☆三島由紀夫の主義・主張★

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301ナナシズム:2010/07/12(月) 20:36:42 ID:WavZYSCa
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、
根底的にデラシネ(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方では
その無用性に自立の根拠を置きながら、一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。



日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はない。



知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらいは弁えてゐなくてはならぬ。


三島由紀夫「新知識人論」より
302ナナシズム:2010/07/12(月) 20:37:04 ID:WavZYSCa
命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しない。



知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的な「大義」が何かを
問ひつめてゐればよいのである。
…権力も反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐれば
よいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を見詰めてゐればよいのである。断固として
動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐればよいのである。
私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。

三島由紀夫「新知識人論」より
303ナナシズム:2010/07/22(木) 11:02:19 ID:4HlEfVgE
ゴンブローヴィッチはエロティックでない哲学なんて信用できないという。青年がなぜ
特権を持っているか。それはエロティックということです。学生新聞の文章を読んで
ごらんなさい。妙な観念的なことを書いていて、何を言わんとするのか全くわけがわからない。
だけど性欲が過剰だということだけはよくわかる。(中略)
西洋人を見ているとわかるでしょう。いい年をして脂っこいセックス。(中略)
ああいうものを持っているということは絶対肉体からくるので、日本人にはちょっと
わからないようなところがある。西洋の哲学でも思想でも、みなああいうものを
抜きにしては考えられない。宗教もそうでしょう。キリスト教で抑圧した性欲の激しさ
というものはすごい。だからバタイユとかクロソウスキーみたいな作家が出てくる。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
304ナナシズム:2010/07/22(木) 11:03:18 ID:4HlEfVgE
ぼくは自分の小説はソラリスムというか、太陽崇拝というのが主人公の行動を決定する、
太陽崇拝は母であり天照大神である。そこへ向かっていつも最後に飛んでいくのですが、
したがって、それを唆かすのはいつも母的なものなんです。…ずいぶん右翼のいろんな
手記を読んだりしたけど、おふくろがみんないいおふくろで、息子の行動を全部是認している。
…おふくろの力というのはとても大事なんです。右翼のあれを読むと、みなおふくろ好きなんです。
イタリアのギャングが帰着するところは全部おふくろなんです。(中略)
いくら女を締め出してもだめです。最終的におふくろが出てくる。
三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
305ナナシズム:2010/07/22(木) 11:03:40 ID:4HlEfVgE
三島:ぼくはいま安岡君の「幕が下りてから」を読んでいるのだけれども、あんなに
人間が背が高くなることを信じない人というのはつらいだろうな。
中村:それはおもしろい。そういう意味ではあの人は魅力がない。
三島:魅力がない。

中村:とても悧巧だからね。

三島:大江君は、少なくとも背が高くなるという可能性は信じているでしょう。自分は
絶対ならないけれども、誰かがなるだろうということを信じている。それが自意識と
結びついて変なことになっちゃうかもしれないけれども、少なくとも安岡君とちがうのはそこだ。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
306ナナシズム:2010/07/22(木) 11:04:03 ID:4HlEfVgE
三島:…作家がピエロというのは前提条件で、どこからどこまでピエロなんだから、
自分でピエロだといったらピエロでなくなっちゃう。つまりピエロが出てきて、
私はピエロですピエロですといったら絶対ピエロでなくなっちゃう。メドラノの曲馬、
あれは悲しそうだからいいので、私はクラウンですよといったらクラウンでなくなる。
日本の私小説というのはどうもそういう感じがする。(中略)
太宰は、私はクラウンですよと絶えずいっていた。だからおもしろくもおかしくもないし、
そんな当たりまえなことをいうなと言いたくなる。

中村:太宰はともかくとして、日本の私小説は大まじめで、大いに悲劇的な表情で
喜劇的なことをやってたんじゃないの。

三島:自分が気がつかないでね。自分が気がつかないというのはクラウンとはちがう。
クラウンは全部知っている。そして一生懸命やる。人は大笑い。それが芸術家だと思う。
日本の小説家は自分がクラウンだということを知らない。そして私はクラウンですよ
というのだけれど、腹の底でそう思っているかどうかはわかりません。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
307ナナシズム:2010/07/22(木) 11:04:23 ID:4HlEfVgE
三島:もし自分はクラウンだといえば、どこかの女が、冗談おっしゃってはいけません。
クラウンじゃありませんよと……。

中村:必ず言ってくれると思っている。

三島:あれは耐えられない臭味だな。

中村:とくに太宰はね。

三島:耐えられない。ぼくは安岡君のものを読んでも気に食わないのもそれなんです。
安岡君が、「私」は醜男だ、どうせ滑稽だ、女房にいじめられてばかりいるとか、
そんなことはちっともおもしろくもおかしくない。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
308ナナシズム:2010/07/22(木) 11:06:14 ID:4HlEfVgE
三島:…つまり、どこかでなあなあでなれ合いで、おれはこうやっていても、おれの
偉いということは人がわかってくれているのだぞ、ということがどこかに残っているからですよ。
そんな意識は捨てたればいい。
ぼくの理解者がどこかにいて、ぼくのことを偉いと思っていたら、ぼくは偉いというふうに
すればいいじゃないですか。人が偉いと思ったら偉いと思えばいいし、人が滑稽だと
思ったら滑稽であればいいので、それについて自分は偉いとか滑稽とかいう必要は毛頭ない。
安岡君はいつも自分はクラウンだというふうに自己規定する。あれは狡いと思う。
安岡君をまじめにとっている人がいくらでもいるだろう、そういう人間に対して失礼だと思う。
読者を考えた場合に、読者に対する礼儀というものは非常に大事だと思う。読者がもし
ぼくをある一点においてまともにとってくれているなら、ある一点でまともなんですよ。

