつて不可欠であつて、これがあらゆる文化主義、あらゆる政体の
文化政策的理念に抗するところのものである。文化はまるごとみとめ、これをまるごと保持せねばならぬ。
文化には改良も進歩も不可能であつて、そもそも文化に修正といふことはありえない。これがありうるといふ
妄信は戦後しばらくの日本を執拗に支配してゐた。
又、文化は、ぎりぎりの形態においては、創造し保持し破壊するブラフマン・ヴィシュヌ・シヴァのヒンズー三神の
三位一体のやうな主体性においてのみ発現するものである。これについて、かつて戦時中、丹羽文雄氏の
「海戦」を批判して、海戦の最中これを記録するためにメモをとりつづけるよりも、むしろ弾丸運びを
手つだつたはうが真の文学者のとるべき態度だと言つた蓮田善明氏の一見矯激な考へには、
深く再考すべきものが含まれてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より
266 :
ナナシズム:2010/10/31(日) 15:03:52 ID:stkSDkx3
それが証拠に、戦後ただちに海軍の暴露的小説「篠竹」を書いた丹羽氏は当時の氏の本質は精巧なカメラであつて、
主体なき客観性に依拠してゐたことを自ら証明したからである。文学の主体性とは、文化的創造の主体の自由の
延長上に、あるひは作品、あるひは行動様式による、その時、その時の、最上の成果へ身を挺することであるべき
だからである。そして日本文化は、そのためのあらゆる文化的可能性をのこしてゐるからである。
以上三つの再帰性、全体性、主体性による文化概念の定義は、おのづから文化を防衛するにはいかにあるべきか、
文化の真の敵は何かといふ考察を促すであらう。
三島由紀夫「文化防衛論 国民文化の三特質」より
267 :
ナナシズム:2010/11/04(木) 12:42:31 ID:h35I0Bn6
体を通してきて、行動様式を学んで、そこではじめて自分のオリジナルをつかむといふ日本人の文化概念、
といふよりも、文化と行動を一致させる思考形式は、あらゆる政治形態の下で、多少の危険性を孕むものと
見られてゐる。政治体制の掣肘の甚だしい例は戦時中の言論統制であるが、源氏を誨淫の書とする儒学者の思想は、
江戸幕府からずつとつづいてゐた。それはいつも文化の全体性と連続性をどこかで絶つて工作しようといふ政策で
あつた。しかし文化自体を日本人の行動様式の集大成と考へれば、それをどこかで絶つて、ここから先はいけない、
と言ふことには無理がある。努力はむしろつねに、全体性と連続性の全的な容認と復活による、文化の回生に
向けられるべきなのであるが、現代では、「菊と刀」の「刀」が絶たれた結果、日本文化の特質の一つでもある、
際限もないエモーショナルなだらしなさが現はれてをり、戦時中は、「菊」が絶たれた結果、別の方向に欺瞞と
偽善が生じたのであつた。つねに抑圧者の側のヒステリカルな偽善の役割を演ずることは、戦時中も現在も
変りがない。
三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
268 :
ナナシズム:2010/11/04(木) 12:43:44 ID:h35I0Bn6
ものとしての文化の保持は、中共文化大革命のやうな極端な例を除いては、いかなる政体の文化主義に委ねて
おいても大して心配はない。文化主義はあらゆる偽善をゆるし、岩波文庫は「葉隠」を復刻するからである。
しかし、創造的主体の自由と、その生命の連続性を守るには政体を選ばなければならない。ここに何を守るのか、
いかに守るのか、といふ行動の問題がはじまるのである。
守るとは何か? 文化が文化を守ることはできず、言論で言論を守らうといふ企図は必ず失敗するか、単に
目こぼしをしてもらふかにすぎない。「守る」とはつねに剣の原理である。
守るといふ行為には、かくて必ず危険がつきまとひ、自己を守るのにすら自己放棄が必須になる。平和を守るには
つねに暴力の用意が必要であり、守る対象と守る行為との間には、永遠のパラドックスが存在するのである。
文化主義はこのパラドックスを回避して、自らの目をおほふ者だといへよう。
三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
269 :
ナナシズム:2010/11/04(木) 12:45:40 ID:h35I0Bn6
(中略)力が倫理的に否定されると、次には力そのものの無効性を証明する必要にかられるのは、実は恐怖の
演ずる一連の心理的プロセスに他ならない。(中略)そこ(文化主義が暴力否定から国家権力の最終的否定に
陥る経路)では「文化」と「自己保全」とが、同じ心理的メカニズムの中で動いてゐる。すなはち、文化と
人文主義的福祉価値とは同義語になるのである。
かくて、文化主義の裡にひそむ根底的エゴイズムと恐怖の心理機構は、自己の無力を守るために、他者の力を
見ないですまさうとするヒステリックな夢想に帰結する。
冷徹な事実は、文化を守るためには、他のあらゆるものを守ると同様に力が要り、その力は文化の創造者保持者
自身にこそ属さなければならぬ、といふことである。これと同時に、「平和を守る」といふ行為と方法が、
すべて平和的でなければならぬといふ考へは、一般的な文化主義的妄信であり、戦後の日本を風靡してゐる
女性的没論理の一種である。
三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
270 :
ナナシズム:2010/11/04(木) 12:48:26 ID:h35I0Bn6
(中略)
もし守るべき対象の現状が完璧であり、博物館の何百カラットのダイヤのやうに、守られるだけの受動的存在で
あるならば、すなはち守るべき対象に生命の発展の可能性と主体が存在しないならば、このやうなものを守る行為は、
パリ開城のやうに、最終的には敗北主義か、あるひは、守られるべきものの破壊に終るであらう。従つて
「守る」といふ行為にも亦、文化と同様に再帰性がなければならない。すなはち守る側の理想像と守られる側の
あるべき姿に、同一化の機縁がなければならない。さらに一歩進んで、守る側の守られる側に対する同一化が、
最終的に成就される可能性がなければならない。博物館のダイヤと護衛との間にはこのやうな同一化の可能性は
ありえず、この種の可能性にこそ守るといふ行為の栄光の根拠があると考へられる。国家の与へうる栄光の根拠も、
この心理機構に基づく。かくて「文化を守る」といふ行為には、文化自体の再帰性と全体性と主体性への、
守る側の内部の創造的主体の自由の同一化が予定されてをり、ここに、文化の本質的な性格があらはれてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
271 :
ナナシズム:2010/11/04(木) 12:52:51 ID:h35I0Bn6
すなはち、文化はその本質上、「守る行為」を、文化の主体(といふよりは、源泉の主体に流れを汲むところの
創造的個体)に要求してゐるのであり、われわれが守る対象は、思想でも政治体制でもなくて、結局このやうな意味の
「文化」に帰着するのである。文化自体が自己放棄を要求することによつて、自己の超越的契機になるのは
この地点である。
従つて、文化は自己の安全を守るといふエゴイズムからの脱却を必然的に示唆する。現在、平和憲法を守ることが、
一方では、階級闘争の錦の御旗になり、闘争とは縁のない、感情的平和主義者、日和見主義者、あらゆる
戦ひの放棄による自己保全を夢みるマイ・ホーム主義者、戦争に対する生理的嫌悪に固執する婦人層などの、
自己保全派の支持層に広汎に支へられてゐるといふ事情は、イデオロギッシュな自己放棄派が、心情的自己保全派に
支持されてゐるといふ矛盾を犯してゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 何に対して文化を守るか」より
272 :
ナナシズム:2010/11/05(金) 11:05:09 ID:qANRqMai
文化における生命の自覚は、生命の法則に従つて、生命の連続性を守るための自己放棄といふ衝動へ人を促す。
自我分析と自我への埋没といふ孤立から、文化が不毛に陥るときに、これからの脱却のみが、文化の蘇生を
成就すると考へられ、蘇生は同時に、自己の滅却を要求するのである。このやうな献身的契機を含まぬ文化の、
不毛の自己完結性が、「近代性」と呼ばれたところのものであつた。そして自我滅却の栄光の根拠が、守られるものの
死んだ光輝にあるのではなくて、活きた根源的な力(見返す力)に存しなければならぬ、といふことが、文化の
生命の連続性のうちに求められるのであれば、われわれの守るべきものはおのづから明らかである。かくて、
創造することが守ることだといふ、主体と客体の合一が目賭されることは自然であらう。文武両道とはそのやうな
思想である。現状肯定と現状維持ではなくて、守ること自体が革新することであり、同時に、「生み」「成る」
ことなのであつた。
三島由紀夫「文化防衛論 創造することと守ることの一致」より
273 :
ナナシズム:2010/11/05(金) 11:06:20 ID:qANRqMai
さて、守るとは行動であるから、一定の訓練による肉体的能力を具へねばならぬ。台湾政府の要人が、多く
少林寺拳法の達人であると私はきいたが、日本の近代文化人の肉体鍛錬の不足と、病気と薬品のみを通じて肉体に
関心を持つ傾向は、日本文学を痩せさせ、その題材と視野を限定した。私は、明治以来のいはゆる純文学に、
剣道の場面が一つもあらはれないことを奇異に感じる。(中略)肺結核の登場人物は減少したが、依然として、
そこには不眠症患者、ノイローゼ患者、不能者、皮下脂肪の沈積したぶざまな肉体、癌患者、胃弱体質、感傷家、
半狂人、などの群がり集まつた天国なのである。戦ふことのできる人間は極めて稀である。病気及び肉体的不健康が
形而上学的意味を賦与されたロマンティスムから世紀末にいたる古い固定観念は、一向癒やされてゐないのみならず、
こんな西欧的観念は、時には時世に媚びて、民俗学的仮装であらはれたりする。このことが行動を不当に
蔑視させたり、危険視させたり、あるひは逆に過大評価させたりする弱者の生理的理由にさへなつてゐるのである。
三島由紀夫「文化防衛論 創造することと守ることの一致」より
274 :
ナナシズム:2010/11/08(月) 11:48:40 ID:biwzkvRL
さて、「菊と刀」を連続させ、もつとも崇高なものから卑近なものにまで及び、文化主義者のいはゆる「危険性」を
避けないところの文化概念の母胎は、何らかの共同体でなければならないが、日本の共同体原理は戦後バラバラに
されてしまつた。血族共同体と国家との類縁関係はむざんに絶たれた。しかしなほ共同体原理は、そこかしこで、
エモーショナルな政治反応をひきおこす最大の情動的要素になつてゐる。それが今日、民族主義と呼ばれる
ところのものである。よかれあしかれ、新しい共同体原理がこれを通して呼び求められてゐることは明らかであらう。
戦後の民族主義はほぼ四段階の経過を辿つたといふのが、私の大まかな観察である。
戦後しばらく、占領下の民族主義は国家観念の明らかな崩壊の状況下に社会革命なるものと癒着してゐるやうな
外見を呈した。(中略)吉田内閣は、国民総体の欺瞞へのよろこびを代表してゐた。占領に対する欺瞞的抵抗が、
民族主義のひそかな、語られざる満足になり、一方、大声の、公然たる民族主義は、革命の空想と癒着した。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
275 :
ナナシズム:2010/11/08(月) 11:50:36 ID:biwzkvRL
(中略)
池田内閣のあのやうなふしだらな消費政策がはからざる逆効果をもたらし、オリンピックにおいて、平和憲法と
民族主義との戦後最大の握手が国家の司祭によつて成功した。これは一つの国家による、そして国民による、
民族主義的達成のピークであつた。しかし安保条約下における民族主義といふ制約は、民族主義そのものの質の
変化を正にこのときひそかに要求してゐた。佐藤内閣は、いろんな面で、「正直な内閣」たらざるをえぬ宿命を
担つてゐた。国会の防衛論争が正に破綻に瀕せんとする寸前に、オリンピック選手円谷の自刃が起つたことは
象徴的である。国家権力は、再び、民族主義に、それのみが国家が民族主義に寄与することのできる贈物で
あるところの国家的栄冠を与へることに失敗しつつある。
第三次の民族主義は、エンタープライズ事件を一つの曲り角として、再び「ナショナリズムの糖衣をかぶつた
インターナショナリズム」の登場を許したと思はれる。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
276 :
ナナシズム:2010/11/08(月) 11:53:10 ID:biwzkvRL
エンタープライズ事件における三派全学連の行動は、日本におけるナショナリズムとインターナショナリズムの
「見る者」と「見られる者」の分離を明確にした注目すべきモメントを形成した。すなはち、米軍基地の存在が
過去の自民党政府の民族主義の昂揚によつて却つて、自立の感情を刺戟し、国民心理に無形の負担を感ぜしめ、
又、国会の防衛論争において、「自主防衛」の具体的方策を執拗に問はれた佐藤首相が、「自主防衛とは
すなはち三次防を行ふことだ」(十二月九日国会答弁)と答へた瞬間に、論争はその論理的発展を失つて単なる
政争の場面へ顛落し、国民の自主防衛意識は精神的支柱を失つて政治的プラグマティズムへ直結され、却つて
米軍基地の柵をのりこえた日本青年といふ象徴的事件が、国民のエモーショナルな欲求の一斑を満足させて、
民族主義を一つの曲り角へ導いたのである。このやうなターニング・ポイントは、実はヴィエトナム戦争によつて
長期間に養成されたものであつた。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
277 :
ナナシズム:2010/11/08(月) 11:55:00 ID:biwzkvRL
すなはち、ヴィエトナム戦争への感傷的人道主義的同情は、民族主義とインターナショナリズムの癒着を無意識の
うちに醸成し、反政府的感情とこれが結合して、一つの類推を成立させた。類推とは、他民族の自立感情に対する
感情移入を以て、自民族の自立感情のフラストレーションの解決をはかるといふ代償行為である。そこでは
厳密に言つて、近代国家の形成を経ぬヴィエトナムの民族主義とわが民族主義との歴史的諸条件の差異、
民族主義にとつての本質的な差異は看過されてをり、又、インターナショナリズムの連帯と同情や感傷による
連帯との本質的な弁別は、無視されるか、あるひはカヴァーされてゐる。(中略)
彼ら(三派全学連)は上陸した米軍兵士を殺すわけでもなく、基地内の米軍兵士に射たれたわけでもなかつた。
ただ強引に「見られる民族主義」を演じるといふその象徴行為は、彼らの「作られた民族主義」の側面を露呈した。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
278 :
ナナシズム:2010/11/08(月) 11:56:56 ID:biwzkvRL
インターナショナリズムによつて国家を否定し、ナショナリズムによつて民族を肯定しようといふその政治目的は、
その否定と肯定が同義語になるやうな決定的モメント、すなはち革命を暗示するには足りず、却つて、その分離の
様相を明確にしたのである。(中略)
「かれら」の文化は、民族主義とインターナショナリズムの国家超克との結合点としてとらへられるであらう。
これは文化主義のもつとも先鋭な政治的利用の方式であり、文化主義そのものが内包してゐる「人類の文化」概念の、
民族主義的下部構造からの再構成である。この種の動きは、小規模ではあるが、日本の新劇運動に深く浸潤してゐる。
その依つて立つ共同体理念である民族主義自体が、共同体の意味の移管を暗示するやうに「作られて」ゐるのである。
しかし、何はともあれ、共産主義にとつてもファシズムにとつても、もつとも利用しやすい民族主義が、目下の
ところ、国家に代つて共同体意識の基本単位と目されてゐるだけに、民族主義のみに依拠する危険は日ましに
募つてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
279 :
ナナシズム:2010/11/08(月) 12:00:44 ID:biwzkvRL
民族主義とは、本来、一民族一国家、一個の文化伝統・言語伝統による政治的統一の熱情に他ならない。(中略)
では、日本にとつての民族主義とは何であらうか? 自主独立へのエモーショナルな熱望は、必ずしも民族主義と
完全に符合するわけではない。(中略)言語と文化伝統を共有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげて
をり、われわれの文化の連続性は、民族と国との非分離にかかつてゐる。そして皮肉なことには、敗戦によつて
現有領土に押し込められた日本は、国内に於ける異民族問題をほとんど持たなくなり、アメリカのやうに一部民族と
国家の相反関係や、民族主義に対して国家が受け身に立たざるをえぬ状況といふものを持たないのである。
従つて異民族問題をことさら政治的に追及するやうな戦術は、作られた緊張の匂ひがするのみならず、国を
現実の政治権力の権力機構と同一し、ひたすら現政府を「国民を外国へ売り渡す」買辧政権と規定することに
熱意を傾け、民族主義をこの方向へ利用しようと力めるのである。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
280 :
ナナシズム:2010/11/08(月) 12:02:14 ID:biwzkvRL
しかし前にも言つたやうに、日本には、現在、シリアスな異民族問題はなく、又、一民族一文化伝統による
政治的統一への悲願もありえない。それは日本の歴史において、すでに成しとげられてゐるものだからである。
もしそれがあるとすれば、現在の日本を一民族一文化伝統の政治的統一を成就せぬところの、民族と国との
分離状況としてとらへてゐるのであり、民族主義の強調自体が、この分離状況の強調であり、終局的には、
国を否定して民族を肯定しようとする戦術的意図に他ならない。すなはち、それは非分離を分離へ導かうとする
ための「手段としての民族主義」なのである。
(中略)
前述したやうに、第三次の民族主義は、ヴィエトナム戦争によつて、論理的な継目をぼかされながら育成され、
最後に分離の様相を明らかにしたが、ポスト・ヴィエトナムの時代は、この分離を、沖縄問題と朝鮮人問題に
よつて、さらに明確にするであらう。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
281 :
ナナシズム:2010/11/09(火) 10:42:54 ID:1di5hJgA
社会的な事件といふものは、古代の童話のやうに、次に来るべき時代を寓意的に象徴することがままあるが、
金嬉老事件は、ジョンソン声明に先立つて、或る時代を予言するやうなすこぶる寓意的な起り方をした。それは
三つの主題を持つてゐる。すなはち、「人質にされた日本人」といふ主題と、「抑圧されて激発する異民族」
といふ主題と「日本人を平和的にしか救出しえない国家権力」といふ主題と、この三つである。第一の問題は、
沖縄や新島の島民を、第二の問題は朝鮮人問題そのものを、第三の問題は、現下の国家権力の平和憲法と
世論による足カセ手カセを、露骨に表象してゐた。そしてここでは、正に、政治的イデオロギーの望むがままに
変容させられる日本民族の相反するイメージ――外国の武力によつて人質にされ抑圧された平和的な日本民族といふ
イメージと、異民族の歴史の罪障感によつて権力行使を制約される日本民族といふイメージ――が二つながら
典型的に表現されたのである。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
282 :
ナナシズム:2010/11/09(火) 10:44:47 ID:1di5hJgA
前者の被害者イメージは、朝鮮民族と同一化され、後者の加害者イメージは、ヴィエトナム戦争を遂行する
アメリカのイメージにだぶらされた。
しかし戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、リフュジー(難民)の
問題であつても、日本国内の問題ではありえない。これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、
明らかに政治的意図があつて、先進工業国における革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。
そこには、しかし、日本の民族主義との矛盾が論理的に存在するにもかかはらず、ヴィエトナム戦争とアメリカの
黒人暴動とが、かかる「手段としての民族主義」を、ヒューマニズムの仮面の下に、正当化したのである。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
283 :
ナナシズム:2010/11/09(火) 10:45:38 ID:1di5hJgA
手段としての民族主義はこれを自由に使ひ分けながら、沖縄問題や新島問題では、「人質にされた日本人」の
イメージを以て訴へかけ、一方、起りうべき朝鮮半島の危機に際しては、民族主義の国際的連帯感といふ
論理矛盾を、再び心情的に前面に押し出すであらう。被害者日本と加害者日本のイメージを使ひ分けて、
民族主義を領略しようと企てるであらう。しかしながら、第三次の民族主義における分離の様相はますます
顕在化し、同時に、ポスト・ヴィエトナムの情勢は、保守的民族主義の勃興を促し、これによつて民族主義の
左右からの奪ひ合ひは、ますます先鋭化するであらう。
三島由紀夫「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
284 :
ナナシズム:2010/11/10(水) 12:24:53 ID:DUNc1CrP
叙上の如く、日本では戦後真の異民族問題はなく、左右いづれの側にとつても、同民族の合意の形成が目標で
あることはいふまでもないが、同民族の合意とは、少なくとも日本においては、日本がその本来の姿に目ざめ、
民族目的と国家目的が文化概念に包まれて一致することである。その鍵は文化にだけあるのである。又、その
文化の母胎としての共同体原理も、このやうな一致にしかない。
そもそも文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との完全な対立概念であるが、ここには詩と政治との
もつとも古い対立がひそんでゐる。文化を全体的に容認する政体は可能かといふ問題は、ほとんど、エロティシズムを
全体的に容認する政体は可能かといふ問題に接近してゐる。
左右の全体主義の文化政策は、文化主義と民族主義の仮面を巧みにかぶりながら、文化それ自体の全体性を敵視し、
つねに全体性の削減へ向ふのである。言論自由の弾圧の心理的根拠は、あらゆる全体性に対する全体主義の
嫉妬に他ならない。全体主義は「全体」の独占を本質とするからである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
285 :
ナナシズム:2010/11/10(水) 12:27:31 ID:DUNc1CrP
文化の全体性には、時間的連続性と空間的連続性が不可欠であらう。前者は伝統と美と趣味を保障し、後者は
生の多様性を保障するのである。言論の自由は、前者についてはともかく、後者については、間然するところの
ない保護者である。
もちろん言論の自由は絶対的価値ではなく、それ自体が時には文化を腐敗させることは現下の日本に見るとほりで
あり、ともすると言論の自由が文化の創造的伝統的性格とヒエラルヒーを失はせ、文化の全体性の平面のみを
支持して、全体性の立体性を失はせる欠点があるけれども、相対的にはこれ以上よいものは見当らず、これ以上、
相手方に対する思想的寛容といふ精神的優越性を保たせるものはない。かくて言論の自由は文化の全体性を
支へる技術的要件であると共に、政治的要件である。言論の自由を保障する政体の選択が、プラクティカルな
選択として最善のものとなるのはこの理由からである。文化の第一の敵は、言論の自由を最終的に保障しない
政治体制に他ならない。
三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
286 :
ナナシズム:2010/11/10(水) 12:30:31 ID:DUNc1CrP
しかし、言論の自由は本質的に無倫理的であり、それ自体が相対主義の上に成立つた政治技術的概念であるから、
いはゆる自由陣営に属することの相対的選択を、国是と同一視する安保条約の思想は、薄弱な倫理的根拠をしか
持ちえぬのは当然であり、それは今後ますますその力を失ふであらう。
言論の自由と代議制民主主義とが折れ合ふのは、正にこの相対主義的理念に於てであり、いかなる汚ない言葉も
一度は言はれねばならない、といふところから精神の尊卑をおのづから弁別せしめるのであるが、その最終的
勝利にはいつも時間がかかり、過程においては、趣味の低下、美の平価切下を免れない。それは言論の自由が
本質的に、文化の全体性のうち、その垂直面、すなはち時間的連続性には関はらないからである。しかも自由の
非自由に対する優位は、非自由の速攻性と外面的権威に対してハンディキャップを負ふ一方、自由そのものが、
政治宣伝技術上イデオロギー化のきはめて困難な政治概念であるため、危機に臨んでは、無理なイデオロギー化に
よつて足をとられやすい。
三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
287 :
ナナシズム:2010/11/10(水) 12:32:15 ID:DUNc1CrP
そこで自由諸国といへども、内部から全体主義に蝕まれる惧れをなしとしないのは、幾多の実例に見るとほりである。
「民主政治の信者は……共産主義者よりも、自分の考えがちなことすべてについて無意識である」とパーキンソンは
その「政治法則」の中で言つてゐる。「たとへば、彼らの宗教はかならずしも一冊の聖なる書物による宗教ではない。
彼らは、あいまいな歴史知識にもとづいて議論しがちだ。(中略)政治の理論と実際を討議するどんな場合にも
君主政治もしくは寡頭政治にまったく長所がないと否定するのは、バカげたことであらう」
かくて言論の自由が本来保障すべき、精神の絶対的優位の見地からは、文化共同体理念の確立が必要とされ、
これのみがイデオロギーに対抗しうるのであるが、文化共同体理念は、その絶対的倫理的価値と同時に、文化の
無差別包括性を併せ持たねばならぬ。ここに文化概念としての天皇が登場するのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化の全体性と全体主義」より
288 :
ナナシズム:2010/11/12(金) 11:08:49 ID:dkvemJv0
国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるところの天皇は、日本の
近代史においては、一度もその本質である「文化概念」としての形姿を如実に示されたことはなかつた。
このことは明治憲法国家の本質が、文化の全体性の侵蝕の上に成立ち、儒教道徳の残滓をとどめた官僚文化によつて
代表されてゐたことと関はりがある。私は先ごろ仙洞御所を拝観して、こののびやかな帝王の苑池に架せられた
明治官僚補綴の石橋の醜悪さに目をおほうた。
すなはち、文化の全体性、再帰性、主体性が、一見雑然たる包括的なその文化概念に、見合ふだけの価値自体
(ヴェルト・アン・ジッヒ)を見出すためには、その価値自体からの演繹によつて、日本文化のあらゆる末端の
特殊事実までが推論されなければならないが、明治憲法下の天皇制機構は、ますます西欧的な立憲君主政体へと
押しこめられて行き、政治的機構の醇化によつて文化的機能を捨象して行つたがために、つひにかかる演繹能力を
持たなくなつてゐたのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
289 :
ナナシズム:2010/11/12(金) 11:10:37 ID:dkvemJv0
雑多な、広汎な、包括的な文化の全体性に、正に見合ふだけの唯一の価値自体として、われわれは天皇の
真姿である文化概念としての天皇に到達しなければならない。
かつて建武中興が後醍醐天皇によつて実現したとき、それは政権の移動のみならず、王朝文化の復活を意味してゐた。
(中略)
このやうな文化概念としての天皇制は、文化の全体性の二要件を充たし、時間的連続性が祭祀につながると共に、
空間的連続性は時には政治的無秩序をさへ容認するにいたることは、あたかも最深のエロティシズムが、一方では
古来の神権政治に、他方ではアナーキズムに接着するのと照応してゐる。
「みやび」は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであつたが、非常の時には、「みやび」はテロリズムの
形態をさへとつた。すなはち、文化概念としての天皇は、国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、
無秩序の側へも手をさしのべてゐたのである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
290 :
ナナシズム:2010/11/12(金) 11:13:01 ID:dkvemJv0
もし国家権力や秩序が、国と民族を分離の状態に置いてゐるときは、「国と民族の非分離」を回復せしめようと
する変革の原理として、文化概念たる天皇が作用した。孝明天皇の大御心に応へて起つた桜田門の変の義士たちは、
「一筋のみやび」を実行したのであつて、天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきで
あつたが、西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪つてゐた。
明治憲法による天皇制は、祭政一致を標榜することによつて(明治元年十月「氷川神社を武蔵国の鎮守に為し
給へる詔」には、祭政一致の文字が歴然と見える。――西角井正慶氏著「古代祭祀と文学」)、時間的連続性を
充たしたが、政治的無秩序を招来する危険のある空間的連続性には関はらなかつた。すなはち言論の自由には
関はりなかつたのである。政治概念としての天皇は、より自由でより包括的な文化概念としての天皇を、多分に
犠牲に供せざるをえなかつた。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
291 :
ナナシズム:2010/11/12(金) 11:15:16 ID:dkvemJv0
そして戦後のいはゆる「文化国家」日本が、米占領下に辛うじて維持した天皇制は、その二つの側面をいづれも
無力化して、俗流官僚や俗流文化人の大正的教養主義の帰結として、大衆社会化に追随せしめられ、いはゆる
「週刊誌天皇制」の域にまでそのディグニティーを失墜せしめられたのである。天皇と文化は相関はらなくなり、
左右の全体主義に対抗する唯一の理念としての「文化概念たる天皇」「文化の全体性の統括者としての天皇」の
イメージの復活と定立は、つひに試みられることなくして終つた。かくて文化の尊貴が喪はれた一方、復古主義者は
単に政治概念たる天皇の復活のみを望んで来たのであつた。
とはいへ、保存された賢所の祭祀と御歌所の儀式の裡に、祭司かつ詩人である天皇のお姿は活きてゐる。御歌所の
伝承は、詩が帝王によつて主宰され、しかも帝王の個人的才能や教養とほとんどかかはりなく、民衆詩を
「みやび」を以て統括するといふ、万葉集以来の文化共同体の存在証明であり、独創は周辺へ追ひやられ、
月並は核心に輝いてゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
292 :
ナナシズム:2010/11/12(金) 11:17:39 ID:dkvemJv0
民衆詩はみやびに参与することにより、帝王の御製の山頂から一トつづきの裾野につらなることにより、国の
文化伝統をただ「見る」だけではなく、創ることによつて参加し、且つその文化的連続性から「見返」される
といふ栄光を与へられる。その主宰者たる現天皇は、あたかも伊勢神宮の式年造営のやうに、今上であらせられると
共に原初の天皇なのであつた。大嘗会と新嘗祭の秘儀は、このことをよく伝へてゐる。
文化の現存在と源泉、創造と伝承とが、このやうな形で関はり合つてゐる文化共同体としての天皇制は、
近代文化の担ひ手の意識からは一切払拭されてゐるやうに見えるけれど、われわれは宮廷風の優雅のほかには、
真に典例的な優雅の規範を持たず、文化の全体性は、自由と責任といふ平面的な対立概念の裡にではなく、
自由と優雅といふ立体的構造の裡にしかないのである。今もなほわれわれは、「菊と刀」をのこりなく内包する
詩形としては、和歌以外のものを持たない。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
293 :
ナナシズム:2010/11/12(金) 11:24:09 ID:dkvemJv0
かつて物語が歌の詞書から発展して生れたやうに、歌は日本文学の元素のごときものであり、爾余のジャンルは
その敷衍であつて、ひびき合ふ言語の影像の聨想作用にもとづく流動的構成は、今にいたるも日本文学の、
ほとんど無意識の普遍的手法をなしてゐる。宮廷詩の「みやび」と、民衆詩の「みやびのまねび」との間に
はさまれて、あらゆる日本近代文化は、その細い根無し草の営為をつづけてきたのであつた。伝統との断絶は
一見月並風なみやびとの断絶に他ならず、しかも日本の近代は、「幽玄」「花」「わび」「さび」のやうな、
時代を真に表象する美的原理を何一つ生まなかつた。天皇といふ絶対的媒体なしには、詩と政治とは、完全な
対立状態に陥るか、政治による詩的領土の併呑に終るしかなかつた。
みやびの源流が天皇であるといふことは、美的価値の最高度を「みやび」に求める伝統を物語り、左翼の
民衆文化論の示唆するところとことなつて、日本の民衆文化は概ね「みやびのまねび」に発してゐる。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
294 :
ナナシズム:2010/11/12(金) 11:27:23 ID:dkvemJv0
そして時代時代の日本文化は、みやびを中心とした衛星的な美的原理、「幽玄」「花」「わび」「さび」などを
成立せしめたが、この独創的な新生な文化を生む母胎こそ、高貴で月並なみやびの文化であり、文化の反独創性の極、
古典主義の極致の秘庫が天皇なのであつた。しかもオーソドックスの美的円満性と倫理的起源が、美的激発と
倫理的激発をたえずインスパイアするところに天皇の意義があり、この「没我の王制」が、時代時代のエゴイズムの
掣肘力であると同時に包容概念であつた。天照大神はかくて、岩戸隠れによつて、美的倫理的批判を行ふが、
権力によつて行ふのではない。速須佐之男の命の美的倫理的逸脱は、このやうにして、天照大神の悲しみの
自己否定の形で批判されるが、つひに神の宴の、鳴滸業を演ずる天宇受売命に対する、
文化の哄笑(もつとも卑俗なるもの)によつて融和せしめられる。ここに日本文化の基本的な現象形態が語られて
ゐる。しかも、速須佐之男の命は、かつては黄泉の母を慕うて、「青山を枯山なす泣き枯す」男神であつた。
菊の笑ひと刀の悲しみはすでにこれらの神話に包摂されてゐた。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
295 :
ナナシズム:2010/11/13(土) 12:14:36 ID:k/0JpNCr
速須佐之男の命は、己れの罪によつて放逐されてのち、英雄となるのであるが、日本における反逆や革命の
倫理的根源が、正にその反逆や革命の対象たる日神にあることを、文化は教へられるのである。これこそは
八咫(やたの)鏡の秘義に他ならない。文化上のいかなる反逆もいかなる卑俗も、つひに「みやび」の中に
包括され、そこに文化の全体性がのこりなく示現し、文化概念としての天皇が成立する、
といふのが、日本の文化史の大綱である。それは永久に、卑俗をも包括しつつ霞み渡る、高貴と優雅と月並の
故郷であつた。
菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から
与へられなければならない。現行憲法下法理的に可能な方法だと思はれるが、天皇に栄誉大権の実質を回復し、
軍の儀仗を受けられることはもちろん、聨隊旗も直接下賜されなければならない。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
296 :
ナナシズム:2010/11/13(土) 12:17:27 ID:k/0JpNCr
(中略)
時運の赴くところ、象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の成立を容認するかも
しれない。そのときは、代議制民主主義を通じて平和裡に、「天皇制下の共産政体」さへ成立しかねないのである。
およそ言論の自由の反対概念である共産政権乃至容共政権が、文化の連続性を破壊し、全体性を毀損することは、
今さら言ふまでもないが、文化概念としての天皇はこれと共に崩壊して、もつとも狡猾な政治的象徴として
利用されるか、あるひは利用されたのちに捨て去られるか、その運命は決つてゐる。このやうな事態を防ぐためには、
天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに確実な防止策はない。もちろん、
かうした栄誉大権的内容の復活は、政治概念としての天皇をではなく、文化概念としての天皇の復活を促すもので
なくてはならぬ。文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体だからであり、天皇が否定され、
あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の又、日本文化の真の危機だからである。
三島由紀夫「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
297 :
ナナシズム:2010/11/15(月) 12:48:00 ID:yYUetj6+
一、われわれはあらゆる革命に反対するものではない。暴力的手段たると非暴力的手段たるとを問はず、
共産主義を行政権と連結せしめようとするあらゆる企図、あらゆる行動に反対する者である。この連結の企図とは、
いはゆる民主連合政権(容共政権)の成立およびその企図を含むことはいふまでもない。国際主義的あるひは
民族主義的仮面にあざむかれず、直接民主主義方式あるひは人民戦線方式等の方法的欺瞞に惑はされず、
名目的たると実質的たるとを問はず、共産主義が行政権と連結するあらゆる態様にわれわれは反対する者である。
「共産党宣言」は次のごとく言ふ。
「共産主義者は、これまでの一切の社会秩序を強力的に顛覆することによつてのみ自己の目的が達成されることを
公然と宣言する」
われわれの護らんとするものは、わが日本の文化・歴史・伝統であるが、これらは唯物弁証法的解釈によれば、
かれらの「顛覆せんとする一切の社会秩序」に必然的に包含されるからである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
298 :
ナナシズム:2010/11/15(月) 12:51:38 ID:yYUetj6+
二、われわれは、護るべき日本の文化・歴史・伝統の最後の保持者であり、最終の代表者であり、且つその
精華であることを以て自ら任ずる。「よりよき未来社会」を暗示するあらゆる思想とわれわれは先鋭に対立する。
なぜなら未来のための行動は、文化の成熟を否定し、伝統の高貴を否定し、かけがへのない現在をして、すべて
革命への過程に化せしめるからである。自分自らを歴史の化身とし、歴史の精華をここに具現し、伝統の
美的形式を体現し、自らを最後の者とした行動原理こそ、神風特攻隊の行動原理であり、特攻隊員は
「あとにつづく者あるを信ず」といふ遺書をのこした。「あとにつづく者あるを信ず」の思想こそ、「よりよき
未来社会」の思想に真に論理的に対立するものである。なぜなら、「あとにつづく者」とは、これも亦、自らを
最後の者と思ひ定めた行動者に他ならぬからである。有効性は問題ではない。
三島由紀夫「反革命宣言」より
299 :
ナナシズム:2010/11/15(月) 12:53:25 ID:yYUetj6+
三、われわれは戦後の革命思想が、すべて弱者の集団原理によつて動いてきたことを洞察した。いかに暴力的表現を
とらうとも、それは集団と組織の原理を離れえぬ弱者の思想である。不安、懐疑、嫌悪、嫉妬を撒きちらし、
これを恫喝の材料に使ひ、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集団運動である。
空虚にして観念的な甘い理想の美名を掲げる一方、もつとも低い弱者の情念を基礎として結びつき、以て
過半数(マジョリティ)を獲得し、各小集団小社会を「民主的に」支配し、以て少数者(マイノリティ)を圧迫し、
社会の各分野へ浸透して来たのがかれらの遣口である。
われわれは強者の立場をとり、少数者から出発する。日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれの
ものである。再び、有効性は問題ではない。なぜならわれわれは、われわれの存在ならびに行動を、未来への
過程とは考へないからである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
300 :
ナナシズム:2010/11/15(月) 12:55:41 ID:yYUetj6+
(中略)
われわれは天皇の真姿を開顕するために、現代日本の代議制民主主義がその長所とする言論の自由をよしとする
ものである。なぜなら、言論の自由によつて最大限に容認される日本文化の全体性と、文化概念としての天皇制との
接点にこそ、日本の発見すべき新らしく又古い「国体」が現はれるであらうからである。
さて、かれらは、言論の自由を手段的過程的戦術的に利用し、言論の自由自体に革命を論理的に推進する
進歩的価値が内在すると主張するが、これはあやまりである。言論の自由は、人間性と政治との相互妥協の
境界線にすぎぬが、同時に人間の本能的な最低限の要求を充たすものである。(拙論「自由と権力の状況」参照)
言論の自由を保障する政体として、現在、われわれは複数政党制による議会主義的民主主義より以上のものを
持つてゐない。
この「妥協」を旨とする純技術的政治制度は、理想主義と指導者を欠く欠点を有するが、言論の自由を守るには
最適であり、これのみが、言論統制・秘密警察・強制収容所を必然的に随伴する全体主義に対抗しうるからである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
301 :
ナナシズム:2010/11/15(月) 12:57:12 ID:???
