責任とは
個人のものである。犯罪は個人の責任。犯罪者の親や子や同僚や近所の人には「まったく」影響があってはならない。
(日本では影響がある。肩身の狭い思いをする。「悪人」がいるとその穢れがまわりに伝染する。ババッチい。)
(伝統的儒教では大罪は9族におよぶが、9族に限定されてそれ以上には広がらない。また、人間関係、仕事関係には影響しない。)
→日本には、戦前も戦後も、いかなる意味のFreedomもない。
*これ以後、「自由」の言葉は使用いたしません。
あまりに意味がちがいすぎて使用できません。
Freedomか、「ほしいまま」と呼称します。
Freedomの元に成立する民主主義
→Freedomは権利。権利は主張して行使するもの。
→容赦なく主張して、容赦なく行使するのが正しいright。そうでなければ権利ではない。
→契約と同じ。契約は主張できる。権利のシステムの上に、デモクラシーができる。
権利がなければ(理解しなければ)、デモクラシーは崩壊する。
しかし日本では、権利を主張すると非難・制限される(権利を理解していない)
→Freedomがない。Democracyがない
民主主義は多数決
→しかし多数決は、権利を絶対に侵せない。
→つまり逆である。多数決はFreedomの結果であって、Freedomの基盤ではない。
すべての国民が多数決決定に参加する権利があって、行使できた場合に民主主義に意味がある。
→権利・契約がある。その権利は誰にも侵せない。
権利を行使する結果、民主主義が機能する。
(日本は発想がしばしば逆になる。多数決は空気。空気に逆らえない。空気の前では権利はなくなる。
したがって多数決は民主的ではない。となってしまう)