新63期司法修習スレ 起案15枚目

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16氏名黙秘
本稿は、一望監視と相互監視と名付けられているが、もっぱら相互監視について述べるこ
とになる。では、なぜ一望監視をタイトルに入れたのか。本稿は、一望監視が主体性を形
成するのと同じく、相互監視は主体性の形成を妨げうることを述べており、このことが分
かればタイトルだけ読めば足りる。書き手の読み手フレンドリーな心掛けが伝わると思う。
もっとも、相互監視という概念は、新しいものではない(注)。山岸俊男の「安全社会から
信頼社会へ」を始めとする著書で、キイ概念のひとつとして使われている。山岸によると、
誰からも見られていない中で、集団への貢献を行うか実験してみたところ、日本人は、あ
まり貢献しない。従って、元来、集団主義的傾向を持ち合わせているわけではない。しか
し、相互監視が加わると、途端に集団に貢献する。従って、日本人が集団に貢献するのは、
相互監視ゆえである。そして、相互監視が機能するためには、それぞれの集団が閉鎖して
いなければならない。集団から排除されると、行く当てがなくなるからである。
以上の説明は、ムラ社会のありように合致している。しかしながら、他のアジア諸社会と
の比較を欠いており(例えば、「ネット評判社会」では、中国社会のありようをめぐり、混
乱している)、ムラ社会についても十分な説明をしているとはいえない。
本稿は、山岸の研究から出発し、ムラ社会の構造(およびムラ社会の集まりである日本社
会の構造)、およびその社会構造から形成される人格並びに記号の秩序について検討する。
17氏名黙秘:2010/06/22(火) 21:18:30 ID:???
中根千枝「タテ社会の人間関係」「タテ社会の力学」は、決定的な日本文化論である。日本
文化論はあまた書かれているが、中根の研究は、それらとは隔絶している。他の日本文化
論は、欧米と日本を比較するに止まり、アジアは視野に入っていない。これでは、取り出
されたものが、日本の特質なのかアジアの特質なのか、分からない。しかしながら、中根
は、アジア諸社会との比較から、日本社会の特殊性を発見している。その特殊性とは、人
は一つの集団にしか属さず、かつ、その集団が閉鎖していることである。これが、社会の
均一性をもたらす。つまり、同じだから閉じているのではなく、閉じているから同じなの
である。
アジア諸社会について、ごく手短に述べれば、中国やインドにおいては、親族組織が発達
しており、個々の家族は閉じていない。親族組織はネットワークを形成している。そして、
人々は、当然のように複数の集団に所属する。人は一つの集団により規定されているわけ
ではないので、特に中国人は、その人がどういう人か見極めるのは容易ではない。そこで、
人を見極める能力が求められる。そして、ひとたび朋友となれば、信頼で結ばれることに
なる。人々は、個人として存在している。東南アジアにおいては、恒常性を持った集団そ
のものが存在せず、ネットワークが存在するのみである。ここでは、ネットワークを自ら
切り開かなければならないため、主体性がなければならない。ここでも、人々は、個人と
して存在している。
18氏名黙秘:2010/06/22(火) 21:19:24 ID:???
対して、日本では、小集団である家族は閉じている。ムラという中間集団も閉じている。
職場でも、成員は、まず小集団の一員として意識され、その小集団は閉じている。会社と
いう中間集団は、当然のことながら、閉じている。
また、一つの集団にしか所属できない(家族や、同窓会などは別である)。ゆえに、その集
団を排除されると、行く当てがない。
集団の成員は、儀礼的に序列化することができる。このことを以って、タテ社会というこ
とができる。しかしながら、タテ社会ということに過度に拘るべきではない。むしろ、そ
の前提である、人が一つの集団にしか属さず、かつ、その集団が閉鎖していることが、決
定的である。