従つて、第二に、われわれは、言論の自由を守るために共産主義に反対する。
われわれは日本共産党の民族主義的仮面、すなはち、日本的方式による世界最初の、言論自由を保障する
人間主義的社会主義といふ幻影を破砕するであらう。この政治体制上の実験は、(もしそれが言葉どほりに
行はれるとしても)、成功すれば忽ち一党独裁の怖るべき本質をあらはすことは明らかだからである。
五、まづ言論闘争、経済闘争、政治闘争といふ方式はかれらの常套手段であり、「話し合ひ」の提示は、すでに
かれらの戦術にはまり込むことである。(中略)われわれの反革命は、水際に敵を邀撃することであり、その水際は、
日本の国土の水際ではなく、われわれ一人一人の日本人の魂の防波堤に在る。千万人といへども我往かんとの
気概を以て、革命大衆の醜虜に当らなければならぬ。民衆の罵詈雑言、嘲弄、挑発、をものともせず、かれらの
蝕まれた日本精神を覚醒させるべく、一死以てこれに当らなければならぬ。
われわれは日本の美の伝統を体現する者である。
三島由紀夫「反革命宣言」より
302 :
ナナシズム:2010/11/16(火) 02:34:33 ID:O5ii311u
国とか人間の歴史なんて地球の歴史からしたら一瞬でゴミだよ。命を張る価値があるのか?
余りにも視野が狭いね。
一瞬で無に帰る世界、我々の存在なんて大した意味を持たないのに、国家だの伝統だのなんら価値を持たない。
303 :
ナナシズム:2010/11/16(火) 12:10:41 ID:UQvy/yU6
(中略)
彼らの考へ方には、自分たちに都合の悪い、あるひは法則からズレた事柄が現はれると全てそれを自分の法則の例外、
あるひは除外例として一括して、法則の神聖と普遍妥当性を守ることに精力を傾けるのが常である。除外例と
例外のはうに、さらに妥当する論理の求め方をしていけば彼らの詐術はひと目で明らかになるのである。
チェコ問題一つをとつても、ソヴィエトは自由を求めるチェコ国民の動きを反革命と規定するが、チェコの側から
いへば、まさに自分たちの求めるものこそ真の革命の姿なのである。反革命といふ規定はファシズムといふ規定と
同様に、敵に投げられた戦術上の用語として、彼らの間ではおそれられてゐる。反革命の烙印を押されることは
死に等しい。しかし、われわれ外側の人間には反革命といふ言葉は何の悪罵をも意味しない。
われわれは除外例や例外少数者の問題その他のなかに、人間性の真理を発見する立場をとつてゐる。
三島由紀夫「反革命宣言」より
304 :
ナナシズム:2010/11/16(火) 12:12:30 ID:UQvy/yU6
中共革命の過程では文化大革命がなかなか終熄を見なかつた間に、少数民族問題がガンをなしてゐることが
明らかになつた。ウィグル地方の少数民族地域は原爆実験地域としても戦略上重要な地域であるが、ここに
おける革命委員会の成立は最後まで危ぶまれてゐた。
異民族統治の経験のある大国では、少数民族の帰趨(きすう)が革命的要素になることが認識されてゐると同時に、
またその国自体が革命的な原理に成り立つ国である場合は、一転して反革命の危険を内在させた分子として
見られるのである。反革命とは、人種上は少数民族の原理であり、人間性の上では閑却されがちな人間性の
真実の救出の問題である。なぜなら、多数決原理による民主主義はいつも社会に少数の発言を許さなれない
政治的疎外分子を残し、この疎外分子が民主社会においては、ある場合にはアウトローとなり、ある場合には
政治的少数意見の漂泊者として満足し、ある一定の政治状況については革命分子になることはよく知られてゐる。
三島由紀夫「反革命宣言」より
305 :
ナナシズム:2010/11/16(火) 12:14:58 ID:UQvy/yU6
(中略)
かつてプロレタリアは社会的疎外の代表であつた。戦争前には日本の経済政策の貧困から農村は疲弊し、飢餓状態は
蔓延し、人身売買は兵士の心を押へ毒してゐた。しかし、戦後は工業化の進展にともなつて取り残された農村は、
人工的な米価政策によつて救済された。のみならず、貧困は解決され、労働者は革命や政治闘争よりも、
経済闘争のはうがより有効であるやうな時代に生きてゐる。戦後の経過は労働者が政治闘争から経済闘争の
有効性に徐々に目ざめた経過をたどつたといつてもよからう。
(中略)
日本で行はれてゐる、体制対反体制、権力対反権力の論争は、お互ひに相手側の弱点をつかむ巧妙な論理を
発明してゐる。体制側は、いはゆる革命主体を自称する学生や、その他の人々に対して、お前たちは中共から
金を貰つてゐる、外国勢力から助けられてゐるといつでも揚言することができる。これに対していはゆる革命勢力は
みづからをナショナリストとして既定し、体制側を買辧勢力と規定し、かつ自分たちに反対するオピニオン・
リーダーを全て体制の代弁者ないし走狗と規定することができるやうになつた。
三島由紀夫「反革命宣言」より
306 :
ナナシズム:2010/11/16(火) 12:42:28 ID:UQvy/yU6
彼らの論理はかうである。「もし、大学あるひは論壇あるひは文壇のやうな、マス・コミュニケーションのなかの
一つの小さな枠組の中では、たとへ反体制的言論が支配的であつても、そのなかにおける少数者の言論は実は
社会全体の体制的な感情へのおもねりにすぎない。すなはち一定の小集団のなかにおける少数意見は、集団外の
圧倒的な体制的言辞を背景としてそれを自分の後楯としてなされてゐるのだ」といふ主張である。
ここにおいて、さつき言つた社会的疎外と少数者の問題はパラドックスに当面する。すなはちわれわれは、
小さな閉鎖社会のなかで生きるときに、疎外者あるひは少数者になり、開放された社会のなかで生きるときは
体制側の代弁者となるといふやうに彼らから言はれるのである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
307 :
ナナシズム:2010/11/16(火) 12:43:37 ID:UQvy/yU6
しかし、われわれの社会における生き方は、彼らの言ふほど単純なものではない。彼らのいはゆる体制的権力側の
オープン・ソサイエティといふものは、実は存在するかのごとくして存在せず、われわれのまはりに茫漠とした
アモルフな形をもつて漂つてゐる。大衆社会化は社会像のこのやうなアモルフ化アンフォルメル化に貢献した。
十九世紀的国家形態が崩壊した現在は、それにかはるべきゲゼルシャフトが強固な利益社会として屹立して
ゐるのではない。われわれはそれぞれの小集団のなかでのみ自分たちの存在の原点を確保することができると
感覚的に感ずる。これが日本独特の、企業体成員の、企業体に対する極端な感情移入の態様であるが、企業と
組合との関係は、大学のやうな集団内マジョリティの思想的圧迫といふ形をとる場合よりも、もつとも
マジョリティに訴へやすい経済闘争といふ形をとる場合のはうが多いことは前述のとほりである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
308 :
ナナシズム:2010/11/17(水) 10:43:41 ID:vG68ffr7
しかし、その外側の社会は、膨大な無定見の社会構造を呈示してゐるのである。すべてを唯物弁証法ないし
社会主義的思考をもつて分析して、自己の小集団に波及するアモルフな社会の圧力を、安保体制下の権力の
波及した状況と解釈することは、一見実に簡単でわかりやすい。しかし、もしこのやうなわかりやすい社会に
われわれが生きてきたと仮定するならば、疎外の問題も少数者集団の問題も、われわれと社会の間のアンビバレンツの
問題も起りやうがないのである。
つまりそのやうに、小集団と社会との間を論理的に直結させるといふ思考方法は、社会疎外から出発した思考方法を
自ら否定するものにほかならない。社会はわれわれに対して敵であるのか味方であるのか。社会を国家と同様に
直結させるのか。われわれの小集団に波及してくる社会的現象を、すべて国家権力のオートマティックな動きと
左右させて考へるか。そこにわれわれが社会といふものを考へるときの一番の困難がある。
三島由紀夫「反革命宣言」より
309 :
ナナシズム:2010/11/17(水) 10:44:36 ID:vG68ffr7
革命勢力は、まさにこのわれわれの持つてゐる困難を、ある単純化によつて、ある直結によつて一つの「解決の
示唆」へうながすものである。
ここには、戦後の社会の無限の責任遡及によつて、つひには責任の所在を融解させてしまふ「無責任の体系」の
影響が大いにあり、すべては社会がわるい、といふときに、人は自ら、社会のアモルフ化に手を貸してゐるのである。
彼らは最初、疎外をもつて出発したが、利用された疎外は小集団における多数者となり、小集団における
マジョリティを次々とつなげて連帯させることによつて、社会におけるマジョリティを確保し、そのマジョリティは
容易に暴力と行動に転換して現体制の転覆と破壊に到達するといふのは、革命のプランである。そして、責任原理の
喪失を逆用したそのやうな革命は現に着々と進行してゐる。
しかし、われわれ文化の側に立ち、人間の側に立つ人間は、疎外がそのやうな自己矛盾に陥つてゐるやうな
状況に対して、むしろ疎外や、少数者といふものを積極的に評価するところから出発しなければならない。
三島由紀夫「反革命宣言」より
310 :
ナナシズム:2010/11/17(水) 10:45:57 ID:vG68ffr7
左翼のいふ、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の
変化によつて、多くの韓国人をかかへてゐるが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、日本人が必ずしも
歓迎しないにもかかはらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、都知事の認可を得て、反日教育をほどこすやうな
北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。
彼らはすでに、人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなつてゐる。そして
彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかつて、それを革命に利用しようとするほか考へない。
たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、
不幸な人たちに襲ひかかり、たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、
その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていつてしまふ。
三島由紀夫「反革命宣言」より
311 :
ナナシズム:2010/11/17(水) 10:46:51 ID:vG68ffr7
日本の社会問題はかつてこのやうではなかつた。戦前、社会問題に挺身した人たちは、全部がとはいはないが、
純粋なヒューマニズムの動機にかられ、疎外者に対する同情と、正義感とによつて、左にあれ、右にあれ、
一種の社会改革といふ救済の方法を考へたのであつた。
しかし、戦後の革命はそのやうな道義性と、ヒューマニズムを、戦後一般の風潮に染まりつつ、完全な欺瞞と、
偽善にすりかへてしまつた。われわれは、戦後の社会全体もそれについて責任があることを否めない。革命勢力から
その道義性と、ヒューマニズムの高さを失はせたものも、また、この戦後の世界の無道徳性の産物なのである。
われわれは疎外を固執し、少数者集団の権利を固執するものである。それのみが、革命勢力に対して反革命の
立場に立ち得るし、彼らの多数を頼んだ集団行動の倫理的矛盾に対して、最も強い、先鋭な敵手たり得るからである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
312 :
ナナシズム:2010/11/18(木) 11:19:14 ID:K4BcZ6Eb
人は疎外からみづから逃れたいといふ要求を持つてゐる。その要求の最もわかりやすいスローガンは「自由」で
あるが、自由を与へられると、エーリッヒ・フロムではないが、再び自由から逃避しようとし、逃避のメカニズムは
オートマティックに進行するのである。そして、逃避のメカニズムがオートマティックに進行するときに、
疎外された少数者はいつしか多数の集団者となり、多数の集団者はマジョリティとなり権力を求め、遂には
少数者を蹂躙し、自分のよつてもつて立つところの存在理由を自己否定せざるを得なくなるのである。
その革命の経過こそ、われわれが最も見張らなければならぬものであり、われわれに彼らの原点の感情に対する
安価な同情を許さないところのものである。
反革命は、革命行動の単なる防止ではない。反革命は革命に対して、ただ単なる暴力否定をもつて立ち向ふもの
ではない。なぜなら、暴力否定は容易に国家否定に傾くからである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
313 :
ナナシズム:2010/11/18(木) 11:20:43 ID:K4BcZ6Eb
反戦平和のスローガンが、ただちに暴力行動を意味するといふことを、三派全学連は新宿動乱で公衆の前に証明し、
それによつて公衆に、反戦平和といふ言葉の欺瞞を白日のもとにさらけ出すといふ大きな貢献を残した。
しかし、暴力は暴力自体が悪でもなく、善なのでもない。それは暴力を規定する見地によつて善にもなり、
悪にもなるのである。彼らは国家権力を暴力装置と規定し、機動隊を階級敵と規定し、彼らの規定によつて
権力自体は、すべて膨大な、革命を抑圧してゐる暴力機構と考へられる。そして、いはゆる無意識な、無関心な
一般大衆の目にとつては、三派全学連の無秩序な暴力だけが、あるひは暴力団の暴力だけが暴力とうつり、
自分たちを守りに出てゐる武装集団の自衛隊や警察は暴力とうつらないやうな心理構造を持つてゐると説明される。
(中略)そして暴力否定が終局的に革命を支持するものであることを最もよく知つてゐるのは革命勢力、特に
共産党なのである。共産党は最後の革命に手段としての暴力を十分容認するが、その暴力が民衆の支持を得るまでは
差し控へる、といふことを知つてゐる。
三島由紀夫「反革命宣言」より
314 :
ナナシズム:2010/11/18(木) 11:24:23 ID:K4BcZ6Eb
われわれはもし、暴力といふものを本質的、原理的に否定するときには、これに立ち向ふことは決してできない。
大学問題はあたかも革命全体のミニアチュアであるが、暴力に対するに理性をもつてした大学教授連の考へは
十九世紀的迷蒙に侵されてゐる。暴力と素手で立ち向ふことができないのは理性の特質であり、そしてまた
理性を何らかの後楯にしない時は、自己の正当性をみづから確認できないといふことは暴力の特質である。
かくて、暴力と理性とは、お互ひにその正当性を奪ひ合ふ段階においてこそ同格であるが、暴力は一つの
理性的思想を背後に持つてゐると主張することによつて、すなはち理性だけよりも強く、相手を国家権力なる
「暴力」とつながつてゐるといふ論理へ追ひ込むことによつて、むりやり、自分の土俵へ相手を引きずり込む
戦術に長けてゐる。
暴力否定が国家否定につながることは、実に見やすい論理である。
三島由紀夫「反革命宣言」より
315 :
ナナシズム:2010/11/18(木) 11:26:10 ID:K4BcZ6Eb
われわれは絶対的暴力否定の抵抗思想としてガンジーの思想の如きを知つてゐるが、ガンジーは少なくとも
抵抗の思想である。日本の非暴力主義には、抵抗の思想は稀薄であり、エゴイズムのみが先行してゐる。
絶対平和主義は、自分たちの集団に対する攻撃をも甘んじて容認するといふことにおいて、少なくとも集団に
対する攻撃を容認しない、といふ原理に立つ国家の不可侵性を否定するものだからである。
国家は力なくしては国家たり得ない。国家は一つの国境の中において存立の基礎を持ち、その国境の確保と、
自己が国家であることを証明する方法としては、その国家の領土の不可侵性と、主権の不可侵性のために
力を保持せざるを得ないことは、最近のチェコの例を見ても明らかであらう。
もちろん十九世紀的な主権国家の幻はすでに崩れ、国際的な集団保障の時代が来て、国家概念は、社会主義共同体と、
自由諸国の国々とに別れ、ヨーロッパですら、将来のイメージとしては、共同体的な同盟国家よりも、さらに
強固なつながりを持つた国家形態を求めてはゐる。
三島由紀夫「反革命宣言」より
316 :
ナナシズム:2010/11/18(木) 11:28:57 ID:K4BcZ6Eb
しかしながら、現実に支配してゐるのは国家の原理であり、イデオロギーの終焉はまだ絵空事であつて、むしろ、
技術社会の進展が、技術の自己目的によるオートマティックな一人歩きをはじめる傾向に対抗して、国家は
このやうな自己内部の技術社会のオートマティズムを制御するために、イデオロギーを強化せねばならぬ傾向にある。
社会主義インターナショナルは単に多数民族、強力民族が少数民族をみづからの手中にをさめるための口実として
使はれてゐるにすぎない。
まだ国際政治を支配してゐるのは、姑息な力の法則であつて、その法則の上では力を否定するものは、最終的に
みづから国家を否定するほかはないのである。平和勢力と称されるものは、日本の国家観の曖昧模糊たる自信喪失を
ねらつて、日本自身の国家否定と、暴力否定とを次第次第につなげようと意図してゐる。そこで最終的に彼らが
意図するものは、国家としての日本の崩壊と、無力化と、そこに浸透して共産政権を樹立することにほかならない。
そして共産政権が樹立されたときにはどのやうな国家がはじまるかは自明のことである。
三島由紀夫「反革命宣言」より
317 :
ナナシズム:2010/11/18(木) 11:32:08 ID:K4BcZ6Eb
(中略)
一般大衆は、革命政権の樹立が、自分たちの現在守つてゐる生活に、将来どのような時間をかけてどのように
波及してくるかについてほとんど知るところがない。彼らは、現在の目前の問題としては、いつもイデオロギーよりも
秩序を維持することを欲し、ことに経済的繁栄の結果として得られた現状維持の思想は、一人一人の心の中に
浸み込んで、自分の家族、自分の家を守るためならば、どのようなイデオロギーも当面は容認する、といふ方向に
向つてゐる。そして、秩序自体の変質がどういふ変化を自分たちにおよぼすか、といふ未来図を彼らの心から
要求することは、ほとんど不可能である。人々はつねられなければ痛さを感じないものである。
もし革命勢力、ないし容共政権が成立した場合、たとへたつた一人の容共的な閣僚が入つても、もしこれが
警察権力に手をおよぼすことができれば、たちまち警察署長以下の中堅下級幹部の首のすげかへを徐々に始め、
あるひは若い警官の中に細胞をひそませ、警察を内部から崩壊させるであらう。
三島由紀夫「反革命宣言」より
318 :
ナナシズム:2010/11/19(金) 12:25:12 ID:FuBqy6oj
(中略)彼らは政権の一端でも握れば、これをいつも共産政権へのワン・ステップとして利用することに全力を
あげるであらう。(中略)そして、全アジア諸国において容共政権が容共政権のままとどまつた例はないのである。
容共政権は共産党の一党独裁への準備段階として徹底的に利用され、むしろこのやうな緩慢な移行の方が、
急激な武力革命による移行よりも彼らの歓迎するところである。国家支配機構はこれを一朝一夕にくつがへすよりも、
一年、ないしは二年の時間をかけて下部から侵蝕し、国民生活表面上を何ら動かさないままに、徐々に行政機構の
下部から改めていくことが賢明なことは勿論である。
したがつて共産勢力と行政権とをほんのちよつと連結させれば、そこで何が起るかは、チェコの二千語宣言が
よく証明してゐる。さうなつたときには遅いのであり、さうなつたときには、イデオロギーよりも秩序を重んじた
一般大衆は初めて目ざめて、自分たちの考への誤りを悟るであらう。
しかし、われわれ反革命の立場は、現在の時点における民衆の支持や理解をあてにすることはできない。
三島由紀夫「反革命宣言」より
319 :
ナナシズム:2010/11/19(金) 12:27:20 ID:FuBqy6oj
われわれは先見し、予告し、先取りし、そして、民衆の非難、怨嗟、罵倒をすら浴びながら、彼らの未来を
守るほかはないのである。
さらに正確に言へば、われわれは彼らの未来を守るのではなく、彼らがなほ無自覚でありながら、実は彼らを
存在せしめてゐる根本のもの、すなはち、わが歴史・文化・伝統を守るほかはないのである。これこそは
前衛としての反革命であり、前衛としての反革命は世論、今や左も右も最もその顔色をうかがつてゐる世論の
支持によつて動くのではない。
われわれは先見によつて動くのであり、あくまで少数者の原理によつて動くのである。
したがつて反革命は外面的には華々しいものになり得ないかもしれないが、革命状況を厳密に見張つて、もし
革命勢力と行政権とが直結しさうに時点をねらつて、その瞬間に打破粉砕するものでなければならない。
このためには民衆の支持をあてにすることはできないであらう。いかなる民衆の罵詈雑言も浴びる覚悟をしなければ
ならない。その形は、場合によつては人民裁判的な攻撃によつて、民衆になぐり殺されることもあるかもしれない。
三島由紀夫「反革命宣言」より
320 :
ナナシズム:2010/11/19(金) 12:29:25 ID:FuBqy6oj
しかし、われわれは民衆の現在ただいまの状況における安価な感傷的盲目的な心理に阿諛追従して、それを背景にし、
あるひは後楯にして行動するのではないから、当然のことである。
われわれは新宿動乱で、モップ化がどのやうな働きをするかつぶさに見た。あのモップ化は日本の何物かを
象徴してゐる。あのモップ化こそは、日本の、自分の生活を大切にしながら刺戟を期待し、変化を期待する民衆の
何物かを象徴してゐる。
あのモップ化によつて反革命がどのやうな攻撃にあふかは目に見えてゐるけれども、それに立ち向ふには、
われわれは自分の中の少数者の誇りと、自信と、孤立感にめげないエリート意識を保持しなければいけない。
政府にすら期待してはならない。政府は、最後の場合には民衆に阿諛することしか考へないであらう。世論は
いつも民主社会における神だからである。われわれは民主社会における神である世論を否定し、最終的には
大衆社会の持つてゐるその非人間性を否定しようとするのである。
では、その少数者意識の行動の根拠は何であるか。それこそは、天皇である。
三島由紀夫「反革命宣言」より
321 :
ナナシズム:2010/11/19(金) 12:30:34 ID:FuBqy6oj
われわれは天皇といふことをいふときには、むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるといふやうな
時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである。なぜなら、われわれの考へる天皇とは、
いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のやうに、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、
このやうな全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するやうな勢力に対しては、われわれの日本の
文化伝統を賭けて闘はなければならないと信じてゐるからである。
われわれは、自民党を守るために闘ふのでもなければ、民主主義社会を守るために闘ふのでもない。もちろん、
われわれの考へる文化的天皇制の政治的基礎としては、複数政党制による民主主義の政治形態が最適であると
信ずるから、形としてはこのやうな民主主義政体を守るために行動するといふ形をとるだらうが、終局目標は
天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するやうな政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない。
三島由紀夫「反革命宣言」より
322 :
ナナシズム:2010/11/20(土) 20:43:06 ID:pZ2JRQz6
戦後二十二年間、私は原爆について発言しなかつた。…
第一に、原爆に関しては、体験した者と体験しない者、被曝者と被曝しなかつた者といふ二つの立場以外、絶対
ありえないからだ。これがベトナム論などと根本的に違ふ点であり、そのことを忘れた発言はすべてウソである。
被曝しなかつた者が、いくら「おかはいさうに」と同情してみせても、そんなことで心慰められる被曝者は
一人もゐない。(中略)
広島に“新型爆弾”が投下されたとき、私は東大法学部の学生であつた。(中略)
それが原爆だと知つたのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだつた。世界の終りだ、と思つた。
この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。もつとも、原爆によつて突然発生したと
いふより、私自身の中に初めから潜在したものであらうが……。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
323 :
ナナシズム:2010/11/20(土) 20:44:48 ID:pZ2JRQz6
ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。まぎれもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは
二度とくりかへしません」といつた。原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文学は、終戦の詔勅の
「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない。
そのかはり日本人は、八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。
一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される
工業力誇示である。だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。
いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。日本は
核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
324 :
ナナシズム:2010/11/20(土) 20:46:08 ID:pZ2JRQz6
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることが
できない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、
輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。
日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。
戦後二十二年間、平和はまさに米ソの核均衛の上に保たれてゐた。だか、お互ひの核ドウカツだけで均衛が
保たれたかといふと、さうは思へない。第二次大戦中、広島で原爆が使はれたといふ事実、たくさんの人が死に、
今も肉体的、精神的に苦しんでゐる人がゐるといふ事実がなかつたとしたら、観念的にいくら原爆の悲惨さが
わかつてゐても、必ず使はれたらう。人間とは本来、さういふものである。その意味でヒロシマこそが、
最大の「核抑止戦略」であつた。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
325 :
ナナシズム:2010/11/20(土) 20:47:44 ID:pZ2JRQz6
加へて、第二次大戦を転機に、世界的に被害者と加害者の逆転がおこつた。先進国が後進国に負ひ目をもち、
大国のアメリカが外ではベトナム、内では黒人問題で手をやく――といつた一連の現象である。つまり弱者が
優位に立つといふ“逆勢力均衡”なのだが、その先端を切つたのは、被害者の極、ヒロシマなのであつた。
将来、小型爆弾が使はれる可能性は、皆無ではないだらう。ベトナムのやうに、今使ふかと世界の注目を
あびてゐる地点よりも、未開の国で突如使はれるかもしれない。大国が、中程度の国をそそのかして核使用の
口実をつくることも考へられる。
だが、いちばん危険なのは、防衛力としてのABM(弾道弾迎撃ミサイル)が開発されて、攻撃力としての
ICBM(大陸間弾道弾)との均衛が成立したとき、つまり大国がICBMに対して自国の安全を守れるといふ
考へに達した時であらう。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
326 :
ナナシズム:2010/11/22(月) 21:02:36 ID:eu5hoVo5
西ドイツは、第二次大戦後連合軍占領下の占領基本法を憲法と見做(みな)さず、占領終了後自ら修正制定してゐる。
占領下に制定された憲法がそのまま維持されてゐる日本は、旧敗戦国中でも特殊例であり、これには、国際政治と
国内政治の双方の要因が複雑にからみ合つてゐることは周知の通りである。
憲法は国家の基本法であるから、法学者は逆に、国家を定義して、法体系の投影であると言ふ。現実の新憲法下の
日本を見る限り、正にその通りである。しかしながら、「逆モ亦真ナリ」は成立しない。憲法の法理念法体系が
国家の投影であるか、といふのに、新憲法はそのやうな確たる国家像を背後に持たず、国際連合憲章にすべてを
委任する形で成立してゐるからである。ここに現行憲法の最大の問題がひそんでゐる。
(中略)敗戦直後怱卒(そうそつ)に作られた現憲法は、直訳まがひの、日本語としてもつとも醜悪な文体を持ち、
木に竹を継いだやうな文字どほりの継受法として、何らの内発性なしに与へられ、教育によつて新世代に
浸透するやうに、いはばあとから内発性の擬制を作られたのである。
三島由紀夫「問題提起」より
327 :
ナナシズム:2010/11/22(月) 21:04:10 ID:eu5hoVo5
国際政治の力関係によつて、きはめて政治的に押しつけられたこの憲法は、はじめからその国際政治の力学の上に
乗らざるをえぬ曲芸的性格を与へられてをり、それが又逆に、今日まで憲法を生き永らへさせてきた要因に
なつてゐる。ありていに言つて、現憲法と日米安保条約は合せて一セットになるやうに仕組まれてをり、又
同じ理由で、左派の護憲勢力の抵抗が、憲法改正の機運を挫折させ、これを逆手にとつた現政府の、護憲宣言と
なつて現はれたのであつた。左派は等しくアメリカから与へられた二つのものの内、一方の安保条約には反対し、
一方の平和憲法には賛成してきた。この態度の論理的矛盾を衝いた永井陽之助氏が、本来なら安保反対平和憲法反対が
自立価値中心の論理として、安保賛成平和憲法賛成が福祉価値中心の論理として、それぞれ一貫してゐるべきで
あるのに、それが現実の主張では、「安保反対・憲法護持」と云つた具合に紛糾してゐる、と論じてゐるのは
至当である。
三島由紀夫「問題提起」より
328 :
ナナシズム:2010/11/22(月) 21:05:14 ID:eu5hoVo5
(中略)
国体は日本民族日本文化のアイデンティティーを意味し、政権交替に左右されない恒久性をその本質とする。
政体は、この国体維持といふ国家目的民族目的に最適の手段として、国民によつて選ばれるが、政体自体は
国家目的追求の手段であつて、それ自体、自己目的的なものではない。民主主義とは、継受された外国の
政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない。これがわれわれの思考の基本的な立場である。旧憲法は
国体と法体系の間の相互の投影を完璧にしたが、現憲法は、これを明らかにしてゐないことは前述の通りである。
けだし、国体の語を広義に解釈すれば、現憲法は二種の国体、二つの忠誠対象を、分裂させて持つてをり、且つ
国民の忠誠対象をこの二種の国体へ分裂させるやうに仕組まれてゐるからである。国体は本来、歴史・伝統・文化の
時間的連続性に準拠し、国民の永い生活経験と文化経験の集積の上に成立するものであるが、革命政権における
国体とは、いふまでもなく、このやうなものではない。
三島由紀夫「問題提起」より
329 :
ナナシズム:2010/11/22(月) 21:06:36 ID:eu5hoVo5
革命政権における国体は、未来理想社会に対する一致した願望努力、国家超越の契機を内に秘めた世界革命の
理想主義をその本質とするであらう。ところが、奇妙なことに現行憲法は、この相反する二種の国体概念を、
(おそらく国論分裂による日本弱体化といふ政治的企図を含みつつ)、並記してゐるのである。これが憲法第一章と
第二章との、戦後の思想的対立の根本要因をなす異常なコントラストである。このやうな論理的矛盾を平然と
耐へ忍ぶことができるのは、正に世界に日本人の天才を措いて外にはあるまい。
第九条についてはあとで詳述するが、国際連合憲章の理想主義と、左派の戦術的非戦論とが癒着したこの九条に
おいて、正に同一の条項が、一方では国際連合主義の仮面をかぶつた米国のアジア軍事戦略体制への組み入れを
正当化し、一方では非武装平和主義の仮面の下に浸透した左翼革命勢力の抵抗の基盤をなしたのであつた。
三島由紀夫「問題提起」より
330 :
ナナシズム:2010/11/23(火) 16:31:16 ID:s71yooeO
しかしそれはあくまで戦略的戦術的見方であつて、教育と異を樹(た)てまいとする日本的右顧左眄と原爆
被爆国民としての心情と、その他さまざまなエモーショナルな基盤に支へられて、第九条が新らしい日本の
「国体」として成熟した半面、第一章「天皇」の各条は、旧世代のエモーショナルな支持にのみ支へられて、
「国体」としての権威を次第次第に失ひつつあるのが現状である。(中略)
しかしながら、国体と政体の別を明らかにし、本と末の別を立て、国にとつて犯すべからざる恒久不変の本質と、
盛衰を常とする政体との癒着を剥離することこそ、国の最大の要請でなければならない。
そのためには、憲法上、第一章と第二章とが到底民族的自立の見地から融和すべからざるものであり、この
民族性の理念と似而非(えせ)国際主義の理念との対立矛盾が、エモーショナルな国民の目前に、はつきり
露呈されることが何よりも緊要である。
三島由紀夫「問題提起」より
331 :
ナナシズム:2010/11/23(火) 16:33:12 ID:s71yooeO
このことは、グロテスクな誇張を敢てすれば、侵略戦争の宣戦布告をする天皇と、絶対非武装平和の国際協調
主義との、対立矛盾を明示せよ、といふのではない。むしろその反対である。もし現憲法の部分的改正によつて、
第九条だけが改正されるならば、日本は楽々と米軍事体制の好餌になり、自立はさらに失はれ、日本の歴史・
伝統・文化は、さらに危殆に瀕するであらう。われわれは、第一章、第二章の対立矛盾に目を向け、この対立矛盾を
解消することによつて、日本の国防上の権利(第二章)を、民族目的(第一章)に限局させようと努め、その上で
真の自立の平和主義を、はじめて追求しうるのである。従つて、第一章の国体明示の改正なしに、第二章のみの
改正に手をつけることは、国家百年の大計を誤るものであり、第一章改正と第二章改正は、あくまで相互の
バランスの上にあることを忘れてはならない。
さて、何故に第一章の「国体」は、国民の忠誠対象として衰退したか? それはあくまで教育と政策の結果である。
三島由紀夫「問題提起」より
332 :
ナナシズム:2010/11/23(火) 16:35:47 ID:s71yooeO
天皇制は戦後小泉信三的リベラリズムの下に風を除け、この風除けはいつしか天皇制の体質になつて、国民の
忠誠の対象視されることを避けよう避けようといふ一念で生き永らへてきた。古きノスタルジックな忠誠は、
天皇に対する個人的な信愛と敬愛のみにつながれた。国民の、無方向の忠誠の意慾が、その対象たることをけんめいに
避けようとしてゐる対象よりも、別種の対象へ誘導されることは自然である。微笑、友愛、やはらかな好意、……
さういふものなら、戦後天皇制が国民からもつとも歓迎するものであり、この歓迎に応へる装置もさまざまに
作られたが、「忠誠」だけは有難迷惑な贈物であり、これを拒絶する装置も隠密周到にさまざまに作られた。
しかし忠誠を拒絶することは、自ら国体たることを否定する態度に他ならないから、やむなく大衆は無際限に
その忠誠をうけ入れてくれる第九条のはうを現時の国体と考へるにいたつたのも無理はない。尤もこれらの
皇室政策が、天皇御自身の御意向に添うたものである、と私は言はうとしてゐるのではない。事勿れ主義の
官僚群が作つたものであることは明らかである。
三島由紀夫「問題提起
333 :
ナナシズム:2010/11/23(火) 16:37:29 ID:s71yooeO
もしかりに、一定妥協して、不十分ながら第一章が日本の「国」とは何ぞやといふことを規定してゐるとしても、
第二章は明らかに、国家超克の人類的理想について述べてゐる。第一章が「国のため」といふ理念を一応掲げて
ゐると仮定しても、第二章が掲げてゐるのは「人類のため」といふ理念である。国民の側から云へば、忠誠対象の
不分明であり、国家の側から云へば、国家意志の不明確である。これらの茫獏たる規定から演繹される国家最高の
理念とは、人命尊重のヒューマニズムに尽き、平時はそれでよいが、ひとたび危機に際会すると、一九七〇年春の
ハイジャック事件のやうに、韓国、北鮮がそれぞれ明白に国家意志を表明したのに、ひとり日本は、人命尊重の
ヒューマニズム以上のものを表明することができず、しかもこのヒューマニズムには存分に偽善が塗り込められる
といふ醜態をさらしたのであつた。
三島由紀夫「問題提起」より
334 :
ナナシズム:2010/11/24(水) 20:33:36 ID:t8z2mIUh
――さて、逐条的に現憲法の批判に入ると、
第一条(天皇の地位・国民主権)天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、
主権の存する日本国民の総意に基く。
第二条(皇位の継承)皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを
継承する。
とあるが、第一条と第二条の間には明らかな論理的矛盾がある。すなはち第一条には、「この地位は、主権の
存する日本国民の総意に基く」とあるが、第二条には、「皇位は、世襲のものであつて」とあり、もし「地位」と
「皇位」を同じものとすれば、「主権の存する日本国民の総意に基く」筈のものが、「世襲される」といふのは
可笑しい。世襲は生物学的条件以外の条件なき継承であり、「国民の総意に基く」も「基かぬ」もないのである。
三島由紀夫「問題提起」より
335 :
ナナシズム:2010/11/24(水) 20:34:52 ID:t8z2mIUh
又、もしかりに一歩ゆづつて、「主権の存する日本国民の総意」なるものを、一代限りでなく、各人累代世襲の
総意とみとめるときは、「世襲」の語との矛盾は大部分除かれるけれども、個人の自由意志を超越したそのやうな
意志に主権が存するならば、それはそもそも近代個人主義の上に成立つ民主主義と矛盾するであらう。又、もし、
「地位」と「皇位」を同じものとせず、「地位」は国民の総意に基づくが、「皇位」は世襲だとするならば、
「象徴としての地位」と「皇位」とを別の概念とせねばならぬ。それならば、世襲の「皇位」についた新らしい
天皇は、即位のたびに、主権者たる「国民の総意」の査察を受けて、その都度、「象徴としての地位」を
認められるか否か、再検討されなければならぬ。しかもその再検討は、そもそも天皇制自体の再検討と等しいから、
ここで新天皇が「象徴としての地位」を否定されれば、必然的に第二条の「世襲」は無意味になる。いはば天皇家は、
お花の師匠や能役者の家と同格になる危険に、たえずさらされてゐることになる。
三島由紀夫「問題提起」より
336 :
ナナシズム:2010/11/24(水) 20:36:08 ID:t8z2mIUh
私は非常識を承知しつつ、この矛盾の招来する論理的結果を描いてみせたのであるが、このやうな矛盾は明らかに、
第一条に於て、天皇といふ、超個人的、伝統的、歴史的存在の、時間的連続性(永遠)の保証者たる機能を、
「国民主権」といふ、個人的、非伝統的、非歴史的、空間的概念を以て裁いたといふ無理から生じたものである。これは、「一君万民」
といふごとき古い伝承観念を破壊して、むりやりに、西欧的民主主義理念と天皇制を接着させ、移入の、はるか
後世の制度によつて、根生の、昔からの制度を正当化しようとした、方法的誤謬から生れたものである。それは、
キリスト教に基づいた西欧の自然法理念を以て、日本の伝来の自然法を裁いたものであり、もつと端的に言へば、
西欧の神を以て日本の神を裁き、まつろはせた条項であつた。
三島由紀夫「問題提起」より
337 :
ナナシズム:2010/11/24(水) 20:38:15 ID:t8z2mIUh
われわれは、日本的自然法を以て日本の憲法を創造する権利を有する。天皇制を単なる慣習法と見るか、そこに
日本的自然法を見るかについては、議論の分れるところであらう。英国のやうに慣習法の強い国が、自然法理念の
圧力に抗して、憲法を不文のままに置き、慣習法の運用によつて、同等の法的効果と法的救済を実現してゆくが
如き手続は、日本では望みがたいが、すべてをフランス革命の理念とピューリタニズムの使命感で割り切つて、
巨大な抽象的な国家体制を作り上げたアメリカの法秩序が、日本の風土にもつとも不適合であることは言ふを俟たない。
現代はふしぎな時代で、信教の自由が先進諸国の共通の表看板になりながら、十八世紀以来の西欧人文主義の
諸理念は、各国の基本法にのしかかり、これを制圧して、これに対する自由を許してゐないのである。われわれが
もしあらゆる宗教を信ずることに自由であるなら、どうして近代的法理念のコンフォーミティーからだけは
自由でありえない、といふことがあらうか?