三島由紀夫
中村光夫との対談「対談・人間と文学」より
309ナナシズム:2010/08/05(木) 12:34:10 ID:l7vHHYmj
戦後二十二年間、私は原爆について発言しなかつた。…
第一に、原爆に関しては、体験した者と体験しない者、被曝者と被曝しなかつた者といふ二つの立場以外、
絶対ありえないからだ。これがベトナム論などと根本的に違ふ点であり、そのことを忘れた発言はすべて
ウソである。被曝しなかつた者が、いくら「おかはいさうに」と同情してみせても、そんなことで心慰められる
被曝者は一人もゐない。(中略)
広島に“新型爆弾”が投下されたとき、私は東大法学部の学生であつた。(中略)
それが原爆だと知つたのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだつた。世界の終りだ、と思つた。
この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。もつとも、原爆によつて突然発生した
といふより、私自身の中に初めから潜在したものであらうが……。

三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
310ナナシズム:2010/08/05(木) 12:35:06 ID:l7vHHYmj
ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。まぎれもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは
二度とくりかへしません」といつた。原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文学は、終戦の詔勅の
「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない。
そのかはり日本人は、八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。
一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される
工業力誇示である。だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。
いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。日本は
核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。

三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
311ナナシズム:2010/08/05(木) 12:36:20 ID:l7vHHYmj
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを
作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、
輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。
日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。
戦後二十二年間、平和はまさに米ソの核均衛の上に保たれてゐた。だか、お互ひの核ドウカツだけで均衛が
保たれたかといふと、さうは思へない。第二次大戦中、広島で原爆が使はれたといふ事実、たくさんの人が死に、
今も肉体的、精神的に苦しんでゐる人がゐるといふ事実がなかつたとしたら、観念的にいくら原爆の悲惨さが
わかつてゐても、必ず使はれたらう。人間とは本来、さういふものである。その意味でヒロシマこそが、
最大の「核抑止戦略」であつた。

三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
312ナナシズム:2010/08/05(木) 12:37:38 ID:l7vHHYmj
加へて、第二次大戦を転機に、世界的に被害者と加害者の逆転がおこつた。先進国が後進国に負ひ目をもち、
大国のアメリカが外ではベトナム、内では黒人問題で手をやく――といつた一連の現象である。つまり弱者が
優位に立つといふ“逆勢力均衡”なのだが、その先端を切つたのは、被害者の極、ヒロシマなのであつた。
将来、小型爆弾が使はれる可能性は、皆無ではないだらう。ベトナムのやうに、今使ふかと世界の注目を
あびてゐる地点よりも、未開の国で突如使はれるかもしれない。大国が、中程度の国をそそのかして核使用の
口実をつくることも考へられる。
だが、いちばん危険なのは、防衛力としてのABM(弾道弾迎撃ミサイル)が開発されて、攻撃力としての
ICBM(大陸間弾道弾)との均衛が成立したとき、つまり大国がICBMに対して自国の安全を守れるといふ
考へに達した時であらう。

三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
313ナナシズム:2010/08/08(日) 22:57:52 ID:sUZSpA5V
私が望んでゐるのは、国軍を国軍たる正しい地位に置くことだけです。国軍と国民のあひだの
正しいバランスを設定することなんですよ。(中略)
私が一番疑問に思ふのは、万一いま大戦争が起つたら自衛隊全部がアメリカの指揮下に
はひるのではないかといふ危惧です。この問題については、隊内のいろんな人たちとも
話合ひました。
私の考へはかうです。政府がなすべきもつとも重要なことは、単なる安保体制の堅持、
安保条約の自然延長などではない。集団保障体制下におけるアメリカの防衛力と、
日本の自衛権の独立的な価値を、はつきりわけてPRすることである。たとへば
安保条約下においても、どういふときには集団保障体制のなかにはひる、どういふときには
自衛隊が日本を民族と国民の自力で守りぬくかといふ“限界”をはつきりさせることです。

三島由紀夫「三島帰郷兵に26の質問」より
314ナナシズム:2010/08/08(日) 22:58:35 ID:sUZSpA5V
私はあらゆる国家は固有の自衛権を持つてゐるといふ考へから自衛隊を合憲と見る人々の主張に
反対してゐない。しかし、本来民主国家の国民的権利に属する国防の問題を義務化することには
反対といふ観点から徴兵制度には賛成でない。若者にとつて団体生活が必要だといふ私の考へは、
徴兵反対となんら矛盾しないのである。いまの青年に自制心とか規律とかが欠けてゐるのは
事実だから。(中略)
私が望んでゐるのは国軍を国軍たる正しい地位におくこと、国軍と国民の間の正しい
バランスを設定することなのである。

三島由紀夫「青年と国防」より
315ナナシズム:2010/08/11(水) 11:31:01 ID:ncfUF6/5
武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカか
トンチキになり、金が人生の至上価値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、
もつとも往生際のわるい病気である癌で死ぬまで待つほかはない。


