135 :
ナナシズム:
ところで僕は、日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、
西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない、という
アイロニカルな歴史意志を考えるのです。
福沢諭吉と神風連が実に対蹠的なのは、明治政府の新政策によって、前者は欣喜し、後者は幻滅した。僕は
幻滅によって生ずるパトスにしか興味がない。幻滅と敗北は、攘夷の志と、国粋主義の永遠の宿命なのであって、
西欧の歴史法則によって、その幻滅と敗北はいつも予定されている。日本の革新は、いつでもそういう道を辿ってきた。
唯一の成功した革新は、外国占領軍による戦後の革新です。
僕の天皇に対するイメージは、西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への
洞察力と、そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴です。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
136 :
ナナシズム:2010/02/05(金) 14:53:25 ID:F8tXoC0v
しかるに昭和の天皇制は、内面的にもどんどん西欧化に蝕まれて、ついに二・二六事件をさえ理解しなかったではないか。
そのもっとも醇乎たる悲劇意志への共感に達しなかったではないか。「何ものかを汲みとろう」なんて言うと
アイマイに思われるでしょうが、僕は維新ということを言っているのです。天皇が最終的に、維新を「承引き」
給うということを言っているのです。そのためには、天皇のもっとも重大なお仕事は祭祀であり、非西欧化の
最後のトリデとなりつづけることによって、西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点になり、革新の
原理になり給うことです。イギリスのまねなんかなさっては困るのです。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
137 :
ナナシズム:2010/02/05(金) 15:13:01 ID:F8tXoC0v
僕は天皇無謬説なんです。
僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ。
革命家がある場合には旧支配の頂点によって肯定されるという妙なことが起こり得るのが、日本ではないのですか
というのです。
つまり天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、
いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる。いまあまりにも現状肯定的ホームドラマ的
皇室のイメージが強すぎるから、先鋭な革新の象徴としての天皇制というものを僕は言いたいというだけのことですよ。
天皇制のもう一つの側面というものが忘れられている、それがいかんということを僕は言いたい。
それだけのことです。天皇は実に不思議で、世界無比だというのは、その点ですよ。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より
138 :
ナナシズム:2010/02/05(金) 15:33:04 ID:F8tXoC0v
(中略)僕は大嘗祭というお祭りが、いちばん大事だと思うのですがね。あれはやはり、農本主義文化の一つの
精華ですね。あそこでもって、つまり昔の穀物神と同じことで、天皇が生まれ変わられるのですね。そうして
天皇というのは、いま見る天皇が、また大嘗祭のときに生まれ変わられて、そうして永久に、最初の天照大神に
かえられるのですね。そこからまた再生する。
…僕は、経済の発展的な段階というものを、ぜんぜん信じてないのですね。農耕文化なり、なに文化なり、
資本主義から社会主義になるというのは、まったく信じてない。だけれどもインダストリアゼーションは、土から、
みんな全部人間を引き離すでしょう。そしてわれわれのもっているものは、すべて土とか、植物とか、木の葉とか、
そういうものとはどんどん離れていく。それで土を代表するものはなにかとか、稲の葉っぱを代表するものは
なにかとか、自然というものと、われわれの生活とを最後に結ぶものはなにか。それは、たまたま、ことばは
農本主義と言っても、経済学上の用語としての農本主義とちょっと違いますが……。
三島由紀夫
林房雄との対談「対話・日本人論」より