三島由紀夫「問題提起」より
338 :
ナナシズム:2010/11/24(水) 20:39:27 ID:t8z2mIUh
又逆に、もしわれわれが近代的法理念のコンフォーミティーからは自由でありえないとするならば、習俗、伝習、
文化、歴史、宗教などの民族的固有性から、それほど自由でありうるのだらうか? それは又、明治憲法の
発祥に戻つて、東洋と西洋との対立融合の最大の難問に、ふたたび真剣にぶつかることであるが、敗戦の衝撃は、
一国の基本法を定めるのに、この最大の難問をやすやすと乗り超えさせ、しらぬ間に、日本を、そのもつとも
本質的なアイデンティティーを喪はせる方向へ、追ひやつて来たのではなかつたか? 天皇の問題は、かくて
憲法改正のもつとも重要な論点であつて、何人もこれを看過して、改憲を語ることはできない。
これについて幾多の問題点が考へられる。
天皇のいはゆる「人間宣言」は至当であつたか?
三島由紀夫「問題提起」より
340 :
ナナシズム:2010/11/26(金) 11:05:22 ID:u3QpiN5N
新憲法によれば、「儀式を行ふこと」(第七条第十項)とニュートラルな表現で「国事行為」に辛うじて
のこされてゐるが、歴史・伝統・文化の連続性と、国の永遠性を祈念し保障する象徴行為である祭祀が、なほ
天皇のもつとも重要な仕事であり、存在理由であるのに、国事行為としての「儀式」は、神道の祭祀を意味せぬ
ものと解され、祭祀は天皇家の個人的行事になり、国と切り離されてゐる。しかし天皇が「神聖」と完全に
手を切つた世俗的君主であるならば、いかにして「象徴」となりえよう。「象徴」が現時点における日本国民
および日本国のみにかかはり、日本の時間的連続性と関はりがないならば、大統領で十分であつて、大統領とは
世襲の一点においてことなり、世俗的君主とは祭祀の一点においてことなる天皇は、正にその時間的連続性の
象徴、祖先崇拝の象徴たることにおいて、「象徴」たる特色を担つてゐるのである。
天皇が「神聖」と最終的につながつてゐることは、同時に、その政治的無答責性において、現実所与の変転する
政治的責任を免かれてゐればこそ、保障されるのである。
三島由紀夫「問題提起」より
341 :
ナナシズム:2010/11/26(金) 11:06:36 ID:u3QpiN5N
これを逆に言へば、天皇の政治的無答責は、それ自体がすでに「神聖」を内包してゐると考へなければ論理的でない。
なぜなら、人間であることのもつとも明確な責任体系こそ、政治的責任の体系だからである。そのやうな天皇が、
一般人同様の名誉毀損の法的保護しか受けられないのは、一種の論理的詐術であつて、「栄典授与」(第七条
第七項)の源泉に対する国自体の自己冒涜である。
「神聖不可侵」の規定の復活は、おのづから第二十条「信教の自由」の規定から、神道の除外例を要求するだらう。
キリスト教文化をしか知らぬ西欧人は、この唯一神教の宗教的非寛容の先入主を以てしか、他の宗教を見ることが
できず、英国国教のイングランド教会の例を以て日本の国家神道を類推し、のみならずあらゆる侵略主義の
宗教的根拠を国家神道に妄想し、神道の非宗教的な特殊性、その習俗純化の機能等を無視し、はなはだ非宗教的な
神道を中心にした日本のシンクレティスム(諸神混淆)を理解しなかつた。
三島由紀夫「問題提起」より
342 :
ナナシズム:2010/11/26(金) 11:07:54 ID:u3QpiN5N
敗戦国の宗教問題にまで、無智な大斧を揮つて、その文化的伝統の根本を絶たうとした占領軍の政治的意図は、
今や明らかであるのに、日本人はこの重要な魂の問題を放置して来たのである。天皇は、自らの神聖を恢復すべき
義務を、国民に対して負ふ、といふのが私の考へである。
一方、旧憲法の天皇大権は大幅に制約されて然るべく、天皇の政治上の無答責は憲法上に明記されねばならないが、
第二章への遠慮によつて、天皇の栄典授与の国事行為ですら、文官に対してのみ公然となされてゐる不均衡不自然は、
九条の変更によつて、直ちに改められるであらう。但し、事軍事に関しては、旧憲法の「統帥権独立」規定の
惨憺たる結果を見るにつけ、決して天皇にその最終指揮権を帰属せしむべきではない。
三島由紀夫「問題提起」より
343 :
ナナシズム:2010/11/26(金) 11:09:11 ID:u3QpiN5N
この条文(戦争の放棄)についてはさまざまな法解釈があとから行はれ、(中略)第九条第二項の「前項の目的を
達するため」を、「前項の目的を達するために限り」と強ひて限定的に解し、国際紛争を解決する手段としての
戦争を永久に放棄するために限り、戦力を保持しないが、それ以外の自衛の目的のためには保持しうるとして、
自衛隊の法的根拠とするすこぶる苦しい法解釈である。これが通常の日本文の語訳として奇怪きはまるもので
あることはいふまでもない。
ありていに言つて、第九条は敗戦国日本の戦勝国に対する詫証文であり、この詫証文の成立が、日本側の自発的
意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない。ただこの条文が、二重三重の念押しを
からめた誓約の性質を帯びるものであり、国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くものであることは
明らかである。論理的に解すれば、第九条に於ては、自衛権も明白に放棄されてをり、いかなる形においての
戦力の保有もゆるされず、自衛の戦ひにも交戦権を有しないのである。全く物理的に日本は丸腰でなければ
ならぬのである。
三島由紀夫「問題提起」より
344 :
ナナシズム:2010/11/26(金) 11:10:52 ID:u3QpiN5N
終戦後食糧管理法によりヤミ食糧の売買が禁じられてゐた時、一人の廉直な裁判官が、一点も国法に違背しまい
として、配給食糧のみで暮し、つひに栄養失調で死んだ。国家の定めた法に従へば死ななねばならぬとなれば、
緊急避難の理論によつてヤミ食糧を喰べることが正当化されるであらう。しかしこのことは国の定めた法の尊厳を
失はせ、実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大し、守りえぬ法の
存在そのものが、違法を人間性によつて正当化されるのであるから、道徳は法を離れて、人間性の是認に帰着し、
人命尊重を最高の道徳理念にするほかはない。しかも、一方、新憲法に於て、国家理念を剥奪された日本は、
その法の最後の正当性の根拠をも亦、「自ら定めた法を自ら破らざるをえぬ」といふ、人間性の要請、人命尊重の
緊急避難といふところへ設けざるをえない。
この裁判官の死は実に戦後の象徴的事件であつて、生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に
見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ることになつた。
三島由紀夫「問題提起」より
345 :
ナナシズム:2010/11/26(金) 11:13:03 ID:u3QpiN5N
第九条に対する日本政府の態度も正にこれである。第九条のそのままの字句通りの遵奉は、「国家として死ぬ」
以外にはない。しかし死ぬわけには行かないから、しやにむに、緊急避難の理論によつて正当化を企て、御用学者を
動員して、牽強附会の説を立てたのである。
自衛隊は明らかに違憲である。しかもその創設は、新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の
変化による要請に基づくものである。朝鮮戦争下のアメリカは、たしかに憲法改正を敢てしても、日本の自衛隊の
海外派兵を望んだであらう。しかるに吉田内閣は、ここにいたつて新憲法を抵抗のカセとして、経済的自立の
急務を説いて、防衛問題からアメリカの目を外らせたのである。(中略)
新憲法と安保が一セットであることは既述したが、一九七〇年の難関を突破した今、自民党は再び吉田内閣以来の
「新憲法と安保は一セット」主義に立ち戻つて、護憲を標榜してゐる。
三島由紀夫「問題提起」より
346 :
ナナシズム:2010/11/26(金) 11:14:20 ID:u3QpiN5N
その護憲のナショナリスティックな正当化は、あくまで第九条の固執により、片やアメリカのアジア軍事戦略体制に
乗りすぎないやうに身をつつしみ、片や諸外国の猜疑と非難を外らさうといふ、消極弥縫策にすぎず、国内的には、
片や「何もかもアメリカの言ひなりにはならぬぞ」といふナショナリスティックな抵抗を装ひ、片や「平和愛好」の
国民の偸安におもねり、大衆社会状況に迎合することなのである。しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ
押されて、自衛隊をただ「量的に」拡大し、兵器体系を改良し、もつとも厄介な核兵器問題への逢着を無限に
遷延させるために、平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆくことである。(中略)
核と自主防衛、国軍の設立と兵役義務、その他の政策上の各種の難問題は、九条の裏面に錯綜してゐる。しかし
ここでは、私は徴兵制度復活には反対であることだけを言明しておかう。
三島由紀夫「問題提起」より
347 :
ナナシズム:2010/11/27(土) 12:16:35 ID:alGAfpa6
第九条の改正乃至廃止は、国内では左派勢力の激発を、国内では米国のアジア軍事体制への歯留めなきかかり合ひを
意味し、且つ諸外国の警戒心恐怖心の再発を予見させるがために、「憲法改正」すなはち「九条改廃」が、
全国民をしておぞ気をふるはせるメドゥーサの首になつたのである。
私は九条の改憲を決して独立にそれ自体として考へてはならぬ、第一章「天皇」の問題と、第二十条「信教の
自由」に関する神道の問題と関連させて考へなくては、折角「憲法改正」を推進しても、却つてアメリカの
思ふ壷におちいり、日本が独立国家として、日本の本然の姿を開顕する結果にならぬ、と再々力説した。
たとへ憲法九条を改正して、安保条約を双務条約に書き変へても、それで日本が独立国としての体面を回復した
ことにはならぬ。韓国その他アジア反共国家と同列に並んだだけの結果に終ることは明らかであり、これらの国家は、
アメリカと軍事的双務条約を締結してゐるのである。
三島由紀夫「問題提起」より
348 :
ナナシズム:2010/11/27(土) 12:17:53 ID:alGAfpa6
第九条の改廃については、改憲論者にもいくつかの意見がある。
「第九条第一項の字句は、そもそも不戦条約以来の理想条項であり、これを残しても自衛のための戦力の保持は
十分可能である。しかし第二項は、明らかに、自衛権の放棄を意味するから削除すべきである」
といふ意見に、私はやや賛成であるが、そのためには、第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として
挿入されるべきであり、日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含してゐるといふのは、
不公平不調和を免かれぬ。その結果、わが憲法は、国際社会への対他的ジェスチュアを本質とし、国の歴史・
伝統・文化の自主性の表明を二次的副次的なものとするといふ、敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう。
むしろ第九条全部を削除するに如(し)くはない。
三島由紀夫「問題提起」より
349 :
ナナシズム:2010/11/27(土) 12:18:53 ID:alGAfpa6
その代りに、日本国軍の創立を謳ひ、健軍の本義を憲法に明記して、次の如く規定するべきである。
「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の
信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」
防衛は国の基本的な最重要問題であり、これを抜きにして国家を語ることはできぬ。物理的に言つても、一定の
領土内に一定の国民を包括する現実の態様を抜きにして、国家といふことを語ることができないならば、その
一定空間の物理的保障としては軍事力しかなく、よしんば、空間的国家の保障として、外国の軍事力(核兵器
その他)を借りるとしても、決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではないことは、
赤化したカンボジア摂政政治をくつがへして、共和制を目ざす軍事政権を打ち樹てるといふことも敢てするのを
見ても自明である。
三島由紀夫「問題提起」より
350 :
ナナシズム:2010/11/27(土) 12:19:46 ID:alGAfpa6
自国の正しい健軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。
現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が
孕まれてゐることが銘記されねばならない。憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決を
はかるべき問題ではない。なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、
この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことに
なりかねないからである。
自衛隊は、警察予備隊から発足して、未だその警察的側面を色濃く残してをり、警察との次元の差を、装備の
物理的な次元の差にしか見出すことができない。国家の矜りを持つことなくして、いかにして軍隊が軍隊たりえようか。
この悲しむべき混迷を残したものが、すべて第九条、特にその第二項にあることは明らかであるから、われわれは
ここに論議の凡てを集中しなければならない。
三島由紀夫「問題提起」より
351 :
ナナシズム:2010/11/29(月) 12:20:58 ID:OFnvXS4t
日本の国民感情は今だに「核アレルギー」から脱しきれず、さまざまな意味での進歩を妨げている。現代世界に於て
「核」は、われわれの知識をはるかに越えて発達しすでに政治面では「核」をぬきにして世界の外交政治は
考えられない。(中略)
日本が「核武装」すると主張すれば一般国民にとって非常なショックとセンセーションで迎えられるであろう。
しかし世界情勢に目を転じ、百年先の日本の進路を考えてみれば、むしろ核武装の主張は好戦的でも奇矯でもなく
当然のナショナリズムの発露なのである。
(中略)社会党が戦術上、今だに「非武装・中立」を唱えているため、保守対革新の国防論議は、「日米安保体制か
非武装中立か」という二者択一の幼稚な形で示される傾向にある。しかし「非武装」と「中立」は本来、
別個の概念であり、いうまでもなく「中立政策」には「武装中立」が含まれている。
森田必勝「『核』は将来のエネルギー源 単独核武装はタブーか」より(昭和42年)
352 :
ナナシズム:2010/11/29(月) 12:22:38 ID:OFnvXS4t
永世中立国のスイスは、(中略)強力な民兵制度を保持、非常時には人口600万人中、一日で70万人の
大規模な動員が可能とされている。スウェーデンも同様に、(中略)最新兵器による攻撃に対しても防衛力を
持つことを目標とし、兵器の90%までを国産でまかなう体制をとっている。人口760万人の小国でありながら、
140万人分の原爆退避壕が建設されている。この地下大退避壕は現在、駐車場として利用されているが、
日本以外のどの国をみても「国防」に対する態度が真剣なのである。史上初の敗戦で日本人の感傷は少女趣味に
堕していはしまいか。
ますます強大化する列国の軍事力から自らを守るために、現在の戦争の最終段階の「核」戦争にも対処出来得る
防衛を、何時までも「米の核のカサ」に頼っている時期ではないのである。
中立・非同盟政策をとる国々のほとんどが「武装中立」というのが世界の現状である。「非武装中立」という
考え方は、戦争放棄の平和憲法をもつ日本の生んだ「特殊で珍妙な構想」といえよう。
森田必勝「『核』は将来のエネルギー源 単独核武装はタブーか」より(昭和42年)
353 :
ナナシズム:2010/11/29(月) 12:24:39 ID:OFnvXS4t
人間に闘争本能があり、どのような体制においても人間が変らぬ限り競争は続く。列国の政治に対する野心は
日本人が想像する以上に深く、ナショナリズムは時として狂信的な形で表現される。ひとりだけ、そんな中で
観念的な平和論をぶっても、周囲は一笑し、かえって利用され侵略されてしまうのが世界の現状であろう。
そうした意味でも「非武装中立」は絶対に不可能である。
(中略)今、日本が単独で防衛することになれば、自衛隊は限定戦争にさえ対処することが出来ず、核攻撃を
うけた場合、日本は歴史から消失してしまう結果となるだろう。熱い対立は祈ることによって避けられるものではなく、
平和は願うことによってのみ訪れるものではないのだ。
(中略)安全性をさらに高めてゆくには、日本が単独に核武装する以外にない。かりに今「核武装」を決意し、
国家政策として推し進めてゆくにしても五年の月日はかかるであろう。その頃、中共はICBMを相当数
実戦配備化してしまっている。
森田必勝「『核』は将来のエネルギー源 単独核武装はタブーか」より(昭和42年)
354 :
ナナシズム:2010/11/29(月) 12:26:20 ID:OFnvXS4t
「冷戦」の産物である日米安保条約は、同時に日本にとっての立ち直りの重要な起爆力となったことは否定できない。
しかしこのことは、日本安保が、日本の物質的立ち直りと無縁な状態で恒久化されることを意味しない。我々が
よく認識しなければならないことは、日本安保条約は、その究極の根拠を日本国憲法に置いたものであり、我々が
日本の「中立」に徹底さを求め、防衛論議において強固な国民的合意を求める際に、日本国憲法に対すると同様の
民族的熱意でもって、その反民族的な本質を暴露してゆかねばならないということだ。
日本を取り巻く世界状勢は、かつての硬直した冷戦体制のかわりに、かつての米ソの衛星圏よりの自己主張の
叫びが目立ち、分極化、多極化の様相を見せつける。(中略)各国をしてそれぞれの主張を、国際社会に対して
要求させる。(中略)
現代世界の秩序に新たな要因を加えたものとして中共の抬頭があげられる。中共の出現は、その急テンポな
核装備の進展の事実とあわせて、日本の今後の進路に決定的な介入を挑んでくるであろう。
森田必勝「二大国支配の打破」より
355 :
ナナシズム:2010/11/29(月) 12:29:02 ID:OFnvXS4t
ノサップ岬には数回足をのばし、ガスの晴れ間から水晶島にソ連の監視兵が動いているのさえ観ることができた。
還らぬ北方の島々への関心はさすがに高く、私達の使命感はより一層高まった。現地の漁民はただもくもくとして
働き、涙さえ浮かべようとしない。(中略)
学生運動は社会的起爆剤としての役割を持っている。学生及び青年の行動が、連鎖反応的に運動の輪を拡げ、
大きな力へと成長させてゆく。その歴史的自覚を持ったときこそ、新しい学生運動の明るい展望は開けて
くるのである。とするならば、北方問題に関しても、政府も漁民も立場上言えないような主張を代弁するのが
学生ではないのだろうか。民族の悲願として、全千島、南樺太をあらゆる条約や障害をのりこえて取り戻すこと。
この正当な主張も、政府及び根室市がソ連と交渉するときには、歯舞、色丹、国後、択捉だけが対象となっている。
千島列島はサンフランシスコ条約で放棄したから可能ならば日本に復帰させて頂きたいと及び腰である。
森田必勝「民族運動の起爆剤を志向」より
356 :
ナナシズム:2010/11/29(月) 12:30:23 ID:OFnvXS4t
外交のベテランソ連に対し、はじめから下手で臨むものだから、馬鹿にされて相手にされないのも当然だと
言えるかも知れない。
(中略)
私達は一体何のために「北方領土復帰運動」を行なうのだろうか。ただ単に魚の穫れる漁場がほしいとか、
領土的野心からとかでは決してない。根室市で、私達と関係者との懇談会の席上、ある一人の老人は絶叫調で
こう言った。「たとえ、ソ連が何十年居坐ろうとも、われわれは日本民族の闘いとして、この運動を続ける」と。
この老人の一言に、恐らく私達すべての立場は代表されるのではないだろうかと思う。
(中略)
北方領土への関心は、一般国民をして領土主権の問題、民族意識の問題、国家理念の問題へと眼を開かせる。
それはやがて、日本という中級国家が、これからの世界の荒波をどう航海しどうすすんゆくのかという、
主権国家としての自立の条件への模索となってゆくであろう。
森田必勝「民族運動の起爆剤を志向」より
357 :
名無しさん日:2010/12/01(水) 11:01:45 ID:zNBoYzxK
358 :
ナナシズム:2010/12/02(木) 23:44:07 ID:+NqAANT+
結集された同志諸君! 我々はついにソ連に奪われた祖国固有の領土、貝殻島、水晶島が見渡せる所まできています。
(中略)我々は、その北方領土諸島への最短距離にある貝殻島を眼の前にして、身体中の怒りが、民族の血が
たぎりつつあるのです。日本民族の祖先が営々としてきずきあげてきたあの島々を、我々はたとえ何年かかろうと、
どれだけの犠牲が出ようと、必ず取り返してみせる、といった意気込みをもって、更に力強くこの運動を続けて
いかなければなりません。(中略)
我々は午前中、ここに立てられている標識に「本土最東端=ノサップ岬」と書かれているのを発見しました。
ノサップが日本の最東端なのか?
