【教員、新司に】広島大学法科大学院9【興味なし】

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223氏名黙秘
人々が行っている“恋愛”という行為
何故、人々はそれぞれの内に持つ恋心を満たす行動として一様に“恋愛”という行為を選択することが可能なのか。
それは、“恋愛”という行為が恋心を満たす行為として確立されているからである。
“恋愛”という行為のモデル無くして人々は“恋愛”することはできないのだ。
では、現代人の“恋愛”のモデルは一体何処にあるのか。それは創作物の中に他ならない。
“恋愛”という事象を総体的に理解するためには、それはモデル化される必要がある。
そのモデル化されたモノが、小説、ドラマ、漫画、アニメ、ゲームなどの創作物である。
人々の“恋愛”という概念の枠組みを構成するのは創作物なのである。
ところで、人々が恋心を満たすために持つ「恋愛がしたい」という欲求
この、人々がしたいと望む“恋愛”とは、どのような“恋愛”なのだろうか。
“辛い恋愛”だろうか。“悲しい恋愛”だろうか。
否。人々がしたいと望むのは“運命的で、素敵で、幸せな恋愛”である。
では、この人々が望む“理想的な恋愛”のモデルとは何なのであろうか。
そう、それは創作物の中の“恋愛”である。
人間の想像から生まれた創作物は人々の理想の形でもある。
人々は創作物の中の“恋愛”に憧れ、そのような“恋愛”を体験したいと、実際に“恋愛”をするのである。
しかし、果たして現実の世界に人々が求める“恋愛”は存在しうるのだろうか。
彼らの理想は創作物であり、創作物は人間の理想である。
理想、それは現実的具体的なものの対極ないし究極に位置する到達不可能な絶対的なものである。
現実世界には人々が理想とする“恋愛”など存在し得ないのだ。
現実世界に存在する“恋愛”は妥協と思い込みの上に成り立っている自己陶酔のための紛い物でしかないのだ。
理想の“恋愛”の紛い物で自分を満足させる・・・これを擬似恋愛と呼ぶことは出来ないだろうか。
擬似恋愛、それは現実世界で恋愛できない人間が仮想世界で自分を慰めるためのものと思われている。
だが、理想の“恋愛”、つまり真の“恋愛”が現実世界ではなく仮想世界に存在するものならば、
擬似恋愛とは現実世界での恋愛の方ということにはならないだろうか。