武の心持がなければ、人間は自分をいくらでも弱者と考へることができ、どんな卑怯未練な行動も
自己弁護することができ、どんな要求にも身を屈することができる。その代り、最終的に
身の安全は保証されよう。
ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、
自分に対してもゆるされず、一か八かといふときには、戦つて死ぬか、自刃するかしか
道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は美しく死ぬことができ、
立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉にできてゐる。

三島由紀夫「美しい死」より
316ナナシズム:2010/08/11(水) 11:31:16 ID:ncfUF6/5
現代の人間が、自分の良心の力だけで自己の魂にベルトを締めることができるかどうか。
人間は、目で見えるもの、なにか形のあるものに直面することによつて魂をゆすぶられるんです。
だからカトリックの荘厳な儀式、祭服、音楽、彫刻といつたものは大切です。ヒンズーも
同様だが、生きてゐる宗教とはそんなものなんですよ。


日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんな
あすこにあります。

三島由紀夫「インドの印象」より
317ナナシズム:2010/08/11(水) 11:31:30 ID:ncfUF6/5
一切の錯覚を知らぬ心は、大義に近づくことができない、といふのが人間の宿命である。


現代は、死を正当化する価値の普遍化が周到に避けられ、そのやうな価値が注意深く
ばらばらに分散させられてゐる時代である。


私は円谷二尉の死に、自作の「林房雄論」のなかの、次のやうな一句を捧げたいと思ふ。
「純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど
自己破壊的な否定、……云ひうべくんば、青空と雲とによる地上の否定」
そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、「青空と雲」だけに属して
ゐるのである。

三島由紀夫「円谷二尉の自刃」より
318ナナシズム:2010/08/15(日) 10:44:05 ID:pd4shGDU
Q:あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。

三島:大東亜戦争でいいぢやないか。歴史的事実なんだから。
太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。
戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢやないか。

Q:あの戦争をどう意味づけてゐるか。

三島:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。
いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。

三島由紀夫「歴史的事実なんだ」より


Q:自衛隊が存在しなければ、日本は侵略されると思ひますか?

三島:もちろん侵略される。日本はこれまで、ただの一日でも、力に守られなかつた平和を持つたことがない。
侵略に対処するには力しかない。

三島由紀夫「これでいいのか日本の防衛」より
319ナナシズム:2010/08/16(月) 09:45:39 ID:N8s+PH3i
私は必ずしも栄誉大権の復活によつて「政治的天皇」が復活するとは信じません。
問題は実に簡単なことで、現在の天皇も保持してをられる文官への栄誉授与権を武官へも
横辷りさせるだけのことであり、又、自衛隊法の細則に規定されてゐるとほり、天皇は
儀仗を受けられるのが当然でありながら、一部宮内官僚の配慮によつて、それすら
忌避されてゐるのを正道に戻すだけのことではありませんか。


いはゆるシヴィリアン・コントロールとは政府が軍事に対して財布の紐を締めるといふだけの
本旨にすぎないが、私は日本古来の姿は、文化(天皇)を以て軍事に栄誉を与へつつ
これをコントロールすることであると考へます。

三島由紀夫「橋川文三への公開状」より
320ナナシズム:2010/08/16(月) 12:27:58 ID:N8s+PH3i
天皇は、いまそこにをられる現実所与の存在としての天皇なしには観念的なゾルレンとしての
天皇もあり得ない、(その逆もしかり)、といふふしぎな二重構造を持つてゐる。
すなはち、天皇は私が古事記について述べたやうな神人分離の時代からその二重性格を
帯びてをられたのであつた。この天皇の二重構造が何を意味するかといふと、現実所与の
存在としての天皇をいかに否定しても、ゾルレンとしての、観念的な、理想的な天皇像
といふものは歴史と伝統によつて存続し得るし、またその観念的、連続的な天皇をいかに
否定しても、そこにまた現在のやうな現実所与の存在としてのザインとしての天皇が残る
といふことの相互の繰り返しを日本の歴史が繰り返してきたと私は考へる。そして現在
われわれの前にあるのはゾルレンの要素の甚だ稀薄な天皇制なのであるが、私はこの
ゾルレンの要素の復活によつて初めて天皇が革新の原理になり得るといふことを主張して
ゐるのである。