日本の最東端は全千島列島の尖端にあるシュムシュ島であり、ソ連の軍事占領下にあるとはいえ、本来は
日本領土ではありませんか! ノサップをもって、本土最東端などと開き直る敗北主義は、(現地の方々が、
これほど敗北的な現実主義に陥っていることを、我々は改めて知らされたけれども――)我々の熱意と民族の魂とで
粉砕しなければならないと考えます。
森田必勝「演説 北方領土返還問題」より
359 :
ナナシズム:2010/12/02(木) 23:45:56 ID:+NqAANT+
(中略)
一九一七年のロシア革命は、全世界の知識人にショックを与え、人類の幸福、バラ色の社会とかいうデタラメな
宣伝文句につられて日本にもマルクス主義運動が入ってきました。階級史観なるエセ歴史主義の虚妄は、やがて
本家本元のロシアの、その後の数限りない侵略の事実によって明らかにされているではありませんか。(中略)
我々にとって、共産主義は敵には違いないが、イデオロギーというよりも、むしろ人間の魂の問題として、
このような思想を拒否するわけです。だから、何回も何回も繰返すように、反共という立場はイデオロギーの
位相によるアンチではなく、人間性の問題として、人の自由を束縛し、他国民の迷惑を何とも思わぬような
独善的な国家主義を、(それはマルクスのいった共産主義とはほどとおいけれども――)我々は憎んでゆかなければ
なりません。
森田必勝「演説 北方領土返還問題」より
360 :
ナナシズム:2010/12/04(土) 19:27:40 ID:ELaFewWv
社会党の「護憲条例」提出は、社会党自体の愚かさを示して余りありますが、私達は何としても、こうした
バカげたことを避けるために、ここで抗議集会をもちたいと考えます。
皆さん、既に御存知のように、現在の憲法は、GHQが、日本が再び立ち起ることが出来ないようにと、永久に
三流の後進国家としての位置におとしこむために作られた“占領基本法”でしかありません。ですから、
“マッカーサー憲法”とも呼ばれ、心ある国民は、一日も早くこのようなインチキ憲法を改正し(その改正方法に
関しては、いろいろな議論はありますけれども―)自主的な日本民族の手になる憲法の制定を呼びかけています。
現行憲法の基調は、さきほどの山本委員長の演説でも触れたように、アメリカ占領軍の日本弱体化政策の基調、
すなわち三S、五D政策にのっとられて作られた、“アメリカのための”日本国憲法であります。
森田必勝「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より
361 :
ナナシズム:2010/12/04(土) 19:28:39 ID:ELaFewWv
三S政策とは、セックス、スポーツ、スクリーンといったSのイニシャルに代表される軽薄極まりないアメリカ文化の
移入によって、日本の伝統的な文化、歴史を破壊しようというたくらみであり、五D政策とは、第一に非民族化、
第二に非産業化、第三に非集中化、第四に非軍事化、そして第五に民主化といった、それぞれがDのイニシャルに
象徴される、徹底的な日本の破壊のための基本方針であります。
GHQは、日本の占領中に、権力をフルに行使して、これらの基本方針を実行し、軍隊を解体し、国家の独立を
まっとう出来ないような状況にしました。そして、警察機構を分断し、各県の県警はそれぞれの自治体に
帰属させたり、あらゆる連絡網の分断を策したのであります。
また日本の産業が再び力をつけることのないよう、航空技術の開発を停止させたり、国家的規模の産業の興隆を抑え、
あるいは、再び日本に民族精神の昂揚がないようにと、歴史、地理教育の禁止を策したのでありました。
森田必勝「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より
362 :
ナナシズム:2010/12/04(土) 19:29:35 ID:ELaFewWv
とりわけ、日教組に代表される極端な歴史教育の歪曲は、「民主化」という、アメリカニズム、もしくは
プラグマティズムを背景に、わが国の光輝ある歴史を、一方的な視野から裁断し、日本の過去の歴史はすべて
悪いのだ、といった調子のおどろくべき教育の条件の下で、我々戦後世代は育ってきたのです。あの家永訴訟に
みられるごとく、まったく内容の無いマルクス史観で貫ぬかれた家永三郎の日本歴史が、それを代弁しています。
(中略)
そしてまた憲法をよく読んでみれば、第九条と、第九九条が、明らかに相互矛盾しているにもかかわらず、
(これは、わずか二週間で作ったという拙速主義の何よりの証しですが―)そのような矛盾点にほおかむりして
現行憲法は世界に誇るべき平和憲法だなどといって自己満足している学者、文化人、党派の、日本民族と日本の
歴史に対する犯罪的な行為を、我々は絶対に許してはならないと思います。
森田必勝「演説 平和憲法はGHQの押しつけ」より
363 :
ナナシズム:2010/12/14(火) 10:40:10 ID:AJKTelv4
なぜプラトンが、理想国家から詩人を追放したのか。それは自分に似ているからではないか。
理想国家の政治家にとっては詩人が自分たちに似すぎているからではないか。自分に似たものは、ほかにはいらない。
政治というのは、どうも人間の根元的な衝動に根ざしていると思う。本来、政治と芸術というのは同じ泉から
出ているのではないかと僕は思う。だから排斥し合うのではないか。
男というのはうぬぼれと、闘争本能以外にはないのではないかな。
世界を回ってみますと、現在日本のように無階級な国はないように思う。実に不思議な国で、アメリカはもっともっと
階級がありますね。ステータス・シンボルがそれぞれあって、クラブでも上のクラブに入らないと、お嫁さんの
いいのが来ないとか。それからなんだかんだと言って、一つ一つの関係が非常にうるさいですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
364 :
ナナシズム:2010/12/14(火) 10:41:06 ID:AJKTelv4
三島:…GHQと戦争裁判という問題はね、単なる思想問題として考えますと(いまや僕は、政治問題としての
意味よりも思想問題として影を落としていると思うのですが)GHQの理念、あるいは戦争裁判の理念というのは、
近代的普遍的諸価値のヒューマニズムがおもてだっているわけです。そうすると、戦後にそういう諸観念がもう一度
復活して、天下をまかり通って、同時にその欺瞞をあらわしたということで、僕はアメリカの影響というのは、
日本の戦後思想史には非常に強いというふうに考える。みんなが思っているよりも。というのは、アメリカという国は、
十八世紀の古典的な理念が、おもて向きいちばんのうのうと生きている国なんですね。アメリカはああいう
人種の雑種の国ですし、歴史は浅いし、インターナショナリズム的な観念でも、国内でじゅうぶん充足するわけです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
365 :
ナナシズム:2010/12/14(火) 10:42:43 ID:AJKTelv4
たとえばここにフランス系アメリカ人と、ドイツ系アメリカ人と、オランダ系アメリカ人の三人の話を通じさせるのに、
結局先祖のもとまでもどって、十八世紀的な理念で伝達するほかない。だから彼らは、自由といい、平和といい、
人類というときに、それは信じていると思う。それは彼らの生活の根本にあって、そういうものでもって国家を
運用し、戦争を運用し、経済を運用してやっている。それが日本にきてみた場合に、日本人がそういうような、
ある意味で粗雑な、大ざっぱな観念で生きられるかどうかという、いい実験になったと思う。(中略)
たとえば川島武宣の民法学を僕は習いましたが、民法学のなかにおいて、彼のギリギリの近代主義民法学ですがね、
そんなものは絶対日本の社会構造には妥当しなかった。戦後になってやってみた結果、アメリカが与えたと同時に、
アメリカ人の考えている自由、アメリカ人の考えている人類、アメリカ人の考えている平和というものは、
ベトナム戦争もやれるものであるということがわかってきたということだ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
366 :
ナナシズム:2010/12/14(火) 10:44:05 ID:AJKTelv4
これは大きな問題だと思う。そうすると、アメリカ人はベトナム戦争をやっても、やはり自由を信じ、平和を
信じていると思う。これは嘘ではないと思う。彼らはけっしてそんな欺瞞的国民ではありませんし、彼らは
戦争をやって自由のために戦っているというのは、嘘ではないですよ。彼らは心からそう信じている。
ただ日本人は、そんな粗雑な観念を信じられないだけなんです。というのは、日本で自由だの平和だのといっても、
そんな粗雑な観念でわれわれ生きているわけではありませんからね。そこに非常に微妙な文化的なニュアンスがあって、
そこのうえで近代的な観念が生きている。それが徐々にわかってきたというのが、いまの思想家全体の破綻の原因で、
それは結局アメリカのおかげだと思うのです。それを与えたのもアメリカなら、反省を促したのもアメリカですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
367 :
ナナシズム:2010/12/14(火) 10:45:04 ID:AJKTelv4
林:アメリカニゼーションは、日本の戦後のはっきりした現象ですが、その初期にはアメリカ出先機関の
アメリカニゼーションだったな。日本弱化と精神的武装解除の軍人政治にすぎないものを、アメリカニゼーションと
思いこんだのが三等学者です。新憲法とともに登場して来た三等学者がたくさんいる。
彼らが新憲法を守れというのは当然です。…
三島:…しかも、丸山(真男)さんなどでも、ファシズムという概念規定を疑わないのは不思議ですね。
ファシズムというのは、ぜんぜん日本にありませんよ。
林:絶対ありません。どう考えてもね。
三島:そういう概念規定を日本にそのまま当てはめて、恬然と恥じない。
今度彼らを分析していくと、別なものにぶつかるのですよ。丸山学派の日本ファシズムの三規定というのがありますね。
一つが天皇崇拝、一つが農本主義、もう一つは反資本主義か、たしかこの三つだったと思う。そうすると、
それはファシズムというヨーロッパ概念から、どれ一つ妥当しはしませんよ。
林:一つも妥当しない。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
368 :
ナナシズム:2010/12/14(火) 10:48:15 ID:AJKTelv4
三島:はじめナチスは資本家と結んだのですからね。日本のいわゆる愛国運動というのは、もちろん資本家と
いろいろ関係も生じたけれども、二・二六事件の根本は反資本主義で、当時二・二六事件もそうだが、
二・二六事件のあとで陸軍の統制派が、二・二六事件があまり評判が悪かったので、今度、やはり反資本主義的な
ポーズにおける声明書を発表したら、麻生久がとても感激したのですね。やはりわれわれの徒だということに
なって、それで賛成演説などをやったりしたことがあるけれども、そういうファシズム一つとってもそうだし……。
林:(中略)「ファシズム打倒」は連合国側の戦争スローガンで、日本もドイツ、イタリアなみのファシズム国家に
されてしまったのだが、最近ではご本家のアメリカ・ハーバード大学の教授グループが、日本にはファシズムは
なかったことを論証し始めている。丸山君とそのご学友諸君は何と申しますかね。…それから二・二六事件にしても、
進歩学派諸君は支配階級内部の対立だというふうにかたづけているが……。
三島:事実はぜんぜん違っている。
林:これは一つの革命勢力と支配勢力との闘いだということを認めないわけですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
369 :
ナナシズム:2010/12/14(火) 10:49:36 ID:AJKTelv4
三島:僕は、ああいうものは、ある意味で林さんのおっしゃる、文明開化というものからくる一つの事象であって、
日本の近代化の激しい運動の、ラジカルな運動がああいう形をとったと考えてもいいと思いますね。いつも日本では、
アイロニカルな形で社会現象が起こっている。いちばん先鋭な近代をめざすものが、いちばん保守的な、
反動的な形態をとったり、一見進歩的形態をとっているものが、いちばん反動的なものである場合もある。
政治学者などが日本の現象を見る場合には、ぜんぜん分析が皮相で浅薄だという感じがいつもするのだけれども。
林:(中略)丸山君にこだわるわけではないが、あの人をピークとする敗戦学者の学問はいかにも学問らしい顔を
していますけれども、読めば少しも学問ではないのです。学問というのは、読んでみて、「ああ、そうだったか」と
目からウロコの落ちるような気になるのが学問です。敗戦大学教授の仕事は読者の目にウロコをかぶせるような
ものですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
370 :
ナナシズム:2010/12/16(木) 10:49:11 ID:dJV6+22i
三島:ほんとうにそうですね。でも、近代主義者はとにかくだめだということは、二十年でよくわかった。
そうして日本の近代主義者の言うとおりにならなかったのは、インダストリアリゼーションをやっちゃった
ということで、これが歴史の非常なアイロニーですね。普通ならば、近代主義者の言うとおりに、思想精神が
完全に近代化することによって近代社会が成立し、そしてインダストリアリゼーションの結果、そういうものが
社会に実現されるという、じつは必ずしもコミュニズムであってもなくても、彼らの考えていることはそうですよ。
ところがなに一つわれわれのメンタリティーのなかには、近代主義が妥当しないにもかかわらず、工業化が進行し、
工業化の結果の精神的退廃、空白といってもいいが、そういうものが完全に成立した。
それと、日本人のなかにある古いメンタリティーとの衝突が、各個人のなかにずいぶん無秩序なかたちで
起こっているわけですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
371 :
ナナシズム:2010/12/16(木) 10:50:30 ID:dJV6+22i
三島:僕が思想家がぜんぜん無力だというのは、経済現象その他に対してすらなんらの予見もしなければ、
その結果に対して責任ももってないというふうに感ずるからです。
第一、戦後の物質的繁栄というのは、経済学者は一人も寄与してないと思いますよ。僕が大蔵省にいたとき
大内兵衛が、インフレ必至説を唱えて、いまにも破局的インフレがくるとおどかした。ドッジ声明でなんとか
救われたでしょう。政治的予見もなければなんにもない。経済法則というものは、実にあいまいなもので、
こんなに学問のなかでもあいまいな法則はありませんよ。
それで戦後の経済復興は、結局戦争から帰ってきた奴が一生懸命やったようなもので、なんら法則性とか
経済学者の指導とか、ドイツのシャハトのような指導的な理論的な経済学者がいたわけではないし、まったく
めくらめっぽうでここまできた。これは経済学者の功績でも、思想家の功績でもない。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
372 :
ナナシズム:2010/12/16(木) 10:52:18 ID:dJV6+22i
三島:(中略)僕はたとえばね、どんな思想が起ころうが、彼ら(日本の近代主義者、知識人)はもう
弁ばくできないと思うのです。だって自分たちがやるべきときやらなかったのだから、あとに何が出ても
もうしょうがないですよ。
林:まず、現われたのがアメリカン・デモクラシー、おつぎはソ連礼賛論ですな。それを圧倒したのが中共絶対論。
……だが、それもどうやらしぼみ始めたようだ。
三島:とにかく僕が「喜びの琴」という芝居を書いたとき、共産主義は暴力革命は絶対やらないのだと、もう
そんなのは昔の古いテーゼで、いま絶対にそういうことはやらないのだと……あんな芝居を書く男は、頭が
三十年古いとみんな笑ったものです。そうしたらね、インドネシアの武力革命が起こりかけた。まあ、失敗しましたが。
ちょっと、五、六年さきのこともわからないのですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
373 :
ナナシズム:2010/12/17(金) 23:02:57 ID:NFd6ebmZ
三島:やはり林さんの明治維新の根本テーマでも、開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、
攘夷論者がやった。あの歴史の皮肉ですね。
林:攘夷論者のみが真の開国論者だった。これが歴史のアイロニイだが、敗戦史家たちには、このアイロニイが
わからないのだな。いまにわかります。
三島:そういう大きな歴史の皮肉ですね、そういうあれがあったでしょうか、戦前、戦後を通じて、文学で……。
林:アイロニイだらけだ。内村鑑三も新渡戸稲造も日本精神について英語で書いた。ドイツ文学の鴎外と
英文学の漱石が乃木大将の殉死を最も正確に理解した。現在、日本回帰の論文を発表しはじめた若い学者たちは、
ほとんど西洋史家だ。東西文明の接点に立つ日本文化のアイロニイではないでしょうか。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
374 :
ナナシズム:2010/12/17(金) 23:04:18 ID:NFd6ebmZ
林:(中略)若い高村光太郎は文明開化派で西洋派だったが、晩年はたいへんな日本主義者になる。
与謝野鉄幹、北原白秋をはじめ詩人たちの大部分は同じ道を歩いている。すべて内的な自己展開であって、
時流におし流されてものを言ったのではない。
三島:伊東静雄なんかも、戦争中のものは非常にいいですよ。ほんとうにいい詩ですね。
林:だから人間は戦争を避けて通ろうとしてはいけないのですよ。平和は結構だが、戦争は必ず起こると覚悟して
いなければ、一歩も進めない。平和が永久につづくなどと思っていたら、とんだ観測ちがいをおかすことになる。
地球国家ができましたら、こんどは宇宙船を飛ばして……。
三島:ほかの遊星を攻撃する……。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
375 :
ナナシズム:2010/12/19(日) 19:52:30 ID:AOAyT71J
三島:文壇というものがあるかないか、そんなことはわからないけれども、やはり時代のどこかで風船の空気が
漏れているところというのは敏感ですよね。いまたしかに風船の空気が漏れている。風船が小さくなりつつ
あるのです。それで、その風船の空気を、また充填するか、その穴をどうするかということは、それは左翼も
右翼もありはしない。
(中略)一方では空白状態をそのまま出せば正直だと思う。僕はそんなものは正直だとは思わない。つまり
現在の空白、現在の堕落――堕落と言ったらちょっと政治的な面がこもりすぎるが――文学というのは、
そういうものを映す鏡ではない。文学というのは、いつも医者と薬とを兼ねたものです。あるいは医者と患者を
兼ねたものだと言ってもいい。われわれは最先端の患者なんです。同時に最先端の医者なんです。それが文学の
使命でね。そうして医者だって、使命だけにとらわれたものは社会改良家になっちゃう。それは文学者の逸脱で、
患者だってカルテにとらわれたら空白状態を模写するだけにすぎない。そうするとサナトリウムに入っちゃう。
そうなると文学者じゃないのです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
376 :
ナナシズム:2010/12/19(日) 19:53:34 ID:AOAyT71J
三島:文学者というのはいつでも、最先端の患者であり、最先端の医者である。おのずからそこに、医者と
患者の間には、いつも争いがあって、患者は癒りたくないと言うかもしれない。医者はおまえに効く薬はないと
言うかもしれない。それが文学状況の、いつも先鋭なところで、それをつかまえてないやつは、文学のほんとうの
危機というものはわかってないのではないかと考える。それが現在のナショナリズムの問題とかなんとかいう
問題と、おのずから照応してくるので……。
林:君のいう型の文学者――医者兼患者の文学者は、文学者の永遠のタイプだろうが、生きにくいね。
ローマ帝国でも、ヒトラー帝国でも、中共帝国でもソ連帝国でも、詩人や作家は追放されなければ自殺してしまう。
だが、敗戦二十年間の日本は国家でも帝国でもない。大平社会は文学の味方顔しているが、最悪の敵かもしれぬ。
野放しにされた物書きが文学者顔して、ひどい文章を書いている。
三島:いま文壇にいるのは、患者と医者だけですよ。患者兼医者というのはいない。それで医者が患者をほめていますね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
377 :
ナナシズム:2010/12/19(日) 19:55:46 ID:AOAyT71J
三島:弱いから文学になる。神経衰弱に文学、蔦には壁と同じで。ですけれども、文学が寄りかかって、それで
文学と弱さとのあいだに馴れ合いが起こるというのが、いちばん嫌いですね。というのは、それだけなら
文学などやる意味がないと思う。
ことばは絶対に克己心を教えますね。それでことばというものにぶつかったときに、つまり文学というのは、
己れの弱さをそのまま是認するものではない、文学の世界にことばがあって、われわれに克己心を要求するのだ
ということを学んだような気がする。
常識的なことを言って、世間から紳士扱いにされて、一つご意見をうかがいたいと、そうしてもっとも常識的な、
良識的なことを言うのが作家じゃありません。作家はそれぞれ狂気の代表なんですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
378 :
ナナシズム:2010/12/19(日) 19:58:01 ID:AOAyT71J
三島:読書百ぺん、意おのずから通ず。中学生にもっと古典を読ませなければいかんな。いやでもおうでも
読ませたほうがいいですね。ただ現代語訳は絶対反対ですよ。現代語訳の場合は、いまのやつは現代語訳を読んで
ああわかったと思っちゃうでしょう。現代語訳を読んでから原文にあたってやろうというのは少ないと思う。
だから現代語訳はないほうがいいと思う。「源氏」を読むのは原文しかないというほうが、ほんとうだと思いますよ。
ことばはどんなことしたって、インターナショナルではあり得ないですね。
僕らはことばに携わるのだから、世界がどんなにテクノロジーと生活水準の平均化によってインターナショナルに
なっても、あるいは思想もインターナショナルになっても、ことばだけはダメ。それだから、ことばに偏執する。
ことばはプラクティカルな意味ではどうにもなることでも、そうでないところで、われわれは立派に偏執する。
われわれのナショナリズムというのはことばですよ。僕は、言霊説ですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
379 :
ナナシズム:2010/12/19(日) 20:02:27 ID:AOAyT71J
僕たちのことばが、外国語に翻訳される場合に、人情は通じると思うのですよ。人情は通じると思いますが、
ことばは通じない。(中略)
たとえばある橋を渡ったという場合に、その橋という観念のなかに、どういう橋がイメージとして浮かんでくるか。
そのイメージだけは、どんなことをしても伝えられない。文学はそれでいいのではありませんか。
ゲーテの小説を日本語で読んで、橋(ブリユツケ)ということばが出てくるとき、その橋がドイツのどこの橋が
ゲーテの頭のなかにあったか、そんなことがわれわれにわかるわけがないですよね。
僕は、アジア主義だけはちょっとわからない。政治的にはもちろんわかり得ると思うが。まったく政治的なものですね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
380 :
ナナシズム:2010/12/19(日) 20:05:04 ID:AOAyT71J
ヨーロッパ共同体というものは文化的には昔からあったのだから、それが伝統に帰ることであり、そうして
普遍的ヨーロッパに帰れということを、ゲーテは言いたかったわけですね。
しかし日本では、普遍的ヨーロッパというものは、日本にとってはぜんぜん別なものでしょう。それから
普遍的アジアというものは、文化的にはない。だから日本にとっていま世界文学などというのは、ちゃんちゃら
おかしいということになるわけです。
ことばというものは一歩プラクティカルなことを考えたら、絶対こんな不合理なものはない。
ことばの性質というものは、そういうものです。ことばというのは、そもそも人間の意思を疎通させるために、
生まれたものであるにもかかわらず、もしプラクティカルな見地からしたら、実に非合理に満ちているという。
これはどこの国のことばでも、みなそうです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
381 :
ナナシズム:2010/12/24(金) 10:27:30 ID:xLoaL8+s
神風連のことを研究していて、おもしろく思ったのは、かれらは孝明天皇の攘夷の御志を、明治政府が完全に
転倒させ、廃刀令を出したことに対して怒り、「非先王之法服不敢服、非先王之法言不敢道、非先王之徳行不敢行」
という思想を抱いていた。万世一系ということと、「先帝への忠義」ということが、一つの矛盾のない精神的な
中核として総合されていた天皇観が、僕には興味が深いのです。
歴史学者の通説では、大体憲法発布の明治二十二年前後に、いわゆる天皇制国家機構が成立したと見られているが、
それは伊藤博文が、「昔の勤皇は宗教的の観念を以てしたが、今日の勤皇は政治的でなければならぬ」と考えた
思想の実現です。
僕は、伊藤博文が、ヨーロッパのキリスト教の神の観念を欽定憲法の天皇の神聖不可侵のもとにしたという考えは
むしろ逆で、それ以前の宗教的精神的中心としての天皇を、近代政治理念へ導入して政治化したという考えが
正しいと思います。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
382 :
ナナシズム:2010/12/24(金) 10:29:27 ID:xLoaL8+s
(中略)明治憲法の発布によって、近代国家としての天皇制国家機構が発足したわけですが、「天皇神聖不可侵」は、
天皇の無謬性の宣言でもあり、国学的な信仰的天皇の温存でもあって、僕はここに、九十九パーセントの西欧化に
対する、一パーセントの非西欧化のトリデが、「神聖」の名において宣言されていた、と見るわけです。
神風連が電線に対してかざした白扇が、この「天皇不可侵」の裏には生きていると思う。殊に、統帥大権的天皇の
イメージのうちに、攘夷の志が、国務大権的天皇のイメージのうちに開国の志が、それぞれ活かされたと見るのです。
これがさっきの神風連の話ともつながるわけですが、天皇は一方で、西欧化を代表し、一方で純粋な日本の
最後の拠点となられるむずかしい使命を帯びられた。天皇は二つの相反する形の誠忠を、受け入れられることを
使命とされた。二・二六事件において、まことに残念なのは、あの事件が、西欧派の政治理念によって裁かれて、
神風連の二の舞になったということです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
383 :
ナナシズム:2010/12/24(金) 10:33:19 ID:xLoaL8+s
ところで僕は、日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、
西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない、という
アイロニカルな歴史意志を考えるのです。
福沢諭吉と神風連が実に対蹠的なのは、明治政府の新政策によって、前者は欣喜し、後者は幻滅した。僕は
幻滅によって生ずるパトスにしか興味がない。幻滅と敗北は、攘夷の志と、国粋主義の永遠の宿命なのであって、
西欧の歴史法則によって、その幻滅と敗北はいつも予定されている。日本の革新は、いつでもそういう道を
辿ってきた。唯一の成功した革新は、外国占領軍による戦後の革新です。
僕の天皇に対するイメージは、西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への
洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴です。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
384 :
ナナシズム:2010/12/24(金) 10:34:24 ID:xLoaL8+s
しかるに昭和の天皇制は、内面的にもどんどん西欧化に蝕まれて、ついに二・二六事件をさえ理解しなかった
ではないか。そのもっとも醇乎たる悲劇意志への共感に達しなかったではないか。「何ものかを汲みとろう」
なんて言うとアイマイに思われるでしょうが、僕は維新ということを言っているのです。天皇が最終的に、
維新を「承引き」給うということを言っているのです。そのためには、天皇のもっとも重大なお仕事は祭祀であり、
非西欧化の最後のトリデとなりつづけることによって、西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点になり、
革新の原理になり給うことです。イギリスのまねなんかなさっては困るのです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
385 :
ナナシズム:2010/12/24(金) 10:35:19 ID:xLoaL8+s
僕は天皇無謬説なんです。
僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ。革命家がある場合には
旧支配の頂点によって肯定されるという妙なことが起こり得るのが、日本ではないのですかというのです。
…つまり天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、
いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的
皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいというだけのことですよ。
天皇制のもう一つの側面というものが忘れられている、それがいかんということを僕は言いたい。それだけの
ことです。天皇は実に不思議で、世界無比だというのは、その点ですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
386 :
ナナシズム:2010/12/25(土) 20:18:10 ID:eZtY6D6E
(中略)僕は大嘗祭というお祭りが、いちばん大事だと思うのですがね。あれはやはり、農本主義文化の一つの
精華ですね。あそこでもって、つまり昔の穀物神と同じことで、天皇が生まれ変わられるのですね。そうして
天皇というのは、いま見る天皇が、また大嘗祭のときに生まれ変わられて、そうして永久に、最初の天照大神に
かえられるのですね。そこからまた再生する。
…僕は、経済の発展的な段階というものを、ぜんぜん信じてないのですね。農耕文化なり、なに文化なり、
資本主義から社会主義になるというのは、まったく信じてない。だけれどもインダストリアゼーションは、土から、
みんな全部人間を引き離すでしょう。そしてわれわれのもっているものは、すべて土とか、植物とか、木の葉とか、
そういうものとはどんどん離れていく。それで土を代表するものはなにかとか、稲の葉っぱを代表するものは
なにかとか、自然というものと、われわれの生活とを最後に結ぶものはなにか。それは、たまたま、ことばは
農本主義と言っても、経済学上の用語としての農本主義とちょっと違いますが……。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
387 :
ナナシズム:2010/12/25(土) 20:20:32 ID:eZtY6D6E
(中略)天皇制というのは、少しバタ臭い解釈になるが、あらゆる人間の愛を引き受け、あらゆる人間の愛による
不可知論を一身に引き受けるものが天皇だと考えます。普通の人間のあいだの恋でしょう……。
恋(れん)ですね。それは普通の人間とのあいだの愛情は、みなそれで足りるのですよ、全部。それがぼくは
日本の風土だというふうに思うのです。
(中略)
僕にとっては、芸術作品と、あるいは天皇と言ってもいい、神風連と言ってもいいが、いろいろなもののね、
その純粋性の象徴は、宿命離脱の自由の象徴なんですよ。つまりね、一つ自分が作品をつくると、その作品は
独得の秩序をもっていて、この宿命の輪やね、それから人間の歴史の必然性の輪からポンとはみ出す、ポンと。
これはだれがなんと言おうと、それ自体の秩序をもって、それ自体において自由なんですね。
その自由を生産するのが芸術家であって、芸術家というものは、一つの自由を生産する人間だけれども、自分が
自由である必要はない、ぜんぜん。そしてその芸術作品というのはある意味では、完全に輪から外れたものです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
388 :
ナナシズム:2010/12/25(土) 20:22:03 ID:eZtY6D6E
日本のように反体制的大政党を抱えた国が、シヴィリアン・コントロールをやるということは、危険きわまる体制じゃ
ありませんか。(中略)
昔は上官から天皇まで一貫していた。
一度、僕は新聞に原爆のことを書いたことがある。そして、ナセルが「落とすなら原爆を落としてもいいよ」とか、
中共が「水爆を落としてもいいよ、われわれは人口七億だから、半分なくなってもあと戦える」と言った、
ああいうのはもっとも危険な思想だろうと、そういうことを書いたら、没になったことがあるのです、だいぶ前に。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
389 :
ナナシズム:2010/12/25(土) 20:23:35 ID:eZtY6D6E
橋川文三なども言っているけれども、戦争中の特攻隊の連中でも、それから戦没学徒の心情でも、死ななければ
国家を批判はできない、死ぬことによってはじめて国家を批判できるという。
日本人の最高のものに対する批評の形式というのは、死しかないというあれは、かなり切腹のみにとどまらず、
いろいろな形であらわれているものだと思いますね。つまり、批評と絶対との関係というものは、僕はおよばずながら
「英霊の声」などを書いたときに、ふっと、その問題をかいま見られたような感じがした。つまり絶対を
批評するということができるか、できないか、これはだれもわからないことですね。だけれどもその批評形式としては、
死しかないということはありますね。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
390 :
ナナシズム:2010/12/25(土) 20:24:37 ID:eZtY6D6E
日本人は、最高の批評の形式というのは、ことばのないものでしかないという考えがどこかにある。それは、
禅の不立文字からきたものばかりではないと思いますね。
体当りと言えばそれまでですが、なんか自己否定という形が批評になると、こっちに主体があって、対象を
分析したり、対象を論理的に解釈することが批評ではないのだと、こっちが自分を根本的に否定して見せることが
批評なんだというような、批評の根本形式があるように思う。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
391 :
ナナシズム:2010/12/29(水) 12:05:48 ID:zbWRF154
――それはそうと、この間江田島の参考館へ行って、特攻隊の遺書をたくさん見ました。遺書というのではないが、
ザラ紙に鉛筆の走り書きで、「俺は今とても元気だ。三時間後に確実に死ぬとは思えない……」などというのがあり、
この生々しさには実に心を打たれた。
九割九分までは類型的な天皇陛下万歳的な遺書で、活字にしたらその感動は薄まってしまう。もし出版するなら、
写真版で肉筆をそのまま写し、遺影や遺品の写真といっしょに出すように忠告しました。
それにしても、その、類型的な遺書は、みんな実に立派で、彼らが自分たちの人生を立派に完結させるという
叡智をもっていたとしか思えない。もちろん未練もあったろう。言いたいことの千万言もあったろう。
しかしそれを「言わなかった」ということが、遺書としての最高の文学表現のように思われる。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
392 :
ナナシズム:2010/12/29(水) 12:06:41 ID:zbWRF154
僕が「きけわだつみのこえ」の編集に疑問を呈してきたのはそのためです。
そして人間の本心などというものに、重きを置かないのはそのためです。もし人間が決定的行動を迫られるときは、
本心などは、まして本心の分析などは物の数ではない。それは泡沫のようなただの「心理」にすぎない。
そんな「心理」を一つも出していない遺書が結局一番立派なのです。
それにしても、「天皇陛下万歳」と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と
来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、
何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感はいったい
何だったんだろうか。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
393 :
ナナシズム:2011/01/07(金) 16:42:17 ID:xIaCaAVV
私はあらゆる国家は固有の自衛権を持つてゐるといふ考へから自衛隊を合憲と見る人々の主張に反対してゐない。
しかし、本来民主国家の国民的権利に属する国防の問題を義務化することには反対といふ観点から徴兵制度には
賛成でない。若者にとつて団体生活が必要だといふ私の考へは、徴兵反対となんら矛盾しないのである。いまの
青年に自制心とか規律とかが欠けてゐるのは事実だから。
終りに、私は考へやうによつては現在ただいまが危機だと信じてをり、国民が危機感を持つてゐないことに
焦燥してゐる。自衛隊員の危機感を孤立させないことが、むしろ危機感を最新的に解消させる方法だと信じる。
私が望んでゐるのは国軍を国軍たる正しい地位におくこと、国軍と国民の間の正しいバランスを設定すること
なのである。そして日本人であること、愛国心、国土防衛、自衛隊の必要性――この四者の関係はイモズル式で
一つ引つぱると全部出て来るものと考へる。
三島由紀夫「青年と国防」より
394 :
ナナシズム:2011/01/11(火) 16:16:57 ID:tCnCKsvs
たしかに、自衛隊には明るすぎるほど明るい一面がある。しかし、すべてがさうではなくて、たとへば若い幹部の
あひだにも三種類の傾向があるのがわかりました。
一つは理知的かタイプの行動家。もう一つは、いまの都会のインテリよりも、もつと懐疑的な懐疑派。それから、
すべてを振りきらうといふ行動派です。第二のタイプはもつとも少ないけれど、なかには十九世紀的な懐疑派もゐて、
さういふ連中が私に向つて「日本の防衛は私におまかせください」などといふと、私はかへつて不安になりました。
生死観ですが、自衛隊の精神教育については、私はだいたいに不満足です。といふのは、隊員の反撥を恐れてか
世間の反撥を恐れてか、生死観につながるやうな教育をやつてゐないのです。私の意見では、隊員には幸福追求を、
幹部には死の覚悟を、それぞれ別途にはつきりわけて教育すべきであると思ひます。しかし、その裏付けには
退役後の生活保障などを充実してやる必要があるので、いま、それがないことが、彼らの生死観をコン濁させる
一因になつてゐます。
三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」より
395 :
ナナシズム:2011/01/11(火) 16:17:23 ID:tCnCKsvs
ある若い候補生が私にかう聞いたことがあります。「私たちに“戦争待望心理”といふものがあるといふ人が
あるがどうでせうか」と。私は答へました。「消防隊員が火事を待望するのはあたりまへぢやないか。火事が
なければ、どうして火消しがウデを見せることができるんだ。“備へる”といふことと“待つ”といふことは、
人間の心理のウラ表である。“待つ”といふ気持がなければ“備へる”気持もないだらう。だから世間の思惑など
忘れて、自分たちの危機に備へる意識に毎日毎日、生きる覚悟をしなくちやならない」とね。
(中略)
私は、私の考へが軍国主義でもなければファシズムでもないと信じてゐます。私が望んでゐるのは国軍を
国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民の間の正しいバランスを設定することなんですよ。
三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」より
396 :
ナナシズム:2011/01/11(火) 16:17:49 ID:tCnCKsvs
自衛隊は、必ずしもアメリカの中古兵器を使つてゐるわけではありません。少なくとも、いま使つてゐる国産の
「新小銃」は優秀な兵器です。むしろ私が一番疑問に思ふのは、万一いま大戦争が起つたら自衛隊全部がアメリカの
指揮下にはひるのではないかといふ危惧です。この問題については、隊内のいろんな人たちとも話合ひました。
私の考へはかうです。政府がなすべきもつとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、安保条約の自然延長など
ではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、日本の自衛権の独立的な価値を、はつきりわけて
PRすることである。たとへば安保条約下においても、どういふときには集団保障体制のなかにはひる、
どういふときには自衛隊が日本を民族と国民の自力で守りぬくかといふ“限界”をはつきりさせることです。
三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」より
397 :
ナナシズム:2011/01/14(金) 20:14:42 ID:LXzVIvM5
剣を失へば詩は詩ではなくなり、詩を失へば剣は剣でなくなる……こんな簡単なことに、明治以降の日本人は、
その文明開化病のおかげで、久しく気づかなかつた。大正以降の西欧的教養主義がこの病気に拍車をかけ、
さらに戦後の偽善的な平和主義は、文化のもつとも本質的なものを暗示するこの考へ方を、異端の思想として
抹殺するにいたつたのである。(中略)
以前から、終戦時における大東塾の集団自決が、一体何を意味するかといふことは、私の念頭を離れなかつた。
神風連は攻撃であり、大東塾は身をつつしんだ自決である。しかしこの二つの事件の背景の相違を考へると、
いづれも同じ重さを持ち、同じ思想の根から生れ、日本人の心性にもつとも深く根ざし、同じ文化の本質的な
問題に触れた行動であることが理解されたのであつた。
影山氏の「日本民族派の運動」を読む人は、かういふ氏の思想の根を知ることによつて、さらに興趣を増すことと
思はれる。
三島由紀夫「一貫不惑」より
398 :
ナナシズム:2011/01/14(金) 20:15:02 ID:LXzVIvM5
氏はおそろしいほど実証的であり、歴史を正す一念において、博引旁証、及ばざるところがない。忘れつぽい
日本人から見ると、その点、却つて日本人離れがしてゐる。実に皮肉なことだが、神風連の事件そのものが、
純潔に自分の思想を守つて抵抗するといふ徹底性の点で、却つて西欧人に理解されやすい要素を含んでゐると
思はれるのと、このことは照応してゐる。西欧化した日本人が、西欧から学ばなかつた唯一のものこそ、
思想に対するこのやうな西欧人の態度なのである。(中略)
又、思想的立場を異にする花田清輝氏などに対しても、本書は公正な態度で、さはやかな記述をしてをり、
その点、思想上の敵に対して卑劣な悪罵の限りをつくす一部の左翼人の著書とは対蹠的である。(中略)
昭和の文学史は、あまりに多くのイデオロギッシュな歪曲や、眼界のせまい文壇人の文壇意識などによつて
毒されてきた。今後昭和の戦前戦中の文学について語る者は、必ず本書に目をとほすことなしには、公正な目を
養ふことができないであらう、と私は信ずる。
三島由紀夫「一貫不惑」より
399 :
ナナシズム:2011/01/15(土) 21:23:57 ID:???
今の石原慎太郎や戸塚や田母神を見たら三島由紀夫はなんと言うだろうか
400 :
ナナシズム:2011/01/17(月) 20:18:59 ID:???