日本社会の構造について、考えてみよう。
日本社会では、家族は、小集団として孤立しており、職場でも、成員は、まず小集団の一
員として意識される。小集団の中では、溶け合っている。
では、秩序はどのように保たれているのか。それは、中間集団における相互監視によって
である。そして、排除が制裁として控えている。それぞれの中間集団は閉じており、一つ
の中間集団を排除されると、行き場を失うことになる。
どこまでが許容されているかは、はっきりしない。法律に反していても、みんなが行って
いることであれば、行ってよい。人は、具体的な他者のまなざしを意識して、自己規制し
ているにすぎないため、規範が内面化することはなく、超自我は形成されない。
19氏名黙秘:2010/06/22(火) 21:20:22 ID:???
このように中間集団において相互監視がなされるが、小集団でも、相互監視は行われる。
なぜなら、例えば、家族の一員が犯罪を行うと、家族そろって排除されるからである。そ
こで、相互監視は小集団の内部に及ぶ。
そして、中間集団の外はないに等しい。大集団(国家)は、年貢を徴収するだけであり、
人々から泥棒のように思われている。大規模な河川がないので、国家などなくて済むので
ある。江戸幕府は、自らはほとんど何もせず、被治者を相互監視させておくことで統治し
ていた。これは、世界史においても稀有のことである。
人々は、相互監視の中で常に委縮しているわけではない。それでは、明治からの発展は、
なかったであろう。では、何が社会を動かしているのか。答えは、凝縮された小集団の間
の競争である。これは、会社の中においても、同じである。故郷(という中間集団)に錦
を挙げたいという願望は、見返したいというネガティブなインセンティブでしかないので
はないかと思われる。これに対して、小集団は、成員と溶け合っており、自己と同視でき
るものであり、ポジティブなインセンティブを与えうる。

このような社会構造は、どのような人格を形成するのであろうか。
小集団で成員は溶け合っており、家族でも、子供は甘やかされる(ベネディクト「菊と刀」
は、子育てに一章当てている)。「溶け合う心が私を殺す」(EOE)のである。従って、子供
に超自我が生まれることはない。
20氏名黙秘:2010/06/22(火) 21:21:23 ID:???
超自我が形成されない代わりに、相互監視が行われる。超自我がないため、自我に従うべ
き基準はない。相互監視の中、その都度、可動域が決まってくる。そこで自我は、計算的
なものとなる。このような環境では、他者のまなざしを常に意識しなければならず、緊張
を強いられる。「菊と刀」では、修養に一章が当てられているが、禅などで無心が目指され
るのは、いかに自己監視が重荷になっているかを示すものであるとする。
このように抑圧的な文化ではあるが、快楽には寛容である。「菊と刀」では、一章が快楽に
当てられている。《快楽は義務と同じように学ばれる》(長谷川松治訳)。おそらく、超自我
に当たるものがないので、動物的なものが抑圧されないのだろう。
このように、日本人の人格は、計算的なものと動物的なもので構成されている。ポストモ
ダンに入り動物化したのではなく、もともと動物的なのである。

このような人格は、それを形成した社会を再生産する。

最後に、記号の秩序のついて述べたい。どこまでもフーコーに倣っていえば、日本のエピ
ステーメーは、非意味ということになるだろう。人は、小集団では溶け合っており、中間
集団は相互監視を行うのみである。また、人格は、動物的なものと計算的なもので構成さ
れている。このような社会構造、人格の構成から、意味は生まれない。
例は無限に挙げうるが(詳しくは、バルト「記号の国」)、ここでは一つだけ、中島義道「う
るさい日本の私」が問うている世に溢れる電子音を指摘しておきたい。店内放送など、意
味のあるものとして聞けば、無意味の極みであり、耐えられるものではない。非意味なも
のとして聞いているからこそ、平然としていられる。この意味への態度が、俳句やマンガ
といった文化を生んでいる。
(注)一望監視と相互監視を対比することも、新しいものではない。哲学を齧った人なら、
相互監視と聞けば、一望監視を自動連想するであろう。