三島由紀夫「砂漠の住人たちへの論理的弔辞」より
321ナナシズム:2010/08/16(月) 12:49:42 ID:N8s+PH3i
現代に政治を語る者は多い。政治的言説によつて世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、
情報を蒐集し、これを理論化体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の
上つ面を撫でるだけの、究極的にはニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に
墜するのは何故だらうか。このごろ特に私の痛感するところであるが、この複雑多岐な、
矛盾にみちた苦悶の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな不毛の現代社会に於て、
真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか? 日本もそこまで来てゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「『占領憲法下の日本』に寄せる」より
322政治にテロする:2010/08/17(火) 21:37:52 ID:???
3:欧米駄犬男は全部コンクリ事件並にして殺す :2010/08/17(火) 21:10:21 ID:??? [ソンテチャク殺す]
374:殺したい男全部殺す :2010/08/17(火) 20:44:52 [インドネシアの黒猿全部コンクリ事件と同じ目にあわせる]
ビルダーバーク会議の男全部殺す
柔道の山下、柔道のメダル、柔道世界選手権
朝鮮様にも元寇、日清、日露、日独戦争のような偉大な戦史がほしい
友愛元年はインドネシアの糞猿、インドネシアで好き勝手に暴れまくるw ヒトラーはユダヤ人、メルケルはヒトラーの娘
ケロイドインドネシアの黒猿全員殺す 山口組の男全部殺す
醜い男全部殺す、醜い女は抱けるように整形しろ、乗っとられた飛鳥朝廷 戦国時代から奴隷の倭猿女ww
チャンコロ男コンクリ事件並にして全部殺す 藤原氏の正体 成長するため、正しい地図を手にしよう やたがらすの系譜で検索[日本人総源氏化計画で検索]
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ザイン リチャードコシミズ、輿水正 これほど醜い日本人女性
エラ通信 金福子殺す
ゴイム呼ばわりの調子こいてるデーブスペクター殺す
異国の豚男全部殺す 小泉売国レイプ殺人チョン一郎殺す 竹中平蔵インサイダー取引韓国人殺す 倭犬で検索 、倭猿で検索
ソーゾー君
さてはてメモ帳
オルタナティブ通信書いてるチョン殺す
独立党w
ベンジャミンフルホード殺す
2ちゃんねるから子供たちを守ろう
2ちゃんねる裏の歴史
黄金の金玉
お笑いみのもんた劇場 鳥肌実 東アジア人
人間の屑ジャニーズの裏の全て 日米欧三極委員会
フリーメーソン殺す
政教分離違反ソンテチャク殺す コイルミョンきもい殺す
汚職、腐敗、賄賂、パチンコ天下りチンピラ警察官男全部殺す 百式のブログ アイヌのウィキぺディア、密入国マルハンチョン社長殺す、枕営業
323ナナシズム:2010/08/18(水) 10:05:38 ID:mQ/i+ys7
氏が、天皇に心をとらへられることを、単に十九世紀の制度の作つた新しい侵略主義的感情だ
といふならば、階級が感情を作るといふこの古くさい退屈な理論は、尊皇思想のみの力が
明治天皇制を形成したといふ唯心論の裏返しにすぎない。(中略)
私が特に制度の問題を論ずるに当つて、歴史的「文化的」伝統との関聨を重んじ、
このエトス=パトスに重点を置くのは、文化とは非常に高度な洗練を成立条件としつつ、
一方民族の根底的なエトス=パトスの原始性と切り離されたとたんに、その生命力を
失ふやうな繊細な花だといふ考へがあるからである。高度な宮廷文化(みやび)の保持者として
機能しつつ、民族的原質とつねに相関はつてきたものこそ天皇であり、それを措いて、
他に日本民族の最終的なアイデンティフィケーションは不可能であると私は考へる。

三島由紀夫「再び大野明男氏に――制度と『文化的』伝統」より
324ナナシズム:2010/08/18(水) 23:31:15 ID:mQ/i+ys7
家庭にはひりこんでくるテレビの威力の前に、子どもたちを守らうとしても、もうむだです。
よい言葉やよいしつけについては、おとなでさへ忘れてしまつてゐる時代です。何がよいことで、
何がわるいことか、子どもたちはわかりやすい簡単な基準を与へてほしがつてゐるのですが、
それを与へることのできない親たちは、子どもたちをしかる資格さへ失つてゐるのです。


ある形に結晶し完成された生活や道徳は、その安定した美しさで、別の美しさを誘ひ出します。
一つの美しさは別の美しさと照応し、一つの美しさによつて別の美しさが誘ひ出される。
これが美の法則でもあり、道徳の法則でもあります。美しさは「誘ひ出される」のです。
…遠い歴史と風土の中に咲く花であつても、小さく咲いた完全なえにしだは、日本の可憐な
夕顔の親せきになり、われわれの心に、忘れてゐた夕顔の美しさを誘ひ出すのです。

三島由紀夫「序(セギュール夫人作 松原文子・平岡瑤子訳『ちっちゃな淑女たち』)」より
325ナナシズム:2010/08/19(木) 19:10:08 ID:F+ySkL/6
革命には神秘主義がつきものであり、人間の心情の中で、あるパッションを呼び起こす最も
激しい内的衝動は、同時に現実打破と現実拒否の冷厳な、ある場合には冷酷きはまる精神と
同居してゐるのである。


遠くチェ・ゲバラの姿を思ひ見るまでもなく、革命家は、北一輝のやうに青年将校に裏切られ、
信頼する部下に裏切られなければならない。裏切られるといふことは、何かを改革しようと
することの、ほとんど楯の両面である。なぜならその革命の理想像を現実が絶えず
裏切つていく過程に於て、人間の裏切りは、そのやうな現実の裏切りの一つの態様に
すぎないからである。革命は厳しいビジョンと現実との争ひであるが、その争ひの過程に
身を投じた人間は、ほんたうの意味の人間の信頼と繋りといふものの夢からは、覚めて
ゐなければならないからである。一方では、信頼と同志的結合に生きた人間は、論理的指導と
戦術的指導とを退けて、自ら最も愚かな結果に陥ることをものともせず、銃を持つて
立上り、死刑場への道を真つ直ぐに歩むべきなのであつた。

三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より
326ナナシズム:2010/08/19(木) 19:10:34 ID:F+ySkL/6
もし、どこかに覚めてゐる者がゐなければ、人間の最も陶酔に充ちた行動、人間の最も
盲目的行動も行なはれないといふことは、文学と人間の問題について深い示唆を与へる。
その覚めてゐる人間のゐる場所がどこかにあるのだ。もし、時代が嵐に包まれ、血が嵐を呼び、
もし、世間全部が理性を没却したと見えるならば、それはどこかに理性が存在してゐることの、
これ以上はない確かな証明でしかないのである。