>>399 石原慎太郎についてはすでに晩年批判してますね。
401 :
ナナシズム:2011/01/24(月) 23:12:30 ID:Jl4DatOY
日本を外国から弁別するメルクマール、日本人を他国人から弁別するメルクマールというのは
天皇しかない。他にいくらさがしてもないんだ。
ぼくは大蔵省にいた頃に、観音崎に皆で団体旅行に行ったんですよ。そしてぼくが船端にいて、
沖を見ていたんだよ。実に海がきれいだった。雲がきれいだった。しかしそれからぼくが
変わり者だという評判がたちまちたっちゃったんです。景色なんか見ちゃいけないんだよ、
本当に。景色を見るやつは、もうすでにアウトサイダーなんだ。そういう社会があるんだよ。
世の中には、見えないやつがいっぱいいるんだ。
現代というものの伝達の仕方から、天皇制というものを、純粋無垢に置こうという意識が
全然ないだろう。威厳を保つには断絶しかないという時代にわれわれは生きているんだ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より
402 :
ナナシズム:2011/01/24(月) 23:12:48 ID:Jl4DatOY
バカなコミュニケーションが発達すればするほど、国民は分裂し孤立してくるでしょう。
伝達することによって、何らそれを統合することはできないでしょう。そうしたら、
統合するためには、伝達しない、元の方法にもどるよりほかないじゃあないですか。
明治時代にはそれが逆だと思うんだ。コンミュニティーするものの主体に天皇を置いて
バラバラになった日本が、国民的統合をやって、近代国家を成立させた。一応近代国家が成立し、
工業化が進展して、社会がこういう、左翼の言葉を使えば自己疎外というようなことが
おこってそして巨大な力で動かされているんだけれども、各人がバラバラになって、
伝達機能が容易になればなるほどバラバラがひどくなる。それを統合するには空白のもの
しかない。絶対に断絶しかない。
…祭主ということなんだよ。結局断絶ということは、時代全体が空間的伝達によって
動いている中で、時間的伝達をする人は一人しかいない、それが天皇だ。
三島由紀夫
石原慎太郎との対談「天皇と現代日本の風土」より
403 :
ナナシズム:2011/01/27(木) 10:46:47 ID:CNjp1IFx
ぼくが否応なしに中国問題というものにとらわれたのは、文学座なんかにいたからですね。
中国に行ったりする俳優がいてね、中国を天国のように言う。そして、それを人に強制する。
その人たちは現実に何を通して中国を知ったかというと、自分たちを接待してくれた人、
そして案内してくれた人を通じてなんですね。それがこういう状態になると、自分が
世話になった文化関係の人がひどい目にあってもこんどは知らん顔。わたしのほうは
毛派だからという顔をする。それが腹が立ってたまらないということがあるわけです。
いまひとつの問題は、この五、六年、それを考えてきたんですが、もしもう一度戦時中の
言論統制の時代がきたらどうするかということなんです。(中略)そういう事態にどう
対処するかということですね。やっぱり文学はお国の役に立たないんだということを
はっきりさせておかなきゃ非常に危険だと思うんです。
三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より
404 :
ナナシズム:2011/01/27(木) 10:47:04 ID:CNjp1IFx
政治家には、腹を切るつもりなんか毛頭ない。そして芸術家のほうは、半分、実みたいな
気持になっちゃった。戦後はことにそうです。
それと、例の言論統制がきた場合にどうするか。ぼく自身の覚悟をいえば、ぼくは虚の
芸術家である。虚をもって、河原乞食として小説を書くんだ。その小説は絶対お国の役に立つ
わけはないし、ぼくがたとい自発的(スポンティニアス)に国粋主義的な小説を書いたって、
それは政治に頼まれて書いているんじゃない。ぼくが自然にわき起って書いているんだから
人がどう思おうと知ったこっちゃない。
しかし、それは虚にすぎない。それじゃ、虚にすぎない芸術にぼくが生きて、そしてどうなるか。
それはぼくはインターナショナリストじゃないから、どこにも亡命できると思わないし、
日本で死ぬほかないと思っていますがね。その場合に、それじゃ虚と一緒にぼくは死ねるか
ということを考え出したんですね。ぼくは死ぬためには虚でありたくないんですよ。
どうしても、死ぬためには実でありたいんです。
三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より
405 :
ナナシズム:2011/01/27(木) 10:47:23 ID:CNjp1IFx
ぼくはひょっとすると芸術至上主義者なのかもしれないと思うのは、どうしても虚を
信じたいから、実のほうに頭がいっちゃうんですよ。何とかして虚を信じたいと思えば
思うほど、虚をしっかり把握するためにはどうしても実がほしい。そうすると剣ということに
なっちゃう。いま石川さんのおっしゃった、わたしは言葉を信じない、文学を信じないと
おっしゃった気持は、ぼくは痛切にわかるな。
…つまり虚を信じないということが、虚に生きる唯一の道かもしれないんですよ。
(中略)
文字を墨で書く場合、紙に墨がぽとっと一滴落ちた瞬間に、文学表現が成り立つでしょう。
それが十部刷ろうが百部刷ろうが、別の問題ですね。だけど、文学というものは、その一滴の
墨のあとから、千部刷る、一万部刷るということになっちゃったらもうおしまいだと思うんです。
…言語というのは言霊だよ。
三島由紀夫
石川淳、川端康成、安部公房との座談会「われわれはなぜ声明を出したか」より
406 :
ナナシズム:2011/01/27(木) 23:26:42 ID:CNjp1IFx
私は進歩主義者ではないから、次のやうに考へてゐる。
精神をきたへることも、肉体をきたへることも、人間の古い伝統の中の神へ近づくことであり、失はれた完全な
理想的な人間を目ざすことであり、それをうながすものは、人間の心の中にある「古代の完全性」への郷愁である、と。
精神的にも高く、肉体的にも美しかつた、古典期の調和的人間像から、われわれはあまりにもかけはなれてしまひ、
社会にはめこまれた、小さな卑しい、バラバラの歯車になつてしまつた。ここから人間を取りもどすには、
ただはふつておいて、心に念じてゐるだけでできるものではない。
三島由紀夫「きたへる――その意義」より
407 :
ナナシズム:2011/01/27(木) 23:27:14 ID:CNjp1IFx
苦しい思ひをしなければならぬ。人間の精神も肉体も、ただ、温泉につかつて、ぼんやりしてゐるやうには
できてゐない。鉄砲でも、刀でも、しよつちゆう手入れをしてゐなければ、さびて使ひものにならなくなる。
精神も肉体も、たえず練磨して、たえずみがき上げてゐなければならぬ。
これは当り前のことなのだが、この当り前のことが忘れられてゐる。若いうちに、つらいことに耐へた経験を
持つことほど、人生にとつて宝はないと思ふ。軍隊のやうな強制のない現在、一人一人の自発的な意志が、
一人一人の未来を決定するにちがひない。
三島由紀夫「きたへる――その意義」より
408 :
ナナシズム:2011/02/04(金) 19:58:20 ID:L2qK8WwE
遺言 平岡公威(私の本名)
一、御父上様
御母上様
恩師清水先生ハジメ
學習院並ニ東京帝國大學
在學中薫陶ヲ受ケタル
諸先生方ノ
御鴻恩ヲ謝シ奉ル
一、學習院同級及諸先輩ノ
友情マタ忘ジ難キモノ有リ
諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ル
一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ
御父上、御母上ニ孝養ヲ尽シ
殊ニ千之ハ兄ニ続キ一日モ早ク
皇軍ノ貔貅(ひきう)トナリ
皇恩ノ万一ニ報ゼヨ
天皇陛下萬歳
(中略)私は生き残つた。遺書は今日、人々を笑はせる。それなりに結構で、おめでたい話にちがひない。
しかし私は、現代日本におけるいかなる死にも、二度とこのやうなもう一つの見えざる手が書かせる遺書は
ありえないことを、空虚に感じる心も否定できないのである。でも、まだしも諦めがつくのは、私もかつては
このやうな大遺書を書いたといふことだ。一生に遺書は多分これ一通で十分であらう。
三島由紀夫「私の遺書」より
409 :
ナナシズム:2011/02/08(火) 10:27:54 ID:8qCN8sjd
>>173の前に補足
私は民主主義は妥協を産物とした賢明な制度であると思ふが、しかしそれはあくまで技術としての政治制度であり、
これはわれわれの誇りであるのだが、これにはこれなりの限界がある。私は、われわれの守るべきものを民主主義が
保障するとも思はないし、また民主主義を守ることがわれわれの守るべきものを最終的に保障するとも考へてゐない。
それではいつたい何を守るのか。私は日本の歴史と伝統の純粋性を守ることであり、それをしない人間は
日本人ではないと思ふ。文化のタテの連続性を守つていかねばヨコにいくらひろがつても、結局われわれが
日本人としての魂を保持できないのではないか。そして私は天皇のお姿が日本の文化をよくあらはしてゐると思ふ。
天皇は権力ではないと思ふ。権力とは、あるものを拒絶することによつて自分の存在を定立する力であると考へる。
民主主義ではこの権力特有の拒絶の機能を非常ないろんなかたちで薄められてゐるからこそこのやうないろんな問題が
起きてゐるのだが、もし権力といふものが拒絶を本質とするならば、何ものも拒絶しないものが天皇であるといへる。
三島由紀夫「私の自主防衛論」より
410 :
ナナシズム:2011/02/08(火) 10:28:57 ID:8qCN8sjd
天皇といふ“鏡”はどんな顔でも映してしまひ、スターリンの“鏡”は自分の気に入らない顔は映らないやうに
できてゐる。日本の文化の全体を天皇といふ“鏡”は包摂してゐる。
日本の歴史をみてわかるやうに天皇は多くの時代日本文化の中心であられた。日本文化のおほらかな、人間性を
あらはした明かるく素直な伝統が天皇の中に受容されてゐる。この文化の象徴である天皇を守るにはどうしたらいいか。
私は、天皇の鏡にもし日本の文化、歴史、伝統とちがつた、大御心といふことのためでないものが映つてきたならば、
それは陛下は拒絶なさることはできないので、国民がそれを拒絶することが忠義であると思ふ。
共産主義が日本の政体を変へて天皇を日本の文化、伝統から引き離し、あるひは日本の文化を破壊して天皇をすら
破壊しようといふ意図を秘めてゐるのであるから、われわれはこれと戦はねばならないと思ふのである。
三島由紀夫「私の自主防衛論」より
411 :
ナナシズム:2011/02/08(火) 11:50:53 ID:N9klrrPM
あっ…
412 :
ナナシズム:2011/02/09(水) 05:56:33 ID:+CMagPW/
/ヾ
ゝイ丿
/ /
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∧ ∧ / // ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
シコ ( ゚Д゚)、 / /< ひゃっほう!
/ ヽ、 / / \______
シコ ( ) ゚ ゚/ヽ、/⊂//
\ ヽ、 ( /⊂//
\ ⌒つ /
(  ̄/ /
| |O○ \
| | \ \
| ) | )
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/ / ∪
∪
413 :
大日本報靖會 ◆lZCvso1D7U :2011/02/09(水) 22:38:34 ID:cPDmoK+p
天長節奉祝日乃丸大行進の御案内
[日時]
平成廿二年十二月廿三日(木曜日)雨天決行
第一部 十七時〜 集會
第二部 十八時〜 日乃丸大行進
[場所]
大通り公園中央(神奈川縣横濱市中區弥生町三の卅五)
(地下鐵 阪東橋・横濱橋商店街前の所です)
※日章旗・旭日旗・幟・提燈等歡迎致します。
※服裝自由、隊服着用可、會旗・隊旗掲揚歡迎致します。
※駐車場の用意は御座いませんので、交通機關を利用して御越し頂ければ幸ひです。
[主催] 神奈川縣維新協議會
414 :
ナナシズム:2011/02/11(金) 12:15:59 ID:TI9UBAGx
行動といふものはそれ自体の独特の論理を持つてゐる。したがつて、行動は一度始まり出すと、その論理が終るまで
やむことがない。これはあたかもぜんまいを巻ききつたおもちやが、そのぜんまいがゆるみきるまで無限に同じ
運動を繰り返すのに似てゐると言へよう。知識人にとつては、行動のこのやうな論理がこはいのである。
目的のない行動はあり得ないから、目的のない思考、あるひは目的のない感覚に生きてゐる人たちは行動といふものを
忌みきらひ、これをおそれて身をよける。思想や論理がある目的を持つて動き出すときには、最終的にはことばや
言論ではなくて、肉体行動に帰着しなければならないことは当然なのである。
人生の時間や、また何百時間に及ぶ訓練の時間は人々の目に触れることがない。行動は一瞬に火花のやうに
炸裂しながら、長い人生を要約するふしぎな力を持つてゐる。であるから、時間がかからないといふことによつて
行動を軽蔑することはできない。
三島由紀夫「行動学入門」より
415 :
ナナシズム:2011/02/11(金) 12:17:05 ID:TI9UBAGx
体を動かしてゐるときには、われわれの体自体が全体なのである。したがつて、自分の体以外の全体といふものは
その目に映らない。どんなにチームワークのとれた団体競技であつても、その一人一人のプレーヤーの行動は、
いつも全体の見地から行なはれてゐるわけではない。われわれは全体が見えないで、自分の命じられ、指定された
行動の中で全力を尽くすときに、肉体行動としての最高のレベルに達することができる。しかし、その場合にも
少なくとも集団行動であれば、全体を見透かす目がなければならない。ところが、人間が全体を見透かすのは
目だけであつて、体全体ではないのである。
ここに一つの矛盾が起きてくる。われわれは、行動しようとすると自分の体を動かす。しかし、その行動を有効にし、
目的に向かつて進めようとすれば、かつ幾つかの力を集めて、集団的な力を発揮させようとすれば、どうしても
その全体を統制する行動者にならなければならない。しかし、全体を統制する行動者になることは、無限に自分から
肉体的行動の余地を少なくしていくことなのである。
三島由紀夫「行動学入門」より
416 :
ナナシズム:2011/02/11(金) 12:18:02 ID:TI9UBAGx
真に有効な行動とは、自分の一身を犠牲にして、最も極端な効果をねらつたテロリズム以外にはなくなるであらう。
ところが死の向う側にわれわれは自分の個人の効果といふものを、あるひは個人の利得といふものを考へることは
できないのであるから、政治的効果といふものは初めから超個人的なところに求められなければならない。
超個人的な効果をねらつて個人が自己犠牲を払ふといふところにしか、政治的効果がないとすれば、それ以前の
すべての効果は無効にすぎない。
しかしまたそこには逆説が成り立つので、われわれは全く無効だと覚悟した行動にしか真の政治的有効性といふものを
発見しないのかもしれない。
無効性に徹することによつてはじめて有効性が生じるといふところに、純粋行動の本質があり、そこに正義運動の
反政治性があり、「政治」との真の断絶があるべきだ、と私は考へる。
三島由紀夫「行動学入門」より
417 :
ナナシズム:2011/02/11(金) 12:19:00 ID:TI9UBAGx
待機は、行動における「機」といふものと深くつながつてゐる。機とは煮詰まることであり、最高の有効性を
発揮することであり、そこにこそほんたうの姿が形をあらはす。賭けとは全身全霊の行為であるが、百万円持つて
ゐた人間が、百万円を賭け切るときにしか、賭けの真価はあらはれない。なしくづしに賭けていつたのでは、
賭けではない。その全身をかけに賭けた瞬間のためには、機が熟し、行動と意志とが最高度にまで煮詰められ
なければならない。そこまでいくと行動とは、ほとんど忍耐の別語である。
長い待機の時間はことばではないのである。行動とことばとの乖離が行動を失敗させるやうに、ただことばや観念で
待機に耐へようとする人間は必ず失敗する。坐禅がその間の消息をよく説明してゐるが、面壁して何時間でも坐つて
ゐなければならぬといふ、あの精神状態には、生き、動かうとする人間の行動を徹底的に押しつぶして、そこに
人生の真理に到達する精神的なバネを、たわみ込んでいくといふ発明がみられる。行動がことばでないと同様に、
待機もことばではない。それはただ濃密な平板な、人生で最も苦しい時間なのである。
三島由紀夫「行動学入門」より
418 :
ナナシズム:2011/02/11(金) 13:20:17 ID:TI9UBAGx
アメリカ的な戦術は敵の可能行動を幾つかに分析して、消去法によつてその可能行動を絞つて、それに向かつて
こちらの作戦を立てるといふことが綿密に行なはれてゐる。しかしかういふ合理的な作戦といへども、相手が
自分と同じ頭脳を持ち、論理構造を持つてゐるところで初めて成り立つもので、敵が宇宙人であるかあるひは
ベトコンのやうに、アメリカ人とまるきり違つた生活感情と論理構造を持つてゐる人間が相手のときは往々にして
失敗する。
計画は百パーセントを規制するものでもなく、行動の百パーセントの成功を保証するものでもないが、その
何十パーセントかを可能の範疇の中に組み入れる。人は行動の型を持つてゐる。(中略)相手方の行動のパターンを
収集するのは情報の働きである。
ソウル市内の北鮮スパイがいかにして露見するかを聞いたが、実につまらないことでたびたび捕まつてゐる。
一例がタバコである。(中略)北鮮スパイはまづタバコの値段を聞くところで足がつく。またタバコの値段をよく
知らないので、おつりをもらふのを忘れたことで足がつく。(中略)向う側からいへば、情報の不足である。
三島由紀夫「行動学入門」より
419 :
ナナシズム:2011/02/11(金) 13:22:00 ID:TI9UBAGx
行動とは、自分のうちの力が一定の軌跡を描いて目的へ突進する姿であるから、それはあたかも疾走する鹿が
いかに美しくても、鹿自体には何ら美が感じられないのと同じである。およそ美しいものには自分の美しさを
感じる暇がないといふのがほんたうのところであらう。自分の美しさが決して感じられない状況においてだけ、
美がその本来の純粋な形をとるとも言へる。だからプラトンは「美はすばやい、早いものほど美しい」と言ふのである。
そしてまたゲーテがファウストの中で「美しいものよ、しばしとどまれ」と言つたやうに、瞬間に現象するものにしか
美がないといふことが言へる。
武士があらゆる芸能を蔑みながら、能楽だけをみとめたのは、能楽が一回の公演を原則として、そこへこめられる
精力が、それだけ実際の行動に近い一回性に基づいてゐる、といふところにあらう。二度と繰り返されぬところにしか
行動の美がないならば、それは花火と同じである。しかしこのはかない人生に、そもそも花火以上に永遠の瞬間を、
誰が持つことができようか。
三島由紀夫「行動学入門」より
420 :
ナナシズム:2011/02/11(金) 21:18:59 ID:TI9UBAGx
力はいつも数で評価され、戦力は数以外にはないと思はれてゐる。しかし、数が増すほど行動のヴォルテージが
下がり、数が減るほど行動のヴォルテージが上がつて、例へばテロ化する、といふ法則も亦厳然として在る。
ゲリラは多くは小さな集団であつて、その小さな集団では数はたいして意味をなさない。その数のかはりに
一人一人の能力と、おそるべき意志力と、その団結心が要求されるのである。ここで集団と団結心との問題が
きは立つたコントラストをなして浮かんでくる。
もし、鉄の団結を持つた大集団があれば、それは有効であり、人におそれられるであらう。(中略)しかしながら、
ほんたうの意味で強固な団結心に富んだ、巨大な集団といふものは考へられない。われわれは自分の手で小さな
集団でもつくつてみれば、小集団ほど団結心も高い筈であるのに、その実、いかに強固な団結心をつくるのが
むづかしいかといふことを、如実に味はふのである。
三島由紀夫「行動学入門」より
421 :
ナナシズム:2011/02/11(金) 21:21:41 ID:TI9UBAGx
集団をつくれば、そこにおのづからその集団の目的に照らして、人間の差が歴然と出てくることを否定することは
できない。ごく簡単に言つても、十人の集団がゐれば一人が自然に指導者になるだらう。そして百人の集団のうち
十人が精鋭であれば、あと九十人は幾つかのニュアンスを持ちながら、ぐうたらの会員から、非常に熱心な会員までの
幾段階かに分けられてしまふ。キリストの弟子は十二人あつて、そのうちに一人ユダといふ裏切り者がゐたやうに、
集団は宿命的にさういふものを持つてゐるのである。
そして集団の濃淡は、一番濃い中心としての指導者から、周辺に広がるほど薄まつていき、その薄まつた極限まで
全部を含めた行動が集団行動となる点では、大衆社会の何千人、何万人のマス行動とも何ら変りはない。
一人一人が全く自発的な意志で、全能力をかけて、お互ひにまた同じやうな高さの能力を持ちながら団結すると
いふことは、実は口で言つてもやさしいことではない。
三島由紀夫「行動学入門」より
422 :
ナナシズム:2011/02/11(金) 21:22:41 ID:TI9UBAGx
われわれは集団行動と一口に言ふけれども、そこに微妙なニュアンスの差があつて、最後の最後には、中心の個人の
決意にすべてがかかつてゐるといふことをみるのである。一種の非合理的な熱狂と陶酔の渦で大ぜいの人間を
巻き込みながら、一つの目的へ向かつて突き進めるには、その中核体が熔鉱炉の炎のやうに燃え盛つてゐなければ
ならないのである。革命的指導者とはそのやうなものであり、右からの革命でも、北一輝はそのやうなカリスマ的
性格の持ち主であつた。いはばカリスマ的性格とは、核融合を起させる一番最初の核のやうなものであつて、
彼が原動力であり、彼が炎の中心であるからこそ、火は燎原の炎のやうに周囲に広まつていくのである。そこで
われわれは集団行動といふことばにまぎらはされずに、一人の人間の意志が歴史を突き動かし、結局、大きな歴史も
一つの人間意志から生まれたといふところに注目しなければならない。カストロも、また、ゲバラも毛沢東も
一個人であつた。どんな変革も、個人の心の中に初めてともつた火から広がつていくものだといふことを知らねば
ならない。
三島由紀夫「行動学入門」より
423 :
ナナシズム:2011/02/11(金) 21:23:52 ID:TI9UBAGx
すべてのものに始めと終りがあるやうに、行動も一度幕を開けたらば幕を閉じなければならない。行動は、
たびたび繰り返したやうに、瞬時に終るものであるから、その正否の判断はなかなかつかない。歴史の中に
埋もれたまま、長い年月がたつても正当化されない行為はたくさんある。
行動はことばで表現できないからこそ行動なのであり、論じても論じても、論じ尽くせないからこそ行動なのである。
ことばでとらへた行動といふものは、煙のやうに消えていき、そこに何ら痕跡は残らず、また、行動の理論体系を
立てるといふこと自体が、行動家の目から見ればすでに滑稽である。
法はあくまで近代社会の約束であり、人間性は近代社会や法を越えてさらに深く、さらに広い。かつて太陽を浴びて
ゐたものが日蔭に追ひやられ、かつて英雄の行為として人々の称賛を博したものが、いまや近代ヒューマニズムの
見地から裁かれるやうになつた。
三島由紀夫「行動学入門」より
424 :
ナナシズム:2011/02/11(金) 21:26:41 ID:TI9UBAGx
行動はともするとヒューマニズムを乗り越えるものであり、生命の危険ををかすものであり、したがつて、
近代ヒューマニズムがつくり上げた全体系と衝突するものである。
会社の社長室で一日に百二十本も電話をかけながら、ほかの商社と競争してゐる男がどうして行動的であらうか?
後進国へ行つて後進国の住民たちをだまし歩き、会社の収益を上げてほめられる男がどうして行動的であらうか?
現代、行動的と言はれる人間には、たいていそのやうな俗社会のかすがついてゐる。そして、この世俗の垢に
まみれた中で、人々は英雄類型が衰へ、死に、むざんな腐臭を放つていくのを見るのである。青年たちは、自分らが
かつて少年雑誌の劇画から学んだ英雄類型が、やがて自分が置かれるべき未来の社会の中でむざんな敗北と腐敗に
さらされていくのを、焦燥を持つて見守らなければならない。そして、英雄類型を滅ぼす社会全体に向かつて
否定を叫び、彼ら自身の小さな神を必死に守らうとするのである。
三島由紀夫「行動学入門」より
425 :
ナナシズム:2011/02/12(土) 10:38:26 ID:dnRRVKIf
>>163の前に補足
日本の軍備の制約下では、核兵器は保有を許されてゐないから、安保条約が当然必要になり、自民党のいはゆる
「核の傘の下」に入ることを余儀なくされてゐるわけである。全く現実的な見地でいへば、アメリカの強大な軍備に
守られてこそ、やうやく日本の自主防衛ですらも可能になるといふやうな情況にあることを否定することはできない。
しかし、果たしてこれをもつて日本人は満足するであらうか。ごく素朴な見方をしても、日本人は久しく、自衛隊が
果たして我々自身の軍隊であるかといふことに疑惑を表はしてきた。もし日本が代理戦争のやうなものに巻き
込まれて、自衛隊が出勤し、あるひは国連警察軍の名目の下に、アメリカが出勤するやうなことがあつた場合、
その自衛隊の最高指揮権は名目上、日本の総理大臣になつてゐるけれども、米軍との共同動作がどの段階でなされ、
且つ、その日本軍と米軍との戦略的な観点の相異がどこで調整されて、どこで最終的にコントロールされるかと
いふ問題になれば、人はそれをアメリカ大統領ではないかといふ疑惑を禁じることはできないのである。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
426 :
ナナシズム:2011/02/12(土) 19:32:51 ID:dnRRVKIf
>>165の後に追加
(中略)
自衛隊が間接侵略事態に我々の味方であるといふことは心強いことではあるけれども、同時に自衛隊のそれぞれの
使命を我々の目の前に平時からはつきり分けておき、それによつて我々と自衛隊との間の大きな国民的な紐帯を
確保しておかなければ、いつたん緩急ある時には甚だ危険であるといはなければならない。なぜならば間接侵略事態に
対処する国民の努力と、治安出勤に出た自衛隊との間にすこしでも齟齬ができれば、自衛隊は支配階級あるひは
権力機構あるひは外国勢力の傀儡であるといふ宣伝がたちまちなされて、国民感情の間にヒビが入れられ、その
国民と自衛隊との間の間隙、齟齬、亀裂にこそまさに革命勢力の狙ひが生かされてくるのであらうからである。
したがつて私は平時から自衛隊と国民との間の緊密な紐帯が必要であると考へる者であり、そのためには単なる
自衛隊のファンであつたり支持者であるだけでは足りず、国民が何らかの形で自衛隊の内部に接触し、且つ
自衛隊の訓練を国民的訓練の一部として受けるべきであるといふ考へさへ持つてゐる。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
427 :
ナナシズム:2011/02/12(土) 19:35:00 ID:dnRRVKIf
私はしかしここでいま徴兵制度の復活を唱へるのではなく、もつとさまざまな形の自衛隊と国民との間の軍事訓練を
結び目とした接触が考へられてもよいと思ふわけである。
(中略)
現下日本は細説したやうに安保条約を通しての集団安全保障体制も捨てることはできない。また同時に、日本の
経済的復興によつて高揚してきたナショナリズムに立脚してきたところの国民精神の復興と、国民が自らの手で
国を守らうとする自主独立の精神をも無視することはできない。いかにしてこの二つを結合し、いかにして
この二つに所あらしめるかといふことが私の発想である。すなはち陸上自衛隊の主任務が間接侵略対処であるなら
これこそ国民の軍として適切なものである。ことにこの複雑な政治的状況下における間接侵略事態対処においては、
国民が真に軍隊を我々のための軍隊であると考へ、且つ局部的には日本人が日本人を殺すやうな悲惨な状態が
生じてもなほ且つ自衛隊を信頼して、それこそ国民の最終的な幸福のための軍事行動であると納得するためには、
これを最終的に我々自身の軍隊と考へなければならない。
三島由紀夫「自衛隊二分論」より
428 :
大日本報靖會 ◆lZCvso1D7U :2011/02/12(土) 22:04:22 ID:gUAk6hnK
■第113回一水会フォーラム
日時・平成23年3月14日(月)/18時30分開場・19時開会
演題・有事到来。米国は日本をどこまで守ってくれるのか?
