私はこのような「長いスパン(100年単位)で考えたときの人間の適否判断能力」についてはかなりの信頼を置いている。
だから、当否の決定のむずかしい問題については「両論併記」や「継続審議」をつねづねお薦めしているのである。
「両論併記」というのは言い換えれば「誤答にも正解と同等の自己主張権を一定期間は保証する」ということである。
あまり知られていないことだが、「言論の自由」の条件の中には、適否の判断を「一定期間留保する」という時間的ファクターが入っている。
正解を急がないこと。
これが実は「言論の自由」の核となることなのである。
「正解を今この場で」と性急に結論を出したがる人は、「言論の自由」という概念を結局は理解できないだろうと私は思っている。
その点では、私は「民衆法廷」というイベントを企画して、戦時責任の問題に「今ここでの白黒の決着」をつけようとした人々の考え方にも個人的にはつよい違和感を抱いている。
「民衆法廷」イベントとその報道を妨害した政治家、一見すると対立して見えるこの二つの立場に私は似たものを感じるのである。
それは彼らのいずれもが「無時間モデル」でものごとを考えているということである。
けれども、それは私の個人的な懸念であって、とりあえず政治的準位においてはあまり緊急性のない論件である。
私は違和感をいだくけれど、彼らそれぞれがその政治的見解をひろくメディアを通じて発信する権利を支持する。
「民衆法廷」の番組はノーカット版で放映されるべきだと思うし、中川もあとから「そんなことは言っていない」などと弱気な弁明などせずにばりばりと強硬発言を続けて、批判を満天下に仰ぐという潔さを示して頂きたいものである。
私たちが「誤り」から学ぶものはしばしば「正解」から学ぶものよりも大きいのである。