三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より
327ナナシズム:2010/08/21(土) 10:57:49 ID:c6LO1WfQ
――生、虚構(フィクション)、事実(ファクト)について。

あらゆるものがニセモノ。政治も芸術も、どこかで有効性にすがりついてゐる限り
フィクションだ。事実は死だけ。存在証明の最終的なものは死だ。焼身自殺などは事実の最高。
かうした日常性=フィクションに対して、一人の芸術家が抵抗しようとする時、死しかない。
事実としての死。主義(イデオロギー)なんか問題ぢやない。

――貴族(アリストクラット)について。

あらゆる政治形態に長短がある。貴族政治は金があり、美を鑑賞する力もある。
ブルジョアジーはそれを代行できない。共産主義、独裁は程度が低い。明治維新は
官僚革命だつた。田舎侍のストイシズムと上品でありたいといふスノビズム、それが
俗悪化を救つた。山手文化はそれだ。鴎外がその象徴である。戦後の日本の金持の趣味の悪さ。
戦前はこれほどひどくはなかつた。

三島由紀夫「壮麗なる“虚構”の展開」より
328ナナシズム:2010/08/21(土) 10:58:12 ID:c6LO1WfQ
――現代について。

(中略)知識人が守りたがつてゐたものは何か? 守るためには何かしなきやならない、
ことがわかつてきた。“守る行為”を今まで何と思つてきたか? 
暴力が平和を、平和が暴力を守る時もある。暴力の等価性、それが紛争状態で証明された。
デモクラシーは、他の国へ入つて他の国の人を殺すこともできるのだ。ベトナム戦で
はじめて現実を知つたんぢやおそいのだ。日本人は絶対性を好む。相対的、簡易主義に
立脚してゐるデモクラシーを絶対化したところに誤りがある。

三島由紀夫「壮麗なる“虚構”の展開」より
329ナナシズム:2010/08/23(月) 14:28:30 ID:Czklci0a
一旦身に受けた醜聞はなかなか払ひ落とせるものではない。たとへ醜聞が事実とちがつてゐても、
醜聞といふものは、いかにも世間がその人間について抱いてゐるイメージとよく符合する
やうにできてゐる。ましてその醜聞が、大して致命的なものではなく、人々の好奇心を
そそつたり、人々に愛される原因になつたりしてゐるときには尚更である。かくて醜聞は
そのまま神話に変身する。


微笑は、ノー・コメントであり、「判断停止」「分析停止」の要請である。こんなことは
社会生活では当たり前のことで、日本のやうに個人主義の発達しない社会では、微笑が
個人の自由を守つてきたのである。しかもそれは礼儀正しさの要請にも叶つてゐる。

三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
330ナナシズム:2010/08/23(月) 14:28:46 ID:Czklci0a
日本の伝統は大てい木と紙で出来てゐて、火をつければ燃えてしまふし、放置(はふ)つて
おけば腐つてしまふ。伊勢の大神宮が二十年毎に造り替へられる制度は、すでに千年以上の
歴史を持ち、この間五十九回の遷宮が行はれたが、これが日本人の伝統といふものの考へ方を
よくあらはしてゐる。西洋ではオリジナルとコピイとの間には決定的な差があるが、
木造建築の日本では、正確なコピイはオリジナルと同価値を生じ、つまり次のオリジナルに
なるのである。京都の有名な大寺院も大てい何度か火災に会つて再建されたものである。
かくて伝統とは季節の交代みたいなもので、今年の春は去年の春とおなじであり、去年の
秋は今年の秋とおなじである。

三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
331ナナシズム:2010/08/23(月) 14:29:34 ID:Czklci0a
どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。
…なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は
支那に似てゐる。


「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬しているんです」
私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、
他ならぬギリシアの子供にかう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を
尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に残つてをり、しかもわが日本が、
(古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの競技会に
参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、
いかに世界をおほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。
事実、われわれの精神の仕事も、もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るか
とかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。

三島由紀夫「日本の株価――通じる日本語」より
332ナナシズム:2010/08/23(月) 14:29:59 ID:Czklci0a
同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。
フランスのアメリカぎらひは、自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。


ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は
疑り深くて、新聞に書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。
しかし或る非常の事態にいたると、知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、
ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは自分の生活の場に立つて、
蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な
デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうな
あの民衆の本能的不信は、古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか
歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と考へられたのには、理由がある。

三島由紀夫「遠視眼の旅人」より
333ナナシズム:2010/08/27(金) 23:42:51 ID:S1bA0EGE
(シニスム)が大抵のものを凡庸と滑稽に墜してしまふのは、十九世紀の科学的実証主義に
もとづく自然主義以来の習慣である。私は自意識の病ひを自然主義の亡霊だと考へてゐる。
すべてを見てしまつたと思ひ込んだ人間の迷蒙だと考へてゐる。あらゆる悲哀の裏に
滑稽の要素を剔出するのはこの迷蒙の作用である。いきほひ感情は無力なものになり、
情熱は衰へ、何かしらあいまいな不透明なものになり終つた。


悲劇は強引な形式への意慾を、悲哀そのものが近代性から継子扱ひをされるにつれてますます
強められ、おのづから近代性への反抗精神を内包するにいたる。それは近代性の奥底から
生み出された古典主義である。喜劇は近代をのりこえる力がない。