講師・孫崎享先生(元外務省国際情報局長・元駐イラン大使)
場所・ホテルサンルート高田馬場
会場整理費・2000円
429 :
ナナシズム:2011/02/21(月) 17:21:25.60 ID:zr8sZHTB
私は戦後の国際戦略の中心にあるものはいふまでもなく核だと思ひます。そして核のおかげで、世界大戦が
避けられてゐるのも事実ですが、同時に核が総力戦体制をとることをどの国家にも許さなくなりました。なぜなら、
総力戦体制をとつた戦争はただちに核戦争を誘発するからであります。そして世界戦争の危険がさけられると同時に
限定戦争と云ふ新しい戦争が始められました。(中略)ところが、限定戦争の最大の欠点は国論の分裂を必然的に
きたすといふ事であります。なぜなら総力戦体制に入つた場合にはどんな自由諸国でも国民の愛国心がおほいに
高揚されて、国民はいやでもおうでも、祖国のために戦ふといふ信念に燃え立ちます。第二次世界大戦時がさうで
ありました。ところが今は、一方で国家が国家の国際戦略に従つて、限定戦争を行なつても、国内では総力戦体制が
しかれてをりませんから、これに反対する勢力は互角の勝負で戦ふことが出来ます。従つて限定戦争があるところでは、
かならず平和運動と反戦運動が収拾出来ないやうな勢ひで燃え上ります。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
430 :
ナナシズム:2011/02/21(月) 17:23:37.37 ID:zr8sZHTB
(中略)しかしながら、限定戦争に対する抵抗する体質としては、自由諸国と共産諸国とではおのづから違ひます。
共産諸国は、閉鎖国家でその中で言論統制が自由であり、相互の監視が徹底してゐますから、国論の統一のためには、
どんな陰鬱な暗澹たる手段を弄することも辞さない。(中略)
そしてアメリカでは御承知のとほり反戦運動が収拾つかないやうな形になつてをり、しかもそれがブラック・パワーの
やうな一種の民族主義的なものと結びついて、ますます国論統一を妨げていく状況です。
(中略)共産圏の有利な事は、人民戦争理論といふものがありますから、自由諸国の正規軍に対して、自分らの方は
不正規軍をもつて不正規戦を戦ふことが出来る。この不正規戦はあくまで人民が主体で、女、子供もこの戦争に
参加します。そして彼等は、いはゆる工作員になつて、全くなにも知らない子供が手紙の走り使ひにつかはれても、
その手紙が重要な秘密文書である場合もある。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
431 :
ナナシズム:2011/02/21(月) 17:24:58.21 ID:zr8sZHTB
(中略)これで一方では、アメリカ正規軍の兵隊が十人死ぬとする。一方では人民戦争に参加した、あるひは、
ひそかに参加した女、子供が十人死んだとする、その場合にその死の与へる衝撃は女、子供の方が何十倍強い事は
御承知のとほりであります。
(中略)
今言つた事をだいたい要約しますと、共産圏の利点としては、限定戦争下における国論統一の利点、人民戦争理論に
よるヒューマニズムの徹底的利用の利点、この二つが彼等の最大の利点であります。この点については自由諸国内の
マスコミュニケイションは、むしろ共産圏に有利に働くわけであります。(中略)
かういふ点から、自由諸国は二つの最大の失点を初めから自らのうちに包含してゐるんです。これを考へないでは
世界戦略も国際戦略もないといふ事は非常に重要な問題で、これをコンピューターではじいて、物量の上で、
あるひは純戦術的な上で勝つ事が明らかな場合でも、この二つの失点によつて負けるべき事は今までしばしば
実際にあつたとほりです。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
432 :
ナナシズム:2011/02/21(月) 22:09:06.19 ID:zr8sZHTB
日本のことを考へますと、私は日本はやはり、あくまで忘れられたものに対する価値といふものを認識してゐないと
いふ感じがしてしやうがないのです。といふのは、日本も自由諸国の一環でありますから、私は言論統制といふ事には、
非常に反対であります。そして分断国家の場合には共産圏に対する反感、憎悪、あるひは競争意識、かういふものは、
国民に彌漫してをりますし、また、共産圏からも直接的な被害、肉親の殺戮、その他の恐ろしい体験がありますから、
これに対する言論統一はむしろ容易であります。韓国が良い例であり、いろんな分断国家ではさういふ例が見られます。
(中略)さういふ意味で(日本は)非常に言論統一といふ事がむづかしい。もしこれを強行しようとすれば、
非常に人工的な手段を使つて、益々国民の反撃をかふやうな方法でしか出来ないわけでありますから、マスコミ操作と
いふ事自体が難しくなつてくる。これはアメリカも同然であります。ところが日本人には民族精神の統一として、
その団結力の象徴といふものがあるのに、それが宝の持ち腐れになつてゐるといふのは、これは当然天皇の問題で
あります。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
433 :
ナナシズム:2011/02/21(月) 22:10:57.98 ID:zr8sZHTB
またもう一つは、第二のヒューマニズムの利用といふ点につきましても、我々は現代の新憲法下の国家において、
ヒューマニズム以上の国家理念といふものを持たないといふ事によつて苦しんでゐる。先のよど号事件にも
見られましたやうに、韓国や北鮮が非常に鮮明な単純なわかりやすい国家意志を表明したのに、日本政府は、
つひに人命尊重以上の理念を打ち出す事が出来なかつた。これはあくまでも敵に戦略的に負けてゐる事であると
私は思ふのです。といふのは、新憲法の制約が、あくまで人命尊重以上の理念を日本人に持たせないやうに
ぎりぎりに縛りつけてあるからであります。
私がこれから申し上げる防衛問題の前提としてこれを申し上げるのは、我々はヒューマニズムを乗り越えて、
人命より価値のあるもの、人間の命よりももつと尊いものがあるといふ理念を国家の中に内包しなければ
国家たり得ないからであります。これは種々利用されて欠点はありますが、我々は天皇といふものを持つてゐる。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
434 :
ナナシズム:2011/02/21(月) 22:12:59.16 ID:zr8sZHTB
我々がごく自然な形で団結心が生ずる時の天皇、それから、人命の尊重以上の価値としての天皇の伝統と、この
二つのものを持つてゐながら、これを常にタブーにして手をふれることが出来ないままに戦後体制を持続してきた。
ここに私は共産圏、敵方に対する最大の理論的困難があるにもかかはらず、結局この根本的な問題を是正すること
なしに、ずるずると動いてきてゐることに非常に危機感を持たざるを得ないのです。そして現在の状況は、戦争は
すぐには起りますまいが、ある暴力が発生すると、非暴力といふものが非常にいいことに見えます。(中略)
さういふ点から、左右そのものが平和的な仮面を被つた共産党系と、いろんな点で利用し合ふやうになる。
これは大きな政治の場面でも、向うが平和的な手段にくれば、これを利用することによつて自分も利得をうる。
そして中間にゐる大衆社会はどちらもニュートラルなものとして歓迎する、さういふ状況が出来上つてゐることが
戦略上、非常に私は問題点であると考へます。これは、私は日本の防衛といふものの、先づ基本的な前提として
判つていただきたいと思ふのです。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
435 :
ナナシズム:2011/02/22(火) 11:17:28.47 ID:XXgmUw+o
第二に今度私は国防理念の問題を申し上げたいと思ひます。それで国防理念の問題としては、我々はつまり物理的な
あるひは物量的な戦略体制といふものに非常に頭が凝り固まつてゐる。例へば中国の核の問題。この核に
対抗する手段が我々には無いわけです。ABMを持たうと思つてもABMは非常に金がかかりますから、ABMを
持つことだけでも大変なことであります。それによつて我々は、集団安全保障といふ理念の中に入つて日米安保
条約によつてアメリカの核戦略体制の中に入るといふことを、国家の安全保障の一つの国是にしてゐるわけです。
ところが、アメリカはABMを持つてをりますが、日本はABMを持つてゐない。従つて核に対しては、我々は
アメリカの対抗手段に頼ることは出来ますが、アメリカの防衛手段から我々は疎外されてゐる訳であります。
我々は防衛手段を自分で持たなければなりませんが、その防衛手段については、あくまでも核の問題が入つて
きますから、非核三原則を原則とする現政府では、それについて核に対抗する核的な防衛手段もまた制限されて
ゐるといはなければなりません。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
436 :
ナナシズム:2011/02/22(火) 11:18:54.72 ID:XXgmUw+o
ところが集団安全保障と自主防衛との問題が段々出てきますにつれて、この間の矛盾が、私は、国防理念の中で
段々大きなギャップと裂目を露呈してくるのが、これから二、三年の大きな問題ではないかといふふうに考へて
をります。といふのは、沖縄の問題において、我々は自主防衛といふ問題にいやおうなく直面せざるを得ませんが、
自主防衛とは何であるかといふことについて、先づ人々が考へることは、核のことであります。我々は核が無ければ
国を守れない、しかし核は持てない、これは永遠の論理の悪循環で、核が持てないから集団安全保障に頼る外はない。
従つて我々にとつては、純然たる自主防衛といふことは有り得ないんだ。我々の自主防衛といふものは、
集団安全保障の前提付の上で、二次的に自主防衛といふものが、からうじて許されるわけである。かういふ
固定観念が私は非常に強くなつてゐると思ひます。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
437 :
ナナシズム:2011/02/22(火) 11:20:15.60 ID:XXgmUw+o
さういふ場合には、新憲法自体が国連憲章の上に成り立つてゐまして、国連の防衛理念といふものが第一になつて
ゐるにもかかはらず、我々は国連軍に参加することも出来ませんから、国連の防衛理念に対しては、片務的であつて、
我々は国連的な防衛理念によつて、自らの手で自らを守る、といふやうな論理矛盾を犯さざるを得ない。
(中略)我々は我々の国を守るのだ、外国の世話にならないで我々のことは、我々でやるんだ、ともかく我々の
この腕の力の限り、やるだけやるといふところが、我々の考へる自主防衛です。しかしこの理論的裏付けとしては
はつきりいつて何も無い。といふのは、もし戦略的に考へれば、そんな事は、不可能だ、だから国連軍に入れば
いいだらう。従つてもし、非常に政治的にいへば、お前はさういつてゐる段階でもうすでにアメリカの戦略的体制に
引つかかつてゐるんだ、お前はアメリカの傭兵になつてゐるんだと、いはれざるを得ないところへ自分を
追ひこむ外はない。自主防衛といふ言葉をさういふふうに使はしてしまつたのは誰の罪だ。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
438 :
ナナシズム:2011/02/22(火) 19:48:52.39 ID:XXgmUw+o
(中略)私はこの間、防衛研修所に行つてこの話を大分したのですが、防衛研修所の人達が十週間位にわたつて、
お互に議論してきた結論は実に簡単なことなのです。つまり魂の無い所に武器はない。これは日本の防衛体制を
考へる場合に、魂のない所に武器はないといふ、こんな簡単なことはないんです。ところが、一方では武器が
多ければ魂が無くても安全だといふ考へがある。そして一方では魂が有つても武器が無ければしやうがないのでは
ないかといふ考へがある。いまの日本のいはゆる非武装中立といふ考へが、ある程度非常に観念的ではあります
けれども、日本人のメンタリティーのどつかに訴へてゐるといふのはまさにこの点の矛盾をついてゐるからだらうと
思ひます。といふのは、魂のないやつがいくら武器をもつてもしやうがないから武器をもたんでおかう、といふ
事になれば実際おつしやるとほり何ともいひやうがない。しかし防衛問題のキーポイントは、魂と武器とを
結合させることであります。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
439 :
ナナシズム:2011/02/22(火) 19:50:38.07 ID:XXgmUw+o
(中略)
ところが、核兵器が発明されましてからモラルと兵器といふものが無限に離れてしまつた。といふのは使へない
からです。我々は人間が使へない武器を持つた時に、人間の思想と道徳の問題が最大の危機に直面したといふ
ふうに私は考へる。といふのは、使へない武器は恫喝にすぎませんから、恫喝によつて、どんな嘘も可能になる。
例へば膨大な核基地が何処かにあるといふことが、察知されますと、敵側からスパイを派遣してこれを察知するでせう。
あらゆる方法で情報を集めてこの核基地の所在を発見しようとするでせう。ところがこの核基地の所在が本当は
無くてもいいんです。無くても絶対ここにあると信じれば充分恫喝になるのですから、核兵器といふものは、
最終的にいへば、無くてもいいんです。あるぞといつてゐるだけで嚇かされるんです。勿論昔の法科をお出に
なつた方は、秋刀魚をもつて強盗に入つた場合に、強盗に入られた方がこれを凶器だと思つて間違へて金を
出した場合、これはどうなるのだといふ問題を出されたと思ふのです。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
440 :
ナナシズム:2011/02/22(火) 19:52:56.68 ID:XXgmUw+o
これは刑法上昔から錯誤の問題として出される珍問題の一つですが、核とは秋刀魚と同じやうな形をもつてゐる。
持たなくても持つてゐると嚇かすだけで効果がある。この場合には、核といふものはつまり心理的な武器になり、
人間の心理に嘘をつかせる、そして嘘であつても、とにかく恫喝されるといふ目的が達せられればいいので
ありますから、証明するやうな材料が最終的に無ければ無い程有利であるわけです。
これは、沖縄問題で非常によく出たと思ふのであります。といふのは佐藤さんがアメリカにいらした時に、沖縄の
核兵器の基地を撤去するかしないかの問題を新聞記者会見でつつこまれました。この問題についてはわれわれは
両国間の暗黙の腹芸としていへないとおつしやつた。これは勿論です。いへないことが核兵器の面白いところです。
もし、これが普通の武器でしたら使ふ武器ですから、ここに日本刀が三挺あるぞ、ここに機関銃が三挺あるぞと
いつた方が有利なはずです。それなのにいへないところに核の面白さがある。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
441 :
ナナシズム:2011/02/22(火) 19:56:32.51 ID:XXgmUw+o
ここで私は武器と魂、武器とモラルといふものの結び付きが非常にこはれてきた、それと同時に国民精神といふ
ものに対する影響が核によつて非常にマイナスに働いてきたと思ひます。といふのは国民精神といふのは正直な
ものです。国民が一心団結して火の玉になつて敵国にあたらう、あるひは国を守らうといふ時には、それの
よりどころとして日本には昔、日本刀があつたんです。あるひは、アメリカには、フロンティア・スピリットが
あつてピストルといふものを彼等は持つてゐます。そこに己の存在をかけますから、おれは命をはつてもこの
モラルを守るといふやうな気構へがある。しかし、あるかないか分からんものに対して、どうして人間はモラルを
かけることが出来るか。自分の全生涯をかけることが出来るか。そこに国民精神分裂の一つの原因とモラルの
退廃が潜んできた。
そこに参りますと、コンベンショナル・ウェポンといふものの戦略上の価値をもう一つ復活すべきではないだらうか。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
442 :
ナナシズム:2011/02/23(水) 16:50:07.42 ID:48Ub0gg0
人民戦争理論でなくて核でなくて、日本が闘へる、しかし一歩も日本によせつけないといふものを考へますと、
これは、私は英語を使つたコンベンショナル・ウェポンでなくて、日本には日本刀といふものがあるではないか、
日本刀で充分だと云ふ考へに到達せざるを得ない。私は、かういふのは単に比喩としていつてゐるのであつて、
日本は、日本刀だけで守れるとは限りませんから、五十歩百歩と云ふことを考へれば、たとへ非核ミサイルを
持つても、地対地ミサイルを持つても、地対空ミサイルを持つても、核でないから日本刀と同じことなのです。
全く同じことなのです。それならば日本刀の原理といふものを復活しなければ、どうしたつて防衛問題の根本的な
ものは出てこないんです。(中略)使へる武器だけを持つてゐるのは日本の利点だと考へなければいけない。
(中略)そしてここにつまり武士と武器といふものを、武士と魂とを結びつけることができなければ、日本の
防衛体制は全く空虚なものになつてしまふ、といふところが私の考へてゐる最終的のところです。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
443 :
ナナシズム:2011/02/23(水) 16:51:30.37 ID:48Ub0gg0
さて、武士といふものはどういふものか。私は、中曾根長官が就任されたとき、又聞きですから、軽率な判断は
慎みますが、自衛隊は一種の技術者集団である、そしていはゆる武士ではない、などと仰せられた様に仄聞して
をります。私の間違ひだつたら訂正致しますが、とんでもない話である。もし自衛隊が武士道精神を忘れて、
いたづらにコンピューターに頼り、いたづらに新しい武器の開発や、新しい兵器体系といふ玩具に飛びつくことに
よつてしか日本の防衛が考へられないやうになつたら、その体質において自衛隊には超近代軍隊といふものが持つ
非常な欠点が表はれる。それは軍の官僚化といふこと、次は軍の宣伝機関化だといふことだ。そしてかういふことは、
各国の軍隊で非常に困つてゐることでありますが、さらにもう一つ、軍の技術者化。この三つが問題です。(中略)
そのテクノクラットは、このテクノクラシーの社会でなんら軍人といふ意味をもたないのです。大会社の実験を
やつてゐる技術者と軍隊で一番新しい兵器を開拓した技術者と、スピリットとしてちつとも変わらないものになる。
そこに産軍合同の理念があるわけです。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
444 :
ナナシズム:2011/02/23(水) 16:52:55.06 ID:48Ub0gg0
もう一つは、軍のパブリシティといふもの、軍の秘密主義からなるたけ国民にパブリサイズすることとなれば、
軍の主張は必然的に大衆社会に追随することになりますから、いつまでたつても、軍といふものは、男性理念を
復活することができなくて、益々、おふくろ原理に追随しなければならない。もう一つ軍の官僚化といふことは、
軍が戦争しないうちに、あくまで、軍の秩序維持といふことに、頭を労してゐるうちに、シビリアンコントロールが
いきすぎて、軍の体質といふものが、野戦の部隊長といふものを生まなくなる。あくまでも、この静かな奇麗な
官僚機構の中の一環になつて、これは、政府には、非常に喜ばしい傾向かもしれませんが、武士としては、野性の
欠如した、非常に上官にペコペコするやうな、全く下らない人間が出来上る。そして、単なる戦争技術者になつて
一切スピリットが無くなる。このスピリットが無くなる空隙を狙つて、先に申し上げた共産勢力といふものは
自由自在に入つてくるんです。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
445 :
ナナシズム:2011/02/24(木) 10:38:58.04 ID:xP61fxpz
(中略)
よく外国人の記者からいはれますが、私は、小さな会などをやつてゐますから、お前は日本に軍国主義が
復活するのを鼓吹してゐるのではないか、軍国主義を鼓吹するために、さういふ事をやつてゐるのではないか、
といろいろいはれるんです。私はいつも、それについて申しますのは、武士道と軍国主義といふものを、一緒に
扱つたのがアメリカの占領政策の一番悪い処である。アメリカ人は、日本が負けた時に、武士道精神をもつて、
日本の武士道に対する敬意だけを残すといふことを遂にしなかつたではないか。彼等は、日本の武士道と日本の
末期的な軍国主義とを全く同一視した。そのために、剣道もやらせなくなつた。そして、まあ一時は歌舞伎ですら、
非常にこの復讐劇や、侍の精神を鼓吹したやうな歌舞伎はやらせなくなつた。
彼等は、外国人だから、仕方がないけれども、日本の武士道といふものは、軍国主義と如何に背反して悲劇的な
結末にいたつたかといふことを、歴史的に無視したからだといふ風にいつも説明するのです。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
446 :
ナナシズム:2011/02/24(木) 10:39:59.53 ID:xP61fxpz
私が外人に説明しますことは、乃木大将をもつて、日本の軍における、武士道といふものは、一応終つたんだ、
といふ風に説明するんです。(中略)私は、外人に極く概略的に説明しますことは、武士道と云ふものは、
セルフ・リスペクトと、セルフ・サクリファイスといふことが、そして、もう一つ、セルフ・レスポンシビリティー、
この三つが結びついたものが武士道である。そして、この一つが欠けても、武士道ではないのだ。もしセルフ・
リスペクトと、セルフ・レスポンシビリティーだけが結合すれば、下手すると、ナチスに使はれたアウシュビッツの
収容所長の様になるかもしれない。何故なら彼としても、自分自身に対する尊敬の念を持つてゐただらう。自分の
職務に対する責任を持つてゐただらう。しかしながら上層部の命令するとほりに四十万のユダヤ人を焚殺したでは
ないか。日本の武士道の尊いところは、それにセルフ・サクリファイスといふものがつくことである。この
セルフ・サクリファイスといふものがあるからこそ武士道なので、身を殺して仁をなすといふのが、武士道の
特長である。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
447 :
ナナシズム:2011/02/24(木) 10:42:02.03 ID:xP61fxpz
そしてこの三つが、相俟つた時に、武士道といふものが、成り立つのだ、といふことを、外人に説明するんです。
ですから侵略主義とか軍国主義といふものは、武士道とは始めから無縁のものだ。武士道は、セルフ・リスペクトを
もつた人間が、自分の行動について最終的な責任を持ち、そして、しかもその責任を持つ場合には、自己を犠牲に
すること、一命を鴻毛の軽きに比するといふ気持が、武士道の権化で、これがないときには、武士道といふものはない。
ところが戦後の自衛隊にはこのセルフ・リスペクトといふものが常になかつた。また、セルフ・レスポンシビリティーは
あるかもしれないが、これも官僚的セルフ・レスポンシビリティーに堕してしまつたかたむきがある。第三に、
セルフ・サクリファイスについては、遂に教へられることがなかつた。といふのは、あくまでも人命尊重理念が、
先に立つてきたからであります。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
448 :
ナナシズム:2011/02/24(木) 19:26:53.80 ID:xP61fxpz
(中略)
一旦終焉した武士道は、どういふ形で生き永らへたか。私は、軍閥といふものは、一朝一夕で成つたとは思ひません。
これは、やはり山県有朋以来の権道主義の政治家と軍人とが徐々に徐々に作りあげていつたものだと思ふのです。
その中では、セルフ・サクリファイスといふ理念は完全に失はれてしまつた。そして勿論、天皇の軍隊であり
ましたから、セルフ・リスペクトの点については欠ける処がなかつた。あるひは、セルフ・レスポンシビリティーの
点についても立派だつたでありませう。しかし、軍の主流は徐々に徐々に、その権力主義と、ファシズムを
受け入れる体制になりつつあつた。そして、全くこの頑固なセルフ・サクリファイスに生きようとする武士は、
段々辺境へ追ひやられてしまつた、まあ、いい例が、ノモンハン事件ですけれども、ノモンハン事件で、
参謀本部がとつた態度は、完全に責任逃れで、現地部隊長を皆自決させて、自分達だけが、一切責任を逃れて、
出世しようとしか考へなかつた。セルフ・サクリファイスの最後の花は、いふまでもなく特攻隊でありました。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
449 :
ナナシズム:2011/02/24(木) 19:28:50.11 ID:xP61fxpz
軍のこれに対して、私に言はせれば、二・二六事件その他の皇道派が、根本的に改革しようとして、失敗したもので
ありますが、結局勝ちをしめた統制派といふものが、一部いはゆる革新官僚と結びつき、しかもこの革新官僚は、
左翼の前歴がある人が沢山あつた。かういふものと軍のいはゆる統制派的なものと、そこに西欧派の理念としての
ファシズムが結びついて、まあ、昭和の軍国主義といふものが、昭和十二年以降に始めて出てきたんだと外人に
説明するんです。私は、日本の軍国主義といふものは、日本の近代化、日本の工業化、すべてと同じ次元のものだ、
全部外国から学んだものだ、と外国人にいふんです。純粋な日本では、さういふものはなかつた。日本の武士とは
さういふものではなかつた。君等がそれを教へたんではないか、(中略)あくまで君等、ヨーロッパ文明の中にある
過酷さが、我々日本を毒したのではないか、我々日本の純粋の武士の魂の中にさういふものはなかつたんだと
いふことを口を極めて説くのであります。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
450 :
ナナシズム:2011/02/24(木) 19:30:03.72 ID:xP61fxpz
軍国主義といふものが、実に、日本の明治以降、動いてきた歴史の中で、非常に、皮肉なものがある。といふのは、
我々は外国からいい影響だけ受けてゐたと思つたのは、非常な間違ひであつた。明治以降の日本が今日まで
やつてきた西欧化の努力によつて、近代国家になつたのであるけれども、その全く同じ理念が、軍国主義を
もたらしたのである。ここをよく考へないと日本の近代感覚といふものの一番大きな問題点は掴めない。日本は、
西洋から、善と悪の二つ、なにもかも全部採り入れた。その結果、こんどの敗戦が招来されたと私はみるのであります。
そして、軍国主義のいはゆる進展と同時に、日本の戦略、戦術の上にアジア的な特質が失はれていつたのは大きい。
といふのは、今のベトナム戦争でも判るやうに、アジア的風土の中で、非常にアジア的な非合理な方法によつて、
ゲリラ戦を展開して、敵を悩ましてゐる。日本は、かういふことを一切しないで、正に外国から得た武器によつて、
西洋の武器をもつて、西洋と闘はうとした。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
451 :
ナナシズム:2011/02/24(木) 19:31:29.01 ID:xP61fxpz
これがまづ戦略的に大きな問題だつたのではないか。これは、私は大東亜戦争の敗因の一つではないかとさへ
思つてゐるわけです。参謀本部の頭の中に近代化された頭脳の中にその悪が潜んでゐた。 我々は、もう一つ、
ここで民族精神に振り返つてみて、日本とはなんぞや、武器と魂といふものを日本人は如何に結びつけたか、
そこに立ち返らなければ、日本といふものの防衛の基本的なものは出てこない。そのために、私は、終始一貫した
憲法改正論者で、それが、物理的に可能であるのか、不可能であるのか、そんなことは、おかまひなしに、
一介の人間としてそれのみをいつてゐるのは、決してそれによつて、日本を軍国支配しようとするつもりはないのだ。
あくまでそれによつて日本の魂を正して、そこに日本の防衛問題にとつて最も基本的な問題、もつと大きくいへば、
日本と西洋社会との問題、日本のカルチャーと、西洋のシビライゼーションとの対決の問題、これが、底にひそんで
ゐることをいひたいんだといふことです。
三島由紀夫「武士道と軍国主義」より
452 :
ナナシズム:2011/03/03(木) 11:19:57.30 ID:zJf9tyle
乃木大将の死とともに終つた陽明学的知的環境は、大正教養主義と大正ヒューマニズムの敵に他ならなかつた。
過去の敵であるばかりではなく、未来の敵にもなつた。といふのは、大正知識人が徐々に指導者となる時代、
昭和初年にいたつて、このやうに否定され忌避され抑圧された陽明学的潮流は、地下に潜流して、過激な右翼思潮の
温床となつたために、ますます大正知識人に嫌はれる対象となり、被害者意識から大正知識人が、後輩へあへて
伝へまいとした有害な「黒い秘教」になつたのである。
一方マルクシズムは、知識層の革命的関心の、ほとんど九十パーセントを奪ひ去つた。北一輝のやうな日本的
革命思想の追究者は、孤立した星であつた。マルクシズムが陽明学にとつて代り、大正教養主義・ヒューマニズムが
朱子学にとつて代つたといふこともできるであらう。朱子学の、なかんづく、荻生徂徠のやうな外来思想の心酔者は、
大正知識人にとつてもむしろ親しみやすかつた。しかし国学と陽明学はやりきれぬ代物だつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
453 :
ナナシズム:2011/03/03(木) 11:20:58.15 ID:zJf9tyle
国学は右翼学者の、陽明学は一部の軍人や右翼政治家の専用品になつた。インテリは触れるべからざるものに
なつたのである。
今日でも、インテリが触れてはならぬと自戒してゐるいくつかの思想的タブーがあり、武士道では「葉隠」、
国学では平田(篤胤)神学、その後の正統右翼思想、したがつて天皇崇拝等々は、それに触れたが最後、
インテリ社会から村八分にされる危険があるものとされてゐる。さういふものを何か「いまはしい」ものと
考へるインテリの感覚の底には、明治の開明主義が影を落としてゐる。西欧的合理主義の移入者であり代弁者で
あるところに、自己のプライドの根拠を置いてきた明治初期の留学生の気質は、今なほ日本知識層の気質の底に
ひそんでゐる。決して西欧化に馴染まぬものは、未開なもの、アジア的なもの、蒙昧なもの、いまはしいもの、
醜いもの、卑しむべきもの、外人に見せたくないもの、として押入の奥へ片付けておく。陽明学もその一つで
あつたのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
454 :
ナナシズム:2011/03/03(木) 11:22:07.83 ID:zJf9tyle
現代日本知識人は、かくて無意識のうちに朱子学的伝統を引いてゐる。すなはち、西欧化近代化の文明開化主義の
明治政府と、その劇画化としての第二次大戦後の政府との、基本方針を逸脱せぬところで、同じ次元で、これを
批判し、あるひは「教育」する立場に矜りを見つける。マルクシストさへ、近代化の方策の差といふのみで、
近代主義者には変りがないから、近代主義の先駆としての立場から、「保守的」政府を批判し、それ以上には
出ないのである。大内兵衛氏が、自民党内閣と社会党と双方に関係するのは、双方が近代主義の異腹の児で
あるといふ点で、矛盾はない。
現代日本知識人の身を置く立場や思想は、マルクシズムの神話の崩壊につれ、ますます朱子学の各分派といふ様相を
呈するであらう。私見によれば陽明学は、決してその分派に属さない。むしろ今こそそれは嘗てあつたよりも
激しい形で、提起され直さねばならない。あらゆる政治学が劇薬でありえなくなつた現在、菌にも耐性ができて、
大ていの薬では利かなくなつたのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
455 :
ナナシズム:2011/03/03(木) 11:24:34.93 ID:zJf9tyle
さて今まではといへば、たとへば(中略)氏(丸山真男)はそのかなり大部の著書の中でわづかに一頁の
コメンタリーを陽明学に当ててゐるに過ぎない。氏は、陽明学をあくまで朱子学に依存する一セクトとして見、
これを簡略に説明して、朱子の「知先行後」に対して「知行合一」を主張するところの主観的、個人的哲学で
あるとなし、陽明学は朱子学の理の内包してゐた物理性をことごとく道理性のうちに解消せしめたが故に、
朱子学ほどの包括性をもたず、朱子学ほどの社会性を失つた、と説いてゐる。
しかしながら陽明学は、明治維新のやうな革命状況を準備した精神史的な諸事実の上に、強大な力を刻印してゐた。
陽明学を無視して明治維新を語ることはできない。
大体、革命を準備する哲学及びその哲学を裏づける心情は、私には、いつの場合もニヒリズムとミスティシズムの
二本の柱にあると思はれる。(中略)二十世紀のナチスの革命においては、ニイチェやハイデッカーの準備した
能動的ニヒリズムの背景のもとに、ゲルマン神話の復活を策するローゼンベルクの「二十世紀の神話」が、
ナチスのミスティシズムを形成した。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
456 :
ナナシズム:2011/03/03(木) 11:33:21.99 ID:zJf9tyle
革命は行動である。行動は死と隣り合はせになることが多いから、ひとたび書斎の思索を離れて行動の世界に
入るときに、人が死を前にしたニヒリズムと偶然の僥倖を頼むミスティシズムとの虜にならざるを得ないのは
人間性の自然である。
明治維新は、私見によれば、ミスティシズムとしての国学と、能動的ニヒリズムとしての陽明学によつて準備された。
本居宣長のアポロン的な国学は、時代を経るにしたがつて平田篤胤、さらには林桜園のやうなミスティックな
神がかりの行動哲学に集約され、平田篤胤の神学は明治維新の志士達の直接の激情を培つた。
また、これと並行して、中江藤樹以来の陽明学は明治維新的思想行動のはるか先駆といはれる大塩平八郎の乱の
背景をなし、大塩の著書「洗心洞箚記」は明治維新後の最後のナショナルな反乱ともいふべき西南戦争の首領
西郷隆盛が、死に至るまで愛読した本であつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
457 :
ナナシズム:2011/03/03(木) 11:34:27.64 ID:zJf9tyle
また、吉田松陰の行動哲学の裏にも陽明学の思想は脈々と波打つてをり、一度アカデミックなくびきをはづされた
朱子学は、もとの朱子学が体制擁護の体系を完成するとともに、一方は異端のなまなましい血のざわめきの中へ
おりていき、まさに維新の志士の心情そのものの思想的形成にあづかるのである。
主観哲学であり、且つ道理を明らかにすることによつて善悪を超越する哲学であるこの陽明学といふ危険な思想は、
丸山氏のいふところの、まさに逆を行つて、権力擁護の朱子学、徂徠学の一分派といふ仮面に隠れながら、その実、
もつとも極端なラディカリズムと能動的ニヒリズムの極限へ向かつて進んでいつた。その「良知」とは、単に
認識の良知を意味するものではなく、「太虚」に入つて創造と行動の原動力をなすものであり、また一見、
武士的な行動原理と思はれる知行合一は、認識と行動の関係にひそむもつとも危険な消息を伝へるものであつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
458 :
ナナシズム:2011/03/04(金) 11:17:26.13 ID:N8kgX55m
(中略)
私はさつき、死に直面する行動がニヒリズムを養成するといふことを言つた。陽明学の時代にはニヒリズムと
いふ言葉はなかつたから、それは大塩平八郎(中斎)の中斎学派がとりわけ強調した「帰太虚」の説の中に
表はれてゐる。
「帰太虚」とは太虚に帰するの意であるが、大塩は太虚といふものこそ万物創造の源であり、また善と悪とを
良知によつて弁別し得る最後のものであり、ここに至つて人々の行動は生死を超越した正義そのものに帰着すると
主張した。彼は一つの譬喩を持ち出して、たとへば壷が毀(こは)されると壷を満たしてゐた空虚はそのまま
太虚に帰するやうなものである、といつた。壷を人間の肉体とすれば、壷の中の空虚、すなはち肉体に包まれた
思想がもし良知に至つて真の太虚に達してゐるならば、その壷すなはち肉体が毀されようと、瞬間にして永遠に
偏在する太虚に帰することができるのである。
その太虚はさつきも言つたやうに良知の極致と考へられてゐるが、現代風にいへば能動的ニヒリズムの根元と
考へてよいだらう。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
459 :
ナナシズム:2011/03/04(金) 11:17:47.93 ID:N8kgX55m
ただ、この太虚が仏教の空観に、ともすると似てきてしまふことは、森鴎外も小説「大塩平八郎」の中でそれとなく
皮肉に指摘してゐる。仏教の空観と陽明学の太虚を比べると、万物が涅槃の中に溶け込む空と、その万物の
創造の母体であり行動の源泉である空虚とは、一見反対のやうであるが、いつたん悟達に達してまた現世へ
戻つてきて衆生済度の行動に出なければならぬと教へる大乗仏教の教へにはこの仏教の空観と陽明学の太虚を
つなぐものがおぼろげに暗示されてゐる。ベトナムにおける抗議僧の焼身自殺は大乗仏教から説明されるが、
また陽明学的な行動ともいふことができるのである。
陽明学をごく簡単に説明したものとしては、井上哲次郎博士の「王陽明の哲学の心髄骨子」といふ古い論文がある。
(中略)明代の哲学者王陽明は朱子哲学の反動としておこつた人であるが、朱子哲学が二元論であつたので、
これに対して一元論の哲学を唱導し、陸象山の思想を受けてこれに自由主義的あるひは平等主義的な傾向を与へて
陽明学を体系づけた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
460 :
ナナシズム:2011/03/04(金) 11:18:12.18 ID:N8kgX55m
(中略)
そもそも陽明学には、アポロン的な理性の持ち主には理解しがたいデモーニッシュな要素がある。ラショナリズムに
立てこもらうとする人は、この狂熱を避けて通る。
もちろん、認識と行動との一致といふことを離れて考へてみても、われわれが認識ならぬ知に達する方法としては
古人がすでに二つの道を用意してゐた。一つは、認識それ自体の機能を極限までおし進めるアポロン的な方法であり、
一つは、理性のくびきを脱して狂奔する行動に身をまかせ、そこに生ずるハイデッガーのいはゆる脱自、陶酔、
恍惚、の一種の宗教的見神的体験を通じて知に到達するといふ方法である。これは哲学の中の二つの潮流を
形づくると同時に、人間の行動様式、行動様式の表はれとしての倫理や文化などの、すべての分岐点として現はれた。
陽明学を革命の哲学だといふのは、それが革命に必要な行動性の極致をある狂熱的認識を通して把握しようとした
ものだからである。私がかう言ふのは、学問によつてではなく行動によつて今日までもつとも有名になつてゐる
大塩平八郎のことをいま思ひうかべるからだ。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
461 :
ナナシズム:2011/03/04(金) 19:42:14.42 ID:N8kgX55m
(中略)
大塩が思ふには、われわれは天といへば青空のことだと思つてゐるが、こればかりが天ではなくて、石の間に
ひそむ空虚、あるひは生えてゐる竹の中にひそんでゐる空虚もまつたく同じ天であり、太虚の一つである。
この太虚は植物、無機物ばかりではなく、人間の肉体の中にも口や耳を通じてひそんでゐる。われわれが持つて
ゐる小さな虚も、聖人の持つてゐる虚と異なるところはない。もし、誰であつても心から欲を打ち払つて太虚に
帰すれば、天がすでにその心に宿つてゐるのである。誰でも聖人の地位に達しようと欲して達し得ないことはない。
「聖人は即ち言あるの太虚にして、太虚は即ち言はざるの聖人なり」
太虚に帰すべき方法としては、真心をつくし誠をつくして情欲を一掃し、そこへ入つていくほかはない。形の
あるものはすべて滅び、すべて動揺する。大きな山でさへ地震によつてゆすぶられる。何故なら形があるからである。
しかし、地震は太虚を動かすことはできない。これでわかるやうに心が太虚に帰するときに、初めて真の「不動」を
語ることができるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
462 :
ナナシズム:2011/03/04(金) 19:43:21.87 ID:N8kgX55m
すなはち、太虚は永遠不滅であり不動である。心がすでに太虚に帰するときは、いかなる行動も善悪を超脱して
真の良知に達し、天の正義と一致するのである。
その太虚とは何であるか。人の心は太虚と同じであり、心と太虚とは二つのものではない。また、心の外にある虚は、
すなはちわが心の本体である。かくて、その太虚は世界の実在である。この説は世界の実在はすなはちわれであると
いふ点で、ウパニシャッドのアートマンとはなはだ相近づいてくる。
大塩平八郎はその「洗心洞剳記」にもいふやうに、「身の死するを恨みずして心の死するを恨む」といふことを
つねに主張してゐた。この主張から大塩の過激な行動が一直線に出てきたと思はれるのである。心がすでに太虚に
帰すれば、肉体は死んでも滅びないものがある。だから、肉体の死ぬのを恐れず心の死ぬのを恐れるのである。
心が本当に死なないことを知つてゐるならば、この世に恐ろしいものは何一つない。決心が動揺することは絶対ない。
そのときわれわれは天命を知るのだ、と大塩は言つた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
463 :
ナナシズム:2011/03/07(月) 11:38:43.72 ID:qF4dL3Qk
(中略)
われわれは心の死にやすい時代に生きてゐる。しかも平均年齢は年々延びていき、ともすると日本には、平八郎とは
反対に、「心の死するを恐れず、ただただ身の死するを恐れる」といふ人が無数にふえていくことが想像される。
肉体の延命は精神の延命と同一に論じられないのである。われわれの戦後民主主義が立脚してゐる人命尊重の
ヒューマニズムは、ひたすら肉体の安全無事を主張して、魂や精神の生死を問はないのである。
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全を保障しはしない。心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり
恐れてゐる人で日本中が占められてゐるならば、無事安泰であり平和である。しかし、そこに肉体の生死を
ものともせず、ただ心の死んでいくことを恐れる人があるからこそ、この社会には緊張が生じ、革新の意欲が
底流することになるのである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
464 :
ナナシズム:2011/03/07(月) 11:39:41.12 ID:qF4dL3Qk
(中略)
大塩平八郎の死は、前にも言つたやうに天保八年三月のことであつたが、それから四十年を経た、西郷南洲の
西南の役における死に思ひ及びと、西郷の生涯が再び陽明学の不思議な反知性主義と行動主義によつて貫かれて
ゐることにわれわれは気づく。西郷の「手抄言志録」によれば、その第二十一には、死を恐れるのは生まれてから
のちに生ずる情であつて、肉体があればこそ死を恐れるの心が生じる。そして死を恐れないのは生まれる前の
性質であつて、肉体を離れるとき初めてこの死の性質をみることができる。したがつて、人は死を恐れるといふ
気持のうちに死を恐れないといふ真理を発見しなければならない。それは人間がその生前の本性に帰ることである、
といふ意味のことをいつてゐる。
現にま西郷は幕吏に追はれた親友の僧月照と共に薩摩の海に舟を浮かべ、月照が示した和歌に同感して直ちに
彼と共に相擁して海に身を投じたことがある。そのときに死んだのは月照だけで、西郷は蘇ることになるのであるが、
彼はその後一生、月照と共に死ねなかつたことを憾みに思つてゐたやうである。
三島由紀夫「革命哲学としての
465 :
ナナシズム:2011/03/07(月) 11:40:34.72 ID:qF4dL3Qk
(中略)
この(「南洲遺訓」)文章などは、われわれの中で一人の人間の理想像が組み立てられるときに、その理想像に
同一化できるかできないかといふところに能力の有無を見てゐる点で、あたかも大塩平八郎の行動を想起させる
のである。聖人がわれわれの胸奥に住むならば、その聖人とわれわれとは同格でなければならない。甚だ傲慢な
哲学であるが、それはあたかも「葉隠」の、「われは日本一なりとの増上慢なくてはお役に立ち難し」といふやうな
自我哲学の絶頂と照応してゐる。
このやうな同一化の可能性が生じないで、ただおとなしくこれを学び、ひたすら聖人に及ばざることのみを考へて
ゐるところからは、決して行動のエネルギーは湧いてはこない。同一化とは、自分の中の空虚を巨人の中の空虚と
同一視することであり、自分の得たニヒリズムをもつと巨大なニヒリズムと同一化することである。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
466 :
ナナシズム:2011/03/07(月) 11:41:20.27 ID:qF4dL3Qk
そのやうな行動の、次元を絶した境地は、吉田松陰が獄中から品川弥二郎に送つた書簡の中にもうかがはれる。
松陰は一つの空虚を巨大な空虚に結びつけ、一つの小さな政治的考慮を最高の理想に結びつけて、小さな行動を
最終の理念に直結させるための跳躍の姿勢をさまざまにためした。そのとき狭い獄舎の中で松陰が試みた精神的
ジャンプは、たちまち日常生活の次元を超えて、空間と時間とを新しい次元へ飛躍させたのである。
松陰が入つていつたこのやうな心境を証明するもつとも恐ろしく、私の忘れがたい一句は、「天地の悠久に比せば
松柏も一時蠅なり」といふものだ。(中略)
そのとき松陰は、人生の短さと天地の悠久との間に何等差別をつけてゐなかつた。われわれの生存がもつてゐる
種々の困難、われわれの日々の生が担つてゐるもろもろの条件を脱却して、直ちに最小のものから最大のものに、
もつとも短いものからもつとも長いものへ一ぺんに跳躍し、同一視する観点を把握してゐた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
467 :
ナナシズム:2011/03/07(月) 15:25:04.97 ID:qF4dL3Qk
(中略)
この陽明学はおそらく、乃木大将の死に至つて、日本の現代史の表面から消えていつたやうに思はれる。その後、
陽明学的な行動原理は学究を通じてではなくて、むしろ日本人の行動様式のメンタリティーの基本を形づくることに
なつて、ひそかに潜流し始めたものであらう。昭和の動乱の時代から今日に至るまで、日本人が企てた行動には、
西欧人が企及し得ぬ、また想像し得ぬさまざまな不思議な要素がふくまれてゐる。そしてその日本人の政治行動
自体には、完全な理性主義や主知主義に反するところの不思議な暴発状況や、無効を承知でやつた行動のいくつかの
めざましい事例がみられるのである。
何故日本人はムダを承知の政治行動をやるのであるか。しかし、もし真にニヒリズムを経過した行動ならば、
その行動の効果がムダであつてももはや驚くに足りない。陽明学的な行動原理が日本人の心の中に潜む限り、
これから先も、西欧人にはまつたくうかがひ知られぬやうな不思議な政治的事象が、日本に次々と起ることは
予言してもよい。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
468 :
ナナシズム:2011/03/07(月) 15:26:28.36 ID:qF4dL3Qk
日本における革命運動は、日本的革命とは何ぞやといふ問題をひさしく閑却してきた。革命はすべて外来思想であり、
マルクシズムも亦西欧の近代化の一翼に乗つて日本に入つてきた一思想であつた。そして、日本といふアジアの
後進国家が物質文明による近代化に乗り出したときに、その近代化に随伴する一つのアンチテーゼの思想が
移入されたのは必然的であつた。そして、マルクシズムの思想の日本化のためには、苦しい血のにじむやうな
努力が要つた。
転向の問題は、一度、外来思想を人間の肉体と心情を通して濾過し、その心情の根底において思想とは何ものかを
問ふといふことによつて、日本の知識人に重要な歴史的転機を与へた。もし、あの転向の思想的体験が戦後の
革命思想に正当に貫かれてゐたならば、私は「日本的革命とは何ぞや」といふ問題が、真に展開されてゐたで
あらうと思ふ。
しかしながら、戦後のアメリカ民主主義による突如の解放によつて、革命思想の日本化肉体化といふ問題は一時
置きざりにされた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
469 :
ナナシズム:2011/03/07(月) 15:27:57.59 ID:qF4dL3Qk
即ち、それは再び啓蒙思想に復帰し、近代主義に立ち戻り、すべてを振り出しから始めるといふ新しい楽天的な、
再度の近代化西欧化の代表をつとめるやうになつたのだ。戦後、このやうな近代主義がたちまち破綻したのは
当然のなりゆきである。
その後の新左翼の勃興は、かうした混迷、矛盾を経て老朽化していつた共産党的革命思想に対するアンチテーゼで
あつたが、その後被ら自身が自分の思想の肉体化といふことについて、風土性の問題から離れざるを得ぬといふ
時代的環境に置かれていつた。すでに農地改革以後、ブルジョア革命が成就した日本で、極度の急激な工業化と共に
大衆社会化状況が生まれ、工業化、都市化の進展は農村人ロの減少をもたらし、その思想の風土性は、帰るべき
故郷を失つた状態にあつた。主に学生運動は都市から発生し、その都市化の極点における空白においてのみ、
一般の大衆の精神的空白と相わたつた。そのとき、もはや革命思想は日本的、風土的なものに還元されるべき
手がかりを失つてゐた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
470 :
ナナシズム:2011/03/08(火) 10:31:09.96 ID:bTngyQZD
(中略)
七〇年は予想されたやうな波瀾も見せずに、再び占領体制下と同じやうな論理が復活するのに役立つた。いまや
自民党も共産党も同じやうな次元の議会主義政党に堕し、共に政治目標実現の最終的な不可能を知りながら、
目前の事態の処理によつて大衆社会をどちらがより多く味方に引きつけるか、といふ術策に憂き身をやつすやうに
なつた。このやうな政治行動は、すみずみまでソロバンづくの有効性によつて計量され、有効性の判断が政治行動の
メリットの唯一の基準になつた。すでに自民党がさうである如く、共産党も政権獲得のための票数の増加と、
日常活動による市民生活への浸透に目安をおいて、一刻一刻、一日一日の政治行動を、すべてこのプラクティカルな
目的に対する有効性によつて判断してゐる。
それをジャーナリズムはまた、理想主義の終焉、あるひは脱イデオロギーの時代が来たとよんでゐる。そして
工業化社会の果てに、ポスト・インダストリアル・ジェネレーション、脱工業化社会が来るといふことは、つとに
予見されたことであつたが、その予見は半ば当り半ば当らなかつた。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
471 :
ナナシズム:2011/03/08(火) 10:32:08.32 ID:bTngyQZD
工業化の果てにおける精神的空白は再びまた工業化によつて埋められ、精神の飢ゑが再び飽満した食欲によつて
満たされることになつた。そして先にも言つたやうに、人は心の死、魂の死を恐れないやうになつたのである。
陽明学が示唆するものは、このやうな政治の有効性に対する精神の最終的な無効性にしか、精神の尊厳を認めまいと
するかたくなな哲学である。いつたんニヒリズムを経過した尊厳性が精神の最終的な価値であるとするならば、
もはやそこにあるのは政治的有効性にコミットすることではなく、今後の精神と政治との対立状況のもつとも
きびしい地点に身をおくことでなければならない。そのときわれわれは、新しい功利的な革命思想の反対側に
ゐるのである。陽明学はもともと支那に発した哲学であるが、以上にも述べたやうに日本の行動家の魂の中で
いつたん完全に濾過され日本化されて風土化を完成した哲学である。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
472 :
ナナシズム:2011/03/08(火) 10:32:44.66 ID:bTngyQZD
もし革命思想がよみがへるとすれば、このやうな日本人のメンタリティの奥底に重りをおろした思想から
出発するより他はない。一方、国学のファナティックなミスティシズムが現代に蘇ることがはなはだむづかしいと
するならば、陽明学がその中にもつてゐる論理性と思想的骨格は、これから先の革新思想の一つの新しい芽生えを
用意するかもしれない。
われわれの近代史は、その近代化の厖大な波の陰に、多くの挫折と悲劇的な意欲を葬つてきた。われわれは西洋に
対して戦ふといふときに何をもとにして戦ふかを、つひに知らなかつた。そして西欧化に最終的に順応したもの
だけが、日本の近代における覇者となつたのである。明治政府自体が西欧化による西欧に対する勝利といふ理念を
掲げたときに、その実力による最終証明となつたものは日露戦争であつたから、その後の日本は西欧的な戦争を
戦ふことによつて西欧に打ち勝つといふ固定観念に向かつて進んで、第二次大戦の破局に際会した。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
473 :
ナナシズム:2011/03/08(火) 10:33:21.73 ID:bTngyQZD
一方目ざめたアジアは、アジア独特の思考によりベトナムや中共で西欧化に対するしたたかな抵抗の作戦を展開した。
それらはもちろん、地理的な条件やさまざまな風土的な条件の恵みによることはもちろんであるが、日本が
貿易立国によつて進まねばならない島国といふ特性を有しながらも、アジアの一環に属することによつて西欧化に
対する最後の抵抗を試みるならば、それは精神による抵抗でなければならないはずである。
精神の抵抗は反体制運動であると否とを問はず、日本の中に浸潤してゐる西欧化の弊害を革正することによつてしか、
最終的に成就されない道である。そのとき革新思想がどのやうな形で西欧化に妥協するかによつて、無限にその
政治的有効性の方向に引きずられていくことは、戦後の歴史が無惨に証明した如くである。われわれはこの
陽明学といふ忘れられた行動哲学にかへることによつて、もう一度、精神と政治の対立状況における精神の
闘ひの方法を、深く探究しなほす必要があるのではあるまいか。
三島由紀夫「革命哲学としての陽明学」より
474 :
ナナシズム:2011/03/14(月) 13:38:08.85 ID:5GrIRvfy
私が同志的結合といふことについて日頃考へてゐることは、自分の同志が目前で死ぬやうな事態が起つたとしても、
その死骸に縋(すが)つて泣く事ではなく、法廷においてさへ、彼は自分の知らない他人であると、証言出来る
ことであると思ふ。それは「非情の連帯」といふやうな精神の緊張を持続することによつてのみ可能である。
しかし、私はなにも死を以つてのみ同志あるひは同志愛の象徴とは考へない。また死を以つてのみ革命的な行動の
精華、成就とも考へるものではない。ただ真に内発的な激怒や行動だけが、ある目的のもとになされた行為の
有効性を持つのであるといふ考へ方だけは、私にとつて変ることのないものである。
死が自己の戦術、行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも、革命を意識するものに
とつては、けだし当然のことである。自らの行動によつてもたらされたところの最高の瞬間に、つまり、
劇的最高潮に、効果的に死が行使出来る保証があるならば、それは犬死ではない。
三島由紀夫「わが同志観」より
475 :
ナナシズム:2011/03/14(月) 13:38:59.84 ID:5GrIRvfy
(中略)
「われわれ」といふ集団の感覚の次元で行動し、同志的結合を持続する時、個人はすでに、超個人的契機を
掴んでゐることが前提になる。その超個人的契機とは、神のやうな個人に直結した形である場合と同時に、神と
個人とを繋ぐコミュニティのイメージが必要となつてくるのである。そこには、もはやニュートラルな心情は
崩壊してゐるのである。
人間は、このやうなコミュニティを媒介としてしか、つまり伝統的共同体を形づくるところの超個人的なもの――
絶対的な存在に接近することが出来ないといふ、逆説的な精神構造を持つてゐる。その個人的契機は、多様であるが、
その内的原因を探れば、遠く、古い価値と、それに繋がるところのコミュニティの投影が必ずある。この投影こそが、
内側の人間を外側の人間へ弾き出す力になるのである。
さう考へてゆくと、「われわれ」は危険ではあるが、誘惑に導く美しさが見えてきはしないか。この危険な誘ひに
私の興味は募る。しかしそれは、悲壮な自己陶酔と紙一重でなくて果して何であらうか。
三島由紀夫「わが同志観」より
476 :
ナナシズム:2011/03/14(月) 13:39:18.72 ID:5GrIRvfy
私は、いやしくも盟約を交はして事を起す同志であれば、動機の深浅、運動経歴のキャリア、性格の相違等を、
ことさら問題にしようとは思はない。男と男が誓ひ、行動を起さうとする集団が、栄辱をそれぞれ等分するのは
当然である。
つまり、日常的な同志愛から出発しながら、いかにして、最終目的のために、目前の甘美な同志愛に耐へ抜く心の
強さを得られるか。同志的決起へと至る極限状況は、ある面において、倫理的憤激の最終的な責任を、自己に負ふか、
他者に負はせるか、といふ方向へ引き裂かれて行かざるを得ない。究極的に、自己に負ふとすれば、自刃があり、
他者に負はせるとすれば、制度自体の破壊に行きつくしかない。
そのやうなクオリティを見分ける判断力は、人間の弱さと強さとの問題でもある。
三島由紀夫「わが同志観」より
477 :
ナナシズム:2011/04/07(木) 10:57:49.57 ID:WtbjdKM1
Q――生、虚構(フィクション)、事実(ファクト)について。
三島:あらゆるものがニセモノ。政治も芸術も、どこかで有効性にすがりついてゐる限りフィクションだ。
事実は死だけ。存在証明の最終的なものは死だ。焼身自殺などは事実の最高。かうした日常性=フィクションに
対して、一人の芸術家が抵抗しようとする時、死しかない。事実としての死。主義(イデオロギー)なんか
問題ぢやない。
Q――現代について。
三島:(中略)知識人が守りたがつてゐたものは何か? 守るためには何かしなきやならない、ことがわかつてきた。
“守る行為”を今まで何と思つてきたか? 暴力が平和を、平和が暴力を守る時もある。暴力の等価性、それが
紛争状態で証明された。デモクラシーは、他の国へ入つて他の国の人を殺すこともできるものだ。ベトナム戦で
はじめて現実を知つたんぢやおそいのだ。日本人は絶対性を好む。相対的、簡易主義に立脚してゐるデモクラシーを
絶対化したところに誤りがある。
三島由紀夫「壮麗なる“虚構”の展開」より
478 :
ナナシズム:2011/04/07(木) 18:13:01.29 ID:7NfgrPDe
でさぁ 今日の晩御飯コロッケだけかよ・・
479 :
ナナシズム:2011/04/08(金) 17:21:23.18 ID:lFUFBuGj
時代は共存共栄に向かってるだろ
憲法改正しても世界は日本に失望する
日本が武力放棄することがどれだけ日本にメリットがあるかを考えるべきだ
中国 朝鮮が攻めてくることもありえない 武力の無い国に攻めるはずも無く攻めれば世界が許さないだろ
竹島 尖閣も武力で守らず話し合いで守るのだ
武力で守れば武力で解決になる
480 :
ナナシズム:2011/04/23(土) 14:30:02.89 ID:vEt8JWc4
日本人は絶対、民主主義を守るために死なん。ぼくはアメリカ人にも言うんだけど、「日本人は民主主義のために
死なないよ」と前から言っている。今後もそうだろうと思う。
(中略)
そうすると何を守ればいいんだと。ぼくはね、結局文化だと思うんだ。本質的な問題は。
というのはね、やっぱりキリスト教対ヘレニズムというようなもんなんだよ。いまわれわれが当面している問題は。
結局ね、世界をよくしようとか、未来を見ようとかいう考えと、それから、未来はないんだけれども、
文化というものがわれわれのからだにあるんだという考えと、その二つの対立だよ。
「文化を守る」ということは、「おれを守る」ということだよ。
十年、五十年単位の考えは、絶対に必要なことだ。なぜかというと、十年、五十年と考えると、今日始めなきゃ
だめなんだよ。
だから一番緊急なことなんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
481 :
ナナシズム:2011/04/23(土) 14:31:01.14 ID:vEt8JWc4
一番長い経過を要する仕事を今日始めて、そしてあしたはだね、三年先のことを始めるというのが、ぼくは一番
現実的な考えだと思うね。
ぼくは文化というものはね、変な比喩だが、金とおんなじことだと思う。とにかく、あぶないときにどっかに
置いておかなければ、いつもこわされちゃう。こんなもろい、こんなものはない。僕はいわば文化の金本位制論者だ。
日本では、昔から金について一番もろくて弱かった独占資本的財閥、戦前のそういう連中はね、どんなインテリよりも
ぼくは、実際に敏感だったと思いますよ。それは昭和の歴史を見てもよくわかりますがね。文化人というのは
いつものんきなんだが、資本家が金をこわがるように、どうして文化人は文化というものの、もろさ、弱さ、
はかなさ、というものを感じないんだろうかね。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
482 :
ナナシズム:2011/04/23(土) 14:31:56.76 ID:vEt8JWc4
戦後ずうっと考えてきたことは、文化というものは無力であるということ。これは確かに文学も無力だし、
何も無力だ。だけど無力だから、無力なりに役に立とうという「政治と芸術」的考え方というものに、ぼくは
いつも反対してきた。いまでもぼくは、文化というものは、ほんとにどんな弱い女よりもか弱く、どんな
破れやすい布よりも破れやすい、もう手にそうっと持ってにゃならんのだと思いますね。そっからすべてものの
危機感がくるんだし、それで、そのためには自分のからだを投げ出してもいいと思うしね。
文化がどんなに変様されて、歪曲されても、生きのびるほど強いもんだということは結果論です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
483 :
ナナシズム:2011/04/23(土) 14:42:07.60 ID:vEt8JWc4
天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、そこにいなけりゃならない。
それをいまから準備していなければならない。それはアンティエゴイズムであり、アンティ近代化であり、
アンティ工業化であるけど、決して古き土地制度の復活でもなければ、農本主義でもない。(中略)天皇は一番
極限にいるべきだ、という考えなんですよ。ですから、近代化の過程のずっと向うに天皇があるという考えですよ。
その場合には、つまり天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところに
あるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、
とにかく「お祭」だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。
これがぼくの天皇論の概略です。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
484 :
ナナシズム:2011/04/23(土) 14:44:51.08 ID:vEt8JWc4
エリザベスは、亭主が自分の部屋に電話を引いたり、テレビをつけたり、ボタンを押すと飛び上がる椅子を
つけたりするのに、自分は、まだ十八世紀のお茶の作法で、百メートル先から女官たちが手から手へつないだお茶を
持って来て、冷えたお茶を飲んでいる。自分の部屋には電話がない。ぼくは、そういうことが天皇制だろうと
思うんです。日本の皇室がその点でわれわれを納得させる存在理由は日ましに稀薄になっている。
つまりわれわれが近代化の中でこれだけ苦しんで、どこかでお茶を十八世紀の作法で飲んでいる人がいなければ、
世界は崩壊するんだよ。
世界の行く果てには、福祉国家の荒廃、社会主義国家の嘘しかないとなれば、何がほしいだろう。それは
カソリックならカソリックかもしれない。だけど、日本の天皇というのはいいですよ。頑張ってれば世界的な
モデルケースになれると思う。それが八紘一宇だと思うんだよ。
三島由紀夫
福田恆存との対談「文武両道と死の哲学」より
485 :
ナナシズム:2011/05/20(金) 12:49:57.66 ID:s0iSu8Th
僕は今でも吉田茂は偉い人だと思うけど、明治以降の日本の歴史で、あんなに日本人の欺瞞をうまく成功させたのは、
あの人だけでしょう。それはどこから学んだかというと、イギリスですね。日本の政治家は少なくとも正義、
真実あるいは誠実という顔をしていなければならなかったのに、吉田茂の時代には国民全体が欺瞞の精神に
味方をした。あんなにアメリカ人をもてあそんだ人はいないよ。それにまたみごとに乗せることができたのは、
イギリス的な教養が彼にあったからだけど、イギリス的な教養は日本の昭和の歴史のなかでは、いつも無力だった。
いつも国家主義者の怨嗟の的であり、日和見主義、無力の良識、不決断の象徴であった。 ところが吉田茂は、
そのイギリス的な教養を逆に使って、欺瞞にうまく役立てた。これは近代史のなかで、面白い時代だと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
486 :
ナナシズム:2011/05/20(金) 12:50:22.36 ID:s0iSu8Th
あんなに日本人のなかで、欺瞞がうまくいった時代はなかったと思う。それからあとはだめです。政治家が
どんな欺瞞をやっても、国民がついてゆかない。国民の考えていることと、欺瞞とがみごとに一致した時代は
もうこないでしょう。今はただ欺瞞と腐敗があるだけで、国民はだれもが味方をしていない。あなたも、そして
僕も怒っているのは、それですよ。欺瞞のまま、これからどこへゆくかということは心配でしょう。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
487 :
ナナシズム:2011/05/20(金) 12:50:51.41 ID:s0iSu8Th
僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を仕掛けたんだね。
しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、汚れているといって使わない。熊本の鎮台に
対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだ。
なぜ日本刀だけで、負けると解ってる戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャだった
からだと思う。インテリゲンチャというものは、そういうものなんだね。つまり計算して、こうだからやると
いうのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、インテリゲンチャの考えはいつも違うんだ。あなたが
どっちの立場に徹するかということは大問題だと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
488 :
ナナシズム:2011/05/20(金) 12:51:13.66 ID:s0iSu8Th
生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという生活者の知恵でみるだろうね。神風連の
事件は、生活者にはできないもので、日本の近代インテリゲンチャの思想の源流なんです。(中略)
あなたがもし、もう一つ芸術家の立場を完全にもたなければならないということになったら、生活者の知恵だけでは
足りない何かが出てくる。そのときはバカなことでも、絶対に敗北するとわかってる戦いでもやらなければ
ならなくなってくる。
言葉だけの思想的な主張ないしは思想的な説得力には、僕は昔から疑問をもっている。腕力があり、剣があって、
初めて自分の思想が貫かれるのだろう。最後に人間の顔と顔とが、ぴたっとむかいあったときは、言葉は役に
立たないと思う。やっぱりそのときには剣がものをいうだろうね。文筆業者はそこへゆくまでのことを一所懸命、
言葉で考えてる人間なんだけど、それで言葉が最終的に役に立つと思ったら間違いだと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
489 :
ナナシズム:2011/06/05(日) 11:13:25.37 ID:C29gkwpu
☆
490 :
ナナシズム:2011/06/21(火) 11:40:59.57 ID:e5hrbLWe
今の時代はますます複雑になって、新聞を読んでも、テレビを見ても、真相はつかめない。そういうときに何が
あるかといえば、自分で見にいくほかないんだよ。
ぼくの考えをいうと、「わだつみの像」というのは、ある悲しい記念碑ではあるけれども、どこに根拠があるかと
いうんだ。テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか
出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる。「きけわだつみのこえ」なんていうセンチメンタルな本を誰かが
作為的に集めて、平和主義の逆の証明にして、ああいう像をおっ立てた。全学連は、何だかわからないんだけれども、
この野郎、大学の進歩教授と一つ穴のムジナだろうと、ひっくり返しちゃった。(中略)この次ひっくり返すのは、
広島の「過ちは繰り返しませぬから」の原爆碑、あれを爆破すべきだよ。これをぶっこわさなきゃ、日本は
よくならないぞ。
「きけわだつみのこえ」なんていうのは、一つの政治戦略だ。前からぼくは反発していた。
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
491 :
ナナシズム:2011/06/21(火) 11:41:32.97 ID:e5hrbLWe
三島:いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。だいたい、“右”というのは、ヨーロッパのことばでは
“正しい”という意味なんだから。(笑)
鶴田:ぼくはね、三島さん、民族祖国が基本であるという理(ことわり)ってものがちゃんとあると思うんです。
人間、この理をきちんと守っていけばまちがいない。
三島:そうなんだよ。きちんと自分のコトワリを守っていくことなんだよ。
鶴田:昭和維新ですね、今は。
三島:うん、昭和維新。いざというときは、オレはやるよ。
鶴田:三島さん、そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくもかけつけるから。
三島:ワッハッハッハッ、きみはやっぱり、オレの思ったとおりの男だったな。
三島由紀夫
鶴田浩二との対談「刺客と組長――男の盟約」より
492 :
ナナシズム:2011/06/29(水) 23:38:34.35 ID:QC5szZz3
三島:戦後教育は、死ぬということを教えてないね。客観状勢がどうとかということは、ぼくは必ずしも信じない。
(中略)客観状勢が熟すのを待つというのは、ゲバラがいちばん嫌ったろう。革命の客観的条件というのはないんだ、
それを熟させるのが革命家だ、という考えだろう。それを熟させるのは精神だよ。それがあれば、なにかが
かもしだされてくる。
三島:ぼくは、戦後の人間というのは、新左翼でもなんでも、西洋人になっちゃたんじゃないかと思うな。
西洋人はそんな行動(犬死)はとらないよ。必ずリミットがあるんだ。
けっきょく、人間の生命ほど尊いものはない、という考えだよね。その考えが、どっかで掣肘するんだ。
野坂:だから自分の生命ほど尊いものはないんであって、実際問題としては、人間なんて他人が何百人死のうと、
どういうことはないわけでしょ。彼らは、そういうことがはっきりわかっている人なんですね。
三島:ウン、そうなんだよ。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「剣か花か」より
493 :
ナナシズム:2011/06/30(木) 12:39:22.64 ID:aGVlNESq
(『詩を書くのが趣味の交際相手の男性が女々しく思えて許せない』という相談者に)
美輪明宏『文学者でも例えば三島由紀夫や中原中也なんかは男らしかった思うけれど…。
貴女ももっと本をお読みになったらどうかしら?』
相談者『(憤然として)読んでますよ』
美輪明宏『どんなのを読んでらっしゃるの?』
相談者『秋元康とか』
美輪明宏『(一瞬判らず)あきも……(ピンと来て)オホホホホホwwwww』
相談者『?』
494 :
ナナシズム:2011/07/08(金) 12:09:47.40 ID:ir6FUQyw
未来を信じないということはだね、つまり自分が終りだということだろう。自分が終りだということは、あとに
続くものを信ずるということなんだ。あとに続くものを信ずるということと、未来を信ずるということは、完全に
反対の思想なんだ。
未来を信ずるという思想は、自分をプロセスと規定するものだよ。高見順がああいう気の毒な一生を送ったのは、
そういうことなんだよ。
ただしね、自分が終りだということは、谷崎潤一郎もそうだったろうな。川端さんもそうなのかもしれない。
人のことをいっちゃ卑怯なら、おれもそうだ。(笑)あとに続くものを信ずるということは、絶対に未来に対して
自分をプロセスと規定しないことだよ。
滑稽だということは、客観的に滑稽ということなんだ。(中略)客観的に滑稽であってもいいと思うんだ。
しかし主観的に滑稽だと思ったら、人間負けだよ、そういうことだけは絶対やっちゃいかんと思う。
三島由紀夫
いいだももとの対談「政治行為の象徴性について」より
495 :
ナナシズム:2011/07/15(金) 13:44:55.64 ID:???
こんないたがあったとは
496 :
ナナシズム:2011/07/15(金) 23:14:06.68 ID:uZxJ0Vpz
戦後のいまの世界を見ていますと、たいていのことはフィクションで片づいちゃう。(中略)思想的な激突を
やる代わりにテレビでもって討論会をやる。そんなふうに、だんだんだんだん影がうすまってくるわけですね。
そしてすべてがフィクションの世界にとけ込んでしまって、どこに生死を賭けた大事があるのかわからなくなってくる。
激突しても、これは本当に死ぬ気があるのかどうか、殺す気があるのか、あるいは殺される気があるのか
わからないところで対決する。それが現代ですね。「葉隠」は、そういうものを非常に嫌うわけですね。
そういうのは芸能に携わる人間のやることであって、(中略)武士というものはそういうものじゃなくて、
本当に死ぬということが武士なんだから、そういう点で、河原乞食なんかいくら軽蔑してもかまわないという
考えですね。現代は全河原乞食、一億河原乞食の時代で、政治家から、経済人から、芸術家から、なにから、
やはり河原乞食だと思うのですね、「葉隠」と較べれば。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
497 :
ナナシズム:2011/07/15(金) 23:14:43.00 ID:uZxJ0Vpz
全学連の運動というのはね、方向がどうあれ、根本は実感主義の復活ということだと思うのですね。これは
全学連のみならず、右の学生もそうなのであって、(中略)自分の成長期に、なんら実感にふれないで大人に
なっていったらどうなるだろう、すごい恐怖だと思うのですよ。われわれは、少なくとも空襲という実感が
ありましたね。それから死体がそこらにころがっているという実感がありました。中世の人間は、「方丈記」も
そうですが、そういう実感の中から初めてフィクションも出てきた。
私はインドに去年行きまして、ベナレスで、癩病の乞食がいっぱい並んでいるところを見て、なるほど弱法師と
いうのは、ここから出たんだと思ったのです。そして芸術の根源というのは、ああいうところにあって、ああいう
恐ろしい実感、あのファクトを一生懸命洗練したり、磨き上げたり、抽象化するから芸術が起こるのであって、
現代みたいにファクトがないところで、どうやって芸術をやっていくのかという危機感は、私どももっているわけです。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
498 :
ナナシズム:2011/07/15(金) 23:15:45.24 ID:uZxJ0Vpz
たとえば、私は人間関係は、みんな委員会になっちゃったというのです。そしてうそですね。うそでかためれば安全、
謙譲の美徳を発揮すれば安全、安全第一。そして人間関係も、とにかく世論というものをいつも顧慮しながら、
不特定多数の人間の平均的な好みに自分を合わせれば成功だし、合わせれることができなきゃ失敗。これが
現代社会ですよ。
(中略)
現代的コミュニケーション、現代的対人態度というものの中にある毒を清めたいときに、「葉隠」を読めばいいと思う。
「葉隠」をサラリーマンの心得みたいに思うことは、ずいぶん間違いだと思うのです。
ぼくは、もうちょっと人間関係ががたぴししたらいいと思うのです。人間関係全部ががたぴししないから、
集団の衝突になっちゃうのがいまの世の中だと思いますし、いまの近代社会というものの宿命だと思います。
どうも人間関係ががたぴししないで、あまり円滑にすべりすぎるから、一方では衝突が起こるのだろうと思います。
三島由紀夫
相良享との対談「『葉隠』の魅力」より
499 :
ナナシズム:2011/07/17(日) 02:33:04.39 ID:syrstDqQ
日本人の皮を被った中国人の特徴
電車やバスの中で音漏れさせながら音楽を聞いている。
電車やバスの中で大声で話している。
電車やバスの中で、携帯の着信音量をマナーにしないどころか、大音量で鳴らしている。
携帯を操作しながら自転車に乗っている。
イヤホンして音楽を聞きながら自転車に乗っている。
未だに喫煙禁止区域でタバコを吸っている。
車は軽かミニバンか型落ちのセダン。
障害者スペースに車を駐車する。
客の立場だと上から目線。
普段は気にもしていなのに、大きな事故が起こると吠える。
自分が周囲にかける迷惑は棚に上げて他人の迷惑は叩きまくる。
自分が該当する行為の批判があると開き直り。
何かにつけて右や左に決めつけたがる。
先制で相手を在日やチョンと決めて火の粉を振り払う。
ニートなのに底辺職業者を見下す。
喫煙者に対して必死に叩く。
家庭ゴミの分別ができない。
家庭ゴミをコンビニのゴミ箱に捨てる。
歩くとき靴底を擦り、音を立てながら歩く。
500 :
ナナシズム:2011/07/31(日) 23:18:46.37 ID:hGLqfZRW
三島:(小高根二郎の「果樹園」に)戦争中、丹羽文雄が「海戦」を書いたときに、ぼくを非常にかわいがって
くれた先輩の蓮田善明が丹羽を非難攻撃した話が出ている。丹羽という男はいかに頑冥固陋な男か、海戦の最中、
弾が飛んでくるなかでも一生懸命メモをとって海戦の描写をしている。これは報道班員として任務を遂行して
いるわけで、そのために丹羽は名誉の負傷までしている。ところが蓮田は丹羽を非難して、なぜそのときおまえ
弾運びを手伝わないかといっておこっている。(中略)そこにはかなり重要な思想が入っていて、ほんとうに
文学というのは客観主義に徹することができるか、文学者はそういうときにキャメラであるのか、単なる「もの」を
記録する技術者であるのか、あるいは文学とはそういうときにメモをとることをやめて弾を運ぶことであるのか、
という質問を蓮田がしているのじゃないかとぼくは思う。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
501 :
ナナシズム:2011/07/31(日) 23:19:42.36 ID:hGLqfZRW
三島:ぼくはそれは丹羽文雄が悪いとは決していってない。丹羽文雄は己れの信奉している文学の観念に
忠実だったと思う。ぼくは丹羽文雄のシンセリティーを微塵も疑わない。
(中略)総力戦というのは人間をあらゆるフィールドにおいて機能化してゆくものですね。大砲を撃つ人は大砲、
報道班員は文章によって記録あるいは報道し、あるいは軍宣伝のために利用される。そういう近代的な総力戦では
丹羽は正しい任務を果たしている。だけど文学というものは絶対そういう機能になり得ないものだということを
信じたい。
そうすると、文学が絶対に機能になり得ないということを証明するためにはどうすればいいかということになると、
そのとき弾を運べばいいじゃないかという結論になっちゃう。いかに邪魔でも、どいてくれといわれても。
(中略)
中村:それは戦時でなくいまの技術社会でもそうだね。
三島:いまおこっている問題なんだ。それは戦争の話と考えていない、いまおこっているものだ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
502 :
ナナシズム:2011/07/31(日) 23:20:33.38 ID:hGLqfZRW
三島:ぼくはその問題はそういうふうに現代の問題として考えるのだけれども、文学の機能化ということと
文学と行動との問題はいつもからみ合っているというふうに考える。なぜなら、現代技術社会における行動とは
その九九%までが、自分の機能によって縛られているもので、これは戦時中から「職域奉公」という思想で
はじまっていた。文学にしたって同じなので、(中略)文学文学と言っていればいいかというと、それこそ受身で、
しらずしらずのうちに機能化されてしまっているということが現代なんだと思うな。(中略)平和な時代だと、
実に複雑なヴァリエーションに富んでいて、のんびり芋掘りの話を書いていても、文学好きの実業家の消閑の具に
使われているかもしれないから、うかうかしていられぬわけだ。(中略)文学をこういう「しらずしらず」の
機能化から目ざめさせるには、文学外の行動の必要が起ってくるのじゃないか。その弾運びだけが文学だという
状況が来るかもしれないのではないか。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
503 :
ナナシズム:2011/08/01(月) 22:45:32.75 ID:SVvnelVG
あの時代以降
三島由紀夫達だけが本当の日本人
自衛隊が三島の言うとおりにしていればこんな日本にはならなかった
504 :
ナナシズム:2011/08/07(日) 16:59:07.25 ID:TFuodX0P
三島:つまり、文学者が、言葉イコール行動、文学イコール行動と信じていることは、しらずしらずの機能化に
からめとられる危険があるので、あるとき自分の機能から絶対に離れたところで「何かのため」という行動を
やってみたらどうだ。(中略)
そこで、自分をそうやって文学からあるとき弾き出す力というものを、文学に本質的に具わった逆説的な
(ある意味で健康な)能力と考えるか、そういう力はもともと文学に存在しないと考えるか、で考えが完全に
二分されると思う。蓮田善明はその前者の考え方をした人だと思うし、僕は狭義の文学というよりも、どうしても
そういう広義の文学というものに魅力を感じる。そしてそれは、どちらがより強く文学を信じているか、という
信仰の形の論争にもなると思います。しかし、現実の例は、それほど高尚な話ではなくて、今起っている文学の
機能化というのは、簡単にいえば中間小説化ですよ。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
505 :
ナナシズム:2011/08/07(日) 16:59:48.81 ID:TFuodX0P
三島:汚れてない思想というものはぼくは文学のなかにあるかどうかは疑問で、汚れてない思想というものは、
もしその思想を信奉すると文学を捨てなければならぬかもしれないという危険がいつもある。それが文学と行動との
問題にぶつかってくる。
(中略)
もし技術社会のなかにおける文学の機能ないし技術ということを考えれば、いまのテレビなどに毒されている
大衆が要求し、その大衆が人生の慰めあるいは疲れ休めとして要求する技術的によくできたおもしろい小説で
十分じゃないか。それ以上に現代読者ないし現代社会は何も要求していないと思う。一部の気ちがいじみた青年は
文学に哲学を求めたり文学に思想を求めたりするかもしれないが、社会はそんなものを全然要求していない。
ですからプロレタリア文学時代よりいまの時代のほうが文学が社会から要求されていないという意識は強かる
べきだと思う。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
506 :
ナナシズム:2011/08/15(月) 06:29:44.46 ID:???
