25 :
氏名黙秘:
アンチ被害者白熱教室(担当:長文教授)
さあ、白熱して行こう。しかし、私自身は、白熱していないと告白せざるを得ない。なぜ
なら、被害者というものにフィーヴァーする時代は終わったからだ。私も、かつては彼ら
を嫌っていたものだが、ゼロ年代が終わり、彼らがもう自分にとってどうでもよい存在で
あることに気づいた。彼らは、なしうることをほぼ完膚なきまでに実現した。しかし、制
度的に、殺人の時効撤廃より先は、考えにくい。厳罰化もかなり進んだので、これ以上進
むとは考えにくい。もう、全てが終わっている。従って、ここで語るのは、その総括とい
うことになるだろう。
さて、被害者ファッショという表現を、まず検討しよう。いうまでもなく、何より定義が
大切だ。被害者は、害を被った者ということで、いいだろう。しかし、ファシズムとは何
か。被害者はファシストといえるのか。それを問うためには、ファシズムを定義しなけれ
ばならない。さて、ユリ、ファシズムとは何だろう。
―アーレントも読んでないので、よく分からないですね。全体主義の一種ですかね。
では、全体主義とは何だろう。
―だから、アーレントも読んでないんですけど、個人を一色に染めていくってイメージで
すかね。
ありがとう、ユリ。そんなところだと思う。ファシズムは全体主義の中でも、特殊なもの
といえる。アーレントも、その点を捉えられているとはいえない。しかし、ファシズムと
全体主義を、区別せず用いよう。
26 :
氏名黙秘:2010/06/23(水) 00:06:02 ID:???
被害者はファシストであるという人がいるとすれば、そして、彼らがファシズムという言
葉を正しく用いているとすれば、一つの価値に染め上げて行こうという傾向を彼らに見て
いることになる。しかし、被害者の運動は、全体社会を変えて行こうという運動ではない
ということはいえるだろう。よって、その意味で全体主義ではない。
しかし、被害者ファッショというのは、検察ファッショのパラフレーズでもある。検察フ
ァッショは、天皇制ファシズムの下で、いわゆる非国民を徹底的に締めあげたものだ。こ
れは、天皇制という一つの価値に染まらないものに対する弾圧だから、一般的な意味での
全体主義ではあるだろう。しかし、特殊な全体主義である天皇制という点に着目すれば、
被害者ファッショという概念が成立しないだろうか。では、ジョージ、よろしく。
―天皇制は、昔、長文教授が言っていたことによると、無の共同体ですから、守るべき価
値などないといえるわけで、秩序は異論を封じることだけで成立します。被害者も異論を
封じているとはいえそうです。
ありがとう、ジョージ。この無の共同体という考えを、今も維持しているかは、自分でも
分からない。しかし、天皇制社会に守るべき価値がないことは、事実だ。あえていえば、
イエの存続ということだろうか。しかし、異論を封じるだけで秩序が成立しているかとい
えば、私は、相互監視により秩序を維持しているというふうに、考えを改めた。この程度
のことを考えるのに、ここまで時間を費やしたことは、まことに情けないことだが。
27 :
氏名黙秘:2010/06/23(水) 00:07:06 ID:???
被害者は、異論を封じているとまではいえないだろう。事実、異論は噴出しているといっ
ていい。しかし、被害者ファッショという表現は、維持できると思う。それは、国民ファ
ッショの先兵としてだ。国民ファッショという概念について、どう思う、バーバラ。
―ファシズムは、全体が個人を染めていくものです。国民ファッショといえば、国民が全
体の側に属しているということになりますが、国民は、染められていく側のようにも思わ
れ、妙な感じがします。
ありがとう、バーバラ。とても明晰だね。しかし、染められていく側と染めていく側が同
じなのが、ムラ社会なのだ。ムラ社会は、中間集団全体主義により、構築されている。こ
れは、内藤「いじめの構造」などで提示されている概念だが、大集団ではなく、中間集団
に人々を囲い込んで、相互監視させ、人を、個人として存在できないようにするのが、日
本のシステムなのだ。内藤は、相互監視という言葉は用いていないが。
天皇制ファシズムは、ムラ社会の中間集団全体主義を、大集団(国家)がうまく編成した
ものといえるだろう。ムラ社会は閉じているので、それ自体では侵略など考えもしないだ
ろうが、これをうまく操作することはできる。そして、この中間集団の相互監視のまなざ
しを編成して、大集団と化したのが、2ちゃんねるなのだ。国民ファッショは、2ちゃんね
るを始めとするネットの産物といえるだろう。
国民ファッショは、中間集団全体主義の一形態ということになるね。ネットは、第三のム
ラといえるだろう。ジョン、分かるかな。
―つまり、加害者を袋叩きにするように、あらゆる中間集団の相互監視しているまなざし
が一点に集中しているということですか?