偉大な感情を、情熱を、復活せねばならぬ。それなしには諷刺は冷却の作用をしかもたないだらう。

三島由紀夫「悲劇の在処」より
334ナナシズム:2010/08/30(月) 12:27:40 ID:7mSLpkUP
女の声でもあんまり甲高いキンキン声は私はきらひだ。あれをきいてゐると、健康によくない。
声に翳りがほしい。いはばかあーつと照りつけたコンクリートの日向のやうな声はたまらないが、
風が吹くたびに木かげと日向が一瞬入れかはる。さういふしづかな、あまり鬱蒼と濃くない
木影のやうな声が私は好きだ。
寒気のするもの天中軒雲月の声、バスガールの声、活動小屋の幕間放送の声、街頭の
広告放送の声。
燻(くす)んだチョコレートいろの声も私は好きだ。さういふとむやみにむつかしく
きこえるが、そこらで自分の声をちつとも美しくないと思ひ込んでゐる女性のなかに、
時折かういふ声を発見して、美しいなと思ふことがある。(中略)
時と場合によつては、女の一言二言の声のひびきが、男の心境に重大な変化をもたらす。
電話のむかうの声のたゆたひが、男に多大の決心を強ひる。「まあ」といふ一言の千差万別!

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
335ナナシズム:2010/08/30(月) 12:28:15 ID:7mSLpkUP
声が何かの加減で嗄れてゐて、大事な場合の「まあ」が濁つてしまふことがあつても、
それをごまかす小ささ咳の可愛らしさが、電話のむかうのつつましい女の様子をありありと
思ひ描かせることがある。
いくら声のいい人でも立てつづけに喋りちらされてはたまらない。そこで問題はおのづと
声と言葉の関係に移る。
私はおしやべりな人は本当にきらひだ。自分がおしやべりだから、その反映を相手に
見るやうな気持がしてきらひなのかとも思ふが、いくら私がおしやべりでも私は女の
おしやべりには絶対にかなはない。(中略)女のタイプライターのやうなお喋りが
はじまると、私は目の前に女性といふ不可解な機械が立ちふさがるのを感じる。
尤も、友達として話相手になれるやうな女性は、大ていおしやべりであるし、教養があつて
しかもおしやべりでない女など、まづ三十以下ではゐないと言つていい。黙りがちの女性は
いかにも優雅にみえるが、ともすると細雪のきあんちやんのやうな薄馬鹿である。

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
336ナナシズム:2010/08/30(月) 12:28:49 ID:7mSLpkUP
女はゆたかな感情の間を持つて、とぎれとぎれに、すこし沈んだ抑揚で、しかもギラギラしない
明るさ賑やかさ快活さの裏付けをもつて、大して意味のない、それでゐて気のきいた話し方を
するやうな女がいい。批判、皮肉、諷刺、かうした話題が女の口から洩れる時ほど、女が
美しくみえなくなる時はない。痛烈骨を刺す諷刺なんてものは、男に委せておけばいい。(中略)
私は妙にあの「ことよ」といふ言葉づかひが好きだ。口の中で小さな可愛らしい踵を
踏むやうに、「ことよ」と早口でいふのが本格である。私がやたらむしやらこの用法に
接するやうになつたのは、亡妹が聖心女子学院にゐた時からで、聖心では何でもかんでも、
行住座臥すべて「ことよ」である。
「そんなこと知らないことよ」
「そこまで行つてさしあげることよ」
「いいことよ」…(中略)

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
337ナナシズム:2010/08/30(月) 12:29:37 ID:7mSLpkUP
女の言葉づかひだけはどんな世の中になったても女らしくあつてほしい。襖ごしに、
カアテンごしにきこえる姉妹の対話、女の友達同志の対話、それを耳にしただけで女の世界の
ふしぎな豊かさ美しさ柔らかさ和やかさ滑らかさ温かさが、女の世界の馥郁(ふくいく)たる
香りが感じられるのでなければ、男どもは生きてゐることがつまらない。
襖ごしにこんな会話がきこえてきたら、世をはかなみたくなるではないか。
「さういふ実際的問題とは問題が別よ。もつと全宇宙的な……」
「さうよ。あんたの主張は理解できるわよ。しかし、何といふかなあ、さういふデリケートな
感覚的な没論理的な主張は……」

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
338ナナシズム:2010/08/31(火) 14:22:39 ID:KAJRqEt/
小説を書くというのは、ことばの世界で自分の信ずる「あすのない世界」を書くことですね。
そして、あすのない世界というのは、この現実にはありえない。戦争中はありえたかも
しれないけれども、今はありえない。今、われわれは、来週の水曜日に帝国ホテルで
会いましょうという約束をするでしょう。戦争中は、来週の水曜日に帝国ホテルで
会いましょうといったって、会えるか会えないか、空襲でもあればそれまでなんで、
その日になってみなきゃ、わからない。それが、つまりぼくの文学の原質なのですけれども、
今は、来週の水曜日、帝国ホテルで会えること、ほぼ確実ですよね。そして文学は、
ぼくのなかでは依然として、来週の水曜日、帝国ホテルで会えるかどうかわからない
という一点に、基準がある。それがぼくの、小説を書く根本原理です。ぼくは文学では、
そういう世界を、どうでも保っていくつもりです。それはぼくの悲劇理念なのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
339ナナシズム:2010/08/31(火) 14:23:09 ID:KAJRqEt/
悲劇というのは、必然性と不可避性をもって破滅へ進んでゆく以外、何もない。人間が
自分の負ったもの、自分に負わされたもの、そういうもの全部しょって、不可避性と必然性に
向かって進んでゆく。ところが現実生活は、必然性と不可避性をほとんど避けた形で
進行している。偶然性と可避性といいますか、そうして今の柔構造の社会では、とくに
そういうような、ハプニングと、それから、可避性といいますか、こうしなくても
いいんだということ、そういうことで全部、実生活が規制されてしまう。
そうするとわれわれも、ある程度、その法則に則って生活しなくては生きられないわけですから。
それで来週の水曜日、帝国ホテルで会うということについても、ある程度、迂回作戦を
とりながら、その現実に到達するために努力する。ところが、
芸術では、そんなことする必要はまったくないのですから、来週の水曜日、会えないところへ
しぼればいいわけですよね。ぼくにとっては、そういう世界が絶対、必要なのです。
それがなければぼくは、生きられない。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
340ナナシズム:2010/08/31(火) 14:23:24 ID:KAJRqEt/
ぼくの小説があまりに演劇的だ、と批評する人もありますけれども、必然性の意図と
不可避性の意図が、ギリギリにしぼられていなければ、文学世界というもの、ぼくは
築く気がしない。それはぼくの構想力の問題であり、文体の問題でもあるんですが、
あるいは、法律を勉強したのが多少、役にたっているかもしれません。犯罪が起これば、
これは刑事事件ですから、そこで刑事訴訟のプロセスが進行するわけでしょ。これは完全に、
必然性と不可避性の意図のなかに人間をとじこめてしまいますからね。そういうものが
ぼくにとっては、ロマンティックな構想の原動力になるので、私の場合「小説」というものは
みんな、演劇的なのです。わき目もふらず破滅に向かって突進するんですよね。そういう
人間だけが美しくて、わき目をするやつはみんな、愚物か、醜悪なんです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
341ナナシズム:2010/08/31(火) 14:23:46 ID:KAJRqEt/
作家というのは、作品の原因でなくて、作品の結果ですからね。自己に不可避性を課したり、
必然性を課したりするのは、なかば、作品の結果です。ですけれども、そういう結果は、
ぼくはむしろ、自分の“運命”として甘受したほうがいいと思います。それを避けたりなんか
するよりも、むしろ、自分の望んだことなんですから……。生活が芸術の原理によって
規制されれば、芸術家として、こんな本望はない。
ぼくの生き方がいかに無為にみえようと、ばかばかしくみえようと、気違いじみてみえようと、
それはけっきょく、自分の作品が累積されたことからくる必然的な結果でしょう。ところが
それは、太宰治のような意味とは、違うわけです。ぼくは芸術と生活の法則を、完全に
分けて、出発したんだ。しかし、その芸術の結果が、生活にある必然を命ずれば、それは
実は芸術の結果ではなくて、運命なのだ。というふうに考える。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
342ナナシズム:2010/08/31(火) 14:24:00 ID:KAJRqEt/
それはあたかも、戦争中、ぼくが運命というものを切実に感じたのと同じように、感ずる。
つまり、運命を清算するといいましょうか。そういうふうにしなければ、生きられない。
運命を感じてない人間なんて、ナメクジかナマコみたいに、気味が悪い。
…「新潮」の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の
二元論というものを、私がどういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて
書いている。日本でいちばん理解しにくい考えは、それなんですよね。それで、作品と
生活との相関関係ということが、私小説の根本理念ですから、その相関関係を断ち切ることは、
絶対できない。私の場合は、作品における告白ももちろん重要ですけれども、実は告白自体が
フィクションになる。作品の世界は、さっきも申し上げたように、かくあるべき人生の
姿ですからね。もし、自分が作品に影響されてかくあるべき人生を実現できれば、
こんないいことはないわけですけれども、逆にそうなれないというのが、人生でしょ。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
343ナナシズム:2010/08/31(火) 14:26:09 ID:KAJRqEt/
そうなれないことが人生で、それでは、そうなれない人生をもっと問題にして、どうにも
ならんことを小説に書けばいいではないか、という考え方も出てくると思う。しかし、
ぼくは、それは絶対やりたくないですね。死んでも、やりたくない。そういうことを
書く作家というのが、きらいなのです。小島信夫の「抱擁家族」などというのは、
そうならない人生を一生懸命書いているわけです。そうなれない怨念を書くのが文学だとは、
ぼくは決して信じたくない。
文学というのは、あくまで、そうなるべき世界を実現するものだと信じている。
告白といいますけれども、告白も、かくあるべきだ、こうなりたいんだ、けれども、
こうならなかったという、それを語るのが、告白であって、告白と願望との関係は、
ひと筋なわではゆかないと思いますよ。人はいつでも、告白するとき、うそをついて、
願望を織り込んでしまうと思うのです。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
344ナナシズム:2010/08/31(火) 14:26:26 ID:KAJRqEt/
文学と関係のあることばかりやる人間は、堕落する。絶対、堕落すると思います。だから
文学から、いつも逃げてなければいけない。アルチュール・ランボオが砂漠に逃げたように……。
それでも追っかけてくるのが、ほんとうの文学で、そのときにあとについてこないのは、
にせものの文学ですね。ぼくは作家というのは、生活のなかでにせものの文学に、ばかな女に
とり囲まれるように、とり囲まれていることが多いと思うのです。だって、ふり払ったことが
ないから。自分が“もてる”と思ってますからね。
ところが、それをふり払って、砂漠の彼方に駈けだしたときに、そのあとをデートリッヒみたいに、
はだしで追いかけてくる女は、ほんとうの女ですよ。ぼくはそれが、ほんとの文学だと
思います。ぼくの場合は、できるだけ文学から逃げている。するとはだしで追っかけて
きてくれる女がいる。それが、ぼくの文学です。その女に、やさしくしますよ。そのときに、
小説を書くわけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
345ナナシズム:2010/08/31(火) 14:29:27 ID:KAJRqEt/
論理的能力を発見するなんて、昔は想像もしなかった。だから、人間って、あきらめないで
じっくりやっていれば、何か出てくるんだと思うのです。自慢じゃないですが、英語の会話が
できるようになったのは三十越してからですからね。それまで英語でしゃべれなかった。
アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。三十ごろになって、アメリカに
半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。人間の能力なんていうものは、
ほんとに、早く決めてしまうことないと思いますね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
346ナナシズム:2010/08/31(火) 14:29:48 ID:KAJRqEt/
ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。
それが源泉ですね。その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。
ですから自由意志には、無限定な自由はないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤を
くりかえしますけれども、自由意志が源泉を発見した時に初めて、自由意志が、自由に
なるのだ、と思います。それまでは自由意志は、なにものかにとらわれていて、もっと
自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それが、ぼくは源泉だと思う。
ヘルダーリンの「帰郷(ハイムクンフト)」のいう、一種の恐ろしさですね。最も
なつかしいもので、最も恐ろしいものです。現代社会は、そういう、源泉に帰ることを
妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉からたえず遠ざかって、前へ、前へ、
上すべりしてゆくように、社会構造ができている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
347ナナシズム:2010/08/31(火) 14:30:08 ID:KAJRqEt/
たとえば、テレビ、初め映りの悪いテレビ、それがまた、映りのいいテレビ、
カラー・テレビになる。現代社会は、その機械と同じことで、次々と、改良されたものは
与えられますけれども、改良された果てに何があるか、それはなにも与えないで、ぼくらを、
先へ、先へ、進めるでしょ。でもぼくらは、テレビより、もっと遠くみえるものがあるはずです、
いちばん前に。(中略)
テレビより、もっと遠くがみえるはずです。それから、人の心も、もっとよくみえるはずですし、
つまり、みたいと思うものは、百万里先だろうが、みなければならない。みえなくして
しまったのは、“文明”ですよね。ぼくはそう思います。(中略)
目ですね。ぼくは、源泉にはそれがあったはずだと思うのです、ぼくにだって。失っただけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
348ナナシズム:2010/08/31(火) 14:30:43 ID:KAJRqEt/
剣道なんかやってますと、(そんなこというほどの資格はぼくにありませんが)
“観世音の目”ということ、いいますね。全体をみなければいけない。相手の目を見たら、
負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら負けてしまう。そうではなくて、
“観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう目を鍛錬し、
養成することが、剣道の極意だといわれているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと
思います。それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、
ネコの寝た形が、ちゃんとできている。あれが、寝るということ、休むということの
本当の形なのですね。(中略)
ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが源泉なのですね。
それから、運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、
運動能力というのは本来、人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。
…源泉から遠ざかってしまっているわけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
349ナナシズム:2010/09/03(金) 12:59:33 ID:N33bDJTU
子供はよもや鯉幟(こひのぼり)を、形やデザインの面白さといふふうには見まい。
小学校では五月の図画の時間に、よく鯉幟の絵を描かされるが、子供の描く鯉幟はいづれも
概念的で、青葉若葉に埋もれた家々の屋根高く、緋鯉と真鯉が、地面と平行に景気よく風を
はらんでゐる姿である。風がなくて、ダランとした鯉幟を描く子は、よほどの問題児であると
考へてよいが、どの子も、実際は、風がなくて垂れた鯉幟を見てゐるのに、絵に描くと
さうは描かない。ある意味では、垂れた鯉はリアリズムなのであるが、子供は、物事を
典型的な、あるべき姿でしかとらへようとしないのである。
それに、垂れた鯉は本当の魚ではなくて、ただの布のオモチャだといふことを、あからさまに
証明してゐる。しかし風をはらんだ鯉は、ウソと本当、象徴と現実とを兼ねて、遊泳して
ゐるのである。

三島由紀夫「こひのぼり」より
350ナナシズム
(中略)
インドには、ヒンズー教の一つのあらはれとして、サクティ(エネルギーの意)崇拝
といふのがあつて、エネルギーは本来女性に属するものと考へられ、その神像は
大地母神カリやドゥルガである。
日本の鯉幟に象徴されてゐるエネルギーはあくまで男性の活力であつて、武士階級の思想を
あはらしてゐる。農耕民族の神話時代の日本人は、天照大神をすべてのエネルギーの源泉と
考へたのであるが、武士社会の男性中心主義が、男性的活力を、ほがらかな明るい五月の空に、
尚武の象徴としてひるがへしたのは当然である。
今のやうな女性の強力な時代には、そして日本男児がこれほど衰微した時代には、
鯉幟なんか廃棄されてもよささうなものであるが、これに代る女性的活力の象徴としては、
まさか、パンティーをひるがへすわけには行くまい。

三島由紀夫「こひのぼり」より