朝鮮半島で、差別され搾取されていた奴隷階級=白丁。
終戦後のドサクサに紛れ、差別から逃れるため、白丁は日本に密入国。
勝手に戦勝国民を名乗り、朝鮮進駐軍を組織。
日本各地で、殺人・強盗・強姦・暴行・土地の強奪等極悪の限りを尽くす。
そして、不法に占拠・強奪した駅前の一等地でパチンコ屋を開業。
暴利を貪り、蓄財する。
その穢れた金で、低脳私大に進学し免許を得た、朝鮮人の医師・歯科医師が多数存在する。
日本人なら真実を知ろう
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-748.html
507 :
ナナシズム:2011/08/18(木) 22:07:00.95 ID:UePUfZAH
(堤氏の父・堤康次郎氏の)家長というもののすご味を感じたな。冷酷なようだけれども、家を守るということは
ああいうことだね。いまのヒューマニズムじゃちょっと割り切れないが、あの当時、そんなヒューマニズムなんて
言っていたら、みんな三国人に取られちゃいますよ。(笑)
ルース・ベネディクトの「菊と刀」という本がありますが、これほど日本を馬鹿にした本はない。しかし
「菊」というのは文化で「刀」が武道という分け方は面白い。戦後は文化国家というので全部「武」に関するものは
抑圧されちゃった。みんな腰抜けを製造するのが文化みたいになっちゃう。もちろん戦争中のように軍人が威張ると、
軍人自体が腐敗して、頽廃していくんです。(中略)
ほくは、学生にアニマルプライドを持てといってるんだ。(中略)「千万人といえども吾往かん」というときに、
千万人のほうに自分を入れちゃうから、吾のほうがなくなっちゃう。(笑)「楯の会」でも百人が群なんじゃないんだ、
一人一人なんだということをしきりにいうんです。
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より
508 :
ナナシズム:2011/08/18(木) 22:07:49.11 ID:UePUfZAH
三島:(二・二六と全学連を)くらべること自体、二・二六の将校への冒涜ですよ。二・二六の栗原中尉というのは、
火薬庫を守るのに将校が不寝番をやるんですが、栗原中尉だけは、いねむりしたところを見たことがない。
なぜだろうというと、従兵が言うには、いつも下着に血がついている、ナイフで突っついていたからというんです。
全学連の指導者はなにをやっていますか。安田講堂の攻防では指導者は前の日にみんな逃げちゃった。人間という
ものはそんなものじゃないんです。やれ世間にがまん出来ないとか、破壊か先だとか、表面的な類似で
二・二六事件をいっしょにすると、冗談言うなというんです。
堤:今の学生には純真さがない。(中略)
三島:人間が悪くなったんだと思いますよ。それは青年の責任でね。大人の教育が悪いという考えは、とても
嫌いなんです。「楯の会」の講義で、「君ら教育が悪いとか社会が悪いとか一言も言うな」とぼくは言うんだ。
(中略)どうして運命を自分で背負わないんですかね。運命はどんな時代だってあるでしょう。背負わない人は
嫌いなんです。
三島由紀夫
堤清二との対談「二・二六将校と全学連学生との断絶」より
509 :
ナナシズム:2011/08/26(金) 15:16:15.18 ID:???
三島由紀夫氏って「女系天皇も認めるべきだ!」って言ってた人だよね
510 :
ナナシズム:2011/08/27(土) 09:33:29.09 ID:c4Neb5Wb
>>509 三島本人がそういうことを言ったものや触れた発言は残されてはいないです。
ただ、三島死後に楯の会の人達が作った憲法草案の話し合いの記録で、女性の天皇(女帝)も容認するような案にはなってますが、
それは「女系」を続けるって意味とは違うようですよ。
511 :
ナナシズム:2011/09/25(日) 17:59:03.15 ID:???
。
512 :
ナナシズム:2011/10/06(木) 10:04:38.53 ID:3HKakoTx
☆
513 :
ナナシズム:2011/10/14(金) 23:01:17.91 ID:jjRqXoFt
514 :
ナナシズム:2011/10/15(土) 02:49:52.09 ID:aWcZxRqe
フジテレビデモ
花王デモ
要チェック
515 :
ナナシズム:2011/11/08(火) 22:10:34.80 ID:Vln6Q+qN
 ̄
516 :
ナナシズム:2011/11/28(月) 13:57:21.94 ID:9RSAWdKB
、
517 :
ナナシズム:2011/12/13(火) 12:02:06.04 ID:mlxM14bY
,
518 :
ナナシズム:2011/12/13(火) 15:22:42.11 ID:o5IKWqlu
519 :
ナナシズム:2011/12/14(水) 14:42:50.19 ID:M9tDz1/E
520 :
ナナシズム:2012/01/07(土) 14:56:19.94 ID:K2zqrRpe
521 :
ナナシズム:2012/01/22(日) 23:01:29.36 ID:G+ptnrb4
日本の同性愛者に忌み嫌われ敬遠されてるキモい代表といえば
同性愛者を人間モルモットのように扱う
同性愛研究してる社会人類学研究者。
媚びた笑顔を浮かべながら新宿二丁目のゲイバーに出入りしながら
同性愛者に近づき気安く話かけては
同性愛者の生態を研究対象にして自分の学問的成果と業績のために同性愛者を食い物にし利用してる
【文化人類学者のホモ研究者】
男性同性愛者やレズビアン同性愛者の生態を根掘りはほり聞き出しては
自らの学問的研究成果を発表する学会や論文にて
聞き出した同性愛者の了承もなく
同性愛者の個人情報利用し尊厳を踏みにじる
傍若無人な同性愛者の社会人類学者は気味悪さは抜群で
研究対象にされた同性愛者からは不満や批判が多い。
522 :
ナナシズム:2012/02/09(木) 23:42:21.46 ID:unwaaADh
武士とは死の職業である。どんな平和な時代になつても、死が武士の行動原理であり、武士が死をおそれ死を
よけたときには、もはや武士ではなくなるのである。
三島由紀夫「葉隠入門」より
523 :
ナナシズム:2012/02/12(日) 20:39:50.78 ID:???
日本人を白痴化する漫画・アニメ・ゲームを日本から一つ遺らず追い出そう。
大和民族の誇りを奪う上井草などのアニメ制作会社を廃業に追い込もう。
524 :
ナナシズム:2012/02/15(水) 02:13:53.47 ID:tj7fYvba
また!アナルセックスしてるホモ同性愛者が犯罪を起こしたわ!
ゲイが起こす事件が激増
今度は山形県の介護士の大嶋佳紀(40)が富山の少年を売春と恐喝ですって!
http://m.logsoku.com/thread/engawa.2ch.net/poverty/1329025838/ 富山南署は2012年月12日までに、児童買春・ポルノ禁止違反(買春)の疑いで、 山形市寺西。介護士 大嶋佳紀(40)を逮捕した
逮捕容疑は昨年2011月12月26日ごろ、
富山県の少年に会うために訪れた富山市のホテルで少年に現金を渡す約束をし、みだらな行為をした疑い。同署によると、二人はインターネットを通じて知り合い、数回会っていた。
少年は大嶋容疑者から
「自分の言うとおりにしないと、人にばらす!」と言われたため親に相談。親が警察に通報し発覚した。
アナルセックスしてる同性愛者だと公言して当選した、
肛門が開きっぱなしの
ケツマンコオープンリーゲイ議員にも苦情が殺到するわね
525 :
ナナシズム:2012/02/19(日) 08:59:59.84 ID:???
ところで、目下八巻正治さんについて関心を持つようになってきたのでさまざまなインターネットを閲覧してみるようになりました。
旧来八巻正治さんについては大してわからなかったところもあったけど随分サイトなどに書き込みが存在するものですね。
八巻正治さんはたくさん検索されているように思われます。八巻正治に関して少し調べてみると、八巻正治さん関係の記事が出るわ出るわ。
八巻正治さんについていろいろと言及しているんですね。
526 :
ナナシズム:2012/03/03(土) 19:50:29.16 ID:3ZotlveD
保守
鳩山由紀夫の考え方は何だよ!?♪。
528 :
ナナシズム:2012/04/25(水) 19:18:43.61 ID:lJBKObr1
公開講座 寺尾克美閣下(退役陸将補)を招いて
**********************
日時: 10月22日(月)18:30〜 (18:00開場)
場所: アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師: 寺尾克美(退役陸将補)
演題: 三島由紀夫事件の真相
会費: 二千円(会員は千円)
講師プロフィール:昭和4年生。愛媛県出身。昭和28年早稲田大学卒業、
保安隊(当時)幹部候補生学校入校、以後経理将校畑をあゆむ。
三島事件当時は41歳の3等陸佐。旧陸軍では経理畑では主計中将が最高位でしたが、
自衛隊では陸将補(少将相当)が最高位です。昭和59年退官。
529 :
ナナシズム:2012/05/08(火) 00:59:21.21 ID:???
三島:韓国人は全て悪!死ね!殺せ!根絶やしにしろ!!
チョウセンヒトモドキには関わるな
韓国人は須らく差別されるべき
それでチョンになんか言われたら「全部お前らのせいだから^^」って言っとけ
多少なりとも脳みそがあんなら改善するだろ
たとえ良い韓国人でもその本質は変わらないんだこれが
韓国人はクズだからな
世のため人のために成敗するのが筋ってもんだろ
韓国人は礼儀知らず恥知らず恩知らずだから世界とは相容れない
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・発達途上の朝鮮人」より
530 :
ナナシズム:2012/05/08(火) 02:46:23.01 ID:???
531 :
ナナシズム:2012/05/31(木) 16:24:40.62 ID:???
30歳過ぎてボディビルを始めて「憂国」なんて言い出す馬鹿の見本
実際に格闘技の試合をすれば自分がいかに弱いか、勝負に絶対はないという事が分かったはず
あと身長174cm(10cm以上鯖読み)とかベンチプレス90kgとか見栄を張りすぎ
現実を見ていない
532 :
ナナシズム:2012/05/31(木) 23:53:12.99 ID:5IqDfDOi
三島由紀夫は甘え
533 :
ナナシズム:2012/06/01(金) 23:48:09.28 ID:UNWy2Ek0
綱渡り事件もな
こんなもん読むやつの気が知れん
534 :
抽象化厨:2012/06/02(土) 02:48:50.78 ID:E4i8ObXK
三島の1人勝ちですね、、流石としか云い様が無い
三島の理想は男でありながら女には本質的に敵わない事を理解し、男としての考えでもって失敗(馬鹿)をする男
理論的に考える男にとって女は理解できない事が多い、だから所謂男は女は馬鹿だというが女は考えなくて良いので考えないだけ
女の凄い所は本能のまま生きれる所、感性に素直に生きる所 これは男にはできない男は理論と云う努力で補おうとするが資質的に無理
三島の理論では女は納得しない事への苛立ちと嫉妬は激しい 努力家にとっては辛すぎる現実
次に三島は狂気染みたアイデンティティへの執着を表す
男は理想を語るが大概浅はかで失敗する、それを力や酒や女で晴らす 不器用さこそ男らしさ
それが行き過ぎる程、女にも世間にも理解はされなくなる しかしこれが狙い
理解されるという事はその個性が個性的ではなく平凡な没個性である証 醜態を晒し最後に残りそれでも求める者こそが真の理解者
言葉的には可笑しいが 理解できないがその個性を愛してくれる人
だから三島は世間の不理解を求め、時代に抗い、女(本能のまま欲する)として男(馬鹿、不器用さ)を愛する試みまでしてみせた
尚且つ著作にその強欲ぶりを表し三島を本当に理解した者だけに寒気を覚えさせ
また残る映像などで自身でそれを体現する行動力を見せつけることに成功した
俺はこれだけの強欲を持ちそれを体現した人物を他に知らない
世の中が三島をホモのキチガイと言えば言うほど三島は笑い
偶々著作を手に取った者が本意に気付いた時 三島は糞!と悔しがりながらまた微笑むだろう
535 :
抽象化厨:2012/06/02(土) 02:58:46.18 ID:E4i8ObXK
つまり皆、三島劇場に騙されたんですよ
憂国、ボディービル、同性愛、つたない剣術、美しい文体
全部お芝居
三島は文体だけなんて本人腹抱えて笑うだろうねw 引っ掛かってるよってw
536 :
ナナシズム:2012/06/27(水) 06:44:41.47 ID:lMVNH1q/
【 おかしなものを吸引・服用・使用すると中枢神経を刺激され後遺症が残る。 】
537 :
ナナシズム:2012/06/27(水) 18:33:20.24 ID:lMVNH1q/
アナボリックステロイドは耐久性の運動競技や有酸素運動における能力の向上をもたらすものとして、
1960年代の初め頃から重量挙げの選手やボディビルダーらの間で注目を集め始めた。
【副作用】
・多毛症:顔、乳首の間、背中、肩、大腿の裏、臍下、殿部などといった、本来は無毛の部分への体毛の出現。
・精神的症状:鬱病的症状、妄想、気分変動の激化、パラノイア、苛立ち。
・行動変化:攻撃性や突発的な暴力衝動の発現。
538 :
ナナシズム:2012/06/29(金) 20:04:24.70 ID:osjWLo6I
539 :
ナナシズム:2012/07/11(水) 10:10:42.13 ID:O7/Zxq09
公開講座 寺尾克美閣下(退役陸将補)を招いて
**********************
日時: 10月22日(月)18:30〜 (18:00開場)
場所: アルカディア市ヶ谷(私学会館)
講師: 寺尾克美(退役陸将補)
演題: 三島由紀夫事件の真相
会費: 二千円(会員は千円)
講師プロフィール:昭和4年生。愛媛県出身。昭和28年早稲田大学卒業、
保安隊(当時)幹部候補生学校入校、以後経理将校畑をあゆむ。
三島事件当時は41歳の3等陸佐。旧陸軍では経理畑では主計中将が最高位でしたが、
自衛隊では陸将補(少将相当)が最高位です。昭和59年退官。
540 :
ナナシズム:2012/07/12(木) 05:14:47.10 ID:hqGi1iFi
三島利権で食ってる奴等は国犯だろ
541 :
ナナシズム:2012/07/28(土) 19:52:51.53 ID:???
八巻正治。八巻正治。八巻正治。八巻正治。八巻正治。八巻正治。氏の学歴は以下の通りです。
【学習歴の記録】
美幌幼稚園 卒園 美幌小学校 卒業 美幌中学校 卒業 美幌高校 卒業 ※高校は途中転入で、しかも不登校でした!
順天堂大学 体育学部 健康教育学専攻 卒 業 ※ガンガン勉強しました!
青山学院大学 第U文学部 教育学科 卒 業 ※幼稚園での教育実習も行いました!
東洋大学 第U文学部 教育学科 卒 業 ※養護学校の教員免許を取得しました!
立教大学・大学院 文学研究科:博士課程(前期) 教育学専攻 修 了 ※良き学師たちに巡り合えました!
カリフォルニア神学大学院日本校 博士課程 キリスト教神学 修 了 ※神様の深き愛の素晴らしさを学びました!
米ニューポート大学大学院 博士課程 教育学専攻 修 了 ※論文執筆に燃えました!--------------------------------------------------------------------------------
資 格
1973年03月19日 中学校教諭1級(千葉県教委 昭47中1普 第501号),高等学校教諭2級(昭47高2普 第427号) 教員免許状(保健体育)取得
1973年04月26日 衛生管理者免許状(第61号) 取得
1978年03月31日 養護学校教諭1級(東京都教育委員会 昭53養学1普 第132号) 教員免許状取得
1994年02月26日 『米セント・チャールズ大学(カリフォルニア神学大学院日本校:提携校)』より 『博士(宗教学)(Ph.D.)』 の学位を取得
2000年03月27日 『米ニューポート大学』より 『教育学博士(Ed.D.)』の学位を取得
「精神保健福祉士(登録番号 第32657号)」
「社会福祉士(登録番号 第114083号)」
542 :
ナナシズム:2012/08/18(土) 20:25:13.83 ID:P20iA4f2
543 :
ナナシズム:2012/10/09(火) 16:12:19.59 ID:SLWqFZzc
橋下氏に群がる危険な仲間 愛媛・松山「維新の会」
http://t.co/Kw4kIegB 「松山維新の会」若江進市議は三島由紀夫の自衛隊・市ケ谷駐屯地乱入事件を「義挙」と賛美。
「愛媛維新の会」横田弘之県議は改憲、自衛隊法整備などを主張…。両会とも「日本維新の会」への合流決める。
三島由紀夫VS鳩山由紀夫VS鳥山明!?♪。
545 :
ナナシズム:2012/11/23(金) 13:47:33.24 ID:H0fhbbUg
KANAMARA BUKKAKE GAY FESTIVAL!
http://www.youtube.com/watch?v=pcDWY4EWRAg&sns=em Mr.Don-Gabacho!(Japanese fist fuck porn famous ketsumanko gay actor)
http://www.youtube.com/watch?v=eLsZqEyCH_0&sns=em 田舎に住んでる親父!
田舎のお袋!田舎の同級生!会社の同僚のみんな!
俺はアナルセックスする肛門が開いたケツマンコオープンリーゲイと言うホモとして生きて行くよ!
Let's say BUKKAKE KETSUMANKO!
Let's say KETSUMANKO!
KETSUMANKO IS BUKKAKE GAY!WONDER!
BUKKAKE RAINBOW KETSUMANKO LAND
WELCOME! KETSUMANKO BUKKAKE LAND!
WELCOME TOKYO RAINBOW KETSUMANKO WONDER BUKKAKE WORLD!
WALK AROUND TOKYO KETSUMANKO ANAL PIRDE GAY BUKKAKE PARADE!
!
Xrated gay bukkake porn RAINBOW KETSUMANKO MOVIE at KETSUMANKO bukkake TOWN NAKANO JAPAN
546 :
ナナシズム:2012/12/05(水) 18:06:50.03 ID:YZL8gH2U
Q――いまの憲法を改めて、自衛隊を正式の軍隊とすることに賛成ですか、反対ですか。
三島:よい。軍隊は金で動くものではない。国の与へる栄誉、国民の与へる信頼にささへられて動くものだ。
したがつて、日陰者にしておいたのでは内向して、えらいことになる。
Q――現行憲法のどんな点に不満をお持ちでせうか。
三島:第九条第一項は議論の余地はあるが、第二項はけしからん。なぜなら、第一項は一つの理想を
述べたものであるが、第二項はまつたく占領下の実定法的法規だからである。
三島由紀夫「憲法 ここが不満だ! 改憲はいいことだ」より
547 :
fads4qtutty:2012/12/06(木) 01:22:52.30 ID:cbWU0b2A
548 :
ナナシズム:2013/04/30(火) 22:29:51.68 ID:gfrYdl86
〜
549 :
ナナシズム:2013/05/28(火) 09:34:07.13 ID:GHOu8i4w
「米人鏖殺」
米人よ地上を去れ。汝らの義務である。米人よ跡をも止めぬ者たれ。汝らの光栄ある使命はそれである。
米人よ滅びよ。尽(ことごと)く死ね。もはや躊躇すな。汝の剣は汝自身の血もてのみ衂(ちぬ)れ。米人よ
残らず死ね。米人よ再びこの地上へ来るな。米人よ死ね。――汝らの存在は私にとり不快である。目通り叶はぬ。
死ね。日輪の前にもおびえぬ群盲よ。死ね。私は日の方へ顔をむけるものゝ額に慎しみの代りに憎悪がある故踏む。
汝の額を踏む。いかなる大砂漠をも恐れげもなく蹴立てゝきた不遜な隊商が、懸橋なき断崖の上へ来て何とした。
墜落せよ。飛べ。寸時たりとも輝やける中空に在る光栄に喜死せよ。
臭い。涜らはしい。傍へ寄るな。退れ。汝の息が花園に近づく時花はみな剣をかざす。汝の息は清流のうちなる
魚をも腐らす。汝、蠅の母なる者よ。去れ。見苦しい。去れ。犬の犬。豚の豚。汚物を食とする卑賎猥雑な
バビロンの末よ。汝を鋤いて地を肥やし、汝の屍に毒だみの花咲かせん。屍は毀(こぼ)たれて踏み躙(にじ)られし
蟹の如けん。青き脳髄を地へは垂らすな。
平岡公威(三島由紀夫)戦時中(推定)の手記
550 :
天罰を:2013/05/28(火) 23:51:12.65 ID:osobG/XZ
551 :
ナナシズム:2013/07/28(日) NY:AN:NY.AN ID:uqyM/FEA
j
552 :
ナナシズム:2013/10/24(木) 16:55:39.88 ID:???
要点をまとめると
天皇陛下は神様
お前らは天皇様の為に命を捧げろ
553 :
ナナシズム:2013/12/24(火) 03:35:48.39 ID:9jzXBaIz
554 :
婆娑羅 ◆mB5vjmJqME :2013/12/26(木) 10:16:19.21 ID:NP7M5PsN
三島由紀夫が、何故、自衛隊に乱入して 割腹したか?
スライド110枚にまとめて公開してみました。
science-basara.com/column/imperial-family/
私の理解に間違いがないか、ここで教えていただけないでしょうか?
555 :
ナナシズム:2013/12/27(金) 07:26:52.54 ID:TDXx748r
>>554 あんたのスライドは、単なるこじつけだよ。
そういう架空の「歴史の裏側」ストーリーが大好きな人って珍しくない。
あんた、自分の元妻がクローン人間とすり替えられた、とか
自分はCIAに監視されてる、とか主張してるらしいじゃないか。
そういう人間がトンデモ陰謀論を持ち出しても、誰も相手にしない。
556 :
ナナシズム:2013/12/27(金) 10:37:09.21 ID:OxDMDhNv
明治維新で、孝明天皇親子が暗殺され、北朝の血統が
理不尽に絶え、南朝末裔を自称する大室何某が皇室に入った
理不尽が、226事件を起こし、それに共鳴して三島由紀夫が
自衛隊に決起参加を呼びかけたが、失敗して切腹したのが
三島由紀夫事件の真相では?
science-basara.com/column/imperial-family/
557 :
ナナシズム:2013/12/27(金) 10:44:47.15 ID:TDXx748r
>>556 あんたのは、単なるこじつけだよ。
あんた、自分の元妻がクローン人間とすり替えられた、とか
自分はCIAに監視されてる、とか主張してるらしいじゃないか。
そういう人間がトンデモ陰謀論を持ち出しても、誰も相手にしない。
558 :
ナナシズム:2014/01/19(日) 13:52:19.19 ID:???
559 :
ナナシズム:2014/02/01(土) 23:44:42.05 ID:???
二・二六事件の悲劇は、統帥大権の純粋性を信じた青年将校と、英国的立憲君主の教育を受けた文治的天皇との、
甚だしい齟齬にあつたが、私が近ごろ再軍備の論をきくにつれ、いつも想起するのは、この統帥大権の問題である。
シヴィリアン・コントロールとたやすく言ふが、真に死に直面した戦闘集団は、芸道的原理に服した現実の
権力のために死ぬことができるであらうか?早い話が、「死ぬこととみつけた」武士道は、「死なないですむ」
芸道のために、死ぬことができるであらうか?
「死なないですむ」芸道的原理が現代を支配し、大臣も芸能人も野球選手も、同格同質の社会的名士と扱はれ、
したがつてそこに、現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との、真の対決闘争もなく、西欧的ヒューマニズムが、
唯一の正義として信奉されてゐるやうな時代に、シヴィリアン・コントロールが、真に日本人を死なせる
原理として有効であらうか、私は疑問なきを得ない。
もちろん、シヴィリアン・コントロールは、天皇の代りに、総理大臣のために死ぬことではない。
三島由紀夫「団蔵・芸道・再軍備」より 大澤孝芳
560 :
ナナシズム:2014/02/21(金) 03:27:53.07 ID:dplimqSH
無限の力と一つになろうぜ!
561 :
ナナシズム:2014/02/21(金) 09:18:53.97 ID:???
二・二六事件の悲劇は、統帥大権の純粋性を信じた青年将校と、英国的立憲君主の教育を受けた文治的天皇との、
甚だしい齟齬にあつたが、私が近ごろ再軍備の論をきくにつれ、いつも想起するのは、この統帥大権の問題である。
シヴィリアン・コントロールとたやすく言ふが、真に死に直面した戦闘集団は、芸道的原理に服した現実の
権力のために死ぬことができるであらうか?早い話が、「死ぬこととみつけた」武士道は、「死なないですむ」
芸道のために、死ぬことができるであらうか?
大澤孝芳「死なないですむ」芸道的原理が現代を支配し、大臣も芸能人も野球選手も、同格同質の社会的名士と扱はれ、
したがつてそこに、現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との、真の対決闘争もなく、西欧的ヒューマニズムが、
唯一の正義として信奉されてゐるやうな時代に、シヴィリアン・コントロールが、真に日本人を死なせる
原理として有効であらうか、私は疑問なきを得ない。
562 :
ナナシズム:2014/03/25(火) 23:01:14.35 ID:576gBSFa
563 :
ナナシズム:2014/09/03(水) 08:46:15.42 ID:uXaFOFHj
昭和6年、6歳になった三島は、当時、上流家庭の子女のみに入学が許されていた学習院初等科に入学しました。
しかし女の子の遊びしか知らず、小柄で病弱、顔色もわるかったため、いじめの対象となりました。
付けられたあだ名は、「アオジロ」。
564 :
ナナシズム:2014/09/03(水) 08:47:02.68 ID:uXaFOFHj
こうして三島は自分の容姿に強いコンプレックスを持っていくようになりました。
が、その一方で、三島の文学の才能は急速に花開いていったのです。
祖母のもとでひたすら本を読みふけり、歌舞伎など舞台にも早くから親しんでいた三島は、わずか6歳にして俳句を詠み、詩を書きました。
565 :
ナナシズム:2014/09/04(木) 01:26:52.48 ID:???
三島由紀夫の主張は,米軍の支配下にある自衛隊の自立,憲法改正のための決起,民族の自立,天皇を中心とした日本の伝統の擁護であった.
戦後,日本民族は深い惰眠をむさぼり,日本の文化は破壊され,日本の伝統は後退し,武士の魂は失われた.このことに危機感を持っての演説であった.
566 :
ナナシズム:2014/09/04(木) 01:28:32.68 ID:???
日本人は戦後の経済繁栄にうつつをぬかし,国の大本を忘れ,国民精神を失い,本を正さずして末に走り,自ら魂を空白の状態へ落ち入れたと訴えた.さらに国を防衛すべき自衛隊が妥協と欺瞞の政治のなかで,ご都合主義の法的解釈でごまかされていると主張した.
567 :
ナナシズム:2014/09/04(木) 01:36:54.48 ID:???
三島由紀夫は学習院初等科のころから病弱で,文学にあこがれをもち多くの書物を読んでいた.
そして学習院中等科の頃から文学をこころざし,俳句,詩歌などを作り16歳で処女作「花ざかりの森」を書いている.
19歳時に学習院高等科を首席で卒業し天皇陛下から銀時計を授かり,東大法学部に推薦入学している.
568 :
ナナシズム:2014/09/04(木) 04:10:09.11 ID:???
将軍を守るのが武士としたなら現代の武士を自衛隊と見ていた。
しかし、その武士たる自衛隊が憲法や既成政党等により手足をがんじがらめにされ身動きがとれない状態を憂う行動だった
569 :
ナナシズム:2014/09/04(木) 04:12:58.72 ID:???
徳川時代の末、波静かなる瀬戸内海、或は江戸の隅田川など、あらゆる船の帆には白地に朱の円がゑがかれて居た。
朝日を背にすれば、いよよ美しく、夕日に照りはえ尊く見えた。
それは鹿児島の大大名、天下に聞えた島津斉彬が外国の国旗と間違へぬ様にと案出したもので、是が我が国旗、日の丸の始まりである。
570 :
ナナシズム:2014/09/04(木) 05:33:27.35 ID:???
三島由紀夫が自決した当時は,大阪万博が成功し日本中が好景気に浮かれていた。
そして戦後の経済的繁栄に,その反動として左翼運動が活発化していた。
このような時代背景の中で,その場しのぎと偽善に満ちた日本の表面的繁栄に義憤を感じている者が少なからずいた。
571 :
ナナシズム:2014/09/04(木) 07:25:24.99 ID:???
祖母のもとでひたすら本を読みふけり、歌舞伎など舞台にも早くから親しんでいた三島は、わずか6歳にして俳句を詠み、詩を書きました。学習院の中等科にあがるころには詩のあまりの完成度の高さから、「盗作ではないのか」と教師の間で話題になるほどだったのです。
572 :
ナナシズム:2014/09/06(土) 10:32:43.89 ID:???
このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。
日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、
中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。
573 :
ナナシズム:2014/09/07(日) 09:21:05.11 ID:???
本当の文武両道が成立つのは,死の瞬間にしかないだろう
空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しない
人間、正道を歩むのは却つて不安なものだ
574 :
ナナシズム:2014/09/08(月) 03:46:53.58 ID:???
決意を持続させることのできるのは、習慣という怪物である
日本で言論と称されているものは、あれは暴力
言論の底には血がにじんでいる。そして、それを忘れた言論はすぐ偽善と嘘に堕する
575 :
ナナシズム:2014/09/10(水) 16:56:13.93 ID:???
われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、
国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、
その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみささがられ、
国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただ
ごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを
歯噛みしながら見てゐなければならなかつた
576 :
ナナシズム:2014/09/10(水) 21:43:30.84 ID:???
青春の特権といへば、一言を以てすれば、無知の特権であらう。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
577 :
ナナシズム:2014/09/15(月) 21:17:26.87 ID:???
正しい力は崇高であり、汚れた力は醜悪であることは、
あたかも、清い水は生命をよみがへらせ、汚ない水は人を病気にさせるのに似てゐる。
578 :
ナナシズム:2014/10/27(月) 02:26:39.38 ID:+j3sy2ew
注目の新用語 「オナハラ」
オナハラとは、女のわがままを発端とする異性へのハラスメント、女のワガママによって男性が差別偏見被害を受けることを示した略称。
具体的な問題例としては、女性専用車両問題、痴漢冤罪問題、セクハラを主張する言いがかり、ストーカー冤罪問題、DV冤罪問題、離婚裁判の不当判決問題などが挙げられる。
579 :
【東電 77.4 %】 :2014/10/31(金) 13:20:22.30 ID:0pEe8taB
580 :
ナナシズム: