【井筒屋】九州の百貨店2【トキハ】

このエントリーをはてなブックマークに追加
107おかいものさん
GMとは以下のところ。

刻鯛道路を東へ東へと進み、美香差川を超えると
そこは産号線との合流地点。
周囲を見渡すと都市高速・ラーメン屋・酒蔵が目に入り、
更には一部緑色の超高層建物(団地)が
歩行者や車を見下ろすかのように ソビエ立つのが否応なしに認識させられる。


グリーンモンスターとは
 http://nights.mods.jp/yc/28.html
 
  本場GM(=Green Monster)の画像
  http://komarineko.net/pictures/20041025/l1.jpg
  http://www.amespo.com/framesrc/kansenki/photo/taguchi1b.jpg


福岡版GMの画像 (本場のそれ(高さ約11m)よりも遥かに高いw)
 http://www.yokogawa-kouji.co.jp/bridge/images/smplslid.jpg(真ん中よりやや上)
 http://web.travel.rakuten.co.jp/share/HOTEL/5663/5663.jpg(左奥)
108おかいものさん:2006/08/17(木) 10:43:26
公営住宅と部落を結びつけたがる者が非常に多いが、そもそもの公営住宅の歴史から勉強してほしい。
戦後すぐに各地に建てられた公営住宅の目的は、戦災による住宅難民の救済措置が目的だった。
福岡の場合は、博多大空襲で焼け出された都市部の住民もいたし、北九州は八幡製鉄所があったためもっと酷かった。
八幡大空襲は博多大空襲よりもさらに酷く、街は壊滅状態になった。
一面の焼け野原となった八幡の街は、製鉄関係の社宅もたくさんあり、焼け出されて住む家を失った人々は難民となって
田舎の親戚を頼ったりなどして転々としなければいけなくなった。
福岡にもそういう難民は数多く来た。戦後、福岡市は公営住宅を数多く建て、戦災難民は一時的にそうした住宅に住むことになる。
世の中が落ち着いてきた昭和30年代後半に、公営住宅の多数は希望者に払い下げられることになった。
経済的に立ち直った戦災難民の多くは、公営住宅を買い取って新たに家を建て直したり他へ引っ越したりした。
解りやすくいえば、地震の被災者が仮設住宅を土地ごと買い取るようなものだ。
といっても、当時の公営住宅は地震の仮設住宅とは比較にならないほど敷地も広く、庭付き一戸建てと変わらないものだったが。
このような公営住宅が、福岡市の郊外、主に城南区や南区に多くあったようだ。今は普通の住宅街になっている。
現在ある公営住宅は、その時の戦災仮設住宅の残されたごく一部も含まれていると思われる。当然、建物は建て変わっている。
城南区と南区に古い住宅街が多いのは、こうしたかつての公営住宅が住宅街化したものと
もう一つの理由は、これらの町が比較的早くから開発され宅地化されていったからだ。
南区の宅地開発は、昭和40年代初頭から始まっている。当時は区画整理もされず、畦道をそのまま街区にして
曲がりくねった田畑をそのまま切り売りして、個人に好き勝手に家を建てさせたので
特に南区などは、あのように街区も無茶苦茶な迷路のような町並みが出来上がってしまった。
つまり、福岡市の戦後の都市開発における道路行政が悪かった。

109おかいものさん:2006/08/17(木) 10:44:06
>このような公営住宅が、福岡市の郊外、主に城南区や南区に多くあったようだ。今は普通の住宅街になっている。

そういう住宅街をいっているのではありません。
>>52>>53>>137にあるように
昭和30年代、港湾地区にタムロしていた、
犯罪者DQN血統を隔離するために立てられた市営団地のことを取り上げているのです。
(10年前、会社の先輩(当時60才ちょっと過ぎの年齢)からそういうことを聞かされた)
二死区の遺棄暖智や非餓死区の貼っ多暖智 に逝ってみなされ、嫌でも今ナオ続く空気の違いがわかるから。

それと  市営団地と部落を結びつけて語ってはいないよ。
あくまで 市営団地住民の源泉=犯罪者DQN血統=黒民(Bではない) と捉えているから。


ただ、何故か市営団地近くの公民館では 「人権」関連ポスターが目立つんだよね。
110おかいものさん:2006/08/17(木) 10:44:40
の言っていることも解るよ。私も、70〜80歳代の高齢者にいろいろな話を聞いたが
245の言うような公営住宅の経緯も聞いている。博多駅の近くに日本人ではない人々の集落があったこと、
街を整備するにあたって、それら集落が邪魔になったため立ち退きさせる必要があったこと、
(特に、博多駅は昭和39年に呉服町から現在地へ移転させるための大規模な工事があったので)
これらの理由で、戦後に出来たバラック小屋の集落を整理、住民を公営住宅に移したのだろう。
この問題は、日本に古来から続く血統的B問題とは、また事情が異なってくると思う。

日本古来の血統的Bは、むしろ田舎で先祖からの土地と家屋を所有していたので
公営住宅に住む必要がないし、現代の世の中の住宅事情において箱庭のような安普請の住宅に住み
せっせとローンを払っている人達よりは、先祖から受け継いだ土地と家屋のおかげで
広くて立派な家に住んでいる例の方が多い。

240で私が述べた公営住宅の成り立ちについては、かつて公営住宅があり、現在は古い住宅街化している町が
誤解されがちな町並みであることの理由を説明するため戦後の住宅事情と都市開発の話をあげてみた。
南区と城南区は、30年ほど前までは森と沼地の間に田畑がある未開の地だったため
土地はいくらでもあった。都心部に近い郊外ということで、真っ先に宅地開発が進められた地帯なんだよ。
花畑、柳河内など、最も早くから宅地開発で切り開かれていったと聞いている。
南区、城南区の住宅街は、まさに野放し状態で家が建ったので
あの辺りの町並みが無残なのは見てのとおり。都市計画も何もあったものじゃない。
昭和50年以降ぐらいから、新興住宅街ではきちんとした区画整理がなされるようになった。

町並みが複雑で道が狭く、ごちゃごちゃしていること=Bと誤解している者がいるので
町並みとBは関連性はないということを知っておく必要がある。
また、そうなった背景には、戦後の住宅難などあらゆる原因があるために長々とした説明になった。