なぜそれが可能か? 徹底的な討論はなぜ可能か?
絶対的な真実とは…絶対神Godのみである。
Godのみが真実であり、人間は真実を作ることはできない。
人間は、真理を理解することも触れることもできないかもしれない。
Godとの契約は絶対であり、それ以外は「どうでもいい」こと。
しょせん、人間同士の議論など相対的なものだから、ムキになる必要はない。
現代科学で使用される実証法はすべて不完全帰納法
→どんなに証明されても、「真理」ではない。あくまで仮説のままである。
厳密な証明のされた科学的「事実」であっても特定条件下における仮説の証明にすぎないのだから、個人の意見ははじめから絶対的権威を持ち得ない。
だからいくらでも議論ができる。
もし、絶対的真理と称して「権威をもって厳粛に重々しく語る人間」がいたら、それはGodそのものであるか、Godを冒涜するものになる。ひれふすか、相手を殺すかどちらか。
→人間の語る言葉は、すべて「ジョーク(冗談)」である。→「本気にすんなよ。」
(トランプのジョーカーが最強なのは、どんな激烈な勝負の場所でも、ウソだよ〜んと言ってブチコワスから)
絶対を設定しているから、その他すべてを相対(お気軽ジョーク)にできる
(人間は、真理の絶対神の奴隷であって、その下で平等にFreedomになる)
民主主義の多数決はトランプの勝負のようなもの。
たかが相対的なジョークごときが、絶対的Godの下の絶対的Freedomに指一本ふれてはならない。→ふれられるわけがない。
(近代社会では、直接的にGodとの契約でなく、人間との契約になっているが、基本的性質は同じ)