ありがとう、ジョン。その通りだ。疲れてきたので、唐突だが、この辺で打ち切っておこ
う。ここで、暫定的な結論を出しておこう。
まず、議論は、最初から組み立てておかないと、こういうことになる。それから、定義は
きっちりしておかないといけないね。
ファシストというと、ファシスト石原、というように、打倒すべき相手の名前の前に付け
る形容詞にすぎないという面もある。もっとも、石原は、天皇制ファシズムを招来する恐
れのある存在ということで、そう言われているのかもしれないがね。
28 :
氏名黙秘:2010/06/23(水) 00:10:41 ID:???
=空中分解しているものの、そのまま掲載する。=
29 :
氏名黙秘:2010/06/23(水) 11:18:06 ID:???
さあ、今日も白熱して行こう。今回も、白熱していないジャンルを取り上げる。それは、
日本文化論というものだ。もう、フィーヴァーしてないこと、この上ない。なぜ、これが
フィーヴァーしていたのかさえ、今の人には分からないかもしれないな。
じゃあ、ユリ、なぜ日本文化論はかつてフィーヴァーしていたのだろう。
―日本人は、外国人に、どう見られるのかが気になってたんですかね。
今は、気にならないのかな。
―今は、グローバリズムの時代だから、日本人だからしょうがない、というのが通じなく
なったんじゃないですかね。自分らを変えられないものとして考え、どう見られているか
を気にするというより、自分らを変えていくしかないと考えを改めたんじゃないでしょう
か。
なるほど。では、今では、日本人は、人の目を気にしないのかな。
―人の目を気にしないという特質をもった民族なんて、ないんじゃないですかね。
それは、そうだ。だが、かつての日本文化論は、日本人は、人の目を気にしすぎるという
ことを、揃って指摘していたんじゃないのかな。
―たぶん、そうでしょう。私は、数冊の日本文化論を読んだだけなので、全ては分かりま
せんが、私の読んだ本はすべて、そういうことを書いていました。
ありがとう、ユリ。以上のやり取りから分かるように、日本文化論は、日本人は人の目を
気にしすぎることを揃って指摘していたが、そのような特質が、日本文化論の隆盛を招い
たともいえそうだ。しかし、人の目を気にしている場合ではない、グローバルスタンダー
ドに合わせよう、というのが昨今の時流で、それが、日本文化論の衰退を招いたといえる
だろう。
30 :
氏名黙秘:2010/06/23(水) 11:18:58 ID:???
では、日本文化論がいっていたことは、誤りなのかといえば、そうでもないだろう。この
点を明らかにしているのが、一望監視と相互監視という、私の論文(?)だ。悲しい限り
だが、さほど独創的なものとはいえない。というのは、人の言っていることを切り貼りし
ているだけだからだ。しかし、日本文化論の特徴の一つとして、相互の対話が欠けている
というのがある。対話が欠けているというのは、日本文化の特質でもあるだろうね。それ
が日本文化論にも反映しているとすれば、皮肉な限りだが、日本文化論の間に一つの対話
を成り立たせたとすれば、私の論文(?)もまったく無価値とまではいえないだろう。
じゃあ、カナデ、私の論文(?)はどういうことを言っていたのかな。
―言っていることは簡単。小集団は閉じており、そこでは人は溶け合っていて、中間集団
も閉じており、相互監視することで秩序を保っている、こうした社会構造から、動物的な
ものと計算的なものが合わさったような主体が形成される、なお、全体社会への関心はな
い、こんなところ。
ありがとう、カナデ。つまり、集団の閉鎖性という中根千枝の「発見」に、相互監視とい
うフーコーのパロディ的タームをつなげたわけだ。相互監視というのは、山岸俊男のキー
タームの一つであり、中根と山岸が出会ったところに、東浩紀が現れたとでもいえるだろ
うか。パッチワークという印象はぬぐえない。しかし、山岸は、心理学者ということもあ
り、社会構造の比較を知らないね。中根は、心理学を知らない。東は、過去の議論を知ら
ない。だから、私のような者にも、多少の出る幕があったわけだ。
31 :
氏名黙秘:2010/06/23(水) 11:20:27 ID:???
なお、フーコーの流れを組む社会構成主義は、日本文化論そのものに批判的だが、私は、
フーコーのパロディで日本文化論を構成した。
というものの、独創性がないことに加え、悪いことに、妥当性もないかもしれない。東浩
紀とは合致すると思うが、一望監視は、超自我を生む装置といえ、フロイトと合致するわ
けで、これが説得力を生んでいる。しかし、相互監視は、フロイトからは外れる。相互監
視が超自我の代わりをしているというような主張が、受け入れられるのか。
今日の結論を出しておこう。日本文化論は、日本人が、人からどう見られるのかを気にす
る民族であることから、量産された。その特質は、中間集団での相互監視から来る。相互
監視は主体の形成システムであるが、それは、今も維持されている。東浩紀や北田暁大の
ゼロ年代の仕事を見れば、それは分かる。
=これで、書き溜めていた(?)ものは終わりです。ご清聴ありがとうございました。=
=
>>16以下の論考は、組み立てなおして、ブログにでも貼るつもり。=
32 :
氏名黙秘:2010/06/23(水) 11:47:33 ID:???
=白熱教室は、2,3分しか見ていないので、再現できている自信はありません。=